兄弟
ライオネルがハシュワット家にやって来てからちょうど半年後、出禁になっていた父親が屋敷に戻ってくることになった。
馬車から降りてきた父は少々くたびれた様子はあったが、その表情は久しぶりに会った家族を見て嬉しそうにほころんだ。
「あぁ、可愛いマリアンヌ。元気にしていたかい?」
「えぇ、もちろんですわ」
「ライオネルも元気そうだ。少し背が伸びたのではないかい?」
父はマリアンヌを抱き上げぐるぐると回転したかと思えば、ぎこちないながらも傍に控えていたライオネルの頭部を優しく撫でた。
ライオネルの方も初めはそんな父親に驚いた様子ではあったが、嫌がるそぶりを見せずに素直に受け取っている。
「ジュリアは息災か? 身重なのだからお前たちがしっかりしなければならないよ?」
ジュリアと言うのはマリアンヌの母の名前である。
「お母様は相変わらずですわ。息災どころか、病気ひとつしておりませんわ。……というか、身重?」
「みおも?」
姉と弟、二人して顔を見合わせてきょとんとする。子供たちの様子を見て、父もまた「あれ?」という顔をしてみせた。
「あら、言い忘れておりましたわ。わたくし次の子を身ごもっていたのでしたわ」
後からゆっくりとした足取りでやってきたのは母である。
ふんわりと広がったドレスが基本であるので、まったくもって気づくこともなかったが、ようく観察してみれば、腹部がそこはかとなくふっくらとしているようにも見える。
「え……、えっ、えぇーっ!!?」
驚きに叫び声をあげてしまえば、「騒がしいですわ」とパコンと扇子で頭をはたかれる。レディに対する仕打ちではない。ちょくちょく名家のお嬢様の仮面がずれてしまうマリアンヌが悪いのではあるが。
つわりも何もなかったので、あまり実感がなかったからだということらしい。だが、そんな重要なことは分かった時点で言うべきことではないのか。マリアンヌの鈍感さの由来がここにある。間違いなく遺伝である。
馬車に多く積まれていた土産物のほとんどは新たに生まれてくる子のためのものだった。まだ性別も分からないというのに、主に男児向けのものが多いのは願望が入っているためか。
それにしても、ライオネルがやって来てから父が屋敷を出禁になるまでそう日はなかったはずなのに、いったいいつの間にという感じだ。
あの険悪な雰囲気の中で、何がどうしてそうなったのか……。人体の不思議ならぬ、夫婦の不思議である。
※ ※ ※
「まったく、お母様には驚かされますわ」
ところ変わって、ここは王宮の客室である。
マリアンヌはライオネルを伴って、困った両親たちの愚痴を言いにガリオンの元を訪れていた。
「まあ、何であれ新たな命が誕生するということはめでたいことだろう。きちんと祝いの言葉は述べたのだろうな」
「それはもちろんですわ。今度生まれる子のために可愛らしいお人形を買いに行く予定になっていますの。お父様は木馬が良いとおっしゃっていますけど」
マリアンヌは可愛い妹が欲しいらしい。そこは父親と意見が分かれているのだと言う。
ここですかさず「僕はねぇさまと同じでお人形が良いと思います」とマリアンヌの意見に同調してくるライオネルが静かなことが、ガリオンは気になった。
「どうした、ライオネル。何か気にかかることでもあるのか?」
「い、いえ……。何もありません」
しかもガリオンが何かを言えば一どころか十で返ってくる皮肉もない。
王子として舐められていることはさて置いて、ガリオンは本気で大丈夫だろうかと思ってしまう。
マリアンヌがのんびりとしている分、余計に気にかかってしまう。
俺の胃が痛くなるのは十中八九こいつのせいだ、と元気のないライオネルに気付きもせず「何を贈ろうかしら」と思案するマリアンヌにやや本気寄りの殺意が湧く。
「ちょっと、ネル。何をぼーっとしていますの。貴方も考えなさい。わたくしたちの弟か妹が生まれるのよ」
「僕、たちの……」
マリアンヌの言葉に俯きがちだった視線が上がる。
ライオネルはマリアンヌに自分たちの兄弟ができるのだ、と言われたことが心底不思議なことであるような顔をした。
当のマリアンヌはそんなことはお構いなしに捲くし立てる。
「そうよ。貴方はお兄様になるのだから、しっかりしてもらわないといけないわ。生まれてくる赤ん坊の成長は貴方にかかっているのよ!?」
「ちょっと待て。何故赤ん坊の全権がライオネルにかかっているかのように言うんだ。兄弟ができるのはマリアンヌも同じだぞ。お前こそ姉になるという自覚を持て!」
ガリオンの言葉に「何を言っていますの」とマリアンヌは真剣な顔を向ける。
きょとんとした顔に、思わず「何を言っているのかと問いたいのは俺の方だ」と頭を小突きたくなるが、ぐっと我慢する。
