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秋の章 第3話

 秋は、行事が多い・・・


 それは、学校も私も変わらない・・・らしい・・・




 友人演奏家のリサイタルやジョイントコンサートもそうだし、私のソロリサイタルもそうだ。芸術の秋、とはよく言ったもので、私たちにとってはちょっとしたかきいれ時だ。


 でも、それだけではない。


 冬、12月には、担当しているそれぞれの音楽教室と、師匠の教室とで、発表会がある。


 音楽教室の生徒も、早い子は9月頃からその練習が始まっていて、レッスンも回を重ねるごと、熱を帯びて行った。


 その中でも、師匠の教室の発表会には、師匠の門下は、全員演奏する大掛かりな舞台だ。もちろん、私も師匠の門下、という立場上、演奏はする。ただ、今私は、師匠の門下ではあるけれど、毎週師匠のレッスンを受けている"生徒"ではないので、師匠同様、模範演奏、という形での演奏になる。


 その発表会に、杏樹も出ることになった。


 杏樹は、師匠の門下、というわけではない。けれど、私の生徒、という立場になるので、師匠とはまるっきり無関係、というわけでもない。


 その師匠から、杏樹も発表会に出してみては? という話が出たときは、正直躊躇した。


杏樹は、どこかの音楽教室の生徒、というわけではなく、私が個人的に教えているだけなので、この冬の発表会には出さないつもりだった。


 それに、ピアノを教え始めてまだ数か月。曲を満足に弾けるような状態ではない。


 でも。


「子供が、正装して、ちゃんとした舞台に立てるなんて、普通の生活をしていたら、滅多にないでしょ? それに・・・いつもと違う行事を目標にして、練習するだけでも、随分気持ちが変るわよ」


 師匠にそう言われて、杏樹も、師匠の門下の発表会に出すことになった。


 杏樹に、発表会の事を教えてあげると、杏樹は目をキラキラさせて笑顔になった。


「本当?」


 嬉しそうな、今にも飛びついてきそうな表情だった。


「うん。だから、頑張って一曲、仕上げるよ?」


「うん!私頑張る!」


 それは、今までにない程、元気な声だった。


「・・・杏樹、今まで発表会に出たこと、ある?」


「ないよ!」


 私の質問に、杏樹は簡潔に答えた。


「・・お教室の発表会はあったけどね、・・」


 杏樹は少し、寂しそうな顔をした。・・・おおかた、舞台で弾けるほど、上手にならなかったんだろうな・・簡単に想像できる。


「それじゃ、今から杏樹は一生懸命、頑張って、曲弾けるようにならなきゃ!ね?」


「うん!


 ね、先生!


 私、すごく楽しみ!!」


 杏樹はうきうきした顔をして、私を見上げている。


"随分気分が変わるわよ"


 師匠の言葉が脳裏をよぎった。


 普段、舞台に立つことが多い私は・・・もしかしたら、"舞台に立つ"事で気持ちが変わることさえも、麻痺してしまっているのかも知れない。


 そりゃあ、舞台は大好きだし、それ自体が仕事だ。本番前の緊張感は子供の頃とは変わっていない。でも・・・


 たとえば、今目の前で発表会に出られることを喜んでいる杏樹とは、嬉しさがまた違う。



 私はいつの間にか、こんな風に、素直に喜ぶことさえも、忘れてしまったんだろう・・・



 目の前ではしゃぐ杏樹を見ながら、私はどこかで落としてしまったたくさんの感情に思いを馳せていた・・・


 






 杏樹のレッスン課題に、発表会の曲が加わった。


 そして、私自身も、夏頃からずっとリサイタルの練習に力を入れていた。


 目まぐるしく忙しいし、杏樹もそれ以外の生徒や、課題や発表会の曲、自分自身の曲・・・目が回りそうだ。


 



 そんな、ある土曜日。


 いよいよ明日、私のソロリサイタルだ。


 曲も仕上がっているし、準備も出来ている。


『ママと一緒に聴きに行くね!』


 私のリサイタルの事を知ると、杏樹は、決して安くはないチケットを私から二枚も買い求め、(チケット代は杏樹のママからもらったらしい、小学1年にしてはかなりの高額だ)嬉しそうにそう言っていた。


 明日は、杏樹のママも聴きに来てくれるそうだ。久しぶりに杏樹のママに会える・・・そう思うと、いつものリサイタルとは違う、嬉しさが増えた。


 そして今日は、本番前日、ということで、仕事は、全部お休みにさせてもらった。


 今日は一日、どこかに出かけるつもりもないし、軽く曲の練習だけして、早く休んで、明日に備えるつもりだった。




 午前中、軽く曲を弾いていると、あっという間にお昼が過ぎる。


 練習に夢中になってしまって、気が付くともう、午後・・・お昼はとうに超えていた。


「どうしようかなぁ・・・お昼・・・」


 そう思っていた時だった。


(ピーンポーン・・・・)


 玄関で呼び鈴が鳴った。


 今日は、誰かが来る予定はないはずだ。杏樹の学校は土曜日でお休みの・・・筈だ。


 そういえばバザーが土曜日にある・・・とか言ってたっけ?


 リサイタル準備でバタバタしていたせいか、そんな会話さえ、うろ覚えだ。


 私は返事をしながら、玄関ののぞき穴から外を見ると、杏樹が、不安そうな顔をして、玄関を見上げていた。


「杏樹?!」


 私は驚いて玄関の鍵を開けた。今日は、杏樹のレッスンも入れていない筈だ。


それに、土曜日は学校がお休みで、"学校帰りに寄れない"上、杏樹のママもお仕事がお休みでお家にいるから、と、土曜日レッスンを入れることは、まずない。


 それなのにどうして杏樹がここにいるの?


 玄関を開けると、杏樹の表情が、ぱあっ!っと明るくなった。


「よかったぁ! 桜先生、いてくれた!!!」


 杏樹はそう言って、いつもの満面の笑みを浮かべた。つられて私も笑顔になった。 


「どうしたの? 今日レッスンないでしょ?学校だって・・・」


 見ると、杏樹はランドセルを背負っている。


「学校…あったの?」


「うん!今日は家族参観だったの!」


 杏樹は元気にそう答えた。そして、


「それでね、授業の後、バザーなの。ママは、バザー委員だから、学校に残ってるの。まだお片づけが残ってるんだって」


 よく見ると、いつも手に持っているピンクの手提げ袋には、レッスン用の楽譜ではなく、バザーで買ったと思われる雑貨や食べ物がぎっしりと入っていた。


「今日はね、先生に、お土産持って来たの!」


 杏樹は嬉しそうに手提げ袋を私に差し出した。その嬉しそうな表情と勢いに、私は気圧されるように、数歩、後ずさった。


「まあ・・・上がって」


 私はいつものように、杏樹を家に入れた。


 


 杏樹をリビングに通して、いつものように杏樹に麦茶を用意してあげると、杏樹は、リビングのテーブル席に座って、ピンクの手提げ袋から、なにやらごそごそと引っ張り出していた。


「あのね、今日、小学校、バザーだったのね」


「・・・うん・・・」


 杏樹は、手提げ袋の中から、白い小さな、コンビニやスーパーでもらえるようなビニール袋をたくさん引っ張り出した。それぞれに、"何か"が入っていて、それらをどんどんテーブルに並べていった。


「えっと、焼きそばとね、フランクフルトと、菓子パンと、クッキーと、パウンドケーキと・・・」


 まるで魔法の袋のように、杏樹の手提げからはあとからあとから、食べ物が出てきた。



「桜先生と一緒に食べたかったの!」


 杏樹は元気な笑顔でそう言った。その笑顔に気圧されたまま、私は返す言葉さえ、失った。


「・・・お友達は?一緒に食べなかったの?」


「うん、みんな、パパやママと一緒だったし、それに・・・」


 杏樹は、いったん言葉を止めた。そして、どこか言いにくそうに、口ごもった。


「・・・・・?」


 こういう杏樹は珍しい。いつも言いたいことは、自分の言葉でちゃんと伝える杏樹が、こんな風に口ごもるなんて・・・



「何かあったの?」


 一瞬、言葉では言い表せない不安に襲われて、杏樹の顔を覗き込んだ。すると杏樹は、買い込んできた食べ物の中の、焼きそばを指さした。


「バザーの焼きそば屋さんね、コウ君のパパがやってたの。あたし、コウ君と一緒にずーっと並んでたんだ。だから、お友達とは一緒じゃなかったの」


 嬉しそうに・・・でも少しだけ恥ずかしそうに耳を真っ赤にしてそう言った。


 コウ君・・・それは、今まで杏樹の話に何度も何度も出てきた男の子の名前だ。


 幼稚園の頃からのお友達で、ずーっと一緒だった子で・・・


 杏樹は何にも言わないけれど、話をいつも聞いているから、判ってしまう。


 杏樹は、コウ君が大好きなのだ、と・・・


 お友達の"好き"ではない。


 きっと。私が子供の頃、"けんちゃん"の事を好きだったのと、同じ意味合いの、"好き"・・・


 だって、杏樹が"コウ君"の事を話すときは、いつも、他のお友達の話をする時の表情とは違うから。


 笑顔と、嬉しさに、ちょっとだけ恥ずかしさの混ざったような・・・子供なりに、真剣に、恋している顔をする。


だから・・・判ってしまう。


「学校のバザーの焼きそば屋さんはね、毎年、パパ達がやってるの。バザーのほかにもね、夏の子供会の盆踊りの時とか、幼稚園の卒園式の時にも、焼きそば作ってくれたりしているの。とっても美味しいんだよ!」


 ・・・小学校のPTA活動は、子供の母親が中心になってやっている・・・そう思っていた私にとって、その話は新鮮だった。父親なんて、学校には無関係で、父親参観日と運動会にだけ顔を出す存在・・・そう思っていたから。


 現に、私の父もそうだったから。


 私が子供の頃のバザーの日なんて、父は仕事で来てくれなかったし、学校からの“(子供の)父親の方々にご協力お願いします"的な通達、父はすべて、仕事を理由に黙殺していたほどだ。


 私がそんなことを考えている、なんて杏樹は全く気付かずに、コウ君の話をつづけている。


「焼きそば屋さんはね、すごい人気で、行列だったんだけど、コウ君と、離れないようにずーっと手、繋いでいたの。で、ずーっと一緒に並んでて、一緒にいられたんだ!


 そのあとも、桜先生に何か買っていってあげたいって言ったら、菓子パンの所もお菓子売り場も、一緒に並んでくれたの!」


 杏樹は、幸せそうに矢継早に話を続けている。きっと、バザーの間、ずーっとコウ君と一緒だったのだろう。


「杏樹は・・・コウ君の事、大好きなんだね」


 私がそう言うと、杏樹はほっぺを真っ赤にして、恥ずかしそうに頷いた。


「うん、大好き!


 大きくなったらね、コウ君のお嫁さんになりたい!」


 かわいいなぁ・・・


 そう言う杏樹に、私も笑顔で答えながら、彼女の髪をやさしく撫でた。



 そういえば、私にも、こんな時代が、あった。


(大きくなったら、けんちゃんのお嫁さんになりたい)


 そんなことを考えていた時代・・きっと今の杏樹と同じくらいの頃だ。


 でも、今は・・・あの頃のような情熱もなく、想いさえも、どこか曖昧だ。


「ねえ、さくらせんせい?


 先生は、好きな人、いる?」


 いきなり自分の事を聞かれて、私は「えっ!」と声をあげてしまった。


「だから!先生には、好きな人、いる?」


 杏樹は、おんなじ質問を繰り返した。その眼はまっすぐに私を射抜き、子供なのに、はぐらかすことなど出来ない強さがあった。


 その眼に、私は観念した。


「・・・杏樹くらいの頃には・・・いたかな?」


 今の私の、複雑な恋愛模様をすべて話して聞かせるには、杏樹はまだ幼すぎる。


 でも・・・杏樹くらいの頃の恋の話だったら、話せる気がした。


「どんな人?」


 杏樹はわくわくと楽しそうに私の顔を見上げた。つられて、私も笑ったけれど、きっと失敗しているだろう。


「すっごく、優しい人。お兄ちゃんみたいな人だったよ。


私、いつもその人の後ろ、追いかけてた。大好きで、こっちを向いてほしくてね。


 彼は、いつも・・・私を見つけると、にこ、って笑ってくれて、その笑った顔が、大好きだったんだ」


 あの頃の"けんちゃん"の話は、すんなりと私の口から出てきた。


「夏に・・・タイムカプセル、杏樹が掘り出してくれたの、覚えてるでしょ?」


「うん!先生のタイムカプセル!!」


 杏樹は元気に頷いた。私もまた頷くと、立ち上がり、リビングの棚にしまっておいた、あの玩具の缶バッグを取り出した。


 長いこと埋められていて、錆びてて痛んでしまっている。一見ゴミ同然だ。


 杏樹が掘り出してくれたあの日以来、捨てることも出来ず、さりとて出しっぱなしにも出来ず、指輪を入れたまま、棚にしまったままだった。


 その小さな缶バッグを開けると、中にはあの指輪が一個。寂しそうに入ったままだ。


 その指輪を取り出すと、杏樹の目の前に、そっと置いた。


「この指輪をね・・・くれた人。杏樹くらいの頃・・・あの夏祭りで・・・


 あの頃の私の、宝物だったんだよ」


 杏樹の声とは対照的で、私の声は酷く落ち着いて、沈んで聞こえただろう。


「・・・その人は?」


 その声で、杏樹の顔も神妙になった。心配そうな顔をして、私の顔をじっと見ていた。


「・・・いるよ。今も。


 でも、あの頃みたいに・・優しいお兄ちゃんじゃ、なくなっちゃった」


 事実をすべて、口に出すことは出来なかった。


「ある時、急にね、構ってくれなくなっちゃったの。私の事、嫌いになっちゃったのかもね」


 嫌いになっちゃったのかもね・・そう言ったとたん、杏樹は、今にも泣きそうな顔をした。そして私も・・・その言葉を発したからか、杏樹の顔を見たからか判らないけど・・・目頭が熱くなった。泣く直前のように・・・


「・・・だから、指輪を、タイムカプセルに入れて、埋めたの?」


 そっと、そっと、杏樹が聞いてきた。私は頷いた。


「そう。


 悲しくて、寂しくてね。


 彼の事を考えるのもつらくてね。


 これを埋めたの。


 それで・・・早く大人になりたかった」


「どうして?


 どうして、大人になりたかったの?


 私、今が一番大好き!


 お友達もコウ君もいて、ママもいて。桜先生もいて。


 みんな笑ってるもん!


 毎日、とっても楽しいよ?


 ・・・・先生には、その人以外に、笑ってくれる人、いなかったの?


 楽しい事、なかったの?」


 けんちゃん以外に、けんちゃんが冷たくなった、その寂しさを埋めてくれる存在・・・?


