王子様はポンコツがお好き
『いつだってお天道様が見ているんだからね』
それは天啓とも呼べるようなものだった――。
※ ※ ※
マリアンヌ・ハシュワットは典型的な我がままお嬢様だった。
侯爵家に産まれ、臣民を見下し贅沢に浸りきった生粋の我がままお嬢様。それがマリアンヌだった。
次期国王となるべく教育を受ける一歳年上の王子の将来の伴侶として、幼い頃より教育を受けてきたマリアンヌは、それはもう酷い差別主義者で天上天下唯我独尊の女王様だった。
緩やかにうねる銀の髪に清廉な菫色の瞳という見かけだけは可憐な少女だったが、その内実は触れれば溶ける毒の持ち主だった。
――だった、のである。
マリアンヌには矜持があった。それはそれは高く、雲の上に突き抜けるほどの矜持が。
国王の一人息子であるガリオン王子の隣にあるのが自分であることは当然で、それ以外の女と性別の付けられる者は一切排除したい。したい、というかすべきであると妄信していた。
そのとき、マリアンヌは階段の一番上からひとりの侍女の背中を押そうと画策していた。
わずか七歳の小悪魔ならぬ悪魔である。
本人に自覚はない。だってそれが当然であるからだ。
王子に話しかけられ、あまつさえ笑顔さえ向けられたこの侍女は排除されねばならぬのだ。――たとえ単に王子が用向きがあったために話しかけたのだとしても。
さあ、行くぞと両手を侍女の背中に伸ばしたそのときだった。
『いつだってお天道様は見ているんだからね』
脳裏に走ったその言葉に、マリアンヌは身体に電流が走った。それはまさに天啓だった。
人の気配を察知して振り向いた侍女は、固まるマリアンヌに首を傾げながらも会釈してその場を去っていく。それでもマリアンヌは固まり続けた。
「おい、お前。今何をしようとしていた」
様々な貴族の入り乱れる王宮において、マリアンヌにそのような口を利けるのは彼女の両親か国王一家くらいのもの。その中でも実際に口に出すような人間はたった一人だ。
かけられた声に、マリアンヌはビクッと肩を震わせた。
ぎぎぎっと首を動かして後ろを向く。
そこにいたのは藍色の髪を持つ少年だった。癖のある髪は、触れると案外柔らかで心地が良いことを知っている者は割と少ない。
濃い青の瞳を眇めた将来の伴侶が、わずかに低いマリアンヌの顔を見下ろしていた。
いつもだったら虚飾を盛りに盛った言い訳を振舞ったところだ。
あの侍女には教育が必要なのです、とか。王子に馴れ馴れしく話しかけるからですわ、とか。王家に媚を売るような売女はこの王宮にふさわしくありません、とか。
このときもマリアンヌは「わたくしは悪くありませんわ」と、いつも一番に口を突いてくる言葉を放とうとした。
『いつだってお天道様が見ているからね』
でも、できなかった。
脳裏で繰り返すこの言葉がマリアンヌの舌の根を乾かしていた。
人を階段から突き落とすことが悪いことだとはマリアンヌにだって分かっていたのだ。だが、それを真に悪だと言い切るよりも高すぎる矜持の方が上回っていただけということで……。
天啓の声はしわがれた声で、不思議に耳になじみがあるものだった。まるで魂に刻まれているかのように。
「わ、わたくしは」
マリアンヌはその声を振り切るように言葉を続けようとしたのだが、続いて思い起こされた怒声に旋律が走り「ひいっ」と声をあげた。
『まぁだ懲りとらんのかっ。このポンコツ娘がぁぁぁっ!!!』
お天道様が、のくだりの部分よりももっと大きな声が脳裏にこだました途端、マリアンヌは恥じも外聞も取っ払って大声で泣き始めた。
「うわぁぁぁぁんっ。ごめんなさぁぁっい。ばあちゃん、許してぇぇぇぇ!!」
大粒の涙をこぼし、しゃくりあげる姿はまさに街中の庶民の小娘。