腐ってもこいつは侯爵令嬢、レディに手を上げるなど王子としてやってはならないことだ、と自分を抑えにかかるガリオンの辛抱強さは着実にスキルアップしていっている。
「わたくしに赤ん坊の相手ができると思っていますの!? 事が起こってからでは遅いのですよ!?」
「お前は本当に自分を分かっているな!」
自信過剰だと思われがちだし、実際そうではあるのだが、マリアンヌは大切な部分では実に己のことをよく理解していた。
マリアンヌに生まれたての赤ん坊を抱っこさせるくらいなら、まだ体つきの幼いライオネルに抱かせる方が百万倍マシである。
ほんの数秒でそう判断したガリオンは、がしっとライオネルの肩を掴んで「お前に託す」と視線を合わせた。
「いいか、ライオネル。マリアンヌに任せてしまえば何をしでかすか分からない。お前だけが頼りだ。生まれてくる兄弟を守るんだぞ」
いつも以上の真剣な眼差しに、ライオネルはただこくこくと頷く。
「よし、そうと決まれば図書室へ向かうぞ」
「何をしに行かれますの?」
「それはもちろん育児のためのハウツー本を取りに行くためだ。子が生まれてくるまでにしっかり頭に叩き込んでおく必要があるからな」
「それは良い案ですわね。御一緒しますわ」
「お前も一応頭に叩き込んでおけよ。万一のことがあるからな」
マリアンヌとガリオンは意気揚々と部屋を出ていく。
扉を開けたところで振り返る二人の表情は共に同じだ。希望に満ちてきらきらと眩しい。
「何をしている、ライオネル。早く付いてこい」
「貴方が主導になるのですからね。しっかりなさい」
「は、はいっ」
返事をし、ライオネルは転げるようにソファから立ち上がる。小走りで追いついてきたライオネルを間に挟み、二人は生まれてくる赤ん坊についてああでもない、こうでもないと楽しそうに会話をしながら歩き始める。
その歩みが、背の低いライオネルを慮って少しだけゆっくりとなっていることにライオネルは気付いている。
生まれてくる赤ん坊にハシュワット家での疎外感を予測していたライオネルは、まったくそんな必要がなかったことに安堵の息を吐く。
マリアンヌは何の思惑もなくハシュワット家の兄弟が三人になることを喜んでいるし、ガリオンも当然のようにその未来を語っている。
――二人して同じなんだから。嫌になる。
かつて貴族の家に行くことになり、幼いながらに迫害を覚悟していたライオネルは、いっこうに訪れない疎外感に肩透かしをくらった気分だった。
ずっとそうだった。半端者の自分はいつかはじかれてしまうのだと思っていた。
だから出会い当初に優しくしてくれた姉にはすがるように甘えたし、ハシュワット夫妻にも周りの大人にも媚を売ってきたのに――。
姉はきっとライオネルがどれだけ意地が悪い性格をしていようが可愛げがなかろうが、きっとそこにあるだけで存在を許容するのだろう。
そしてこの王子も――。
ライオネルの盾となる姉をいずれ奪っていく相手。そんな彼はどれだけ反抗的な態度をライオネルが取ろうと、信頼を寄せてくるのだ。姉と同じように、大切な自分の身内のように……。
――でも、まだ負けてはあげないからね。
ガリオンの方は知らないが、姉の方はまだまだ感情的に成長できていない。何しろ貴族同士が夫婦になることが友情をはぐくむことであると信じている人だ。
――ねぇさまが完全に僕のねぇさまじゃなくなるまで邪魔をしてやるんだから。
左には大好きな姉、右には最近心を許し始めたこの国の王子がいる。
この二人が幸せになることは確定事項なのだろうけれど、そこに至るまでのあと数年は遊んでやろうと子供らしからぬ思いを抱いて、ライオネルはにこにことして笑みを浮かべるのだった。
この数か月後、ハシュワット家には珠のように可愛らしい赤ん坊が誕生することになる。性別は男であった。
赤ん坊の未来を託されたライオネルは、兄として大切に弟の成長を見守ることになる。
ライオネルは特に弟の情操教育に力を入れていった。
ほとんどその心情をライオネルに育てられたと言っても過言ではない弟は、厳しくも気高く優しく、誰よりも高潔なる紳士に成長を遂げることになる。
ただひとつ、気がかりな部分はマリアンヌ至上主義者となったことか……。この一点において、若干貴族の男子としては婚期が遅れ気味になってしまったことは余談である。
「おい、こいつの教育はどうなっているんだ!? 明らかにマリアンヌが悪いと分かっているのに、俺が悪者にされるのだが」
「良く教育されているでしょう。僕が教育したのですから、ねぇさま至上主義になることは必然ですよ」
「胸を張るなっ。誰だ、こいつに教育を任せたのは」
「貴方ですよ」
「俺かぁっ!」
このような会話がなされるようになるのは、数年後のことである――。
次回、ハシュワットの本当の女王が君臨する。