近衛騎士は誓約する3
軽やかな足取りで庭を後にするマリアンヌを引きとめたのは、ティエンの低い声だった。
「お待ちください、マリアンヌ様」
ステップを踏んでいた足が止まる。
「何か用ですか? つまらない用件ならば許しませんよ?」
振り返るマリアンヌは無表情に追いついてきた騎士を見上げた。その威圧感は確かにハシュワットの小さな女王だ。
ティエンは歴戦の将というわけではなかったが、それなりに実践を経験してきた猛者である。それが自分よりもずっと幼い少女に威圧されている。そのことにわずかながらも動揺する。
マリアンヌの方と言えば、この後に待っている楽しい下の弟との「おちょくりタイム」ならぬ「触れ合いタイム」を邪魔されてご機嫌斜めなだけなのだが。――マリアンヌのつり上がりぎみの目元は、こういったときに威力を発揮するのだった。
そんなことは露知らず、ティエンはごくりと唾を飲み込んでマリアンヌに対峙した。
「全員失格、というのはどういうことでしょうか」
納得のいく説明をくれとティエンの瞳が訴えかける。
何だそんなことか、とマリアンヌは至極つまらなそうに欠伸を漏らした。
「登場する刺客はわたくしでした、というだけのことですわ。みなさん何の反応もできませんでしたわね。次回の選定ではもう少し使える人材が来ることを祈っておきますわ」
それでは、と歩き出そうとするマリアンヌをティエンが止める。
「貴女は平民を疎んじる方だと聞いている。今回の選定に平民が混じっていたことに反感を覚えたのでは? 貴女が拒否感を示せば改めて次回は貴族だけが選出されるでしょうからね」
ティエンの物言いは、マリアンヌに喧嘩を売っているようにしか聞こえない。
不敬だと詰られても構わない。そうティエンは思う。
ティエンはこれまでずっと、何かとあると生まれのことで中傷されてきた。どれだけ鍛錬を積もうと、所詮は平民出と最後には付け加えられるのだ。そのために重要な役職に漏れてきた。
平民なのだから仕方のないことなのだと、こんな小娘にまで言われるのか。ティエンの我慢は限界に来ていた。
「心外ですわね。それに随分と自分に自身があるようで……。たいへんにつまらない矜持ですこと」
温度の低い声。だが冷え切らない温度をティエンはその中に感じ取った。
「わたくしがガリオン様を害しようとしたとき、咄嗟に反応したのはティエン・バートン、貴方だけでした。わたくし相手に剣を構えかけたことについては評価いたします。その点だけは、他の候補者より少しはマシと言えますわね。ですが――」
マリアンヌはティエンが自分に剣を構えようとしたことを怒りはしなかった。むしろそれを評価すると言う。
ですが、と続く言葉に予感するものは期待などではない。マリアンヌの視線に、自然と身を引き締める。
「ですが、所詮構えかけただけです。それでは駄目なのです」
ティエンはマリアンヌの中に潜む大きな存在を感じ始めていた。まるで自分は小さなアリだ。そんな錯覚がティエンを襲う。
「わたくしは王妃になりたいのです」
突然に願望を語り出すマリアンヌにティエンは呆気に取られる。彼女の瞳はきらきらとした夢に瞬いているようで、実際には確かな未来像を描いているように思えた。
「わたくしが王妃になるためには、ガリオン様には生き続けてもらわねばなりません」
あのとき、本当にわたくしが剣を手にしていたらどうなります? そうマリアンヌは問いかける。マリアンヌが本当の刺客であったなら、ガリオン王子の命は簡単に失われてしまっただろう。
「ですから貴方も失格です。わたくしが必要とする騎士は、ガリオン様を守る剣となる騎士ではありません。ガリオン様を生かす剣。それこそがわたくしが求める騎士です」
ティエンの中に何か言い知れない熱い感情が込み上げてくる。
マリアンヌの言葉が熱い杭となって胸を打つ。村から出てきて、これほどに熱い感情を抱いたことがあっただろうか。無意識のうちにティエンは自分の胸を押さえていた。
「ガリオン様を害そうとする者を許してはなりません。たとえその相手がわたくしであったとしても。近衛となる騎士は、常に主を生かす者でなくてはならないのです」
常に他者を疑い、主の危険を積極的に取り除くのが理想だとマリアンヌは語る。国王の隣に立つ王妃でさえ疑いの目を持って接しろ、と高位の騎士でさえ意識していないようなことをマリアンヌは理想に掲げるのだ。
――これは……、参った。
「つまらぬ矜持は捨て去ることです。主に忠誠を捧げ、命を捧げ、時にはその信頼さえ打ち砕く覚悟でなければ、近衛騎士の役は務まりません。その覚悟がないのであれば、早々に尻尾を巻いて逃げ帰ることをお勧めしますわ」
言われずとも、ティエンの矜持はすでにボロボロだ。
使えない者はいらない。そうマリアンヌは言っているのだ。そこに貴族であるとか平民であるとかは関係ない。
ティエンは平民だから失格となったのではない。使えないから失格となったのだ。
ゆるゆると、ティエンは地面に膝を付いた。
両の手が土で汚れるのも構わない。手を付いて、頭を下げる。
