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秋の章 第1話


 遠くで、セミの鳴き声がする。


 夏の終わりに泣き始める、独特な鳴き声のセミだった。


 杏樹がここにいたら、きっとセミの名前も教えてくれるし、今から蝉取りでも始めるだろうか?・・・




 私は、杏樹の小学校の傍を歩いていた。


 隣には憲一さんが、同じ歩幅で歩いていた。


 相変わらず、険悪でも親密でもない。ただ、隣を歩いているだけだった。


 彼の手には、買い物袋が二つ。一方私は自分のバッグを持っているだけだった。


"荷物位、自分で持つ・・・"


 その言葉を、もう私は言い疲れていた。





 

 三日前、ドイツから帰国した。


 帰国の便や到着時間を彼に連絡した覚えはない。でも、仕事のこともあるし、師匠にはあらかじめ話してあった。その師匠から聞いたのだろうか?憲一さんはわざわざ空港に迎えに来てくれた。


 

"師匠の命令?"


 到着ロビーで所在なく立っていた彼に、私は第一声、そう言った。でも、彼はそれには何も反論しなかった。その代わり、


『手・・・平気か?』


 ドイツに行く前、怪我した手の事を聞いているのだろう。私は頷いた。


『心配だから・・・迎えに来た。・・・その・・・その手じゃ、何するのも不便だろ?』


 いたわるような、優しい声だった。珍しく、彼の口から、"師匠"の言葉は出てこなかった。


 彼は、それ以上の私の反論を聞く気もないのか、荷物の受け取り場所に行くと、私のスーツケースを受け取り、カートに乗せ、駐車場まで押して行ってくれた。


「わざわざ車で来たの?」


「・・・迎えに来たのに、電車で来るわけないだろ?」


「だって・・・」


「お前の荷物運ぶなら、車の方が楽だからな」


 そう言うと、車のトランクに私の荷物を入れると、助手席を軽く指さした。


「乗れよ」


「ん・・・ありがとう」


 素直にそう言うと、私は助手席に乗り込んだ。





「師匠が・・憲一さん、出入りと接触、禁止にするって言ってたけど?」


 車が走り出してすぐ、私はそう口火を切った。


 ドイツに行く前、師匠は私にすごい剣幕でそう言い放っていた。


「ああ、母さんから聞いてる。お前に近づくな、触るなって、な。あんな剣幕で怒った母さん、初めて見た」


「じゃあ、何でわざわざ迎えに来たのよ?」


 出国前にあんなことがあったのだ。普通、来ないだろう。


「・・・母さんの命令じゃない、ってことは確かだな」


 ふっと、彼は自虐的に笑った。


「じゃあなんで!」


「言い訳しにきた」


 彼の言葉は、今まで聞いたこともない程、はっきりしていた。


 それは、"師匠の命令"と、言って私をしばりつけていた時の彼からは想像もつかない、はっきりとした口調だった。


「言い訳・・・?」


 私そう聞くと、憲一さんは、ああ、と頷いた。


「・・・確かにさ、俺、お前の事、母さんの名前つかって縛りつけてた。


 ドイツから帰国して以来、お前、すっげー遠くに感じて・・。


 前はさ・・もっと俺の事、頼ってくれたし、甘えてくれたのに、さ。そんなそぶり一つ、見せてくれなくなった。


 だから・・・寂しかった。


だから、母さんの名前、使った。


 母さんの名前を出せば、お前は俺のいう事、聞いてくれるって思ってたから」



 珍しく、今日の憲一さんは雄弁だ。


「・・・自分のやってるのがガキっぽい事くらい、判ってた。でも、どうにもならなかった。


 それが、お前のプライド傷つけてたなんて・・・気づけなかった。


 自分の寂しさ埋める事しか、俺、考えられなかったから・・・」


 そこまで話すと、彼は大きく息を吐いた。そして。


「ごめんな・・・」


 それは、今までの、惰性と勢いで言っているような言葉ではなく・・・本当の彼の言葉のように聞こえた。


「・・もう、いいよ・・・」



 もう、いい。


 もういいから・・・


 

 もう、貴方の言葉で、一喜一憂、したくない。


 私の想いは、もうとっくに終わったのだから。


 ほっといてほしい・・・


 

 喉まで出かかった言葉を、私は相変わらず、言葉に出来ないままだった。


「でも・・・」


 さらに言葉をつづけた。


「お前さ・・・・ガキの頃、急に俺のこと、避け始めただろう?」


「はぁ?」


 突然言われた一言に、私の思考も停止した。彼の口調は、少しだけ、勢いを増した気がした。


「お・・お前は覚えてないだろうけど、お前、二年の秋くらいから俺のこと避けてたんだぜ。


それまでは、すっげー俺に懐いてたくせに、さ。」


憲一さんは、まるで切り札を切るようにそういった。今までより、少し勝気な視線を私にぶつけてきている。


「俺、お前に好かれてるってあの頃思ってた。


だからお前がよそよそしくなって・・・すっげーショックだったんだぜ?」


あーあ、また始まった。


私は軽くため息をついた。これじゃ、この前師匠と対峙した時と、同じだ。


悪いのは俺じゃない、桜だ・・・


俺が師匠の名前を使ってお前を縛り付けたのは、お前の態度がよそよそしくなったからだ、俺のせいじゃない・・・


彼の口調はそう言いたげだ。



 そんな彼の言葉に、軽く幻滅しながら、私は彼を見た。


 その視線を感じたのか、彼は少しだけ、びくっと肩が震えたような気がした。




「・・・師匠の息子だから、仕方なく付き合ってあげてるのよ」


「・・・え・・・」


 憲一さんの、息をのむ音が聞こえた。私がそう言った瞬間、車の中が、やけに静かになった。


車のエンジン音が、外の雑踏が、やけにやかましく聞こえた。


「あなたみたいな捻くれたおっさん、興味ないわ」


 さらに私は言葉を投げつけた。


「ただの師匠のマネージャーの癖に」


「おい・・・・・桜っ!」


 彼の声が、怒りの混ざったものに変わった。それに私は構わず、言葉をつづけた。


「覚えていない?


あなたは覚えていないかもしれないけど。


 これはね、あの頃、貴方が私に言った言葉よ?


 憲一さん用にアレンジしたけど?」


 「・・・・」


 再び、車の中に沈黙が降りてきた。





『ガキの子守なんかゴメンだ!』


『あんなくそガキ、興味ねぇよっ!』


『母さんの頼みだから、仕方なく仲良くしてやってんだ!』




 子供の頃、彼に投げつけられた、悲しい言葉たち。


 口に出すだけで、私まで泣き出しそうになる。





「覚えていないんでしょ?


 自分がやったことを棚に上げて、私の事ばっかり言ってるんだから・・・


 私がよそよそしくなった原因作ったのは、貴方自身なのよ?


私が、一年か二年の、二学期だったわ」


途端に、憲一さんの表情が真っ青になった。そして、その表情で、私も気づいてしまった。


彼は、今私が言ったことを、覚えている・・・


「どうしてあんなひどいことを言ったか・・・なんて、大体想像つくわ。


 ・・・きっと・・・憲一さん、私の面倒見たり世話したりしているのを・・・お友達にでも冷やかされたんでしょうね」


 中学生の年頃の男の子には、よくあることだ。


 今では、あの頃の憲一さんが、どうして、突然あんなに冷たい態度をとったのか・・・想像がつく。


 私と一緒にいるところを、お友達にでも見られたのだろう。そして・・・多分、冷やかされた・・・虐められた。


 「・・・見てた・・・のか?」


 「まさか。あれから年取ってから、想像してみただけ。当時は・・・そんなこと、考える余裕なんかなかった。


 だから



当時は・・・貴方に言われた言葉に傷ついて・・・泣いてただけ」


 それで距離置いたのよ。と私は呟き、ため息をついた。


 憲一さんは、何も言わない。


 言えないのだろう。


 

 もしかしたら、憲一さん自身が、私に"言い訳"とやらを話し、私もそれを受け入れて。その勢いで、私がよそよそしくなったことを詰りでもしたかったのだろうか?


"俺が非を認めたんだから、お前も認めろよ!それでおあいこだろ?"


 そう言いたかったのかもしれない。


 でも、すべての発端が彼の悲しい言葉から始まったのだ。そして彼がそれを覚えている以上・・・彼の目論見通りにはいかない。


「結局憲一さんはさぁ・・・」


 軽くため息をつくと、心の中で言葉を思いの整理をした。


「私を思い通りにさせて何が楽しいわけ?


そんなに優越感に浸りたいの?」


「優越・・感?」


 もう彼は、反論する気力もないらしい。私の言葉を、繰り返していた。


「だって、そうでしょ? 


 勝手に私を遠ざけたくせに、


 それが寂しいとかいって近づいて。


 私が思い通りにならないから、師匠の言葉を使って縛りつけて・・・


 そんな風に私をしばりつけて・・・


 そこまでして私を思い通りにしたかったの?


 私一人を思い通りにして、優越感に浸りたかったの?」


「違うっ!


 そんなんじゃない!」


「じゃあ何よ?」




 それじゃあ、どうして?


 どうしてあなたは、私を、師匠の言葉を使ってまで、束縛していたの?


 全然わかんないよ・・・




 けれど、彼は、それには答えてくれなかった。


 ただ、重たいため息をついただけだった。




 重たい沈黙のまま、車は家に到着し、彼は何も言わず、玄関まで、荷物を運んでくれた。


「・・・ありがとう」


「ああ・・・」


 定型文化したお礼に、彼も定型文を返してくれた。そして。


「仕事がらみでもプライベートでも・・・雑用やるから、何でも言えよ」


 珍しく私の顔をまっすぐに見て、そう言った。まるで、車の中の話がなかったかのように・・・


「・・・どうして?」


 指はもう何ともないのに。それに師匠にはうちに出入り禁止、といわれているのに!


「そんな理由、私にも憲一さんにもないでしょ? 」


「やるって言ってるんだよ!」


 彼は鋭い言葉でそう言い放った。


 その声は、今まで聞いたこともない程、鋭く・・・イライラしているのが、はっきりとわかる口調だった。


・・・怖い!・・・


違う・・・いつもの憲一さんじゃない・・・


いつもは、こうしてぶつかりそうになると、彼は必ず“母さんがそうしろって言ってた”と、師匠の名前をだして、私の反論を封じてた。


 びっくりして私が、返す言葉を失っていると、私が怯えたのに気づいたらしく、心持ち、口調が優しくなった。


そして、


「・・・ごめん。


 俺がそうしたいから・・・そうするんだ。


そう嫌がるなよ。裏も誰かの指示もない。


 別に母さんに言われたからじゃないし。


それに、今 お前とどうこうしてるからって冷やかす友達なんか、もういやしない。


だからっ!


 ・・・俺がそうしたいからそうするんだ」


 言い訳がましくそういうと、"じゃあまたな"と言って、帰って行った。



 彼の言動が理解できなかった・・・・


「・・・何言ってるんだろう・・・」


 彼の何を、どこを信じたらいいんだろう。


 彼の行動が、理解できなかった。



 普通、あんなことがあったら、私の事は避けるだろうに。


 それでもなお、近づいてくる彼が、理解できなくなっていた。





ただ、断ち切れなくなった惰性だけが、私たちの間に残っているだけのように感じた・・・






ところが。


"俺がそうしたいから、そうするんだ"


 理由はともかく、彼の、その言葉が嘘ではなかった、と思い知ったのは、その三日後・・・つまり今日だった・・・


 


 

 帰国後、すべての疲れを癒すべく家に引きこもっていた私。


 ようやく日常に戻ったのは、帰国してから三日目・・・つまり今日で。


 手始めに食料の買い出しに行こうとした私を見つけた彼は、"手伝う"と言ってきかなかった。




 嫌だといっても、聞かず、わざわざ車の運転までしてくれた。


 よほど、私の指の怪我の事に責任を感じているのだろうか?


