良識
近衛騎士の役目は守る対象に付き従い、危険をいち早く察知し取り除くものである。
そのため主の向かう先には必ず付いて行くし、留守を預かるということもするわけがない。
ということで、主であるガリオンに付き従いティエンはハシュワット家に参上し、子供たちの遊びに付き合うのだったが――、
「トラヴィス。頑張りなさいっ」
トラヴィスというのは、マリアンヌの下の弟の名前である。日々、探究心追求・体力増強という名目の元にマリアンヌにおちょくられまくっている可哀想な少年だ。
「ね、ねぇさまぁ。こわいよぅ」
本日の彼は、風に飛ばされたマリアンヌの帽子を取り戻すべく、がっしりとした幹を持つ大樹に登ったまま降りてこられなくなるという状況に置かれている。
「大して大事でもない帽子なのに小さい子供に取りに行かせるなよな」
とは、ガリオン王子の言葉である。
言葉巧みに帽子が失われたことを嘆き、表情豊かに悲しみを訴え、弟をその気にさせたのはもちろんマリアンヌである。
大好きな姉のためと、トラヴィスの男心が刺激されてしまったのはいいものの、下を見た途端に恐くなって身動きが取れなくなってしまったのだ。
「しっかりつかまっていなさい。大丈夫ですよ。すぐに助けに行きますからね」
マリアンヌはトラヴィスを見上げて姉らしく鼓舞する。――が、
「このわたくしが是非にとガリオン様に推薦した近衛騎士ティエン・バートンが!」
当然のごとく自分では動かない。さすがマリアンヌ。他者を盾に自分をいいように見せるのは得意中の得意である。
「えっ、俺ですか!?」
「もちろんですわ。か弱いわたくしに樹に登れと言いますの?」
「そんなことは言いませんが……」
腰に手を当てるマリアンヌはとても偉そうだ。実際に侯爵家の令嬢であるのだから、立場的には平民のティエンよりもずっと上の人間なのだが……。何だか釈然としない思いである。
「さあっ、行くのです。今こそ貴方の真価を試すときですわ!」
「…………」
騎士としての役目か、それ? とそう自問自答を始めたくなるティエンに、マリアンヌは白々しく眉をひそめて哀しげな顔を作る。
その表情はどの角度から見ても隙のない可憐なものである。マリアンヌに傾倒しているティエンにとっては、その可憐な瞳が沈む様子は見ていて胸が痛くなってしまう姿だ。だが、釈然とはしない。
「トラヴィス、残念なお知らせです。ティエンはガリオン様の護衛に忙しくて貴方を助けることは出来なくなったそうです……」
「うわぁぁぁんっ」
「い、行きます。行けばいいんでしょう。ほら、トラヴィス様も泣かないで! 俺が行きますから」
慌ててマリアンヌの台詞を素直に受け止めて泣き出すトラヴィスを宥める。混乱させてしまえば樹から落ちかねない。
「トラヴィス、両手でしっかりと幹を掴んで。そこに行くまで待っているんだよ。ティエン様が助けてくださるそうだから」
マリアンヌの横で弟に声を掛けるのは、真ん中の弟であるライオネルだ。彼もまた自分で動く気はないらしい。
――自分の弟なのだから、自分で助ければいいのに……。
彼がとことん姉の言葉に従順であることは知っているが。とても釈然としない思いである。
結局、ガリオン王子の「行ってやれ」の一言でティエンが動くはめになる。
幹をしっかりと掴んで上へと登って行くティエン。
目つきの悪いティエンではあったが、トラヴィスが彼を恐がることはない。ティエンが子供を苦手としていないことを彼は知っているからだ。
ティエンは見た目に反して子供の扱いが得意だ。彼の出身の村では年嵩の子供が下の子供の面倒を見ることは当たり前のことだった。
「トラヴィス様、迎えに来ましたよ」
「ト、トラヴィスぅ」
ティエンの腕にしがみ付いて、トラヴィスはすっかり安心した様子を見せる。ティエンは、腕の中のぬくもりを離さないようしっかりと抱きかかえ、足場を確保して降りていった。
「さすがわたくしが見込んだだけはありますわ。平民出身なら木登りなども得意そうですものね」
貴族だったらこうはいかないとマリアンヌは得心顔だ。それは平民に対する偏見である。誰もが木登りをして成長してきたと思ったら大間違いである。
「年下の子供の世話も上手ですし。他の候補者たちでしたらこうはいきませんでしたわ。護衛だけにしか使えないのは面白くありませんものね」
「そう思っているのはお前だけだからな」