 杏樹はきっと、コウ君との仲が、私とけんちゃんみたいになったとしても・・・周りにいるお友達が、その悲しみを埋めてくれるだろう。


 でも・・・当時の私には・・・


「・・・いなかったのよ。


 パパはお仕事で忙しくて、家に殆どいなかったし、ママももう、いなかったの。


 私にとって・・・あの頃は、その人しかしなかったの。


 その人に・・・子どもだ、って理由でそっぽ向かれて・・・寂しくて。


・・・その人、私よりずっと年上だったから。


 その人と釣り合うくらい・・・子ども扱いされないくらい、大人になりたかったの」

 


 無論、お友達はいた。由香里はあの頃からの親友だし、人並みに友達もいた。


 でも、私は、今の杏樹のように、人の輪の中心にいたわけではない。むしろ、みんなと一緒に遊ぶより、家の中で、一人で過ごすことが多かったし、その方が好きだった。


 だから、あの頃、私にとって、一番近くにいる"他人"は、・・・けんちゃん一人だけだった。


 無条件で優しくて、無条件で受け入れてくれたけんちゃんを、まるで、刷り込み現象のように・・・好きになった。



 だからこそ・・・あの悲しい言葉を投げつけられた時は・・・まるで世界中の人からそっぽを向かれるくらい・・・悲しかったし、寂しかった。



 杏樹は、それ以上話を聞き出そうとはしなかった。きっと私から、今の杏樹と同じくらい、楽しい恋の話が聞けると期待していたのだろう。期待外れなことをしてしまったかな・・・少しだけ杏樹に申し訳なく思った。


「せんせえ・・・」


 次の瞬間。


 杏樹は、椅子に座っている私のそばまで来ると、


ぎゅっと。私の身体を抱きしめた。


「あ、杏樹?」


 突然の杏樹の行動に、返す言葉を失っていると。


「よく、先生、私にこうやってぎゅってしてくれるでしょ?」


 ・・・そういえば、四月に杏樹と出会ってから、杏樹をぎゅっと抱きしめてあげることが、多かった。


 たとえば、杏樹のパパの話を聞いた時。


 たとえば、杏樹のお友達が熱中症で倒れて、杏樹が大泣きしたとき・・・


 たとえば、杏樹のパパとママの話を聞いた時・・・


 たとえば・・・


 数え上げたらきりがない。


「あたし、先生にぎゅってしてもらうの、大好き。


 先生にギュってしてもらうとね、悲しかったり、泣きたかったりしても、すごくうれしくなるんだ。


 だから、先生が悲しい時は、あたしがギュってしてあげる」


 抱き付いてきた、杏樹の身体は暖かくて、自然に、凍り付いていた心までもが溶けてゆく感じがした。


「・・・あったかいね・・・杏樹は」


 抱き付いてきた杏樹の背中をやさしくさすると、それを真似するように、杏樹も私の背中をさすってくれた。


「先生も、あったかい」


 くふふっ、っとかわいく笑いながら、杏樹はそう言った。




 私が、もしも暖かいのだとしたら。


 きっと杏樹のこの熱が、冷たかった私を温かくしてくれたのかもしれないね。


 杏樹のピンク色の頬に、そっと触れてみると、柔らかくて、触り心地が良かった。


 まるで、杏樹の優しい心に触れたような気分だった。




 そのあと。


 杏樹と一緒に、杏樹が買ってきてくれた焼きそばや菓子パンを一緒に食べた。


 せっかく買ってきてくれた焼きそばは、すっかり冷たくなってしまったけれど、杏樹と一緒に食べていると、そんなことも気にならないくらい、美味しかった。


 食べながら、杏樹は、今日学校であった事を、まるで母親に話すかのように話し続けた。


 とりわけ、コウ君の話をする時の杏樹の顔は、とっても嬉しそうで、口の周りや歯に焼きそばの青のりをくっつけたまま幸せそうに笑っていた。


"おおきくなったら、コウ君のお嫁さんになりたい!"


 杏樹の、夢。


 私の、けんちゃんとの夢は叶わなかったけれど。


 杏樹のこの夢は、叶うといいな・・・


 杏樹の笑顔を見ながら、そう思った。



「あ、そうだ!先生!!」


 最後のパウンドケーキを食べ終わり、口の周りにケーキのかすをいっぱいつけたまま、突然杏樹は大きな声でそう言った。


「何?」


 私は、杏樹に再び麦茶を入れてあげながら、その杏樹の話の続きを促した。最近は、この杏樹の大声にもすっかり慣らされてしまった。


「さっきの、先生の好きな人の話なんだけどね?」


 ・・・・不意に、私は憲一さんとの話を思い出して、恥ずかしくなった。


「う・・・うん・・・・」


 それでも、杏樹の話を中断させたくなくて、頷くと。




「あのね、先生、


 大好きな人に、"好きだよ"って言ってもらえる方法があるの!」


「え!!」


 驚いた私は杏樹の顔を見た。杏樹は、ふふふ、っと、嬉しそうに笑った。そして、そっと私の耳に顔を近づけて、耳元でささやいた。


 言うまでもなく、この部屋には私と杏樹、二人しかいない。それなのに、こうして内緒話のように耳打ちする意味があるのだろうか? そう思ったけれど、それ以上に、これから杏樹が耳打ちする内容の方に興味があった。


 ほんの数秒の耳打ち・・・内緒話の後、私は思わず声をあげてしまった。


「え、ええっ!」


「私ね、これで、コウ君に"好きだよ"って言ってもらったんだよ!

 

 ね、先生、試してみなよ!」


 杏樹は嬉しそうだ。その笑顔には、嫌味な様子も、言ってもらえて自慢したりするような様子は全くなくて、ただ純粋に、コウ君に好きだって言ってもらえた事が嬉しくて、そのプロセスを私に教えてくれた、それだけだった。


 一方、言われた私は・・・


「でも杏樹、それって、彼に好きだよって言うよりも難しいよ?」


「え?そうかなぁ?」


 杏樹が教えてくれた"方法"・・・それは、私にとっては、愛の告白並みに恥ずかしい言葉だった。それに・・・これを憲一さんに試したところで、彼が、もくろみ通りに"好きだよ"って言ってくれる確証なんか、どこにもない。


「でもね、桜先生?」


 杏樹は、心持ち、真面目な顔をして私を見上げた。


「あたし、幼稚園の頃からずーっと、コウ君に"好き"って言ってたのね」


「・・・うん・・・」


 幼稚園の頃から、ずっとコウ君に好きって言い続けてたの?・・・妙なところで感心した。


「でも、コウ君からは、一度も好きだよって言われたこと、なかったの。好きだよって言っても、うん、って頷いたり、"僕も"って言ってくれたんだけどね・・・


 だから、さっきみたいに言ってみたの。


 そうしたら、コウ君、ちゃんと好きだよって言ってくれたよ」


「幼稚園の頃からずーっと、コウ君の事、好きだったの?」


「うん!! だから、コウ君に、好きって言ってもらえた時は、とっても嬉しかったんだ!」


 杏樹は少し恥ずかしそうに、えへへ、と笑った。それでも幸せそうな表情は、私が失って随分経つものだ。


 相手の事が大好きで、相手も自分の事を好きだと言ってくれて・・・そんな幸せなことはない。


 でも、私は・・・


 杏樹の幸せな話を聞きながら、ふっと、憲一さんの事を思った。


 彼に対して、無関心ではいられない心。


 杏樹のように、今更彼と一緒にいて笑顔で幸せな気持ちになど、なれない。


 それでも、嫌いになどなれず、さりとて、好きとも思いきれない。


 無関心でさえ、いられない。


 彼からは悲しい言葉を投げつけられ、師匠の名前を使って縛られた。


 和也さんは、都合のよい憶測を並べてくれたけど、それさえも、信じられない。


 ただ・・・胸がひどく、締め付けられるように、痛いだけ。


 そんな彼が・・・好きだと言ってくれたところで・・・


「・・・先がない、だけだよ・・・」


 杏樹に聞こえないくらい、小さな声で、私は呟いた。





 焼きそばを食べ終わると、間もなく杏樹は帰って行った。


「それじゃ、先生、さよーなら!」


 そう言う杏樹を玄関先まで見送ると、杏樹は何度も振り返りながら、帰って行った。その手には、空っぽになったピンクの手提げ袋が軽く揺れていた。


 杏樹が見えなくなるまで見送った後、私は再びリビングに戻った。


 リビングのテーブルの上には、焼きそばの入っていた包材や、菓子パンが入っていたビニール袋が残っていた。


 私はそれらをひとまとめにして、ごみ箱に入れようとして・・・


「あれ?」


 杏樹が座っていた椅子の下に、ピンク色の紙を一枚、見つけた。


 紙・・・違う。絵ハガキみたいな長方形の、しっかりとした紙だった。


 きっと、杏樹の、あの手提げ袋にまぎれていたのだろう・・・もしかしたら、今日のバザーの時にでも買ったのかもしれない・・・


 そう思いながら、それを拾い上げると・・・


 その絵ハガキの裏には、杏樹の、子供独特な平仮名ばっかりの文字が並んでいた。


 それを読みながら・・・私は気が付いたら笑っていた。


"せんせいへ。がんばってね"


 文字の周りには、キラキラ光るシールや、色とりどりのテープで綺麗に飾り付けされていて、、誰だかわからないような髪の長い女の子と、音符がいっぱい、カラーペンで描かれていた。


「杏樹・・・」




 もしかしたら、杏樹は。


 この手紙を渡すために。


 本番前の私を励ますために、ここに来てくれたのかな?


 ううん、本番の事だけじゃない。


 初めて杏樹に話した、私の"恋"の事も。


 それでわざわざ・・・ここに来たの?



 真相なんて、杏樹本人しかわからない。


 大体、杏樹に私の恋の話なんか、今までしたことがない。


 このカードだって、いつ書いたのかさえ、判らない。少なくとも、この家では書いていなかったはずだ。


 だから、このカードは、明日のリサイタルを頑張って・・・という気持ちで書いたのだと、おもう・・・


 それでも、あんな恋の話の後にこんなカードを見つけてしまうと、杏樹に恋の応援をしてもらっている気分だ。


 杏樹とは対照的な、叶わない、出口のない恋を・・・





 「杏樹ってば・・・」


 私はその手紙を、胸にそっと、抱きしめた。


 杏樹の、あの独特な体温を感じた気がした。




 不思議と、あの杏樹の独特な体温を感じると、なんでもうまくいくような気がした。乗り越えられるような気がした。


「あの子は・・・本当にもうっ・・・」


 真相なんか、判らない。


 でも・・・


 恋はともかく、リサイタルの方は。


 今までのどんなリサイタルやコンサートよりも、頑張れるような気がした・・・


 私は、明日持ってゆくバッグの中に、そのカードをそっと入れておいた。




#######




 杏樹が訪れてきた、翌日。


 私のリサイタル、当日。




 開演は、午後1時。


 スタッフは、その数時間前に、会場に集まることになっていた。



 毎年、この日、私は、誰よりも一番に、会場入りする。


 これは、私自身の願掛け。


 リサイタルが成功する、おまじない・・・





 それなのに。


 通用門から中に入ろうとすると、顔見知りの警備員、片瀬さんが、先客がいる事を教えてくれた。


片瀬さんは人の良いお年寄りで、長年会社員をしていたけれど、定年退職後、ここの警備員をしているそうだ。


 先客がいる、と聞いて、びっくりして時計を見たけど、スタッフの集合時間まで、まだかなり時間がある。


「誰ですか?」


 そう聞いても、片瀬さんは教えてくれない。


 その代わり、舞台の方からピアノの音が聞こえた。


 曲ではない。何か独特な音階を弾いているみたいだった。


「調律・・・ですか?」


 そう・・・その独特な弾き方はよく知っていた。ピアノの調律師が調律している弾き方だった。


 片瀬さんは頷いた。


「昨日の夜の公演が終わった後、ピアノ線が切れててね。修理に電話したんだけど、夜遅くて繋がんなかったんだ。仕方ないから、知り合いに頼んだんだ。


 叶野さんが来るまでに終わるかと思ったけど、ちょっと時間かかってるみたいだなぁ・・・ごめんな、指慣らしやりたいだろうけど、もうちょっと待っててくれる?あ、控え室は、もう使えるようにしてあるから、控室で待ってて」


 それなら仕方ないか・・・


 私は片瀬さんにお礼を言って、会場の中に入った。


私が使うことになっている控室にはすでに軽く空調がつけてあって、心地よく整えられていた。


 すぐに使えるように・・・


 片瀬さんのそんな心遣いに感謝しながら、私はふぅ、と息をつき、荷物を置いた。そして、片隅にある衣装用のハンガーに持ってきた衣装をかけた。伴奏の時とは違う、ピンク色の華やかなデザインのドレスだ。



 ピアノは調律中。いつもだったら会場に着いたらさっそくピアノを弾かせてもらうんだけど、それも出来ない。スタッフ集合まではまだ時間もある。


 することもなく、いつもバッグに入れてある小説の文庫本を引っ張り出して、少し読もうとして・・・


「あ・・・」


 バッグの中から、見覚えのあるカードが出てきた。


 昨日、杏樹が置いていったカードだった。


 とたんに、杏樹のあの笑顔が目に浮かぶ。


「杏樹・・・」


 今日は、杏樹もママと一緒に来ると言っていた。


 杏樹が聴きに来てくれる、それだけで、いつも以上に頑張れる気がする。


『好きな人に、好きだよって言ってもらえる方法があるの!』


 杏樹の言葉が、鮮明に蘇った。


「好きだよ・・・か・・・」


 憲一さんに言われてみたいな・・・


 一瞬そう思ったけれど、私はあわててその思いを心の外に追い出した。


 

 今更なのに。


 どうしてこうも、節操なく思い出すんだろう・・・


 

 そう。気が付くと。


 いつだって、私の想いの中心には、憲一さんがいた。


 子供の頃から、そうだった。


 "けんちゃん"と慕っていたあの頃から、ずっと・・・


 悲しい言葉を投げつけられた後も、


 ジュニアコンテストで優勝した時も


 音楽で生きて行こう、と決心した時も


 留学中でさえも。


 そして、今もまた・・・


 



 憲一さんの態度や言葉に、一喜一憂しながら、

 

 冷たい言葉や態度に傷つきながらも、


 彼の嘘にショックを受けながらも・・



 それでも、無関心ではいられない。


想わずにはいられない。


 想えば想うだけ・・・苦しいだけなのに・・・




 結局、どれだけ私が足掻こうと、もがき苦しもうと、


 憲一さんに対する、想いの結果は、変わらない。



「なんだかなぁ・・・」


 どうしようもなく、

 

 惨めだ。


 無様だ。


 

 どれだけ好きでも。


 相手に想われず、一方通行。


 どれだけ冷たくされようと


 嘘つかれても。


 理不尽に繋ぎ止められても。


 嫌いにさえ、なれず。


 無関心にも、なれず。


 他の異性さえ、彼の代わりにはならないなんて。



「身動き、取れないじゃん…」



 いつか、時間がたてば、


 こんな思いも、過去のものになって、"そういえば、そんなことがあったな・・・"って、思えるのかなぁ…


 でも、そう思えるのは、少なくとも、今日明日ではない。もっとずっと先の事・・・


「忘れるまでに、力尽きそうだ」


 意外と私は、諦め悪い・・・ううん・・・執念深いのかもしれないな・・・


 改めて、自分の性格というか性分を思い知った気がして、辟易した。


 ため息をつきながら、私は杏樹のカードをバッグに丁寧にしまった。






 どの位時間が過ぎてからだろう? 調律が終わったのか、ピアノの音が止まった。


 やっと終わった・・・そう思って立ち上がり、ピアノのあるステージへ向かった。


 控室からステージへと向かう廊下を歩いていた時・・・


"♪~~~♪~~~"


