愛称
それはある日の午後のことだった。
「なぁ、マリアンヌは俺のことは愛称で呼ばないのか?」
ライオネルの頭を膝に乗せ、共に午睡にまどろんでいるときだった。マリアンヌの隣に座って本を読んでいたガリオンが、ふと顔を上げて尋ねてきたのだ。
「愛称……ですか?」
「あぁ、お前はライオネルのことをネルと呼ぶだろ。どうして付き合いの長い俺はいつまでもガリオン〝様〟のままなんだ」
そう言われればそうですわねぇ、とふあぁと欠伸をしながらマリアンヌは答えた。依然、意識は夢の中である。
「では何とお呼びすれば良いでしょうか……。ガリ? ガオー? えーっと、……何だか間抜けですわね」
やはりガリオンはガリオンのままが良いのではないか、とふわふわとする頭で答えると、ガリオンはとても不服そうに胡坐をかいて「ふんっ」と鼻息を荒くした。
「お前の名はずるい。マリィでもマリアンでも、アンヌでもどうにでも省略ができるからな」
しかもどれにしても自然だ、とガリオンは噛み付いてくる。
夢と現とを行き来しているマリアンヌの思考は「この人、なんか面倒くさい」と訴えかけてくる。
うーん、何がよろしいかしら。とにかくウトウトと寝入りそうなところを起こされてしまったのだ。欲求はほぼ睡眠に傾いている。
「……では、リオンというのはいかがですか」
眠い頭で考えたにしては良案だと思われた。ガリオンの方もそれはいいなと乗り気の顔だ。
はい、決定。では寝ましょう。
「呼べ」
えー、面倒くさい。
「こら、寝るな。起きて俺の愛称を呼ぶんだ。お前だけに許す愛称だぞ。……くそっ、いつもなら喜び勇んで呼んでくるくせに」
膝に乗せたネルの頭部は心地よい温かさを伝えてくる。眠りの世界にようこそと囁いてくるようだ。
ふと頬に誰かの呼吸を感じて目を空ける。
「起きろ、ポンコツ」
間近に見えた濃い青の瞳に、マリアンヌはどきっとして目を覚ました。
自分とほとんど大差ないと思っていた高い声は、いつもと質を変えて低く耳に届く。
見慣れていたはずの綺麗な顔が、常よりもずっと近いことに鼓動が跳ねる。
「なな、何事ですガリオン様。顔が近いですわ」
「ガリオンじゃない。リオンだ」
じぃっと見つめてくる目が真剣であることが、マリアンヌの頬を赤くさせる。
ガリオンとしては、せっかく決まった愛称を呼ばれることなく封印されてしまうのは惜しいというだけのことだったのだが、思っていた反応と違うマリアンヌの様子にようやく自分の距離が近かったことに合点がいき慌ててしまう。
「とと、とにかく呼んでみろ」
互いに視線を逸らし合うという初々しい反応。それに水を差す者は今のところいなかった。
「リ、……」
「リ?」
「リオ……、ってやっぱり難しいですわ。わたくしにとってガリオン様はガリオン様ですものっ。わたくしに愛称で呼ばせたいのなら、ガリオン様もわたくしのことを愛称で呼ぶべきですわ」
片方だけが愛称で呼ぶということもおかしいのではないか。そう主張するマリアンヌの意見は、今回においてはとても正しいことだ。
「分かった。俺も愛称で呼ぶことにする」
たかが愛称を呼ぶくらいで息んでしまうガリオンもガリオンだ。だが、マリアンヌの方も先ほどのやり取りで相当な体力を消耗してしまっている。しかも突っ込み属性は持参していない。
マリアンヌは余計な横槍は入れないまま、ガリオンの呼びかけを待った。
「マ、マリ、マリア……マリアンニュっ」
「それではいつもの呼び方と同じですわ。しかも噛みましたわね」
「ぐっ……、これしきのことで心が折れるとは……」
この時点で双方、息が乱れている。
頬に手を当てて熱を冷まそうとするマリアンヌ。それを見てまた赤くなるガリオン。
「はあっ。残念だが、俺たちに愛称はまだ早かったようだな」
「そ、そのようですわね……」
すっかり眠気の去ってしまったマリアンヌはどぎまぎとしつつも、ガリオンが言ったように、愛称で呼べなかったことを残念にも思っていた。
だって、愛称で呼び合うなど……とても友人らしい行いではないか。しかも特別仲の良い友人だ。
「まあ、いいか。俺たちはいずれ夫婦になるんだ。長く一緒にいれば愛称で呼ぶことなど造作もないことになるに違いない」
「長く……、一緒に……」
「あぁ、先は長いぞ。それまでに呼べるようにちゃんと練習しておけよ」
ガリオンは突っ込み属性ではあったが、同時に天然タラシでもあった。
「そうですわね。先は長いのですもの。ゆっくり出来るようになればいいのですわ。それに、考えてみればわたくしを〝お前〟と呼ぶのはガリオン様だけですもの。そんな呼びかけもまた愛称だと思えば寂しくはありませんわ」
そしてまた、マリアンヌの方も天然のタラシであった。
「それもそうだな」
「そうですわ」
愛称を通り越してプロポーズ紛いのことまでしてしまっていることに、これまた双方気付かないままである。
天然二人がうふふ、あははと笑いあう。
これが二人の距離であり、空気であった。
お互いに愛称で呼び合えるようになるのは、まだまだ先のことになる。
「それにしてもよく懐いているな」
マリアンヌの膝に頭を乗せてすやすやと眠りにつくライオネルを見つめ、ガリオンが呟く。
マリアンヌの銀よりも青みの強い色合いを持つライオネルの髪は、窓からの日差しを反射してきらきらと輝く。悪態こそつくが、眠っている姿はまさしく天使だ。
「捨てられまいと必死なのですわ」
眠るライオネルの頭を撫でながら、マリアンヌはふふっと笑う。
「本当にアホ可愛いでしょう? うちの犬は」
「お前、まだそんなことを言っているのか。本当に性根が曲がっているな」
ガリオンの呆れ顔にも、マリアンヌはショックを受けることなく「お褒めの言葉として受け取っておきますわ」と平然と返す。
「本人に人間へ戻る気がないうちは〝犬〟と呼んで差し支えありませんわ」
「そんなことを言って、噛まれても知らないぞ」
「躾はきちんとしていますもの。心配はいりません」
どうかは分からんがな。そう言って、ガリオンはライオネルの額にそっと手を置いた。優しく撫で付ける仕草は年長者らしく慈しみに満ちている。
「簡単に捨ててくれるなよ?」
マリアンヌに向かっての言葉のようで、ライオネルに向かう言葉。それは、マリアンヌに簡単に捨てられるような人間になってくれるな。そう願っているかのようだった。
「当然ですわ。マリアンヌ・ハシュワットは一度拾い上げた犬を簡単に放逐するほど愚かではありませんもの。こう見えて、わたくし審美眼には自身がありますの」
「ポンコツのくせに、大した自信家だな」
会話が止まり、二人は目を見合わせて笑い合う。
笑い声の中にライオネルの大きな欠伸が重なるのは、ほんの数秒後のこと――。
ライオネルは二人の会話を寝たふりをしながら聞いておりましたとさ、ということで……。次回もライオネルの話です。