 食料の買い出しを済ませると、その袋も全部持ってくれていた。


 もともと一人暮らしなので、それほどたくさんの食料を買うわけではない。大きなレジ袋、二つ分程で、いつもは一人でも持てる程だし、車だって運転できるので、不自由しない。


 それなのに彼は、車を出してくれて、買い物に付き合い、こうして荷物まで持ってくれていた・・・


 指の怪我は、もういたくない。でも、保護のため、軽くテーピングしている。彼はそれを、気まずそうに見ていた・・・



 昨日、迎えに来てくれた時も、こうして今、二人で歩いていても。


 もう険悪な空気はない。


 でも親密でもない。


 さして会話があるわけでもない・・





 車は、郵便局の裏のコインパーキングに停めてある。


 ここは、小学校のすぐそばで、小学校のグランドの横の歩道を歩いた先に、いつも利用しているスーパーがある。


 グラウンドでは、ちょうど休み時間なのか、子供たちが楽しそうに遊んでいた。


「昼休み・・・か?」


「違うと思うよ」


 時計を見れば、まだ午前中、給食には早すぎる時間だ。


 しばらくそんな光景を見ながら歩いていると・・・


「桜先生?」


不意に名前を呼ばれた。


 びっくりしてその声のほうを向くと、そこには国仲先生が立っていた。


「国仲先生・・こんにちは」


「こんにちは! お久しぶりです~」


 相変わらずの、人懐っこい笑顔が妙に懐かしく感じた。


「・・・今、授業中ですか?」


「今は、他学年交流の時間なんです!」


 国仲先生によると。


 月に何度か、ほかの学年の人と、こうして遊んだり、交流の時間を設けたりするらしい。


上級生が下級生の面倒を見る、一緒に遊んであげる・・・遊んでもらった下級生が上級生になった時、入ってきた下級生の面倒を見る、一緒に遊んであげる・・・そんなごく当たり前な活動を、授業の一環として、時間を設けて取り組んでいるらしい。


「杏樹達は1年1組なので、各学年の1組のクラスと交流があるんです。今日は4年生と、外で遊んでいるんです」


 成程ね・・・そんなこともやっているんだな・・・私は走り回ったり遊んだりしている子供たちを見た。ちゃんと4年生らしき人は、1年生面倒を見て、一緒に遊んでいる・・・


 そして、その子供たちを見ていると・・・探すまでもなく、杏樹の姿が視界に入ってきた。


 鬼ごっこでもしているのだろうか? 追いかける上級生から逃げるように、杏樹は走っているようだ。そして遊んであげている上級生も、慣れたもので、ちゃんと、ほどほどに手加減しているのがわかる。


鬼をやっている上級生から逃げながら、その上級生を見て・・・また逃げて・・・それを繰り返しているようで、私が見ているのにも気づかない。


 やがて、鬼に見つかって、その鬼は全力で杏樹を追いかけ、杏樹もあわてて走り出し・・・・


 そして・・・


「あっ!」


「あぶないっ!」


 よそ見をして走っていた杏樹は、別の上級生の人と、見事に正面衝突した。相手も杏樹のほうを見ずに走っていたらしい。


 そばにいた国仲先生も、驚いたように息をのんだ。


 杏樹は背も高く、体つきもしっかりしているけれど、ぶつかった相手も、4年生にしては背が高く、体つきもがっしりとした子だった。


 体格差のせいだろう・・・杏樹は勢いよくぶつかり、跳ね飛ばされた。


 "かっ飛ぶ"という言葉があるけど、まさにその通りだった。


「杏樹ちゃん!」


 周囲の人の声が聞こえた。杏樹は文字通り、飛ばされ、しりもちをついた。


「大丈夫?」


「ごめんね、私よそ見してた。怪我は?」


 周囲にいた子供たちは杏樹に近づいてきた。でも、当の杏樹は、けろっとして立ち上がった。


「ううん、全然平気! 怪我もしてないよ!」


「よかったー」


 周りには安堵したような笑い声が響いた。


「でも、杏樹、ぶっ飛んだね~」


「うん、私もびっくりした!」


 周りはワイワイと温かい空気に囲まれている・・・



 その一部始終を、私と憲一さん、国仲先生は、言葉を失って見ていた。


 そして、杏樹たちが何事もなかったように遊びを再開するのを見届けると、どちらともなく顔を見合わせ・・・


「ふふふっ・・・」


「ふふ・・・」


 気が付くと、声をあげて笑っていた。みると、憲一さんまで、おかしそうにわらっていた。


彼の笑顔なんて、久しぶりに見たような気がした。その笑顔はとても新鮮で、今までの、私たちの間の、何とも表現し難い空気が、一瞬入れ替わったような気がした。


「・・・綺麗に吹っ飛びましたね!」


「ええ。本当に」


「杏樹、体が大きいから、あんなふうに飛ばされるなんてめったにないですよ」


「本当にそうですね!」


 悪気のない笑みと悪気のない言葉のやり取りが、とても温かく感じた。そして、少し離れたところで、お友達と騒いでいる杏樹の周りの空気も、とても温かいもののように、見えた。



 私は国仲先生に別れを言うと、駐車場に向かって歩き始めた。


「杏樹・・・さぁ・・」


 憲一さんが、ぽつり、とつぶやいた。


「杏樹?どうかしたの?」


 私が聞くと、憲一さんが、柔らかい表情で、私を見下ろしていた。


 私よりもずっと背の高い憲一さんが、こうして並んで私と歩くと、話そうとすると彼は私を見下ろさないと顔が見えないし、私は見上げて彼を見るので、ちょっと首が痛い。


「杏樹、お前に似てるな?」


「私に?」


 少し驚きながら、私は彼を見た。それはないだろう。


 冗談だと思ったけど、彼の顔は真顔だった。


「・・・どこが?」


 正直、杏樹は私と正反対だ。


 私は杏樹みたいに素直に感情をぶつけられなかった。・・・子供のころから・・・


 あんなに元気いっぱいに外で走り回って遊ばなかった。


 あんなに・・・


「・・・杏樹って、小1だよな?」


「うん」


 憲一さんに私は頷いた。


「お前の小1の頃に、似てる。


 いつも笑ってた」


 小1の・・・頃?


 まだ、憲一さんに、ひどい言葉を投げつけられる・・前のことだ。


 無条件で、憲一さんになついて、憲一さんの背中を追いかけていた、あの頃だったら。


 もしかしたら、今の杏樹みたいに笑っていたかもしれない・・・


 もう、殆ど覚えていないけれど。


 あの頃は、憲一さんも、私に対して笑顔だった・・・


「あれからすぐだっけな?お前が笑わなくなったのは・・・


・・・って、俺のせい・・・だよな?」


 人の事、言えないでしょ?


 憲一さんだって・・・笑ってくれなくなったんだから。


 のど元まで、その言葉は出かかった。けど、言えなかった。


 今更言っても、どうにもならない事だから・・・



もう過去は変えられない。ほじくり返しても、何も生まれない。険悪になるだけだ。


それならせめて今だけは、この穏やかな空気の中に、いたかった。


杏樹がくれた、この穏やかな空気の中で、癒されたかった・・・





………………………




 その週のレッスンの日。


 杏樹のレッスンが終わって、二人でおやつを食べながら、ふいに、先日の話をしてみた。


「あ、先生、やっぱりいたの?


 あの後ね、国仲先生が、"桜先生がいたよ"って教えてくれたんだよ!でも、私が見た時にはいなかったの!」



ぶぅっ! と頬を膨らませた。


「呼んでくれればよかったのに! あたしも、国仲先生と桜先生と3人でお話ししたかったなぁ!」


 怒ってはいない。でもちょっとすねた顔をして、私を上目づかいに見た。


「うん、杏樹が、上級生と正面衝突したときに、歩道にいたからね・・・杏樹、走り回ってたでしょ?」


「うん!"どろけい"してたんだよ!」


 どろけい・・・それは鬼ごっこの一つみたいで、警察役の人と、泥棒役の人が、それぞれ捕まえたり逃げたりするゲーム・・らしい。


 杏樹は嬉しそうにそう話してくれた。そして、出してあげたオレンジジュースを飲むと、少しだけ、さみしそうな顔をした。


「・・・でもね、私、足遅いから、すぐ捕まっちゃうんだ!もっと、速く走れるようになりたいな~


 もうすぐ運動会なのね。かけっこ、私すごく遅いから、一位になったこと、ないんだ・・・


 運動会は、ママも、おじいちゃんやおばあちゃんも来てくれるから、頑張って1位取りたいのに・・・」


 杏樹は俯きながら、そう言った。


「1等、かぁ・・・」


 正直、私も体育は苦手だ。徒競走だって、大体ビリだった。


 でも・・・


 私は、少しだけ、いいことを思いついた。


「それじゃあ・・・さ、杏樹!」


「なに?先生!」


「頑張って、運動会のかけっこ、1等とったら、先生がご褒美をあげようか?」


「ご褒美?」


 杏樹の顔はとたんに笑顔になった。


「うん!ご褒美、用意しておいてあげる!だから、頑張って!


 運動会の日は、杏樹のママと一緒に応援してあげるから!」


「先生も来てくれるの?」


 杏樹は嬉しそうな声をあげた。一方私は、言ってから"しまった!"と思った。


 私は部外者なのに、そう簡単に"運動会、見に行く"なんて約束してしまっていいのだろうか?


 子供がいるわけでもないし、ましてや学校関係者でもないのに・・・


 一方杏樹は、嬉しそうにピョンピョンはねながら、"桜先生が来てくれるなら、もっと頑張る!"と大喜びで言っていた。


 そんな姿を見てしまうと・・・今更なかったことにはできない。


(・・・国仲先生にでも、相談するか・・)


 胸の内で、とんでもないことを言っちゃったかな? と後悔しながらも、その杏樹の笑顔に心が癒されていた。






 随分昔。


 私が中学生か高校生くらいの頃。


 この町ではない、別の県の、とある小学校で、無差別殺人が起こった。


 授業時間帯に、不審者が学校内に潜入して、教室に乱入して、刃物で子供を無差別に切り殺したのだ。

 

 通報を受け、警察が駆けつけ、その場で逮捕されたけれど、何人もの子供が刺殺され、あるいは重傷を負った・・・


 その事件は、当時はとてもセンセーショナルに報道され、その後、学校に、関係者以外が入ることはとても難しくなった。


 それまでは、正門に鍵がかかることなんかあんまりなかったのに、正門や裏門に、頑丈な門が作られ、施錠される事が多くなった。



 当時、学校に通っていた私たちは、あの事件の事をとても怖いと思ったし、うちの学校でそんなことが起こったら・・・と考えると気が気じゃなかった。けど、保護者や教職員はそれ以上だったのだろう。


 校内に不審者が入ることに、とても神経質になった。・・・たとえそれが、在校生の保護者だとしても、卒業生だとしても・・・


 日本での学校生活の後半数年を、そんなご時世の中で育った私は、こうして大人になってからも、地域の学校に関わることに、とても神経質になってしまった。


 そして学校側も、そんな不審者が、一昔前よりも増えている昨今を考慮してか、見知らぬ人には、あいさつをされても挨拶を返さない、とか、外では名札を外す、とか、そういった事に神経質になっている・・・



 だから、部外者である私が、たとえ知り合いがいるとはいえ、学校行事に足を運ぶ事自体、問題になるかと思った・・・


 考えすぎかもしれないけど、そんな思いをどうしても消すことはできなかった。



 けれど、杏樹と約束してしまった手前、何もしないわけにはいかない・・


 どうしたものかと考えた挙句、私は学校に電話して、国仲先生に相談することにした。


 電話して、電話の向こうの国仲先生に相談すると、私の物思いを、たった一言でぶっ壊した。


「大丈夫ですよ。ぜひ見に来てください」


 ありふれた一言だけど、あの、杏樹とよく似た明るい人懐っこい声でそう言われ、私は、学校側にぶつけようとした不安を、ぶつけそこなってしまった。


「い、いいんですか?私、部外者ですよ? 保護者でもないし、関係者でもないんですよ!」


"でも、桜先生は、杏樹ちゃんの関係者ですよ。それに、ほかの授業の日ならともかく、運動会の日だったら、部外者の方も来ても大丈夫ですよ


それに、部外者の方が小学校の運動会に来る、なんて、あまりありませんよ?"