 ステージから、ピアノのメロディーが流れだした。


 それを聞いた途端、思わず足が止まった。


(この弾き方・・・知ってる・・・)


 そして、このピアノを弾いている人に、すぐ思い当った。


 と同時に、止まっていた私の足は再び動き出していた。



 心なしか、足が震えた。


(まさか・・あの人が・・・)


 そんなわけがない、そう思う気持ちと、あの人に違いない、という確信に近い思いが入り混じって、妙な気分だった。


 ようやく舞台そでにたどり着いて、そこから、ステージの中央にセッティングされているピアノの椅子に座り、演奏している人を見た。


 ピアノの横の床には、調律器具がケースごと置いてあり、既に調律は終わっているようだった。


そして・・・


(やっぱり・・・)


 その人を見て・・・素直にそう思った。


 ピアノの前には、憲一さんが座っていた。


 さっきから調律をしていたのは、憲一さんだったのだ。


 そういえば・・・師匠の付き人兼マネージャーをするようになってから、仕事の傍らピアノ調律の専門学校へ通っていた、と聞いたことがある。


 そして、今、ピアノの前に座って、曲を演奏しているのも、廊下まで聴こえたピアノもまた、憲一さんだった。


 憲一さんも、子供の頃は師匠からピアノを習っていた。いつの間にか辞めてしまったけれど、師匠の生徒さんの中ではダントツ、上手かった。


 その憲一さんが、一番得意だった曲、そして・・・私が一番好きな曲だった。


ベートーヴェン“悲愴"第2楽章。


 でも、私は、彼がこの曲を弾いているところを今まで見たことはなかった。


 彼がこの曲を頻繁に弾くようになったのは、あの悲しい言葉を投げつけられた後で・・・めったに顔を合わせることがなくなってからだった。


 当時の彼の演奏レベルを考えたら、彼にとっては簡単すぎる曲だったから、レッスンでやっている曲ではない筈だ。それなのに、頻繁に聴こえてきていた。


 練習している、という感じでもなく、かといって遊びで弾いているような演奏でも、なかった。


曲と、真剣に向かい合っている事が、子供だった私にもちゃんと伝わってきた。演奏している彼の姿が想像できた。


だからこそ・・・自然に、隣から聞こえてくるあの曲は、彼が演奏しているものだと思っていた。


そして彼は、いつの間にか、ピアノをやめていた。それでもよく、この曲が聴こえていた。


 私がドイツから帰国した頃には全く弾かなくなっていたけれど・・・


 その“悲愴”を聴くようになって、この曲が好きになった・・・今となっては、遠い昔の話だ。


 そして今、その彼が、目の前でピアノを弾いていた。


 彼は、鍵盤に軽く目を落とすようにして、危なげなく弾いていた。


 ゆったりと、少し寂しげな旋律は、止まることなく続いている。


 それほど難しい曲ではない。中級クラスの演奏力があれば弾くことが出来る。


 でも、なぜか彼の弾く「悲愴」は、当時から、他の誰が弾く"悲愴"よりも心に響いた。


 技巧に走るわけでもなく、適当に弾き流すわけでもなく。


細かい表現もダイナミクスも、手を抜くことなく弾いている。


 ううん、違う。・・・技術的な事ではない。


 手の届かない物に対するもどかしさや、


 切なさ、苦しさ・・・静かで穏やかな、それでいて秘めた情熱・・・


 聞いているだけで、心のどこかが切なく締め付けられるような、演奏。


静寂と情熱、一見矛盾するこの二つの感情が同居しているような演奏・・・こんな“悲愴”を弾く人を、私は彼の他に知らない。


(憲一さん。。。)


 ざわり、と心がざわついた。


 彼は今、


 いったい何を、


 誰の事を考えて、


 この曲を弾いているんだろう。


 隣の家からこの曲が流れるたびに、彼が何を考えて、この曲を弾いているのか、とても気になった。


 でも、その頃は、そんなことを聞き出せるような人間関係ではなかった。それくらい、彼と私の間には埋められない溝と距離があった。


 その溝も距離も、あのころとは全然変わっていない・・・


 想いは私の一方通行で、結局叶わなかった。


 この前、和也さんが、憲一さんの事をとても都合良く言っていた。

 

 でも、そんなの、妄想以上の何物でもない。


  

 だって、今、


 彼と私は、


 こんなにも・・・遠い・・・


 


 舞台そでに立つ私からは、彼の顔は、グランドピアノに見え隠れしていて、目を伏せるように鍵盤を見ている彼の表情までは、判らなかった。


 その、切れ切れに見える表情にも、演奏する姿にも、ざわざわと心がまた動く。


 平常心ではいられなくなる・・・


 



 曲は五分程で終わった。


 結局私は、舞台そでに立ち尽くしたまま、憲一さんのピアノを、聞き続けていた。


 最後の音が舞台に響き、その音が消えたとき。


 ふっと顔を上げると、憲一さんがこちらを見ていた。


「桜・・・いたのか」


「おはよう・・・」


「おはよう。いつも早いな」


「ん・・・」


 いつものような言葉のやりとり・・・でも、どこかしらぎこちなくて、いつもの無感情なものではなかった。


 それは、あんな演奏を聴いた後だから? 


「・・・ピアノ線、治してくれたんだってね。ありがとう」


「ああ・・・朝、片瀬さんから連絡貰ったんだ。手元に、ここで使えるピアノ線の予備があって、よかったよ」


「そっか・・・」


 言葉が、それ以上続かない・・・こんなにも気まずいのは久しぶりだ。


 感情の伴わない会話も、想いを隠したままのやり取りも、もう慣れきってしまった。


 でも、気まずいのは、嫌だ。


「ピアノ・・・」


「え?」


 沈黙を破ったのは憲一さんだった。


「ピアノ・・・弾いてくれないか?」


「私の?」


「ああ」


 彼はそう言うと、ピアノの椅子から立った。


 断れない。断る理由など・・・探せない。


「いいよ。何・・・聴きたい?」


 ゆっくり、ピアノに・・・憲一さんに近づいた。すると憲一さんは、ふっと、息だけで笑った気がした。


「何でもいいのか?」


「・・・悲愴以外」


 そう言ったのは・・・彼の悲愴以上の悲愴を、私はきっと弾けないから・・・


「それじゃ・・・」


 彼は一瞬、何か躊躇するような顔をした。


「?」


「・・・サティの"ジュ・トゥ・ヴ"」


 そう言われた瞬間、心臓が、今までない程跳ね上がった。


「え・・・」


「無理か?」


「無理じゃない」


 そう、無理ではない。


 悲愴よりも、簡単な曲だ。曲だって、楽譜がなくても弾けるくらい、暗譜している。


 でも・・・


 憲一さんが・・・師匠のマネージャーをやっている憲一さんが、あの曲の意味を知らないわけ、ない。


 それを、私に弾かせるの?


 何、考えてるのよっ!!



エリック・サティの、"ジュ・トゥ・ヴ"


邦題"貴方が欲しい"


 

 今、貴方にこれを弾いて、なんて言われたら。


私はきっと、また平常心でいられなくなってしまう・・・



 一瞬、平常でいられなくなった心を、私は必死で立て直した。


「・・・いいよ」


 せめて心の動揺を気づかれないように、私は返事をした。


 彼に、深い意味なんか、あるわけない。


 一方通行な想いは、どこまで行っても一方通行で。


 叶うことなんか、きっと、ない・・・


 彼に悲しい言葉を投げつけられた子供の時、幼い恋は終わりを告げた。


 それでも心のどこかで夢を見続けてしまった私。


 そんな思いの残像は、この前の夏に砕け散った。


 終わったんだから・・・



 そう言い聞かせながら、私は憲一さんに示された曲を演奏した。


 ピアノからは、澄んだ、優しくて、少しジャズっぽく楽しげなメロディーが流れ始めた。

 

 彼は、私の少し後ろに立ったまま、ピアノを聴いている。


 いったいどんな顔をして聴いているのか、演奏している私からは見えない。


 でも、視線ははっきりと感じた。突き刺さるような視線ではなく、もっと静かで・・・穏やかな視線だった。


 その視線を感じながら、ピアノを弾き続けた。


 

 ところが。


 曲の半ばを過ぎた頃だろうか?


 突然。


ふわり、と。背中に、肩に、首に、暖かい感触が触れた。


(えっ???)


 一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。


 びっくりして止まってしまった演奏。でも、憲一さんは何も言わなかった。


 心なしか、指先や腕が、怖くもないのに震えだした。


 ふわり、とした優しい感触は、今弾いているこの曲みたいだ、と思った。


 彼は・・憲一さんは。


 演奏している私を、


 後ろからそっと、抱きしめていた。


「少し・・・このままでいさせてくれ・・・」


 小さな声で、そう聞こえた。


「少しの間だけで・・・いいからっ・・・」


「けんいちさ・・・」


「何も言うな」


 ことのほか静かな声は、静かな舞台に響いたけど、それでもいつものような冷たさは感じなかった。


「少しで・・・いいんだ・・・」




 今まで、彼と知り合って随分経つけれど。


 彼にこんなこと、されたことはない。


 はるか昔・・・子供の頃、手をつないだりしたことはあった。


 でも、それは本当に子供の頃・・・悲しい言葉を投げつけられる前で、遠い昔の事だ。


 その現実を認識した途端、


 彼の体温を背中に感じた瞬間。


 ずっと蓋をし続けていた想いが、再びあふれだしてきた。


  


 

「あのね、先生、


 大好きな人に、"好きだよ"って言ってもらえる方法があるの!」




 脳裏に、昨日の杏樹の言葉がよみがえった。


 今なら・・・本当に今なら。


 彼に聞いたら、ちゃんと答えてくれる気がした。


 ううん・・・この機会を逃したら・・・


 きっと一生、言えないし、聞くことなんかできない。




「ね、憲一さん・・・」


 私は俯いたまま、昨日杏樹が教えてくれたことを、彼に聞いてみることにした。


「なんだ?」


 心なしか、彼の言葉は、いつもの冷たい声よりも少しだけ、熱を帯びていた。


 彼の息遣いが耳をくすぐる。それくらい、彼は私のすぐそばにいた。


「・・・二度と・・・聞かないからっ・・・」


 そう、前置きした。


 口から心臓が飛び出そうなほど、ドキドキした。


「・・・なんだ?」


「一つ、聞いても、いい?」


 すると、彼の、軽いため息が聞こえて。


「なんだよ」


 少しだけ呆れるような声が、聞こえた。


 私は・・・大きく、息を吸って、吐いた。





「私の事・・・好き?」






"簡単だよ!先生"


 昨日の杏樹との会話が、静かによみがえる。


"その人に『私の事、好き?』って、聞けばいいんだよ!"


"でも杏樹、それって、彼に好きだよって言うよりも難しいよ?"


"えー? そうかなぁ?"








 

 言った後、辺りは静寂に包まれた。


 ピアノの余韻さえ、聞こえない。耳が痛くなるような静寂だった。


 ただ、彼の息遣いと、いつもよりも早い私の心音だけが、エコーしているみたいだった。


 怖くて、彼の顔さえ見ることが出来なくて、私は俯いて鍵盤に目を落としたままだった。


 その沈黙に、私は想像以上の恐怖を感じて、改めて、聞かなきゃよかった、と後悔した。


 するり・・・と、憲一さんの腕が緩んだ。


 それに驚いて顔を上げると、憲一さんは、私の座っている椅子の横に立っていた。そして、私を静かに見下ろしていた。


 いつもより少し熱を帯びた視線で、じっと私を見下ろし・・・私も、逃げずにその視線を受け止めた。


 一瞬だけだったけれど、まるで時間が止まったみたいだった。


 そして、このまま、時間が止まってしまえばいいのに・・とさえ、思った。


 



 気まずさはない。


 でも、いつものような、無感情・・・ではなかった。


 戸惑いと、微かな熱っぽさと・・・いつもとは違う"何か"が、私たちの間には、あった。


 そしてそれは・・・いつも、無感情な彼の、もっと内面で、決して触れられなかった、酷くもどかしい"何か"で。


 まるで彼の無感情に隠れるように潜んでいて、誰かが見つけるのを、声を潜めてずっと待っている"何か"。


 彼の、"核心"のような"何か"・・・


 


 もしかしたらそれは・・・私がずっと目をそらし、見て見ぬふりをし続けてきたものだったのかもしれない。




(お願い、何かしゃべってよっ・・・)


 その沈黙に耐えられなくて、叫ぶように祈った。


 その沈黙が、どのくらい続いたんだろう・・・


「お前とは・・・」


彼は俯くように目を伏せると、小さな声で、呟いた。



彼がそう言いかけたその時。


 突然、廊下の方でばたばたと足音が聞こえた。


 そして、次の瞬間。


 彼は私から距離を置くように、ピアノから離れた。私も慌てて視線を外して立ち上がった。


「あ、いた!桜っ!」


 舞台にやってきたのは由香里だった。由香里は今日、スタッフをやってくれる約束になっていた。毎年、私のリサイタルの時には、他の友人たちとスタッフをやってくれている。


「みんな集まったから、ミーティングしよっ!・・・どうしたの?」


「え?」


「何?泣いてるの?」


 気がつくと、私は泣いていたみたいで、心配そうな顔をした由香里が、私の顔を覗き込んでいた。


「な・・・なんでもないよっ!」


そう言ったけれど、長い付き合いの由香里を騙しとおせるわけがない。


「どうしたのよ?・・・まさか・・・橘さん、本番前の桜になんかしたの?」


 由香里の視線は、側にいた憲一さんへと向いた。ゆらっ・・・っと、彼女の怒りがオーラのように湧き上がったけれど、慌てて憲一さんは首を横に振った。


「いや・・・なんでもない・・・

 

 ・・・本番前でナーバスになってるみたいだから。後、頼む。


 俺、まだ調律残ってるから、ミーティング出られない」


 憲一さんもまた、今日のスタッフをしてくれることになっていた。


「え?うん、それはいいけど・・・本当に平気?桜?」


 由香里が、私の背中を優しくさすりながらそう言った。心なしか、そのやさしさが胸にしみた。


「ん、・・・平気っ・・・ごめん、ゆかりっ・・・」


「いいって! ・・・これからミーティングなんだけど、出られる?」


「う・・・うん・・・」


 そう返事をすると、私は由香里と一緒に、舞台から・・・憲一さんから離れた。


 ・・・もしかしたら、逃げたのかもしれない。


 聞いたのは、私なのに。


 あの重たい沈黙を作ったのは私のせいなのに、あの沈黙には耐えられない。



 そして、彼の想いを知りたかったのも、私・・・



 聞かずには、いられなかった・・・



 

 そして、あの言葉を発した瞬間、確信してしまった。


 無感情、無関心ではいられないのは、


 私が、彼の事を、好きだから・・・


 

 今の彼は、"あの頃のけんちゃん"ではない。


 そんなこと、承知している。


 あんな優しくもない、自分勝手な大人なのに。


 それでも。



 (私、憲一さんの事・・・好き・・・だ・・・)



自覚、してしまった。




 嘘をつかれようと、悲しい言葉を投げつけられようと。


 その言葉や態度に一喜一憂しながら、


 私はずっと、待っていたんだ・・


いつか、 "彼に、好かれる"時を・・・


 いつか、ガキ扱いされず、一人の大人として、


 彼に認められ、愛される日が来ることを・・・




(ガキみたいに泣く奴は大嫌いだ!)


