冬の章 第1話
憲一さんと晴れて両想いになって、恋人同士になったけれど。
ドラマや、世にいる恋人同士みたいな甘くなるわけでもなく、ラブラブになるわけではなく。
ドラマや恋愛小説だったら、両想いになってめでたしめでたし・・ハッピーエンドで終わるけど、そう言うわけでもなく、現実は容赦無く続いているわけで。
至って私たちは今まで通りだった。
それでも、彼が私に対して纏う空気感は、以前のような無機質で無感情なものではなく、日を重ねるに連れ、少しずつ、暖かく優しいものへと変わって行った。
それはまるで、冬が終わり、冬の間に降り続け、つもり続けた雪が少しずつ溶け、そのしたから春の花が少しずつ芽吹いてゆくような・・・急激なものではなく、ゆっくりとした変化だった。
それでも私は、この彼の変化が、他のどんなことにも代え難いほど、嬉しかったし、その彼の、分かりにくい優しさに気付き、触れるだけで、幸せな気持ちになれた。
温かかった時間を、ゆっくり取り戻しているみたいで、心地よかった。
普通の恋人同士のように、休みの日に一緒に出掛けたり、頻繁にメールのやり取りをしたり・・・家が隣なのをいいことに、仕事の帰りに会ったり・・・そう言ったことは、皆無だった。
そう言ったことに軽い憧れがあるのは確かだし、そうなったらうれしいな、と思うけれど。
正直私は、今まで誰かと付き合ったり・・という事が極端に少なかった。
皆無ではないけれど、長続きしなかった。それは、私が不規則な仕事をしていて、たとえば休日に約束して一緒に出掛ける…というのが難しかったり、せっかくメールや電話をもらっても、仕事中で出られないと後回しにしてしまったり・・・という事の積み重ねだった。仕事に没頭してしまうとそう言ったことが全く見えなくなってしまうのj
仕事=好きなこと=ピアノや音楽・・・という公式が綺麗に成立してしまっているせいか、はたまた、私の恋愛脳が全く発達していないのか・・・きっと両方だ。
まあ、だからと言って改めるつもりも全くなく、私は私の生活を崩さないままだった。(だから今まで恋愛が長続きしなかったんだろうなぁ・・)
それでも。
ずっと欲しかった憲一さんの言葉がもらえたのは、他の何にも代えがたい程嬉しくて。
ましてや恋人同士になれる、とは思っていなかった。なれたらいいな、とは思っていたけれど、それは夢物語以上のものではなかったので、こうして想いが叶っただけで、嬉しくて、幸せで。それだけで、胸がいっぱいだった。
これ以上を望んだら、罰が当たりそうで。
これ以上、手を伸ばしたら、今私が立っているこの場所さえ、足元から崩れてしまいそうで。
逆に、身動き一つ、取れなくなって、私は今いるこの居心地の良い場所から動くことなど出来なかった。
それに何より・・・私は今、仕事が忙しくて、彼どころではなかった。
もうすぐ、担当している音楽教室と師匠の教室、それぞれで発表会がある。生徒を教えるのも、普段のレッスンとは重みが違ってくる。
そして、私自身もまた、ピアノの発表会で模範演奏として演奏をする。その練習も疎かにできない。
生徒たちや、教室の後輩の前で無様な演奏をしたくない。
そして・・・
・・・・・・・・・・・・
「ほら、また間違えてるよ!」
「足ぶらぶらさせないで!」
「楽譜見て、音、抜けてるよ。好き勝手に弾かないで」
初めて発表会の舞台に立つことが決まった杏樹もまた、曲の練習に必死だった。
曲は、ピアノを習い始めた子供が弾くような、短い曲を一曲。最近やっと、曲らしくなってきたけれど・・・
「間違えても、絶対止まっちゃダメよ。間違えて、はじめっからやり直し、なんて出来ないからね」
子供にありがちだけれど、指を間違えると、そのまま曲が止まってしまう。舞台では、それだけは避けたい。
自然、レッスンには熱が入る。
杏樹も必至でくらいついてくるけれど、それでも集中できる時間は限られる。
気が付くと、あの、足をぶらぶらさせる癖が出ていた。
私は、杏樹に気づかれないように、そっとため息をついた。この癖が出てしまったら、もう練習はしないほうがよい。杏樹の集中力が切れてしまっているから・・・
「ん、それじゃ、今日は終りね。
今間違えたところ、ちゃんと練習して、そこで曲が止まらないように練習してきてね」
「はーい」
杏樹も疲れた顔をしていたけれど、私も疲れた。
それでも、私が教え始めた、あの春の頃と比べたら随分弾けるようになった。何より、あの頃は出来なかった『楽譜を見て弾く』、ということができるようになってきていた。教え始めた頃は楽譜さえまともに読めず、“本当にこの子は、別の教室でレッスンを受けていたのか?”と疑っていたほどだ。
「ね、せんせぇ・・・曲って難しいね」
リピート無しだったら8小節程の楽譜をみながら、杏樹はぽつりと言った。
「・・・頑張って」
それしか言えないけれど、そう言うしかなかった。
「・・・ねえ、さくらせんせい?」
「なあに?」
桜は、真面目な顔をして私を見上げている。
「せんせいは、この曲よりもずっとずっと長い曲を、いっぱい、楽譜見ないで舞台で弾いているんだよね?」
この前の私のリサイタルの事をいっているのだろうか?
「そうだね」
私がそう答えると、杏樹はまるで尊敬するような目をした。
「先生って・・・すごい人だったんだね・・・」
「そう?」
「うん!だって、曲、楽譜見ないで、ミスもしないで、曲も止まらないで弾くんでしょ?」
それは、 舞台で弾く以上、当然なことだ。
舞台で曲を弾くことも、舞台に立つときに楽譜を暗譜するのも、今まで当然のようにやっていた。師匠からも、発表会の時は、"楽譜は覚えて舞台に上がりなさい"と言われ続けていたので、自然に覚えるようになっていた。
それを凄いこと、と思ったことはなかった。ただ、当然なこと、だった・・・
「それを、杏樹もやるんだよ?
舞台に立つ子は、みんな楽譜覚えて舞台に立つんだよ?」
師匠の生徒は、今も、舞台に立つときはみんな楽譜を覚えるように指導されている。私もまた、生徒にはそう指導している。杏樹も、覚えるように指導している・・・まだ覚えられていないので、当日は楽譜を見ながら弾くことになりそうだが。
「だから杏樹も頑張って」
「・・・うん・・・・・」
杏樹は頷いた。でも、その顔は杏樹にしては珍しく、自信なげで、心もとない感じだった。杏樹らしくない様子だ。
いつもの杏樹だったら、もっと元気で、"頑張る!"と嬉しそうに言うのに・・・
(大丈夫かなぁ…)
私も心配になってきた。
「疲れたでしょ? おやつにしようか?」
私は杏樹にそう言って、レッスン室からでた。杏樹はしょんぼりした顔をして、私の後をついてきた。
うーん・・・
しょんぼりしている杏樹は、まるで干上がったプランターで枯れかけている花みたいだ。日差しが強くて雨の少ない日々に、養分不足になっている、花・・・
私は、そんな杏樹にかけてあげる言葉を探したけれど、“頑張って”以外の言葉を見つけられなかった。
(杏樹が、自分で解決しないといけないんだよね)
ピアノの弾き方も、楽譜の覚え方も、ある程度は教えられる。でも、それを自分のものにできるかは・・・このまま枯れてしまうか、再び花をつけることができるかどうかは、杏樹次第で。
私は、頑張って、というありきたりな言葉をかけてあげる事しか出来なかった。
リビングに行くと・・・
「お疲れさん」
リビングには先客がいた。
「憲一さん」
憲一さんだった。お昼頃、彼から、夕方ごろに来る・・・・という連絡は貰っていた。何か急用があるらしい。
「勝手に上がった。悪いな」
「・・・いつもでしょ?」
いつもと変わらない、甘くもロマンティックでもない言葉のやりとりをしながら、私は杏樹の分のホットミルクと一緒に憲一さんのコーヒーを用意した。
あの、気持ちを確かめ合った日、一つ約束したことがあった。
それは、“仕事関係者には、私たちの関係は秘密にする”ということ。
師匠のマネージャーと弟子が恋人同士、という関係は、お互い仕事をする上で、面倒な問題が起こりかねない、心無いことを悪し様に言う人もいるだろう・・・というのが、彼の考えだ。
それは私もそう思ったので、今、私たちの関係を知っているのは師匠と和也さんだけだ。(まあ、和也さんには報告するまでもなくバレているのだけれど)
師匠には、あれからすぐに報告した。師匠は少し、驚いたようだったけど、"良かったわね"と、短い言葉と笑顔を、憲一さんに向けていた。
"でも、そんな神経質に、周りに秘密にしなくても大丈夫よ?普通にしてなさい"
私たちが、仕事関係者には秘密にする・・・という事を言うと、師匠は少し呆れたようにそう言った。
"まあね。貴方たちは変なところで潔癖症だから、仕事と色恋沙汰はきっちりわけないと気が済まないでしょうけど。
秘密にしてても、目ざとい人は気づくわよ"
師匠の言葉は、妙に心に残った・・
師匠もまた、憲一さんの気持ちを随分前から気づいていて、この恋愛の行く末を、母親として気にしていたみたいだけれど、私たちの交際方針には苦笑いをするだけだった。
「こんにちは、橘さん」
「・・・こんにちは。発表会の曲、弾けるようになった?」
「・・・少しだけ」
「頑張れよ」
そんな会話を聴きながら、三人分の飲み物をテーブルに用意した。
「で、どうしたの? なんか用があるって」
「ああ」
付き合い始めたからといって、甘い会話が続くわけでもない。私たちは付き合いだす前と関係も距離感もあまり変わっていない。
ただ・・・彼の口調や、纏う空気が、以前よりもずっと柔らかく、暖かいものになった。それは、ずっと前、まだ"けんちゃん"と呼んで慕っていた頃のようで、居心地が良かった。
それは、私がずっと求めてやまなかった・・・そしていつごろからか求めるのを諦めてしまったもだった。
それがまたこうしてすぐ近くにある・・・という事が、とても幸せなことだけれども、手に入らないと思っていた時間が長かっただけに、その実感さえ湧かず、嬉しいのにどこか素直に喜べなかった。
そんなことを考えている私の前に、憲一さんは、持っていた楽譜を私の前にスッと置いた。
「突然で悪いんだけどさ。ちょっと俺と連弾してくれないか?」
「本当に突然ね」
「・・・悪い」
目の前に置かれた楽譜を私は受け取り、中を見た。見覚えのある譜面だった。
ハチャトゥリアンの"仮面舞踏会"の連弾譜。
何度か、発表会でもコンサートでも演奏したことがある曲だ。数年前、フィギュアスケートの日本代表選手が、冬季オリンピックの競技の時、この曲を使っただとかで、話題になった曲だった。
「仮面舞踏会?」
「ああ」
「なんでまた?」
「連弾・・したいんだ」
多少強引なところは、付き合い始めても全く変わらない。それに呆れながらも。
「いいよ」
弾けない曲じゃないし、何より・・・憲一さんと連弾できるほうが、嬉しかった。
「せんせい、連弾って何?」
杏樹は、おやつを口に頬張ったまま、私に聞いてきた。頬にはおやつのクッキーのカスがまだ少しついている。
「・・・一台のピアノを、二人で一緒に弾くことだよ」
「ふーん・・・先生と橘さんが、一緒に弾くの?」
杏樹は怪訝そうな顔で橘さんを見ている。
「うん・・・杏樹、ちょっと弾いてくるけど、、おやつ食べて待っててくれる?」
杏樹にそう言い残すと、杏樹は差し出した麦茶を飲んで、立ち上がった。
「私も先生のピアノ聴きたい!」
「え?」
聴いても退屈かもしれないよ? そう言おうとした私の言葉を喰うように、彼女は言葉をつづけた。
「桜先生のピアノ、大好きだもん!聴きたい。ね?いいでしょ?」
いつもいつもそうなのだけど、杏樹にそう言われると、どうも私は弱いらしい・・
「わかった」
軽く息を吐くと、そう言った。
「静かに聴いていてね」
「うん!」
杏樹の返事を見届けると、私は憲一さんに目くばせした。憲一さんは頷くと、どちらからともなく席を立つと、レッスン室に向かった。その後ろを、杏樹は軽い足取りでついてきていた。
杏樹の好きそうな明るい楽しげな曲、ではなく、むしろ少しだけ切なく、少し悲しげな、影のあるワルツ。
無理もない。
楽しい、幸せな、ハッピーエンドなストーリ、というわけではないから・・・
これは、もともと、ロシアの戯曲をもとに作られた組曲の中の一曲だ。
・・・賭博師としてしられた男とその妻は、賭博師、という職とは裏腹に、静かに幸せに暮らしていた。
その二人が連れ立って行った仮面舞踏会で、妻は腕輪をなくしてしまった。
その腕輪を拾った未亡人は、自分に言い寄ってきた公爵に、その腕輪を渡してしまった。公爵は、自分が口説いた女性からの送りものだ・・・と自慢する。
帰宅後、賭博師の妻は、夫に腕輪をなくしたことを告白。賭博師は、舞踏会の会場で、公爵が口説いた女性からの贈り物だ・・・と自慢していた腕輪を思い出し、妻と公爵の愛人関係を疑い、激しく嫉妬する。その嫉妬故、妻の殺害を決意する。
再び仮面舞踏会に出掛けた二人、賭博師は妻に毒の入ったアイスクリームを差し出し、妻は何の疑いもなく、それを食べてしまう。
帰宅後、妻の体には毒が回る。死にそうな妻を目の前に、賭博師は妻の不貞を詰るけれど、妻は身の潔白を訴えながら、息絶えた。
賭博師は、そんな妻の死を見て、不貞の根拠の頼りなさに動揺した。その彼の元に公爵と未亡人が現れ、真実が明かされた。
妻の身の潔白を知り、妻を疑った挙句に殺害した罪悪の念に駆られた賭博師は、発狂してしまう・・・。
と、まあ。そんな感じの話をもとに作られた組曲で、『ワルツ』は、その一曲だ。
賭博師とその妻が連れ立って行った"仮面舞踏会"。全ての誤解が始まった、場所。
想いあい、仕事とは裏腹に静かに暮らしていた筈の夫婦が、すれ違うきっかけになった仮面舞踏会・・・
この曲で、この曲が流れる仮面舞踏会がきっかけで、夫婦の関係がおかしくなってゆく・・・
楽しい曲のわけがない・・・
それでも杏樹は、わくわくした顔で、私と憲一さんをじっと見つめていた。
まるで、楽しい物語が始まる前、それを楽しみに待っているようだった・・・
(杏樹の期待通りな曲だったらいいんだけどねぇ…)
心の中でそうつぶやきながら、ピアノの前に座ると、鍵盤に指を置いた。同じように憲一さんも、私の隣に椅子をセッティングして、腰かけた。
当然だけど、鍵盤の前に大の大人が二人座ると、肩が触れるほどの近い距離になる。
私と憲一さんはピアノの前に座ると、鍵盤に指を置いた。
その距離感にドキリとしながらも、それを表に出さずに、何食わぬ顔をしたまま、隣に座る憲一さんの顔を見た。憲一さんも私を見て、頷いた。
目で合図をすると同時に、四手の和音が響き渡った。一人で弾く時とは比べ物にならない、厚く奥行きのある音だった。
曲が、始まった。
憲一さんとは、知り合って長いけれど、こうして連弾をしたことはない。
まだ仲良しだった子供の頃は、彼のほうがずっとピアノは上手だったので、対等な連弾など出来なかったし、距離を置いてからは、お互い避けていて連弾どころではなかった。だから、こうして対等な立場で連弾などやったことがなかった。
憲一さんは、私よりも低い音の鍵盤を、楽譜に書かれたテンポよりも少し早く、重たくリズムを刻んでゆく。そのリズムに乗り、私はメロディーを弾いていった。
重たいリズムはそのまま曲の深みとなり、メロディーが際立ってゆく・・・
憲一さんは私よりもパワーがあるので、音一つ一つが、普通に弾いていても重たく、響いて聴こえる。それに負けないように、でも・・・私らしさも忘れないように・・・
重たいリズムの上に、軽く、それでも消されないように際立つようにメロディーを弾き・・・
(あ・・なんか楽しい・・・)
楽しげな曲ではない。でも、楽譜と彼の音を追いかけ、彼の音を聴き、私の音を紡ぎだすうちに、だんだん楽しくなっていた。
それは、彼と弾いているからか、彼がすごく上手かったからか、両方なのか。
もともとピアノは、一人で弾くことが多くて、他の楽器みたいに、同じ楽器同士で合奏したりすることはない。だからこんな風に誰かと弾くことなんて・・・久しぶりで。ましてやそれが・・・
(憲一さん、なんだよねぇ・・・・)
夢みたいだった。
こんな風に、彼と、肩が触れるほどの距離で一緒に演奏できるなんて、二度と、ないと思っていたから・・・
ううん、もしかしたら、これから先も・・・二度とないかもしれない。
(最後、かもね・・・)
演奏しながら、ちらり、と一瞬だけ、彼の顔を見た。
彼は、いつも通りな無表情…だと思っていたけれど。
その眼もとも、口も、楽しそうだった。
たったそれだけの事で、私も嬉しくなった・・・
彼は、あんまり感情が表に出ない。・・・特に大人になってからは。ポーカーフェイスだし、一見・・・怖い。
それでも、こうしてその無表情が嬉しそうに変わる一瞬を見る事が出来るのは・・・とても嬉しかった。
私は、その笑顔を一瞬見届けると、再び曲に集中した。
そう長くもない曲は、あっという間に終わった。
曲は、それほど簡単な曲ではない。けれど途中で止まることなく、危なげなく流れて行った。
(もう、終わっちゃった・・・)
曲が止まることなく終わった達成感よりも、終わってしまったことがちょっと残念に思った。
最後の音が消えた後。
私はその場から動けなかった。
なんとなく、ただ何となく。
ここから動いたら、今の楽しかった連弾さえ、すべてなかったことになってしまいそうで。
もうこんな楽しい時間を過ごせないような気がして。
動けなかった。
「桜?」
先に動いたのは、憲一さんで、名前を呼ばれて顔を上げると、憲一さんは、少しだけ、にやり、と笑っていた。
それに答えて、私も笑い返した。
そして、楽しかったよ、と・・・
ありがとう、と・・・
そう言おうとした時・・・
「先生・・・すごーい!」
後ろの方で、杏樹の声が聞こえた。振り向くと、杏樹が目をキラキラさせて私たちを見ていた。
「すごかった?」
「うん!先生もそうだけど、橘さんもピアノ、上手なんだね!」
・・・師匠の息子とっ捕まえて「ピアノ上手いんだね・・・」か・・・。これは杏樹じゃなきゃ言えないセリフだなぁ…
そう思って憲一さんを見ると、杏樹の言葉のせいか、少しだけ憮然とした顔をしている。彼だって、中学の半ば頃までは、音大受験を本気で考えて、その勉強をしていた人なのだ。ピアノから離れたとはいえ、そのピアノの腕前は並ではないし、今だに師匠の門下の間では一目置かれる存在だ。それなりに弾ける、というプライドも持っている筈だ。
それでも、杏樹に褒められてうれしいのか、まんざらでもなく
「・・・そうか?」
と、小さな声で言っていた。
杏樹が嬉しそうにはしゃぎながら褒めてくれる声を聴きながら、憲一さんは静かな声で私に言った。
「・・・桜、この曲・・・」
「え?」
杏樹のはしゃぎ声と重なって、一瞬聞き逃しそうになったけれど。
「発表会で、連弾しないか?」
聞き逃しはしなかった。
「・・・発表会で?」
びっくりして彼の顔をみると、彼は、相変わらず、少しだけ笑っていた。
「あと二週間しかないんだよ?」
「知ってる。でも、ちゃんと弾けてる。今のままでも舞台で弾けるだろ?
