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秋の章 第2話

日を重ねるたびに、暑さはどんどん和らいで、気が付くと、服装も半袖から長袖に、そして薄手のパーカーがないと過ごせない程、涼しくなった。


 特に今年は、"十年に一度"と言われるほど、大型で強力な台風が二つも、日本列島を通過していったせいか、突然大雨や強風が吹いたり、寒くなったり蒸し暑くなったり、各地で災害やら停電やらが起きたようだった。


 さすがにその台風が直撃した日は、都内でのレッスンが臨時休講になった。もっとも、休講にならなかったとしても、電車やバスの交通機関が軒並み麻痺したので、仕事に出るどころではなかったけれど・・・





 そんな日々の隙間。





 懐かしい夢を見た。


 まだ子供の頃。


 無条件で憲一さんを慕っていた頃の、夢。


 私が、憲一さんの背中を見つけて、『けんちゃん』と呼ぶと、必ず憲一さんがこちらに振り返ってくれた。


『どうしたの?桜?』


 その声は、今以上に優しく、独特な、声変わり前の子供っぽい声だったけれど。


 私はその声を聞くのが大好きだった。


 大好きなけんちゃんの、私に向けられた笑顔が、大好きだった・・・


 そんな、子供の頃の、幸せな夢だった。





 子供のころの夢を見るなんて、今までなかったのに。


 突然こんな夢を見るようになったのは、杏樹と接する時間が長いからだろうか?





 それとも・・・あんな光景を見たからだろうか?





 不意に、昨日の昼間の事を思い出した。




 昨日。私は都内の音楽教室へ向かっていた。


 一人で・・・ではなかった。


 私の隣には、佐々木和也、という男性がいた。


 彼は同業者で、都内の、同じ音楽教室でヴァイオリンを教えている。そしてそれとは別に、プロオーケストラにも所属している。将来を期待されているヴァイオリニストだ。


 彼とは歳が同じで、留学時代に知り合った。ドイツの同じ大学に留学していたのだ。


 あの頃、ピアノ科の学生は、授業の一環で、他の器楽科専攻の学生の伴奏をすることが本当に多くて、ピアノ科の中でも、腕のある学生は、それだけで、伴奏者として他科の器楽の人達からは引っ張りだこになる。


 それは、他の楽器を専攻している学生さんも同じで、数人でアンサンブルをして、それを試験、とされる事だって、日常的にあった。


 そして、アンサンブルの試験ともなれば、スポーツで言えば団体戦。技術のない人やアンサンブルがうまくない人と組むと、自分の成績にも影響する・・・そうなると、メンバー選びも慎重になる。


 そんな中、大学内でも数少ない日本人・・・というか東洋人、として知り合ったのが佐々木君・・・和也さんだった。



 彼も私同様・・・というか私以上に、ジュニア時代から、国の内外のコンテストで輝かしい成績を残しての留学で、そんな境遇が私と似ていたせいか、妙に気があった。結局、大学時代の4年間、私はずっと彼の伴奏や、彼が絡むアンサンブルの伴奏を担当していた。


 校内でも"名コンビ"と言われるほど、私と彼の相性は良かった。


 それは、帰国してからも変わらず、彼のソロリサイタルの伴奏は、毎年私が担当している。彼に言わせると"桜さん以外に頼みたくない"のだそうだ。


 精力的に舞台演奏をしている彼。その彼に引っ張られるようにして、私も彼の伴奏や、ジョイントコンサートで舞台に出させてもらっている。


 伴奏者として、そして一人のピアニストとして、彼には認められ、信頼されているのがハッキリとわかる。それはどんな賛辞よりも嬉しい現実だ。


 

 和也さんは、明日の土曜、都内のホールでソロリサイタルをする。私は今年も彼の伴奏を頼まれていて、今日はレッスンの昼休みや合間にその練習をしよう・・・と、そんな仕事の話をしているさなか。


 ふと視線を、和也から周囲に移すと・・・



「あ・・・・」


 軽く息をのんだ。

 

 都内の、音楽教室の最寄り駅から教室へと向かう途中。車道を挟んだ向こう側の歩道を、憲一さんが歩いていた。


 彼もまた、一人、ではなかった。


 その隣には、見覚えのある女性がいた。


(あれは・・・杏樹のママ・・・?)


 見違えるわけがない。先日の、杏樹の運動会の時は、一日一緒にいたのだ。


 あの時のようなラフなスタイルではなく、仕事用のスーツを身にまとった杏樹のママと、同じように背広を着ていた、憲一さん。


 二人は並んで、何やら話しながら歩いていた。その表情までは判らなかったけど、二人とも笑っているように見えた。



 私には絶対に見せてはくれない、穏やかな笑顔だった。それを受けて、杏樹のママも笑っていた。




とても、その笑顔が遠くに見えた。


 


 気が付くと、私の足は止まっていて、二人から視線を外せなかった。


「桜さん?」


 突然足が止まったせいか、和也さんが不思議そうに私の顔を見た。そしてその視線の先に、私と同じ人を見つけた・・・そして多分・・・私の足が止まった理由を、悟ったのだろう。


「・・・行こうか?」


 和也さんは、さりげなく、私の肩にそっと触れるように回した。労わるようなその仕草で、やっと私は動き出すことが出来た。


 ・・・和也さんは、もうずいぶん前から私が憲一さんを好きなことを知っている。でもさすがに、この夏に起こった事までは、まだ話していなかった。


 ただ、"桜の好きな人は、桜の師匠の息子でマネージャー。奴は桜の事を、母親の弟子、くらいにしか思っていない・・・"それくらいの事を、何かの折に(多分、仲間同士の酒の席で、酔っ払って)話した位だ・・・


「相変わらず、進展なし、なんだな」


「進展はないよ。むしろその逆」


 私は小さな声で、そう言うと下を向いた。


「なんだよ? 振られたか?」


 そんなんじゃないよ・・・私は首を横に振りながら、この夏にあった事を、初めて他人に話した。


 

 憲一さんが、"師匠"の名前を使っていたのは、私が遠くに感じて寂しかったからだと・・・師匠の名前を出せば、自分のいう事を聞く、と思ったからだ・・・・と。


指の怪我のこと、そして、それ以来、何度か一緒に出かけたりする(ほとんどが買い物で、デートの類ではない)けれど、彼の気持ちさえ、わからない事。


「結局・・・彼の気持ちなんか、全然わからない。


でも・・・私を言う通りに動かすことで・・・優越感に浸りたかったんだと・・・思う。


 なんだかね・・・それ知った途端・・・ずーっと抱えてた恋愛感情、全部溶けて消えたっていうか・・・もういいやって気分」


 気が付くと、私は飲み込み続けていた想いが、ぽろぽろと出続けていた。


 和也さんは、そんな私の言葉を、否定することも肯定することもなく、ただ、静かに聞き続けてくれた。


 そして、私の肩に手を乗せたまま、その手で優しく肩をさすりながら、音楽教室の道までを一緒に歩いた。


 不安定な、私の心をかばうように・・・


 そのさりげない優しさが、今は、とても有難かった・・・



 もう一度、道路の向こう側に目をやると、憲一さんたちは、そのまま並んで歩き、その近くにある雑居ビルへと入って行った・・・


 その雑居ビルの上の方の階の看板には、"法律相談所"という文字と"弁護士事務所"という言葉が書いてあった・・・


 きっと、二人で・・・杏樹のパパについての相談にも、来たのだろう・・・


 冷静に、そう結論付けながら、意識や理性とは全く違う所で、1人で立っていられないほど、酷く胸が痛んだのは。


 憲一さんが、私には見せてくれない笑顔を、杏樹のママには見せていたからか・・・


 それとも、二人が並んで歩いている姿が、とても絵になっていたからか・・・



 それとも・・・・


 

 最後のもう一つの"理由"を、私はいつものように見て見ぬふりをした。

 





 厄介なもので。


 憲一さんの事など、もう何とも思っていないのに。


 恋愛感情など、この夏にすべて壊れて消えた。


 今更彼に対して、何の感情もない。


 それなのに。


 酷く、酷く、胸が痛んだ。


 そんな私を、和也さんは心配そうに見ていた。



 ・・・・・・・






 それが、昨日の出来事だった。



 そして、明け方見た"夢"・・・・あんまりにもタイミングが良すぎる。





 目覚ましの音とともに、あの、子供の頃の夢は泡沫のように消えて、いつもの、見慣れた現実と、昨日感じた胸の痛みだけが残っていた。


 その現実に、ため息ともつかないため息をつくと、私は起き上がってぐーっと伸びをした。


 今日は和也さんのリサイタルの本番。昨日は仕事が終わってから、早めに眠ったので、体調は良いのに・・・夢のせいで気分が落ち込みそうだ。





 そんな気分で食欲のないまま、軽い朝ごはんを胃に押し込むように食べていると、携帯にメールが入った。


 メールは和也さんからで、


"車で迎えに行く"とだけ書かれていた。


 彼は、隣の市に住んでいて、今日演奏をする都内のホールへ行くには、いったん隣の市から私の住む市に出て、そこから高速を使ったほうが早い。そういえば昨日の仕事帰り、"車で行くから、乗っけてってやる"と言っていたような気がする。


 彼ほどではないにせよ、私も、舞台に立つ以上、衣装やら、いつもと違う荷物やらも多いので、彼の好意はとても有難かった。


 それからしばらくして、家の外で車のエンジン音が聞こえた。そしてそのエンジン音が消えて、すぐに玄関のチャイムが鳴り響いた。


「はーい!」


 私は、忘れ物がないかもう一度荷物をざっと見た。そして忘れ物がないのを確認してから玄関を開けた。玄関の前には、いつもとは少し違う、仕事着とは違う服を着た和也さんが立っていた。


「おはよう」


「おはよ。迎えに来てくれて、ありがとう」


「いいって! いつも伴奏してもらってるんだから、これ位やってやるって!」


 気さくな彼はそう言うと、玄関の中に入ると、そこに置いてある荷物を軽々と持った。


「荷物、これだけだろ?」


「うん・・・っていいよ! 今日本番でしょ!本番前にそんな重い荷物持って肩痛めたらどうするのよ!」


今日の主役に荷物なんか持たせられない。慌ててその荷物を私が取り返そうとしたけれど、それよりも早く、彼はすたすたと車のほうへと行ってしまった。


「その言葉そっくりそのままお前に返してやるよ


 お前だって肩痛めてピアノ弾けなくなったりしたら大変だろ!


