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夏の章 第3話

次の週のレッスンの日。杏樹と再会した。


「せんせーーーこんにちは!」


 杏樹は、休み前と変わらず、元気いっぱいにやってきた。


 真っ黒に日焼けした笑顔の杏樹、それだけで、楽しいことがたくさんあった、という事がにじみ出てくるようだった。


「おばあちゃんちにね、遊びに行って来たの!」


 部屋に入り、出してあげた麦茶を飲みながら、おばあちゃんのおうちの話を矢継ぎ早に話す。


 その話しっぷりが、ひどく懐かしく思えた。


 賞味十日程会っていないだけなのに、それがひどく長く感じた。


 そしてその話っぷりも笑顔も、ひどく久しぶりで、心地良かった。


「さて、じゃ、レッスン始めようか?練習してきた?」


 そう聞くと、杏樹は、うん!と頷いた。


「あのね、おばあちゃんのおうちにもピアノがあったから、弾かせてもらったの!おばあちゃんもおじいちゃんも、私のピアノ、喜んで聴いてくれたよ!すごくうれしかったから、一杯弾いちゃった!」


「そっか、じゃ、先生にも聴かせて」


「うん!」


 杏樹は、ピンク色の手提げ袋から楽譜を引っ張り出すと、ピアノの椅子に腰かけ、弾き始めた。


 杏樹の表情は、休み前よりもずっと、楽しそうだ。そして、癖だった、足をぶらぶらさせる動きは、随分少なくなっていた・・・





 レッスンのあと、いつものようにお昼ごはんを作っていると、杏樹が台所にひょこっと顔を出した。


「先生、私もお手伝いする!」


「えっ!」


 これには私も驚いた。いつもは、私がお昼を用意している間、レッスン室で絵本を読んだり、夏休みの宿題をやって過ごしているのに・・・


 戸惑っている私に、杏樹は画用紙でできている大きめなカードを私に差し出した。


「夏休みの宿題なの! ママや、お家の人のお手伝いをするの」


そのカードには、日付と、杏樹がやったお手伝いの内容と、杏樹のママや、おばあちゃんと思われる人の、“ありがとう”のコメントが書かれていてあった。


最近はこんな宿題も出るのか・・・私が子供の頃には、こんな宿題、出なかった気がする・・・それとも、覚えていないだけだろうか?


杏樹のお手伝いカードは、もうほとんど埋まっていて、空欄は、最後の一つだった。夏休み中、ずいぶん頑張ってお手伝いしたみたいだ。


「あと一個、お手伝いしたら、全部埋まるんだ。だから、お手伝い、したい!」


杏樹は随分、お家でママのお手伝いを頑張っていたみたいだ。


「ママのいない間に、お洗濯物たたんだり、食器洗いとか、頑張ってやったんだ!ママ、喜んでくれたよ!」


「そっか、杏樹は偉いね!」


そう言うと、杏樹はえへへっ!と、嬉しそう笑うと、慣れた手つきで、食器を運んだり、お箸を並べたりしていた。


なるほど、お家でもお手伝いしている・・・というのは本当みたいだ。


手伝う杏樹の背中は、初めて会った頃よりも、少し大きく、たくましく見えた。




もし、もしも・・・


いつか私にも子供ができるのなら・・・


杏樹みたいな娘がいいな・・・




柄にもなく、そんなことを思った。



 出来上がったお昼ご飯のナポリタンをテーブルに並べながら、ふっと、外の日差しが随分柔らかくなっているのに気付いた。


「今日は涼しいね」


「ん!ここにくる時もね、あんまり暑くなかったよ!」


 そういえば、いつも夏の間は汗びっしょりになってここに到着する杏樹。今日は、以前ほど汗をかいていなかった。それだけ、暑さが和らいだ、という事だろうか・・・


「そっか・・・もう、夏も終わりだね・・・」


「うん、もうすぐ夏休みも終わりなんだ」


残暑厳しい時期なのに、今日は随分過ごしやすい。まるで初夏のような陽気だった。


私はエアコンを切ってリビングの窓を全開にして、空気の入れ替えをしながら、杏樹とお昼を食べた。外の空気が、随分心地よい。


不思議なもので。いつもは、季節の移り変わりなんか気にすることはない。


仕事柄、仕事場は密室のせいか、あまり季節を気にしない。動いてゆく暦やカレンダーや周囲の動きで、季節を感じていた。


自ら季節を感じることなど、無かった・・・はずなのに・・・


「あのね、もうすぐ二学期なんだ!


夏休み終わっちゃうのは寂しいけどね、お友達に会えるのは楽しみなんだ!」


そう言いながら杏樹ははしゃいでいる。


外の風の涼しさを感じて、まるで逃げ切れたような気分になった。でも杏樹は自分の身体や心、肌で季節を感じ、周りに知らせてくれているようだった。


「そう言えば・・・杏樹は、あのお祭りのあと、ママと仲直り出来たの?」


唐突に、気になっていたことを聞いてみた。杏樹と会うのは、あの夏祭り以来で、あの日は、気まずいまま、杏樹は杏樹のママに連れられて帰って行ったんだっけ・・・


杏樹は、うん、と、一瞬複雑そうな顔をした。


「うん・・・仲直り・・・したよ」


「・・・」


杏樹の言葉は歯切れが悪い。俯いたまま、何か迷っているみたいだった。



「ママね、お客さんとの食事会が終わってから、急いで家に帰って、浴衣着てお祭りに来たんだって。


 ママ、私が、浴衣着てお祭りに行くって知って・・・一緒に浴衣着て、歩きたかったんだって。


途中で、橘さんと会ってね、橘さんは桜先生のこと探してたから、一緒に探してたんだって」


杏樹の言葉に、また私の心がどきりと跳ね上がった。


憲一さんが・・・私を、探していたの・・・?