確かに・・・私だって、杏樹の事がなかったら、来よう、なんて思わないだろう。そもそも、地域の小学校の、運動会はもちろん、学校行事にさえ、興味が全くなかったのだから。


 本当に大丈夫? そう思ったけど。国仲先生の明るい声を聴いていると、本当に大丈夫な気がしてきた。


"私も、桜先生にお会いできるの、楽しみにしていますよ"


私の長年の思い込みは、いったい何だったんだろう?少し脱力感に襲われながら、電話を切った。


 そして、その電話で今度は杏樹のママの携帯に電話をかけた。


 案の定、電話には出なかったので、留守電に要件を言って、電話を切った。




杏樹の運動会に、私も見に行きたい、という事。


杏樹の担任の国仲先生には了解を得たこと。


それと・・・もし、ご迷惑でなければ、一緒に観ることはできないか・・・と・・・



 この電話をした日の夜、杏樹のママから折り返しかかってきた。そして、杏樹のママの言葉も、最近想像できるようになった。



"申し訳ありません。お気遣いありがとうございます。

 でも、あんまり気を遣わなくていいんですよ・・・


 たかだか、子供の運動会ですよ?


 叶野先生が来てくださるのは嬉しいですけど・・・"



 「遠慮」と「恐縮」が大量に混ざった言葉が戻ってきた。それでも私は、


「運動会を楽しんでる杏樹が見たいんです」


「それに、杏樹に、見に行く、と約束してしまったので」


と、杏樹の名前を出すと、すんなり了承してくれた。


「ありがとうございます。」


 杏樹のママにそういうと、あわてたような、恐縮したような声が戻ってきた。


"とんでもないです。こちらこそ・・・ありがとうございます。当日はよろしくお願いします・・・


 あ、もしよろしければ、お昼・・・ご一緒しませんか?ご迷惑でなければ、私、先生の分のお弁当も作りますので・・・"


 杏樹のママの申し出は、とても嬉しかった。ああいった運動会の会場で、一人でお弁当を食べる勇気は、私は持ち合わせていない。


 私は、杏樹のママにもう一度お礼を言って、電話を切った。




 

 当初の物思いや不安は、気が付くとどこかへ消えていた。


 それよりも、運動会を見に行くのが、とても楽しみになっていた・・・




 それからしばらく、学校の側を通るたびに、校庭で運動会の練習をしている子供たちが妙に気になってしまった。


 仕事に行くときは、大概バスで駅に出ることが多い。そしてそのバス通りは、学校の側を通っているので、自然、校庭に目をやると、運動会の練習をしている子供たちが目につく。


 きっと、どの授業時間帯も、どこかしらの学年が練習をしているのだろう。朝一番の仕事の為にバスに乗ったときも、午前中、お昼近い時間のバスに乗ったときも、校庭では運動会の練習をしていた。



(あ、またやっている・・・)


 それはたとえば、ラジオ体操の練習をしている生徒だったり、

 リズムダンスをしている下級生だったり、

 はたまた組体操や騎馬戦の練習だったりと、様々だった。


 小学校は、6学年あるので、出かけるごとに、違う学年だったのは一目瞭然だった上、杏樹の学年かを確かめるすべはなかったけれど。


 その練習風景を見るたびに、杏樹の笑顔を思い出して、きっと杏樹も頑張って練習しているんだろうな、と杏樹の事を思った。


 楽しそうにダンスの練習をしている子供たちを見れば、杏樹の笑顔を思い出したし。


 騎馬戦で派手に転んでいる子供がいれば、杏樹はあんなふうに怪我していないか、心配になった。


 


 そんな日々の合間。


 いつもお世話になっている音楽教室の設備メンテナンスのため、一日教室レッスンがお休みになった日があって、買い物に出た時があった。


 たまたま仕事が休みだった憲一さんも、"一緒に行ってやる"と言って車を出してくれた。


「別に一緒に来なくてもいいのに」


「その怪我だってまだ完治してないだろ!」


「してるよ」


「いいだろ。どうせ俺暇だし」


「・・・せっかく一人でのんびり買い物したかったのに」


「何・・・買うんだ?」


「本と・・・あと、秋物の服、見たいの」


「服か? 選んでやろうか?」


「絶っ対嫌!」


 

 そんな会話を投げつけあいをしながら、いつものように、学校のそばの郵便局の裏のコインパーキングに車を止めると、学校のそばの通りを歩いていた。


そんな時だった。


「あ・・・」


 私と憲一さんは、同時にそう声に出していた。


 校庭では、上級生が、鼓笛隊の練習をしていた。


 縦笛やピアニカ、スネアドラムやバスドラム、シンバル。


 リコーダー、トランペット、フラッグドリル、バトントワラーのダンス・・・


 運動会まであと数日、と言った時期。鼓笛隊のマーチングの練習も、全体練習に入っているようだ。


 曲は、私たちでも知っているSF映画の主題歌。子供の頃、父に連れられて映画館に通った作品の主題歌で、私が初めて映画館で見た映画の主題歌だった。


 よく、覚えている・・・


 そういえばあの映画は、憲一さんも大好きで。


 そのあと、何年かおきに続演が映画公開されて、私も父と見に行ったし、彼も見たようだった。


 そんな、彼にとっての好きな曲が流れたせいか、彼と私は殆ど同時に足を止めた。


「へったくそだな」


 憲一さんは、吐き捨てるように言った。


 確かに、耳が越えた彼が聞いたら、この演奏は、とてもひどいものだろう。


 音だってバラバラだし、サビの、かっこいい"聴かせどころ"の音を外すし、リズムもずれているし、フラッグを持っている子達の足並みもバラバラだ。バトンを持ってダンスをしている子など、バトンをありえない方向に飛ばしたりもしている。


 でも・・・


「そうかな?」


 私はそうつぶやいていた。


 確かに下手だ。上手ではない。


 でも、グランドを見ると、それでも一生懸命練習している子供たちと、それを指導している先生方がいる。


 先生たちは帽子をかぶって、タオルを首に巻いて、汗びっしょりになって、マーチングをしている子供たちと一緒に動き回っていた。


 演奏している子達も、間違えていることがわかっているらしく、曲が止まるごとに、それぞれのパートで、ああでもない、こうでもない、と話しているようだった。


 みんな・・・一生懸命で、それが、グランドの外にもはっきりと伝わってきた。


「あの子たち、本番までに絶対に、仕上げてくるよ」


 憲一さんは、そんな私の言葉には、何も反応せず、掴んだ腕を引っ張った。


「ほら、いくぞ」


 まるでこの話はもう終わり、と言いたげだった。私はもう一度だけ、その練習風景を見ると、心の中で、子供たちにそっとエールを送った。


 


 ##########



 そして、当日・・・


 私は、いつもより少し早く起きて、杏樹にあげる約束をした「ご褒美」を作った。


 当初、焼き菓子かクッキーでも焼いてもっていこうかと思ったけど、秋とはいえまだ夏並に暑い時期。下手なものを作って持って行ったら痛んでしまいそうだ。


さんざん悩んだ挙句、ゼリーケーキを作ることにした。


 市販の、サラダを入れられる使い捨ての包材に、缶詰のフルーツをたくさん入れたゼリーで、見た目にも華やかだ。きっと今日は暑くなりそうだから、こういったものの方がいいだろう。


 保冷剤を多めに用意していけば問題ないくおいしく食べられるだろう、と思ったから。


 それと、ホットケーキミックスで作ったアメリカンドックも、用意した。


 多分・・・杏樹は大好きだろう、と思ったから・・・


 一本だけ作るのも嫌だったし、中途半端に材料を余らせるのは嫌だったので、たくさん揚げた。杏樹のママにあげればいいし、余ったら持って帰ればいいや、と安易に考えていた。



「・・・・何やってんだ?」


 アメリカンドックを揚げ終わり、バットの上で冷ましているとき、後ろで声がした。


「っきゃ!」


 振り向くと、そこには憲一さんが立っていた。


「・・・なんでいるのよ!」


「呼び鈴鳴らしても出てこなかったからさ。勝手に上がった。悪いな」


 悪びれずにそう言っているけど、きっと悪い、なんて思っていないだろうな・・・そう思ったけど、口には出さなかった。


「・・・どうしたの?」


「いや・・・お前、今日、暇か?」


突然そう聞かれて、私は当惑した。


「暇じゃないけど・・・なに?仕事?」


 憲一さんが、仕事以外の用でうちに来ることなんて、まずない。なかったはずだ。少なくとも夏までは・・・


だから今日も仕事の話だと思っていた。

 

 そして、こんな風にうちに来る日の彼の話のなかにあるのは、必ず


"母さんがそうしろって"


"母さんからの伝言"


 そんな言葉があった・・・


 


 でも、あの夏の終わり、師匠と話をした後からは、憲一さんの口からそんな言葉が出てくることはなかった。


 逆に私が、厭味ったらしく"師匠の命令?"と聞くと、彼は何とも言えない、悲しそうな顔をするようになった。


 そして、会話が止まってしまう。


 ・・・・止まった会話を再開する手だては、私の中にはなくて、結局以前以上に気まずい空気が残るだけだった・・・


「仕事じゃない・・・あのさ・・・今日、出かけないか?」


「は?」


「だからっ! 出かけないか?」


多少イラついた声でそういう彼に対して、私は、何ら脈絡のない彼の言葉にフリーズしたように動けなくなった。


「 桜、最近仕事以外で出かけてないだろ?


 それに、秋にはコンサートも教室の発表会もあって、忙しくなるだろ?


 今のうちに気分転換に・・・」


 まるで何かを取り繕うように、憲一さんは言葉を重ねている。


 確かに、この秋から冬にかけては、毎年とても忙しくなる。


 秋の終わりには、地元のホールでコンサートをやっているし、冬には、受け持っている音楽教室の発表会がある。それらの打ち合わせやら練習やらで、忙しくなるのは本当だ。


 でも・・・それについて、今まで憲一さんが関与したことなど、一度だってなかった。確かにコンサートには来てくれるし、裏方をしてくれる。でもそれだって、"師匠に言われたから仕方なく"だった。


 それにしても・・・私は、イラついた顔で矢継ぎ早に話す憲一さんを見上げた。


 珍しいこともあるもんだ。


 今まで、仕事以外で二人で出かけたことなんか、ない。そんな話さえ、出ない関係だった。


 たとえ私が仕事で立て込んでも、その合間の休暇の日も、こうやって"出かけよう"と言ってくれたことなどなかった。


 隣に住んでいながら、仕事以上のつながりが、今まで皆無だったのだ。


・・・不思議なもので。


少し前だったら、こんな風に憲一さんから誘われたら、嬉しかったのにな・・・と思っていた。


仕事とか師匠がらみとかではなく、出かけられたらいいのに、と夢見ていた頃も、あった。


でも今は、自分でも不思議なくらい、この状態を素直に喜べなくなっていた。


それはもしかしたら、夏に発覚した彼の嘘のせいかもしれないし、その後の指の怪我のせいかも知れない。


「憲一さん・・・」


「なんだ?」


「頼むから・・・」


「ん?」


「今日、雨だけは降らせないでくれる?」


 それくらい、彼が誘って来ることは珍しいことだ。


 彼の事を好きだった私にとっては、それだけで有頂天になっても罰は当たらない筈なのに・・・


 それなのに・・・私は素直に喜べない・・・


「おいっ!」


 彼はあきれたように笑った。


「・・・お前、俺を何だと思ってるんだ?」


「雨じゃなきゃ雪かな?それとも・・・」


「・・・水族館とプラネタリウムだったら、どっちがいい?」


 私の言葉を無視して、彼は勝手に話を進め始めた。


「は?」


 突然出てきた二者択一についてゆけずに彼を見ると、憲一さんは私の目の前に二枚のチケットを差し出した。


「もらったんだ。母さんのクライアントから。


 その・・・一緒に行かないか?」


 チケットの一方は、都内の水族館の招待券だった。確か夏の初めにリニューアルオープンしたところで、随分人気があるらしい。


 もう一方は、臨海地区にあるプラネタリウムで・・・これまた人気スポットだ。


 ・・・そういえば今年の初め、このプラネタリウムが入っているビルのオープン記念イベントに呼ばれて、演奏した。


 新しいせいか、とてもきれいで、私が演奏させてもらった中庭のアトリウムは、格好のデートスポットになりそうな雰囲気だった。ビルに出店しているブランドも、日本初出店のブランドだったり、国内での人気ブランドだったりと、注目を集めているスポットだ。