そんなことになったら俺の方が困るよ」


 彼は私に振り返り、柔らかい笑顔でそういった。


「でも・・・」


「いいから、さっさと戸締りしてこい!


 それに女に、こんなに荷物持たせられないだろ!」


 その後ろ姿を見ながら、私もあわてて、もう一度忘れ物がないかチェックをして、玄関を閉めた。




 その時だった。


 

(ガチャッ)


 玄関に鍵をかけるのと同時に、隣の家の玄関も開いた。そして中から憲一さんが出てきた。彼もこれから出掛けるのか、車のキーを片手に持っていた。


「あ・・・」


「・・・おはよう、桜」


「・・・・・・おはよう」


 挨拶はするものの、それ以上の会話は進まないし、彼が話を持ち掛けない限り、私も話すことなど、ない。


 運動会以来、私も、今日みたいな伴奏の仕事や、自分自身のリサイタルの準備で忙しくなり、彼の顔などゆっくり見ることもなかった。


 運動会以前は、私の指の事を気遣ってか、買い物に付き合ってくれたりすることは多かったけれど、もう、怪我をした指のテーピングも外れ、彼が私の側で雑用をする理由も、なくなった。それに何より、私自身がリサイタルの準備や友人のリサイタルの伴奏に駆り出されたり、と、忙しく、買い物はおろか、仕事以外で出かける暇もなくなった。そして自然、彼と顔を合わせることもなくなった。


 それらの現実に、嬉しいような、どこか寂しいような、何とも表現しがたい気分になったけど、その感情と向き合う事を、私は拒否していた。


 以前は、"師匠の命令"とか"母さんが・・・"と、師匠のパシリのように、いろいろな連絡ごとを持ち掛けてきて、今以上に顔を合わせる機会は多かった。それは今同様、無機質なやり取りだったけど、今は彼が持ち出さない限り、会話さえ、ない。


 それでも彼が師匠の名前を使っていた頃よりは、今の方がずっとマシだ。相変わらず無機質で、感情が伴わないものだったけど、むしろ今は、ほっとかれているほうが、妙に安心した。


 それなのに・・・どうしてこんなに胸が痛いんだろう?


 不意に、昨日の、憲一さんと杏樹のママが一緒に歩いていたあの姿が脳裏をよぎった。


そして、胸が痛い・・・


 


 相変わらず、彼は無表情で、私を見ている。



 ・・・夕べ、あんな夢を見たせいか、あの夢の中の"けんちゃん"と憲一さんが同一人物だ、なんてとても信じられない。


 子供の頃は、あんなに笑っていたのに、あんなに優しかったのに。


 もっとも、そんなこと、今思いを馳せても仕方がない事だった。過去は過去。今は今。


 それでも・・・


 あんな夢を見たせいか、彼のあの"笑顔"がとても懐かしく、恋しかった。



 ・・・笑顔が・・・ひどく遠い・・・・



「桜さんっ!どうしたんだ? 」


 車に荷物を積み終わった和也さんが、足早にこっちにやってきた。と同時に、憲一さんの視線は、私から和也さんへと移った。


「あ、橘さん・・」


「ああ、佐々木さんか、おはようございます」


和也さんの姿を見た途端、憲一さんはマネージャーの顔をして、頭を下げた。


「おはようございます」

 

 それに合わせるように、和也さんもお辞儀をした。


 仕事柄、憲一さんも和也さんとは面識がある。けど、憲一さんは私の仕事相手に対して、大概好印象を持ってくれない。特に和也さんは、憲一さんは"虫が好かない"と毛嫌いしていた。一時期は、私が彼の伴奏の仕事をすることを、憲一さんはとても嫌がっていた。"どうしてあんな奴の伴奏引き受けたんだよ!"とひどい剣幕で言われた。


 けれど、和也さんはそんな憲一さんの感情などお構いなしで、憲一さんの嫌そうな顔を、むしろ楽しんでいるような様子さえ、あった。この二人が向かい合うと、その険悪な空気に私はいつもびくびくしてしまう。


 でも、うちの師匠と和也さんの師匠が知り合いで、師匠は和也さんの演奏をとても評価してくれていた。一緒にジョイントコンサートをやったときも、師匠にはいい演奏だった、と絶賛してくれた。


 それ以来、憲一さんは、私と和也さんの仕事の事を、表立ってとやかく言わなくなった。結局、師匠さえ認めてくれれば、彼は私の仕事にはとやかく言わないみたいだ・・・


 それでも憲一さんは、和也さんが気に入らないのか、口にこそ出さないけれど、ただならぬ視線で和也さんを見つめていた。


「何か?」


 その視線に気づいた和也さんは、憲一さんにそう聞いたけど、憲一さんは和也さんを無視して、代わりに、その不機嫌な視線を私に向けた。


「鼻の下伸ばして浮かれてんじゃねぇよ」


 まるで吐き捨てるように、私にそう言った。


「なっ!」


 そして言われた瞬間・・・胸の痛みはピークになった。


 いつ私が浮かれてるのよ!こっちは本番前なのよ!


そんな怒りにも、胸の痛みに気が付くわけもなく、彼はさらに続けた。


「せいぜい足ひっぱるなよ!!」


 はたして、こんな言葉、本番前の演奏者に言っていいことなんだろうか?


 もっと他に言う事、ないの?


"本番、がんばれ"とか・・・


 もっとも彼は、私の本番でさえ、そんな言葉かけてくれることはない。


 でも!


 「ひ・・・ひっぱるわけないでしょ?」


 相変わらず引かない胸の痛みと怒りを抱えながら、私もまた、吐き捨てるように言うと、憲一さんに背中を向け、和也さんの車の方へと向かった。


「心配ないですよ」


 後に残った和也さんは、心なしか、穏やかな声でそう言った。


「桜さんの実力は、貴方なんかより、俺のほうがよっぽど判っているし、俺は貴方と違って、彼女の演奏を尊敬しているんです。


 貴方はせいぜい、そうやって桜さんを罵っていればいい。


そんな言葉で縛れるほど、桜さんは子供じゃない。


 それに・・・罵られて桜さんがへこんだときは、俺が支えてあげますから。ご心配なく。


せいぜい、他の女と仲良くしていればいい」


 その瞬間、憲一さんの顔色が変わった。


「・・・何のことだよ?」


「昨日、都内で、綺麗な女性と一緒に歩いていましたよね?


 あんまり雰囲気が良かったので、てっきりデートかと思いましたけど?」


「っ!あれはっ」


 あわてた様子で何か言おうとしている憲一さんに、さらに畳みかける。


「・・・いい身分ですね。


 橘先生の息子兼マネージャーっていうのも。


 立場と職務で、桜さんを束縛しておいて、桜さんのいないところでほかの美人とデートだなんて。


 知ってますか? そういうのを、もてあそぶ、っていうんですよ」



「か、和也さんっ!」



 その言葉にびっくりして私は彼らの方に振り返った。すると和也さんは、何か言いたげな憲一さんの耳元に、何かささやいていた。


 その言葉は、こちらまで聞こえてこなかったけれど。


 和也さんが憲一さんから離れた瞬間、どこか焦ったような顔になって、私たちを見つめていた。


 そんな憲一さんを見て、和也さんはにやり、といたずらっ子のように笑うと、私のほうへと近づいてきた。


「何・・・言ったの?」


「秘密」


 和也さんはくっくっく・・・・と面白そうに笑っていた。そして私の肩にそっと触れるように置くと、車に乗るように促した。


 車に乗る瞬間、一瞬だけ、憲一さんの姿が見えた。


 憲一さんはただ、隣の玄関先に佇んでいた・・・


 その姿に、また私の胸は痛んだけど、


 私はいつものように、それを見て見ぬふりをした。




 車に乗り込み、エンジンがかかり、車が走り出すと同時に、和也さんは口を開いた。


「あいかわらず、不器用だな」


 今にも笑い出しそうな顔で、そう言う彼の横顔を私は驚いて見た。


「不器用って・・・」


「桜さんも、橘さんも」


そう言うと、彼は少しだけ、呆れたような顔をした。


「橘さん、桜さんを今日の会場まで、車で送ってあげたかったんじゃないのか?」


「まさか!」


そんなこと、あるわけない。そんなこと・・・


でも、さっきの憲一さんは、車のキーしか持っていなかった。仕事だったら相応の荷物があるはずだし、単なる外出にしても、軽装すぎる。


 それに、外に出てくるタイミングが、偶然にしては・・・良すぎる気がする。


 まさか・・・和也さんの言う通り私を送るつもりだったの?確かに、今日は、私は舞台に立つ、と彼は知っているはず。荷物が多いことだって・・・


「今日、打ち上げ、出るだろ?」


 彼は突然、話を変えた。


「え? うん・・そのつもりだよ?」


 今日、彼のリサイタルの後、関係者何人かで打ち上げの飲み会をする。


「桜さんに話があるんだ。

 