得意満面の笑みで同意を求めてくるマリアンヌに、ガリオン王子は冷静な言葉で返している。
「あら、護衛だけしか出来ない騎士に何の意味がありまして?」
いや、騎士の本分は護ることだ。主の盾となり剣となるのが騎士である。騎士学校でだってそう教育しているはずだ。けして木登りができる者を指す言葉ではない。
――騎士って……。騎士って……。
思いながら、ティエンは遠い空を見る目をした。
腕に抱いたトラヴィスを下まで連れて来ると、彼は姉の方に「ねぇさま」と一目散に駆け出した。
ありがとうございます、と礼を言う瞳は純粋で真っ直ぐだ。「えっ、俺は!?」とぽかんとしてしまうティエンを置いて、トラヴィスはマリアンヌの腰に飛びつく。
いの一番にマリアンヌに礼を言うとは……。ライオネルの情操教育はちゃくちゃくと進んでいっている模様である。
「ほら大丈夫だった。わたくしが選んだ騎士に間違いはなかったでしょう?」
さすがマリアンヌ。他人の功績をさも自分のもののように語る様はとても自然である。他者を盾に自分をいいように見せるのは得意中の……以下同文。
「はいっ。さすがねぇさまです。ティエンは使える騎士です。ねぇさまのおかげで助かりました」
純粋なトラヴィスはマリアンヌの言葉を真摯に受け止めている。たとえ言われている内容がどこかおかしくとも気付かない。ライオネルの教育のせいである。おかげである、とは言わない。
「ねぇさまは見る目があるからね。よく見て勉強するんだよ、トラヴィス」
「はい、ネルにぃさま」
「何か違うっ!」
微笑ましい兄弟たちの姿に声を発してしまったのは、ガリオン王子か近衛騎士ティエンか――。二人は互いに見つめ合った。まるで互いの中に人としての大切な何かを探し求めるように。
「……。ティエン、お前に非はないからな」
ふっと目線を逸らしたのはガリオンの方が先だった。俺にも非はないからな、と加える目線の先は遠い。
「俺の感じたあの熱とは、マリアンヌ様の中に見た光とは……」
「問うな。ばかばかしくなる」
「……」
沈黙の後に、「ああぁあっ」と、がくりと肩を落とすティエンにぽんと手を置いたのはガリオンだった。
「俺が選ばれた理由って……」
「だから言っただろう。あまり入れ込むとそんな自分が恥ずかしくなるって」
そう言いながら、ガリオンが背中に隠した手でぐっと親指を立ち上げていたことは誰も知らない。
「気にするな。あいつの非常識な思考の捩れは昔からのことだ」
ガリオンは言葉が通じるということはこんなにも気分がいいものなのかと、爽やかな笑みさえ浮かべている。
「ようこそ。良識と非常理の狭間へ」
お前なら理解してくれると信じていたぞ、と笑う表情は実に晴れやかなものである。
「今まさに狭間へと落とされた気分ですよ……」
「気にするな。気にすると負けだ」
未だマリアンヌを中心とした非常理にひとり突っ込みを入れずにはいられない王子は、ようやく手に入れた良識を持つ新参者の手駒に悟るためのアドバイスを送るのだった。
ティエンが、最初に彼を見出した王子の選出理由からして非常理に足を突っ込んでいたということを嘆いていたとしても気付くことは無い。気付くことができるようになるには、王子はまだまだ人の機微というものに疎い若者であった。
「ティエン、今度はトラヴィスに肩車をするのよ」
あぁ、物事の道理とはいったい……と、物思いにふける間もなくマリアンヌがそう命じてくる。
きらきらとした期待の眼差しは、きっと今ここにいるのが他の四人の候補者たちであったら見られなかったことだろう。
彼らであれば、このマリアンヌの発言に眉を顰めただろうし、表では恭順しておきながらも「小娘が」と反感さえ覚えていたに違いない。
マリアンヌは正しく貴族と平民の違いというものを理解しているし、使い方を知っている。ティエンはそう思う。
ティエンがティエンだからこそ言える我が侭もきっとあるのだ。
マリアンヌ・ハシュワットは貴族の令嬢であり、我が侭で傲岸不遜である。
けれど、平民は所詮平民だと達観していたティエンを高揚させる熱を秘めた不思議な人である。
「ティエン、ほら早く」
「お待ちください。ちゃんと行きますから」
今少しはあのときに感じた熱を信じて、彼女の我が侭に付き合ってもいいかと、ティエンは苦笑しながら軽やかに舞う背中を追うのだった。
結局、ほだされる。