駄目か?」
「駄目じゃない!
でもどうして?」
今まで何年も、彼は発表会で演奏していない。発表会でも裏方に徹して、表舞台に立とうとはしなかった。
『俺はもうピアノ、辞めたから』
ずいぶん前、彼はそっけなくそう言っていた。それを少しもったいないな、と思いながらも、当時の人間関係上、"弾いたら?"とも言えなかった。
「・・・桜と弾きたいから・・・ってのは・・・理由にならないか?」
「私と?」
「ずっと・・・お前と連弾したいって思ってた。
お前と・・同じ舞台に立ちたい。
母さんには了承を得ている。お前さえ出来るなら、プログラムにいれるってさ」
簡潔に、彼はそう言った。まあ、発表会のプログラムの原稿も彼が作っているのだから、それくらいお手の物だろう。
そんなことを考えている私の両手を、彼は両手でそっと握った。一瞬、心が跳ね上がった。
「・・・駄目か?」
憲一さん、狡い。
まっすぐに私を見る目は無感情なものではなく、静かだけど確固たる意志と、包み込むような温かさを持っていた。
・・・断ることなんか、出来ない。
それに、私だって、こんな風に、嬉しい気持ちで連弾で来たのなんか、本当に久しぶりで。
曲が終わってしまう事が寂しいって思ったんだから。
断る理由なんか・・・・どこにもないんだから・・・
「うん・・・やろうか?」
私がそう言うと、杏樹が、また大声を出した。まるで、この今の私たちの空気をぶち壊すように。
「えーーーーー!
先生と一緒に弾くの?
橘さんずるい!」
「杏樹、ずるいって・・・」
憲一さんが呆れた顔をして杏樹を見た。
「あたしだって先生と連弾したい!なんで橘さんだけ先生と連弾するの?」
「お前はもっとちゃんと弾けるようになってからだ。
一人で弾く曲も、ちゃんと仕上がってないんだろ?」
「出来るもんっ! 今から頑張れば、もう一曲くらい弾けるもん!」
杏樹はまるでケンカ腰で憲一さんに食ってかかっている。けれど憲一さんはそんな杏樹を歯牙にもかけていない。
「杏樹」
私は杏樹にそっと話しかけた。そして、すっと杏樹の側により、座ってる杏樹の前にしゃがみこんで、杏樹と視線を合わせた。
杏樹は、大きな目を少しうるうるさせて、まっすぐに私を見ている。
(この目に弱いんだよなぁ・・・)
そう思いながら、ピアノ教師としての思いがブレないように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「あのね、杏樹?」
「うん・・・」
「発表会まで、あと何日?」
「・・・二週間?」
杏樹は曖昧に言った。
「はずれ。正確には、11日。
その間に、レッスンは、あと何回ある?」
「二回」
本来だったら通常レッスンが一回だけど、発表会の前日の土曜日、もう一回、発表会の曲だけレッスンする約束になっている。
「その二回のレッスンで、杏樹の弾く曲の他に、もう一曲、連弾の曲、仕上げられる?」
「・・・・」
杏樹は答えない。答えないまま、力なく下を向いた。
「メインの曲さえまだちゃんと弾けない杏樹が、今までやったこともない連弾の曲を、ゼロから練習するのは、すごく大変だと思うよ?」
「でも・・・できるもん。一生懸命やれば・・・」
そう言いはするけれど、杏樹の声には、さっきまでの勢いはない。
「今以上に一生懸命、練習できるの?」
そう聞いてみた。すると
「できるもんっ!」
「それじゃあ、その頑張りがあるなら、今の課題、ちゃんと暗譜して、仕上げておいで。
連弾は・・・来年かな?」
「え・・・・・」
杏樹は、しばらく私の顔をうるうるした目でみていたけど、やがてしょんぼりと項垂れた。私の言ったことを、理解してくれたかはわからない。彼女なりに理解しようとしてくれていると・・・思いたい・・・
それにしても、杏樹はそんなに連弾がやりたいの?そりゃあ、杏樹のことだから、、一人で弾くより、誰かと・・・例えばお友達とかと一緒に弾いた方がたのしい、とか言い出しそうだ。
私がそう思っていると、杏樹は少し悔しそうに、憲一さんの方をみた。
「橘さん、ずるい!」
「「え?」」
突然杏樹がそう言い出し、私と憲一さんは顔を見合わせた。
「ずるいよ!
だって、うちのママも桜先生も独り占めしてるもん!」
「あ、杏樹…」
そう言われて、憲一さんは、あっと息をのんだ。
「ママ、橘さんがいると、私の事なんかほっといて橘さんとばっかりお話してるし。
桜先生と連弾までするんだもん!」
憲一さんは、気まずそうに杏樹から目をそらした。
「それは・・・」
「橘さんなんかいなくなっちゃえばいいんだ!
そうしたら、ママも桜先生もっ」
それ以上、杏樹は何を言おうとしたんだろう? 杏樹らしくない悲しい言葉で、憲一さんを詰ろうとしたんだろうか?
杏樹の口から、そんな言葉を聴きたくない・・・私は無意識に、ぎゅっと目をつぶっていた。許されるなら耳も塞いでいただろう。
けれど、そう思った瞬間。
まるでその言葉を遮るように、憲一さんは杏樹の目の前に、ばさっ!と楽譜を見せた。杏樹の視界を遮るように。と同時に、杏樹の言葉が止まった。
「悔しかったら、この楽譜マスターしてからにしろ!」
その楽譜は、ついさっき私と憲一さんが弾いていた、仮面舞踏会の連弾譜だった。杏樹が弾く曲の楽譜と比べたら、音符も細かいし、文字通り、音符で真っ黒な楽譜だ。ピアノをやっている人ならこの楽譜を見ただけで、簡単な曲ではない、ある程度レッスンを重ねた上級者じゃないと演奏できない・・・と思うだろう。
「誰でも弾ける曲じゃない!
お前がそれを弾けるくらい成長したら、桜と舞台で連弾できるだろう。
自分が弾けないのを棚に上げて、俺にあたるな!」
「っ!」
杏樹は息をのんだ。図星をつかれたのか、杏樹は顔を真っ赤にした。
憲一さんの言葉に、容赦はない。少しイライラしているような彼の言葉に、杏樹は今にも泣きそうだ。
その泣きそうな顔を見て、杏樹が可哀想に思った。確かに憲一さんの言葉は正論だけど、それは、今の杏樹にはつらい現実だろう。
「・・・それ、杏樹可哀想だよ。それに・・・子供に言う言葉じゃないよ?」
「でも・・・本当の事だ。杏樹は、桜と連弾できる立場にいる俺に嫉妬してるだけだろ?」
「っ! ち、ちがうもんっ!」
杏樹は大声で否定した。でも、その顔と声で、私も気づいてしまった。
・・・憲一さんの言う事が、本当だと・・・
とりたてて、憲一さんが好きだから彼をかばいたかったわけでもない。でも・・私も、気づいてしまった。この春から、ずっと杏樹を見ていたからこそ・・・
「杏樹が言うところの"大好きな桜先生"と連弾できる立場の俺が、羨ましいんだろ?
杏樹、桜の事大好きだもんな・・・」
「っ!」
そこまで言われて、杏樹は返す言葉を失った。恥ずかしのと、少しだけ口惜しさの混ざった顔をして、うつむいた。
「なあ、杏樹?」
すると憲一さんは、少し声を落ち着かせて、ソファに座ったままの杏樹の前にしゃがんだ。杏樹と視線を合わせるように・・言い聞かせるように・・・
「今お前が・・・桜と連弾できたところで、俺と桜と杏樹の関係は何も変わらない。
お前が今言ったように、本当に俺がいなくなったって・・今、杏樹が羨ましがっている俺の位置に、お前は立てないぞ」
憲一さんにそこまで言われている杏樹が、さすがに可哀想になった。
"杏樹が可哀想だからやめて"・・・憲一さんにそう言おうとした。けれど・・・そう言おうとしたとき、憲一さんは、それでも杏樹を、まっすぐに見ていた。
真剣な目、だった。以前の無感情とは違う、血の通った人間の目だった。本気で、他人と向かい合おうとしている彼の真剣な目を見て・・私はかけようとした言葉を飲み込んだ。
そして、さっきよりも少し、優しい声で言葉を続けた。
「・・・・心配するな。
もう少ししたら、俺は東野の前から姿を消す。
そうしたら、東野は・・お前のママは、ちゃんとお前の所に戻ってくる。
もう少しだけ、我慢しろ・・・」
「!!」
その言葉に、私のほうが驚いた。けど、杏樹も同じだったようで、憲一さんの顔を見た。それはさっきまでの表情と明らかに違っていた。
「杏樹のママにいろいろ頼まれて、杏樹のママの側にいたけど。
それももうすぐケリがつく。
そうしたら、俺は杏樹のママの前から姿を消す。
・・・それでいいだろ?杏樹?」
そう言う憲一さんの顔は、とても優しそうで、さっきまで杏樹に怖い顔をして話をしていた彼とは別人だった。
「それじゃ、連弾の方、頼むな?」
憲一さんは私にそう言い残すと、レッスン室から出て行こうとした。
「た、橘さんっ!」
部屋から出ようとした憲一さんを、杏樹が引き止めた。
「橘さん、いなくなっちゃうの?」
その声は、ドアの前に背中を向けて立つ憲一さんの足を、少しだけ止めた。
杏樹の眼は、どこか縋るようで、何かをつなぎとめるのに必死な目だった。
「・・・少なくとも、お前のママの前からは・・・な」
憲一さんはそれだけ言うと、彼は本当にレッスン室から出て行った。
「ま、待ってよ!橘さんっ!!!」
杏樹の声は、レッスン室にむなしく響くだけだった。、
レッスン室には、重たい静寂が残った・・・
彼が、杏樹のママから離れる、ということは、杏樹のパパとママの一件にケリがつく、という事だ。それだけのめどがつきつつあるのだろう。
それは、とても喜ばしいことだ。杏樹のママと杏樹が、杏樹のパパに脅かされることなく、親子二人で、幸せに暮らせる、という事なのだから。
そして私も、多分おそらく・・・杏樹のママと憲一さんが一緒にいるところを見なくて済むのだから・・・あの何とも言えない嫉妬にかられずに済むのだから。
嬉しいことの筈。
それなのに・・・
ドアから出て行った憲一さんの背中を見つめていた杏樹の顔は、
・・・どこか、傷ついたような顔をしていた。
それは、憲一さんに今、酷いことを言われたからか・・・それとも・・・
それとも?
ほかに、何かあるのだろうか?
(杏樹・・・・・)
その表情に、姿に・・・・私はかける言葉さえ、探せなかった・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そのあと。
私と杏樹はいつも通りに時間を過ごし、杏樹はいつも通りに帰って行った。
杏樹は憲一さんとの諍いを蒸し返すわけでもなく、憲一さんの愚痴を私に吐き出す訳でもなく、連弾が出来ない悔しさを私にぶつけるでもなく・・・それでも、表情が少し暗かった。
それは、憲一さんにあんなことを言われたからだ・・・というのは明白だ。けれど、憲一さんが杏樹に言ったことも、ある意味本当で、反論できないほど、本当の事だ。
それでも・・・
(やっぱり、気になるよ・・・)
杏樹が帰った後の少し肌寒く感じる部屋でそのことを考えながら、結局私は気になって、隣に行ってみた。
呼び鈴を鳴らすと、そんなに待つこともなく憲一さんが出てきた。
「そろそろ来る頃だと思った」
私が何か言うよりも先に、彼は少し笑ってそう言って、私を中に入れてくれた。そしてそのままレッスン室に通してくれた。
「師匠は?」
「まだ帰ってない」
「今日は付き添わなくて、よかったの?師匠のマネージャーでしょ?」
「ああ。別の用があって、朝から別行動。午前中に終わったから帰ってきたんだ」
だから、夕方行くって、お前のところに連絡しただろ?彼はそう付け加えた。
「あ・・・そう・・・」
通されたレッスン室は暖かく、たった今まで、誰かがいたことを物語るような温度と湿度を感じた。
「憲一さん・・・練習してたの?」
「ああ。あの連弾の練習」
レッスン室にはグランドピアノが二台、置いてある。ここがピアニストでもある師匠のレッスン室だ、という事を差し引いても、一般家庭にグランドピアノが二台置いてあるなんて、珍しい。
このレッスン室は、師匠が練習でも使うし、師匠の門下のレッスンの時に使う部屋で、私もしょっちゅう、この部屋で師匠のレッスンを受けていた。
二台のグランドピアノのうちの一台は蓋が開いていて、楽譜が置いてあった。憲一さんが弾いていたのだろう。
"仮面舞踏会"の連弾譜。
譜面には書き込みがたくさんあった。それは、さっき連弾した時には書かれていなかったものもあって、あのたった一回の連弾の後、彼がどれだけ弾き込んでいるかを物語っていた。
・・・私と連弾する為に・・・?
「ねえ、さっきの杏樹の事なんだけど・・・」
私は、憲一さんにさっきの杏樹とのやり取りの事を、話そうとした。でも。
「・・・悪かった・・・って思ってる」
子供相手にあの言葉は酷すぎるのでは? そう言おうとした私の言葉を封じるように、彼は少し気まずそうに、そう言った。
「子供相手に大人げなかった」
彼は素直に自分の非を認めていた。
珍しい姿だった。
以前なら、「俺も悪かったけど杏樹も悪い」とでも言いたげな言い訳が続いていたのに。
かつて、私に対してそうだったように・・・
「・・・なんであんなこと・・・言ったの?杏樹、まだ子供なんだよ?
もっと他に言い方、あるでしょ?」
「判ってる・・・けど・・・さ・・・」
憲一さんは、ふっと一瞬、言葉を止めた。
子供相手にあの言葉は酷すぎるのでは? そう言おうとした私の言葉を封じるように、彼は少し気まずそうに、そう言った。
「・・・あの子見てるとさ・・・ついこの前の事思い出すんだ」
憲一さんは、少しだけ私から目を逸らすと、再び、静かな目で私を見た。
その目に、表情に、見覚えがあった・・・
あの、リサイタルの翌日、憲一さんが告白してくれた、あの日の表情・・・
無感情で大人を装った彼の仮面が剥がれた時に見せる、少し弱弱しい彼の表情。
「この前までの?」
私がそう聞くと、憲一さんはああ、と頷いた。
「あの頃は・・・他の誰がお前の傍にいても、誰と舞台で演奏してても・・・一番近くにいて、一番お前を理解しているのは俺だけだ・・・そう思っていたし・・・俺自身もそう思いたかった。
でも、実際は、佐々木さんに嫉妬して、俺がお前にレッスンを頼んだ杏樹にさえも、嫉妬してた。
俺には出来ない方法でお前の近くにいて、同じ舞台に当然な顔をして立っていた佐々木さん・・・
俺が失っちまった、素直で屈託ない子供らしさでお前の世界に切り込んで行った杏樹・・・
お前が、そんなあいつらには、俺には絶対に見せてくれない表情を晒してたから、な」
そう言うと、彼は私から気まずそうに目を逸らした。
「どんだけ嫉妬しても・・・佐々木さんや杏樹がいなくなったとしても、その場所に俺が立てるわけないのにな・・・」
そういえば、さっき憲一さんも杏樹に似たようなことを言っていた。
"今お前が・・・桜と連弾したところで、俺と桜と杏樹の関係は何も変わらない。
ましてや本当に俺がいなくなったって・・今、杏樹が羨ましがっている俺の位置に、お前は立てないぞ "
あれはもしかして・・・憲一さん自身の事を言っていたの?