本番前に話す話じゃないし、


 いいだろ?」


「う・・・うん・・・」


 まるでそれ以外の答えを受け付けないような口調でそう言われて、私はただ、頷くことしかできなかった。


 車はやがて、都内へと向かう高速道路のインターへ入って行き・・・・話はうやむやになった。








 朝の車の中の会話以後、憲一さんの話が出てくることはなく、軽い会話のやり取りをしながら、会場へと向かった。

 

 会場に着けば、リハーサル・本番・・・と、関係のない話をする余裕なんかなくなる。


 そんな状況が、むしろ有難かったし、朝の出来事を引きずることもなく、本番を乗り切ることが出来た。




 彼のリサイタルは、大成功に終わった。



 

 打ち上げは、会場のそばのバーで、そこの店長は、和也さんの知り合いらしく、都内での和也さん絡みのコンサートの時は、いつも安く貸切にしてくれている。


 雰囲気の良いバーで、裏通りにあって、大きな看板も出ていないし、大きなイベントが出来るような広い店、というわけではない。知っている人しか来ないようなバーだけれど、店長の人柄の良さか、客が途絶えることはない。むしろ、常連客がいつもいて、繁盛しているようだ。


 その店を貸切にして、関係者で打ち上げをした。関係者だってそうたくさんいるわけではないけれど、あっという間に店の席は関係者で一杯になってしまうほどだ。


 打ち上げに参加してくれている人たちの空気も良い。今日の舞台がうまくいったせいか、スタッフや打ち上げに来てくれた人たちの表情もよい。


 半立食の打ち上げ会場。関係者に挨拶をして回る彼の姿を、どこか遠くに感じながら、私もスタッフや関係者に勧められるまま、お酒を飲んでいた。


 いつもの事だけど、本番後のお酒は、本当においしい。


「お待たせっ!桜さん」


 それからどのくらい経ってからか、和也さんが私の側にやってきた。そして、バーの隅の空いている席を指さした。


「お疲れ様・・・もう挨拶しなくていいの?」


「みんな出来上がってるし、帰った奴もいるし。


 このままお開きでもいいんじゃないか?」


 辺りを見渡すと、半分ほどの人はもう帰ったようで、さっきも和也さんが、帰りがけのスタッフにお礼を言っていた。今残っているのは、本当に気心の知れた人達で、みんな程よくお酒が入っていて、良い感じに酔っ払っている。


 彼のリサイタル後の打ち上げは、大概こんな感じだ。和也さんの人柄ゆえだろうか。


 そんなことを考えていると、彼は、"そんなことより"と、話を変えた。


「朝の話の続きしようか?」


 朝の話・・・? 一瞬何の話なのか判らなかったけれど、和也さんのいたずらっ子のような笑みを見て、すぐに思い出した。


 朝の出来事・・・憲一さんの事だ・・・


 正直、気が進まない。でも、和也さん相手に、この話をはぐらかすのは無理だろう。


 何せ、私の仕事関係者・・・演奏家の中で、私の憲一さんに対する、単純ではない感情を知っているのはこの人だけなのだ。


 私は、和也さんに導かれるまま、バーの隅のテーブル席に座った。そして、顔なじみのウエイターに、カクテルと軽いおつまみを注文した。わざわざ私の大好きな、口当たりの良い軽いカクテルだった。


「・・・和也さん、車でしょ? 飲んじゃって平気なの?」


 私は今日は、打ち上げに出るつもりだったし、それは彼も同じこと。彼は今日の主役なんだから。でも、今朝、彼はここまで車で来ていたはずだ。でも、打ち上げが始まってから、私同様、勧められるままに酒を飲んでいるようだった。


「平気。車、打ち上げ前に妹が運転して帰ってった。あ、車に積んでた荷物、ドレスだけだろ?2,3日中に桜さんの家に届けるからさ。ドレス、明日とかは使わないだろ?」


「う・・・うん」


 もともと帰りは電車と地下鉄で帰る予定だったので、それは全く問題なかった。むしろ手荷物が減って有難い。


 和也さんの妹さんは、音楽とは無縁のOLさんをやっている。けれど、いつもこうして和也さんや私の舞台の度に裏方をやってくれる人で、私も面識がある。小柄でかわいらしい女性で、来年には結婚する、と言っていた・・・


 間もなく、ウェイターさんが注文しておいたカクテルを持ってきてくれた。


「それじゃ、改めて、お疲れ様、乾杯」


「乾杯」


 そう言って、カクテルを一口、飲んだ。淡いピンク色のカクテルは、口当たりが良くて、美味しかった。


「なあ、桜さん?」


 彼もまた、カクテルを一口飲むと、いつもより少し、真面目な顔で私を見つめた。


 その視線に、少しだけドキリ、としながらも、私は彼から視線を逸らせなかった。


「桜さんはさぁ? 友達と恋人の境界線って、どこにあると思う?」


「き、境界線?」


「そう。境界線」


 突然聞いてきた彼の質問の意図を、私はつかめず、一瞬言葉に詰まった。


 突然そう聞かれても・・・そもそも考えたこともない。それが顔に出ていたのか、彼は少し、真面目な顔を崩した。


「俺は・・・


 その相手に、触れたいって思ったら・・・それは恋だと思ってる」



「触れ…たい?」



 彼は、軽く頷いた。


「たとえばさ、手つないだりとかもそうだし、抱きしめたり・・・


 相手に対して、そうしたい、って思ったら、それって恋愛だと思ってる」


 それじゃ、私が杏樹を抱きしめたいって思うのも、恋愛? そう突っ込んでみたかったけど、それは辞めておいた。彼の、少し真面目な顔に免じて・・・何よりも、今、この話はごまかしたり茶化したりしてはいけない話のような気がした。


「・・・橘さんも・・・そう思ってるんだろうな」


 私がそんなことを考えていると、彼は、そう断言した。突然、話が重たい話になったような気がして、私は軽く彼の顔を見た。



「その証拠に、桜さん?」


「ん?なに?」


 憲一さんとは対照的に、和也さんは普段から雄弁だ。でも、それは、単なるおしゃべり、とかそういうものではなく、話すのも聞くのも本当にうまい。そして・・・他人から話を聞き出すのも本当にうまいのだ。

 

 私が、以前、酒の席とはいえ、憲一さんの事を話してしまったのは、そんな彼の術中に嵌ってしまったからだ。


「俺が、今朝、桜さんの所で車に乗る前にさぁ」


「うん」


「桜さんの肩に手を乗せてただろ?」


「・・・うん・・・・」


 まるで労わるように・・・それは、まるで、憲一さんの言葉で傷ついたであろう私を慰めるように・・・


「あれは、俺なりの、橘さんへの宣戦布告のつもりだったんだ」


「宣戦・・・?」


 言っていることが理解できず、返す言葉さえ、見つからない。


 彼は、真面目な顔をして、まっすぐに私を見つめた。その視線は、いつもの同業者を見るような"演奏者"の目ではなく、もうちょっと色を帯びた、"大人の男性"の眼をしていた。


 そんな目をした彼を、私は今まで見たことがない・・・


 その視線に釘づけになっている私に、さらに言葉をつづけた。


「・・・俺は、ずっと前から、あんなふうに桜さんに、触りたいって思ってた・・・


 ・・・桜さんが、好きだから」


 突然の彼の告白に、頭が付いていかない。


「・・・・は?・・・」


 やっとその言葉を理解して、改めて彼の顔を見た。彼は・・・相変わらず色を帯びた、優しい目をして私を見つめていた。


 そんな視線にさらされるにの慣れていない私は、その視線に、ぞくり、と軽い鳥肌を感じた。


「桜さんが、橘さんの事好きだって知ってからも、ずっと、俺は桜さんの事、好きだった。


 桜さんが橘さんの事好きなら、それを見守ろうって決めてた。


 でも・・・なんかこじれてるみたいだから・・・横槍入れてみた」


「憲一さんからかって楽しんたでしょう? それに、好きだって・・・急に言われても・・・私はっ・・・」


 状況についていけないまま、私は返事に困っていると、彼はくすっと面白そうに笑った。


「今朝、橘さんに対して言ったことは本当だ。少なくとも、俺は橘さん見ててそう思った。


桜さんが、絶対に逆らえない存在を使って縛り付けて、無理やり自分のそばに置いているみたいに見えた。


その癖、橘さんは、本当の事が先生や君にバレるまで、自分の本心を君には言わなかっただろ?


都合の良いずるい男がやりそうな事だ。


だって、そうだろ?


君は、師匠の橘先生には絶対に逆らえないし、その息子で、君自身が想いを寄せてる橘憲一から離れることなんか、出来ない。


奴はそれをちゃんとわかってる。解っているからこそ、橘先生の名前を使って束縛した。君が、どこにもいかないように、自分の手の届く場所に・・・まあ、言い方悪いけど、桜さんの心を軟禁していた・・・」


彼はそう断言した。そして、手元のカクテルをぐっと飲み干し、ふぅ、と息を履いた。心の中の憤りや感情を整理するように・・・


そして、すっと視線を再び私に向けた。


そのまっすぐな視線は、憲一さんとは対照的で、感情や思いがそのまま色に出るような、そんな視線だった。


そして・・・お酒のせいか、少し、熱っぽさを帯びていた。それは、普段、一緒に仕事をしたり演奏したりしている彼からは、まず見ることのできない目だった。


「で・・・桜さんは?


 俺の事、どう思ってる?」


 和也さんは、遠回しではなく、ストレートにそう聞いてきた。


「どう・・・って・・・・」


 正直、和也さんをそんな恋愛感情をもって見たことなど、一度もない。


 彼はいつも、私にとっては同業者で友人で、理解者で・・・そういう意味では好きだし、尊敬している。


でも・・・それは恋愛とは違う思いだった。


 そう、恋愛じゃない・・・


 私にとっての恋愛は・・・


 たった一つの恋は・・・・




"桜!"