子供の頃、彼に投げつけられた、悲しい言葉が、再び蘇る・・・


(泣けない!絶対泣いたらダメだ!)


 泣けば、またガキ扱いされる・・・そんなの嫌!


 移動しながら、とめどなく溢れる涙を手の甲で拭った。


 それでも、涙は、いつまでたっても引いてくれなかった。




#####




  

 集まった友人・・・今日スタッフとして手伝ってくれる人たちとミーティングをしながら、


 私はさっき起こった事を、心の中に、再び厳重に封印した。


 そして、心をしっかりと切り替えた。


 今、私がやることは、傷心に浸ることじゃない。


 演奏者として、数時間後に始まる私自身のリサイタルを、成功させること・・・




 

 すべては、今日のリサイタルが終わってから・・・







あんなことがあったのに。


その後のリサイタルは、さしたる大きな問題も起きず、順調に進み・・・終わった。


 あの時、私が泣いていたことは、憲一さんが言ってくれた通り、"本番前にナーバスになっていただけ"という事になった。


 その現実にほっとしたり、そう言って取り繕った憲一さんに軽い苛立ちにも似た気持ちになったり、"ナーバスになっている"と思っている・・・あるいはそう思ったふりをしている由香里が、本番直前まで側にいてくれた事に感謝したり・・・私の心中は複雑だった。


 正直・・・本番中、どんなふうに演奏したか、とか、何があったか、とか、お客さんの反応とか・・・全く覚えていない。


 平常心で演奏するので精いっぱいだった。


 ううん、違う・・・平常心を装うので精一杯で、他に余裕など、なかった。


 そう言う意味ではここ数年の中で、最悪の演奏だった。


 でも・・・さしたるトラブルもなく終わった、という意味では、良いリサイタルだったのかもしれない・・・




 すべてのプログラムを終えて、アンコールにも応えて、舞台そでに引いた後。


 私は衣装のまま、ロビーに出た。


 これは、リサイタルの後、必ずやることで。


 来てくださった知り合いや友人知人に挨拶をする。


「お疲れ様~!」


「演奏、良かったよ!」


「ありがとございます」


 わたされた花束やお土産を受け取りながら、来てくださった方々とちょっと話したり、記念写真を撮ったり、少しだけ、有名人気分だ。


「ちょっと危なっかしい演奏だったな」


 大きな花束と一緒に、開口一番そう言った和也さんの言葉が、一番突き刺さったし、ヒヤリとした


「そ・・・そう?」


「ああ。心ここにあらずってとこか?」


 相変わらず、彼は容赦ない。そして・・ここで私が取り繕ったって仕方ないだろう。


「まあね。でも、上手くごまかし切れてたでしょ?」


「ああ。そのスキルだけは、俺も君に見習わなきゃな」


「よく言うよ。綺麗な顔して黒い性格してるくせに!!」


「否定しない。


 ま、嘘つけない質なんだ、俺は・・・誰かさんと違って、な」


 にやり、と企み顔で彼はそう言った。

 

 ・・・確かに、和也さんは絶対、嘘は言わないなぁ…ふっと、彼の行状を思い返した。


 留学中も、帰国後も。


 どれだけ自分が不利になろうと、面倒なことになろうとも。沢山の敵を作ろうと、相手を傷つけようと・・・


 嘘がつけないというか、つかない人だ。


『だってさぁ。たとえば桜さんが俺に嘘ついて、それを俺が気づいちまったら・・・俺ぜってー落ち込むし、傷つくと思う・・・


 だから、俺は嘘つきたくない。同じことすれば相手が傷つくし、同じ仕打ち受ければ、俺が耐えられない』


 以前、そんなことを言っていた。そして、その言葉の通り、彼は嘘をつかない・・・いつだって・・・演奏もそうだし、それ以外も、直球勝負する。小手先な小細工や誤魔化しなんか絶対にしない。彼の言葉も行動も、額面通りに受け取ることができる。


だからこそ、私は彼を信用出来るし、彼もまた、そんな私だからこそ、信用してくれているのだろう・・・


(嘘・・か・・・)


 不意に、憲一さんがこの夏ついていた"嘘"を思い出した。


 "寂しいから"と言って、師匠の言葉と偽って私を束縛していた、彼の嘘・・・


 もしも、それが和也さんだったら・・そんな嘘はつかないだろう。


 "寂しいから"と、私に直接言うだろう。ある意味、非凡な性格だ。


 普通…例えば憲一さんだったら言えないだろう・・・"恥ずかしくて言えるか!"とか言って・・・


 


 そんなことを考えていた時だった。



「さくらせんせいっ!!!」


 ロビーに響き渡るかと思うほどの、聞き覚えのある大声で、私はあわててその声のしたほうを向いた。一瞬、周囲が静まり返った気がしたのは、きっと気のせいではないだろう。


 振り返るとそこには、かわいらしいピンク色の、よそ行きのツーピースを着こんだ杏樹が、大きな花束を抱えてパタパタと駆け寄ってきた。


「杏樹!」


 そう呼ぶが早いが。


「先生!


 すっごく!


 すっごく!


 上手だったよ!!!」


 はしゃぎながら、身振り手振りで演奏の感想を一生懸命話し始めた。


 普通、この位の年頃の子供が、大人しく演奏を聴くのは、退屈だし難しいだろう。


 でも、杏樹の顔からは、退屈な色はまったく感じなかった。


 その様子を、和也さんは、珍しいものを見るように見ている。


「あのね、2部の二曲目の曲、私大好き!


 あれ、コマーシャルでも流れていた曲でしょ?」


「うん、あの曲知ってる人、いっぱいいるな、って思ったから弾いたんだよ」



 私たちのやり取り・・・というより、主に杏樹のリアクションは、周囲の空気を一気に和ませた。


 お客さんは、そのほとんどが大人だったり、ピアノを習っている高校生以上だったりする中、子供は杏樹だけだ。そんな杏樹の存在が目を引いたのかもしれないし、私が杏樹に惹かれた、同じ想いを、周囲もまた杏樹に抱いたのかもしれない・・・


「この子・・・君の生徒?」


「うん。この春から自宅で教えてるの」


「子供教えるなんて珍しいな・・・しかも自宅か?」


「うん、憲一さんの頼み」


「・・・またあの男か・・・」


 憲一さんの名前が出ると、和也さんは少し嫌そうな顔をして、ため息をついた。そんなやり取りを全く意に介さず、杏樹は、抱えている大きな花束を私に差し出した。


「はい、これ!

 あたしとママから」



「ありがとう。綺麗な花束ね!」


 そうお礼を言って、杏樹から花束を受け取った。杏樹の服と同じ、ピンク色の、季節外れなチューリップとガーベラがたくさんあしらわれていた。


「うん!


 お花屋さんにお願いしてね、ピンク色のお花にしてくださいって言ったんだよ!


 桜先生、ぜーったいピンク色のドレス、着てくるって思ったんだ!」


「・・・どうしてそう思ったの?」


 確かに、今私が着ているドレスは、薄いピンク色のドレスだ。でも、今日の衣装の事を、私は杏樹に話していない。ううん、杏樹だけじゃない。誰にも、今日の衣装の事なんか・・話していない・・・筈・・・


 すると杏樹は、満面の笑みを再び、見せてくれた。


「だって先生、去年も、ピンク色のドレス着てたもん!」


「去年?


 杏樹、去年も来てくれていたの?」


 驚いてそう聞くと、杏樹はうん、と大きく頷いた。


「去年、先生のピアノ聴いて、桜先生にピアノ習いたいって思ったんだよ!


 それに・・・先生、忘れちゃったかなぁ?」


 そう言うと、杏樹は少しだけ、寂しそうな顔をした。


「・・・?何を?」


「・・・私、去年の先生のリサイタルの時、先生と会ってるんだよ!


 先生は、覚えていないよね?」


 「去年?」


 私は思わず聞き返してしまった。


 私と杏樹は、この春初めて会った・・・少なくとも私はそう思っていた。


 でも、それ以前に会っている・・っていう事?


「うん!


 あのね、先生!


 あたし、去年ママと一緒に先生のリサイタル、聴きに来たの。


 でも、終わった後、ママとはぐれちゃったんだ。


 その時、演奏後の先生と会ってるんだよ?」


「え・・・・」


 杏樹は、ハッキリとそう言った。私は、記憶の奥に埋れてしまっている去年のリサイタルの日の事を思い起こした。


 去年も、今年同様、子供のお客さんなんて、殆どいなかった筈。そんな中で会えば、忘れるはずもないのに・・・


 忘れる・・はずなど・・・




「あっ!」


思わず声をあげていた。


 思い出した。


 去年のリサイタルの後、打ち上げに行く途中・・・



~~~~




「ほら、急ぐぞ!」


「ちょっと待ってよ!」


「お前がどんくさいからだろ!」


 着替えて、裏の通用門から出た。そして、表通りに出て、打ち上げの会場に向かっていた。打ち上げ開始まで、そんなに時間がない。


「打ち上げに主役不在じゃ、話にならないだろ!ほら、急げよ!」


 片付けや着替えに手間取り、会場を出るのを遅れてしまった私は、憲一さんにぶつぶつ文句を言われながら、彼と一緒に歩いていた。


「じゃ、先に行ってればよかったでしょ?」


「お前を置いてきた、なんて母さんや由香里に知られたら、俺が怒られる!」


「あ・・・そう・・・」


 そう言われて、それ以上何も言い返せず、私は足早に先に行く憲一さんの背中を、走るようにしてついて行っていた。


 そして、ホールの正面の側に来た時だった。


「・・・ん? どうした?桜??」


 一緒にいた憲一さんが、不審な顔をして私に声をかけた。


 一方私の方は、ホールの正面にある噴水広場に、子供が一人でいるのを見つけた。


 小さい子供・・・小学生の低学年くらいの子だった。ピンク色の、かわいらしいツーピースを着た子だった。


 夕暮れ時、こんな時間に子供が一人でいるなんて、あり得ない・・・親とはぐれたのかな?


「ごめん、先に行ってて!」


「おいっ! 桜?」


「打ち上げ、いつもの場所でしょ?すぐに行くから、みんなに適当に言っておいて!」


「おい、どこ行くんだよ!」


 憲一さんの文句を無視して、私はその噴水広場のベンチに腰掛ける女の子に声をかけた。


 女の子は、しょんぼり、と寂しそうに俯いていた。


「どうしたの?」


 そっと近づくと、その子は驚いたように顔をあげて、私を見た。


「・・・ママとはぐれちゃったの・・・」


 女の子は、目を真っ赤にして、そう言った。


「そっか・・・困ったね・・・」


 どうしようか・・・声をかけたはいいけれど、どうしてよいか、判らない。大体私は、子供なんかあんまり好きではない。


 でも、このままこんな小さい子をここで一人にしておくわけにはいかない。


 警察に連絡しようか? そう思ったけど、近くの交番まで私が行っている間に何かあったら大変だし。


 この子と一緒にこの辺りを歩き回ってママを探すにしても、見ず知らずの私が、この子を連れて歩いたりしたら、私のほうが変な疑いをかけられそうだ。


「うーん・・・どうしようか・・・


 あ、お名前は?」


「・・・あんじゅ。

 お姉ちゃんは?」


「桜っていうの」


 あんじゅ…変わった名前だな・・その時はそう思っただけだった。


「ここのホールに、来ていたの?」


 そう聞くと、女の子・・・あんじゅはうん、と頷いた。


「ママのお友達の知り合いが、今日、ここでコンサートやっていたの」


 ママのお友達の知り合い・・・か。それに付き添って、こんな小さな子供まで演奏を聴いてくれたんだな…そう思うと、少しうれしかった。


「ピアノのコンサートでしょ?退屈じゃなかった?」


 今日は、子供向けのプログラムではなかったから、きっと退屈だっただろう・・・そう思ってきいてみた。でも、あんじゅは首を横に振った。


「ううん。


 すごいきれいなピアノだったよ」


「そっか・・・」


「うん!


 私、楽しかった!


大きくなったら、あんな風にピアノ、弾いてみたい!」


 短い言葉だけれども、そう言ってもらえて、私の方が嬉しくなった。


「そっか・・・きっと、そのピアノ弾いた人も、その言葉聞いたら喜ぶね」


 二人で並んでベンチに腰掛けていると、やがて、見覚えのある人が走るようにして近づいてきた。このホールの警備員、片瀬さんだ。この人には、このホールを使うたびにお世話になっている。


「桜さん!こんなところでどうしたんですか?


 これから打ち上げなんでしょ? 」


 どうやら、ホール正面の施錠をするためにこちらに来たところ、私を見つけてくれたみたいだ。


 私は、片瀬さんに事情を話し、その子を片瀬さんに頼む事にした。


「わかりました。お預かりします」


 片瀬さんは快く引き受けてくれた。私は、バッグの中からメモを取り出して、私の携帯番号を彼に渡した。


「何かあったら、この番号に知らせてください」


「判りました。さ、あんじゅちゃん、おじさんと一緒に警備員室に行こうか? 一緒にママを探そう」


 あんじゅは当初、片瀬さんを不審な人だとおもったみたいだったけれど、警備員の制服を見て安心したのか、手を引かれて、警備員の詰所の方へと歩いて行った。


もうすぐ夕暮れ時、こんなところに座っていて、あの子が風邪を弾いたら大変だ。


「おねーちゃん、ありがとう!」


 その子は、振り向きざま、私にそう大きな声でいった。それと同時に大きく手を振ってくれた。つられて私も軽く手を振った。




 

 片瀬さんから、私の携帯に、あの子が母親と無事再会できて、帰宅した・・・という連絡が入ったのは、それから1時間後だった・・・



~~~~~



一年前の出来事が、まるで映画のワンシーンのように、脳裏に鮮明に蘇った。


 思い出した!



「あの時の・・・迷子の子供・・・杏樹だったんだ!」


 私の言葉に、杏樹はうん、と大きく頷いた。


「あの時ね、警備員さんに、桜先生の事、聞いたの。


そうしたら、その日、あのホールでリサイタルやっていたピアニストさんだって言ってたの!


 すごくびっくりしたんだよ!


 だって、ついさっき舞台で演奏していた人が、あたしを助けてくれたんだもん!


