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家族

「新たに誕生する赤ん坊をマリアンヌに託すことだけは止めた方がいい」


 ハシュワット家の夫人に新たな命が宿ったことへの祝いの言葉を述べる際、悲壮な顔をしてこう告げたのはマリアンヌの婚約者でもあるガリオン王子である。

 ガリオン王子が悲壮な顔付きになってしまうのには訳がある。

 育児の練習として、試しに人形相手に世話をしたマリアンヌ。

 抱っこひもをうっかり締め付けすぎて人形の首を落っことした。

 また、本来は乳母の仕事だが、知っておいて損はないとミルクをやろうとしたら、人形の顔面にぶちまけた。

 これを見てガリオンは決意したのだ。こいつにだけは赤ん坊の世話をさせてはならないと。


「……、それもそうですわね」


 ハシュワット家の女王とも呼ばれる夫人ジュリアは、一も二もなくそれに同意した。

 さすがマリアンヌの母である。娘のことをよく分かっている。


 そうしてジュリアの前に呼ばれてきたのはライオネルである。

 ライオネルは緊張の面持ちのまま、ジュリアに勧められるまま席についた。

 ハシュワット侯爵家において、ライオネルはジュリアと個人で接することはほとんどない。

 愛人と名付けるほどのものでもないような女の腹から生まれてきた子に情を抱いてもらえるとも思っていないライオネルの方が遠慮して、積極的に距離を置いていたということもある。

 楽にしろと言われてもできるはずがない。

 体をかちかちに固めたまま、目を合わせるわけにもいかず、ライオネルはジュリアの膝付近に視線を向けた。


「今度、ハシュワット家に後継となる子が産まれます」


 そんなことはとっくに知っている。改まって言われた事実にライオネルは更に身を固くした。もしかしたら次に出てくる言葉は「ですので、貴方はこの家を出て行きなさい」かもしれないのだ。

 ハシュワットの女王に言われては、何の後ろ盾もないライオネルは大人しく出ていくしかない。あの姉でさえ、女王の言葉には逆らえないということは、幼いライオネルだって理解していることだった。


「ですので、」


 女王の言葉にごくりとライオネルは唾を呑みこむ。


「貴方が年長者としてしっかりと兄弟の面倒を見るのですよ」


 言われたことに対し、ライオネルはぽかんと口を開けた。

 出て行けとも、大人しく部屋に篭っていろとも言われず、むしろ姉を差し置いて面倒を見ろと言われるとは思ってもいなかったのである。

 マリアンヌやガリオンにはハウツー本を隅まで暗記させられてはいたが、実際にそうなるとは予測していなかった。赤ん坊に触れようとすれば、ハシュワットの女王に烈火のごとく叱られると思っていたのである。


「良いですね?」

「は、はいっ」


 ギロリと睨まれればそう返事をするしかない。

 ライオネルの大きな返事に、女王はそれで良いのですとばかりに鷹揚に頷いた。


「マリアンヌに任せておいては、貴族らしからぬぼんやりとした子に育ってしまってよ?すべては貴方にかかっているのだから、年長者としての自覚を持ってもらわなくては」

「あ、あのっ」

 ぎゅっと拳を握って、ライオネルは顔を上げる。返事はしたが、これだけは聞いておかなければならない。


「僕に任せて大丈夫だと思っているのですか」

「何か問題でも? 貴方以外の誰が適任だと言うのです」


 額にあぶら汗さえにじませるライオネルに対し、女王はいたって涼しい顔で返した。

「ね、ねぇさま、いえマリアンヌ様……とか」

 わざわざ指名され、マリアンヌでは駄目だとはっきりと口にされたにも関わらず、自分は駄目だと言うライオネルにため息を吐く気配が届く。


「あの子はねぇ……。途中までは育成に成功していたのよ」

「えっ……」

 夫人が遠くを見つめる顔で窓の外を見る。そこには庭を散策するマリアンヌとガリオンの姿があった。何故かマリアンヌの髪には木の葉が大量に付着している。いったい何をすればそんなことになるというのか――。


「どこまでも気高く、人の手で容易には手折れない。そんな大輪の薔薇に成長するはずでしたのよ……」

 はあ、とため息を吐く姿は艶やかで、未だ社交界の華と呼ばれていることも嘘ではないと思わせる。

「たとえ猛毒の棘を持っていようと、それで良いとさえ思っていたのに――」

 何がどうしてこうなったのかしら、と首を傾げる姿はまるで少女のようである。

「人生はままならないことばかりだわ」

 そうは思わなくて? そう尋ねられたが、夫人の言葉はまだ幼いライオネルには分かるようで分かりづらい。 言葉の意味を完全に理解するには、ライオネルにはまだ経験が不足している。それだけは理解する。