 私はショッピングはあまり好きではないけど、興味が全くない、といったら嘘だ。


 憲一さんが示した行き先は、どちらも私が好きなところで・・・一瞬、心がぐらりと揺らいだ。


 

 けど・・・今日は先約があるのだ。


「悪いけど、今日は駄目」


「なんで?」


「今日、杏樹の運動会なの。見に行くって約束したら」


「・・・それ、持ってくのか?」


「うん。頑張ったら、ご褒美あげるって約束したから」


 私がそういうと、彼は落胆したようにため息をついた。


「じゃ、しょうがないか・・・」


「ごめんなさい」


 思わず、頭を下げて謝ってしまった。ことさら私が悪いわけでもないのに、残念そうにしている憲一さんを見て、少し、心がぐらついた。


「運動会・・・か?」


「うん。杏樹のママも来るし、一緒に観させてもらおうと思って」


「それ・・・部外者が出入りしてもいいのか?桜、部外者だろ?」


 心なしか、彼の顔色が、少し変わったような気がした。今までの、出かけよう、と私に言ってきたときとは、明らかに違う・・・


 それを不思議に思いながらも、うん、と頷いた。


「国仲先生に聞いたら、構わないって言ってくれたから・・・って・・・どうかしたの?」


 私の言葉が耳に入っているのかいないのか、何か考え込んでいるようにも見えた。


 そして・・・


「桜、俺も、その運動会、行ってもいいか?」


「は?」


 なんで? どうして??


 どうして憲一さんが行く必要があるの?


 その疑問をぶつけるより先に、憲一さんは答えをくれた。


「東野に、俺も用があるんだ・・・彼女には俺からあとで連絡しておく」


 憲一さんは、"後で迎えに来るから"と言って、部屋から出て行った。


「・・・なんなのよ・・・?」


 師匠と話をしたあの一件以来、憲一さんの行動は意味不明だ。


"師匠の命令""母さんからの伝言"という言葉がなくなって、無機質なやり取りはなくなった。


 でも、余韻のように残る気まずさは相変わらずだし、彼の考えていることは判らない・・・


 いきなり出かけないか、と言われたり。


 杏樹の運動会に彼も行く、と言い出したり・・・


「なんだかなぁ・・・」


彼の意味不明な行動にため息をつきながら、私は冷めてきたアメリカンドックのラッピングを始めた。





・・・・・・・




「なあ、桜?」


「なに?」


「今、小学校、全校生徒、どの位いるんだ?」


 憲一さんに聞かれて、私は一瞬考え込んだ。


「確か、杏樹の学年が3組あるって聞いたよ?」


「1クラス・・・40人位だろ?」


「杏樹のクラスは30人だって言ってた」


「一学年100人弱ってところか・・・」


「何が言いたいの?」


 独り言のようにそう言っている憲一さんに、私はそう聞き返した。


「いや、全校生徒600人としてさぁ」


「・・・うん・・・」


「どう見たって、父兄のほうが、生徒より多いよな?」


「・・・憲一さんも、そう思う?」


 私と憲一さんは、小学校のグランドに来ていた。


 いつも、買い物途中に見かけるグランド。いつもはとても広く感じたのに。


 今日は、そのグランドに人がごった返している。


 いるのは、生徒だけではない。生徒の保護者も・・・


 しかも・・・トラック周辺には、所狭しとレジャーシートと日よけ(保護者が各々勝手に設置したのは、考えるまでもない)が並び、通路、として確保してある場所以外に、レジャーシートを敷く場所もない程、ぎっしりと「場所取り」してあるのだ。


 時間は、開会式開始の1時間ほど前。自慢ではないけど、結構早く来たつもり・・・だった。それなのに、レジャーシートを敷く場所すらないのだ。


 グランドには、生徒と、運動会を見に来た父兄でいっぱいで・・・よく見ると、生徒よりも保護者のほうがよっぽど人数が多いのだ。


 この状態に閉口したのは私だけではないようで、憲一さんも、その光景に唖然としている。


 そこで、さっきの会話になったのだ。


「確かに、子供一人に対して、両親二人、の単純計算だったら・・・父兄の方が多くなるね」


「全員一人っ子ってのはナシだろ? 兄妹だっているだろうし・・・・いや、だからそういう問題じゃなくてさ・・・」


 私の言葉に、憲一さんはあきれたようにそう答えた。その彼には感知せず、私はポケットから携帯を引っ張り出した。


 杏樹のママから、朝、メールが届いていた。学校に着いたら連絡が欲しい、と言ってきた。


 着いたことをメールすると、逆にどこにいるのか聞かれた。とりあえず、近くにある遊具とか、グランドのどのあたりかを詳しく書いて返信すると、"すぐに行きますから、そこにいてください"と返事が来た。


「杏樹のママ、ここに来てくれるって」


 私がそう憲一さんに言うと、憲一さんは、どこかに手を振っているようだった。その方向を見ると・・・杏樹のママがこちらに向かって手を振りながら近づいてきていた。


「東野さん!」


 杏樹のママは、杏樹によく似た人懐っこい笑顔を見せながら、こちらに駆け寄ってきた。


 以前に会った時は、かっちりとしたスーツを着ていた彼女、今日はジーンズに半袖のシャツ、といった軽い服装で、化粧も薄く、以前あった時に感じたキャリアウーマンな雰囲気とはかけ離れていた。


「おはようございます、今日はどうもありがとうございます。お忙しいのに・・・」


「いいえ、こちらこそ、押しかけてしまって・・・」


「とんでもない!杏樹もきっと喜びます!さ、こっちに、場所もとってありますので・・・橘君もどうぞ!」


 東野さんに案内されて、私は人ごみを歩いた。



 彼女は、グランドの、トラックの最前列に近いところに場所をとっていた。そこには、杏樹の祖父母らしき人も既に座っていた。祖父母・・・といっても私の師匠よりもずっと若く元気そうな人だった。


 杏樹のママが、私たちをその二人に紹介すると、二人にも、"杏樹がお世話になっています"と、にこやかに丁寧に挨拶された。


 それだけでも、杏樹がこの祖父母にもとても愛されているのを感じて、不思議とうれしくなった。


 ・・・私は、祖父母の記憶がとても薄い。特に、杏樹くらいの年頃の時には、父方の祖父母はすでに他界していた。母方の祖父母は今も健在で、ドイツで暮らしているけれど、年に1,2度、会えるかどうかなので、こんな風に運動会を見に来てくれたことなど、一度もなかった。


 唯一の身内だった父親は、かろうじて運動会には来てくれたけど、文字通り"見に来ただけ"といった感じだった。


 私のあの子供時代と比べて、杏樹を取り囲むこの空間は、温かくて、幸せに満ちていた。


「ねえ、東野さん・・・変なこと、聞いてもいいですか?」


「・・何ですか?」


 私は、さっきからずっと気になってた事を彼女に聞いてみることにした。


「運動会のこのスペースって・・・ひょっとしてかなり早い時間から場所取り・・・してるんですか?」


 

「そうですよ」


 杏樹のママはあっけらかんと答えた。そしてさらに言葉をつづけた。


「今年は開門が朝の6時だったので、その1時間くらい前から並びましたね・・・それでも、昔よりは随分マシになったみたいですよ。少し前まで、一晩、並んでいたり、並んでいる間に酒を飲んで大騒ぎしている父兄もいたそうですから・・・」


 そのエピソードをききながら、軽い頭痛がした。


 運動会・・・私はかなり、甘く見ていたのかもしれない。返す言葉が見つからないでいると、杏樹のママはさらに言葉をつづけた。


「今年は、うちの祖父母も桜先生も来てくれたので、ちょっと頑張っていい場所をとったんですよ。私一人だったら、こんな場所、取れませんよ」


 ・・・・不意に、子供時代の思い出が、脳裏をよぎった。


 私が杏樹くらいの頃。運動会に父が来てくれることなど、稀だった。仕事が忙しく、文字通り"来てくれただけ"の父は、ほかの家のように、子供のお弁当を作ってくれることなどなかったし、こんな風に場所をとってくれる事だってなかった。


 大概、憲一さんのおうちのレジャーシートで、師匠が作ってくれたお弁当を憲一さんと食べていた。


 師匠が私のために作ってくれたお弁当は、とてもおいしかったし、嬉しかったけれど、周囲には、お母さんが作ってくれたお弁当を、笑顔で食べているお友達がいて、それがとてもうらやましかった。


 そんな思い出を、思い出していた私の横で、杏樹のママは嬉しそうに笑っている。


「私も、嬉しくなってしまって・・・杏樹はあの通り、父親がいないので・・・家族みたいに、こうやって見に来てくれる人がいると、嬉しいみたいなんですよ


 今日は、来てくださって、ありがとうございます」


 本当に嬉しそうにそうおっしゃってくれた。その笑顔に、私も少し、暗い過去を心の外に追い出した。


 そして、こうして朝早くから場所をとってくれた杏樹のママのためにも、私も、今日は一日、杏樹の運動会を楽しもう!と心に決めた。





 運動会が始まると、杏樹のママと一緒に、大声を出して応援していた。


 炎天下、直射日光がよくあたる場所での応援で、正直暑かったし。


 競技が一つ終わるたびに、次の競技を見るために保護者たちがぞろぞろと移動する。


 ダンスや競技がよく見える場所は、その競技によって違うので、杏樹のママが取ってくれた場所でじっとしていることはなかった。


 プログラムを見ると、杏樹たち1年生は、徒競走と、ダンスと、玉入れに参加することになっていた。ダンスと玉入れは午後の競技で、午前中は杏樹は徒競走だけに出るみたいだ。


 その徒競走のゴール付近に杏樹のママと行くと、そこはもう、ほかの保護者で埋まっていて閉口した。


 みんなカメラやビデオを片手に、わが子の勇姿を取ろうと躍起になっている・・・そういえば杏樹のママも、いつの間にか片手にカメラを持っていた。


 人が多くて閉口したけれど、早いうちに徒競走を終えた子供の保護者は、さっさとその場所から去って行ったので、多かった人ごみも、少しずつだけど少なくなっていった。


 幸い、杏樹は背が高いせいか、最後の方で、杏樹がスタートラインに立ったのは、文字通り、一番最後のグループで、ゴール付近の保護者は殆どいなくなっていた。


 杏樹と、杏樹並に背の高い子達が、スタートラインでスタートの用意を始めた。


「杏樹ーーー!!」


 ゴール地点に私はいるので、ここで叫んでも杏樹には聞こえるわけないのに、気が付くと私は、杏樹のママと一緒になって叫んでいた。


 スタートのピストル音が聞こえて、杏樹たちは走り始めた。


 でも、杏樹が以前言ってたとおり、杏樹は本当に足が遅いようだった。


「杏樹~!がんばれ~~!!!」


 私はそう叫んでいた。でも、そんな声を出していたのは私や杏樹のママだけではないようだった。


「杏樹ちゃーん!」


「ファイト!」


「ほら、がんばれーー!!」


 その声に気づいて、声がしたほうに目をやると、すでに徒競走を終えて、ゴール付近で整列して座っている女子たちが、走っている杏樹にそう声をかけていた。


 見覚えのある女の子たち・・・以前、プールで見かけた、杏樹のお友達たちだ。


 そんな声援を受けながら、杏樹は必至になって走っていた。


 ・・・けれど、やはり杏樹の足は遅くて、杏樹が不安がっていた通り、ビリだった。


「あーあ・・・・」


 応援していた女の子たちも、残念そうな声をだしていた。


 ゴールした後、杏樹は、六位、と書かれている場所に連れていかれ、そこで座り込んだ。


 少し距離があって、顔までは判らなかったけれど・・・今にも泣きそうだった。そして、そんな杏樹を気遣ってか、女の子たちが杏樹のそばに集まってきて、杏樹を慰めていた。


「・・・・杏樹、本当にみんなに好かれているんですね・・・」


 その光景の一部始終を見届けてから、私は隣にいた杏樹のママにそう言った。すると杏樹のママは、ええ・・・と頷いた。


「私は人見知りなんですけどね・・・杏樹は私に似なかったみたいで・・・」


 と、照れ臭そうに笑っていた。


 似てない?そんなことない。


「・・・そっくりですよ」


 そう、そっくりだ。


 確かに性格はあんまり似ていない。杏樹は積極的で明るくて、元気いっぱいだけれども、杏樹のママは、もっとずっと落ち着いている。


 でも、顔立ちは、杏樹のママと杏樹は、そっくりだ。


 杏樹のママは、キャリアウーマン風の美人で、今の杏樹は、美人、というより子供っぽいかわいらしい雰囲気だ。でも、全体的な顔形とか、顔のパーツはよく似ている。一目で親子だと判る雰囲気だ。