けれど、そんな疑問を口に出すことも出来ず、彼は静かに言葉をつづけた。
「今回、無茶を承知でお前と連弾を決めたのは・・・
少しの間でいいから・・・俺もお前を・・・独占したかったからだ。
師匠のマネージャーと師匠の弟子、としてじゃなくて、一人の演奏する人間として、舞台の上で、"叶野桜"と向き合いたいんだ」
言いにくそうに、そう言った。
そして言った瞬間・・・彼の耳が今までにないくらい、真っ赤になっていた。
「・・・・だから。
杏樹が俺に嫉妬してるってのは・・・俺だからわかったのかも、な。
少し前の俺と、今の杏樹、同じ目、してた。
佐々木さんと桜が同じ舞台に立ってた時・・・きっと俺は、今日の杏樹と同じ目をして、お前と佐々木さんの舞台を・・・見てた・・・」
彼が黙ると、レッスン室には急に静かになった。ほかの音さえも、聞こえない。
私も・・・彼に何も言えなかった。
「ちょっと恥ずかしい話だけどさ。
・・お前が帰国して、佐々木さんの伴奏頻繁に引き受けるようになった頃・・・」
「うん・・・」
同じ時期にドイツに留学していた彼。帰国は私よりも二年程早かった。大学卒業後、私はドイツを拠点に音楽活動をして、彼は帰国してプロのオーケストラに入団し、同時にソロ活動も始めていた。
二年後私が帰国してからは、その彼の伴奏を頼まれ、一緒に舞台に立つ事も多かった。それは、帰国したばかりで教室レッスンの講師以外の仕事がなかった私にとっては、舞台で演奏する足掛かりの一つとなり、とても有難いことだった。
けど、あの頃、憲一さんは私と彼が一緒に舞台に立つことを心底嫌がっていた。
「・・・今日、俺が杏樹に言ったことと似たようなことを、以前、佐々木さんにも言われたんだ。
"橘さんは、桜さんの側にいることが出来る俺に嫉妬してるだけだろ?
醜い嫉妬を桜さんにぶつけるな!
桜さんを、お前ごときの醜い嫉妬で汚すな!"
言われた時、打ちのめされたぜ。
あんな、俺よりも年下な奴に言われたことにもショックだったし・・・佐々木さんが言ったことも図星だったからな。
あの男に対する、醜い嫉妬だ。でも当時はそれを認めることなんか、出来なかった。
認めれば・・・認めちまったら、奴に負けを認めるようなもんだ・・・
負けを認めたら、俺は桜を永遠に失うことになるし、そうなったら俺が壊れそうだった・・・
お前の一番近くにいる・・・っていう小さな優越感さえも、叩き壊されそうだった。
だから・・・あの男を憎んで、否定することしか出来なかった」
「憲一さん・・・」
「今でも、あの男、嫌いだ。
・・・嫉妬してるだけだどな」
少し拗ねたようにそう言う彼の言葉に、返す言葉が見つからない。
憲一さんに好かれている、というのは判るのに。
ずっと好きだった憲一さんが私の事を好きでいてくれた、その事実は、打ち明けられたあの時も今も、とてもうれしい事なのに。
その事実に、今は有頂天に喜べなかった。
「杏樹の事も、そうだ。
杏樹が俺に嫉妬しているのは気づいてた。
ま、杏樹が俺に言ってたことも本当だし、な。
杏樹から見れば、俺はお前も、杏樹のママも独占してるようなもんだ。
ことあるごとに晃也の相談聞いたりしているからな。杏樹が、俺がママをとった、って思われても仕方ない」
その時、私はあの夏祭りの日の事を思い出した。
杏樹のママと憲一さんが一緒にいるのを見て、杏樹が二人に食って掛かって怒っていた、あの時・・・
あの杏樹の怒りは、杏樹のママに対してではなく、ママを独占する憲一さんに対する、怒り・・・
杏樹にとって、憲一さんは・・・"大好きなママを杏樹から取り上げた人"であって。
その上さらに、"大好きな桜先生"まで、憲一さんと舞台で連弾するとなっては・・・
杏樹が機嫌悪くなるのも、理解できる。杏樹にしてみれば、自分の大好きな大人の人が、憲一さんがいると、自分の方さえ向いてくれなくなる、という現実は・・・計り知れない程悲しいものだろう。
「でも、俺は・・・」
憲一さんは、すっと顔を上げた。
「今回の連弾、杏樹の気持ち考えて辞める・・・ってのは、出来ない」
「え?」
一瞬私は、憲一さんが、杏樹の事を考えて連弾を辞める、とでも言い出すかと思った。それを期待した。
だって、そこまで杏樹の気持ちに気づいているなら、なおさらだ。
それなのに・・・
「俺にだって、誰にも譲れない事の一つや二つ、ある。
それが杏樹だろうと誰だろうと、だ。
譲ってやれるほど、俺は余裕なんかない」
そう言うと、彼は少しだけ、笑った。
「俺にも少し、お前を独占させてくれ。
そうじゃないと俺が狂いそうだ」
静かな声で、冗談のような独占欲にまみれた言葉を投げかけると、彼は私にすっと手を伸ばし、私の髪をくしゃり、と撫でた。照れ屋な彼の、精一杯の愛情表現だ。
「ただでさえ、お前、杏樹にかかりっきりだろ?
こうでもしないと、俺、お前を独占する自信、ないんだ!」
「憲一さん・・・」
私は呆れてため息をついた。
(嫉妬に狂いそう・・・か)
不意に私は、さっき演奏した仮面舞踏会の戯曲を思い出した。
・・・妻が不倫をした、と誤解し、疑い、嫉妬で狂って妻を毒殺してしまった男・・・
もしかしたら・・・彼が「仮面舞踏会」を選曲したのは、話の内容と自分の姿を・・・重ねたの?
現実的な性格の彼が、そんなことをするとはとても思えないし、偶然なのだろうけど・・・
それにしても。私は軽いため息をついた。
まったくどいつもこいつも・・・杏樹も憲一さんもガキみたいなことを言って、ガキみたいな嫉妬して・・・
でも、私も人の事は言えない。私自身もまた、似たようなものかもしれない。
杏樹のママに嫉妬してる私自身も・・・
それを表に出さないだけで・・・
「憲一さん・・・」
私は、軽く顔を上げた。
「なんだ?」
相変わらず気まずそうな顔を私に見せた。そう言えば彼のこんな表情、以前は見たこともない。
「・・発表会が終わって時間が空いたら、どっか遊びに行こうか?」
「え?」
「杏樹や杏樹のママ抜きで。師匠のマネージャーとその弟子、とかじゃなくって・・・」
「桜・・・」
「独占、されるの、別に嫌じゃないよ?」
嫌じゃないどころか、憲一さんだったら大歓迎だ・・・と、流石にそこまでは言えないけれど。
しんじられない、といった顔をして、彼は私を見た。無理もない。私も彼も、幼馴染、仕事仲間、或いは師匠のマネージャーと弟子、としての付き合いは長いけれど、仕事抜きで二人きりで出かける・・・なんて今まで殆どなかったのだから。
たとえば杏樹のママと憲一さんが夏祭りの時に一緒にいたような・・・あんな事さえ、殆どなかったのだから・・・
「だって桜、ずっと・・・俺がそばにいると、嫌な顔してただろ」
そう、確かにそうだった。私がうなづくと。
「だから俺、ずっと桜に嫌われてると思ってた。
この前の。お前のリサイタルの時のお前の言葉だって、今だに実感ないんだぞ」
「でも・・・憲一さんの事、嫌いなんかじゃない」
静かな声で、でもはっきりと、私はそう答えた。
「私が嫌だったのはね・・・」
軽く目を閉じると・・・ほんの少し前の私の心情が、手に取るように解った。
「憲一さんがね、
私のことを嫌いなのに、“師匠の命令だから”仕方なく私のそばにいたこと、だよ?」
「・・・・え・・・・」
彼の表情が、一瞬強張った気がした。
「憲一さんが、私のこと、嫌いなのは、何となく解った。無関心なんだなって思ってた」
「そんなことっ!」
彼は私の言葉を否定するように大きく首を横に振った。けれど私は、その先に続くであろう彼の言葉を遮った。
「でも、それはまだ良かったの。嫌われてるだけだったらまだマシだった」
不思議と私は、あの頃の私のことを躊躇うことなく口に出していた。それは、彼が、彼自身の想いを話してくれたからかもしれない。
「“師匠の命令だから”って言って、憲一さんが、やりたくもない私の世話を、嫌々やっていたんだなって・・・そう思うと、耐えられなかったの。
嫌いだったら、私のことなんかほっといて欲しかった。
その方がよっぽど・・・」
諦められたはずだ。
「誰だって、好きな人に、優しくされたら嬉しいよ。でも、その度に、“師匠の命令だから”なんて言われたらさ・・・
“本当はお前なんか大っ嫌いで何とも思っていないけど、師匠が言うから仕方なく面倒見てやってるんだ”って、言われ続けているみたいで・・・それが、嫌だったの」
そう、だからこそ。ずっとずっと。長いこと、気が遠くなるほど長い間、彼には嫌われているって、思っていた。
でも、それさえも。
小さな、子供にありがちな心のすれ違いと行き違いが原因だった。それがずっと続き・・・本心を打ち明け合う、なんてあり得ないほど、遠い存在になってしまっていた。
その小さなすれ違いを解くことができれば・・・・あんなにも遠く心通わなかった彼が、こんなにも近くで、想いをやり取りすることができた。
必要なのは、ほんの少し、素直になること、相手を見ること・・・そして・・・伝えること・・・
私は・・・ううん、私たちは。
随分長い事、この大切なプロセスを、見失ったままだった・・・
「私たちには、さ。
これからまだ、分かりあうための時間が、必要なのかもしれないね?
分かり合えなかった時間が、長すぎたから。きっとそれ以上に、そう言った時間が、必要だよ」
険悪だった時間、すれ違い続けた溝を埋めるための努力は・・・きっと、容易にできることじゃない。
今からでも、遅くないだろうか?
取り戻せるだろうか?
正直、不安だ。またすれ違って、疲弊するだけの関係に戻ることだって、私たちなら十分あり得るのだから・・・
けれど、そんな不安を抱えている私の話を、 最後までちゃんと聞いてくれていた。
子供の戯言などではなく、ちゃんとした意見として聞いてくれていたのか、話終わると、大きく頷いてくれたた。
そういえば私は、今までこんな風に、自分の想いを彼に告げたこと、なかった。いつだって、喉まで出かかった想いを、飲み込んで、代わりにため息をついていた。
「初めてだな」
まるで、私の考えていることがわかってしまっているのか、彼は小さくそう言った。
「桜が・・・そうやって考えてることを、俺に言ってくれたの、初めてだな」
「うん」
彼の言葉に、私は頷いた。
私と彼には、仕事抜きで二人で過ごす時間が必要、理解し合う時間が必要・・・そう思った。
「・・今度の・・・休みに、二人でどっか行こうか?
行きたいところ、考えておいてくれ」
そう言うと、彼は初めて、柔らかく笑ってくれた。
それは、今まで見たことのない笑顔に見えて・・・どきり、と胸が高鳴った。
「うん!楽しみにしてるね!」
私も笑ったけれど・・・うまく笑えただろうか?
以前みたいな引きつった笑いではなく、本当に笑えていただろうか?
「・・その前に、連弾ちゃんと仕上げるぞ」
「はーい」
私はそう言うと、ピアノの上の楽譜を眺めた。
「ちょっと弾いてくか?」
「うん!」
私と彼は、顔を見合わせて笑った。そう言えば子供の頃は、こんな風に笑ってたっけ・・・そんな過去を思い出しながら・・
杏樹の嫉妬、憲一さんの嫉妬。そして、その根底にあるもの。
他人に嫉妬されるほど愛されるのは悪い気はしない。
でも、杏樹と憲一さんの仲が険悪になるのは、嫌だ。
でも、ちゃんと理解できれば、嫉妬も、きっと形を変える。
そうであって、欲しい。
私にとっては、杏樹も、憲一さんも、掛け替えのない位、大切だから・・・
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師匠の教室の発表会は、12月最初の日曜日。
場所は、市民
会館・・・私が先日リサイタルを行ったのと同じ会場だ。
あの日は私個人のリサイタルで、客層も概ね大人ばかりだったけれど、今日は違う。
生徒は子供から大人まで、幅広い年齢層のせいか、見に来るお客様も、子供から大人まで、様々だ。
中でも、プログラムのかなり最初の方に行われる子供の演奏には、演奏する子供の保護者や祖父母、一族総出で見に来る。それはとても有難いことなのだけれど・・・
「・・・いつものことなんだけどなぁ・・・」
子供たちとその親で溢れかえってい楽屋を見て、私は閉口した。
楽屋は、ただっぴろい和室で、窓に面していて、とても明るい雰囲気だ。私がリサイタルの時に使わせてもらっている楽屋部屋は、ここよりも舞台の近くにある部屋で、ここよりもずっと狭く、畳敷きではなく、もうちょっと機能的で無機質な匂いがする。
この和室部屋は舞台から一番遠いけれど、舞台に近い部屋を子供用の楽屋にしてしまうと、子供達が騒いだ時、舞台に筒抜けになってしまう。そういった配慮ゆえだ。
これから舞台で発表をする小さな子供・・・下は幼稚園児から、上は小学3、4年生位まで・・・特に小さな子供は、一人でドレスや衣装に着替えられない子もいるので、保護者がつきっきりだ。
中には、もうすでに準備を終えて、退屈しはじめたのか、楽屋部屋をお友達同士でかけっこする子、携帯ゲームで黙々と遊んでいる子、真っ青な顔で楽譜を見ている子…様々だ。
「ほら、ちゃあんとして」
「大丈夫?ちゃんと弾ける?」
「ほら、リンゴ剥いてきたから、少し食べていきなさい」
子供たちを気遣う母親や家族・・・子供たちよりもそんな保護者の人数のほうが多くなっている楽屋部屋をみて、つい、眩暈を起こしそうになる。
中には、演奏する子供よりも母親のほうがよっぽど緊張しているような人もいる。
これを世の人々は、過保護、というのか、それとも世話を焼くのは当然、と思うのか、私には判らない。
毎年見る光景だけど・・・これを見ていると何とも言えない気分になって、この光景をまともに見ることが出来ない。。
いつもいつも、見ていると眩暈がする・・・
でも・・・
(そういえば、私には・・・こんな風に世話を焼いてくれる大人なんか、いなかったんだっけ?)
ふと、私が子供の頃の発表会の事を思い出した。
仕事が忙しい父は見に来てくれるはずもなく、同門の、私と同じくらいの年の子は、みんなパパやママが世話を焼いてくれていた。それを羨ましいと思う反面・・・歳を重ねるにしがたって、何とも思わなくなっていった。心が、麻痺していたのだろうか?
無機質に一人で着替えて、一人で身支度を整え、一人で舞台に立つ・・・演奏後も、家族が褒めてくれることもなく、抱きしめてくれることもない。その繰り返しだった。
私がそんな様子だったからだろうか? つまらなそうに見えたのだろうか? それとも余裕に見えたのだろうか?