「マリアンヌ様、覚悟のできていなかったこと謝罪いたします。ですが俺は仕えたい。真っ直ぐに王妃の道を歩もうとする貴女と、そんな貴女が隣に立ちたいと切望するガリオン様に」
もう一度機会をくれ、と深く頭を下げる。
「お二人になら捧げられる。盲目なる忠誠も、この命も。打ち砕く覚悟を決められる。守り生かすためならば信頼を、不要と言われるならばこのつまらない矜持を」
ティエンはここで見捨てられるならば、剣を置き、騎士職を辞する思いだった。二人に仕えられないならば騎士でいる意味がないとさえ思っていた。
降ってきたのは、呆れたような溜め息だった。
「まったく分かっておりませんわね。忠誠を捧げるべきはガリオン様だけでしてよ。王妃の代えなど幾らでもいるのですから」
噂に聞く限り、マリアンヌは王妃になるべく日々まい進しそれに誇りを抱いてさえいると思っていたのにこの台詞だ。
貴族女性にとって、王妃と言う立場は最高の権力者であることに相違ないはずだ。
聞く者によってはマリアンヌの言を軽すぎると判断してしまうだろう。だが、そういうことではないのだ。マリアンヌは王妃でさえも、国王という至高の存在に比べれば羽であると論じているのだ。
――この方は、あまりに大きすぎる……。
勝手に心が打ち震える。
認められたい、この方の傍にありたいと願いが泉のように湧き上がる。
「貴女はガリオン様を裏切りはしないでしょう」
「当然の帰結です。ですが、世の中何が起こるか分かりませんもの。わたくしが正しいと思うことが、必ずしもガリオン様のためになるとは限りませんわ」
これだけはいくらお天道様でも判断に困るでしょうね。そう苦笑するマリアンヌの不思議な言葉は、何故だかすんなりと耳に溶け込む。
「ならば俺は常に貴方を疑いましょう。お二人が共に並び立つ未来を守るために」
そして望むのであるのならば、マリアンヌがガリオン王子を裏切るときは自分の手で斬り捨てよう。王子がそう判断するよりも早く。
それは随分と魅惑的なことに思えた。
二人を守り生かすことが最も望むべきことではあるが、別の未来へと進んでもそれはそれで構わないなとティエンは思った。
そうなるためには、絶対に近衛騎士にならねばならない。選んでもらえるのならばどこまでも喰らい付いてやる。その覚悟でマリアンヌの顔をじっと見上げる。
見つめられるマリアンヌの方は、思いのほかしつこいティエンに困惑顔だ。面倒くさいとさえ思っている。
「仕方がありませんわね」
はあっと吐く溜め息の後、マリアンヌは頬に手を当ててティエンの近衛騎士任命に賛同したのだった。
こうしてティエンはすんなりとガリオン王子の近衛騎士となったのだった――、ということはなく――、
「どういうことです」
「我々を差し置いてマリアンヌ様に取り入ろうとはっ」
「ただ少し腕力が強いだけの平民上がりのくせに」
「いったいマリアンヌ様に何と言って認めさせたのだ!?」
という残りの候補者たちが責めてくるわけで……。
「仕方がありませんわね。ではみなさんでバトルロワイヤルでもしてはいかが? 同時に闘って、残ったひとりが近衛騎士ですわ。それなら文句もありませんでしょう?」
もうそれでいいじゃん、というマリアンヌの思考が透けて見えるガリオン王子もそれに賛同し、急遽五人でのバトルロワイヤルならぬ決闘が開始されることとなる――。
困惑する者は誰もいなかった。貴族四人は視線で最初につぶす者はティエンだと語り合い、それに同意する。まずは共闘し、後は各々の実力次第ということだ。
マリアンヌもガリオンもそれを察知していたが黙っておく。言ったところでこれは実力勝負。相手に舐められ共闘されるならばそれまでなのだ。要は勝ちさえすればいい。
「行きなさい、ティエン・バートン。自己紹介された中で唯一わたくしが名を覚えたのは貴方だけ。わたくしの見込み違いだったということにならないようになさいね」
にやりと笑う口元は悪人そのものだったが、そんなに悪いものでもない。この期待は裏切れないなとティエンはぼきぼきと指を鳴らした。
「そのお言葉だけで十分です」
開始の合図はガリオン王子の「始めっ」の言葉で。同時にティエンは地面を蹴って飛び出す。
「こてんぱんに伸してしまいなさいっ」
弟と戯れる時間を短縮されたマリアンヌが腹いせとばかりに「行け」と命じる。
二人の様はまるで飼い主と猟犬だった。
何だかなぁ……、俺の近衛騎士を決めるはずだったんだかなぁ。と、ガリオン王子は呆れ顔だ。
どうにも高飛車であるのだが、マリアンヌは人を惹きつけて止まないところがあるのだ。
この短い時間で何があったかは分からないが、ティエンはとっくにその忠誠をマリアンヌに捧げる腹積もりになってしまったらしい。
――まぁ、仕方ないよな。こいつだし。
教えてしまえば、マリアンヌの鼻が高く伸びてしまうことは必至なので口にはしない。ガリオンなりにマリアンヌのことを認めていることを教えるのはまだまだ先で良いだろう。
ほんの十数秒の間に四人を地面に叩き伏せていくティエンの姿を目にしながら、ガリオンはそう思うのだった。