 きっと、杏樹が大人になったら、こんな美人になるのだろうか・・・それが簡単に想像できた。


 そんな事を考えている間に、杏樹たちはグランドから退場していき、ゴール付近に集まっていた保護者達も、いなくなった。そして代わりに、次の競技に参加する子供の保護者達がぞろぞろと集まってきた。


 私達もあわててこの場を後にした。そして、退場して、自分の応援席に戻ってゆく杏樹に会いたくて、杏樹の応援席へと走っていた。


 ゴールした後の、今にも泣きそうだった杏樹が心配だった。


 杏樹の応援席に着くと、すでに杏樹たちは戻っていて、応援席の椅子に座ってしょんぼりしていた。


 ビリだったのがよっぽど悔しかったみたいで、半泣き状態だった。


 そんな杏樹を、周りのお友達が必死でなだめていた。


 そんな杏樹たちに、声をかけられないまま、私は立ち尽くしていた。


「あ、桜先生だ!」


 それから、どの位時間が過ぎてからか、突然誰かにそう呼ばれた。びっくりして辺りを見ると、どこかで見覚えのある女の子が、私を指さしてそう言っていた。


「杏樹ちゃん!ほらっ!桜先生が来てるよ!!!」


 その子は杏樹にそう伝えてくれた。すると杏樹は、真っ赤な目をして私を見ると、私に駆け寄ってきた。


「さくらせんせい!!!!」


 そう言いながら、ばふっ!と私に抱き付いてきた。


「せんせい・・・ごめんね・・・・・一等取れなかったよ・・・・・」


 よほどビリだったのが悔しかったのか、杏樹はそう言いながら泣きじゃくっていた。


「・・・泣かないで・・・杏樹は頑張ってたよ」


 抱き付いてきた杏樹をぎゅっと抱きしめながら、背中をよしよし、と撫でながら、私はそう言った。


「さくらせんせい? 杏樹ちゃんね、一等取ったら、桜先生がご褒美くれるんだ!って、すごい頑張ってたよ」


 そう教えてくれたのは、杏樹をなだめていた女の子の一人だった。見覚えがあるので、きっと夏のプールの時にいた子だろう。


「そっか・・・そうだったんだ・・・・・・」


「うんっ! 頑張ったんだけどね・・やっぱり駄目だった・・・」


 泣きながらそう言う杏樹に、私は"よしっ!"と大きな声で言った。


「杏樹、すごい頑張ってたんだから! 頑張ったご褒美はちゃんとあげるよ!」


「本当?」


 目を真っ赤にしながら、杏樹は私の顔を見上げた。


 もともと、一等をとれなくても、杏樹にはご褒美をあげるつもりだったのだし、別に問題はないだろう。


「うん!本当!


 先生が、杏樹に嘘ついたこと、ないでしょ?


 お弁当の時間になったら、ちゃんとあげるから、泣かないで?ね?」


 そう言ってあげると、杏樹は、相変わらず真っ赤な目のまま、嬉しそうに笑った。


にわか雨が、突然止んで、お日様がが出てきたみたいだった。


「わーい!!

 先生、大好きっ!」


 そう言って再び抱き付いてきた杏樹を、本当にいとおしい、と思った・・・


 そして、「わーい、ご褒美なんだろう? 楽しみだなぁ…」とはしゃいでいる杏樹と、杏樹に「よかったね」「ご褒美、あとで教えてね」と、集まる杏樹のお友達たちを、少し離れて眺めていた。


 まるで、清涼剤みたいな光景だった。




 お昼の時。杏樹はお腹を空かせてレジャーシートの所にやってきた。


「先生!ご褒美!ご褒美!」


 そう言って急かす杏樹に、私は保冷バッグに入れておいたケースを差し出した。ケースは保冷バッグと保冷剤のおかげで、まだひんやり冷たくて、持った感じでは、溶けてしまっている様子はなかったので、ほっとした。


「はい! よく頑張りました!」


 そう言って手渡してあげると、杏樹はわくわくした顔をして、蓋を開けた。


「うわーーーー!!!」


 杏樹の歓声で、周囲のレジャーシートの人の視線が、私たちに突き刺さったけど、杏樹はそんなの全く意に介していない。


「すごいきれーい!!!これ、先生が作ったの?」


「うん、そうだよ。はい、スプーン。


あと・・・これも!」



 私は、保冷バッグとは別のトートバッグから、ゼリーと一緒に作ったアメリカンドッグも取り出した。


 こっちは、一本ずつかわいくラッピングしておいた。



「こっちもかわいい!!! 花束みたいだね!! なんだか、食べるのもったいないね!」


「駄目だよ! 食べてくれないと、溶けちゃう」


「うん・・・じゃあ、ママのおにぎり食べてからゼリー食べるね!!」


 杏樹は、ママからおにぎりも受け取ると、いただきまーす!と元気に言って、そのおにぎりを頬張った。


「桜先生も、召し上がってください。・・・お口にあうかわかりませんが・・・」


「とんでもない!いただきます!」

 

 私も、杏樹のママから美味しそうなおにぎりをもらって、食べた。


 午前中散々応援したり、炎天下を歩き回って、いつも以上にお腹がすいていていたせいか、おにぎりはすごくおいしく感じた。


 杏樹のママはお料理も上手みたいで、おにぎりも、一緒に入っていたおかずもびっくりするくらい、美味しかった。


「杏樹もいるし、桜先生たちもいらっしゃるって聞いて、ちょっと頑張ったんですよ」


 杏樹のママは照れ臭そうにそう言って笑っていた。その横では、憲一さんも、無言でおにぎりを頬張っていた。


 みんなでお弁当を食べていると、どこからともなく、杏樹のお友達たちが、私たちのいるレジャーシートの近くにやってきた。


「あ、みんな!」


 杏樹は彼女たちに手を振ると、お友達たちも手を振り返してくれて、こちらにぞろぞろとやってきた。


 5,6人、女の子たちがやってきて、私たちのいるレジャーシートはあっという間に杏樹のお友達で一杯になり、私は場所を詰めて、彼女たちが座れるようにしてあげた。


「ねえねえ、杏樹ちゃん、桜先生のご褒美って、何だったの?」


「見せて見せて!!」


 そのお友達たちは、杏樹が言ってた"ご褒美"が気になって、みんなで見に来たようだ。お友達たちにそうせがまれて、杏樹は私が作ったゼリーケーキとアメリカンドックを見せてあげていた。


「これ! きれいでしょ!」


 それを見た途端、お友達たちは、口ぐちにすごーい! と、褒めてくれてて、作った私も、嬉しくなってしまった。


 そんな褒め言葉に気を良くしてしまった私は、多めに持ってきたアメリカンドックを杏樹のお友達に分けてあげた。


「わーかわいい!!」


「あ、これ、うちでもよく食べるよ!ママがレンジでチンしてくれるの!」


「レンジでチンじゃないよ。ちゃんとおうちで作ったんだよ」


「うん、きっとそうだよ。だって、おうちで作るのと、味、ちがうもん」


「えー!これ、おうちで作れるの?レンジでチンする奴じゃないの?」


「作れるよーちゃんとおうちで油で揚げてきたのよ」


 わいわいきゃいきゃい。私も杏樹のお友達と一緒になっておしゃべりしながら、持ってきたアメリカンドッグを頬張った。


 みんな口ぐちに「おいしい~!」と嬉しそうに言いながら、杏樹と一緒に頬張っていた・・・




 不思議なもので。


 子供なんか、好きじゃなかった。


 100歩譲って、嫌いじゃないのは、杏樹だけだった。


 子供と関わるなんて、嫌だったはずなのに。


 気が付くと、私は子供たちと一緒に、アメリカンドックを頬張って。


 一緒になってほっぺにケチャップを付けながら、笑っていた。


 ほんの数か月前には、私が、こんな光景の中にいること自体、信じられない。


 

 

 やがて、アメリカンドックを食べ終わった杏樹のお友達たちは、


「桜先生、ありがとうございました」


「ごちそうさまでした!」


 と、礼儀正しくお礼を言って、それぞれのレジャーシートに戻って行った。


「桜先生、またねー!」


 まるで積年の友達のようにそういう彼女たちに、私は笑顔で、手を振っていた。


 そんな私の光景を、憲一さんは、驚きと笑顔の混ざったような表情で見ていた。


「・・・なによ?」


 そんな憲一さんの視線が照れくさくて、それを隠すようにそう言うと、憲一さんは、


「いや、何でもない」


 と言いながらも、どこか嬉しそうな顔をして、おにぎりを口に運んでいた。


 何か言いたげな彼が気になったけど・・・私はその思いに蓋をした。


 今までそうしていたように・・・





 楽しいお昼の時間が終わり、午後の競技になった。


「次の玉入れ、杏樹が出るみたいですよ」


 プログラムを見ながら、杏樹のママがそう教えてくれた。午前中から、杏樹の出る競技になるたびに、一緒になって移動しているせいか、気が付くと私は杏樹のママとすっかり打ち解けていた。


「そうですか、じゃ、移動ですね・・・玉入れは・・・あ、あっちだ」


 杏樹のクラスの玉入れがよく見える場所に移動すると、そこにもすでに、カメラやビデオを用意した保護者達が集まっていた。


 入場門の方を見てみると、遠くに国仲先生が見えて、杏樹たち生徒に、何やら話をしている。やがて、"えい、えい、おー!!"という子供たちの元気な声が、微かに聞こえた。


「国仲先生って、すごい負けず嫌いなんですって」


「子供が言ってたけど、秘密の特訓をしたらしいですよ」


そんな話をしている、知らない保護者の声を聴き流しながら、私たちは競技が始まるのを待っていた。


 やがて、グランドに1年生たちが入場して、、玉入れが始まった。


 私と杏樹のママは、また声をあげて応援し始めた。


「がんばれーーー!!」


「杏樹、がんばれー!」


 すると杏樹たちは、子供とは思えないほど効率よく、玉をカゴに投げ入れ始めた。


 ほかのクラスの子達は、球を拾って投げはするけど、投げ方がへたくそで、カゴにかすりもしない。カゴに入る玉もすくないのに。


 杏樹のクラスは、面白いようにカゴに玉が入ってゆき、あっという間にカゴが玉で一杯になったのだ。


「嘘でしょ・・・」


 きっと偶然なんだろうな、その時はそう思った。けど、二回戦、三回戦、と回を重ねても、杏樹たちのクラスはカゴ一杯に玉を入れることができていた。


 結果、二位とは倍以上の差をつけて、杏樹のクラスが一位になっていた。


「・・・秘密の特訓って・・・」


 この結果を見て、私は隣にいる杏樹のママと顔を見合わせた。


「いったい何やったんでしょうね・・・私、玉入れでダブルスコアなんて、初めて見たわ・・・」


 思わずくすくすと笑ってしまった。




 これは、杏樹たちに「おめでとう」と言わなくちゃ、と私たちは杏樹たちの応援席へと向かった。


 応援席へ行くと、杏樹たちは、クラスみんなで大喜びで、先生はいないのに、みんなで万歳三唱していた。


 その光景に、私たちは声をかけることも出来ず、大喜びな杏樹たちを、眺めた。


 そして、そんな杏樹たちを散々眺めた後、"戻りましょうか?"と、杏樹のママに言われて戻ろうとした。


 戻る途中、本部席の関係者のいるテントの傍を通り過ぎた。


「あれ?」


 そのテントの傍に、国仲先生がいた。


 そう言えば今日は、何度も国仲先生を見かけたけれど、それは学校の先生として、であって。個人的に私たちは挨拶していなかった。


 挨拶しなくちゃ・・・そう思ったけれど。


 国仲先生は、ほかの女性の先生に取り囲まれていた。


「いったいどんな特訓したのよ!」


「あんな玉入れ、見たことないわよ!」


「国仲先生が負けず嫌いなのはよーく知っているけどね!」


「国仲さん、やりすぎ!」


 取り囲んだ女性の先生たちは口ぐちにそう言っていた


 ・・・けれど。


 その空気はとても温かくて、国仲先生も、取り囲む先生たちも、みんな笑顔だった。


 その纏う空気は、杏樹とお友達を取り囲む空気と、同じものだった。


 