七歳の小娘が泣くのならまだしも、洗練された教育を受け仮面を被ることを常としているお嬢様が取るべき態度ではない。
大泣きを始めるマリアンヌに、驚いたガリオン王子は目を丸くして一歩引いた。
今までならそんな王子の姿を見ればすぐに取り繕ったところだ。でも、今のマリアンヌには無理だった。
ちなみにマリアンヌの脳内辞書に「ばあちゃん」という文字はない。それが祖母のことを指す言葉だという認識すらない。
マリアンヌの祖母は、彼女が産まれるずっと前に鬼籍となっていて面識などない。けれど、悪魔の形相で迫り来る「ばあちゃん」の顔はいやに現実的で、取り乱すには十分なものだった。
えづきながら「ごめんなさぁぁい」と大泣きするマリアンヌに、王子はオロオロとするばかりだ。
人に傅かれ、甘やかされるままに育ったのはガリオン王子も同じだった。
誰かに優しくするということ自体、教えられてこなかった王子は仕方なく拙いお説教を始めるのだった。
「お前、今自分が何をしようとしていたか分かっているか?」
優しくはできずとも何をやっていいか、何をやってはいけないかを理解している分だけ、王子はマリアンヌよりもずっと常識人である。
「だって、だって……」
「言い訳はするなよ」
身に付いた自己愛が発動する前に忠告しておく。でなければ長いのだ。マリアンヌの言い訳は子供らしく穴だらけだが、しつこすぎて最後には「もういい」とうんざりしてしまうからだ。
そういった態度を取るから、マリアンヌが益々増長していくという一面はあるのだが。ガリオン王子もマリアンヌを納得させられるだけの言葉は哀しいかなまだ持ってはいなかったのである。
ガリオン王子の言葉にマリアンヌは「うっ……」と言葉を詰まらせる。
それでもひっくひっくと喉を震わせながら、マリアンヌは必死な様子で言葉をつむぎ出した。
「ガ、ガリオン様の隣に立つべきはわたくしですわ。他の誰でもありませんのよ。だって、」
この次に来る言葉は想像できる。
だって貴方をお慕いしているからですわ、とか。わたくしは貴方の婚約者なのですもの、とかだ。
こいつが望むものはいつだって世間体ばかりだ。
聞くまでもなくうんざりとした思いにかられ始めた王子は、続くマリアンヌの言葉に唖然とした。
「だって、わたくしはガリオン様の一番の友人ですもの。一番の友人が他の者に取られるのなど許せませんわっ!」
実はマリアンヌ、物心付く頃より母親からこのように教育されている。
王の伴侶に愛情など必要ない。必要なものは賢さ、品の良さ、その他もろもろ。一番必要なものは将来の王妃としての矜持である、と。
マリアンヌの母はあらゆる意味で、高位貴族の誇りというものを持っている生粋の貴族であった。
貴族の結婚に愛情など不要。必要なものは肩書きと政治的手腕に長けた能力である、とばっさり愛情を否定できるほどのリアリストである。
それでいて夫と仲が悪いということはなく、互いに良きパートナーとして家のことを取り仕切っているのである。
幼い頃よりそのような姿を見ていたマリアンヌには、母の背中こそが見習うべき背中であった。
所詮は七歳の小娘。愛情というものがどういうものであるか、実は全然、まったく、小指の爪の先ほどにも理解していない。
「王の伴侶というものは、愛などという曖昧な絆で結ばれるものではありません。互いに切磋琢磨し、一番の友人であることこそが理想の国家を造るのです」
母にそう言われれば、素直に右に倣ってしまう。
マリアンヌは良い意味でとても素直な子供だった。
であるからこそ、マリアンヌが目指すものはガリオン王子の良き友人という立場であった。婚約の果てに婚姻を結び、伴侶となるのはそのついでという認識でしかなかったのである。