いつごろからか、師匠は発表会当日の雑務を私にいろいろやらせるようになっていった。舞台そででの年少者の世話やアナウンスだったり、楽屋や控え室の雑務だったり、様々だった。
そして、そんな雑務をやるにしたがって、私自身無機質に、ある意味無感情に立ち、演奏し、通り過ぎていた舞台は、私一人でできるものではない、みんなで作り上げてくものだ・・・と気づくようになっていった・・・
誰かがお膳立てして、用意してくれた舞台に、私が立たせてもらい、演奏させてもらっている。私を見ているのは観客だけではない、舞台そでで雑用や裏方をしている人だって見ている。舞台の向こう側にも、こちら側にも、大勢の人がいて、発表会や舞台の成功は裏方さんの仕事の成果でもあるし、彼らなしでは私の演奏の成功もない・・・そう言ったことに気づき、自然に周囲に感謝できるようになっていった・・・
ふと、想いをあの頃から今に戻し、改めて周囲を見渡した。すると・・・その控室の一角に、杏樹がいた。
そのそばには杏樹のママもいて、杏樹の髪の毛を綺麗に櫛でとかしていた。その手元には、ドレスと同じデザインのピンク色の髪飾りがある。それを飾るみたいだ。
お母さんに身支度をしてもらっている杏樹の顔はとても嬉しそうで、その顔は私と向き合う時とは明らかに違った。
大好きなお母さんが来てくれて、支度してくれている・・忙しいお母さんが杏樹の為に時間を割いて、杏樹の側にいてくれている。たったそれだけの事だけど、杏樹にとってはとても重要なこと。
(重要なこと・・・か・・・)
ここにいる子供達も、その母親も・・・想いはそんなに変わらないのかもしれない。
今まで、子供と接する機会がほとんどなかった私にとって、この、子供より両親でごった返している楽屋を見るたびに、何とも言えない気分になった。
嫌悪感とも、羞恥とも、呆れとも違う、表現しがたい、まるで答えがわからない想い、そのものだった。
子供の気持ちも、その親の気持ちも・・・私のこの想いと一緒で、頭でわかっているだけで、理解など出来なかった。
でも・・・きっと・・・それは・・・
こんな風に世話を焼いてくれなかった私の父。
世話を焼いてもらって嬉しそうに笑っている子供。
そんな時代がもらえなかった私の。
(醜い嫉妬、だったのかもね・・・)
どんなに渇望しても、与えられなかったもの。
与えられない、手に入らないなら・・・いっそそれに関して考えることさえも辞めた、あの子供時代・・・
本番前の不安を吐露しても、受け止めてくれる両親がいない楽屋。
吐露すること自体、無駄だと言い聞かせて、考えることを辞めた。
周りはお友達とその家族でごった返していたのに、私の家族は誰もいなくて、一人ぼっちだった、楽屋・・・
私は大きく息を吐いて、気持ちを切り替えた。
楽屋の一角にはママに身支度を整えてもらいながらも、杏樹はほかのどんな子よりも嬉しそうで、本番前の緊張感など全く感じられない笑顔だった。
(大したもんだ。これから舞台に立つのに)
舞台に上がる緊張感で泣きそうな顔をしている子だっているのに・・・
私は、そんな杏樹と他の子達を横目に控室を離れ、自分の持ち場へと戻った。
一瞬、自分の冷たい子供時代にトリップした心を、現実に引き戻した。
去年の今頃は、正直、子供など好きではなかった。
こんな、子供とその親でごった返した楽屋も、
過保護なほど世話を焼く親も。
それを当然のように受け入れる子供も。
あまり好きではなかった。
でも。
杏樹と出会って、あの子に触れるようになって。
杏樹のママや、杏樹のお友達や、その想いに触れることも増えて。
その思いを理解するにしたがって。
私が子供嫌いだったのは・・・
「与えられなかったから・・・拒否したから・・・」
だった・・・
そう言ったことに、少しずつ、気づくようになっていった。
杏樹
たった一人の子供を通して見えたもの、気づけたことは、
結局自分の心の中を凝視するきっかけになっていた。
「さてと・・・お仕事に戻るか・・・」
私はすっと顔をあげて、現実の世界に戻った。
開演15分前。そろそろプログラムの最初に演奏する子供たちが舞台そでに集合する頃だ。
舞台そでに程近い廊下では憲一さんと他の裏方係が、プログラム片手に演奏者の点呼をしている。集合場所になっている舞台へと続く入口で、演奏者たちは付き添ってる親から離れる。子供は・・不安げな顔をする子、まるで遠足にでも行くかのように"じゃーねー"!と母親に手を振る子、様々だった。
中には、子供が心配なのか、舞台そで、演奏直前まで付き添いたい、と言ってきかない母親と、それを止める憲一さんがやり取りをしている。半ば強引に舞台袖に無理矢理割り込んで入ろうとしている母親を、憲一さんが宥めて客席へとお連れする・・・
これらも毎年の事だった。
そして杏樹も・・・
「じゃ、ママ、行ってくるね!」
いつもの笑顔に少し緊張した色が混ざった顔をして、ママに手を振っていた。杏樹のママも、「行ってらっしゃい」と笑顔でそう言って、手を振り返していた。
そして杏樹は、その手を振っているママにぱたぱたっと近づくと、ママの手のひらを、自分の掌でをぽん、っと叩いた。
まるでハイタッチするように。
その仕草に、杏樹のママは一瞬、驚いた顔をした。でも次の瞬間、とても嬉しそうに杏樹を見た。
「ちゃあんと見ててね!」
杏樹はそう言うと、今度こそ、舞台そででへと入って行った。
「杏樹、とってもいい子ですね」
私は杏樹のママにそっと近づき、囁いた。すると彼女は、ゆっくりとうなづいた。
「私には勿体無いくらい、いい子に育ってくれました。
・・・こんな母親なのに・・・こんな母親を慕ってくれて・・・
私の自慢の娘です」
その目は、少しだけ光って、潤んでいた。そして、まるで泣くのをこらえるように軽く首を振ると、私に
「杏樹をよろしくお願いします」
と、深く一礼すると、客席へと歩いて行った。
そして私もまた、その背中に深くお辞儀をした。
ここでの私の立場は、師匠の門下であり、門下の筆頭(私が言い出したわけではなく、周囲にそう言われているらしい)、師匠のアシスタント、という事になっているけれど、今日発表会に参加する生徒の中で、私が直接教えている生徒は杏樹だけだった。
アシスタント、というよりもむしろ、雑用係的な色合いが強い。
・・・憲一さんも、この発表会では、タイムキーパー兼ステージマネージャー、という立場になる。本番前に舞台入口に集合する生徒たちの点呼をとり、舞台そでまで連れてゆき、順番通りに舞台に出す・・・それが彼の仕事となる。
そして私もまた、演奏だけしていればいいわけではない。表向きは師匠のアシスタント、だけれど・・・
「桜さん! 開演10分前!」
「はーい!」
舞台そでを取り仕切る、やはり顔見知りな古参門下生に呼ばれて、私もまた舞台そでへと行く。そして、随分前から渡されている台本を脳裏で復唱した。
示された席に座り、持っていたペットボトルの水を一口飲み・・・そして音響担当の人に目くばせする。
音響担当者から合図が入り、私はマイクに向かって喋り始めた・・・
『本日は、橘音楽教室 第32回発表会にお越しくださり、誠にありがとうございます。・・・・』
私と同じ門下の2人、交代で今日の司会進行をすることになっている。私は、二部と三部で演奏があるので、第一部の司会のアナウンスを任された。本当だったら司会進行は師匠にやってほしいところだけど、師匠はいろいろ忙しくて司会までできない…という事で、アナウンスや司会も含めた発表会当日の雑用は古参門下と、門下生の保護者やボランティアにお願いしている。
私は、渡されたアナウンス台本を読みながら、ちらり、と舞台そでに用意された椅子に目をやった。そこには、舞台に立つのを待つ杏樹が座っていた。杏樹のプログラムは最初から三番目。杏樹と同じ一年生の中で一番最初に弾く。その前の二人は、杏樹よりも年下だ。
杏樹は、落ち着かないのか、椅子に座ったまま、相変わらず足をぶらぶらしている。顔はいつも通りに見えるけれど、その足のぶらぶら度合がいつもよりもすごい。足元に大道具類があったら、きっと足をぶつけて、大きな音を立てているだろう。
でも、それだけで、緊張しているのが、手に取るようにわかった。
ちょうど今、舞台では師匠が開演の挨拶をしている。師匠は、灰色がかったシルバーのシックなドレスを着ている。とっくに還暦を過ぎたはずだけれど、立ち居振る舞いは、同年代の人とは比べ物にならないくらい綺麗だ。
私は、そんな師匠の姿を舞台袖のアナウンス席から見ていたけれど、少ししてから席を立つと、舞台袖の隅の椅子に座っている杏樹の側に近づいた。
「あっ!桜先生!!」
私の姿を見つけると、杏樹はいつものあの大きな声でそう言った。慌てて、近くにいた係の人に『静かにして!』と注意されて、杏樹は"やっちゃった!"と言いたげに軽く舌を出した。
「杏樹、大丈夫?」
「うん、大丈夫!」
「弾けるね?」
「うん!頑張ってくる!」
そう言うと、杏樹は、一瞬、言葉を止めた。
「ねえ・・・桜先生?」
「なあに?」
周囲や舞台に影響が出ないくらい、小さい声で杏樹は私の耳元に口を近づけた。・・・そう、内緒話をするように。
「あたし、一生懸命頑張ってくる。
だから、見ててね」
「うん、ちゃんと、ここで見てるよ」
そう言った時、係の人に"桜さん、アナウンスお願い!"と呼ばれて、私はあわててアナウンス席に戻った。師匠の挨拶が終わり、師匠が舞台袖に戻ってきたのだ。
『それでは、プログラムに移りたいと思います。第一部は・・・・』
用意された台本を読みながら、私は司会進行をつづけた。
そして、何人か演奏した後・・・杏樹の番となった。
『プログラム3番 東野杏樹ちゃん。曲はドイツ童謡 ・・・・』
いつも通り司会の台本を読みながら・・・不思議な気分だった。他の子の曲目紹介をしているときは何とも思わなかったけれど、杏樹の紹介、そう思うだけで、ただの司会や曲紹介にも不思議と力が入った。
紹介が終わり、それでは、どうぞ、と、アナウンスを終わらせると、杏樹は舞台そでから舞台に出た。私は、舞台そでのアナウンス席から首を伸ばして、杏樹の姿を見守った。
杏樹は、舞台の中央の決められた場所で客席の方を向くと、深くお辞儀した。
それと同時に、客席からは柔らかい拍手が聞こえた。その音に驚いたのか、杏樹はびっくりした顔をしたけれど、そのままピアノの前に座った。
椅子に座って、ふう、と大きく息を吐くと、指を鍵盤の上に置いた。
(杏樹、頑張れ・・・・)
心の中で、祈るように目を閉じた。
正直、自分が舞台に立つときよりも緊張した。
生徒の舞台を見るのは初めてではない。他の音楽教室での発表会では、こんな風に生徒の演奏を聴くことはたくさんある。その時もどきどきするし、心臓に悪い。
でも、その比ではなかった。まるで自分が舞台に立っておぼつかなく弾いているような気分だった。
心なしか、私の指までガタガタと震え始めた。
ところが、そんな私の緊張など全く気が付くわけもなく弾き始めた杏樹は、おぼつかないながらも、曲を続けていた。
いつもは、足をぶらぶらさせながら落ち着きなく弾いているのに、そんな様子もなく、いつも間違えて曲が止まってしまう箇所も、止まることなく弾き続けた。
(しっかり!)
誰もが知っている童謡。右手でメロディー、左手で伴奏、基本的な技法だけが詰まった、入門的な曲。ピアノを習い始めた子供が、必ずレッスンで弾く曲だ。
杏樹は、緊張した面持ちで、おぼつかない手つきだった。それでも間違えることも曲が止まる事もなく、最後まで弾ききった。
気になっていた足のぶらぶらは・・・全くやっていなかった。それだけ、演奏に集中している、という事だろうか?
弾き終わった時、客席からは大きな拍手が沸き起こった。杏樹はびっくりしたように顔を上げて、ピアノの椅子に座ったまま、客席を見渡した。
初めて舞台で演奏した、そして初めて、自分一人に対して向けられた拍手、それらに戸惑っているようだった。
その戸惑いを隠せないまま、杏樹はピアノの椅子を立ち、決められたさっきお辞儀をしたところに立ち、もう一度お辞儀をした。
そして、決められた通り、舞台そで・・・私たちがいるところに向かって歩き始めた。その顔は、嬉しそうで、達成感に満ちているように見えた。
その時だった。
「杏樹!」
客席で杏樹を呼ぶ声がした。舞台そでから様子を見てみると、客席から舞台に走ってくる人がいた。
人・・・違う。
“子供達”だった。
そして、その子供達を率いている大人が一人。
(あれは・・・国仲先生っ?)
国仲先生だった。一体どこに座っていたのか、国中先生と子供達が、演奏が終わった杏樹に駆け寄ってきた。
その子供達は・・・会場が暗くて顔まではっきりとは見えなかったけど・・・そのほとんどが、見覚えのある子達だった。
運動会の時、夏休みのプールの時や夏祭りの時、顔を合わせた、あの杏樹のお友達たちだった。
そのみんなは、手元に小さな小さな花束を・・・花一輪とかすみ草が少しだけ入っている花を持っていた。
驚いたのは杏樹だ。一瞬何が起こっているのかわからないような顔をしていた。
でも、先頭を切って近づいてきた人が国仲先生で、その国仲先生が、舞台の上の杏樹に花束を差し出し、次から次へとお友達が笑顔でその小さな花束を手渡し・・・杏樹はやっと、緊張で固まっていた顔を嬉しそうに顔をほころばせ、その花束を受け取っていた。
あっという間に、杏樹の両手は、小さな花束で一杯になった。
客席からも、さっきとは違うどよめきと、好意的な笑い声が溢れた。
そして杏樹は、足取りがるく、私たちのいる舞台そでに戻ってきた。
(杏樹、よくやったね・・・)
正直、練習中は一度だってうまく弾けたことはなかった。間違えだらけで、途中で止まってしまう事が多かった。それが、本番の舞台でノーミスで演奏で来たのだ。私だって驚いた。
そして、国仲先生率いるお友達集団・・・改めて、杏樹とそのお友達、国仲先生の人間関係を垣間見たような気がした。
杏樹は、舞台そでに着くと、舞台をじっと見ていた私に駆け寄ってきた。
「さくらせんせいっ!」
駆け寄り、抱き付いてきた杏樹を、私は受け止めるように抱きしめ返した。杏樹が抱えているお花が潰れないか、一瞬不安になったけど、そんなの構ってあげられなかった。
「頑張ったね。杏樹
今までで一番上手だったよ!」
そう言いながら、よしよし、と杏樹の背中をさすってあげると、杏樹の背中はガタガタと震えていた。
「先生っ・・・せんせいっ・・・・・」
杏樹のその声は、泣きそうな声だった。
「すごい怖かったよ。足震えて・・・すごく緊張した!
でも、頑張ったよ!ちゃんと止まらないで、間違えないで弾いたよ!」
矢継ぎ早にそう言う杏樹に、私は、うん、うん、と頷きながら、ぎゅっと抱きしめ続けた。
「よく、頑張ったね!」
私は杏樹に、心からそう言った。ああ、もっと言ってあげたいこともあるのに、伝えたい事だってあるのに!
言葉が出てこない。胸がいっぱいで、言葉が見つからない。
見つからない代わりに。
私は杏樹を、力いっぱいぎゅっと抱きしめた。
せめて、言葉にならない想いが、伝わるように。
杏樹も、そんな私に気づいたのか、それとも驚いたのか、抱きしめる私に、されるがままだった。
「桜、司会進行。忘れてる?」
私と杏樹の、ずっと続きそうな抱擁は、舞台袖で一緒に裏方をやっている人に、そうささやかれるまで続いた。そして、言われた私ははっと我に返った。
「ごめん! 杏樹、またあとでね!」
「うんっ!」
そう言うと、私は杏樹を離し、マイクのスイッチを入れ、自分の仕事に戻った。
そのあとは、不思議と軽い気持ちで司会進行が出来た。まるで自分自身の本番が終わった直後のようだった。
第一部が無事終わり、休憩時間になった。
私が司会を担当する第一部は、主に幼稚園児から小学3年生位の子までの発表だ。
そのあと、休憩を挟んで第二部になる。第二部は、小学生の4年生以上の生徒と、後半に連弾の発表、第三部は音大生と大人、師匠と私、それぞれの模範演奏になる。人数的には第三部に出る人は少ないけれど、演奏する人たちは上級者が多く、演奏曲も難曲、長い曲が多い。一番聴きごたえがあるけれど、杏樹たちのような子供には退屈だろう。
他の発表会では、自分の演奏が終わったら、子供は帰っても良い・・・としているところもあるけど、師匠の教室では“他の人の演奏を聴くのも大事なレッスン”という師匠の考え方に基づいて、全員、最後まで演奏を聴くことになっている。それと一緒に会場でのマナーや演奏を聴く時のルール、会場での約束事も叩き込まれる。
私は第二部の連弾と第三部の模範演奏に出ることになっている。
第二部の連弾は・・・憲一さんとのあの連弾、"仮面舞踏会"だ。
司会の仕事を終え、休憩時間になると、私は他の進行係と交代して、そのまま楽屋へと走り、ドレスに着替えた。
大人っぽい、シックな曲、"仮面舞踏会"らしく、落ち着いたワインレッドのドレスを選んだ。
髪も、結い上げてドレスと同じ色合いの、シンプルな髪留めで手早く夜会巻きにして、毛先を軽く片方の肩から胸元に垂らすようにして整えた。
すっかりと身支度を整えてリハーサル室へ行って、軽く指慣らしをした。うん、大丈夫。いつも通り動いている。
本番前の緊張は、殆どない。むしろ、憲一さんと連弾が、楽しみで仕方がなかった。
不思議と足取り軽くリハーサル室を出て、楽屋を歩き回りつつ・・・舞台そでに戻り、舞台そでから客席をのぞいてみた・・・そう、軽い気持ちで・・・
客席には、見覚えのある人がたくさんいた。師匠と同門の弟子のご両親や、知り合いの人。様々だった。
そして、その客席の一角には・・・
「あ、国仲先生だ・・・」
さっき、杏樹に花束を渡していた国仲先生がいた。国仲先生の周りには、杏樹の友達が、集まって座っていた。みんな、学校にいるときとは違うおめかしをして、楽しそうに談笑していた。
女の子だけではない。その集団の中には男の子もいた。見覚えがある子だったけど、一瞬名前が思い出せなかったけど、
いつも杏樹と一緒にいる女友達とは違うけれど、 運動会や夏祭りの時・・・見かけた子だった。
(たしか・・・コウ君?)
そう、あの、杏樹が「大好きな人」と言っていた子。幼稚園の頃からずっと一緒だった、と言っていた、あの子だった。
「お友達総出で・・・来てくれたんだね」
初めての発表会で、お友達が沢山、聞きにきてくれた、という現実、杏樹がそんなに愛される存在だ、ということがとても嬉しくて、思わず顔が綻んだ。
そして、その集団を引率するように座っている、国中先生・・・
運動会以来だ。その国仲先生は、相変わらず人懐っこい表情で杏樹のお友達たちと何やら話をしていた。きっと、杏樹に発表会の事を聞いて、お友達を引率して聴きに来たのだろう。あの人なら、それくらいやってのけてしまう。
(・・・・国仲先生ったら・・・)
少しだけ呆れながらも、来てくれたことが嬉しくて、私が見ていることに気づいていないのをいいことに、そんな先生を眺めていた。
そして・・・少しだけ、視線をずらすと・・・・
(えっ?)
ある人を見つけた。次の瞬間、身体にぞくり、と鳥肌が立った。
見覚えのあるイケメンな顔立ち。それでも冷たくて・・・近づきたくない空気感・・・
この前の私のリサイタルにも来ていた・・・あの人に腕を掴まれて、鳥肌が立った。そして・・・
後から後から思い出す、あの日の嫌な記憶・・・
殴られかけた、あの恐怖。恐怖で足がすくんで動けなくなった、あの瞬間・・・
そう・・・杏樹のパパ・・・確か・・・晃也さん!
いったいどうして彼がここに? そう思ったけど、すぐにその理由に思い当った。
(杏樹だっ!)
この前、私は晃也さんの以来・・・杏樹を説得してほしい、という依頼を断った。だとしたら、次にあの人が杏樹を引き取るためにやることと言ったら・・・
(杏樹本人との接触?それとも・・・まさか・・・)
そう思った瞬間、私は周囲を見渡し、憲一さんを探した。
今、晃也さんを、杏樹や杏樹のママに会わせちゃいけない! 本能に一番近いところでそう思った。
特に杏樹のママは、きっとあの人には会いたがらない! 運動会の日、あの晃也さんが運動会に来ていた事を知ったときの杏樹のママ・・・顔が真っ青で、酷く怯えていた。
DVを受けた相手との再会を、杏樹のママが望むわけがない!
ううん。それ以上に!
(絶対会わせちゃだめだ!)
私は舞台そでから出て、憲一さんを探し回った。
憲一さんは、指定された控え室にいた。そのドアをノックして、そっと開けると、憲一さんと、あと数人の男性がいた。今日の第二部で演奏する学生さんだったり、三部で演奏する大人の人だ。
憲一さんは、その人たちと談笑しながら身支度を整えていた。
「憲一さんっ!」
彼は黒の背広にネクタイ、といった姿だった。一瞬、その姿がとても素敵で見とれたけれど、今はそんな暇はない。
「どうした?桜?」
彼はいつもとさほど変わらない様子で、ドアの所にいる私の所に近づいてきた。彼の表情は笑っていたけれど、私の方が平常心ではなかったのだろう・・・すぐに彼の表情が変わった。
「・・・どうしたんだ?」
「・・・客席に、杏樹のパパがいたのっ!」
その一言で、私が何を心配しているのか、気づいてくれたみたいだった。彼も表情が変わった。
「晃也・・か・・・」
そうつぶやいた彼に、私はつづけた。
「杏樹のパパを、杏樹や杏樹のママに会わせたら駄目だよ・・・ね?」
「ああ・・・そうだな・・・」
憲一さんは頷いた。
「東野は、晃也に会って杏樹の事を話し合うのを今でも拒否している。DVの事もあったし、奴とまともに会って冷静に話す事さえ出来ない。杏樹の事については、弁護士に全部委任している位だ。
その弁護士と晃也との話も平行線のままだ。晃也も絶対に諦めないと息巻いてる位だ。
このまま、東野が杏樹の親権と保護権を主張していれば、晃也には何の権利も移らないし、晃也が杏樹を引き取る申し出は棄却されるはずだ。
でも・・・もしも、杏樹が、晃也と一緒に暮らすことを望んだら・・・話は別だ!