 ああ、杏樹は・・・


 杏樹のお友達は


 この先生が持っている、この空気に育てられているんだ・・・


 

 すとん、と心に落ちた気分だった。


 杏樹が、杏樹のお友達たちが、あんなにも温かく、素直なのは。


 杏樹自身の性格もあるけれど、それだけじゃない。


 あの国仲先生のクラスで、国仲先生の纏う空気を思い切り吸って、生活しているからに違いない・・・



 私は、国仲先生たちを見て、杏樹のママと顔を見合わせた。

 

 そして、どちらからともなく、くすくす笑いあうと、


 "行きましょうか?"と、先生たちには挨拶せずに、その場を後にした・・・





・・・・・・・・・




 運動会は、あっという間に終わった。


 いつか見かけた鼓笛隊の演奏は、憲一さんが「唖然とする」程見事な仕上がりを見せ、思わず彼にドヤ顔をすると、彼は決まり悪そうにそっぽを向いていた。観客から大きな拍手をBGMに・・・


 杏樹の組は、あの玉入れが点数アップにつながり、そのあとに続いた、クラス代表によるリレーも一位のテープをきり、(そのリレーに杏樹が出ていなかったのは、言うまでもない)逆転優勝だった。


 子供たちが、閉会式の準備で整列しているのを横に見ながら杏樹のママは、レジャーシートを片付け始めた。


 私も、それを手伝い、それらの片付けが終わったとき・・・


「あれ?橘君は?」

 

 今まで、杏樹の応援で忙しくて、憲一さんの事をすっかり忘れていた。正直、杏樹のママにそういわれるまで、全く意に介していなかった。


「・・そういえばさっきから見ていませんね」


「・・・随分、無関心なんですね?」


 杏樹のママは、くすくす笑ってそう言っている。


「ええ・・・そうですね」


 正直、今日は、杏樹の運動会を楽しむ!と決めていたし、憲一さんが一緒に来たのは予想外だったので、あんまり気にする暇もなかった。


「なんか・・・橘君、全然報われていないのね・・・」


「??」


 相変わらず、くすくす笑いながらそう言う彼女の言葉の意図がつかめないまま、私は意味深に笑う杏樹のママの顔を怪訝に眺めた。


 その視線に気づいたのか、彼女は"ううん、なんでもないのよ"と取り繕うようにそういった。


 その笑顔や言葉の意味がわからず、あらかた片付けが終わったのも手伝って、


「・・・憲一さん、探してきますね」


 と、杏樹のママに言って、私はその場を後にした。



 

 もしかしたら、先に帰ったのかもしれない・・・そう思いながらも、私は、帰り支度を進める保護者達の間をすり抜けながら、憲一さんの姿を探した。


「・・・っ・・・どこにいるんだか・・・」


 なかなか見つからない彼にイラつきながら、少しだけ、人ごみから外れた校舎の方に向かうと、


「・・・あれ?」


 一瞬、聞き覚えのある声が、耳を掠めた。聞き覚えのある声・・・ううん、憲一さんの声だった。


 私は、その声のしたほうに向かってゆくと、校舎の裏側から聞こえてきた。


 そこは、人は誰もいなかった。ちょうど、閉会式も始まり、生徒はみんな閉会式に出ているし、教職員もそっちにいるのだろう。保護者は帰り支度もしているし、こんなところに人がいること自体、不自然だった。


 そしてそこには、憲一さんと・・・もう一人がいた。


 少し離れていて、細かい顔立ちまでわからないけど、憲一さん並に高い身長と、細身なスタイルの、男性だった。


『だからっ!杏樹と東野に近づくなよ!』


 憲一さんの声だった。その声は、ものすごくイラついているし・・・怒りに任せて怒鳴るのを、必死で堪えているようだった。


『・・・俺は杏樹の父親だぜ! その俺が杏樹の運動会見に来て、何が悪いんだよ!』


(あ、杏樹のお父さん??)


 私は思わず息をのんだ。


 確か、杏樹のママは、離婚してシングルマザーになった、と聞いた。杏樹もそんなことを言っていた。



・・・・「パパが、ママの事、嫌いになったから、別れちゃったんだって」・・・


 と・・・


 その、杏樹のお父さんが、目の前にいる・・・・


 胸のドキドキが、収まらなくなった。


 杏樹のお父さん・・・いったいどんな人なんだろう・・・



 

 好奇心に勝てず、私は、二人に気づかれないように、そっと、物陰に隠れながら、二人に近づいた。


 幸い、大きな倉庫が近くにあったので、その後ろに隠れながら、二人の死角に入り込んだ。まるで刑事物のドラマやサスペンスの二時間ドラマのワンシーンみたいだった。


『・・・今のお前が、ただ杏樹の運動会を見に来るわけ、ないだろ!』


『何のことだよ!』


『杏樹のママから相談受けたぞ!


 お前が、突然杏樹を引き取りたいって言い出したって!


 どういうつもりだよ!』


(杏樹を引き取る? 杏樹のお父さんが?)


 私は思わず、物陰からそっと二人を見た。さっきまでいた場所と違い、今私がいる倉庫の死角からは、杏樹のパパの顔がはっきりと見えた。


(あれが・・・杏樹のお父さん・・・?)


 年頃は、憲一さんと同じくらいか、それより年上、といったところだろうか?


 整った顔立ちは、憲一さんの比ではなく・・・かなりのイケメンさんだ。さぞかし、女性にはもてるんだろうな・・・と思いながらも、その眼は、どこか冷たくて、他人を寄せ付けないものだった。


『なんだよ、やっぱりお前らって、つるんでるんだな』


 呆れたような口調で、杏樹のお父さんは言った。


『東野が泣きついてきたんだよ。学校から、東野に連絡が入った。杏樹の父親、って名乗る人が、杏樹を迎えに来たって、さ。


 学校側は、不審人物の可能性があるって、門前払いしたうえで、東野に連絡してくれたんだ』


『学校も冷たいよなぁ!実の父親が娘に会いに来るのも駄目だって言うんだからさ』


『当然だろ!立場、考えろ!』


 憲一さんの、鋭い声が周囲に響いた。


『どういうつもりだよ!お前、東野と離婚するとき!杏樹を引き取らない、親権も監護権もいらない、養育費も払わないって言って離婚したくせに!


 今まで東野が一人で、どんだけ苦労して杏樹を育ててきたと思ってるんだよ!


 それを今になって杏樹を引き取りたいって、どういうつもりだよ!

 

 東野が納得するわけないだろ!』


 いつになく、憲一さんは真剣だ。


 けれど、杏樹のお父さんは、そんな真剣な憲一さんを嘲笑うような表情を彼にぶつけた。


『・・・杏樹のためを考えろよ


 片親で、父親不在の家で、家で一人ぼっちで過ごすのと、両親がちゃんといる家庭にいるのと、どっちが杏樹の為か・・・考えるまでもないだろ?


 美緒が、杏樹を引き取ってもいいって言ってるんだ。だから引き取ってやるのに、そのほうが香織だって楽だろう?子供抱えて働くよりもよっぽど、香織のためだし、杏樹だって幸せだろう?』


『あいつらの幸せを、お前の都合にはめ込むなよ!


 大体、東野は拒否してるんだろ!


 これ以上、東野と杏樹に近づくな!』


 憲一さんはそう怒鳴った。


 そして、怒鳴った後、重たい沈黙が周囲を包み込んでいた。


 憲一さんの言葉に、杏樹のお父さんは何も言わない。でも、憲一さんの言葉に何ら感銘を受けた様子もなかった。


 にやにや、と人の悪い笑みを浮かべている。


 見ているだけで寒気がする、そんな笑みだった。本気で楽しくて笑っているわけではない。まるで、憲一さんを・・・ここにはいない、杏樹や杏樹のママまでも、見下すように、バカにしているような笑みだった。


『・・・橘、お前、知ってるか?』


『・・何をだよ!』


『お前の、大事な大事な子猫ちゃーん♪が、さっきからそこの倉庫の影で立ち聞きしてるぜ!』


 そう言うと、杏樹のお父さんは、つかつかとまっすぐにこちらに近づいてくると、私の傍までやってきた。


『ほらっ!隠れてないで出て来いよ!』


 冷たい声と同時に、杏樹のお父さんに腕を掴まれ、ぐいっと引っ張られ、私は憲一さんの前に引っ張り出された。


「・・・さ、桜・・・」


「・・ごめん・・・聞いちゃった…」


 私は、そういうと、憲一さんから目をそらすように下を向いた。


「今日一日、こいつが香織の傍にべったりひっついていたせいで、俺は香織とも話が出来なかったし。


 杏樹の近くには、とっかえひっかえ友達やら知り合いやらがいたから、連れ出すことも出来なかったぜ!


 たまに一人になると、ばっちりお前が杏樹、監視してただろ?


 おかげで杏樹とも会えなかったぜ!


実の父親なのに、な」


 苦虫を噛み潰したような声で、杏樹のお父さんはそう言った。


「当然だろ!お前、杏樹に会ったら最後、そのまま連れてくつもりだろ!


 東野の所に報告来てるぞ!


 学校帰りの杏樹を連れ去ろうとした奴がいるって!


 お前だろ!


 どうして今更杏樹に固執するんだよ!」


 憲一さんは杏樹のお父さんを詰った。


 一方、なじられた杏樹のお父さんは、悪びれる様子もなく、相変わらず私の腕を強くつかんだままだった。それは、手加減、という言葉が全く通用しないほど、強い力で、腕がしびれるほどだった。


「・・・どうして杏樹を引き取るかって?


 さっき言っただろ?

 どっちが杏樹のためか・・・」


「それだけの筈ないだろ!

 

 調べさせてもらったぜ?


 お前と、お前の今の奥さんの事!


 杏樹がかわいいからとか、そんな平和な理由で引き取るんじゃないんだろ?」


 憲一さんがそう言うと、杏樹のお父さんは、今日初めて動揺した目を、憲一さんにぶつけた。


「調べたのか?」


「知り合いに頼んで、な」


 にやり、憲一さんは少しだけ、笑った。


「東野にも、話してある。


 そんなバカげた理由で、杏樹を渡せない・・・


 近いうちに、東野の弁護士がお前たちの処に行くだろうよ」


 杏樹のお父さんは、鋭い、まるで嫌なものを見るような視線を憲一さんに投げつけると、ちっ!と舌打ちをして、私の腕を話してくれた。


「仕方ない!今日は杏樹に会わずに帰ってやるよ!

 

でも・・・どんな手、使ってでも、必ず杏樹は俺が引き取る!」


「出来るもんならやってみろ!」


 お互い、そう捨て台詞を残すと、杏樹のお父さんは、その場を去って行った。


 その後ろ姿は、不機嫌と傲慢さの混ざったオーラが漂っていた。


 それは、今まで感じたこともない程恐ろしく感じて、がたがたと、足の震えが止まらなくなった。


「桜…平気か?」


 そう言われるのと同時に、私の足はいう事を聞かなくなり、へたり、とその場に座り込んだ。


「おいっ!」


 憲一さんが、びっくりしたように私に出を差し伸べ、腕を掴んだ。その腕は、さっきまで私の腕を掴んでいた、杏樹のお父さんの腕とは全く違うもので、不思議とそれだけで、安心できた。


「ごめっ・・・勝手に立ち聞きしちゃった・・・」


「いいって!