「私、それなのに、ママにひどいこと言っちゃった・・・


 だから・・・私もママに、ちゃんとごめんなさい、って言ったよ。


 ママ、ちゃんと判ってくれて・・・仲直り、したよ」


 杏樹は、そう言っていた。でも、ママと仲直り出来たにしては、少し、表情が暗かった。


「ね、桜先生」


「なぁに?」


杏樹は俯いたまま呟いた。


「あたし、橘さん、好きじゃない!」


その一言に、私はビックリして杏樹の顔を見た。杏樹は相変わらず、俯いたままだった。


橘さん・・・杏樹が言う“橘さん”とは、他でもない、憲一さんのことだ。


珍しい、そう思った。杏樹と知り合ってから今まで、杏樹の口から、誰かのことを嫌ったり否定したり、といった言葉が出たことは、一度だってなかった。


お友達が大好きで、学校の先生が大好きで、ママやおじいちゃん、おばあちゃん、ママと別れてしまったパパも大好きで・・・正直この子は、誰かを嫌ったり否定したり、しないのかと思っていた。


「・・・どうして?」


そんな驚きをなるべく表に出さないように、杏樹にそう聞いてみた。


「だって・・・橘さんとママが一緒にいると、ママ、橘さんばっかりで、私の話、全然聞いてくれないんだもん!


この前のお祭りの時だって・・・結局ママ、橘さんと一緒だったもん・・・


 ママ、私を探している途中で、橘さんと会って、一緒に探していたんだって・・・。


 でも、ママと橘さんが一緒にいると、ママ、私の事ほったらかしにするの。

 

 だから、橘さんの事、嫌い・・・」


拗ねてるのかな?


それとも、憲一さんにママを取られるって思ってるのかな?


「ママは、私のことより橘さんのことが大事なんだもん」


それはないと思うけどなぁ・・・杏樹の言葉を聞きながら、そう思った。


杏樹のママが、私の所に“杏樹にピアノを教えてやって欲しい”と頼みにきた時も、


私の家でお昼を食べる、と言い出した時、私の事を気遣いながらもそれを許してくれた夏のはじめのやりとりも、


あのお祭りの時に杏樹が家から持ってきた浴衣のセットも・・・


杏樹のママと私、たくさんのやり取りがあったわけではないけれど、それらのすべてに、杏樹のママの想いを感じた。


 それに、仕事のお客さんとのお食事が終わった後、浴衣を着て杏樹を探していた・・・この一件だって・・・杏樹への愛情故だろう。


杏樹のママが杏樹のことを嫌いだ、なんて・・・ありえない。


でも、その言葉を杏樹に伝えることは・・・何故かできなかった。


それはもしかしたら・・・これから始まるであろう、憲一さんと私と杏樹のママの、単純ではない人間関係に、私が無意識に感づいていたのかもしれない・・・


私はそれ以上、何も言えずに、ご馳走様をした杏樹のお皿を片付け始めた。


杏樹は、食器の片付けも手伝ってくれたけど、片付けが終わる頃は、もういつもの杏樹に戻り、“午後は何して遊ぼうかな〜”と笑っていた。





『仲直り、したよ』


 杏樹のその言葉を聞いて、杏樹が、ママとちゃんと仲直りできて、よかった、とほっとした反面。


 素直に謝ることができた杏樹と比べて、私はいくつになっても素直になれない・・・


 あの、師匠と対峙した日以来、憲一さんとは、仲直りはおろか、話し合うことさえ、できていない。

 

 今までの事、これからの事、もっと話し合わなきゃ、先に進めない筈なのに。


 私も彼も、お互いのことを避けている。


 

 今までは、"師匠の命令""母さんの伝言"と言って、私のプライベートにずけずけと入り込んできた癖に。


 あの日以来、時々顔を合わせても、お互い、まるで腫物に触れるように言葉を交わす。




 こんな状態は嫌だけど。


 かといって、以前の"師匠"を間に挟んだ無機質な人間関係に戻りたいわけでもない。


 結局今も以前も、心通わない、無機質な人間関係のままで。


 仲直りの仕方さえ、私と彼の間には、存在しなかった。


 "ごめんなさい"の一言は、私にとっては、今までの"師匠"を間に挟んだ無機質な関係で妥協する事と同じで、それはもう嫌だった。


 

 そして、彼が"師匠"の名前を使った理由も、許しがたいものだった。


 単に、私を"師匠"の名前を使ってしばりつけたかっただけなのだ。

 

 しかも、その理由が、"寂しかったから"。たったそれだけで。



 今、私と彼が仲直りすれば、きっとまた、あの不毛で無機質な人間関係に戻る・・・それだけは、絶対に嫌だった・・・




 結局・・・堂々巡りだ。


 妥協する場所も見つけられず。


 気まずいまま・・



・・・・・・・・




「先生、これなあに?」



 午後、杏樹は、絵本の本棚の横にある本棚から、一冊の楽譜を引っ張り出した。


 それは、赤い表紙の大きな楽譜。桜が昔、使っていたピアノの教則本だった。


「それはね、私が杏樹くらいの頃に使っていたピアノの本だよ」


「うわーー、見てもいい?」


 杏樹は目をキラキラさせて、それのページをめくった。


 当時のピアノの教本は、今とは随分違う。絵柄も少ないし、読むところも多い。今の教本はどちらかといえば曲中心で、絵柄も多く、まるで絵本のようだ。


 今とは随分違う当時の教本に、杏樹はびっくりしているようだった。


 ・・・当時、ピアノを習っていた子供はみんな、この赤い表紙の教本を習っていた。でも最近は、この教本が「難しすぎるし、子供が飽きてしまう」という事で、使わない教室が多い。


 使わない方が、子供は長続きするようだけど・・・私はこの赤い教本が好きで、今でも初心者を教えるときは、必ずこの教本を使っている・・・もっとも、今は改訂されていて、当時と全く同じではないけれど、基本的なところはみんな一緒だ。