晃也は・・・それを狙っている。
晃也は、杏樹に意思確認することを望んでいる。でも、東野はそれを承知していない。
それでも晃也は杏樹と接触して、表向きは杏樹の意思確認するつもりだろうけど。
晃也の事だ。東野のいないところで杏樹を脅迫しかねない!」
杏樹のパパは以前、杏樹のママと杏樹にも暴力をふるった・・・と聞いている。杏樹はそのことを覚えていないけれど。
そして、以前、私に杏樹の説得を頼んで、私が拒絶したときもまた・・・すごい剣幕で私に手をあげた。あの時は憲一さんが助けてくれたけど・・・
あれと同じことを、杏樹のパパは杏樹にするつもりなのだろうか? もしも杏樹が、パパから"一緒に暮らそう"と言われて、それを拒否したら・・・杏樹にも手をあげるのでは?
そう考えた途端、背中がぞくり、と恐怖で冷たくなった。そして、それは憲一さんもそう思ったのだろう。
「杏樹は?どうしてる?」
「・・・一部が終わったから、客席にいると・・・思う。ママと一緒だと・・・」
「あの二人だけじゃ駄目だ! 晃也が来たとき、東野一人じゃ対処できないっ!」
憲一さんは断言した。
「憲一さん・・・杏樹たちの側にいて!そうじゃないと・・・」
もうすぐ第二部が開演だ。第二部は私たちも演奏するので、舞台そでにいないといけない。でも、杏樹と杏樹のママをあのままにはできない。
そして、晃也さんに対抗できる人がいるとしたら・・・憲一さんだけだろう。私のリサイタルの時も・・・あの晃也さんが暴走したとき、それを止めてくれた。憲一さんが、杏樹たちの側にいてくれたら・・・
「二部の連弾、どうする気だ?」
「もしも必要だったら・・・師匠に言って、連弾取り消しにしてもらおう。憲一さん、杏樹の側に・・・」
そばにいてあげて! そう言おうとしたけれど。
憲一さんは首を横に振った。
「駄目だ!」
「憲一さんっ!」
「・・・・・桜?」
すると憲一さんは、心持ち落ち着いた顔で、私を見つめた。
「・・・今、すべきことは、それじゃない筈だろ?」
そんなこと、重々承知だ。でも。杏樹と杏樹のママに何かあったら・・・
「このために、本番反故には出来ないだろ?」
そう、判ってる! でも・・・
すると憲一さんは、冷静さを失った私をまっすぐに見つめながら、まるで言い聞かせるように言葉をつづけた。
「・・・俺にだって・・・
譲れないものがあるんだ」
静かに、そう言った。そして。
「確かに、俺、東野から、晃也のDVの相談は受けた。
東野が晃也にどんだけ酷いDV受けてたかも・・・知ってる。
だからこそ・・・東野が可哀想で・・・出来る限り力を貸すって約束した。
でも」
彼は、一瞬、目を閉じた。そして、何かを決心するように、再び目を開いた。
「俺にだって、譲れないものがあるんだ。
今日のお前との連弾を反故にしてまで、東野の側にはいられない」
「だって!」
「今の俺にとっては・・・・」
絞り出すような、少し苦しそうな声で、彼はつづけた。
「俺にとっては、東野との事より、今日の桜との連弾のほうが、大切なんだ!
東野の事は・・・連弾が終わった後だ」
そう、断言した。
それは、暗に。
"杏樹のママよりも桜のほうが大切だ"
そう言われているみたいで。
今まで、・・・あの想いを確かめたあの日以来・・・あまり想いを口にしてくれなかった憲一さんが、ちゃんと口に出して、杏樹のママよりも私を選んでくれたのは、
嬉しいのに。
有頂天になってもバチは当たらないと思うのに。
素直に喜べなかった。
だって、喜べるわけがない!
そんなことよりも、あの杏樹のパパが、杏樹と接触して、もし万が一、杏樹のパパが杏樹に暴力をふるうような事態になったら・・・
パパの事を大好きな、杏樹の気持ちはどうなるの?
パパのDVの記憶がない杏樹。パパの事をいまだに好きな、杏樹の気持ちは・・・?
そう思ってはみても。
憲一さんの決心は強く、それを翻させるのは、私には無理だった。
それに・・・私だって、判っている。
今が本番前で、立場上、その演奏を取りやめにできる立場ではない、という事くらい・・・
少し冷静になれば、そんなことちゃんと判る。
でも・・・
それじゃあ・・・
どうしたらいい?
どうしたら・・・杏樹と杏樹のパパの接触を防げる?
私や憲一さん、杏樹のママ以外、せめて、事情を知っている誰かが杏樹たちの側にいるだけでもいい。
誰か・・・誰か・・・
名案が思い付かないまま、私は楽屋から客席へと向かった。せめて、杏樹のママに、晃也さんが来ていることを知らせれば、どうにかなると思った・・・
客席を見渡し、杏樹たちを探したけれど、客席は生徒とその保護者や家族でほぼ満席。杏樹1人を探すのは至難の業だった。
(どうしよう・・・)
時計を見ると、もうすぐ第二部が開演する。そうなったら、私は舞台そでに戻らなきゃいけない・・・
(どうしよう・・・)
脳裏には、この前のリサイタルの時に、晃也さんに殴られかけた時の事がよみがえった。
(どうしよう・・・)
あの恐怖、あの男に殴られそうになった瞬間の、体がすくんで動かなくなるようなあの恐怖!・・・あんなのを杏樹に味わわせたくない!
どうしたらいい? どうしたら・・・・
そう思っていた時、視界の端に、見覚えのある人が映った。
「国仲先生っ!」
見つけた途端、私は思わず叫んでいた。一瞬、周囲の視線が私に集まったけど、それは一瞬だけだったし、そんなものを気にする余裕もなかった。
「あ、桜先生だ!」
「桜先生、こんにちは!」
「先生もピアノ弾くんですか?」
国仲先生の側に座っていた杏樹のお友達が、少し離れて立っていた私を見つけて、口ぐちにそう言ったり、手を振ったりしてくれた。私たちは彼女たちに、作り笑顔で答えながら、国仲先生に足早に近づいた。
「国仲先生っ!」
そう呼ぶと、先生は私の方に振り向いた。と同時に、驚きと笑顔の混ざった表情になった。
「桜先生! こんにちは!」
「こんにちは。今日はお越しくださり、ありがとうございます」
とりあえず、聞きに来てくださったお礼を言うと、先生も笑顔で、すっとお辞儀した。
「いいえ。杏樹が発表会の事を教えてくれたんです。お友達にも話していたみたいで・・・来たいって言っていたので、みんな連れてきちゃいました」
連れて来ちゃいました・・・ その国仲先生の軽い言葉に軽く眩暈がした。
そうだ、この人は・・・私の知っている“小学校の先生”という枠組みから少し外れているんだった。先生なのに先生っぽくない、まるで歳の離れた、理解のあるお姉さんような人だった・・・
きっと、この先生の事だ、後に問題にならないように事前に根回りもしっかりしているに違いないし、ここにいる子供たちの保護者の了解も全部得ているような気がする・・・
「桜先生も連弾するんだよって言っていましたよ・・・それで・・・」
国仲先生は嬉しそうに話を始めた。話好きな先生の事だ、杏樹の事や私の事、いろいろ話したかったに違いない。
でも、私はそれよりも早く、先生に小さな声で事情を話した。
杏樹の家の事情は、国仲先生も知っているらしく、杏樹のパパの事を口に出した途端、国仲先生の表情が固まった。物分りの良い親しみのある笑顔が消え、すっと真面目な顔・・・教師の顔になった。
「杏樹のパパが・・・来ているんですか?」
国仲先生の問いかけに、私は頷き、客席の一角を視線で示した。同じ方向を国仲先生が見た・・・どうやら国仲先生、杏樹のパパの顔も知っているらしい・・・そういえば、学校にも何度か、杏樹のパパは来ている・・・と、憲一さんが話していたっけ・・・
「確かに、杏樹のパパですね・・・」
小さな声で、国仲先生が言った。私は頷き、国仲先生に、そっと耳打ちした。
私の耳打ちを受けて国仲先生は頷き、"わかりました"と、了承してくれた。そして、あたりをくるりと見渡し、周囲にいる杏樹のお友達に笑顔で声をかけた。
「みんな、あそこに杏樹と杏樹のママがいるからみんなでそっちに席替えしましょう!」
そう言うと、杏樹のお友達たちは、はーい!と元気な返事をした。
「あ、本当だ、杏樹がいるよ!」
「本当だ! 杏樹ちゃーん!」
子供達は杏樹と杏樹のママをすぐに見つけ、ぞろぞろとそちらへ移動して行った。その背中を国仲先生は追いかけはじめた。そして、私の方に振り返り、にっこりと笑った。
"任せてください!"
先生の表情はそう言っていた。そして杏樹たちの座る席へと向かった。
国仲先生は、杏樹と杏樹のママの席へと向かうと、二人に挨拶をしていた。そしてお友達たちは杏樹の周りに集まり、口々に何か話している・・・みんな楽しそうな笑顔で、杏樹も、それに驚いたような笑顔で答えていた。
そしてみんなは、杏樹たちの座っている周囲の空席に陣取って座った。杏樹母娘は笑顔で、国仲先生やお友達と何やら話している。杏樹のママも、国仲先生の存在に、随分安心した顔をしているようように・・見えた。
これで、多分大丈夫・・・私は確信した。
私は、国仲先生に、"杏樹たちの側にいてほしい・・・"とお願いした。杏樹の両親の事情を知っている国仲先生。私の心配を正確に理解してくれて、私の頼みを聞いてくれたのだ。
(よかった・・・)
私はほっと胸をなでおろし、杏樹達が座る席をもう一度、見届けると、客席を出て、楽屋の方へと戻った。
舞台そでに戻るのと同時に、第二部開演のブザーが、客席と舞台そでに鳴り響いた・・・
舞台そでには、憲一さんがすでに身支度を整えていた。
「桜・・・」
心配そうに私を見る憲一さんに、私は少しだけ、笑った。
「杏樹と杏樹のママの事は、国仲先生にお願いしたよ。
誰かがついていたほうが、いいでしょ?」
「ああ・・・ありがとう」
「いいよ。私がやりたいから、やったのよ」
そう会話を交わしたけれど、私たちの間は、少し、気まずい空気だった。
その空気は、以前は私たちの間に当然のようにあったものだし、それにたいしてなんともおもわなかったけれど。
今は、この空気が以前以上に心地悪かった。
「憲一さん・・・」
その居心地悪さに耐えられなくなって、私は彼を見上げた。
「・・・・」
彼の返事は、ない。ないままに、私は彼を見つめたまま、言葉をつづけた。
「私ね・・・
この前、杏樹のパパに殴られかけたの」
「・・・知ってる」
「憲一さんが・・・助けてくれなかったら、殴られてた」
今でも、あの時の事を思い出すと、恐怖で足がガタガタと震える。
「杏樹のママは・・・あの恐怖に、ずっと耐えていたんだよね?」
あんな恐怖、日常的に感じていたら・・・そう考えただけでぞっとする。
ましてや、実際にあんなふうに暴力を振るわれたら・・・
「私、嫌だよ。
杏樹と杏樹のママがあんな目にあうの、見たくなんかない。
だから・・・私にできること、やる」
そこまで言うと、私は少し、目を閉じた。そして、軽く息を吸って、吐いた。
「憲一さんも・・・そうだったんでしょ?
杏樹のママが暴力振るわれるのが嫌で・・・力を貸しているんでしょ?」
そう聞くと、憲一さんは呆れたようにため息をついた。
「まあな。
東野とは長い付き合いだったし。
東野にとっても、晃也との事を相談できる他人って・・・俺しかいなかったんだ。
東野と晃也、両方を知っていて、両方とそれなりに親しかったのは、俺だけだった」
そう言うと、彼は私の顔を改めて、見据えた。
「・・・でも。
お前、俺と東野の事、誤解してるだろ?」
「誤解・・・?」
聞き返すと、憲一さんは呆れたように笑った。
「晃也の事が片付いたら、俺、東野と結婚するって・・・思ってんだろ?」
「あれは、杏樹のパパがそう言ったから・・・」
そう、この前のリサイタルの後、杏樹のパパにそう言われたのだ。
それに・・・
ううん、それがなかったとしても。
杏樹のママと憲一さんが一緒にいるところを見てしまうと、思い知ってしまう。
・・・ああ、この二人は、私なんかが入り込めない位、長い、二人だけの時間を共有してきたのだ、と・・・それはまるで恋人同士のような空気で・・・私なんか、敵うわけがないと・・・思ってしまう。
「・・・もう、俺は」
憲一さんは、静かな声で、私を見つめたまま、言葉をつづけた。
「・・・お前に、悲しい想いさせたくない」
静かだけど、決意に満ちた声だった。
「散々お前には、嫌な想い、させ続けてたから。
今更、それをなかったことには出来ないけどさ。
せめて・・・」
・・・彼はそこで一瞬、言葉を止めた。でも、その沈黙はすぐに破られた。
「悲しい顔させたくない。
俺が、これから先・・・最悪、東野に関わりつづけることで、お前がまた嫌な想いするなら・・・
俺は、東野との関係を、切る」
そこまで言うと、憲一さんは言葉を止めた。
「憲一さん・・・」
それを聞きながら・・・憲一さんの気持ちは、本当にうれしかった。
嬉しいけれど・・・私の望みは・・
憲一さんと恋人同士になりたかった、という、叶うわけのない望みがかなった今。
私がかなえたいことは・・・
次に、叶えたいことは・・・・・
のど元まで出た言葉を、彼に伝えることはできなかった。
遠慮したわけじゃない。
ただ、今の彼との関係は、とってもとっても。・・表現しきれないほどうれしいのに。
有頂天になって喜べなかっただけだった。
"さくらせんせい!"
脳裏に浮かんだのは、杏樹の、あの明るくて甘い声。
あの子のあの笑顔が晃也さんのせいで、泣き顔になってしまいそうな・・・そんな不安ばかりが、どんどん膨らんで、頭の中から少しも消えなかった。
「ねえ、憲一さん」
舞台ではすでに第二部が始まっている。舞台では、さっきの子供達よりも少しだけ大きな子供達が演奏していた。さっきまではおぼつかない演奏だったけれど、今聞こえる演奏は、さっきよりも随分落ち着いて聴けるものだった。
舞台そでで、そんなに大きな声で話などできない。だからさっきから私も彼も、舞台そでの隅、他の人の邪魔にならないところで、声を潜めるように話をしている。
「なんだ?」
憲一さんは、私の顔を覗き込んだ。私たちの目の前では、本番を待つ子供たちと、裏方をやっている人がうろうろしている。裏方さんの仕事の邪魔にならないように、壁側の隅に並んで寄りかかっていた。
「子供の頃のことって、覚えてる?」
「子供の頃?」
彼の問いに、私は頷いた。
「うん」
あの頃の・・・憲ちゃん、と呼んでいた頃の私・・・
「私、あの頃の私じゃないよ?」
「・・・」
「あの頃みたいに子供じゃないし、年取ったよ」
憲一さんは、何も言わずに、私の話を聞いていた。
「あの頃みたいに、純粋じゃないし、欲深くなった。それに・・・我儘になったよ?」
そう、大人になるに従って、求めるものも、欲しいものも増えた。それは物欲のように分かりやすいものではなく、目に見えないものばかり。それだけに厄介だ。
「大人になると、我儘になるね。
・・・憲一さんに、譲れないものがあるように。
私にだって、絶対に譲れないものが、あるんだ」
「桜・・・」
「憲一さんと、こうして昔みたいに向き合えるようになったのは、とっても嬉しいんだ。
でもね。私は・・・」
「うん・・・」
憲一さんは、静かに私の言葉を聞いてくれている。
「あの頃みたいに・・・
憲一さんだけで満足できるような・・・無欲な子供では、いられないみたい」
そう言い切り、再び彼を見ると・・・彼は相変わらず、私をまっすぐに見ていた。それは私の話を待ってるみたいにも、見えた。
「演奏者として、師匠の弟子として、教える立場として、今すべきことは判っている。それをおろそかに出来ない」
これは、ピアノを生業として生きている私の、欲であり、我儘。
でも、それだけじゃ飽き足らない。
「でも・・・私にも、ね。
貴方と同じで、譲れないものが、あるんだ」
「杏樹・・・か?」
彼に、私は頷いた。
「私、あの子が・・・杏樹が大好き。
あの子が、私の近くで笑っていてくれるのが、大好き。
ずっと、私が、目、そらしたまま、見て見ぬ振りして忘れていた感情、思い出させてくれたのは、あの子なの。
私も・・・あの子の側にいると・・・笑顔になれるの。
だから・・・」
人は本当に厄介で。自分の本心さえ、気づくのに、途方もなく時間がかかる。
私もまた、例外ではないみたいだ。
「杏樹の泣き顔なんか、見たくないの。
だから・・・杏樹のパパと杏樹、会わせたくないんだ。
杏樹に、あんな怖い思い、させたくない。
そりゃあ、さぁ。杏樹のパパが、杏樹に手を上げるとは限らないよ?実の親子だもん・・・無抵抗な、何も悪いことしていない実の子供に、暴力振るうとは限らない。でも、何か最悪な自体になった時に・・・」
私は、いったん言葉を切った。そして、自分の心に確認するように・・・つづけた。
「私が何もできないのは、嫌。
それに、あの子が泣くのは・・・もっと嫌だ。ここが・・・」
私は自分の胸に掌を当てた。
「ここが、痛むの」
そう。胸が・・・痛む。
例えばそれは、憲一さんへの想いから目を逸らした時に感じた痛みにも似た、痛みで。
杏樹の泣き顔を思い浮かべるだけで、胸が酷く痛む・・・
泣きたくなるほど、痛くなる・・・
「だから・・・」
だから・・・
杏樹のためにできることが私にあるのなら・・・やりたい。
それは、言葉にはならなかった。
「判ってる」
その言葉を、私が言うよりも前に、憲一さんはそう言うと、軽く私の頭を撫でた。結って整えた髪が崩れないか、一瞬心配になったけれど、そんなことを気にするよりも先に、憲一さんは、言葉を続けた。
「判ってるつもりだ」
<br />
そう言うと、彼は少し柔らかく笑った。
「俺も、残念ながら、あの頃みたいに物分かりのいいガキじゃないんだ。
我儘になったし、多分、今のお前以上に強欲だ。
だから、欲しいものも、全部手に入れる。そのためにすべきことも、全部、やってみせる。
お前との連弾も。
助けるって決めた東野も杏樹も。状況が許す限り、守ってやりたい。
勿論、桜、お前も・・・
<br />
手放すつもりも、見捨てる気はない。
だから心配するな。
お前は安心して・・・連弾と、お前自身の演奏の事だけ、考えてろ」
そこまで言うと、彼の顔は一瞬、私に近づいてきた。
(えっ!)