 不意に、明け方見た、子供の頃の夢が脳類をよぎった。


 あの頃の憲一さん・・・"けんちゃん"の笑顔・・・


 そして、今の憲一さん。



 何を考えているのかわからないのに。


 私の事をどう思っているのかさえ、判らないのに。


 師匠の名前を使って私の事を束縛したのに・・・



 私の、憲一さんへの感情など、もう壊れて消えたのに。




 どうして・・・


 どうして、こんなに、


 ムネガイタインダロウ・・・





「桜さん・・・」


 すっと、差し出されたハンカチ。見ると、和也さんが私に差し出していた。


 それを見て、改めて、私は自分が泣いているのにやっと気が付いた。


「・・・ありがとう」


 素直にそう言って、ハンカチを受け取り、それで涙を拭いた。きっと化粧なんかぐちゃぐちゃだろう。それほど、顔は涙で濡れていた。



「・・・他人の気持ちなんて、判んなくて当然なんだ」


 彼は、静かな声で言った。


「現に桜さんだって、俺の気持ち、ずっと気づかなかっただろ?


 他人の気持ちや考えてることってさぁ。


 察することや推測することが出来ても。所詮、判んないもんなんだ。


 ・・・橘さんの気持ちだって、そうじゃないのか?」


 

 いつになく、彼の言葉は真面目だった。


「たとえばさぁ、桜さん」


「ん?」


「橘さんが、嘘ついて、桜さんの師匠の名前を使って、束縛してた・・・って言ってただろ?」


 私は、頷いた。


「それだって・・・どうして橘さんがそうしたのかって・・・考えたこと、あるか?」


「それはっ!寂しかったからだって!」


 私が遠くに感じて、寂しくて・・・師匠の名前を使えば自分のいう事を聞いてくれるかもって思ったから・・・


「じゃあさ、どうして寂しかったんだと思う?


さみしさなんか、やろうと思えば別のことで埋められる筈だろ?


そこまで君を束縛して、独占状態にしたのは?」


「どうして・・・って・・・」


 ・・・私は、憲一さんの言葉を必死で思い出した。


"・・・子供の頃はさ、いつも俺の後ろ、ついてきていたくせに、帰国したころは、俺のほう、見向きもしなかっただろ?"


 だから・・・寂しくなって・・嘘ついて束縛したのだ・・・と・・・


「・・・普通、何とも思っていない存在が、自分の事見向きもしなくなったところで・・・寂しいとか思わないぜ」


 和也さんはにやり、と笑った。


「だって・・・それって・・・」


 返す言葉さえ、見つからないまま、私は和也さんから目をそらして、カクテルを一口、飲んだ。少し、ぬるくなっている。


「現に、朝、橘さんの目の前で、桜さんの肩に触ったとき・・・さぁ」


「う・・・うん」


 彼は、にやにやと笑った。まるで、勝ちが決まる最後の切り札を切るみたいに。


 「あれ見た瞬間、橘さん、表情変わったぜ!


 一瞬だけだけど、すっげー目ぇして俺を睨んでた」


「嘘!」


「マジで。睨み殺されるかと思ったぜ。あーあ。男の嫉妬って怖いなぁ。


・・・ ま、それを狙って、桜さんの肩にさわったんだけどな」


 怖い怖い・・・そう言いながらも彼は楽しそうに笑っている。いったい何がこんなに楽しいんだろう・・・


 私は、こんなに苦しいのに・・・


 でも・・・憲一さんが嫉妬、なんて・・・あり得ない。普段、そんなそぶりさえ、ないのに。


「橘さんはさ、生真面目なのか潔癖なのか、俺みたいに、他人に・・・特に本気で好きな女に、気易く触れたくても触れられない。


 で、その触れられないもどかしさを"寂しい"って言葉でごまかして、橘先生を使って、君を縛りつけた。 


自分が触れられないなら、せめて、どんな手を使ってでも束縛して、君を、どこにも行けないようにしちまえばいい・・・他の誰も触れないようにしちまえばいい・・・不器用な奴のやりそうなことだ。


・・・でも、桜さんと橘先生に嘘が露見した。だからもう、橘先生の名前を使って桜さんを束縛出来ない。ついでに桜さんにまで軽蔑された。


 奴にしてみれば、もうこれ以上、桜さんを束縛する手段さえ、ないし、お前に好かれる資格さえ、失ったんだ。


 焦ってんだろうなぁ・・・ま、俺にとってはこれ以上ないチャンスだけど。


そこへ来て、俺のコンサートの伴奏だろ?しかも朝、俺、桜さんに必要以上に触ってたし、な」


 くっくっく・・・・彼は面白そうに笑っている。けど、私の方は・・・


 笑えない。笑えるわけがない。


 彼の言っている、憲一さんの心理が・・・信じられなかった。


 そりゃあ、筋は通ってるし、説得力はある。心のどこかで、これが本当だったらな・・・って思ってしまう自分が、いる。


 でも・・・所詮は和也さんの妄想に過ぎない・・・


 

「今朝・・・あん時・・・橘さんに、耳打ちした言葉、聞きたいか?」


 あの時・・・今朝、和也さんが、憲一さんに何かささやいていた。私のところまで聞こえなかったけど、・・・確かその直後、憲一さんの表情がはっきりと変わった。



「なんて・・・言ったの?」


「“てめぇの出る幕を作るほど悪趣味じゃねぇんだよっ!”」


「そんなこと言ったの?」


 私が聞くと、和也さんは頷いた。


「あん時の橘さん、見物だったぜ!


 よっぽど俺に、桜さんを取られるのが嫌みたいだな・・・


 橘さんの気持ちなんか、明白だろ?」


「でもっ!それだって和也さんの妄想でしょ?」


 信じられないよ、そんなの。


 だって、私に対する憲一さんは、いつだって無表情で、優しさの欠片もない。・・・そんな感情ひとつ、見つけられない。


 でも、和也さんはふっと鼻で笑った。


「当事者であればあるほど、見えないものだってある。


 俺は・・・ずっと桜さんを好きで、見てたし、桜さんと橘さんを見てた。だから気づくし、推測も出来る。


 でも・・・桜さん」


 彼は神妙な顔をした。今までの楽しそうな顔とは対照的で、これから始まる話が、今までのような笑顔交じりな話ではない事を物語っていた。つられて、私も彼を見つめた。


「例えばさ、俺と君との関係って、どこまで行っても対等だと思ってんだけど、桜さんは?」


「うん・・・私もそう思ってる」


それは、はっきりと頷ける。留学時代から、音大生同士、演奏者同士として向かい合ってきたせいだろう。例えば力関係が、どちらかが強い、とかどっちかがより偉い、・・・ということはない。


特に演奏のお仕事の時はそうだ。対等でないと・・・力関係があって、演奏のこととか曲の事とか、遠慮なく話せないと、いい演奏なんか到底望めない。


私だって、ピアノの演奏者として、演奏や、曲の表現上譲れないことがある。それは和也さんだってそうだ。


時にはそれでぶつかることや喧嘩することだってある。でも、そうやって、ある時は妥協し、ある時は解決策を見出して・・・最終的には納得いく演奏に仕上げる。


そのためには、一緒に舞台に上がる人とは、あくまでも対等でありたい、と思っている。そのためには、ピアニストとしての自分の技術だって磨き続けなければいけないし、もっと勉強し続けなければダメだ。


和也さんとは、それが可能だからこそ・・・彼とは良い演奏ができると思っている。

 

 私の言葉に、和也さんは嬉しそうな目をして頷いた。


「よかった、そう思ってくれて。


でもさ、橘さんは・・・そういう、相手とは対等に・・・って考えが、俺たちよりも薄いと思う。


橘先生のマネージャーとか付き人とかやってると、どうしても周囲の関係者と、暗黙の上下関係が出来ちまう。


君に対しても、そうなんだろうな。


年齢差とか、自分が桜さんの師匠のマネージャーやってる、って人間関係だか知らないけど、桜さんに対しては、自分の方が上でなきゃ、気が済まない・・・」



だからこそ、あんな形で、必要以上に、桜さんを縛り付けたんだろうな、と、和也さんはそう結論づけた。



 上下関係


 対等であること。


 

 心の中で、和也さんの言葉を反芻した。


 私と憲一さんの人間関係は、和也さんとの対等な人間関係とは、随分違う。


 それは・・・子供の頃からそうだ。



 "けんちゃん"と呼んで慕っていた頃は。


 兄のように、見上げる存在だった。もちろん平気でたてついたり反発するような事はなかった。


 反発する必要がなかった。あの頃の"けんちゃん"は、いつも優しかったから。暖かかったから。


 

 そして、そんな"けんちゃん"だからこそ、私は、彼に、子供なりに恋をしたのだ・・・



 でも、それさえ、和也さんに言わせれば、"対等ではない"という事なのだろうか?


「対等であることと、優しさは別物だ。取り違えないほうがいい」


 まるで私の心を読むように、彼は私の心の中の疑問に簡単に答えた。


「子供だった君が、お兄さんみたいに優しかった橘さんに恋するのは、自然な事だと思う。


 でも、その優しかった彼を好きになった桜さん相手に・・・」


 和也さんは、一瞬少しだけ、話すのを躊躇したようだった。


「・・・"優しさ"っていう飴で近づいてきた君に、"悲しい言葉"っていう剣で切り付けた。


 理由はどうであれ、許せることじゃないだろ?