 ドレス着てなかったから、全然気づかなかったよ!」


 確かに、舞台ではドレスを着ていたけど、“あの女の子”を見つけた時はすでにドレスを脱いで、私服だった。だから、杏樹も私の事に気づかなかったのだろう。


「そっか・・・・・あの時の・・・」



「だから、あたし、ママに、あのお姉さんにピアノ習いたいってお願いしたんだよ!


でも、春、桜先生のお家に初めて行った時、先生、あたしの事、覚えていないみたいで・・・寂しかったんだ.


あたしは覚えてるのに!ずーっと、あのお姉さんに会いたかったのに!


 あって、ちゃんとお礼、言いたかったし、あのピアノを弾いていた人に、ピアノ習いたいって、思ってたんだよ!」


 覚えているわけないでしょ!


 そう言おうとしたけど・・・辞めた。


 杏樹にとっては、きっとあの数分のやり取りは、とても大切な"出会い"だったに違いない。たとえ私にとっては、すぐに忘れてしまうような些細なことだとしても・・・


「ねえ、桜先生?」


「な、なに?」


 そう返事をすると、杏樹は、少し真面目な顔をした。


「あの時、助けてくれて、どうもありがとう」


 すっと、お辞儀した。


「ずーっと、助けてくれたお礼を、言いたかったの。だから、言えてよかった」


「・・・ううん。私こそ・・・忘れてて、ごめんね。


 それと、覚えててくれて、ありがとうね、杏樹」


「いいんだよ!


だって、先生忘れっぽいもん!


大事な事、すぐ忘れちゃうもんね」


そう言われてしまった。流石にこれは、否定できないかな?


「だから、先生の大事なことは、あたしがちゃあんと覚えていてあげるね。」


杏樹がそう言った途端、和也さんは噴き出した。


「・・・桜さん、その歳で痴呆か?」


「うるさい・・・腹黒狸!」


 からかうように言い放った和也さんに、私はすかさずそう言い返した・・・


 けれど・・・忘れていたのは事実だ・・・


 落ち込みそうになる私に、杏樹は、いつもの、あの笑顔を私に見せてくれた。








「桜!そろそろ着替えて!


 あと30分で会場撤収よ」


 杏樹と話していると、由香里が私にそう知らせてくれた。ロビーに設置されている時計を見ると、演奏終了から、ずいぶん時間が過ぎている。お客さんも、随分帰っていったようで、ロビーに残っているのは、顔見知りの親しい人だけだ。


 私が感じている以上に、時間は過ぎていたようだ。会場を借りている時間が終わるまで、もうすぐだった。



 「うわ、もうこんな時間!



 ごめんね、杏樹!私、もう行かなきゃ!」


「うん!わかった!


私もママの所に行くね!」


 そう言って、杏樹は私にばいばい、と手を振った。私も杏樹に軽く手を振った。


「さ、行こう!桜。


 あとさ、橘さん、知らない?

  

 演奏終わってから、探してるんだけど、いないんだ!」


 橘さん・・・考えるまでもなく、憲一さんの事だ。そういえば、演奏終了から、姿を見ていない・・・


「あ!橘さんならね、さっき、ママとお話してたよ!・・・ほら、あそこ!」


 ロビーの隅、少し目立たないところを、杏樹は指さした。


 そこには、憲一さんと、杏樹のママがいて・・・深刻そうに話をしている。


「・・・この前の女の人か?」


 隣にいる和也さんが、そっと私に聞いてきた。私は何も言わずに頷いた。


「ママと、大事なお話があるって言ってた・・・」


 杏樹が、少し神妙にそう言ってる。その言葉を、和也さんは少し真面目な顔で聞いている。


 確かに・・・ここから見える二人の顔には笑顔がない。深刻な話をしているのは、一目瞭然だ。


 でも、その二人の距離は、他人や友人とは思えないほど、近い。そしてその距離感は、二人が、普通の知り合いとか友人ではない、ある意味特別な間柄だと物語っているようだった・・・


「もうっ!橘さん。片付け手伝ってよっ!」


 私の横では、由香里が少しイライラしているようだ。ずんずんとその二人の処に歩いて行った。


 憲一さんと杏樹のママの話・・・きっと、杏樹のパパの事だろう。


 そんな風に冷静に考えながら・・・


 胸が、酷く痛むのは・・・


 杏樹のママが、あんなにも、憲一さんの側にいるから・・・


憲一さんが、あんなにも、杏樹のママの側にいるから・・・


 出来るなら、私が、


 あの距離の場所に、立ちたかった・・・



 今更叶わない望み・・・なんだろうな・・・


 

「あ、私、着替えてくる! 和也さん、またあとでね!」


「ああ・・・あとでな・・・」


 その痛みで泣きそうになる心を立て直しながら、私は和也さんとも別れ、楽屋に戻るべく、身をひるがえした。


この後は打ち上げの飲み会。何も考えずに酒飲んで、忘れてしまおう・・・




 その時だった。


「叶野さん」


 聴きなれない声で、名前を呼ばれた。


 反射的に振り返るとそこには・・・


「あなたは・・・・」


 一瞬、名前が出てこなかった。


 見慣れない、でも確実に会ったことのある男性が、立っていた。


 顔立ちの整った・・・おそらく私の知り合いの中ではダントツにイケメンさん・・・でも、私の知り合いで、こんな冷たい目をする人は・・・いない・・・


 少し考えたら、その名前は出てきた。


 以前・・・杏樹の運動会の時に、会った・・・


「杏樹の・・・お父さん・・・ですね」


 私がそう言うと、その人はにやり、と冷たく笑った。その笑みに、ぞくり、と背筋が粟立った。先入観のせいか、憲一さんの話のせいか、どうしてもよい印象が持てない。


「・・・よかった、覚えていてくださったんですね」


「・・・・」


その言葉に答えられず、軽く会釈をして、その場を去ろうとした。けれど。


「待ってください」


 二の腕をぎゅっと掴まれて、私は動けなくなった。


「大切な話があるんです。


 お時間をいただけませんか?」


 いただけませんか?・・・そう聞いてきてはいるけれど、私の腕を掴む彼の手は、ぎゅっと私の腕を掴んでいて、振りほどくことが出来なかった。


 その腕の強さは、私に拒否させない、拒否を許さないものだった。


 私は諦めてため息をついた。


「なんですか?」


 ここじゃ、人の目があるので、あっちへ」


 杏樹のパパは、私の腕を掴んだまま、ロビーの端へと引っ張って行った。



 掴まれた腕が痛い。それくらい、この人は私の腕を強くつかんでいた。


 振りほどきたくても振りほどけない、それくらい、彼の手は強く私の腕を掴んでいた。


 その腕に、引っ張る腕の強さに、言いようのない不安を感じた。


(嫌だ・・・)


 そう思って顔をあげて、助けてくれそうな人を探したけど、周りの人たちはすでに帰ろうとしていてそれどころではなく。裏方をやってくれていたスタッフのみんなも、撤収準備でそれどころではなかった。


 そして、視線の一番遠くでは、憲一さんが、相変わらず、杏樹のママと話していた。杏樹のママの横には杏樹もいて、三人で何か話している。


(・・・・なんか、親子みたいだなぁ・・・)


 そう思った途端、まるで自分だけが、たった一人別の世界に取り残されてしまったような感じに包まれて、酷く寂しくなった。


そして、誰も助けてくれないであろう状況に、絶望みたいな気分になった。






杏樹のパパは、私の腕を掴んだまま喫煙スペースへと連れて行った。



・・・・・・・


そこは、喫煙スペース、という性質から、ロビーからは死角になっていた。タバコを吸わない私は、ここに入ったことは一度もない。



足を踏み入れた瞬間、その独特な、タバコの嫌なにおいに噎せそうになった。



「・・・それで・・・話は何ですか?」


一刻も早く、このスペースから出たくて、私は早速口火を切った。すると、杏樹のパパは、少しだけ、笑った。


「先生に、お願いがあるんです」


「お願い?」


聞き返すと、杏樹のパパは頷いた。


「・・・杏樹と香織を、説得してほしいんです」


「説得・・・何を・・・」


嫌な、予感がする。


この人の笑顔も、声も、生理的に受け付けない。相変わらず、背中や、掴まれた腕が粟立つような感覚だ。


「・・・憲一から聞いていると思いますが。


私は、杏樹を、香織から引き取ろうと思っています。


でも、香織は、それを承知しません」


「香織さんの気持ちを考えれば、当然だと・・・思いますよ?」


承知するわけない。


香織さんは、この人の事を毛嫌いしているし、離婚した元夫とはいえ、自分に対して暴力をふるった人に、自分の最愛の娘を任せられるわけがない・・・


「・・・香織のためだって思えばこそだ。


香織だって、子供一人抱えて、仕事して、杏樹の面倒を見る、なんて大変だろう!


杏樹だって、昼間は家に一人ぼっちだ。


寂しくないわけないだろう?


俺が引き取れば、普通の家庭みたいに、母親が傍にいる生活が出来る。


妻は子供好きだし、きっと杏樹をかわいがってくれるだろう。


どっちが杏樹のためか・・・」


確かに・・この人の言ってることは正論だろう。


私だって・・・片親に育てられたのだ。


寂しいと思ったことは、たくさんあった。


学校行事に父がきてくれる事はなく、家でも一人ぼっち。


たった一人で、冷たい夕飯をレンジであっためて食べていた。


隣に住む師匠と憲一さんが世話を焼いてくれたけれど。それでも、両親不在、という事実とさみしさは消えない。


淋しかった。一人ぼっちの寒い夜、冷たい布団の中で泣いて過ごしたことだって、ある。



雨の放課後、お友達のママはみんな、傘を持って迎えに来てくれているのに、私だけパパの迎えは来ることはなく、一人で、雨に濡れて帰ったことだって、ある。


確かに、寂しかった。でも・・・


それが、 「不幸」だっただろうか?


それは・・・正直、分からない。でも・・・他人に「あなたは不幸だ」と言われたことは、一度だってない。


杏樹だって・・・杏樹の今の状況を、他人が幸せだとか、不幸だとか・・・決めることなど出来ない。


それを決められるのは・・・杏樹本人だけだ。


「お断りします」


彼の話を全て聞き終わるより前に、私はそう言って遮った。


自分の当時の思いに結論が出たわけではない。でも、それとこれとは話が別だ。


私の想いと、今の杏樹の現実は別物だ。


勿論、私の、杏樹への想いや、香織さんへの想いもある。


杏樹の笑顔・・・思い出そうとしなくても、すぐに思い出せる。あの笑顔の杏樹が"不幸だ"とは思えない。



でも、それ以上に・・・


今、言わなくてはいけない一番の正論は、そんなことじゃない。


「私は、ただの杏樹のピアノ教師です。


家族の間の問題にかかわる資格はありません。」



その正論を振りかざして、私は断った。



これは・・杏樹の家の問題だ。私の立場で、立ち入って良いことではない。



「杏樹は、桜先生にとてもなついている。貴方の説得なら、杏樹も聞くだろう。


二親がちゃんといる家庭と、母親が一人で育てている家庭にいるのと、どっちが杏樹のためか、杏樹が幸せか・・・」



「それは、杏樹本人と、杏樹の家庭の問題です。


杏樹と、杏樹のママがいるところで、三人で話し合ってお決めになっては?」


なるべく感情を挟まずに、そう答えた。すると杏樹のパパは呆れたようにため息をついた。



「そんなことすれば、憲一が間違えなく、しゃしゃり出て話どころではなくなる」


冷たい声だった。そして、にやり、と再び冷たい笑みを浮かべた。


「それなら、交換条件、出そうか?」


「交換・・・条件?」


冷たい笑みのまま、杏樹のパパは言葉をつづけた。


「そう。

もし、あなたが香織と杏樹を説得してくれてたなら・・・

憲一との仲、取り持ってやろうか?」


突然何を言い出すんだ!この人は・・・


取り持つも何も・・・憲一さんは私の事なんか・・・


そう・・・・私のことなんか・・・


不意に、さっきの、憲一さんと杏樹のママの姿が脳裏をよぎった。私とは違う、親しい距離感・・・


追い打ちをかけるように、杏樹のパパは言葉を吐いた。


「憲一は、俺と香織との事にケリがついたら、香織と結婚するつもりだ」


「・・・え・・・・」


その言葉に、私は思わず息をのんだ。


「・・・嘘・・」


嘘だ、と思ったわけではない。でも・・・口をついて、その言葉が出てきた。


杏樹のパパは頷いた。


「本当だ。


大体、考えてもみろよ。


憲一の、香織とのかかわり方、普通じゃないだろ?


憲一だって、俺や香織の血縁者でも何でもない。


それなのに、ずけずけと俺と香織の問題に首を突っ込んで、俺の申し出を邪魔している。


・・・俺の調べた所だと。香織は憲一と再婚するらしい。杏樹を連れて、な」

 



憲一さんが・・・杏樹のママと結婚?




それを言われた途端、脳裏に、様々な憲一さんが過った。




夏祭りの時



杏樹の運動会の時



この前、都内で。



そして、さっきのロビーで・・・

 

 憲一さんが、杏樹のママとパパの一件であんなに一生懸命になるのは。


いずれ。杏樹のママと再婚するつもりだから?


このごたごたが片付いたら、杏樹のママと再婚するつもりで?


それくらい、大切な人だから?


・・・なんだ。


そうだったのか・・・


今朝の、私の言葉の答えが、これだったんだ・・・



香織さんと再婚するのに、


私の存在は・・・迷惑なのかもね。


杏樹のパパの言葉に、妙に納得してしまう。



憲一さんと杏樹のママ、二人が一緒にいるところを何度か見ている。雰囲気の良い、恋人同士のような二人を・・・夏祭りも、都内で会った時も・・・そして、さっきも・・・


あれは全部・・・いつか、杏樹のパパの騒ぎが収束したら結婚するためだから・・・






・・・なんだ・・・




不意に、体の力が、するり、と抜けた。それでもかろうじて、足を踏ん張って、倒れるのだけは免れた。でも、ぐらついた身体は、喫煙スペースの壁に、寄りかかるようにもたれかかった。


そんな私を、可哀想な、憐れむように見ながら、杏樹のパパはさらに言葉をつづけた。


「憲一との仲、取り持ってやろうか?」


突然、そんなことを言い出した。


壁に寄りかかったまま、杏樹のパパを見ると、相変わらず冷たい笑みを浮かべて私を見ていた。


「・・・叶野さんが、俺に協力してくれて、俺が杏樹を引き取ることが出来たなら・・・


憲一と叶野さんの仲、取り持ってあげるよ?」


憲一さんと・・・私の・・・仲?