びっくりして声をあげそうになった次の瞬間。頬に、生暖かい感触が・・・触れた。
彼が、私の頬にキスしていた。ほんの一瞬の出来事だった。
「ぶ、舞台そででなにすんのよ!しかも本番前っ!」
びっくりしてそう彼に言うと、彼は涼しい顔で笑った。
「何って、キス。
口の方がよかったか?」
「そ、そ、そ・・・・」
そういう問題じゃないでしょ!
本番前の舞台そでで何すんのよっ!
そう怒鳴ろうとした私の唇に、今度は彼の唇が一瞬、触れた。口封じ、とでも言いたげに。
「いちいちキスくらいで騒ぐな。
・・・言っただろう?俺はお前以上に強欲で我儘なんだ。
もう一度言っておく。
東野とのことで、お前を手放すつもりもない。
東野達を見捨てるつもりもない。
東野と晃也のことのけりがついたら、俺は東野達の前から姿を消すつもりだ。
それまで、もう少しこのままでいてくれ」
そう、耳元で囁くと、彼は何事もなかったように、舞台袖から出ると、離れたところにいる知り合いと話しに行ってしまった。
取り残された私は、まだ熱の残る唇に手をあてながら、へなへな、と床に座り込んでしまった。
「何ッ・・・考えてんのよっ・・・」
最後に言っていたことは、納得いく、彼の本心からの言葉に聞こえたのに。
その前のキスの感覚が体から離れず、再び顔に熱が上がった。
「憲一さんって、あんな性格だったっけぇ?」
その呟きに、答えてくれる人は、誰もいなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
舞台そででの動揺はあったけれど。
それでも私たちの連弾直前、舞台そでで再び顔を合わせたときは、私たちは、まるで何事もなかったように向かい合っていた。
直前だからと言ってさしてたくさんな会話があるわけではない。それは私も彼もそうで。
正直、さっきあんな事したくせに、そんな空気どこへやら。彼の心の中、何が一番占めているのか、読み取ることなど出来ない。
お互い、顔を見合わせて、どちらからともなく頷いただけだった。
"プログラム25番 橘憲一 叶野桜。 ハチャトゥリアン作曲"仮面舞踏会"よりワルツ"
曲紹介のアナウンスを聞き、私たちは舞台そでから舞台に出た。
コツン、コツン、コツン・・・不思議と、私と彼の足音だけが、いつも以上に大きな音に聞こえた。
そして、決められた場所に立ち、客席に立って、深くお辞儀をした。
顔をあげた瞬間、一瞬客席を見渡すと、探すまでもなく、杏樹たちが座っている一角が視界に入ってきた。
杏樹は、真剣な顔で、舞台に立つ私たちを見ていた。
国仲先生も、杏樹のお友達も、私たちを見ていたけれど、杏樹だけは・・・その表情から違った。
その眼に、私は少しだけ笑みを見せた。多分それは・・・普段杏樹には見せない笑みだったかもしれない。
きっと、優しい、お姉さんみたいなピアノの先生、とは違う表情だっただろう。笑ってはいたけど、手放しに嬉しい笑いではない。舞台用の作られた笑顔。でも、自信に満ちた笑顔・・・
舞台に上がって人前で演奏するときにする、作り物の、笑顔・・・
そして、私と憲一さんは、それぞれピアノの前に座って準備をし、鍵盤に指を置いた。
どちらからともなく視線を合わせ、軽く頷くと、曲を始めた。
連弾をすることが決まってから、何度となく彼とは練習した。とはいえ、お互い仕事があるので、満足な練習時間など取れなかった。
それでも・・・
『1人の演奏家として、"演奏家 叶野桜"と、ちゃんと向かい合いたい』
『俺にだって、譲れないものの一つや二つ、ある』
そう言っていた彼、その彼の気持ちは、恋愛感情抜きにしても、とてもうれしかった。
だからこそ・・・その気持ちにはしっかりと答えたい、と思った。
私と憲一さん、それぞれお互いに対する恋愛感情とか、抱えている、背負っているものがある。
でも、今はそんな事関係なく。
ただ、一緒に舞台に立って演奏している。それだけだけれども。
それが出来る、という事事体が、他の何にも代えがたい程、嬉しかった。
だからこそ・・・私も・・・彼と対等に舞台に立ちたかった。
それが、今、ここで彼に対して出来ること・・・
曲は、3分ちょっとで終わる、そんなに長い曲ではない。
でも・・・考えている以上に、あっという間に終わった。
最後の音を弾き終わり、鍵盤から指を下した瞬間。
客席はシーンと静まり返っていた。
私と憲一さんは、どちらからともなく立ち上がり、客席に向かって一礼した。
すると。
水を打ったように静かだった客席からは、拍手が沸き起こった。
その拍手は、私にとっては聞きなれたものだったけれど。
隣に立つ憲一さんは、酷くその拍手の音に驚いたようだった。
(?)
どうしたのかと思って、ちらり、と彼を顔を見ると。
「・・・拍手って、こんなに大きくて、身に染みるんだな・・・」
彼は、私にしか聞こえないほどの小さな声でそう言った。
「・・憲一さん・・・?」
「忘れてた、って事。
舞台に立った時の気持ちとか、さ。
ずっと立ってなかったから。
・・・ずっと俺はさ。
お前や母さんが舞台に向かってく背中しか見てなかったんだな・・・」
「背中・・・?」
「ああ。
舞台に向かうお前の背中を舞台そででずっと見てた。
それで、お前と同じ場所に立ってるつもりだった。
・・・でもさ。「つもり」だっただけだったんだな・・・
何にもわかってなかったな・・・」
何が? そう聞きたかったけれど。
彼はまっすぐに舞台そでへと戻って行った。
その姿を見て、私も慌てて彼を追った。いくら声を潜めているとはいえ、舞台の上で話す事ではない。
舞台そでに戻りながら、舞台そでで裏方をやってくれている人たちの"お疲れ様"という言葉を聞きながら、彼の言葉を反芻した。
そういえば憲一さんは、もうずっと何年も、舞台には立っていない。こうして裏方の人たちと一緒に、舞台そでで演奏を聴く側の人だった。
『背中しか見ていなかった・・・』
それはもしかしたら
裏方をやってくれていた彼なりの葛藤であり、コンプレックスだったのかもしれない・・・
かつては、発表会の舞台に立っていた彼、今は裏方に徹している。その心中は計り知れないし、彼が何を思って裏方をやっていたのか、なんて私には想像することしかできないし、判らない。
でも。
今まで、付き合う前まで、私たちの間にずっと漂っていた、無機質、無感情な空気は。
もしかしたら、彼の裏方なりの葛藤も、あったのかもしれない・・・
『1人の演奏家として、"演奏家 叶野桜"と、ちゃんと向かい合いたい』
いつか言っていた彼の言葉を思いながら、私は、舞台そでを出てゆこうとする彼の背中を見送った。
舞台に立つ私と、裏方を主にこなしていた、彼。舞台に立つ私とは違う・・・あるいは理解できない葛藤が、彼にもまた、あるのだろう・・・
(理解・・・出来るようになんなくちゃね・・・)
さっさと舞台そでを出てゆこうとする彼の背中を見送りながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
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発表会は、やっと全てのプログラムが終了した。
問題が起きることもなく、演奏を無事終えた子供達は、みんな笑顔だった。
全てのプログラムが終わった後、私は少し時間をもらってロビーへと向かった。
ロビーには、今日演奏した生徒たちがまだ残っている。両親や家族と帰ろうとする子、聴きに来てくれた知り合いとお話をする人・・・人混みでごった返している。
私も、師匠の門下生やその保護者に捕まっては話し、また捕まって・・・を繰り返していた。
立場上、私は今、師匠の門下で一番在籍年数が長くて、ピアノを弾くことや教えることを仕事にしていた。門下で私以外、そうった人はいなかった。
そのせいか、挨拶しに来てくれる生徒の母親が多くて、足止めを何度もしたけれど。
そんな人ごみをかき分けながら、杏樹はどこ?焦って探した。でも、こういう時に限って見つからない。
その時。
「桜先生!」
そう呼ぶ声がして、その声の方に振り向くと、その人混みの向こうに、杏樹が立っていた。
そして、私の方を見て手を振っていた。
「先生っ!こっち!!みんな来てくれたんだよ!」
ロビーに響き渡るほどの大きな声で、私だけでなく、周囲のみんなも、一瞬、杏樹の方を見た。杏樹の周囲には、杏樹のママや国仲先生は勿論、杏樹のお友達が数人、集まっていた。
「国仲先生まで来てくれたんだよっ! この前ね、国仲先生に発表会に出るんだよって言ったんだ!そうしたら来てくれたの!」
「・・・みんなも?」
私は、杏樹の周囲にあつまるお友達を見渡した。
すると、その中の一人が頷いた。
「うん! そうだよ。
でもね、それだけじゃないんだよ!」
その子はそう言うと、少し離れたところにいる男の子を指さした。その指さした先には、見覚えのあるあの男の子・・・コウ君がいた。 そう・・・あの、杏樹が片思いしている男の子・・・さっきまで、ここにいる杏樹のお友達と一緒に客席にいた筈だけれど、今は少し離れたところで、お母さんと一緒にいて、何やら話している。
「コウ君・・だよね?」
「うん!そのコウ君のお姉ちゃんも、今日の発表会に出ていたの!」
「へ?」
私は言葉に詰まった。言葉に詰まった私に構わず、杏樹は、コウ君を見つけた途端、まるで花がほころぶような笑顔を浮かべると、コウ君の方へと駆けて行った。
駆け寄った先にはコウ君がいて、コウ君もまた、笑顔を杏樹に向けていた。
そして、そのコウ君の隣には、コウ君と顔立ちのよく似た、コウ君よりも少し背の高い女の子が立っていて、杏樹に何やら話をしていた。
あの人がきっと、今みんなが言っている"コウ君のお姉さん"だろう。
「・・・じゃあ、コウ君のお姉ちゃんは・・・橘先生の教室でピアノを習ってるの?今日・・・出ていたの?」
私はあわてて、片手に持っていた今日のプログラムをめくった。
「うん! 二部の最初の方で弾いてたよ!」
その杏樹のお友達は、私が広げたプログラムの中の一行を指さした。その先には
"関本祥子"と、書かれてあった。
「この祥子ちゃんがね、コウ君のお姉ちゃんなんです!」
ねー!と、彼女たちは女子独特な楽しそうな声で言った。
「俺の兄ちゃんも、祥子ちゃんの後に演奏したんです!」
それに負けじと、まるで自己主張するようにそう言ったのは、コウ君のお友達のリュウ君だった。
・・・コウ君とリュウ君はお友達なんだけど、しょっちゅう喧嘩してるんだよ! 二人が喧嘩してると、あたし泣きたくなっちゃうの!・・・そういえば以前、杏樹がそう言っていた。
関本祥子ちゃんの後には、“山野悠介”と書かれていた。つまり、二人とも、私と憲一さんの連弾の少し前に演奏していた、ということ。そして、同じ、第二部の時に同じ舞台袖にいた、ということだ。下手をすれば、あの暗い舞台袖で知らずにすれ違っていたのかもしれない。
「コウ君のお姉ちゃんもリュウ君のお兄ちゃんも、他学年交流でいつも遊んでもらってて、知ってるんだ!
だからね、杏樹だけじゃなくて、祥子ちゃんと祐介君のピアノも聴きに来たんだよ!」
そう、教えてくれた。
「そう・・・だったんだ・・・・」
「うん!それに、祥子ちゃんも祐介君も、去年、国仲先生のクラスだったの!クラブも一緒で、国仲先生が受け持ってるんだよねー!」
成程ね・・・それを聞いて、妙に納得してしまった。それで、こんなにたくさん、国仲先生が子供たちを引率して聴きに来てくれたんだね・・・
師匠は小学生の子もレッスンしている。その子達の通っている小学校も様々で、近所の学校の生徒だけでなく、市内の各地の小学校の生徒が通って来ている。遠くからわざわざ、両親が車で送り迎えしたり、バスを乗り継いで通っている子達を見るにつけ、師匠がいかに信頼され、慕われているかが伺える。
「でも!桜先生のピアノも聴いたよ!
すごいきれいでした!」
「うん!杏樹がいつも褒めてるの、判る気がしたもん!」
「ねぇー!」
口々に私のピアノまで、子供らしい率直な言葉で褒められて、素直にうれしかった。
今日の第三部の模範演奏で演奏したのは“ペトルーシュカ”という組曲の、ある楽章だった。もともとはバレエ音楽で、オーケストラで演奏されていたものをピアノ用に書き換えたものだ。師匠が選んだ、私から見てもかなり難しい曲だ。とても華やかな現代曲だけれども、仲間のピアニストの間で、この曲を舞台で演奏する人は殆どいない。曲も短くはないし、聞いていて退屈だっただろう。
それでも、ちゃんと最後まで聞いてくれたのが、とても嬉しかった。
「・・ありがとうね。でも、退屈だったでしょ?」
「ううん!だって、桜先生のピアノ、大好きだもん!聞いてても楽しいよ!ねー」
「うん、とっても楽しそうな曲だったし、桜先生も楽しそうだった!」
「・・・難しくて叫びそうだったよ」
「えー!あの顔、叫びそうな顔だったの? 楽しかったのかと思った」
「うん、私もそう思った!」
「・・・難しいのよ・・・」
笑いながらそんなやり取りをして。
ああ、この子達は・・・まるで杏樹みたいだ。
杏樹みたいに素直で、お友達思いで、屈託なくて・・・一緒にいて、気持ちが良い。
私は、杏樹を取り囲む暖かい空気を感じながら、気が付くと子供たちと笑って話をしていた。
子供なんて、嫌いなはずなのに・・・
私はこうして、子供と笑顔で接していた。
一年前だったら、想像もつかないし、こんな風に、子供相手に笑えるようになるなんて、想いもよらなかった。
改めて私は、私にとっての杏樹の存在の大きさを、思い知った。
「ねえねえ、桜先生?」
みんなでわいわい騒いでいるのを聞きながら、ふと、杏樹が、そっと私のドレスの裾を引っ張った。
さっきコウ君の所に行った杏樹、いつの間に戻ってきたんだろう?
「なに?」
そう返事はしたものの…杏樹は、いつもと違って真面目な顔をして、私をじっと見つめている。
「ねえ、お願いがあるの」
それはふざけている様子ではなく、真剣そのものだった。
「・・・何?」
「えっと・・・」
珍しく、杏樹が口ごもっている。よほど、言いにくいお願いなのだろうか?
「・・・・楽譜・・・」
「え?」
「仮面舞踏会の、連弾の楽譜・・・」
「うん?」
あの曲の楽譜? あれがどうかしたのだろうか?
「あの、桜先生が弾いていた方の、仮面舞踏会の楽譜・・・私に下さい」
杏樹は真剣なまなざしで、私をじっと見つめた。
「いつか、あの曲を、発表会で・・・桜先生と弾きたいの!
だから、あの楽譜・・・練習したいから・・・私に下さい・・・」
今日演奏した、あの仮面舞踏会の楽譜を?
何時もの杏樹だったら、「楽譜、ちょうだい!」と元気に言うだろう。それを“下さい”なんて、敬語みたいな言葉を使っていた。一体どんな心境の変化が、そこにあるんだろう・・・
「でも、あの楽譜、杏樹には難しすぎるよ?それに・・・」
もう少し、杏樹が弾けるようになったら、あんな難しい曲ではなく、もっと優しくて素敵な曲をほかの子と連弾させてみるのも面白いかも・・・一瞬そう思った。でも、杏樹は首を横に振った。
「先生が練習の時に使っていた、あの楽譜が欲しいの!」
「あの楽譜?」
私の問いに、杏樹はこくこく、と頷いた。
私が憲一さんとの練習で使っていたあの楽譜は、憲一さんがもってきたものだ。
私は本番で演奏する曲は、最終的には暗譜する。でも、練習の時は楽譜を見て練習する。その楽譜は、買ってきた楽譜をそのまま使わず、すべてコピーして使っている。練習中に楽譜にいろいろ書き込んだりする癖があるので、原譜を汚したくないのでコピーして使っているのだ。
「あの楽譜・・すごい書き込んであるよ?楽譜なんか見えないくらい書き込みがあるのよ?
何なら、憲一さんに頼んで、ちゃんとした奴、コピーしてもらってあげるよ?」
「ちがうのっ!
私が欲しいのは、桜先生が使っていた、あの楽譜なの!」
杏樹は一歩も引かない。その勢いに私も少し、真剣に聞いてみたかった。
「・・・どうしてあんなのが欲しいの?」
発表会が終わっても、すぐに捨てるものではない。でも、最終的には捨ててしまうだろうな・・・と思っている。所詮コピー譜で、原譜は憲一さんが持っているはず。それに確か私も、原譜は持っているはずだ。そのコピー譜を、どうしてそんなに欲しがるの?