 それでも君は、"彼"の事を好きだった。でも彼は、君の想いに答えることさえせず、慕って近づいてきた君を傷つけ続けた・・・


 君の気持ちを、彼が知っていたかはわからない。でも・・・その関係、対等だと思うか?」


 そう聞かれて・・・私は答えに詰まった。


 確かに対等、とは言えない。


 私の想いも、彼の行動も・・・


 お互いに対等に、相手を見ていない。


 私の想いも一方的だったし、彼の動きだって、一方的だった。


 対等だったら・・・たとえば今の和也さんとの、対等な人間関係と照らし合わせてみても・・・対等だったら、お互いこんな一方的な動きは、しないだろう。


 

「まあ・・・当時は君も橘さんも子供だったから、対等でなくて、当然なんだけどさ。


 歳の差のある子供同士の、ままごとみたいな恋愛なんて、"歳の差がある"ってだけの理由で対等でなんかなくなるんだから」


 彼は、軽く笑ってそう言った。



「でも・・・俺には、理由はどうであれ、あの男は、今も昔も、一方的に桜さんの心をもてあそんでいるように見えるけど、な。


 兄みたいな優しさ、っていう"飴"と、"悲しい言葉"っていうムチでさ。


 そんなの、対等なわけないだろ?


 桜さんは、今もまだ、橘さんの中に、あるかどうかもわからない"けんちゃん"の優しさを求めてて、それが、好きって気持ちに繋がっている。


 そうじゃないのか?」


"けんちゃん"の、やさしさ?


 脳裏には、記憶の一番奥で、私に笑いかけてくれていた、優しい"けんちゃん"の笑顔があった。


 もう、随分長いこと、見ていない・・・


「桜さんの話の中にいつも出てきた・・・桜さんが好きだった、"あの頃のけんちゃん"は・・・もういない。そう思ったほうがいい。


今君の前にいる橘さんは・・・そのけんちゃん、じゃない。


 君は・・・、"あの頃"に縛られすぎている・・・俺はそう思うな。


 今、君が好きなのは・・・"あの頃のけんちゃん"なのか?


 それとも今の橘さんなのか?」



 聞かれた瞬間、私は答えに戸惑った。


 "あの頃のけんちゃん"は、大好きだ。もう二度と会えない事くらい、判っている。それくらい遠い遠い昔の存在だ。


 今の憲一さんと、同一人物とはとても思えない。


 そして今・・・好きなのは・・・


"桜"


 私を呼ぶ、憲一さんの、無感情な声も。


 仏頂面で無表情なところも。


 あの頃のけんちゃんとは全然違うのに。


 今の憲一さんの事なんか・・・


「・・・何とも・・・思ってないよ・・・」


 そう、何とも思っていない。好きじゃない。


 好きじゃないのに・・・


 

 どうして・・・・


 どうして、こんなに、


 胸が痛いのよ・・・




 いつも見て見ぬ振りする想い。


 触れたくない、自分の想い。


"彼は私の事なんかなんとも思っていない"


 そう思い込む事で、蓋をし続けてきた


"私の想い"・・・


 "私の・・・"




 再びあふれ出た涙を、和也さんから借りたハンカチで、再び拭った。拭ったまま、それを目に当てるふりをして・・・顔を伏せた。


 これ以上、泣き顔を見られないように・・・


 好かれてないから、想われていないから、と。


 蓋をし続けてきた、想いが。


 再びあふれだす。


 


「桜さん?


 過去と他人は、どうやっても変えられない。これはもうしょうがないことだよな?


 でも、未来と自分自身はいくらでも変えられる・・・って俺は思ってる。


 桜さんが、誰かとの未来を本気で望んでるなら・・・いくらでもその手だてはあるんじゃないのか?」


 和也さんはそう言いながら、私の頭をやさしく撫でた。暖かい手は、憲一さんのそれとは対照的だった。


違う。


私が欲しいのは、この手じゃない・・・


 でも。


 冷え切っていた、凍り付いていた私の想いを溶かすには、十分だった。


 私は、涙でぐしゃぐしゃな顔を伏せたまま、頷いた。


「心配すんな。


桜さんが橘さんに本当に振られた時は、いくらでも慰めてやるよ。


俺への返事も、その時もらうから。


でも・・・その瞬間まで、俺は絶対に桜さんを諦めない。


忘れんなよ」


 


 ああ。私は。


 本当にどうしようもない。


 いろんなものを、大切な事たちを、大切な人たちの気持ちを見落としたまま、ここまで来てしまったみたいた。


 今からでも、少しずつ。


 落としてきてしまった大切なものを、拾いに行けたら・・・



 そんなことを考えながら、私は、本番後の心地よい酒の酔いに身を任せていた。


 意識がなくなる直前まで、和也さんの優しい手は、私の髪を撫でていた。







そのあと。


おぼろげな意識の中。和也さんが手配してくれたタクシーで帰った。


泥酔しかけた私と、飲んでも殆ど酔っ払わない彼。


私のことを好きだと言っていた彼、計算高い彼、その気になれば、酔ぱらって隙だらけになった私を相手に、いくらでもずるい事が出来ただろう。


それをしなかった彼に心から感謝しながら、私は翌朝、いつも通りの朝を迎えた。




 泥酔した割に、二日酔いにならなかったのは救いだ。


 それでも、微かな酒臭さを落としたくてシャワーを浴びて、相変わらず朝食を拒否する胃にミルクが多めのコーヒーを流し込んだ。


 今日は、午後からお仕事だ。



 

 いつもより少しだけ、ゆっくりと時間が流れているような気がして、それが妙に心地よかった。


 大きな舞台の翌朝は、大体、時間がゆっくりと感じる。それは、舞台までの何週間かが、その練習で必死で、あっという間だったからかも知れない・・・


「次は私のコンサート、か・・・」



 カレンダーを見ると、私の本番まで、あと二週間。

 

 それが終わると、冬にかけて、私が教えている音楽教室と師匠の教室で、それぞれ発表会があるので、それにかかりきりになる。


 しばらくは、のんびりできなさそうだ・・・


 今のうちに、そう、こんな静かな時間位、少しのんびりしておきたい。


 

 仕事の支度を整えて、今日の予定を確認した。今日は、かなり遅い時間まで教室レッスンが入っている。帰りが遅くなりそうだ。


 頭の中を、仕事モードに切り替えながら、玄関を開けると、隣の家の玄関の所に、憲一さんが立っていた。


 ちょうど出てきた、といった感じではなく、私の家と彼の家の境になっている低いフェンスに寄りかかっていた。


「憲一さん・・・」


「おはよう、桜・・・」


「おはようって・・・時間じゃないよ?」


「・・・そうだな・・・」


 軽い言葉のやり取りをしながら、不意に、昨日の和也さんの言葉を思い出した。憲一さんの行動や言葉の意味と、私自身の気持ち・・・


 自分の気持ちと、ちゃんと向き合わなきゃ・・・和也さんの話を聞きながら、そう思った。


 自分から削り取り、捨て去ってきた大切な"何か"を拾い集めるためにも。


 しっかりと向き合って・・・答えを出さなくちゃ。


 そんなことを考えながらも、憲一さんとの続かない会話はすぐに止まってしまい、私と彼の間には重たい沈黙が降りてきた。


 最近は、彼が話をはじめない限り、この沈黙が終わることはない。そして、その会話のない気まずさにも、すっかり慣れてしまっている・・・


 それなのに、今日は、この沈黙が少し、気まずかった。


 でも、今日は、彼が思ったより早く、この沈黙を壊した。


「昨日・・・佐々木さんとずっと一緒だったのか?」


 佐々木さん・・・和也さんの事だ。私は頷いた。


「・・うん。彼の伴奏だったし」


「奴に、何か言われたのか?」


 聞かれた瞬間、どきりとした。"何か"が何を指しているのか、心当たりがありすぎた。


「な・・・何かって・・・」


「告白・・・されたんだろ?」


 彼は、単刀直入に、聞いてきた。静かな声だったけど、言葉には、はぐらかしたりできない強さがあった。


 私は観念した。


「・・・うん・・・言われた」


「・・・付き合うのか?」


 彼の声は、硬い。


「さあ?まだ返事してないし・・・それに・・・」


 それに・・・


 つづけようとした言葉を、私は飲み込んだ。


(憲一さんが・・・好きだから・・・断るよ)


 もしも、私がそう言ったら、憲一さんは?


 そう言ったら・・・以前みたいな関係に、戻れる?


 あの頃みたいな笑顔が、また見れる?


 それとも・・嫌いな存在にそんなこと言われたら、迷惑?

 

 彼の顔を見ると、私の言葉を続きを待っているようにも、見えた。


 けど、私はその先を言えないまま、"それじゃ"と言って、仕事へと向かった・・・


 正確には、彼から逃げた。


 いつもと違うテンポで刻み始める心臓が、やけに痛い。


 昨日、和也さんと憲一さんの事を話していた時の胸の痛みと、同じ痛みだった。


 最近ずっと感じる、憲一さんの事を考えると感じる、胸の痛み。


 (過去と相手は変えられなくても、未来と自分は、いくらでも変えられる)


 昨日の、和也さんの言葉が脳裏をよぎった。


「未来と自分・・・か・・・」


 仕事に向かいながら、私は昨日の和也さんの言葉を思い起こした。


 酒が残っているわけでもないのに、少し頭が重たかった。





 


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(次の章)


 リサイタルをやるのは、友人演奏家だけではない。


 秋も深まると、私のソロリサイタルの準備も本格化してゆく。


 和也さんをはじめとした、他の演奏家さんの伴奏だったり、あるいはユニットを組んだりして舞台に立つことは、不定期とはいえ年に何回もあるけれど、ソロリサイタル、となると話は別だ。他の舞台以上に、力の入り方が違う。


 会場は地元の文化会館。ここは数年前(私がドイツ留学中に)リニューアルされて、会場も綺麗だし、音響設備もとても良い。帰国してからというもの、この会場でソロリサイタルを毎年やらせてもらっている。帰国してから、今年で三回目だ。