一瞬、心がぐらり、とした。


「君が、憲一をずっと好きなことは、知ってる。


随分長いこと、片思いしてるんだってな」


「どうして・・・それを・・・」


なんてこの人が、私の事を知ってるの? そう聞きだすより前に、彼は面白そうに笑った。


「俺も、憲一とは古い付き合いだからな。君の事も、随分前から知ってる。


君が、迷惑がってた憲一にまとわりついていた事も、ね」


あの頃の事を言われて、どきりと息をのんだ。


「・・・憲一が、他の女と結婚するの、平気なのか?・・・平気なわけないよなぁ?」


まるで悪魔のささやきのように、杏樹のパパは言葉をつづけた。


その言葉に、耐えられなくなって、私はきつく目をつぶった。




そう・・・ずっと、大好きだった。


でも・・・悲しい言葉を投げつけられて・・・諦めた。


そして、さっきの私の問いかけにも、彼の答えはなかった。


好かれなていない。今も昔も・・・


それなら、私も・・・


諦めるには、いい潮時だ。


 私は、大きく息を吸って、吐いた。


 

 そして、使い物にならなくなっている両足をぐっと踏ん張って、壁に凭れるのをやめて自分の足で立った。


「お断りします。


私は・・・」


 いったいどんな顔をして、この言葉を言っているんだろう?


 不安になったけれど、出来る限り、毅然に言い返したかった。



「別に憲一さんにのこと、何とも思っていません」



 そう、何とも思っていない・・・


 言った瞬間、今まで感じたこともないほど、、胸が痛んだ。


「昔は、好きでしたよ。

あの、昔の憲一さんが、そのまま大人になってたら、私も、彼のこと、好きになっていたと思います。


でも、今の憲一さんは・・・」


 好きじゃない。好かれていない。その現実を、胸に描くと、それだけで胸が壊れそうだ。


そう、最近ずっと感じている、この胸の痛みは。


大好きだった憲一さんを、嫌いだと、見て見ぬ振りした時に感じる、心の絶叫。


違う、そんなことないと、いう、押し殺し続けていた、私の本音。


そのひどい心の痛みとその理由を、はっきりと自覚しながら。それでも私はまた自分の本心目を背けた。


「私にとって、あの頃の憲一さんは、たった一つの恋でした。


今の憲一さんには・・・興味はありません」


 言いながら、目頭が、熱くなる。


 酷く、胸が痛い。


 そして・・・視界が、歪んでゆく・・・


「それに・・・」


 泣きたい気持ちを抑えながら、私はきっ!と、杏樹のパパを見上げた。一瞬、杏樹のパパの表情が変わった気がした。人をくうような、冷たい笑みが、一瞬怯み、冷たい笑顔が固まった気がした。


「私は、杏樹のピアノ教師です。


 杏樹と私に信頼関係があるのは当然です。


 その信頼関係を、こんなばかげた事で・・壊したくありません。


 杏樹への説得は・・・杏樹のママも交えて、杏樹に直接してください」


 果たして、毅然と対応できたのか、不安だった。でも。


 立場から言っても、私の気持ちの問題から言っても。


 この、杏樹のパパの申し出を受けたくなかった。


 まっすぐに、杏樹のパパの顔を見ると、杏樹のパパの顔は・・・


 見たこともない程、怒りに歪んでいた。


「・・・断るって・・いうのか?」


 その声の変わりざまが、本当に怖かった。


「この俺の申し出を断るってのか?・・・」


 さっきまでの笑みが消え、冷たい視線だけが残って、私に突き刺さった。


「こんの女っ! つけあがるんじゃねぇっ!


たかがピアノ教師のくせにっ!」


 次の瞬間。


 杏樹のパパは、怖い形相で、すごい勢いで手を振り上げた。


 殴られる!


 そう思った次の瞬間。


「晃也っ!」


 あと一瞬、遅れたら、私は杏樹のパパに力任せに殴られている・・そんな、まさに間一髪。


 そんな声と同時に、憲一さんが喫煙スペースに入ってきた。そして、立ち尽くしている私の腕をつかみ、自分の方へとぐいっと引っ張った。


「っ!」


 その瞬間、バランスを崩した私は、憲一さんの腕の中に、崩れるように倒れこんだ。


そしてふわり、と温かい感触に包まれた。抱きしめられる、まさにそんな感じだった。


 ドラマのワンシーンのような一瞬だった・・・けれど、実際はドラマのように素敵でもロマンティックでも、ない。そんな余裕さえ、見当たらなかった。


怖かった。


目の前にいる杏樹のパパの豹変が。


逃げられない状況での、一方的な暴力が、こんなにも怖いものだとは思いもしなかった。


恐怖で逃げることもできない、とはよく言ったもので、まさに“恐怖で”逃げるはおろか、一瞬考えさえも麻痺した程だ。


杏樹のママは、この人から、こんな酷い仕打ちを受けていたの?


一方的に、逃げることさえできない環境で、たった一人で、杏樹を抱えて?


「余計なこと、言うんじゃねぇよ!


 誰が香織と結婚するって?


 するわけねぇだろ! いい加減にしろ!」


 私のそんな考えは、憲一さんもその怒鳴り声で断ち切られた。杏樹のパパは、ちっ! と舌打ちした。


「ったく・・・


 もーちょっとだったのに。

 

 お前こそ邪魔すんじゃねぇよ!」


 そう言うと、大きくため息をついた。そして、


「絶対、諦めないからな」


 一言、低い声でそう言うと、喫煙スペースから去って行った。


 そのあとには、不自然なほど重たい沈黙だけが、残った。


 仕切られている喫煙スペースの壁の向こうは、ロビーになっていて、そこにはもう殆ど人はいない。みんな、帰って行ったようで、顔見知りのスタッフだけが、片付けと撤収準備に追われていた。


「平気か?」


 気まずい空気の中で、憲一さんは静かに耳元で言った。


 そう言われて初めて、私は憲一さんに抱きしめられたままなのに気づいた。


「・・・・・う・・ん・・・・」


そう答えはしたものの、恐怖と、助かった、という気持ちが混ざって、視界が不自然にゆがんできた。


 「・・・っ・・・」


「桜?」


そんな不自然さに気づいたのか、彼は私の背中をそっとさすった。途端に張り詰めていた心の糸がぷつり、と切れた。


「こわかった・・・よぉ・・・・」



彼の腕にすがったまま、私は泣き崩れていた。


「桜っ・・・」


泣き出した私を、彼がぎゅっと抱きしめてくれていた。不自然にあたたかい彼の腕に落ち着かなかったけれど、それ以上にさっきの恐怖と、自分が無事だった事の方が心の中を支配し切っていて、そのまま彼に縋り付いていた。


「大丈夫か?」


彼のその問いに応えることもできず、ただただ、彼にすがりついていた。



「ごめんな」


彼の声が、耳元を掠めた。


「俺のせいで、こんな目に遭わせた。


守ってやんなきゃいけなかったのに」


労わるようなその声に、止まらなかった涙が、すっと引いた。


「奴がこんなに早く、お前に接触するとは思わなかった。


思い当たってりゃ、先に手ぇ打っとくんだけどさ。


東野が心配で、気、回らなかった。


考え、足りなかった・・・な」


本当にごめんな。力ない小さな声で、そう呟いた。


「けんいち・・・さん・・・」


彼に、あやすように抱きしめられながらも、だんだん冷静になってきた私には、さっき杏樹のパパが言っていたことが、だんだん気になってきた。


「・・・なんだ?」


 どうしても、どうしても、今。


 彼に聞きたかった。



「・・杏樹のママと・・・結婚するの?」


 杏樹のパパの騒ぎが収束したら、杏樹のママと再婚する、と・・・杏樹のパパは言っていた。


 それは本当の事なの?


 ところが、憲一さんは、私の声以上に大きな声で


「しねぇよ!」


 と怒鳴るように言った。


「でもっ!」


「お前はっ!」


 言葉を続けようとした私の言葉を喰うように、憲一さんはつづけた。


「俺の言葉と晃也の言葉と、どっちを信じるんだよ!」


「だって・・・」


 杏樹のママと憲一さん、一緒にいるところは、まるで恋人同士みたいだった。


 本当にそういう仲なら・


今の、杏樹のパパの言葉さえ、真実味を帯びてくる・・・


けれど。


「返答次第じゃ、今朝の質問に答えてやらねぇぞ!」


耳元で続く彼の声は、低く、少しだけ、甘いような気がした。


「今朝の・・・質問?」


「朝、調律の後、お前が俺に聞いてたやつだ!


 由香里さんが来て、話の途中だっただろ!」


「だってっつ・・」


 あの時の沈黙を思い出すと、また苦しくなる。


「俺はまだ、お前に返事していない!」


「・・・・え・・・・?」


 そう言うと、憲一さんは、するり、と私の腕を解いた。そして、私の顔をまっすぐに見据えた。


 それは、いつもの無感情なものではなかった。


「・・・憲一さん・・・」


 小さな声で言った。


「俺が・・・


 信用できないのかよ?


 俺の言葉より、晃也の言葉を、信じるのか?


 それくらい、俺は、お前から・・信用されてないのか?」


 心なしか、憲一さんの声は悲しげだった。


「けんいちさん・・・」


「・・・最後の最後まで・・・信じてもらえないのか?


もう、許してもらえないのか? 俺は・・・」


 少し、声が震えているような気がした。それは、彼が泣いているのか、泣くことを堪えているのか・・・


 その顔に、声に・・・再び心がぐらり、と揺れた。


 その力ない声に、私のほうがたまらなくなった。


「じゃ・・・なんで・・・」


 すべての疑問や矛盾のすべてを、言葉にできない。


あんまりにも多すぎて・・・



 なんで? どうして?



 そんな思いを吐き出そうと、息を吸った瞬間、極度の緊張が解けたからか、吸い込んだ息で酷く噎せて、再び足ががくがくと震えた。


「大丈夫か?」


 心持ち、憲一さんの声が優しく聞こえた。その声に、言葉にさえ、私の心はまだ不安定にぐらぐらする。


 



「悪かったな。」



 囁くような小さい声で、彼の言葉が耳を掠めた。

 

 聞き逃してしまうほど、小さい声だった。


 そして、さらに、憲一さんが何か言おうと、息を吸った。


 その時。


「桜っ! 橘さんっ!こんなところにいた!」


 喫煙スペースに、由香里が入ってきた。慌てて私と憲一さんは、ぱっ! と離れてお互いの距離を置いた。


 私たちの空気をぶち壊すように、由香里は喫煙スペースに入るなり、まくしたて始めた。


「もうっ!撤収時間よ!こんなところでなにやってるのよ!


 それに桜、まだそんな格好してるの?早く着替えてよ!」


 気が付くと、私はまだ舞台衣装のままだ。


「橘さんも!片付けサボらないでよ!


 非力な女ばっかりで、ピアノ片付けやるの、大変だったんだからね!」


「ああ、悪いっ!ちょっとトラブってたんだっ」


「まあ、終わったからいいんだけど! 後で何か奢ってよ!」


 あらかたまくしたてると、由香里は落ち着いたようだ。


「あと、桜の荷物運び出せば撤収完了だから、急いで着替えてね。


 打ち上げ会場、判ってるよね? みんなそっちに移動してるから、着替え終わったらそっちに向かってね!


あと、橘さん、終了確認お願い!」


「判った。鍵よこせ。返しておく!」


「打ち上げ、いつもの処でしょ?着替え終わったらそっちに向かうから」


 憲一さんと私は、殆ど同時にそう返事をした。そして私は、着替えるべく、今度こそ喫煙スペースからロビーへと出た。由香里は、まだ用があるのか、再び走ってどっかに行ってしまった。


「桜っ!」


 憲一さんは・・・


 その場に立ち尽くしていたけれど。


 彼に呼ばれた声が、やたらと静かな周囲に響いて聴こえた。


さっきまでお客様たちでごった返していたロビーには、もう誰もいない。


「・・・明日。話がある」


 それだけいうと、憲一さんも、スタッフ仕事をするべく、どこかへと行ってしまった。


 その後ろ姿を見送りながら。


 私の足もまた、さっきとは違う重さと不安さで、


 動かなくなった・・・






 そのあと。


 大急ぎで着替えて。


 ドレスを綺麗に衣装鞄に入れる時間も惜しくて、半ばぐしゃぐしゃに詰め込み。


 大慌てで荷物をまとめて会場を後にした。


 そのあと、憲一さんが最終確認をして、全ての鍵を係の人に返した。

 

 何しろ、決められた時間までに会場を空にして鍵を返さないと、膨大な延長料金が取られてしまう。


 そうなってしまっては、大変だ。


 最終手続きをしている憲一さんを横眼に見ながら、私は足早に打ち上げ会場へと向かった。


 

 さっきの憲一さんの言葉がすごく気になった。


 でも・・・今は顔を合わせたくない。

 

 "明日、話がある"


 そう言ったのは、今日が私のリサイタルで、プライベートな話をする余裕が、私にはないから。


 そして多分・・・打ち上げの会場で、酒を飲みながら話をするような事でも、ないだろう。


 それくらい、彼のさっきの言葉は私にとっては重く、重要なものだった。


 楽しい話が出来る、とは思っていない。


 でも・・・


 少しだけ・・・ほんの少しだけ・・・期待してしまうのは・・・


"俺はまだ、お前に返事していないっ!"


 その言葉に縋ってしまいそうだった。


 期待などしない、そう思っていながらも。


 心のどこかで、都合のよいことを考えている自分が、いい加減嫌になってきた。


(矛盾の塊、だなぁ・・・)


 自分の気持ちを思い知ってしまうと。どんどん欲深になる。


 何も期待しない、望まない・・・そう思いながらも期待してしまうのは・・・


 (期待・・・か・・・)


 打ち上げ会場に向かいながら、私は深いため息をついた。






「それでは、お疲れ様でした!」


「かんぱーい!」


「乾杯!」


「桜、お疲れっ!」


 打ち上げ会場で、スタッフと親しい仲間同志での打ち上げが始まった。


 洋風居酒屋の個室一部屋借りての打ち上げだった。


 とはいえ、ゆっくり腰を据えて飲む暇もなく、スタッフをしてくれた友人達や、気心知れた知り合いに挨拶したりお礼を言ったりと、あっちこっちと動き回っていた。


 落ち着かなかったけれど、それでも、さっきまでの緊張感はなく、本番が何事もなく終わってくれてほっとした空気が漂っている。


 みんなおのおの、わいわいと話したり、今日の事を話したりしながら飲み食いしているところを見ていると、無事に終わってくれてよかった、と安堵した気分になる。


 あらかた周囲への挨拶が終わって、和気藹々とした空気の中、私も出されたお酒や食事を、勧められるままに飲み食いし始めた。


「よう、お疲れ!」


 そんな風に落ち着いた頃、和也さんがすすすっと私の側にやってきた。


「和也さんも、今日は来てくれてありがとう」


「そんなのいいって。言ってくれりゃ当日手伝いだってやってやるのに」


「それはいいよ。和也さんには客席で聴いていてほしいから」


 私の演奏を聴いて、お世辞抜きで感想を言ってくれる人は、今ではもう、師匠とこの和也さんだけだ。だからこそ、彼にはスタッフをやらせたくなかった。


「ま、それはいいんだけどさ・・・


 それより・・・」


 和也さんはすすす、っと私ににじり寄った。息もかかりそうなその距離感が、今は怖い。


「橘さんとは、どうなったんだ?」


「ど・・・どうって・・・」


 返事に戸惑いながら、和也さんに先日告白されている事を思い出した。


「・・・・ね、和也さん?」


「なんだよ?改まって?」


「・・・話が、あるの」


 私がそう言うと、和也さんは軽く目くばせした。それに従うように、私は彼と一緒に部屋を出た。


 みんな各々騒ぎ始めていて、私たちが部屋を出たことに気づく人はいなかった。


 私たちは、店を出ると、店の横にある小さな公園に行った。


 見上げると、建物の間に見える夜空には星が輝いている。


 外は昼間と比べて随分寒くなり、ぶるっと身震いした。でも、アルコールの酔いを醒ますには十分だった。


 私と和也さんは、その公園のベンチに、どちらからともなく腰かけた。


「んで?話って?」


 和也さんは相変わらずの、人懐っこい表情で、私を見ている。私は・・・話すべきことを頭の中で少し、整理した。


「・・・橘さんと、ケリがついたのか?」


 けれど、私が話を始めるより先に、彼が口火を切った。


「・・・ある意味、ついた・・・かな?」


 朝の、憲一さんののやり取りが、脳裏を過った。


彼の気持ちなんか、まだちゃんと聞いてない。


でも・・・


 あの時、・・・私自身の気持ちもまた、思い知ってしまった。


「この間の・・・返事・・・」


 そう言うと、私は改まって、彼の顔を見た。彼は、"ん?"と私の顔をみた。


「ごめんなさい」


 私は、はっきりとそう言って、頭を下げた。


「やっぱり私、和也さんとは付き合えない」


 きっと、和也さんと付き合ったら、楽しいし、幸せだろうな・・・と思う。


 でも。違う。


 どれだけ拒絶されようと、迷惑がられようと。


 それでも嫌いにすらなれない存在。


それが、私にとっての憲一さん・・・


その想いの、答え・・・


「私・・・やっぱり憲一さんが、好き。


 ・・・別に、彼が私の事、好きでなくても、いいんだ


 でも、こんな気持ちのまま、他の人と付き合いたくない」


 そこまで言うと、私は大きく息をついた・・・ため息、だったのかもしれない。


 自分を好いてくれている、目の前にいるたった一人の男性さえも。


 憲一さんの代わりにさえ、ならない。


 ううん、"代わり"なんて言ったら、和也さんに失礼だ。


「報われない、想いでも?