 どうせお前にもいつか話さなきゃいけない事だ」


 相変わらず、私の足は震えていう事を聞かず、憲一さんに支えられるようにして立っていた。


「・・・どういう事なの?」


 すべての疑問を込めて、憲一さんに聞くと、憲一さんは、少し考え込んだ。


「俺の一存じゃ、話せないから・・・


 東野も一緒の時に、話す。


 この後、時間あるだろ?


 ちょっと付き合え」


 そう言う憲一さんに、私は頷くことしかできなかった。


 



・・・・・・・





 そのあと、私と憲一さんは杏樹のママのいる場所に戻った。


戻るまでの、そう長くもない時間、憲一さんは私の腕を掴んだままだった。


さっき、杏樹のパパに腕を掴まれた時は、ものすごく腕が痛かったけれど、憲一さんは、それとは対照的でひどく優しく感じた。


その腕と距離感が少し恥ずかしくて、私は、こんな時にも関わらず顔さえ上げられず、なぜかまともに憲一さんの顔が見れなかった。


戻ると、杏樹のママが、荷物をまとめて私たちを待っていてくれていた。


「橘君!どこ行ってたのよ!」


杏樹のママは私たちを見つけて、手を振りながらそう聞いてきた。でも私たちは、今あったことをどうやって話してよいかわからなかった。


憲一さんは、つかつかと杏樹のママに近づくと、二言三言、何かを耳打ちした。すると、とたんに彼女の表情が固まった。


「・・・あの人が・・・来たの?」


それは、何かに怯えたように、不安げなものだった。


「ああ。今日、何度か杏樹に接触しようとしてたけど、見張っておいたし、接触はしていない」


憲一さんは言葉少なくそう言った。


「そう・・・」


杏樹のママは頷き、そして軽く俯いた。その顔は、今まで見たことがない程に真っ青だった。それを見ながら、憲一さんは軽く息を吐いた。


「・・・平気か?」


いたわるように、そっと杏樹のママの肩に手を触れた。杏樹のママが、力なく頷くと、


「桜に・・・話してもいいか?


桜、晃也と俺が話してるの、聞いちまったんだ。


これからの事もあるし、桜は、杏樹の関係者だろ?」


憲一さんの言葉に、杏樹のママは驚いたように目を見開いた。


そして、少し悲しそうに、私と憲一さんを交互に見ると、何かを決心したように、頷いた。


さっきまで、楽しそうに杏樹を応援していたのに、今は、顔色も悪く、儚くて、、今にも倒れそうな杏樹のママを、憲一さんはそっと支えた。




私たちは、そのまま私の家へと立ち寄った。


杏樹の祖父母は、そのまま帰ってゆき、杏樹は、これから私の家に寄るよ、というと、嬉しそうにはしゃいでいた。


車の中で、杏樹は運動会での出来事を矢継ぎ早に話し始めた。


でも、杏樹のママも憲一さんも、それにろくな返事もできず、自然に、私が杏樹の相手をしながら過ごした。


杏樹がいなかったら、この車の中の空気さえも、重苦しいものだったに違いない。


(杏樹のパパとママ・・・何があったの?)


ただ、嫌いになって離婚した、だけじゃない、もっと険悪な何かがあるように感じた。


でも、それは今、聞くことが出来ない。


いずれにしても、あとで憲一さんが話してくれるだろう・・・




やがて、車は私の家の前に着いた。


「杏樹、これから、ママと先生、大事なお話があるから、レッスン室で待っていてくれる?」


玄関から中に入りながら私がそう言うと、杏樹は不満そうに私と杏樹のママを交互に見た。


「えーーー! あたしだけ仲間はずれ?


あたしも桜先生とお話ししたいー!」


ふくれっ面をしてそう言う杏樹に、憲一さんは何かイラついたような顔をした。けれど、それよりも先に杏樹のママが、「すぐに終わるから、待っていて?」と笑顔で言うと、杏樹は


「わかった」


と寂しそうに言うと、レッスン室へと入って行った。その後ろ姿を見送りつつ、私は杏樹のママと憲一さんをリビングへと案内した。




楽しい空気では、なかった。重苦しくて、正直ここにはいたくない雰囲気だった。


昼間、運動会の間は、杏樹のママとは仲良く話も出来たのに、今は、それとは対照的だった。


私は、その空気が耐え切れなくて、二人をソファに座ってもらうと、逃げるように台所に入ってお茶を淹れた。


でも、こういう時に限って、お茶を用意する時間がとても短く感じた。


それでもお茶を用意して、私も腰かけると、憲一さんは、そのお茶を一口飲んで、大きく息を吐いた。


そして。


「今日の・・・あの男、桜も見ただろ?」


そう、口火を切った。私が頷くと、憲一さんはさらに言葉をつづけた。


「あれが、杏樹の父親で・・・東野の前の旦那だ。


山崎晃也・・・俺の中学時代からの友達・・・っていうか、悪友だな」


憲一さんは、少しだけ笑った。でもそれは、心底楽しくて笑っている笑顔ではなかった。


私は、今日会った、杏樹のパパの顔を思い起こした。かなりのイケメンさん、だった。杏樹とは似ても似つかない。・・・でも、目や鼻の形とか顔のパーツは・・なるほど、似ているような気がする。


「離婚する前まで、東野と晃也たちは、H市に住んでたんだ」


「H市・・・に?」


そこは、私たちの住む市の隣の市だ。ここよりも大きな市で、駅は電車の乗換駅になっていて、交通の便も良い。駅のそばには、大きな楽器店もあって、私はそこでも週に一回、ピアノを教えている。


「俺と晃也は、中学・高校がずっと一緒だった。東野とは、高校に行ってから・・でどまあ、東野は、・・・母さんの教室の生徒で、ガキの頃から知り合いだったけど・・・な」


憲一さんは、苦笑いをしながらそう言った。


「東野と晃也は、その高校時代に知り合って、まあ、付き合い始めて・・・結婚したんだけどさ。


東野が杏樹を生んだ頃、晃也、浮気してて。


浮気が東野にばれた途端・・・東野に暴力ふるうようになって、な」


「暴力・・・DV?」


そう聞くと、憲一さんは頷いた。


「東野への暴力は、どんどん酷くなっていって、まだ赤ちゃんだった杏樹にも手をあげるようになっていった。


浮気も、・・・暴力と比例するみたいにエスカレートして、家に帰らない日も多くて・・・東野には、生活費も養育費も渡さず、浮気相手と半同棲状態だったらしい。


それでも、杏樹がいたから・・・東野、随分我慢していたらしいんだけどさ。


・・・4年前・・・か。


東野、晃也の暴力が暴走して、杏樹に暴力ふるったのを、東野が止めて・・・代わりに東野がひどくやられた。


そのせいで命に関わる位大けがして・・・結局、離婚したんだ」


「大怪我・・・そんなにひどいことをされたの?」


私がそう聞くと、杏樹のママは何も言わずに頷いた。


「二人分の暴力を受けたようなもんだ。杏樹への暴力と、東野への暴力・・・


晃也は、大怪我して動かなくなった東野を見ても、救急車も呼ばずに病院にも連れて行かず、放置した。


結局、発見されたのは、それから一日以上たってからで・・・杏樹の泣き声に気づいた隣の人が病院やら警察やらに連絡してくれたんだ・・・」


「そんなことが・・・・あったの・・・」


私の声は震えていた。話が怖くて、恐ろしくて・・・


暴力を受けたのは私じゃなくて杏樹のママなのに。まるで私自身が、その暴力を受けたような錯覚に陥って、足ががくがくと震えた。


憲一さんの顔を見ると、彼は、少し頷いて、話をつづけてくれた。


「でも東野が、離婚を決意したのは、このDVのせいだけじゃない。


晃也の浮気相手の妊娠だった。


相手の女が、晃也に、妊娠を機に、東野との離婚と、自分との結婚を迫って・・・晃也は、それを承知したんだ」


そういえば、杏樹が言っていた。「パパ、ほかに好きな人が出来て、ママと別れちゃったんだって」・・・と・・・この事だったんだ・・・


東野さんは、何も言わず、うつむいていた。顔色も悪いし、よく見ると、ぎゅっと握りしめた指が、腕が、がくがくと震えていた。聞きたくもない話なのかもしれない。それにかまわず、憲一さんは言葉をつづけた。


「結局、ま・・・晃也は東野と別れて、その女と再婚したんだ」


「酷い・・・」


それ以上の言葉さえ出てこなかった。だって・・・そんなのってないよ・・・


「・・・子供がいたのに?それなのに浮気相手に走ったの? 信じられない!それって酷すぎない?」


杏樹のママだって、杏樹を抱えてたのに?正式に結婚した奥さんだったのに?


それでも子供と奥さんを捨てて浮気相手に走るなんて・・・ひどすぎる・・・


「暴力とか・・・DVとかの性癖はさ・・・実際に結婚しないと気づけない事だし、発覚して、暴力を受けた被害者の方が、DVだと認めないと、なかなか表にでないんだ。だから・・・仕方ないんだ。・・・


晃也も、結婚する前は、・・・ま、怒りっぽいし、勝手なところがあったけど、そんな暴力振るう奴じゃなかったし、さ。


・・・まあ、二人の離婚で、すべてが解決すれば、それはそれでよかったんだけど、な」


彼はそう言って、いったん言葉を止めた。


「まだ・・何かあるの?」


「ああ」


  私の言葉に、憲一さんは頷いた。


「晃也は、杏樹の親権とか・・・親としての権利はすべて放棄したんだ。養育費も払わない、って言って、さ。


東野はそれを承知した。で、金輪際、杏樹と東野の前に姿を現さない事を条件に・・・離婚したんだ」


「でも、会いに来てるじゃない!今日だって・・」


「そ。奴、その約束反故にして、会いに来てるんだ・・・」


彼はそう言うと、大きなため息をついた。


「・・・こっから先は、俺が、ツテ使って調べたことなんだけど、な・・・」  少しだけ、彼の声が低く聞こえた。瞬間的に私は頷いた。


「・・・その浮気相手の女の"妊娠"は狂言だったらしい」


「え?」


狂言・・・?嘘だったってこと?


「それ・・・どういう事?」


そう聞くと、憲一さんは、呆れたようにため息をついた。


「晃也をつなぎとめるための、嘘。


妊娠した、って晃也に言えば、東野と別れて自分と結婚してくれる、って思ったんだろ?」


「でもそれって・・・」


「晃也はそれを真に受けて・・・東野と別れてその女と結婚したんだ」


妊娠が、狂言?


「そんなの・・・簡単にだませるものなの?妊娠って・・・お医者さんの診断結果とかでしょ?単なるでっち上げでどうにかなるの?」


そんな私の疑問に、憲一さんは簡単に答えてくれた。


「母子手帳はさ。役所で書類を書いて、それで発行してもらうんだ。


その書類にも、勿論、妊娠を判断した産婦人科の病院とか医師の名前も書くんだけどさ。


その場で書かなくても問題なく発行してもらえるし、適当に書いても、役所から産婦人科に連絡が行くことはない。


だから・・・妊娠していなくても、もらおうと思えば、貰えちまうんだ・・・」


・・・つまり、その浮気相手は。


杏樹のパパと結婚するために、貴方の妊娠している、と嘘をついて・・・杏樹のママと離婚させて、自分が結ばれた・・・という事・・・


あんなりな話に呆然として、返す言葉が見つからない。


「結局、浮気相手は・・・妊娠が狂言だ、と晃也にばれる前、晃也との結婚が決まるのと同時に流産した、って晃也に言ったらしいんだけど、さ。


晃也を縛るには十分だったらしくて、晃也は今度は、流産した負い目を感じたらしくて、その女の言いなりだ。


ところが女の方は・・・結婚後、いろいろ検査して・・・妊娠不能な身体だと判明した。それさえも、晃也には、流産がきっかけで妊娠不可能になった・・・って言いはってるらしいんだけどな」


憲一さんの呆れた口調が、妙に寂しく聞こえた。


「さらに厄介なのが、その女、無類な子供好きでな。自分に子供が出来ない事が、かなりショックだったらしいんだ。


で、晃也と東野との間にできた子供・・・杏樹を、自分たちの子供として引き取れないか、って言い出したらしいんだ。


最初は、ショックでそんなことを言っているのかと、晃也も相手にしなかったらしいけど、その女、本気らしくて。


それで、晃也が動き出したんだ」


「杏樹を・・・引き取るために?」


私がそう聞くと、憲一さんは頷いた。


「表向きは、さっき学校で晃也が言ってた通りなんだ。


シングルマザーの東野が杏樹を抱えて働いて、杏樹を養うのは大変だろ?