 毎年、担当している教室の生徒や音楽家の同業者、高校時代の知り合い、師匠の教室の生徒さんが大勢聴きに来てくれて、そう大きくもない会場だけれど、いつも一杯になる。


 夏の間に、演奏曲も決めて、今は仕事の合間に曲の練習に打ち込んでいる。とはいえ、教室の仕事やほかの舞台も普通にあるので、時間はいくらあっても足りない。

 


 ピアニスト兼ピアノ教師、という職業柄、舞台で演奏できる事はとても有難い事だし、今からとても楽しみだ。




 そんな忙しい合間でも、杏樹のレッスンはお休みにはならなかったし、しなかった。


 何より、杏樹と会えるこの時間は、私にとってちょっとした気分転換になりつつあった。


 ほかの音楽教室で生徒を教えるのとは違う、かといって歳の離れた友達とも違う・・・私の中では、"杏樹"という存在は、他の友人知人や生徒と同列に出来ない何かがあった。





 和也さんのリサイタルが終わった、数日後。その杏樹のレッスンの日。


"ピーンポーン"


 玄関の呼び鈴が鳴り響いた。


 いつもは、外の音に耳を傾け、杏樹の"さくらせんせーーーい!"という呼び声が聞こえたら玄関先まで迎えに出ていた。


 でも今日は、朝からリサイタルの曲の練習に没頭しすぎていた。


 お昼ご飯さえ食べず、曲の練習と調整に明け暮れ・・・時計も見ていなかった。


 その呼び鈴で、思わず時計を見ると・・・杏樹が来る時間になっていた。


(・・・うわ、もうこんな時間だったんだ・・)


 杏樹が来たのかも・・・そう思ってあわててレッスン室から出て、玄関を開けた。


 すると、玄関の前には、案の定、杏樹が立っていた。


「よかったぁーーーーさくらせんせい、いた!!!」


 突然、そんなことを言いながら、ばふっ!と私に抱き付いてきた。その声は、今にも泣きそうで・・・・というより、目は涙でにじんでいた。でも、泣きながら歩いてきた、といった感じではなく。本当にたった今、泣き出したような感じだった。


「どうしたの?杏樹?」


 抱き付いてきた杏樹の肩をやさしくさすりながら、私は杏樹にそう聞いてみた。すると、


「だって先生、あたしが呼んでも、外に出てきてくれないんだもん!!

 

 先生、病気になったのかと思ったんだもん!」


 そう言うと、抱き付く腕の力が強くなった。ちょっと痛い、と思ったけど、それは口に出さなかった。


「よかった・・・先生、倒れちゃったら、嫌だよ~~!!」


 そんな大げさな・・・そう思ったけれど。


 杏樹にしてみれば。


 家の前の坂道で、呼べば必ず外に出てきてくれる私が、今日に限って出てこない・・・となれば、心配になるだろう。


 この、家の前の坂は、家、数軒程の長さ(正確な長さなんて判らない!)。決して長い距離ではないけれど、この坂道を上がってくる間、杏樹は泣きたくなるほど、私の事を心配したに・・・違いない。


「ごめんね・・・心配かけちゃったね。


 ちょっと、ピアノの練習に夢中になってて、気づかなかったんだ」


 よしよし、と杏樹を宥めながらそう言い、杏樹を家の中に入れた。


「うん、さくらせんせいが元気だったから、いいよ」


 杏樹の、今にも泣きそうだった顔には笑顔がもどった。泣いたり笑ったり、忙しい子だ。


(笑顔・・・か・・・)


 先日の、和也さん話が脳裏をよぎった。そして、"あの頃のけんちゃん"の笑顔が、杏樹の笑顔と重なって見えた。


 "あの頃のけんちゃん"はもういない・・・そんなこと、彼に言われなくても、判っている・・・判っているけど・・・彼に言われるまで、自覚など、なかったのかもしれない。



 もう、遠い記憶の中にしかない、"あの頃のけんちゃん"。


 その笑顔とは対照的に、こんなにも近くにある、杏樹の笑顔・・・


 (もういない・・・か・・・・)


 言い聞かせるようにそう胸の内でつぶやいた。


 そんな私に気づかず、杏樹は、おじゃましまーす、といつものように家の中に入ってきた。


 レッスン室にはいり、ソファにランドセルとピンク色の手提げ袋を置き・・・


「あれ?」


 その荷物の多さに、私は少し、首を傾げた。今日は、手提げ袋が二つ、あるのだ。


 いつもは、レッスン用のピンク色のキルティングの手提げ袋を持っているのだけれど、今日はそのほかに、黄色い、かわいいひよこ模様の手提げ袋も持っている。


 しかもその袋は、泥で汚れていて、一瞬私は顔を顰めてしまった。


「ね、杏樹・・・その袋は?何入ってるの?」


 その、汚れた手提げをソファに置かれるのに抵抗を感じながらそう聞くと、杏樹は満面の笑みを見せてくれた。


「あのね、今日、学校でお芋ほりがあったの!!」


「お芋ほり?」


「うん!


 毎年、秋にはお芋ほりがあるの!今日は、そのお芋ほりがあったんだー!」


 そう言うと杏樹は、その黄色い手提げ袋の中を見せてくれた。


 中には、レジ袋が入っていて、その中には、大きなサツマイモが数個、泥つきのまま入っていた。


「うわーーー大きいねー」


「うん! 私が堀ったの、一番大きかったんだよ!」


 杏樹は得意げにそう言った。そしてその大きなサツマイモを1本、引っ張り出すと、私に差し出した。


「はい、これ、先生にあげる!」


 一番大きなサツマイモは、勿論まだ洗っていない泥つきで、袋から出すと同時に泥も落ち、ソファや絨毯を黒く汚していった。


 汚れるからやめて!!・・・・喉まででかかったその言葉を、私は飲み込んだ。


「・・・・いいの?杏樹?」


「いいの!だって、うちにサツマイモいっぱいあるんだもん!近所のおばちゃんがくれたやつとか、ママの会社の人が分けてくれたやつとか・・・それに、レンジでチンして食べるの、もう飽きちゃったんだ!」


 杏樹はきっぱりとそう言い切った。


 成程・・・そういえば、運動会の時、杏樹のママのお弁当を食べさせてもらった。あれはとっても美味しくて、きっと料理上手なママなんだろうな・・・と勝手に想像したけれど。


 普段はシングルマザーで、お仕事メインな生活を送っているはずだ。普段、手の込んだ料理は・・・出来ないのかもしれない。

 

 そんな風に、勝手に杏樹のママの事を思い出しながら・・・ふっと、先日憲一さんから聞いた、杏樹親娘の話を思い出した。


 あの話を聞いてから、私は杏樹とどうやって向かい合っていいか、判らなくなった。杏樹母娘が可哀想で、まるで腫物に触れるようにレッスンをした時も、あった。


 でも、いつも変わらない杏樹の笑顔を見るにつけ・・・"可哀想"と思うのは違う、と感じるようになった。


 確かに、憲一さんの話を聞いた限り、杏樹は"可哀想"かも知れない。


 でも・・・杏樹の笑顔からは、その"可哀想""自分は不幸"という感情が、まったく感じられないからだ。


 それは、杏樹が意識的に作っている、とか、そういうものではなくて、本当に幸せで笑っているように見えたからだ。


 杏樹のママや、周りのお友達、国仲先生・・・・そんな杏樹の周りの人たちが、本当に暖かいから・・・そんな人たちに支えられているからこそ、杏樹は、こんなにも笑顔で、"幸せ"なのだろう・・・


 そしてその笑顔は、周りの人をも笑顔に、幸せな気持ちにする、魔法みたいな笑顔だ。


 だから、私も、杏樹を"不幸"だと思うのは辞めた。


 杏樹の笑顔を素直に受け取り、私も素直に笑えるようになっていた。


 まるで、積年の友人のように・・・


「せんせい?どうかしたの?」


 突然考え事を始めてしまった私の腕を、杏樹は軽く揺さぶった。あわてて私は杏樹の顔を見た。杏樹は少し心配そうな目で私をまっすぐに見つめていた。


「え?」


「なんか、怖い顔、してたよ?」


 考え事をしていた私を杏樹は"怖い顔"をしている、と思ったみたいだ。慌てて私は首を横に振った。


「なんでもないよ! お芋、ありがとうね!」


「どおいたしまして!!」

 

 私はもらったお芋を大事に台所に持って行って、シンクで軽く洗うと、手早く皮をむいて厚めの輪切りにして、水にさらした。


 その後ろからは杏樹もついてきていて、私がやっている事を、興味深そうに眼をキラキラさせて見ている。


「せんせえ、何か作るの?」


 大きなサツマイモ一本。煮物にしても天ぷらにしても、とてもじゃないけど一人じゃ食べきれない。

 

 少しだけ、考えてから・・・


「じゃ、今日のおやつ、サツマイモで作ろうか?・・・杏樹はサツマイモ、好き?」


「焼き芋とチン以外がいい!!」

 

 どうやら焼き芋も、レンジでチンして食べるのも、本当に飽きてしまったみたいだ。そんな杏樹に私は苦笑いした。


「じゃ お芋でお菓子、作ろう!・・・レッスン終わったら、作るね」


 「先生、作れるの?」


 杏樹は嬉しそうに私の顔を見上げた。


「・・・簡単なのだけど、ね。・・・でも先にレッスンしちゃおう!