 俺だったら、そんな寂しい思い、させないつもりだけど?」


 和也さんは、静かにそう言った。その言葉に、一瞬戸惑ったけれど、私は頷いた。


「今までだって、十分報われなかったもの。寂しかったもの。


散々傷ついたし、嫌な思いもした。


でも、不幸じゃなかった・・・と思うんだ。


 でも、報われなかったから、寂しいからって、他の人を好きになることなんて、今更できない


 それにね・・・」


 そこで息をつくと、私は少しだけ、自嘲気味に笑った。


「今更、憲一さんと恋人同士になりたい、とか、考えていない」


なれたらいいな、と思うことは、もちろんある。それに、なれるものならとっくになっているだろう。


 それが今までこんな関係を続けていたのだ。今更、報われる、という甘い夢を簡単に見られないし、報われたい、という希望や願望も、今更な気分だ。


それでも・・・


「でもね、ただ私は 自分の想いに・・」


 ずっと、ずっと。あの子供の頃から今まで。


好かれていなくても、迷惑がられても、それでも嫌いになれなかった、自分の厄介な想いに・・・


「想いに、殉じてみたくなったんだ。ううん・・・殉じたいから・・・ずっとここにいたんだと・・・思う」


 言い終わった途端、私は再び、大きく息を吐いた。緊張感は、ピアノの本番の比ではない。それでも・・・落ち着いて伝えることが、出来た。


 私と和也さんの間に、沈黙が走った。でもそれは、気まずいものではなく、重い空気でもなかった。


「・・・わかった・・・」


 それからどの位時間が過ぎたのか、私には判らなかったけれど、彼の、ふぅ、という息をつく音とともに、彼の声が聞こえた。


「・・・それが、桜さんの本心なら。


 俺は、もう何も言わない」


 にやり、彼は笑った。それは、時折見る腹黒い笑みではなく、むしろ清々しい軽い笑みだった。


「・・・でもさ、桜さん」


「・・・なに?」


「桜さんの気持ちは、絶対無駄にはならないし、報われる筈だよ」


 和也さんはそう断言した。不意に私は、あの喫煙スペースでのことを思い出した。


“俺はまだ、お前に返事をしていない!”


別に、あの言葉を言われたから、和也さんを断るわけではない。でも・・・思い出すだけで、心がざわめく。


「・・・どうしてそう思うの?」


 私がそう聞くと、和也さんは、"実はさ・・・"と、話を始めた。


「今日、ロビーで橘さんがあの女の人と話してただろ?」


「・・・うん」


 あの女の人、とは・・・ほかでもない、杏樹のママの事、だ。


「でさ、桜さん、俺と別れた後、ロビーの端で、知らない男に捕まってただろ?」


「・・・ああ、あれは杏樹のパパ・・」


「知ってる。桜さんたちの話、聞いてた」


 にやり、と少し黒い笑みを浮かべた。


「・・・悪いけど喫煙スペースでの話、立ち聞きさせてもらった。


 ただ事じゃないって思って、その事、橘さんに伝えたんだ・・」


「えっ!」


 橘さん・・憲一さんに伝えた?って事?


「まあ、伝えたっていうか・・・」


「・・また・・・何か言ったのね?」


 私の言葉に、彼は少しだけ意味深な、いたずらっ子のような笑みで答えた。


「なんて・・・言ったの?」


「秘密。


 でも、あの女と杏樹ちゃん放ったらかして、慌てて喫煙スペースに走ってった」


 くっくっく・・・和也さんはそう言って笑っていた。


「少しは、感謝しろよ?」


 そう言って話を締めくくった。


 憲一さんが、あの時・・・あの喫煙スペースに走りこんできたのは・・・和也さんに煽られたから・・ っていうこと?


「橘さんにとっても、桜さんは特別じゃないのか?


 ほかの女ほったらかしにして助けに行くほど・・・


そんな事、俺は随分前から気付いてた。だから、態度はっきりさせないで桜さんを束縛し続けてた橘さんに腹が立った。


 だから・・・


桜さんの想いは、無駄じゃない。


 ただ、関係が、絡まっちまってるだけじゃないのか?


 桜さんと橘さんは、面倒な柵が多いみたいだから、さ」



 彼はそう言うと、すっと手を伸ばしてきた。握手を求めるように。


つられて私も、彼に手を差し出した。彼は私の手をそっと握ると、まるで当然のように私の手の甲に触れるだけのキスをした。


「っ!!!」


驚いて返す言葉さえ見つからない私とは対照的で、彼は落ち着いて、にやり、と笑った。


「これが最後。俺は手を引く」


そう言うと、彼はあっさりと、私の手を離した。


「大丈夫だよ。


 きっと、桜さんの気持ち、報われるから、さ


 そうじゃないと、桜さんの事諦める、俺の気持ちも、無駄になっちまう」


 そう言うと、彼はすっと立ち上がった。


「戻るか?


 そろそろ戻んないと、みんな気付いて騒ぎになる。


・・・桜さん、先に戻っててくれないか?


 一緒に戻ったら、橘さんに誤解されるだろ?


 俺、少し酔い冷ましてから、戻るから」


 彼はそう言うと、私に背中を向けて、公園の奥へと歩いて行った。


 その彼の顔を、こちらから伺い知ることはできなかったけれど、


 最後に一瞬だけ見えた、彼の眼は、見たこともない程、切ない色をしていた。


「・・・・・・」


 その切ない色に、少しだけ、罪悪感を感じながら、私は、ふぅ、と息を吐いて肩を落とした。


 彼を振ったことに、罪悪感がない、といったら、嘘になる。


 相手が誰であれ、好意を持たれるのは、嬉しいし、ましてその相手が和也さんだったら、楽しいし、幸せかもしれない。


 でも・・・そんな彼相手に、心が"恋愛"に動かなかったのも、事実だった。


 私が、"恋愛"したいと・・・本気で好きだと思うのは、憲一さんだけで。


 それ以外の人は、代わりにすら・・・ならない・・・


 その現実に、少しだけ、泣きそうになりながらも。


私は、彼の背中に、深く頭を下げた。謝罪と感謝を込めて・・・

 

 そして私は、再び顔をあげると、大きく息を吐き、何もなかったように打ち上げ会場に戻って行った。


"明日、話がある"


 さっき、そう言っていた憲一さんの言葉・・・


 明日、どんな話があるのか、判らない。


 でも、明日・・・良いにせよ、悪いにせよ、すべての想いに、決着がつく。


 そんな気がした。


 空を見上げると、星が綺麗に輝いていた。


 そういえば、こんな風に、夜空を・・・星を見上げたのは久しぶりだった。


 最後に夜空を見上げたのは、いつだろう?


 それさえも、思い出せない程。


 私は・・・ううん。私も憲一さんも・・・


 遠くに来てしまったのかも知れない・・・




######




 翌朝。


肌寒さで目を覚ました。


目覚ましを見ると、いつも起きるより少し、早い時間だった。


「寒っ・・・」


そろそろ冬が始まる、そんな時期だ。もう少ししたら、朝、エアコンをつけないと寒くて起きられなくなりそうだ。





昨日の疲れが残っているのか、心なしか身体が重かった。それでものろのろと起きて、重たい身体を引きずるようにシャワーを浴びた。


 まだ、頭がすっきりしない。



 スッキリしないまま、ドライヤーで髪の毛を乾かした。


 さっきまで底冷えしていたせいか、シャワーを浴びただけで、随分身体が温まって落ち着いてきた。

 

 濡れた髪にドライヤーをかけながら、ゆっくりと昨日の事を思い起こした。


 昨日は・・・いろんなことがあって、頭の中がぐちゃぐちゃだ。


 憲一さんとの事、杏樹のパパとの事、和也さんの事・・・


「って・・・待てよ・・・?」


 すっかり忘れていたけれど、確か、憲一さん"明日、話がある"って言ってなかったっけ・・・


 杏樹のパパの事でパニックを起こしかけていた時だし、うろ覚えだ。でも。


「確かに言ってたよ・・・ね・・・」


 誰かに確認するわけでもなく、そうつぶやいた。


「今日・・・一体いつそんな話するのよ・・・」


 今日は、午後から駅前の音楽教室でレッスンがある。午前中しか・・・時間ないのにな・・・


「ま、帰ってからかもしれないよね・・・」




 今日の憲一さんの仕事予定は判らないけれど・・・午前中、仕事前ににそんな話をするとは・・仕事熱心で真面目な彼の性格上とても思えない。


 そう思い直しながら、ドライヤーを片付け、台所へ行って、コーヒーを淹れた。


 マグを片手に、定位置になっているソファに座ってテレビをつけた。


 テレビでは、すでに朝の顔となっているニュースキャスターが、にこやかにニュースを読み上げていた。いつもより早い時間のせいか、見慣れたキャスターのはずなのに、少しだけ、知らない人のように見えた。


 今朝、今年一番の寒さだったこと、北の方では例年よりも随分早い初雪が観測されたこと・・・


「どうりで寒いはずだ」


 カレンダーを見れば、11月も半ば過ぎ。無理もない・・・


 毎年、私のリサイタルが終わると、冬の足音が聞こえる頃になっている。それは今年もそうみたいだ・・・


私はソファを立って、朝ごはんを作るべく、台所へ向かった。


「食欲ないなぁ・・・」


寒いせいか、疲れのせいか、食欲がない。温かい雑炊でも作ろうか・・・


 その時だった。


「・・・ん?」


 ダイニングの側の、隣の玄関に面した窓から外を見ると、隣の玄関先に、憲一さんがいた。


 これから出かけるのか、と思ったけれど、出かける様子ではなく・・・玄関横の門の側の塀に寄りかかっていた。それは、所在無げに立ち尽くしているようにも見えるし、じっと、私の家を見ているようにも見えた。


 ふっと、思い当たって、カバンの中に入れっぱなしになっている携帯を引っ張り出すと、未読メールが一件と、"着信あり"とディスプレイに表示されていた。


「まさか・・・」


 着信もメールも、憲一さんからで。


「玄関の前で待ってる」


 と、書かれているだけだった。


「っ!何考えてんのよ!」


 私はあわてて、上着を羽織って玄関に向かった。


 こんな寒い朝、こんな朝早くから外で待ってるなんてっ! 


 玄関を出て、隣の玄関先を除くと、相変わらず、ポストの横の壁に寄りかかっていた。


「憲一さんっ!」


「おはよ、桜。早いな・・もっと遅いかと思った」


 寒そうな頬をして、憲一さんがそう言った。


「いつからここにいるのよっ!」


「さっきから。メール、読んだか?」


「ごめん、夕べから携帯みてなくてっ、さっき気づいた」

「いいよ。別に約束してたわけじゃないだろう?」


 彼はそう言うと、寒そうに、軽く息を吐いた。


「本当に出てくるとは思ってなかった。


 メール見ても、無視されたらおしまいだからな。


 だから、出てきてくれてよかった」


 寒そうにそう言ったけれど、その表情は、少しだけ、嬉しそうに口元が笑っていた。


「とにかくっ!うち入って! 今あったかいコーヒー淹れるから!


 こんなところで風邪ひいたら大変でしょ!」


 そう言って腕を引っ張ろうとしたけれど、憲一さんは首を横に振った。


「・・・桜?」


「何?」


「話が・・・あるんだ」


 そう言って動こうとしない彼に、私は少しイラつきながら言った。


「あったまってからでもいいでしょ!本気で風邪ひくわよ!天気予報、見た?今朝、今年一番の冷え込みだったのよ!」


「お前は・・寒いの嫌いだからな」


「っ!だからそうじゃなくて!」

 

 ちっとも話を進めようとしない彼にさらにイラつくと。


「・・・ほら、入れよ


 コーヒーだったら淹れてやる。


 昨日、話しただろ?


・・・お前に、話があるんだ」


 憲一さんは静かな声でそう言うと、彼の家の玄関を開け、"どうぞ"と言って私を中に入れてくれた。


「・・・・・」


 私は、ただ、彼と一緒に部屋の中に入るしかなかった。 


 


 私は、二階の憲一さんの部屋に通された。


彼の部屋に・・・というか、男性の部屋に入ったことなど、今までなかった。子供の頃は、何度か来たことがあったかもしれないけれど、ほとんど記憶になく、そのまま没交流になってしまっている。


「適当に座って・・今飲み物持ってくる」


憲一さんは上着を脱いでハンガーにかけると、すぐに部屋を出てしまった。


部屋に一人、取り残されて、することもなく、私は改めてぐるり、と彼の部屋を見渡した。


部屋は、彼らしくきちんと整理整頓されていて、ある意味無趣味な雰囲気だった。


机の上には、仕事関連の書類や、師匠のリサイタルのプログラムが整頓されている。そういえば年明け、コンサートをやる、と言っていたっけ・・・


ぼんやりとそれらを眺めながら、ふと、壁一面に作りつけになっている本棚に目を移した。


本棚には、楽譜や音楽関係の書籍、クラシックCDがある。不思議とそれらのラインナップは、私のそれとどこかしら似ている気がした。同じ師匠にピアノを習っているから、音楽の趣味が似ているのも無理ないだろう・・・


私も、本はよく読むし、クラシック音楽はよく聴く。


よく、クラシックも文庫や新書の小説も退屈・・・という人は多いけど、私は好きだ。いつも持ち歩いているバッグには、大概2,3冊、本が入っているし、私の部屋の本棚は、気がつくとぎっしりと本やCDが詰め込まれてある。どんどん増えてゆくので、読まないものから処分しようかと思うこともあるけど、時間が経つと読みたくなることが多くて、結局捨てられずに今に至っている。


そして、本棚の一角には、おそらく彼が趣味で読んでいるであろう、小説がぎっしりと並んでいた。


「あれ?・・・」


そのラインナップは、何処かで見たことのあるものばかりだった。


その本棚にしまってある本たちは、どれも私の本棚にも置いてあるものばかりだった。


例えば数年前、本屋大賞を受賞した作品の作家さんの、今の作品だったり、来春映画化が決定している作品の原作だったり・・・


本屋に行くと、必ず平置きされているものや、話題なもの、話題はないものの、良作を定期的に出版している作家さんだったり・・…


読書傾向が、私と似ている?