 杏樹はそれらを見ながら・・・ふっと、表情を変えた。


「ねえ、先生、これ、何?」


 杏樹は、その教本の最後のページを開いていた。そこには、子供の落書きのような絵が挟まっていた。


「あ、それは・・・」


 その落書きには、覚えがあった。


 私が子供の頃書いたものだった。


 宝の地図のように描かれているそれは・・・庭の絵と、庭に咲いている桜の木。そしてその木の根元には、赤でしるしが書かれている・・・


 はっきりと、覚えている・・・


「それはね・・子供の頃、タイムカプセル埋めたところの地図だよ」


「タイムカプセル?」


 杏樹の言葉に、私は頷いた。そして、


「タイムカプセルって・・・杏樹知ってる?」


 そう聞き返すと、杏樹は大きく頷いた。


「知ってるよ! 私も埋めたことあるもん!


 幼稚園の卒園式の時にね、お友達と先生とで、幼稚園の裏庭に、宝物を埋めたの!


 いつか取りにきましょうね、って先生も言ってたよ!」


 杏樹は目をキラキラさせて、そう言った。


 そう、昔・・・確か8歳の夏だったから、ちょうど二十年前。


 庭の桜の木の下に、私はタイムカプセルを、埋めた・・・


 いつか本当の意味で大人になったら、掘り起こそうと思った。


 そして、忘れないように、地図を書いて、当時使っていたあの赤い表紙の教本に、挟んだ。


 

「ねえ、掘ってみようよ!」


 突然杏樹はそう言い出した。驚いたのは私のほうだ。


「え?今から?」


「うん!だって、桜先生の子供の頃の宝物でしょ?見てみたい!


 ねえ、掘ろうよ!」


「駄目よそんなの!」


「どうして?」


「どうして・・・って・・・・」


 正直、見たくない。


 タイムカプセルを埋めたことは覚えているけれど、何を埋めたか、なんてもう覚えていない。


 確かあの時の夢を書いた紙と・・・何かを埋めた筈だけど。


 そんな子供の頃に埋めたもの・・・当時の私にとっての宝物なんか、覚えていない。


「先生、それ、いつ埋めたの?」


「・・・杏樹くらいの頃、かな・・・」


「じゃあ、もう掘り出してもいいんだよ!


 この前私が幼稚園でタイムカプセル埋めた時だって、先生は、"大人になったら掘り出しにおいで"って言ってくれたんだもん!出してみようよ!」


 杏樹は、そう言ってきかず、私は仕方なく、掘り出すことを許すことにした。


 杏樹は嬉しそうに地図を片手に"わーい♪"と喜んでいた。


 やれやれ・・・私は軽くため息をついた。


(私もずいぶん、杏樹には甘くなったなぁ…)


 この夏、何度目かのこの言葉を心の中でつぶやきながら、杏樹の後ろをついてゆくように、庭へと出た。


 



 庭の物置から、ガーデニング用のシャベルと軍手を二組、出すと、杏樹に一組渡した。


「はい、手、けがしないようにね」


「ありがとー」


 杏樹ははしゃぎながら、ぶかぶかな軍手を手に付けて、シャベルを持った。そしてもう片手でタイムカプセルの地図を見ながら、わくわく顔だった。


 軍手は、杏樹の手にはちょっと大きすぎたみたいで、指先には指が入っていないみたいだったけど、それ以上にタイムカプセルの事で頭がいっぱいなのか、気にも留めていないようだ。


 私も軍手をはめた。一応これでもピアニストなので、ケガをしたら大変だ。


「先生、どこに埋めたか覚えてる?」


「・・・なんとなく、ね」


 地図には、庭の絵と、庭に植わっている大きな桜の木。そしてその根元に書いてある赤いしるし・・・


 あの頃の記憶を掘り起こしながら、私は桜の木の下に立った。あの頃は、空を覆うほどの大きな木に見えたけど、私が大人になったせいか、あの頃ほど大きく感じない。


(どこに植えたんだっけなぁ…)


 桜の木を見上げ、そして幹を見て、その横の、少し離れたところに植わっている椿の植え込みを見て・・・


・・・ 思い出した!


「杏樹、ここ!」


 私は、桜と椿の間を指さした。そこには、レンガが数個、並べて置いてある。ガーデニング用だけれど、古びて薄汚れている。


 タイムカプセルを植えたとき、このレンガを目印代わりに置いたのだ。


「このレンガの下。今どかすね」


 そういうと、私はそのレンガを全部どかした。レンガの下にはダンゴムシや蟻、気持ち悪い虫ががたくさんいて、虫が嫌いな私は一瞬逃げたくなったけど、杏樹は平然としていた。


「よーし!じゃあ、掘ってみるね!」


 杏樹は嬉々として掘り始めた。桜の木の根や、ほかの植物の根が邪魔して掘れないだろう・・・と思ったけど、考えている以上に土は柔らかく、掘りやすかった。


 私も杏樹を手伝って、土を掘りだした。あの頃、かなり頑張って深い穴を掘ったのを覚えている。なるべく地中深く、誰の目にも触れないところに埋めたくて・・・


 それが仇になったのか、なかなか目的のものは出てこない。


「ないね・・・本当にここ?」

 

 杏樹は疲れてきたのか、私にそう聞いてきた。私はうん、と頷いた。


「間違えないよ。だって目印にレンガ、置いておいたから・・・」


 今考えると、あの宝の地図に書かれていた赤いしるしは、レンガを表していたのかも・・・と、覚えていないあの頃の事を思い返してみた。


 休み休み掘り起こしながら、どの位時間が過ぎただろう・・・


蚊が増えてきて、杏樹や私の腕や足が、蚊にくわれて痒くなってきた。私は物置から蚊取り線香とレトロな蚊取りブタを取り出すと、それを桜の木の下において、火をつけた。最近の電気式や電池で動く蚊除けとは全然違うそれに、杏樹は目を丸くした。