「だって!あれ、桜先生が弾いた曲の楽譜だもん!
あの楽譜が欲しいの!」
「あんなのじゃなくて、ちゃんとした楽譜を・・・」
「それじゃあだめなの!桜先生が使っていた奴が欲しいの!!」
杏樹は一歩も引かなかった。結局、私は根負けした。
「わかった・・・いいよ」
私は、今、手に持っているファイルの中から、その楽譜の入っているクリアファイルを引っ張り出した。今日必要な書類と一緒にあの楽譜も持っていたのだ。
それをクリアファイルごと手渡してあげると、杏樹は嬉しそうにその楽譜を受け取り、ぎゅっと抱きしめた。
「先生、ありがとう!
あたし、これ絶対弾けるようになるね!
その時は、先生、あたしと連弾してね!」
「・・・うん・・・そうだね・・・」
いったいそれは何年後だろう?
杏樹も大きくなっているだろうか?そして私はもっと年を取って・・・
おばあちゃんになっているかもしれない・・・
でも、杏樹の楽しそうな笑顔を見ながら、それも悪くない、と、思った。
5年後、10年後の杏樹を想像出来るという事。
それはまるで、自分の子供の成長を夢見ているみたいで、とても幸せな気分だった。
「それじゃ、私も、杏樹が大人になった頃も、この曲がしっかり弾けるように練習しておかなくちゃね」
私がそう言ってあげると、杏樹は、大きく頷いた。
「うん!
絶対、ぜーったい!
私、この曲弾けるようになるからね!
先生も、絶対待っててね!
約束だよ!」
そう言って杏樹は、右手の小指を私に差し出した。
「え・・・?」
一瞬、その仕草の意味が解らず、杏樹の顔を見ると、
「指きりだよ!先生!指きりしよう!」
そう言われて、あわてて私も杏樹と同じように、右手の小指をさしだし、杏樹の小指と絡めた。
「ゆーびきーりげんまん!うそついたらはりせんぼん、のーます!ゆーびきった!」
子供の頃から歌い継がれている歌を一緒に歌うと、杏樹と私は、それぞれ小指をはなした。
「約束だよ?杏樹!」
「うん!絶対約束!」
心が、不思議と温かく、優しい気持ちだった。
それからしばらく、子供達と別れて、ロビーで知り合いや師匠の教室の子に挨拶したり、雑務を片付けたりした。
ロビーも、さっきよりも随分人が少なくなった。閉演してから随分時間が過ぎたし、みんな帰りつつある。
私も、そろそろ楽屋に戻って帰り支度をしようか、と思った頃・・・
もう一度だけ、さっきまで杏樹がいた所に目をやった。
そこには、杏樹のお友達たちと国仲先生がまだ残っていた。
けれど・・・
「あれ?ねえ、杏樹は?」
杏樹がここにいないのに気付いた。
「さっき、コウ君と話してたよね?」
コウ君がいたところに目を向けると、そこにはコウ君とコウ君の家族はいたけど、杏樹の姿はなかった。
「どうしたんだろう・・・?」
私は、杏樹のお友達に手を振ると、そのままコウ君の処へ行った。
「ねえ、コウ君?」
そう声をかけると、コウ君はこちらを向いて、不思議そうに私を見た。きっとコウ君は、私の顔など知らないのだろう。
慌てて自己紹介しようと思うと、近くにいたコウ君のお姉さんが、私にすっとお辞儀した。
「叶野さん!こんにちは」
「こんにちは・・・祥子ちゃん・・・ね?」
「はい!はじめまして!
橘先生の所でレッスンを受けています
杏樹ちゃんからも、いつも桜先生のお話を聞いています」
小学生とは思えないほど流暢な敬語が飛び出し、びっくりした。そして祥子ちゃんは、きょとんとしているコウ君に、"桜先生だよ!"と、私の事を教えてあげた。
「桜先生って・・杏樹が言ってた、あの桜先生?」
「うん。そうだよ」
コウ君にそう聞かれて、祥子ちゃんは頷いた。コウ君は驚いた顔をして私を見上げている。
きっと杏樹から私の話は聞いていただろう。でも、その私が、コウくんのお姉さんと知り合いだなんて、思いもしなかったのかもしれない。
一方私の方はといえば、師匠の生徒の顔や名前は、おぼろげにしか覚えていない。けれど師匠の生徒たちから見たら私は、・・・『橘門下の筆頭、師匠のアシスタント』などと言われている。知らないわけ、ない存在かもしれない。
私は祥子ちゃんに、『今日はお疲れ様でした』というと、祥子ちゃんは嬉しそうに笑って、お辞儀した。
「ねえ、杏樹、知らない?さっきから見当たらないんだ」
そう聞くと、コウ君は、少し不審そうな顔をした。
「さっきまで、ここで話してたんだけど、杏樹のパパが来て、杏樹連れてどっか行ったよ!」
コウ君にそう言われて、私は突然、客席に座っていた杏樹のパパの事を思い出した。
そうだ、すっかり忘れていた!
今日、杏樹のパパがここに来ていた事・・・そして、杏樹のパパは、杏樹を引き取ることを諦めていない事に!そして、ここから杏樹さえ連れ出してしまえば、杏樹と二人だけで話ができること!
「・・・どこに行ったか、判る?」
そう聞くと、コウ君は、少し困った顔をして祥子ちゃんの方を見た。祥子ちゃんは、一瞬考えて、階段の方を指さした。
「上に行きました。上は今日、あんまり人がいないから、変だなって思ったんです」
そう、祥子ちゃんの言う通りだ。
この発表会、二階席に座る人は殆どいない。二階席だと舞台が、一階席よりも見にくいので、好んで座る人は少ない。さっきだって、杏樹のパパは一階席に座っていた。
自分の子供の発表会、親だったら、出来るならなるべく舞台の近くで見たいだろう。好んでわざわざ、舞台から離れ過ぎている二階席を選んで座る人はいない。
だから、今日、二階席は殆ど人がいないはず。
その二階席に、わざわざ、杏樹のパパが、杏樹を連れて行ったのだとしたら・・・その目的は・・・
やっぱり杏樹の説得?
「そう、ありがとう!」
私はコウ君と祥子ちゃんにお礼を言って、杏樹と杏樹のパパを探した。
杏樹のお友達と国仲先生の所に、杏樹のママも一緒にいる。どうやらまだ、杏樹がパパと一緒にどっかに行った事に気づいていないみたいだ。
憲一さんも、今は裏で後片付けをしているので、こっちには来れないだろう。
もし、何事もない、ただの感動的な親子対面で済めばいいんだけど・・・そうであってほしいんだけど・・・
そうでなかったら・・・
楽観的に考えられなかった。
私は、祈るような気持ちで、ロビーにある二階席へと続く階段を駆け上った。
杏樹と、杏樹のパパを、二人だけで話をさせちゃだめだ!
パパが大好きな杏樹の事。パパに説得されたら、パパと一緒に暮らすことを了承しかねない。
もしそうなったら・・・杏樹のママの気持ちはどうなるの?
杏樹のパパが、何かのはずみで以前みたいな暴力を杏樹に振るったら?
ううん、そんなことよりも、何よりも!
私が!
私が、嫌だった。
そんなの、私の勝手な思いで、杏樹にも、杏樹のパパにも関係ないことだと言われてしまったらそこまでだ。
でも、このまま、杏樹が、杏樹のパパの所に引き取られたら。
まるで、杏樹が本当に、いなくなってしまいそうで。
杏樹がいなくなる、そう考えただけで・・・・・言い表せないほど、嫌な気持ちになる。
だから・・・だから!
ううん、理由なんかもうどうでもいい!
杏樹を探さなきゃ!
二階は、一階と比べてかなり閑散としていた。
このホールの二階は、客席と、一階よりも手狭なロビーがあるだけだ。でも、もしも杏樹のパパが、杏樹と二人だけで話がしたい、と思ったら都合の良い空間なのかもしれない。
さして広くもないロビーをぐるりと見渡すと、苦労して探すまでもなく、杏樹の姿を見つけた。
杏樹は、ここから少し離れたところで、ベンチに腰掛け、同じように腰かけている杏樹のパパとテーブルを挟んで向かい合っていた。
杏樹の手元には、さっき私があげた仮面舞踏会の楽譜が、しっかりと握られていた。まるで大事なノートや絵本を扱うように、両手でしっかりと持っていた。
二人きり・・・ではなかった。
杏樹のパパの横には、見知らぬ女性が座っていた。
歳は、私や杏樹のパパよりも随分年下で・・・杏樹のママとは正反対な・・・一目で育ちの良いお嬢さんだと判る雰囲気だった。
着ている服も、持っているバッグや化粧も・・ある意味、私の周囲にいるタイプの人でもない。かといって、杏樹のママのような仕事をしている女性、という感じではない。今日来ている、子供の発表会を見に来ている保護者のそれでもなかった。
チャラチャラ遊んでいる学生さんが、何も考えずに外見だけ大人になり、子供の癖に自分は大人だと思い込んでいる、そして、子供なのに、持ってはいけない大人の調度や権力までも自分の意思とは関わりなく持たされ、それを自分のものだと勘違いしてしまっている・・・
一目で、そんな雰囲気を感じた。・・・初対面にもかかわらず、そう思ったのは、先入観もあったのかもしれないけれど、何より、この人の纏う空気感が、私にそう伝えていた。
杏樹のパパを初めて見たとき、イケメンさんなのに、冷たさを感じたように・・・この人にも、杏樹のパパ同様の冷たさ・・・ううん、それ以上に、嫌な意味での嫌悪を感じた。
そう・・・、今日の、この発表会の会場の、温かい空気とは、まるっきり場違いな・・
この女性が、たとえば都内の高級品街や高級住宅地を親と一緒に歩いていたら、絵になるけれど。
都心から少し離れた、都心よりもずっと現実的な生活匂が漂うこの近辺を歩いていたら、間違えなく"浮く"だろう。
そんな女性だった。
その女性は、優しい表情で、杏樹を見ていたけれど。
その眼は、完全に、杏樹を、そして、杏樹のパパさえも、下僕か都合のよい玩具のように見下している。
少なくとも・・・先入観があったのかもしれないけれど・・・私にはそう見えた。
杏樹っ!
そう名前を呼ぼうとしたけれど、それよりも先に、杏樹のパパの声が耳を掠めた。
「杏樹?
パパと美緒と、三人で一緒に暮らさないか?
この人の娘にならないか?」
その言葉を言う杏樹のパパは、優しい笑顔で、私が以前に感じた冷たさは全く感じなかった。けれど、私は、逆にその違和感が気持ち悪かった。
前回の私のリサイタルの時も、その前の運動会の時も・・・私がこの人と対峙した時は、冷徹で温かさのかけらも感じなくて鳥肌がたった。
今の杏樹のパパにそれらは感じないけれど・・・それが胡散臭い。
そして、パパと向かい合っている杏樹の顔は・・・
"パパに会えますように・・・"
前、七夕の短冊に、嬉しそうに、そうお願い事を書いていた。あの時、杏樹は本当にパパの事を好きなんだ、と思った。
でも、今の杏樹の顔には・・・
笑顔が、なかった。
かといって、悲しそう、という顔ではない。
杏樹のあの表情を、何と表現したらいいのだろう・・
表情が、なかった。
いつもの杏樹も、さっきまで下のロビーにいた杏樹のお友達も、みんなくるくると表情が変わった。そして、その表情を見るだけで、子供たちの感情がわかった。
嬉しい顔、寂しい顔、楽しい顔、悲しい顔・・・
それらが、顔を見るだけで伝わってきた。
でも、今の杏樹の顔には・・・・感情も表情も、なかった。
何の感情も感じられないまま、どこか諦めたように俯いた。
きっと、多分。
杏樹のパパは、杏樹に、いろいろ話をしたのだろう。
自分が再婚した事、もう、杏樹のママとは一緒にならない事。
杏樹のママが、杏樹を抱えて働くことの大変さとか、杏樹のパパが杏樹を引き取ったほうが、杏樹のママが楽になる、とか・・・
自分たちに都合のよい事を、杏樹に並べ立てて話したのだろう。
杏樹のパパとママが別れた本当の理由も、DVの事も伏せたままで。
「ねえ、杏樹ちゃん?一緒に暮らそうよ。
私ね、子供って大好きなの。
一緒に住んだら、きっと楽しいと思うな。
毎日、一緒に遊んだり、ご飯作ったりできるよ?
今までみたいに、一人でママを帰りを待つ事も、なくなると思うんだ?」
その女性は、杏樹に笑顔でそう言っている。杏樹はうつむいていた顔を上げると、その人を、相変わらずの無感情な顔で見つめた。
その女性は、杏樹が、何か・・・肯定的な何かを言うのを笑顔で期待しているのだろう。離れていてもはっきりとそれがわかった 。
でも杏樹は、何も言わず、再びうつむいた。
杏樹が何を考えているのか、少し離れたところで見ている私には判らなかったけれど。
その沈黙は、酷く長く、重たく感じた。
(杏樹・・・・・)
私は、まるで祈るような気持ちで、杏樹の答えを待った。
「杏樹?どうするんだ?
もし、杏樹がパパたちと一緒に暮らすなら、すぐにでも手続き出来る。
今日にでも、パパたちのお家に一緒に行けるように手配してあげるよ?」
きっと杏樹のパパは・・・
あの杏樹のパパの事だ。
自分が甘い言葉で杏樹を説得すれば、杏樹が了解すると思っているのだろう。
杏樹のパパのその顔は、どこか自信に満ちていた。
自分は間違ったことをしていない、杏樹が逆らうわけがない、と・・・
「パパ?」
それからどの位たってからだろう?
俯いていた杏樹は、顔をあげて、パパを見上げた。その両手で、あの楽譜のファイルをしっかりと胸の辺りで抱えてなおした。
心なしか、その両手が少しだけ、震えているような気がした。
杏樹はパパの顔を見上げていた。同じベンチに座っているのに、杏樹が杏樹のパパの顔を見ようとすると、少し見上げるように顔をあげないと、見られないみたいだ。
「何だい?」
自分にとって都合のよい答えを期待しているのか、杏樹のパパは余裕の表情をしていた。
「パパ? あたしね・・・」
杏樹はそう言うと、一生懸命、言葉を探すように、想いをつづり始めた。
「あたしね、パパの事、大好き。
パパと一緒に暮らせたら、すごくうれしいって思うんだ」
そう言ったとたん、杏樹のパパは喜びのあまり立ち上がろうとしたのか、少し腰を上げた。
けれど、杏樹はさらに言葉をつづけた。
「でもね、ママの事も大好きなの。
あたしはね、
パパと、ママと、あたしと、3人で、ずーっと一緒にいたいの」
その言葉に、杏樹のパパは凍り付いたような顔をした。杏樹のパパの隣にいる女性も、同じだった。
ひくひくと、笑顔が引きつりはじめた。
「あたしのパパは、パパ一人なんだ。
でもね、あたしのママも、ママ一人だけなの」
杏樹の言う"ママ"が、誰を指しているかなんて、考えるまでもない。
「パパに、新しいママがいるんだったら・・・あたしは、あたしのママと一緒にいたい。
だって、あたしがパパの所に行ったら、ママ、一人ぼっちになっちゃうでしょ?
ママが、一人ぼっちで寂しい思いをしたら、あたしも寂しいもん!
だから、ママと一緒にいたい」
きっぱりと、そう言い切った。
その杏樹の表情は、さっきまでの、無感情ではない。
けれど、笑顔でもなかった。
少し不安げだった。
それでも、真剣に考えて、真剣に答えた。自分にとってのベストな答えを出した・・・そんな満足感に満ちていた。
杏樹が答えを言いきった瞬間。
そのロビーは再び、静寂に包まれた。
一階の喧噪が、随分にぎやかに聞こえて、逆にそれが、この二階のロビーの空気の異様さを物語っているような気がした。
あの女性の顔は・・・引きつった顔を鬼のような形相にして、きっ!と杏樹を睨みつけた。
たったそれだけで、この場の空気が、冷たいものに変わった。
そして・・・この空気を引き裂いたのは、杏樹のパパだった。
腕を思い切り振り上げたかと
『バチーーーーン!!!!!!』
見ている限り、力任せに、杏樹の顔めがけて、それを振り下ろした。
「っ!!!!」
驚いて、声さえでなかった。
杏樹の手元から、あの楽譜の入ったクリアファイルが、音もなく床に落ちた。
先日のリサイタルの時、あの杏樹のパパに殴られかけた恐怖が、脳裏をよぎって、鳥肌が立った。
杏樹のパパの隣に座る女性は、その光景に少し驚いて息をのんだけれど、その杏樹のパパの行動を止めることはなかった。むしろ、一瞬の驚きの表情の後、にやり、と悪趣味に笑っていた。
むしろ、『殴られて当然』『ざまあみろ!』『いう事を聞かないからこうなるのよ!』とでも言いたげな目をしていた。
「お前っ!親のいう事が聞けないのかっ!」
殴られた杏樹は、殴られた衝撃でベンチに横倒しになった。
次の瞬間、杏樹のパパはすっと立ち上がると、床に落ちた楽譜を踏みつけながら、倒れた杏樹の身体を乱暴に起こすと、その胸倉を締め上げるように掴んだ。
「いつからお前は、親のいう事さえ聞かない悪い子になったんだぁ? えっ!
さあ、言うんだ! パパと一緒に暮らすと・・・」
「やめてっ!」
考えるより先に、身体が動いていた。
私は、杏樹と杏樹のパパに駆け寄ると、杏樹のパパの腕を掴んで杏樹から引きはがすと、杏樹をかばうように抱きしめた。
杏樹は、今にも泣きそうな顔をしながら、がたがたと震えていた。
「ひっ・・・・・ひっ・・・・・」
パニックを起こしているのか、言葉さえ出てこない。過呼吸気味なのか、はぁ、はぁ、と肩で荒い息をしていた。そんな杏樹をもう一度、ぎゅっと抱きしめた。
「貴様!・・・・」
杏樹に襲い掛かる杏樹のパパの狂気が、その矛先を、杏樹から私へと移したようだった。
「勝手に家族の問題にかかわるなっ!