常に王子に対して「お慕いしております」と言ってきたのは、単に母にそう言えと教えられてきたからだ。
恋愛感情などこれっぽっちもない。あるのは友情のみである。
幼心には友情の方が理解しやすかったのだ。我がまま三昧なマリアンヌに友人と呼べる者はいない。だからこそ余計に、母の「王子の良き友人となるのです」という言葉はより魅力的に映るのであった。
マリアンヌの中で友人はガリオン王子ただ一人きりだ。
他は必要ない。
一番の友人のそばには一番の友人しかいてはいけないのだ、というマリアンヌの思い込みをガリオン王子は三十分ほどかけて聞き出した後に盛大な溜め息を吐いた。
「マリアンヌ……。お前、俺が思っていたよりもずっと阿呆だったのだな」
「なな、何を。わたくしは歴史の勉強も経済の勉強も教師にお墨付きを頂いておりますわ。ガリオン様に遅れは取っても、他の誰にも負けているつもりはありませんわ」
マリアンヌの言葉を聞いて、「やっぱりこいつは阿呆だった」とガリオン王子は口に出さずとも断定したのだった。
その後、マリアンヌが脳裏に浮かんだ天啓等を伝えるに連れ、ガリオン王子はひとつの結論を出すに至る。
「マリアンヌはきっと前世の記憶を持って生まれて来たのだろう」
ガリオン王子の言葉を以って断定された状況に、しかしマリアンヌは懐疑的だ。
「そうなのでしょうか。でもわたくし、何も思い出してはおりませんわ」
マリアンヌに分かるのは、「お天道様」や「「ポンコツ娘」といった幾つかの聞いたことのない言葉と、「ばあちゃん」と呼ばれる老婆の顔だけだ。
それだけで前世の記憶と判断するのは早計な気がする。
「ふん、お前は本当にポンコツだな。世の中には前世の記憶が残った人間がいたとされる書籍もたくさん残っているだろう?」
言っておくが、王子の言う書籍というのはただの創作ものだ。御伽噺だ。
というか、さっそく「ポンコツ」という言葉を使っている辺り、王子も新しいもの好きらしい。気に入ったのか。
だが、王子に傾倒しているマリアンヌが突っ込むことはない。ポンコツと言われても素直に受け入れている。他の誰かに言われれば斬首ものだとばかりに騒ぎ立てるというのに――。
「とにかく俺がそうだと言っているのだ。お前には前世の記憶があるのだ!」
ガリオン王子の断定に、マリアンヌは胸元で両手を握り締めて期待に頬を染めた。
マリアンヌ七歳、ガリオン王子八歳。まだまだ子供である。
自分に神秘性があると言われれば、そうかもしれないなと勘違いしてしまうほどには子供なのである。
「だが、両親たちにこのことは言ってはいけないぞ」
「どうしてですか?」
「頭がどうかしていると思われて療養院行きになるからだ」
ついでに小賢しく、知恵だけはよく回る。
「これは二人だけの秘密だからな。また何か思い出したら教えるんだぞ」
「はい。二人だけの秘密ですわね」
そして大人に対して秘密を持つということが大好きである。
二人は自分たちだけの秘密とういう甘美な響きに、自然に手を取り合って誰にも漏らさないという誓いを立てたのだった。
「まあ、お前が前世のことを思い出したことは良い兆候だ。悪いことは悪いと正しく理解することは獣から人に進化するためには必要なことだからな」
「えっ、……?」
「まずは先ほどの所業についてきっちりと反省してもらおうか。今のお前ならできる。なっ?」
ガリオン王子の爽やかな笑みに、マリアンヌは「ひいぃっ」と顔面蒼白になったのだった。
その後、お互いに恋愛感情など微塵もないくせに仲の良さを深めていく二人を、何も知らない大人たちは眉尻を下げて見守っていくことになる――。
王子様は「ポンコツ」という言葉がお好き。