「先生、これなあに?」


「蚊取り線香。見たこと、ない?」


私がそう聞くと、杏樹はうん、と頷いた。


「おばあちゃんのお家にあったよ!この豚さん、可愛いね!」


杏樹は、この蚊取りブタをとても気に入ったようだ。


実は私も、この蚊取り豚がとても好きで、年代物で古臭いけど、捨てる気にならず、今でもこうして使っているのだ。


憲一さんには、“古臭くてみっともない”と呆れて言うけど、そんなこと気にしない。


蚊取りブタをはさんで、杏樹と顔を見合わせて笑った時・・・


「・・・何やってんだ?」


 突然、いるわけもない第三者の声で、私たちは同時に声がしたほうを向いた。


 いつの間にか、庭には憲一さんが立っていた。

 

 そして、私たちの様子を見てあきれ顔だった。


「・・・呼び鈴鳴らしたんだけど・・・出ないし、庭で声がしたから・・・何やってんだ?」


「あ、ごめん」


 先日の気まずさがまだ残っていて、私は彼の顔をまともに見ることが出来なかった。それは憲一さんもそうなのだろう・・・私たちが庭でこんな騒ぎをしていなければ、こんな風に話しかけてくることも、ないだろう。


 いつも通り・・彼の感情が感じられない言葉のやり取り・・・心通わない、会話。


 それを壊したのは、この、杏樹と私の、"非日常な騒ぎ"・・・


「先生のタイムカプセル、掘り起こしてるの!」


 杏樹はそう言った。


「タイムカプセル?」


「ここに埋めたんだって!」


 そう言い終わらないかのうちに、憲一さんはつかつかと私のそばに来ると、私が持っているシャベルを、まるでもぎ取るように奪った。


「お前、ピアニストの癖にこんなことするんじゃねえよ!


 指怪我したらどうするつもりだよ!秋のコンサート、支障でるぞ!」


「平気よ。軍手してるし、ケガするほどじゃないでしょ? 大袈裟だよ。


 それに、普段私が庭の手入れや草むしりしてるときは何も言わないくせに・・・」


 私はガーデニングが好き、というわけではないけど、そこそこ庭が広いので、草むしりも必要だし、花壇に花の苗を植えることもある。人並みに庭仕事もする。


彼はそんな私を見ているはずだし、いつも私が庭仕事しているときは何も言わない。何も言わないどころか、草むしりしている私を見て見ぬ振りして通り過ぎる。


「単なる草むしりと、掘り起こすのとは違うだろ!


 貸せよ!俺がやってやるから」


「ち、ちょっと待ってよっ」


 彼に取り上げられたシャベルを思わず取り返したけど、彼は再び私の手からシャベルともぎ取ろうとする。取られてたまるかと私も意固地になり・・・私と憲一さんは不毛なシャベルの取り合いになってしまった。


 杏樹は、私たちがそんなことを始めたせいか、掘り起こすどころではなくなり、オロオロと私たちを見ていた。


「いいから貸せよっ!」


 やがて憲一さんは、力づくで私のシャベルを奪い取った。


「や、ちょっと痛い!辞めてよっ!」


「うるさいっ!」


 次の瞬間


"ガツン!"


 鈍い音が、辺りに聞こえた。それは金属音のようにも聞こえたし、でもそれにしては鈍すぎる音だった。


 そして、次の瞬間、左手に走る、激痛・・・


「痛っ・・・・・・」


 思わず私は、激痛が走った左指を右手で押えた。指は、軍手をしていたはずなのに、その痛んだところは微かに暗い赤で染まり始めた・・・出血しているのは一目瞭然だ。


 憲一さんがシャベルを力づくで奪った瞬間、シャベルの先が、私の指に当たったのだ。・・きっとかなりの力だったんだろう・・・


「せ、先生…」


 杏樹は、驚いた表情で私の顔を覗き込んだ。私は指の痛みで、顔さえ上げることが出来ない。


 私は、無事な右手で左手の軍手を外した。手の甲の人差し指と中指の付け根辺りが、無残なほどに出血していた。


「っ!」


 杏樹の、息をのむ声が聞こえた。驚きで声さえ出ないようだ。


 指は、痛み以上にしびれたような感覚になり、動かなかった。


 憲一さんは、真っ青な顔で、ただ立ち尽くしている。その手には、私の手から奪い取ったシャベルが握られていたけれど、握っているその手は、少し、震えているようだった。


 シャベルの先には泥がついていて、それと同じ泥で、私の傷口も汚れている。


 軍手をしているからと言って、泥から完全に指を守れるわけではない。それは判っているけど・・・


「先生・・・大丈夫?」


 杏樹は心配そうにそう聞いた。この場で、真っ先に現実の世界に戻ってきたのは、ほかでもない杏樹のようだ。


 杏樹にそう聞かれて、やっと私もまた、はっと我に返った。


「大丈夫よ・・・


 悪いけど杏樹、タイムカプセル掘るのは、別の時でもいい?


 私、怪我の手当てだけしてくるから・・・」


 そう言うが早いか、憲一さんは、私の右腕を掴んだ。


「杏樹!今日、帰ってくれないか?