 レッスンの後に作るから、杏樹もお手伝いしてね?」


「うん!」


 杏樹は今にも飛び上がりそうなほど、嬉しそうだった。 そして、"じゃあ、レッスン頑張る!"と、スキップしそうな足取りでレッスン室へと向かった。


 その嬉しそうな後ろ姿に、私も思わず笑みをこぼしながら、サツマイモを水と一緒に鍋に入れて、火にかけた。


 レンジでチンすれば簡単に柔らかくなるのだけれど、レンジでチンして食べるのを飽きちゃった・・・と言っていた杏樹に免じて、時間がかかるけれど、ちゃんと茹でることにした。


 きっとレッスンが終わるころには、柔らかくゆであがっているだろう。


 そこまで準備をすると、私もレッスン室へと戻った。


何を作ろうかな?そんなことを考えているだけで、自然、私も笑っていた。





 レッスンをいつも通りに終わらせ(杏樹がいつも以上にそわそわしていたけれど、今日は見て見ぬふりをすることにした)台所に戻った。私の後ろから、杏樹が嬉しそうな軽い足取りでついてきた。


 さっきの私のもくろみ通り、サツマイモはおいしそうに柔らかく茹であがっていて、独特な温かいにおいが台所を包んでいた。


「せんせい、すごいいい匂いだね!」


「そうだね」


 杏樹の言葉にそう返しながら、私は茹であがったサツマイモをザルに上げてお湯を切ってボールに入れた。


 そして杏樹にマッシャーを渡した。


「杏樹、これで、おいも、つぶしてくれる?」


「わかった!」


 杏樹は、サツマイモのボウルを片手で押えて、もう片手で、マッシャーを使って一生懸命つぶし始めた。私が思っている以上に、杏樹はお家でお手伝いをやっているのか、随分うまくサツマイモを潰していた。


 その横で、私は、オーブンを予熱して、他の材料を計量して、小さなお皿に入れていった。


 バター、砂糖、卵黄、生クリーム・・・・


「先生、潰れたよ?これでいい?」


 杏樹が、すっかり形がなくなったサツマイモのボールを私に見せてきた。私は、うん、と頷いた。


「それじゃ、ここにある材料、順番に入れて、混ぜてくれる?」

 

「わかったー!」


 杏樹はそう返事をすると、私が用意したほかの材料をボールに入れて、混ぜ始めた。


 バターを入れて、混ぜて、砂糖も入れて、混ぜて・・・


 そんな横顔を見ながら、ふっと、夏休みの事を思い出した。


 夏休みの半ば過ぎ、お昼ご飯を作っていた私を、手伝ってくれた杏樹・・・


 そして、今、こうして同じ台所で一緒にケーキを作っている、杏樹・・・


 もしも、私に娘がいたら、こんな風に一緒に台所でお料理をするのだろうか?


 あの時、もしも、私に娘が出来るなら、杏樹みたいな子がいい・・・と思った。

 

 それは今でも変わらない。


 

 結婚願望が皆無なわけではない。人並みに、そんなことを夢見ることも、ある。


 以前は、今以上に、そんな夢を見ていた。


 今はもう見ることも辞めたけど、ほんの何年か前まで見ていた、ささやかな未来の夢。


 まだ憲一さんの事を好きだった昔・・・憲一さんと結婚できたら、と思っていた頃も、あった。


 憲一さんと結婚して、杏樹みたいな子供がいて・・・今となってはあり得ない夢だ。


 

 それに杏樹母娘の話を聞いてしまうと、「結婚したい」という気持ちさえ、どこか冷めてくる。


 大好きな人と結婚した筈なのに、その人に暴力振るわれて、結局離婚・・・そんな風にはなりたくない。



「せんせい? 混ぜたよ!」


 気が付くと杏樹は、私が用意した材料をすべて混ぜ終わっていた。


「ん、貸して」


 私は杏樹のボールを受け取り、しっかりと混ぜなおした。杏樹は随分丁寧に混ぜてくれたみたいで、材料はよく混ざっていた。


「うん、混ざってるね、ありがとう、杏樹!」


 そう言うと私は、小さめなカップケーキの型に絞り出して、それを型に絞り出して、オーブンで焼いた。


「ねえねえ、何が出来るの?」


 オーブンの中をのぞきながら、杏樹はわくわくした顔をしている。私は、杏樹の質問には答えず。


「出来てからのお楽しみ」


 と、一言だけ言って、台所の片付けを始めた。


 ボウルや道具の片付けがすべて終わるころ、オーブンから焼けるいい匂いが漂い始め、焼き上がりを知らせる電子音が響いた。


 私はミトンを両手につけて、オーブンを開けた。


 中からは、カップケーキサイズのスイートポテトが出来上がっていた。


「うわぁ! すごいおいしそう!!!」


 私の横では、杏樹が嬉しそうな声を上げた。


 焼きあがったそれは、美味しそうな焼き色が付いた、明るいきれいなサツマイモ色のスイートポテトだった。


「スイートポテト。食べたこと、ない?」


 そう聞くと、杏樹は大きく頷いた。


「ある!コンビニとかパン屋さんで売ってるやつでしょ? あれ、お家で作れるの?」


 ・・・杏樹のママは、こういったものは作らないのかな? そう思いながら、私は軽く頷いた。


「作れるよ。私のお友達が、ケーキやさんで働いててね、前、教えてもらったんだ」


 これは嘘ではない。幼馴染が隣町のケーキショップでパティシエをしている。これは彼女から教わったものだ。


 店で使っているレシピを家用に改造したものらしく、味はどんなスイートポテトよりも、美味しい。


「さ、温かいうちに食べよ?


 いっぱい出来たから、杏樹のママにも、お土産に持って行ってね?」


「もらっても、いいの?」


 嬉しそうにそう聞く杏樹に、私は頷いた。


「もちろん!食べるときに、少しだけトースターで焼いたら、美味しく食べられるからね」


「わーーい! 先生、ありがとう!!」


 杏樹の嬉しそうな笑顔を見ているだけで、不思議と、私もまた笑顔になれた。




・・・・うん・・・・やっぱり。


 いつか子供が出来るなら・・・


 杏樹みたいな子がいいな・・・・





一緒にスイートポテトを"美味しい!!"と絶賛して頬張る杏樹を見ながら、私は再び、そう思った。





 ピンクの手提げ袋に、綺麗にラップで包んだスイートポテトをたくさん入れて、杏樹は家の前の坂を下り、帰って行った。心なしか、スキップしそうなほど、足取りが軽く見えた。




 杏樹の背中を見送ってから、家の中に入ろうとしたとき。


 ちょうど杏樹が去って行った坂を、見慣れた車がこちらに向かって登ってきた。


 坂の途中の家の前で止まるわけでもなく、かといって通過するわけでもなく・・徐行しているようにも見えた。


 見慣れた車・・・つい先日、乗った車・・・


 そして運転席には、これまた、よく見知った人が乗っていた。


「・・・和也さん?」


 車は、私の家の前で止まった。


「よう!」


 軽い感じで彼は窓を開けてそう言った。


「どうしたの?なんか約束してたっけ?」


 彼と会うのは、大概仕事絡みで、それ以外で会う事・・・たとえば遊びに行ったりとか、そう言う事は全くない。ましてや彼のリサイタルが終わった直後・・彼との仕事は,あと何か月かない筈だ。


「いや、そうじゃなくてさ。


 ドレス、届けに来た!」


 そう言うと彼は車から降りて、車の後部トランクを開けて、見慣れたドレスバッグを取り出した。


 それは先日の、和也さんのリサイタルの時に私が来ていたドレスが入っているバッグで・・・そういえば、近いうちに届ける・・・とあの時彼は言っていた。


「わざわざありがとう!」


「いいって。届ける約束してただろ? 俺、今日暇だったからさ」


「それでも・・・」


 彼の家は隣の市。ここから車で20~30分程かかる。中途半端な距離感だ。


「何かのついででよかったのに」


「いいんだよ。俺がそうしたかったんだよ」


 そう言いながら、差し出されたドレスのバッグを受け取った。


「ありがとう」


 素直にそう言うことが出来た。きっとこれが、憲一さんだと、素直には言えないだろう・・・


(憲一さん、か・・・)


 一瞬、よぎった憲一さんの事が、一瞬、心を重たくした。


「・・・どうした?」


 和也さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「え?ううん、何でもないよ?


 あ、ねえねえ、スイートポテト、食べる?


 さっき、作ったんだ!」


「ああ、もらう!」


 取り繕うようにそう言って、リビングに戻った。そして、さっき焼いたスイートポテトを数個、丁寧にラップで包んで、あり合わせのコンビニ袋にいれると、玄関先に戻った。


すると、


「覗きか? 悪趣味だな!」


 外に出る直前。玄関でサンダルを足に引っ掛けたとき。


突然、普段の和也さんからは想像できないほど鋭い声が響いた。私はびっくりして再び外に出た。


「か、和也さんっ?」


 玄関の、低いフェンスを挟んだ向こう側は、憲一さんの家で・・彼はそっちに向かって怒鳴っていたのだ。でも、隣の玄関前には誰もいない。


その、誰もいない玄関に向かって、和也さんは怒鳴っている。


「・・・どうかしたの?」


驚いた私はそう聞いたけど、和也さんは隣の玄関をまっすぐに見つめたまま、何も言わない。


 一瞬、周囲には重たい沈黙が走った。でもそれはほんの一瞬で、次の瞬間・・・彼の家の玄関が、静かに開いた。


そしてそこには・・・憲一さんが立っていた。


「俺の動き、そんなに気になるのか? 橘さん?」


 呆れたような声の和也さんの声が、沈黙を破った。


「偶然じゃないだろ?この前といい、今日といい」


 この前・・・和也さんのリサイタル当日、うちに迎えに来てくれた時の事・・・だ・・・


「・・・何のことだ・・・」


 憲一さんは、相変わらずの無表情でそう言っている・・・でも、微かに、本当に微かに、普段の彼とは違う動揺の色が、見え隠れしている。


「偶然・・・か。


 橘先生のいいつけがないと、桜さんに何も言えない小心者のやりそうなこと、だな?」


「か、和也さんっ!」


 びっくりして和也さんの顔の見た・・・彼は、さっき私と向き合っていた時とは対照的な、冷たい、侮蔑するような表情をしている。


「俺は、お前に譲ってやるほど寛大じゃねぇんだ。残念ながら、な」


「だから何のことだよ?」


 相変わらず憲一さんは無表情・・・興味なさそうだ。でも・・・いつもの無表情とは少しだけ、違うような気がした。


「言ってやらないと判らないのか?