 ライオネルの疑念を理解しているかのように、ふと視線を向けてきた夫人の顔は、存外優しげなものだった。


「貴方はわたくしによく似ていてよ」


 今度こそ、ライオネルの心臓は止まらんばかりに脈を打った。

 ハシュワットの女王は語る。同じ血は通っておらずとも、主人よりもマリアンヌよりもずっと、貴方の魂はわたくしの魂に似ているのでしょうね、と。

 ライオネルの肯定も否定も聞くことなく、夫人は言葉を続ける。


「お天道様が見ているという戯言を言うようになってから、あの子は随分不抜けてしまいましたわ。わたくしの教育は失敗だったというわけです」

 だから今度は同じ魂を持つライオネルに任せる、と夫人は女王然として唇に優美な笑みを乗せた。


「ハシュワットの家名に恥じない男児に育てるのです。分かりましたね」


 話は以上だと言うように、夫人は隙のない動作で立ち上がる。つられて立ち上がったライオネルは、呆然とその場で足を留めていた。

 夫人の身に纏う花の香水がふわりとライオネルの横をかすめて過ぎる。香りを追うように、ライオネルは視線を動かした。


「奥様は……、マリアンヌ様の言っていることはお嫌いですか」


 ライオネルは夫人のことを使用人たちに倣って「奥様」と呼ぶ。その夫のことは「旦那様」。マリアンヌのことは、夫人に与える不快感を呼び起こさないために、彼女の前ではあえて「マリアンヌ様」と呼ぶことにしていた。

 中途半端な自分が彼らをどう呼べば良いのか、誰も教えてくれなかったからだ。

 ライオネルは賢しく、そして寂しい子どもだった。


「……そうね」


 夫人が足を止め、思案気に口元を手で覆う。その仕草すら、ライオネルの心臓に負担をかけるには充分だった。


「存外、厭うほどのことではないと思っているわ。それで案外あの子の身の回りの物事は上手く廻っているようですもの」


 わたくしには真似のできないことですけれど、と笑う表情は可憐であり底の知れない美しさを秘めている。


「とにかく、今後のことは貴方に任せることにします。良き兄として、下の子に恥じぬ行いをなさいね」

 その言葉は、教師よりも厳しい教えとしてライオネルの背筋をぴんと伸ばした。他の誰に言われるよりも、彼女の言葉は深く胸に突き刺さる。これもまた、魂が似通っているということに通じるのだろうか――。


「貴族の血が半分しかない貴方にはハシュワットの名は与えられません――」

 そして、わたくしが貴方に目に見えるもので差し上げられるものも何もありません。そう言う夫人の言葉はある意味とても正しいことだ。それがどれだけライオネルの胸に風を吹かすものであったとしても。


「ですが、ひとつだけわたくしから与えられるものがあります」


 じっと、落とされる言葉を待つライオネルの頬に降ってきたのは、冷たい視線でも言葉でもなかった。


「自由を」


 夫人の軽やかな息が冷えた頬にかかる。びくっと肩を震わせるライオネルを押しとどめたのは、思っていた以上に温かい夫人の唇だった。


「マリアンヌにさえ与えられていない〝自由〟を貴方には差し上げます」


 どくどくと鳴る心臓は哀しいためでは、きっとない。表現の出来ないぬるま湯のような水がこんこんと湧き上がっていくのをライオネルは感じていた。


「何を考えるも、何を想うのかも貴方の自由です。風に乗るまま空を飛ぶ鳥であろうとすることも、その逆に縛られたいものに縛られようとすることも貴方の自由です。自分の思うままに成長なさい」


 ――貴方が誰をどう呼ぼうと、わたくしが咎めることはありませんわ。

そう告げて、今度こそ夫人は部屋を去っていったのだった。




 温もりの残る頬を抑えて、ライオネルはじっと床を見つめて沈黙していた。

「あら、ネル。どうかしたの? やだ、泣いているの!? 誰かに意地悪なことでも言われたのかしら? だったらわたくしが再起不能になるまでその相手を泣かせ返してさしあげてよ」

 きっと真実を知れば、自分こそが再起不能に陥るまでいびり倒されることをマリアンヌが発案してくる。

 本当のところは言えない。だがその代わり、ライオネルは零れる涙のままマリアンヌの腰に飛びついて大声を上げて泣いたのだった。


「ねぇさまっ、ねぇさまっ、ねぇさまっ」


 何の理由も告げず、ただ泣き続けるライオネルの背中をマリアンヌの手が宥めるようにさする。

 選民意識が高くて、ついでに無駄にプライドが高い姉ではあるが、やっぱり最後には他人に甘っちょろくて優しい。

 そんな姉が大好きだと、ライオネルは改めて思うのだった。


 そして……、今は呼ぶことは適わないが、自分を信じて「自由に生きなさい」と放任ばりにいっぱしの大人扱いしてくる新しい母のことも――、ライオネルは大好きだと思うのだった。


 ライオネルは選ぶ。

 風に乗るまま空を飛ぶ鳥のようになることではなく、積極的に地に縛られることを。

 だがそれは、結局は自分で選んだことなのだから、ライオネルの心はどこまでも自由であるのだ――。





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