 これから桜、病院に連れてく!」


 憲一さんはそう言うと、真っ青な顔のまま、私の腕を引っ張って、私を部屋へと連れ込んだ。


「ちょっと、ひっぱんないで!」


文句をいう私の声を無視して、あわてるように支度を始めた・・・


「先生! 桜先生っ!」


 杏樹は、私たちの後を追って部屋に戻ってきた。手は真っ黒だし、顔も、所々に泥がついていた。


「私も一緒に病院に行く!」


 まっすぐに私を見ながらそう言う杏樹に、私よりも先に憲一さんが首を横に振った。


「駄目だ!」


「なんで?」


「ガキなんてついてきたら邪魔なだけだ!」


 まるで切り捨てるようにそう言った。


(ガキだから・・・)


 それは、子供の頃、彼が私に使っていた言葉だった。



『ガキの子守なんかゴメンだ!』


『あんなくそガキ、興味ねぇよっ!』


『母さんの頼みだから、仕方なく仲良くしてやってんだ!』



・・・・彼の常套句。その言葉で、どれだけ傷つき、泣いたか。


 一刻も早く大人になりたい、と願った・・・


 いまだに、彼の口からそれを聞くと、嫌な気分になる、胸が痛む・・・


 

 私は杏樹の顔を見た。私が子供の頃に味わった、あの辛さを、杏樹にまで味わわせたくない・・・


杏樹の笑顔を、憲一さんの心無い言葉で曇らせたくない・・・



 ところが。


 次の瞬間。


 杏樹は思いもよらない行動に出た。



杏樹は、憲一さんの腕を両手でつかむと。


 その手首に噛みついていた。



 甘噛み、なんてかわいらしいものじゃない。


『ガブッ!』


 音が聞こえたら、きっとそんな風に聞こえただろう。傍から見ていても判る。本気で、杏樹が噛みついていた。


 そしてその証拠に、噛まれた憲一さんは・・・


「っ! いってーな!何すんだよっ!」


 目に怒りの色を浮かべて杏樹を突き飛ばすように離した。


 でも、杏樹はそれくらいで突き飛ばされなかった。


「なによっ! 桜先生に怪我させといて! 


 橘さんが、桜先生のシャベルを取ったからこうなったんでしょ!


 まずは先生に謝るのが先でしょ!


 橘さん、桜先生の指を怪我させたんだよ!


 ピアニストの指に傷つけたんだよ!


 それなのに謝ることもできないの?


 先生が明日からピアノ弾けなくなったら、橘さんのせいなんだからね!」


杏樹がそう叫んだ瞬間、憲一さんの動きがピタリ、と止まった。


 まるで時間が止まったみたいだった。


 杏樹を見ると、憲一さんを、刺すような怒った目線で見上げ、睨みつけていた。



 子供なのに、自分よりもずっと年上な大人に反論するなんて、よほど勇気がいるだろう。たとえそれが正論でも・・・

 

 私が杏樹くらいの頃は、そんなこと出来なかった。そして今でも・・・出来ない。


 一方憲一さんは・・・子供にそんなことを言われたからか、羞恥と後ろめたさが混ざったような顔をした。


 そして。


「ガキの癖に偉そうにっ!」


 低い声でそう言うと、私のバッグを持つと、私の腕を引いて玄関から出ようとした。


 それでもついて来ようとする杏樹に、私は言った。


「杏樹、家に戻っていて。


 後でまた連絡するから」


 私がそういうと、杏樹は足を止め、一瞬考え込んでから、


「わかった・・・桜先生がそう言うなら、そうする」


 と頷いた。そして、ぱたぱたとレッスン室へ戻り、ピンク色の手提げ袋を片手に、玄関に戻ってきた。


「今日はこのまま帰るね。先生」


「うん、送ってあげられないけど、気を付けて帰るのよ」


「大丈夫!まだ明るいから!


 それじゃ、先生、さようなら!


 指、お大事に」


 そう言って私にお辞儀すると、もう一度憲一さんをきっと睨みつけて、玄関から出て行った。


 後に残った憲一さんは、不満そうに杏樹の背中を見ていた。


「・・・なんで俺より桜のいう事を聞くんだよ!」


「当然でしょ!人徳の差」


 冷たく憲一さんにそう言うと、憲一さんは俯いてため息をついた。


「お前、杏樹とはよく連絡してるのか?」


「うん、レッスンのこととかあるしね。杏樹のママに連絡するよりも気楽よ。夏休みだから、確実に家にいるしね」


憲一さんは、苦虫を噛み潰したような顔をした。そして小さい声でなにやらつぶやいていた。


それは、“俺にはメール一本くれないくせに・・・”と聞こえたけど、それにはあえて反論しなかった。


「ま、いいか。


 それより病院行くぞ。


 由香里ちゃんの所でいいよな?」


「ほかの病院は行きたくない」


 憲一さんは私から車のキーを奪うと、私を助手席に座らせ、運転席に座り、さっそく出発した。



 住宅地から、メインのバス通りに差し掛かった時・・・


「ごめん・・・桜・・・」


 エンジンの音にまぎれてしまうほど、小さな声で、憲一さんはそう言った。


「いいよ。もう・・・」


 今日は雨が降るかもしれない。本気でそう思った。


 それは、彼が、こんな風に謝ってくれたからだし。


 私が、珍しく、彼に対して素直に接することが出来たから・・・



 きっと、杏樹が、あの時、憲一さんの腕に噛みついて。


 憲一さんにたてついたから・・・


 あれは、きっと。


 子供の頃の私が、彼に対してやりたくて、そして出来なかったことだったから・・・


 彼から酷い仕打ちを受けた私こそが、彼に言わなくちゃいけなかったこと。


 それを、時間を超えて、私の代わりに言ってくれたから・・・


 不思議と、あの杏樹を見たとき、心がスッと軽くなった。


 ずっと胸につかえていた物が、溶けてなくなったように、軽く感じた。


(本当にあの子は・・・不思議な子だ・・・)


 車に揺られながらそう思った時、由香里の診療所の建物が見えた。 





・・・・・・・・・・・




「一体どういうつもり?


 ピアニストの指にこんな怪我させるなんて!


 信じられない!


 仮にも橘さん、ピアニストのマネージャーやってるんでしょ?


 そのマネージャーがピアニストの指傷つけて!