 お前のプライド、寸断するぜ?」


 にやりと、和也さんが冷たく笑った。


 今更何とも思わないけれど、初めて彼のこの冷たい笑みを見たのは留学中だった。そして初めて見た時は、怖くて鳥肌が立った。普段の優しい彼しか知らない人にとっては、この笑みは恐怖だろう。


「隠しとくのは嫌だから、はっきり言うけどさ」


 まっすぐに憲一さんを見ながら、和也さんは断言した。


「俺、桜さんの事、好きだから。


誰の命令も、指示もない。他人に強制されるのは趣味じゃない」


「っ・・・」


 憲一さんの、息をのむ音が聞こえた。一方私はもう、まともに憲一さんの顔を見れなかった。


「桜さんが俺を選ぶまで、いい子で大人しくしているほど、俺は物わかりよくないから」


「和也…さん・・・」


 この前の打ち上げの時の告白が、再び脳裏をよぎる。でもあの時は、"憲一さんとの事がけりがつくまで待っている"って言っていたのに・・・


「待ってるだけ、ってのは性に合わない。だから、桜さんに選ばれるための努力は怠らない。それで振られたら仕方ない。きっぱり諦める。


 でも・・・そうでないのなら。桜さんの口から直接断られるまで、諦めるつもりはない」


 それは、私への言葉なのか、それとも彼への言葉なのか・・・言葉は確かに私に向かって言っていた。でも・・・明らかに憲一さんへの言葉、だった・・・


「それじゃ、俺、帰るな」


「あっ・・・和也さんっ!」


「返事は急がない。色んなこと、ゆっくり考えてせてからでいい。


でも」


彼は言葉を止め、まっすぐな目で私を射抜いた。それは、さっき憲一さんを見ていたような鋭い目ではなく、ずっと優しい目だった。


「俺を選んだら・・・もう後戻りはできないと思って欲しい。


でも、絶対に泣かせるつもりはない。


 あと、スイートポテト、ありがとう。


じゃあな」


 彼はそう言い切ると、颯爽と車に乗り込み、私に軽く手を振った。そして、何事もなかったかのように、帰って行った。


まるで、私と憲一さんの間の、無機質な関係に爆弾を投下しに来たみたいだ。






「・・・・・・」


 嵐が去った後には、私と憲一さんが静寂と一緒に取り残された。


 

 何かを話すわけでもない。


 ただ、いつもの沈黙とは違う、いつもとは比べ物にならないほど、重たく気まずい沈黙だけが、私たちを包んでいた。


 憲一さんは、いつもとは違う、力らない、弱い視線で私を見ていた。


 

 


『・・・他人の気持ちなんて、判んなくて当然なんだ』


『橘さんが、嘘ついて、桜さんの師匠の名前を使って、束縛してた・・・って言ってただろ?

・・・どうして橘さんがそうしたのかって・・・考えたこと、あるか?』


『・・・普通、何とも思っていない相手が、自分の事見向きもしなくなったところで・・・寂しいとか思わないぜ』


『現に、朝、橘さんの目の前で、桜さんの肩に触ったとき・・・さぁ、あれ見た瞬間、橘さん、表情変わったぜ!

 一瞬だけだけど、すっげー目ぇして俺を睨んでた』


『橘さんはさ、俺みたいに、気安く触れたくても触れられない。で、その触れられないもどかしさを"寂しい"って言葉でごまかして、橘先生を使って、桜さんを縛りつけた。 


触れられないなら、せめて、どんな手を使ってでも束縛して、どこにも行けないようにしちまえばいい、他の誰もさわれないようにしちまえばいい・・・不器用な奴のやりそうなことだ』


『当事者であればあるほど、見えないものだってある。

 俺は・・・ずっと桜さんを見てたし、桜さんと橘さんを見てた。だから気づくし、推測も出来る』


『桜さんの話の中にいつも出てきた・・・桜さんが好きだった、"あの頃のけんちゃん"は・・・もういない。そう思ったほうがいい。


 君は、"あの頃"に縛られすぎている・・・俺はそう思うな』



『なぁ、桜さん?

 過去と他人は、どうやっても変えられない。これはもうしょうがないことだよな?

 でも、未来と自分自身はいくらでも変えられる・・・って俺は思ってる。


 桜さんが、俺とじゃない、橘さんとの未来を本気で望んでるなら・・・いくらでもその手だてはあるんじゃないのか?』




 あの日の、和也さんとの会話が、脳裏をよぎった。


 酒の席での話なのに。


 私なんか半分くらい酔っぱらっていたのに。


 話の内容、一つ一つ、鮮明に思い出すことが出来る。


 そして・・・あの次の日から、時間があると、ずっと考えていた。


 私の、憲一さんに対する気持ち。


"彼は私の事なんかなんとも思っていない"


 今までは、そう思って、自分の想いから目をそらしていた。


 でも、そうじゃない。


 私が・・・他でもない、私が、"今の"憲一さんの事をどう思っているのか。


 "あの頃の"けんちゃんは、もういない。


 そんなことは十分理解している。


 そして、"あの頃の"けんちゃんの事を、私が好きだったことも、判っている。


 じゃあ、今は?


 今の憲一さんを・・・私は、どう思っているの?


 好きなの?


 それとも・・・その"好き"さえも、"あの頃"の惰性なの?


 


 答えなんか、すぐに出てくるわけ、ない。


 でも、今、一つだけ、明確に分かったことがあった。


 それは。


 

『今の私は、"今の"憲一さんに対して。


 無感情、無関心では、いられない』


 


 いくら無関心を装ったって。


 どれだけ考えることを拒否しても。


 心のどこかに引っ掛かり、残ってしまう、想い。


 私がいつも、見て見ぬふりしているのは、この心に残ってしまった"想い"・・・


 でも、それが、好き、という感情なのか、それともひどいことをされた、という被害者的な感情なのか、それは、判らなかった。


 いずれにしても、"無関心ではいられない"。それが、本心だった。


 


私の目の前には、フェンスを隔てて、憲一さんが立っている。


気まずそうに、私から目をそらした。



それは、何かに憤っているようにも見えるし、子供が、後ろめたいことをした後の表情にも見えた。


いずれにしても・・・





(憲一さんの笑顔が・・・ひどく遠い・・・)


 憲一さんの笑顔が私に向けられた最後って、いつだろう?あんまりにも昔すぎて、思い出せない。


 それに、憲一さんの笑顔そのものも・・・もう思い出せない。


 憲一さんの笑顔は思い出せないくせに、"あの頃のけんちゃん"の笑顔は、鮮明に思い出せる。


 過去にしか、いない筈なのに・・・




 笑顔が・・・見たい。


 憲一さんの、笑顔が・・・見たい。


 


 もしも。"今の"憲一さんの笑顔が見れたら。


 今の私の想いの答えも、見えるような気がした。




(・・・・・・・・・)



「スイートポテトなんか、作ったのか?・・・」


沈黙を破ったの葉、憲一さんだった。


「え?、うん・・・


杏樹の学校で、お芋掘りがあったらしくて、サツマイモもらったの。それで、杏樹と作ったの。


 その・・・たくさん出来たから・・・一人で食べきれなくて、杏樹にも持って帰ってもらったの」


「で、佐々木さんにも分けた、と」


「和也さん・・・甘いもの、好きだから」


 留学時代から、ずっとそうだった。


「・・・憲一さんも・・・食べる?」


 憲一さんは・・・甘いもの、好きだったっけ? そんなことさえ、思い出せない。


 でも、子供の頃の"けんちゃん"は、甘いものを食べていたような気が…する・・・


「・・・いらねぇ」


 ところが憲一さんは、相変わらずの気まずい空気のままそう言うと、ふいっと家の中に戻って行った。


「あっ!」


 その後ろ姿に、それ以上声をかける暇もなかった。


「・・・・・・けんいち・・・さん・・・」


 和也さんの言葉のせいか、それとも気まずい空気のせいか。


「っ・・・・」


 そんなつもりもないのに。


 泣きだしそうになった。





 無関心でなんか、いられない。


 憲一さんにそっぽを向かれただけ。


 たったそれだけなのに。


 酷く寂しくて、悲しくて・・・・


「・・・もう・・・嫌…」


 和也さんの言葉が気になって、平常心でいられない。


 それは、和也さんから告白されたから、ではなくて。


 この前の打ち上げの時に言っていた、和也さんの、憲一さんに対する憶測の方で。


 あんまり都合のよすぎる憶測・・・


でも、


「ありえない・・・よっ」


 和也さんの憶測が本当なら。


 なんでそっぽ向くのよ。


 なんで、こんなに冷たいのよっ・・・


 『ガキの子守なんか御免だっ!』


 どうして、あの時、あんな言葉、投げつけたのよっ・・・






 うなだれたまま、私は家に入った。


 リビングのテーブルの上には、杏樹と焼いたスイートポテトが、寂しそうに並んでいた。


 それらは、すでに冷め切っていた。




 冷え切ったスイートポテトを、一口、かじってみた。


 さっきの焼きたてと比べて、味は落ち着いているけれど・・・


「・・・冷たい・・・」


 変なの・・・


 スイートポテトなんか、冷えてもおいしいはずなのに。


 冷たくなったスイートポテトは、酷く不味く感じた。


 「杏樹・・・ちゃんと温めて食べたかなぁ・・・」


まるで現実逃避するように、無理やり心を杏樹に戻した。


 でも、心は憲一さんから離れてくれなかった。


 結局・・・無関心ではいられない事を、再び私は思い知った。


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