だから晃也が引き取る・・・っていう事なんだけどな。実際は、その女の我儘に晃也が付き合っているようなもんだ」


憲一さんは、そう断言した。そして。


「晃也は、その女にベタぼれで、妊娠やら流産やらの負い目もあるから彼女の言いなりだ。東野に暴力振るったきっかけも、裏にあの女がいたからだろうしな。


女が、杏樹を引き取りたいっていえば晃也はどんな手を使ってでも、杏樹を引き取ろうとするだろうな・・・」




そこまで言うと、憲一さんは軽く息をついた。そして。


「東野と杏樹は・・・離婚した後・・晃也から逃げるために、この町に越してきたんだ。


晃也のDVから東野自身と杏樹を守るために、な。


この町に住んでいることも、晃也には秘密にしていたんだ。


それなのに、奴ら、東野の住所や杏樹の学校まで調べて、杏樹に接触しようとしているんだ」


さらに厄介なことに、杏樹は、晃也にひどい仕打ちを受けたことは、全く覚えていない。覚えていないから・・杏樹にとって晃也は、"大好きな父親"なんだ・・・晃也はそれに付け込んで・・・」


「杏樹は・・・渡せません」


突然、杏樹のママが、つぶやくようにそう言った。


「杏樹は、私のすべてです。


あの人には渡せませんっ・・・・」


今にも泣きそうな声だった。


「仕事をしてしまっているから・・・杏樹に、母親らしいことなんか、何もできません。学校行事だって、付き添えない事のほうが多いです。


でも・・・それでも、杏樹は私の宝物です!


誰が何と言おうと、私の娘です。


杏樹がいなくなってしまったら・・・私はっ・・・」


杏樹のママの、言葉が詰まった。


「判ってるよ。だから俺が動いてるんだろ?


泣くなよ。絶対、晃也に杏樹は渡さないから」


そんな杏樹のママの背中を、憲一さんは労わるようにさすり、慰めるようにそう言った。


「・・・・東野には、奴が暴力振るうようになった頃、相談受けたんだ。昔から、母さんの教室で顔合わせてて・・ま、知らない仲じゃなかったしさ。で、知り合いの弁護士、紹介したんだ。それ以来、相談受けたりしてたんだ。


晃也が今年に入ってから、杏樹の通ってる小学校に現れたり、杏樹に接触しようとしてる・・・って情報も、随分前から聞いてて、警察とか、弁護士と相談しているところだ。


第三者機関が間に入れば、奴もそう簡単に手出しは出来ないだろう・・・


俺が今日、運動会に一緒に行ったのは、そういうわけだ。


あの人ごみにまぎれて晃也が来る可能性が高かった・・・ま、実際本当に来たけどさ」


「そう・・・だったんだ・・・」


すべての話が終わってから、私は大きく息を吐いた。


杏樹・・あの杏樹の笑顔の裏には、こんな大変なことが隠れていたのだ。


改めて私は、杏樹の背負う大人の事情を思った。






すべての話が終わった後、私は杏樹が気になって、レッスン室へと向かった。


リビングでは、憲一さんと杏樹のママが、杏樹のパパの対策を練っているようだったけれど、私は、それよりも杏樹のほうが気になった。


ガチャ、と、レッスン室のドアを開けると、グランドピアノの側のソファに、杏樹は座っていた。


膝には絵本を置いて、楽しそうに読んでいた。その絵本は、春から、私が杏樹の為に買っては、このレッスン室の本棚の片隅に並べたものだった。


私が入ってきたことに気づいた杏樹は、私を見た途端、いつものあの笑顔を向けてくれた。


「せんせい! お話、終わったの?」


杏樹は、パパのDVの事は覚えていない・・・憲一さんはそう言っていた。小さい頃の事だし、何より杏樹にとってのパパは、「やさしいパパ」なのだと・・・


『パパに、またあえますように』


 夏の七夕の時、杏樹が短冊に書いていた願い事・・・


『パパ、ママの事嫌いになっちゃったから、離婚したんだって。でも、杏樹の事は好きだから、時々、ママに内緒で会いに来てくれたの。でもね、もうずーっと、会いに来てくれないの・・・お仕事、忙しいんだって』


あの願い事と、杏樹の言葉・・・・杏樹がパパの事を、今でも慕っていることくらい、判る。


でも、杏樹のパパは?


会いに来たのは、杏樹の事が好きだから? それとも、杏樹を引き取る話をするため?


しかも引き取るのは、杏樹への愛情故などではなく・・・・・・・今の奥さんの為で・・・・


杏樹が、信じているであろう、パパの愛情は?


本物の愛情なの?


それとも、『愛情』という名前の風呂敷に包んだ『エゴ』なの?


たとえ『エゴ』だったとしても。


 杏樹にとっては、そんなパパの行動すべてが、どれだけパパの『エゴ』に満ちていようと、まぎれもない、『パパの愛情』・・・。


パパの暴力で、大怪我をした、杏樹のママ。


そして、杏樹自身、覚えていない、パパのDV・・杏樹さえも大怪我をしかけた事・・・


「桜先生?」


考え込んでしまっている私を気にしてか、杏樹を絵本をテーブルに置くと、パタパタと私に近づいてきた。そして、下から私を見上げるように、私の顔を覗き込んだ。


「どうしたの?」


本気で私の事を心配している・・・一目瞭然だ。


その表情を見た途端、私は、たまらなくなって、杏樹をぎゅっと抱きしめていた。


「・・・さくらせんせい?どうしたの?」


腕の中で杏樹が心配そうに声を上げている。でも、それにこたえる言葉など、私の中にはなくて。


ただただ、杏樹が悲しくて。たとえようもなく、悲しくて・・・




杏樹・・・


大好きな、杏樹。


私が、  杏樹と杏樹のママの為にできることって・・・  何かあるのかな?


この杏樹の、素直で屈託ない笑顔を守るために・・・・


考えても、答えなんか出ない。


でも・・・・


私の手で、杏樹のために、こんな風に抱きしめるみたいに、私にも何かが出来れば・・・


強く、強く、そう思った・・・





夕方、暗くなるころ、杏樹母娘は帰って行った。


時間も遅いし、夕食でも一緒に食べよう、と誘ったけど、運動会が終わって疲れているのか、杏樹は眠そうな顔をし始めていた。杏樹のママは、そんな杏樹を大切そうに・・・まるで宝物を扱うように抱っこすると、車に乗せた。


「今日は、本当にありがとうございました」


玄関の外に見送りに出てきた私と憲一さんに、杏樹のママは何度も何度も、そう言ってくれた。そんな杏樹のママに私は恐縮しながら、


「私の方こそ、ありがとうございました。今日はとっても楽しかったです」


最後にちょっとびっくりしたことがあったけど、楽しそうな杏樹の姿を見ることが出来て、嬉しかったし、楽しかった。


そう伝えると、杏樹のママは嬉しそうに笑っていた。でもその笑顔は、少しだけ、疲れているように見えた。それは運動会の疲れなのか、DVをした前の夫が来ていたからなのか・・・おそらく両方なのだろう。


「今日は・・・ゆっくり休んでくださいね」


そんな二人を気遣ってそう言うと、杏樹のママは嬉しそうな笑顔を残し、車を走らせて行った。


いつもだったら、杏樹が、大騒ぎでバイバイをするのだけれど、杏樹は、車に乗るのと同時に、すでに眠っていた。よっぽど、疲れたのだろう・・・


「東野とは、ガキの頃からの付き合いなんだ」


杏樹達の車が見えなくなった後、不意に憲一さんが話し始めた。別に私が聞いたわけでもないのに、問わず語りを始めた。


「・・・俺が、お前と最初に会った時・・・お前、何歳だったっけ?」


そう聞かれて、私は一瞬、首を傾げた。


人が、一番古い記憶を、いったい何歳位の出来事まで覚えているのか・・・それは判らない。でも、私にとっての一番古い記憶の中には、憲一さん・・・"けんちゃん"の笑顔があった。


「・・・幼稚園くらいの頃・・・かな?」


曖昧にそう答えると、憲一さんは少しだけ、笑った。


「・・・俺と東野が最初に会ったのも、その頃なんだ。東野も、幼稚園の頃から母さんの教室でピアノ習ってたからさ。その頃からの付き合いだ」


幼稚園・小学校・高校・・・それが、どれだけ長い時間なのか、私は良くわかっていた。


「思春期・・・って奴? 男だとか女だとか、そういう事気にしだした頃だったっけな・・・少しずつ、疎遠になった・・・それでも、母さんの生徒と、母さんの息子・・・って関係は壊れなかったな・・・」


彼の話を聞きながら、あの夏祭りの日の事を思い出した。杏樹のママと憲一さんが一緒にいるところを見たとき・・・ただの知り合いにしては親しそうに見えた。・・・そして、今日、突然運動会に一緒に行く、と言い出した彼、小学校で杏樹のパパと会った時の、すごい剣幕だった、彼・・・


あれは全部、幼馴染の女性に対する態度? それとも・・・特別な存在への、感情?


「幼馴染・・・か」


小さく、つぶやいた。


私にとっての憲一さんは、年上の、優しいお兄さんみたいな存在だった。・・・あの悲しい事件の前までは。


でも、憲一さんと杏樹のママは・・・私と憲一さんみたいな兄妹みたいな関係ではない。対等で、きっとあんな悲しい事件もなく、自然に向き合って、自然に思春期を迎えて、距離を置いていったのだろう。


険悪になることも、悲しい事もないまま、いがみ合う事もなく・・・だからこそ、今、あんなふうに困っている杏樹のママに憲一さんは手を貸している・・・蟠りもなにもなく・・・


憲一さんとのそんな関係が、とても素敵に見えた。そして・・・羨ましかった。


たとえ二人の関係が恋愛とかではなくても・・・歳を重ねても、信頼しあって、何かあれば力になってくれて・・・


「・・・いいなぁ・・・」


「えっ?」


無意識にそう聞いていた私に、彼は驚いた声を上げた。


彼の驚き以上に、私は彼の声に驚いて、彼の顔を見上げた。でも、想いは止められなかった。


「・・・私も、杏樹のママになりたかったな」


「・・・・・・桜?・・・」


「そうすれば・・・小さいころから、自然に向かい合えたかもしれないね・・・」


あんな悲しい言葉を投げつけられることも、それで傷つくこともなく・・・大人になってからも、自然に向かい合えるのだ・・・


羨ましい・・・よ・・・


「・・・俺はっ・・・」


憲一さんが、何か慌てたようにそう言っていたけど、私はそれを聞かずに、"おやすみなさい"と彼に言うと、家に入って行った。


私も今日は、いろいろあって、ちょっと疲れたのかもしれない。今・・・彼の言葉を、聞かないふりする気力もなかったし、自分の心にブレーキをかける力も、残っていなかった。


玄関を開けて、閉める瞬間に一瞬見えた憲一さんの表情に、酷く胸が痛んだ。




もう、憲一さんの事は・・・何とも思っていない。恋愛感情など、この夏に壊れ去った。


それなのに、胸の痛みだけが、酷く残っていた・・・




その胸の痛みの正体を知るのは、もう少し後になってからだった・・・


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