 何考えてんの?」


 病院に着くと、憲一さんは受付に事情を話した。すると、由香里はすぐに私を診察室に通してくれた。


 そして、血だらけの私の指を見て絶句し・・・そして、憲一さんに悪態をつき始めた。


「だから、悪かったって思ってる!


 もう言うなよ!」


 憲一さんも、よほど懲りたのか、気まずそうにそう答えている。



 私の指は、派手に血が流れていた割には、思ったほど傷は深くはなく、骨にも異常はなかった。それでも数日は ピアノが弾けなくなりそうだ。

 

 私の手の処置をしながら、由香里は憲一さんに怒られっぱなしだった。

 

 さっきは杏樹にも責められていたし、職業柄、普段あんまり怒ったりしない由香里にまで怒鳴られ、憲一さんは反論ひとつ出来ないようだ。


「秋のコンサートは・・・」


「心配ないわ。膿まなけりゃすぐに治るわ。化膿止め処方しとくわね。2,3日中にもう一度来て」


「あ、来週私、帰省するんだけど・・・」


「そっか、ドイツに帰るんだっけ?」


 由香里の言葉に、私は頷いた。私が毎年この季節に帰省するのは、由香里も知っている。


「じゃ、出国前にもう一度来て。傷の様子見てからテーピングも渡すから」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 持つべきものは、親友兼町医者。こんなことを言ってしまうと由香里に失礼だけど。


 子供のころから、この診療所にはお世話になっている。風邪をひいたときも、怪我をした時もそうだ。由香里のお父さんが、ずっと診てくれていた。


 そして今・・・帰国してから2年。相変わらずこの診療所で診てもらっている。由香里のお父さんはもう引退してしまって、たまにしか診察室にはいないけど、ちゃんと由香里が診察してくれる。


 気心知れている友達とそのお父さんが医者、こんなに心強いことはない。


 私は由香里にお礼を言って診察室から出ようとすると、由香里は「どーいたしまして。お大事に!」と、私に軽く手を振ってくれた。



 一方、憲一さんは、由香里にまで怒鳴られ、すっかり肩を落としていた。言葉数も少なく、どこか寂しげだ。


 ざまあみろ! と思う反面、少しだけ、ぐらりと心が動いたけど、それを私は知らんぷりした。



 言葉数が少ないまま、会計を済ませ、車に乗り込むと


「桜、その腕じゃ・・・何かと不便だろ?


 身の回りの事、やってやるから・・・」


 まるで意を決したようにそう言った。けど。今日はもう週末。週明けから私はドイツに行く。


支度もあるから、週末は仕事を入れていない。


「いいよ。もう・・・仕事もないし、ドイツに行くから。帰国する頃には落ち着いてるよ」


 憲一さんの世話は必要ない。そう言いかけて、さすがにそれはやめた。ただでさえ由香里にどなられ、先日は師匠にも怒られているのだ。これ以上言ったら、彼のプライドを傷つけるだろう・・・



 ・・・一瞬、彼のプライドなんてズタズタに傷つけてしまえば私もスッキリするのかな? そんな誘惑にかられたけど、それは何の意味もないことだ。


 先週の師匠との話で、憲一さんとの不毛な関係は終わったのだ。そして、もう一度始めるつもりも・・・なかった。


「・・・そうか・・・」



 彼は、それ以上、何も言わなかった・・・


 妙な感じだ。


 いつもだったら、ここできっと彼は、『母さんがそうしろっていうから・・・』と、当たり前のように師匠のことを出して、私が断れないようにする。


 妙だな、と思う反面、これが正常なやり取りなんだな、と実感した。






 親密でも、甘くもない。


 今までのような無感情で一方的なものでもない。


 感じたこともないような空気が、私たちを包んでいた・・・






・・・・・・・・





 家に着くと、玄関の前に、何かが置いてあった。


「??」


 見慣れたピンク色の手提げ袋。キルティングの布で作られている、一目で、杏樹のママが杏樹のために作ったのだ、と判る手提げ。いつも杏樹が持ち歩いているものだ。


 普段はこの中に、ピアノの教本や音楽ノートを入れて持ち歩いている。杏樹のものに間違えない。


「それ、杏樹のか?」


 一緒についてきた憲一さんに聞かれて、私は頷いた。


 それを手に取って、中を見てみると、一番上に、音楽ノートを破った紙が置いてあり、見慣れた杏樹の文字が書かれてあった。


『さくらせんせいへ』


 平仮名で書かれていた。


『せんせいへ


 ゆびのけがはへいき?


 「あたし、あのあとひとりで、たいむかぷせるさがしたら、すぐにみつかったよ。


 せんせいのだいじなものだから、このふくろにいっしょにいれておくね


 あんじゅより』


 そう書かれていた。


 時計を見ると、杏樹と別れてから二時間弱。いったん家に戻って、もう一度来たのかと思ったけど、そうではなく。別れた後、家に帰らず、途中で戻ってきて、ここでまた庭を掘っていたようだ。


 よく見ると、このメモ書きの手紙も、このピンク色の手提げ袋も、泥で少し汚れている。


 そして、この手提げ袋の中には、薄汚れた小さな缶のバッグが入っていた。


子供向けの、キャンディーが入って売っているような四角い缶バック。所々さびているし、触ってみるとガサガサしているけど、心持ちひんやりとしていた。


 杏樹が、洗ってくれたのだろうか? 少し湿っているような気がする。


 

「杏樹…」


 あの後、庭で。


 たった一人で、これを探してくれたの?