これは俺と杏樹の問題だ!」
「やっていいことと悪いこと位、判断してください!」
私は杏樹のパパに向き直り、そう言うと、抱きしめてた杏樹を離し、耳元で軽くささやいた。
(いますぐ、ママとお家に帰りなさい!)
パニックを起こしていた杏樹は、その言葉で一瞬、正気に戻ったようだった。それでも何か躊躇している顔をする杏樹に、"早く!"と促した。それと同時に、床に落ちたあの楽譜を杏樹に手渡した。クリアファイルには、杏樹のパパの靴の後がはっきりと残ってしまったけれど、楽譜は無事だった。その楽譜を、杏樹に渡すと、杏樹は頷き、そのまま階段へと走って行った。
「杏樹っ!待て!!」
それを追いかけようとした杏樹のパパの腕を、私は掴んで引き止めた。
「辞めなさい!」
私は、持っているすべての気力と力を、この男に集中した。
「離せっ!お前などに用はないっ!」
杏樹のパパはきっ!と私を鬼のような形相で睨みつけ、私の腕を振りほどこうとした。
そうさせないように、私はギュッと掴む腕に力を込め、振りほどかれるのを阻止した。
彼の視線が怖いほどにつきささってきた。その視線に負けそうになったけれど、ここで負けられない。
(私にだって、譲れないものの一つや二つ、あるのよ)
さっき、憲一さんに言った言葉が、脳裏をよぎった。
もう一つの、私にとっての、譲れないもの・・・・
「あなたは杏樹に負けたんです」
腕を掴みながら、なるべく冷静に、そう言い放った。
「なん・・・だと?」
「子供が、あんなふうに自分の言葉で、自分の想いを大人に言ってのけたんですよ?
子供だって、大人に、大好きな父親に反抗するのは怖いはずです。辛いはずです!
どれだけの勇気、振り絞ったか・・・想像できないですか?
それを認めるべきじゃないんですか?
それを認めずに、感情的に杏樹に手をあげるなんて、親として許されることではないですよ?
貴方は・・・杏樹に負けたんです。
大人だったら・・・杏樹の父親だったら、
負けを認めてください」
そう。
あのくらいの年ごろの子供が、自分の親に逆らう事が、どれだけ怖いことか、判っているつもりだ。
もちろん、私は両親不在同様な家庭で育ったし、今現在独身で、子供がいるわけではない。そう言う意味では、実子のいる親御さんの気持ちが理解できるわけではない。
でも・・・
ふと、私が杏樹くらいの頃の、父親との人間関係を思い起こした。
仕事ばっかりで、私と向かい合う事なんか、めったになかった。
腹を割って話すことなんか出来なかったし、怖くて反抗など出来なかった。
どこの家も私と同じ、とは限らないけれど。
何の心の葛藤もなく、杏樹があんな事を言ったとは思えない。
パパの話を聞いて、杏樹なりに一生懸命考えた末の、結論だ。
「子どもだったら、親のいう事位素直に聞くのが当然だろう!
それを逆らうなんて10年早い!」
「力任せに殴っていう事聞かせるなんて、父親を名乗る資格なんか、ないんじゃないですか?」
瞬間。
顔に、何かを振り上げる気配がしたけれど、それを意識する余裕など、なかった。頬
「っ!」
息をのんだ次の瞬間、頬に強い衝撃が飛んできた。
必死でつかんでいた、杏樹のパパの腕は、私の手から、するりと抜けた。
(ガツンっ!)
鈍い音が、怯んだ私の頭に重たく聞こえて、とたんに頭に激痛が走った。何かが頭にぶつかったみたいだ。叩かれたのかもしれない・・・
「晃也さん、なに、この女っ!偉そうに御託並べて!」
「杏樹のピアノ教師だ!ここのところずっと、俺と杏樹の話、邪魔しやがって!」
「ふぅん・・・みすぼらしい女ね。どうせピアノ教師なんて言いながら、ろくな演奏も教育もしないんでしょ?」
女の声に、反応など出来ない程の激痛に耐えて顔をあげようとした瞬間。
(ドスッ!)
更に体に衝撃が走った。
激痛と衝撃で床に倒れこみ、一瞬起き上がれなくなった私の身体に、さらに襲い掛かる衝撃・・・
杏樹のパパが、何か、訳のわからない言葉を叫びながら、倒れている私を思い切り蹴っている・・・一瞬だけ見えた視界には、ロビーの床と、男性ものの靴が見えた。
「あ、晃也さんっ・・・もう辞めなよっー この子死んじゃうわよっ」
女の声がした。・・・けれど、声だけ聞いた限りだと、本気で止めるつもりなんか、なさそうだ。辞めなよ、と言いながらもその声は・・・明らかに杏樹のパパを煽っているようだ。
(…痛い・・・)
痺れた感覚がだんだん引いてきて、今まで感じたこともないような激しい痛みを感じたけれど、その痛みで立ち上がることさえ、出来なかった。
私を殴り、蹴りながら、相変わらず何か意味の解らない言葉を叫んでいたけれど、それを聞き取ることはできなかった。
杏樹のパパの、意味不明な叫び声が、人の少ないこのロビーに響いている。
それでも続く暴力に意識を手放しかけたとき。
「叶野さんっ!」
「桜っ!」
遠くで名前を呼ばれて、私は手放しかけた意識を再び取り戻した。けれど、身体のあちこちが痛くて、立ち上がることさえ、出来なかった。
私に対する暴力が止まり、代わりに『はなせてめぇっ! お前も痛い目に遇いたいかっ!』と、まるでヤクザか不良のような言葉が聞こえた。
どやどやと、近くに沢山の人が来たみたいだったけれど、それをこの目で見ることはできなかった。
「せんせぇっ! さくらせんせぇ!
死んじゃあやだ!」
杏樹の声だった。きっと泣きながら言ってる・・・そんな声だった。そして、うつ伏せになって倒れている私の背中や肩に触れる感触がした。そっと、そっと、労わるように・・・やがてそれは私の身体を揺さぶりはじめた。
「先生っ! せんせぃっ、!!」
大丈夫だよ・・・だから泣かないで・・・・そう言ってあげたかったけど、痛みで声はおろか、息さえもできなかった。
「片瀬さんっ!すぐに警察に連絡してください!」
「わ、判りました! 叶野さんは医務室に!あと、橘先生も呼んでください」
片瀬さん・・・このホールの警備員さんの名前だ・・・顔見知りの、あの警備員さんだ・・・
「離せっ! 俺はまだこの女と話がついてないっ!」
「杏樹から話は聞いてる!」
憲一さんの声だった。私がよく知っている無感情な声ではない。
今にもあふれそうな感情、想い・・・それらをすべて押し殺した、それでも無感情を装った声、だった。その無感情の下に隠れる感情を、私は・・・あやふやな意識のなかで感じた。
「杏樹が・・・俺と、警備の片瀬さんに知らせに来てくれた。
お前・・・東野傷つけるだけじゃ足りないのか?杏樹や桜までっ・・・」
「お、俺は悪くない!
杏樹が・・・ガキの癖に俺のいう事聞かないからだ!
あの女だって、あのガキをかばうからだっ!
悪いのは杏樹だろう!」
「そうよっ!
せっかく私たちが、一緒に暮らそうって、不自由ない暮らしさせてあげるって言ってあげてるのに
逆らうんですよ!
大人に逆らうあの子が悪いのよ!
庇ったあの女も同罪でしょ!」
「バカはお前たちだ!」
冷たく一喝した憲一さんは、もうそれ以上、あの二人の言葉に耳を貸さなかった。
・・・・さっき、帰るように言った杏樹。
帰らずに、下で、憲一さんたちを呼んできてくれたんだ・・・
その状況にどこか、ほっとしながら。
私は意識を手放した。
目を覚ますと、見覚えのない天井が見えて、軽いパニックを起こしかけた。
今一つ、スッキリしない頭で、さっきまで起こったことを思い出した。
(そうだ・・・私、杏樹のパパに・・・)
殴られて、倒れたところを、蹴られ・・・憲一さんたちが駆けつけてくれなかったらどうなっていたか・・・思い出しただけで、身体が凍り付くようだ。
「気がついたか?」
私が横になっているベッドの横には、憲一さんが座っていた。
「ん・・・杏樹は・・・?無事? 怪我してない?」
真っ先に気になったのは、杏樹の事だ。杏樹だって、あんなに殴られていたんだ。
「無事だ。殴られたほっぺたが少し腫れてるくらいだ。さっき冷やして、ちゃんと処置した。お前よりよっぽど軽症だ。
今、別の所で、警察の人が話、聞いてる」
そう。よかった・・・ほっと息を吐いた。
「お前はどうなんだ・・その・・・・平気か?」
平気、そう言いながら起き上ろうとしたけれど、その瞬間、体中に激痛が走って、声にならなかった。
それが顔に出てしまって、憲一さんは起き上がろうとする私の身体を両手でおさえるように寝かしなおした。
「しばらく寝てろ。痛むのか?」
「ん・・・」
「・・・奴、容赦なくやったみたいだな。後で病院行った方がいい」
「ん。でも、多分打ち身だけで済んでると思う。折れてる感じ、しないから」
私は骨折したことはないけれど、骨折したことがある友人の話だと、痛みで骨折したところは動かすどころではない・・と言っていた。私の体の痛むところは・・・動かないほどではなかった。
とはいえ・・・深く息をしようとすると酷く胸が痛んだ。胸のすぐ後ろにあたる背中を蹴られたからだろうか?
「そうか・・・でも・・・
お前が無事で、良かった・・・」
それは、心の底から湧いてきたような、優しい、ほっとしたような声だった。
「杏樹が知らせてきたとき・・・ぞっとした。
お前が、あの時の東野と同じ目にあうなんて考えたら、生きた心地、しなかった・・・」
そう言うと、憲一さんは、横になったままの私の頬を、遠慮がちに、そっと触れた。
その指先は、心なしか震えているようだった。
「憲一さん・・・」
その指先にそっと触れると・・・ハッキリとわかるほど、彼の指はがたがたと震えていた。
「ねえ・・・どうして、震えてるの?」
怯えているようにさえ感じるその震えが、少し妙だった。だって、私が知っている憲一さんは、いつだって無感情で、喜怒哀楽、感情が表に出るようになったのは、つい最近の事で、こんな風に震えている彼の指なんか、見たことなかった。
「・・・怖かった」
ぽつり、と、彼の口から、そんな言葉がこぼれた。
「このまま・・」
「このまま?」
「このまま桜が、目ぇ覚まさないかもって思った・・・そう考えると・・・怖かった・・・」
戸惑いがちにそう言う彼の姿は、今まで見たことがないもので、不謹慎だけれども、ちょっと新鮮に見えた。それでも、この人に、ここまで心配かけた、という事は申し訳なく思った。
「そんな大げさ」
その心配をぬぐってあげたくて、私は軽く笑った。けれど、笑ったとたん、口の中がぴりりっと痛んで、顔が引きつる感覚がした。口の中も切れているみたいだ。
「橘さんが心配するのも、無理ないんですよ」
ふと、呆れがちにそんな声がした。声がした方を向くと片瀬さんが立っていた。
私が杏樹のパパに殴られていた時、憲一さんと一緒に駆けつけてきてくれた人だ。側のデスクの上には救急箱があり、血の付いた警備員用の白い手袋があった。片瀬さんがいつも手に付けている手袋だ。
私をここに運ぶ時に着いた血痕だろうか・・・? それは、いかに私の怪我がひどかったか、そして、ついさっきまで、片瀬さんが処置してくれていた事を物語っていた。
「・・・叶野さん、私たちが駆けつけたとき、血だらけで倒れてたんですよ。橘さんじゃなくたって、あんな姿見たらびっくりしますよ。
救急車、呼ぼうかと思ったくらいです。
あと、今、鏡見ないほうがいいですよ。怪我も、外から見える怪我は処置してあるけど、顔の腫れ、かなり酷いですからね。美人が台無しです。あとでちゃんと病院に行ったほうがいいですよ」
そう言われて、痛む腕や体のあちこちを見ると、処置されていたり青痣になっていたりと、酷いものだった。これだけ酷くあの男から暴力を受けていたのか・・・
そう考えるとぞっとした。
「杏樹のパパは?」
それでも、一番気になっていた事を聞くと、憲一さんは、
「警察の人が来て連行していった。
杏樹と杏樹のママは・・・
ついさっきまで・・・ここにいたんだぞ。
“せんせいが起きるまでここにいる!”って・・・倒れたお前の側、離れようとしなかった。
結局、東野に説得されて、渋々出て行った。今頃警察の人が話、聞いてる頃じゃないのか?」
「警察に?」
「ああ。
結局さ、“先生にあんな酷いことをしたのはあたしのパパだって言ってくる”って、泣きながら息巻いていってたぜ。
彼女、よっぽどお前の事、好きなんだな。
杏樹だって、パパに殴られてショックだっただろうし、怖いだろうにな。
大好きなパパだけど、桜先生にあんな酷い事するの、許せないってさ」
杏樹が・・・そういえば、遠くなる意識の中、一番最後に聞いた声は、杏樹の涙声だったような気がする。
「憲一さんは?」
「え?」
「杏樹のママに・・・付き添わなくて・・・良かったの?」
杏樹のママからパパのDVの相談を受けているなら・・・その証言、警察でしなくていいの?・・・そう聞こうと思ったけれど、それよりも先に、彼は首を横に振った。
「・・・こんな・・・怪我した桜をほっといて、どっか行けるわけないだろ?」
言われた瞬間、どきり、と心臓がなった気がした。それが憲一さんに聞こえそうなほどだ。
あの憲一さんがそう言ってくれたことは、本当に嬉しかった。でも・・・
心の中で、憲一さんに、ごめんね、と謝った。今は、彼の言葉に、手放しで喜べない。
「でもっ!」
「俺にも!」
私の思いを見透かすかもように言葉を遮り、彼は少し声を大きくした。そして、まるで私に言い聞かせるように、まっすぐに私を見つめた。
「さっきも言ったけど。
俺にも・・・譲れないものがあるんだ。
桜?
俺は、お前にもう・・・悲しい思いさせたくないんだ」
そう言って、彼は私から少し、目を逸らせた。言葉が見つからないのか、伝わらないがにもどかしいのか・・それとも恥ずかしいのか・・・多分、全部、だろう。
彼は再び私の顔を見た。その眼は少しだけ、今までとは違う熱を帯びていた。
「好きな奴が、こんな怪我してるのに、ほっといてほかの女の所なんて・・・行けるわけないだろ?」
そう言うと、彼は再び目を逸らした。でも、・・・耳まで真っ赤だった。
(憲一さんったら・・・)
言いなれない事を言って恥ずかしいのか、それ以上言葉が続かなかった。
そして私も、ここで杏樹の事を心配することを・・・今だけ、諦めた。
「憲一さん・・・ありがとう」
そう言うと、憲一さんの顔が、すっと、私の顔に近づいてきた。キスされるのでは?と思うほどの距離に思わずぎゅっと目をつぶると。
「橘さん、俺の存在、忘れてるだろ?」
警備の片瀬さんがあきれ顔でそう言った。
「っ・・・」
とたんに彼の顔は、真っ赤になって、私から顔を話した。
普段やりつけない事をしたせいか、そしてそれが他人に見られたからか、彼は"いや・・・あの・・・"と、しどろもどろしていた。
その様子があんまりおかしくて、私は思わず吹き出してしまった。
杏樹のパパにひどい仕打ちを受けて、
体中がまだ痛かったけれど。
憲一さんのこんな顔を見れて。
不謹慎だけど、杏樹のママよりも私の事を優先してくれたことが、
私の心を、とても温かくしてくれていた。
それでも、あの杏樹の事は心配だったけれど。
「あ、そうだ」
警備員さんはそう言うと、ポケットから何かを取り出した。
「その杏樹ちゃんから、桜先生に手紙預かってるよ」
そう言って差し出された紙は、音楽の五線ノートを破った紙切れだった。
「桜先生が目を覚ますまでここにいる・・・って、さっきまで叶野さんの側、離れたがらなかったんだ。
でも、警察の人が杏樹ちゃんに話を聞きたいって言ってたし、お母さんにも 説得されて、渋々。
で、目を覚ましたら絶対渡して・・・って、頼まれてた」
手渡された紙切れは、丁寧に折りたたまれていて、ひらがなで『さくらせんせいへ』と書かれていた。
広げてみると、平仮名ばっかりの字が視界に飛び込んできた。
『さくらせんせいへ
けが、だいじょうぶ?
あたしのことたすけてくれて、ありがとう。
さくらせんせいのこと、だいすき。
だから、はやくよくなってね。
おみまいにいくからね。
あんじゅより』
杏樹らしい、率直でわかりやすい言葉で綴られていた。
杏樹ったら・・・
不思議と、これを書いている杏樹の顔が、素直に想像できた。
きっと杏樹の事、警察に行く用事がなければ、私の意識が戻るまで、ここにいたに違いない。ううん、全てを置いても、そうしたかったのだろう。
その手紙を読みながら、心があったかくなるのを素直に感じることが出来た。
そして・・・ここにはいない杏樹へと想いが、余計に大きくなった。
ぎゅっと、杏樹を抱きしめる代わりに、その手紙を抱きしめた。
憲一さんは、そんな私を、少し複雑そうに、それでも穏やかな目で、じっと見つめていた。
終わりよければすべて良し、とはよく言ったもので。
それは逆もまた、成立してしまう。
発表会そのものの出来は良かったのに。
最後にあんなことがあったせいか、
私にとって、今年の発表会は酷く後味悪いものだった。
体の打ち身は酷く傷んで、まるでその後味悪さに拍車をかけているみたいだった。
それでも、憲一さんと連弾できたし、その彼の、めったに聞けない言葉や想いがきけたから。
それは素直にうれしかった。
・・・でも、それを憲一さんに言ったら、きっとまた、顔を真っ赤にして怒るから。
それは、私だけの秘密・・・
そして、次に杏樹に会ったら・・・手紙のお礼をちゃんと言って、杏樹も大丈夫だったか、ちゃんと聞いて・・・それから・・・
まるで小さい子供が、友達とあったら何をして遊ぼうか・・・と楽しく悩むような気分だった・・・