・・だって、ここにある本は、どれも私は最低一回は読んでいるものだった・・・


「読書傾向まで・・・似てるんだ・・・」


そう呟いてみたものの・・・・すぐに私は、それが違うと気づいた。


「私が、彼の読書傾向、真似したんだっけ・・・」


そう・・・ずっとずっと昔・・・彼にそっぽ向かれた頃。少しでも彼に近づきたくて、彼との共通点が欲しくて、彼が読んでいた小説や文庫本を必死になって読んでいた。


当時の彼が読んでいた本は、どれも難しくて、当時小学低学年だった私が読むのは至難の技だった。それでも、彼に近づきたくて・・・必死になって読み、解らない漢字や意味を調べたり先生に聞いたりして・・・読んでいた。


それらの本は、そのまま私の読書傾向になり、自分で読む本を選ぶ基準になっていった。そして、彼が読んでいた本や作家を、気がつくととても好きになっていた・・・


今となっては、当時の私がしていたことは、質の悪い子供の悪あがきと紙一重だった。でも、その悪あがきの末、身についたことは、私自身の身となり、今でも私の中で鮮明に“私”を形成していた・・・


 一刻も早く大人になりたくて、必死で背伸びした事も、本気でピアノと向かい合ってジュニアコンテストで優勝したことも、彼の読書傾向を真似したことも・・・


 全部、全部・・・今の「私」になっている。


「・・・・・」


それらの事実に軽く驚きながら、本棚を眺めていると・・・


「何、見てんだ?」


いつの間にか憲一さんが部屋に戻ってきていた。その手には、二人分のコーヒーのマグを持っていた。その片方には、かなりの量のミルクが入っていてカフェラテのようだった。・・・私が好きな・・・


「ううん・・・なんでもない・・・」


「気になる本でもあったか?」


そう聞かれて、私はううん、と首を横に振った。


「みんな・・・読んだこと、あるから・・・」


 私は、彼の顔を見上げた。


 私よりも、頭一つ分、背が高い彼。見上げるようだった。


「・・・憲一さんが読んだことのある本なら、読んだこと、あるよ・・・」


 彼に冷たくされて、傷ついて。それでも何かの折に彼を見かけたとき、読んでいた本、カバンからのぞかせていたタイトル・・・それを覚えておいて、あとで図書館で探して、読んでいた。


 そんな自分の行いを思い出し、そんなことをしていた自分に呆れながらも。


 それでも、そんな行いさえ、彼が好きだったからで。


 さっさと諦めてしまえば楽になれたのに、それも出来ずに、彼がこっちを見ていないと判っていても、彼が見ていないと知っていても、必死で背伸びしていた・・・


「憲一さんの事・・・ずっと好きだったから」


 彼の顔を見ながら、私は静かに言った。


 昨日の舞台で聞いた時は、心臓の音が回りに聞こえてしまいそうだったけど、今日は、酷く落ち着いて言うことが出来た。


 落ち着いているのが、自分でも不思議だった。でも、ずっと、ずっと・・・彼と向き合う時は、子供のころから落ち着いていた。家族や、身内と向き合うのと同じように。


 最初は、身内や家族に対する感情に似ていた。それが、いつごろから恋愛感情に変わったのか、もう覚えていない。


 ううん、そんなこと、どうでもいい。


 どれだけ冷たくされようと、嘘つかれて傷つこうと・・・傷ついて泣いても。それでも嫌いになれなかった。


 それくらい、彼は私の心の中にずっと、根付き続けていた。


 諦めようとしても、心に根付き続けていた物たちをすべて引き抜いてしまうと、心が死ぬほど痛くなる・・・心さえ、壊れてしまうほど・・・根付いていた。


 厄介な想い・・・でも、それが・・・私にとっての、たった一つの恋心の正体だ・・・


「憲一さんの事、好きだよ?」


 もう一度、心の中のすべてを吐き出すように、もう一度、言った。


 言いながら、憲一さんの顔を見ると・・・彼は、少し困ったように、私から少し、目をそらした。


 そして・・・


「・・・座れよ」


 静かに、そう言った。気が付くと私も彼も、本棚の前に立ち尽くしたままで、彼の両手には、マグカップを二つ持ったままだった。


「座って、話そう・・・」


 彼にすすめられて、私は彼のデスクの椅子に座った。そして、その向かいにある彼のベッドに、彼が腰かけた。


「・・・何から、話そうか・・・」


 少し思いをめぐらしているのか、彼は、遠い目をした。





「俺も・・・ずっと・・・桜の事が好きだった」


 何よりも先に、彼は結論を口にしていた。


 驚いて私は息をのんだ。


 返す言葉を失っていると、彼はさらに言葉をつづけた。


「多分、お前が俺の事を好きになる、ずっと前から・・・好きだった」


「嘘・・・」


「嘘じゃない」


「だって!じゃあっ!」


 どうしてあの時、あの子供の時、悲しい言葉を私に言ったの?


 そう言いかけた時。


「・・・あの時の事・・・」


 彼の言う"あの時"・・・今更何の事か、確認するまでもない。


「どうしてあんなひどい言葉をお前に言ったのか・・・この前の夏にお前が言っていた想像通りだ」


 夏に、私が言っていた・・・"友達に憲一さんが私と一緒にいるのを見られて、冷やかされた"って奴の事だ・・・


 彼のその言葉に、やっぱり、と心にストン、と落ちた。


「お前に言いあてられた時、ヒヤッとした。・・・図星だったからな・・・」


 そう言うと、彼は気まずそうに笑った・・・そして、さらに言葉をつづけた。


「・・・中一の時。


 何かの時に、お前と一緒にいるところを、部活の先輩に見られて。


 先輩に、いろいろうるさいことを言われてな。


 学校や部活で、平和に生活してくには・・・お前と距離を置くしか、なかった」


 吐き出すようにそう言うと、手元のコーヒーを一口、飲んだ。


「・・・お前が俺の事好きだったこと、気づいてた」


「えっ!」


 驚いて彼の顔を見た。憲一さんはまっすぐに私を見ていた。こんなにもまっすぐに、彼に見据えられたのは、久しぶりのような気がする・・・


「いつも、まっすぐな笑顔で、俺を見ていた。俺を頼ってくれていた・・好かれてるって思ってた。


 俺も・・・その頃、お前の事好きだった。


 でもさ・・・俺、お前に好かれてるって事実に、甘えきってた。


 お前の気持ちに、答える方法なんか、ガキだったし判らなかった。それどころか、お前に嫌われるなんて、思ってもいなかった。


 たとえ俺が、酷い言葉言っても、はねつけても・・・お前は絶対、俺から離れることはないって思い込んでいた。


 だから・・・お前が俺から離れていったのを知ったとき・・・ショックだった。


 酷いこと言って原因作ったのは俺なのに・・・離れて行ったお前に、すごく腹が立った」


・・・自分勝手な言い分だけどさ、憲一さんは自嘲気味に笑った。


「お前が離れて行って・・原因作ったのは俺だって自覚、あったのに・・・離れて行ったお前に逆恨みして、腹立てて・・関係修復さえ、出来なかった。


その時の俺、最低だな。・・・自分でも、最低だって思った。


 でも・・・最低だってわかってても、それを改めることなんかできなかった。自分が正しい、悪いのは桜だって・・・思っていたかった。そうでないと・・・俺が耐えられなかった・・・



 そのまま、時間だけが過ぎてって・・


 気が付くとお前は、俺の手の届かないくらい遠くを1人で歩いてた。


 お前がジュニアコンテストで優勝した姿を見たとき・・・お前が離れて行った時以上に、ショックだった。


おめでとうって、言ってやんなきゃいけなかったのに、それも言えないまま、目ぇ逸らしてた。


 だってさ、あんな小さかった、俺に頼り切っていた桜が、たった一人で、俺の手が届かない舞台に立って・・・周囲のすべてに認められていたんだ・・・


 もう、お前に俺は必要ないんだって・・・絶望的な気分だった・・・おめでとう、なんて、いえるわけ、ないだろ?」


 憲一さんの言葉は、まるで懺悔をするような声だった。


「でも・・・そんな絶望的な気分になっても・・お前が俺から遠くに離れても。


 留学していた間も。


 結局俺は・・・


 どれだけお前に腹が立とうと、ショック受けようと。


 一番最後には・・・お前の事を好きだって・・・思い知るだけだった」



「嘘・・・だって!」


 そんなそぶり、少しも見えなかった!私の事なんか、少しも見ていなかったくせにっ!


今更・・・今更何よっ!


 そう詰りかけて・・・はっ!と息をのんだ。


 


 もしかして・・・


 見ていなかったのは・・


 私の方だったのかもしれない。


 


 彼の姿を見るのがつらかった。嫌われていると思っていたから、辛かった。


 だから、ただ、前だけを見つめて、急いで大人になりたかった。夢をかなえたかった。


 少しでも早く大人になることだけが・・・彼に振り向いてもらえる、ただ一つの術だったから。


 だからこそ・・・コンテストに出場するようになってからは、彼の事なんか見ていなかった。彼に対する想いからも目を逸らしていた。見ると辛いだけだから・・・


ただ、早く大人になることだけを目指した。そして、その理由も目的も、いつしか忘れて行った。


だから、彼のそぶりさえも、見落としていたのかも知れない・・・



 そんな思いにぶち当たって、返す言葉を失ったままでいると、彼はさらに言葉をつづけた。


「留学からお前が戻ったときも。お前は相変わらずだった。


 びっくりするほど大人びてたけど、俺の事なんか見ていなかった・・・


 見ていたのかもしれないけど、お前は、俺の事、"師匠の息子"としか見ていなかった・・・


 だから俺は・・・お前と向かい合う為には、"師匠の息子"でいるしかなかったんだ。


 "師匠の息子""師匠のマネージャー"としてお前の前にいれば・・・お前の側にいることが出来る。


 今更、お前の心なんか手に入らなくていい。そんなこと、とっくにあきらめた。


 でも、誰よりもお前の傍にいるのは俺だけ・・・そう思っていないと・・・俺のほうが壊れそうだった!」


 最後の方は、言い表せないほど、悲痛な声だった。


「お前を・・・母さんの言葉を使って縛ったのは・・・結局は、俺の独占欲だ。


どんな手を使っても・・・お前を独占していたかった・・・俺の手の届くところに置いておきたかった。


母さんの名前を出せば、お前は俺の言うことを聞くしか、ないだろ? わかってて、それで縛ってた。


 だから・・・仕事とはいえ、俺よりも近くにいる佐々木さんにさえ・・どれだけ俺が嫉妬してたか、お前に想像できるか?


 舞台で、お前が佐々木さんと演奏しているところを見るたびに、嫉妬で狂いそうになった!


あの男がお前のそばにいるだけで、あの男・・・殺してやりたいとさえ、思っちまうんだぞ?」



・・・これは本当に、私が知っている憲一さん?


 いつも無表情で私と向かい合っていた憲一さんが、こんなに感情的に話をするところなんか・・・見たことない・・・

 


「あの佐々木さんが、お前に告白したって聞いた時・・・もう・・あきらめていた・・・奴は俺と違って、お前には優しいし、歳だって近い。何より奴といる時のお前の笑顔は・・・俺といる時とは違って楽しそうだった。俺のことなんか、お前にとっては遠い日の初恋にすらならない存在」


「憲一さんっ!」


 たまらなくなって、私は怒鳴るように彼の言葉を遮った。


「私だって、ずっと憲一さんの事、好きだったんだよ!


子供の時、あの言葉で傷ついた後もっ!


憲一さんの側にもう一度戻るには、私自身が大人になるしかないって思ったの!


だから・・・」


 だから、必死だった。一刻も早く大人になりたかった。


 大人になりたいから、必死だった。


 振り返ってほしかった。また笑顔で向かい合いたかったのっ!


でも・・・私はいつから、“大人になりたい”と思ったきっかけから、目を逸らしたんだろう?


一方的に、憲一さんばかりを責められない。


だって、見ているつもりで、何にも見ていなかったのは・・・私の方だ。先に目をそらしたのは、私の方だ。


 あの頃、もっとちゃんと、彼の事を見ていたら・・・もっと違う人間関係だったかもしれない・・・ね。


 憲一さんは、私から視線を外すように、うつむいていた。視線を合わせるのも、気まずいのかもしれない。


 正直・・・話を振ったのは私なのに、その私も気まずい。


 でも、以前向かい合っていた時に感じた気まずさではないし、いつものような、無感情なものでもなかった。


「・・・・けんいち・・・さん・・・」


 その沈黙を、私はそっと、止めた。


 もう、このままの関係でいるのは、嫌だった。自分の気持ちから目を逸らして、心が痛くなるのも、耐えられなかった。


 だから、私も、ちゃんと前を向いて・・・憲一さんと向かい合って。


「もう一度・・・聞いて、いい?」


 もう一度だけ、貴方の口から、聞きたい。


「二度と、聞かないから・・・もう一度だけ、聞いても、いい?」


 私は、杏樹が教えてくれたあの言葉を、もう一度、憲一さんに投げかけた。


「・・・私の事、好き?」


 すると、憲一さんは。


 ゆっくり顔を上げると。


 今まで見たこともない程、優しい目をして、私を見た。


 そして。


 ずっと、私が、欲しくてたまらなかった一言をくれた。


「好きだよ」


 たった一言。でも、とても重たくて、言えなかった、聞けなかった一言を。


「ずっと、好きだったし、今も、好きだ」


 ふわり。


 彼の手は、そっと私の髪を撫でてくれた。


 それは、小さい頃、私の頭をなでてくれた、あの"けんちゃん"の手と重なって感じた。




 やっと、やっと。


 あの時の途切れた時間が


 つながった。



 

「私も・・・憲一さんの事、大好き・・・」


 頭を撫でてくれる彼の手に、私も自分の手をそっと重ねた。


 久しぶりに感じる彼の手の感触は、あの頃以上に暖かく、優しかった。





 

 寒い、秋の終わりの朝の出来事だった・・・




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