 それだけで、何とも言えない気持ちになった。


「・・・それが・・・さっき言ってたタイムカプセルか?」


 後ろでは憲一さんが、私の手元を見ながらそう聞いてきた。聞いた、というより、確認、といった感じだ。


 私はそれに答えず、手提げ袋ごと、それらを大切に持って、部屋に入った。


「おい、桜っ!」


 憲一さんを無視したせいか、彼は不満顔だ。でも、それにかまっていられない。私と一緒に部屋に入ってくる憲一さんさえ無視して、部屋に入ると、リビングのテーブルにそれを置いた。


 何を埋めたか。今、思い出した・・・・





 二十年前の夏。


 私はこのタイムカプセルを庭に埋めた。


 中には・・・




 私は、近くにいる憲一さんを無視したまま、その小さな缶バッグを開けた。


 缶バッグは、キィィ、と独特な小さな音を立てた。


 中には、小さく折りたたまれた薄汚れた便箋と・・・・


 おもちゃの指輪が一個。



 小学二年の夏祭りの夜、憲一さんが夜店で買ってくれた、ピンク色のガラスの指輪。


 そして、便箋には・・・あの頃の私の文字。


 今の杏樹と大して変わらない、ひらがなばかりの文字だった。


『けんちゃんと、ずっといっしょにいられますように』


 けんちゃん、とは、憲一さんの事だ。あの頃私は、彼の事をそう呼んでいた。


 憲一さんと、ずっと一緒にいること。


 これは、当時の私の、夢だった。



~~~~



 夏祭り、夜店でけんちゃんに指輪を買ってもらった。


 あの数日後から。


 けんちゃんは、急に私に冷たくなった。


「けんちゃん、あそぼう!」


 隣に訪れ、そう声をかければ、けんちゃんはいつも遊んでくれた。


 でも、あのお祭りを境に、遊んでくれなくなった。


「忙しいから、駄目」


「またな、桜」


 そう言って家の奥へと引っ込んでしまう彼の表情からは、それ以前に感じていた、温かさが消えていた。


 夏休みが終わり、学校が始まってからも。


 以前のように近づくと、けんちゃんは私がそばに近づくことさえも嫌がった。


 そして、



 秋が深まった頃から。


 けんちゃんに近づくと。すごい剣幕で嫌がられた。


『ガキの子守なんかゴメンだ!』


『あんなくそガキ、興味ねぇよっ!』


『母さんの頼みだから、仕方なく仲良くしてやってんだ!』


 会うたびに、そんな言葉を投げつけられるようになった。


 


 ・・・なんで?どうして?


 どうして急に、けんちゃんは冷たくなったの?





~~~~~ 





 今だったら、その理由が、なんとなくわかる。


 当時中学1年だった彼にとって、小学2年だった私は、確かにガキだったし、そんなガキを相手にしたり、面倒見たりしていれば、周りの彼のお友達だって冷やかしたりするだろう。・・・それが、けんちゃんは嫌だったのだろう。


 今だったら、それがわかる。


 でも、当時は、彼がどうしてこんな風に豹変したか、判らなかった。理解できなかった。


 ただ、大好きだったけんちゃんに拒絶された、その事実だけが、ショックだった。


 ショックで、悲しくて、さみしくて・・・


 

 拒絶された理由が、私が「子供っぽいから」だと思った。





 だから・・・


 あの日。私は。


 夏祭りで、大好きだったけんちゃんからもらった指輪を、こうして埋めた。


 いつか、私が「子供」じゃなくなった時。またけんちゃんと仲良くできる・・・そんな一縷の望みと一緒に。


"けんちゃんといつも一緒にいられますように"


 便箋に書かれたこのフレーズは。


 あの頃の私の、ささやかな願い。


 けんちゃんから、悲しい言葉を言われるのは耐えられなかった。


 でも、けんちゃんの事を嫌いになることも、出来なかった。


 だから、いつか私が大人になれば・・・


 またけんちゃんと仲良くなれると思っていた。


 だから、私は指輪とこの便箋を、庭に埋めて・・・一緒に子供っぽさも埋めた。


 タイムカプセルを埋めた日。それは・・・私が、子供でいることを辞めた日だった・・・




 運命はとても意地悪で。


 私が物分かりのいい「大人」を演じ、それを周りが受け入れるようになると。

 

 周りはさらに「大人」を私に要求するようになる。


 私がそれをまた受け入れると、周囲はまた「大人」を要求し・・・


 小学4年の時、ピアノのジュニアコンテストで優勝した時には、周囲は私を、「子供」として扱わなくなっていた。


 そうやって私は・・・いつしか「子供らしさ」を失っていった・・・



 家は隣同士、同じ時間を過ごしながら。


 私は子供らしさを失ったまま成長した。


 けんちゃんは、いつしか私とは全く関わらなくなっていった。


 悲しかったのは最初のうちで、いつしかそんな感情を見ないふりするのにも、慣れてしまった。


 あのタイムカプセルを埋めた事も、あの時の気持ちさえも、「子供の頃の事」として、すっかり忘れていった・・・


「けんちゃん」と呼んでいた彼の事を、いつしか「憲一さん」とよそよそしく呼ぶようになっていた。




 そのまま成長し、留学し、私はピアニストになった。


「大人になりたい」と思った当初の目的さえも忘れて。


 憲一さんへのほのかな恋心も、胸の奥に封じたまま・・・



 帰国したとき、彼は、「師匠のマネージャー」となっていた。


 そして、「師匠のマネージャー」として、私と向かい合っていた。


 彼と向かい合えるのは、少しだけ嬉しかったけど。


 所詮「師匠のマネージャー」と、「師匠の弟子」という関係以外にはなれなかった。


 「師匠がそうしろって言っていた」という言葉が、いつしか彼の常套句となっていた。


 その現実に傷つきながらも・・・その傷さえも、見ないふりをし続けた。


 ずっと・・・ずっと・・・



 報われない恋心と一緒に、見ないふりし続けた・・・





「なんだよ、それ・・・なんて書いてあるんだよ!」


 タイムカプセルに入っていた便箋を、彼はすっと手を伸ばし、私の手から奪って読もうとしたけど。


 私はそれを一瞬で握りつぶした。


古びた紙は、それだけで粉々になった。それは思った以上にカサカサで、まるで命をなくした枯葉のように、ザラザラと粉のようになって落ちていった。


「って、おい!」


「憲一さんには・・・関係ないから・・・」


 長年意地を張り続けた私の心は、もう彼に対して素直になることなど、出来なくなっていた。


 大人になりたい、と思ったのは彼のためなのに。


「大人」であるが故に、素直になれなくなってしまった。




「なあ、この指輪ってさぁ・・・」


 缶バッグの中に入っているピンクのガラスの指輪を眺めながら、彼はぽつり、といった。


「昔、お前に買ってやった奴だろ?」


 彼のその言葉に、私は答えることが出来なかった。


 私は、手のひらにその指輪を乗せたまま、項垂れていた。




 ずっと忘れ続けていた、思い出したくもなかったあの頃の思い出が、


 前触れもなく、抉られた気分だった。


 忘れたままの方が、よかった。


 思い出しても、報われない想いだったら。


 いっそなかったことにして、大人のまま、生き続けたい。



 子供の時、置いてきぼりにされた、私のほのかな恋心は、


 いまだに心の中で、身動き一つ出来ないまま、燻っている。


 そんな思いも何もかも、


 タイムカプセルと一緒に埋めなおして。


 無かったことにしてしまいたかった・・・



「桜・・・」


 指輪を握ったまま、うなだれている私に、憲一さんは、今までにない程、心配そうに声をかけてくれたけど。


 私はそれに答えることもできないまま、項垂れたままだった。





######




次の章



「あんじゅへ


 タイムカプセル、掘り出してくれて、ありがとうね。


 あの中には、子供の頃、とっても大切にしていたものが入っていました。


 ドイツから帰ったら、そのお話もするね」




 週明け。


 空港に、少し早目に着いた私は、搭乗時間までの間、カフェでコーヒーを飲みながら、杏樹に手紙を書いた。


 空港のショッピングモールで、かわいらしいキャラクターの夏季限定のポストカードが売っていたので、それを買って、書いている。


 杏樹の笑顔が目に浮かんだ。


 いったいどんな思いで、あのタイムカプセルを掘り出してくれたんだろう?




 書き終わって、空港内のポストに投函した。



  あのタイムカプセルを見た後から。


 憲一さんは私の前に姿を現していない。


 週末だったし、師匠の仕事に付き添っていたのだろう。そうなってしまえば、私にかまう暇なんかなくなる筈だから。




その代わり、昨日の夜遅くに師匠がうちに来た。




『由香里ちゃんから聞いたわよ。憲一が、あなたの指、怪我させたってきいたけど、どういうことなの?』


師匠の声は、今まで聞いたこともないほど、固かった。


「大した怪我じゃないですよ」


ことさら憲一さんをかばって言ったわけではない。でも大騒ぎする必要もないと思った。でも、師匠はすごい剣幕だ。


「だからあの時憲一に言ったのに!


何ら間違えがあったらどういうつもりって・・・・


 こういう事になってからじゃ遅いのに!


あの子は、事の重大さに全く気付いていないっ!」


師匠は激怒していた。こんなに師匠を、私は今まで一度だって見たことがなかった・・・


「先生、もういいですから。


 大した怪我じゃないし、ドイツから戻るころには怪我も治ってると思いますから・・・気にしないでください」


 そう言って怒り狂う師匠を宥めるのに、すごく時間がかかった。


ようやっと落ち着いた時。


「憲一は、今後この家に出入り禁止にするわ!


 あなたへの接触禁止よ!」


 そう断言していた・・・・


 憲一には私からよーく言っておくからね、と言っていたけれど。


 でも、最後に一言だけ。


「憲一の事は、嫌いにならないでやって。憲一への恨み言も文句も、全部私が聞くから・・・」


 と、さっきまでの怒りとは矛盾するようなことを言っていた。


 それはきっと、憲一さんの"母親"としての立場と、自分の息子に対する、ひとかけらの"甘さ"が、そうさせているのだろうな・・・


 私は、師匠のその一言だけは、聞かないふりをした。




 私はといえば。



 師匠と対峙して以来、憲一さんに対する恋愛感情のようなものは、すっかり冷え切ってしまっていた。


 頭では分かっていたけど、所詮は私の一方通行。


 しかも彼は、ただ"寂しかった"というだけの理由で、嘘までついて私をしばりつけていたのだ。



 ・・・もう、嫌だ・・・



 憲一さんとは、あの怪我の日以来会っていないけど。


 しばらくは、会いたくなかった・・・


 

 テーブルの上には、あのタイムカプセルに入っていたガラスの指輪が一個。


 くすんだ色をして、所在なげに転がっていた・・・・




 週明け。出国の朝。


 私は誰にも何も言わずに、家を出た。



 今は、何よりも彼に会いたくなかった。


 会ってしまったら・・・また、タイムカプセルに封じ込めた自分の気持ちと、向かい合わなくちゃいけなくなる。


 それは・・・嫌だった。


 もう少し、時間が欲しかった・・・


 だから、ドイツに行くのは都合がよかった。


 一週間程だけど、彼から離れて、一人で考えたかった。


 今までの事、これからの事・・・全部。


 だからこそ・・・彼には今、会いたくなかった・・・




 コーヒーを飲みほした時。突然携帯が鳴り響いた。


 見てみると、メールが届いていた。


 それは、憲一さんからだった。



 一瞬、メールを読むことを躊躇した。


 読みたい気持ちと、このまま消してしまいたい気持ちが混ざって、変な気分だった。


 心なしか、指先が震えて、それを止めることも出来なかった。



 しばらく考えた後、私は大きく深呼吸して、そのメールを開けた。


 すると、絵文字も何もない、彼らしい飾り気のない文字で。


『道中気を付けて』


 と、それだけ書かれていた。



「・・・」


 きっと、帰国したら。


 また、今まで通りの不毛な関係が続くのだろう。


向かい合うだけ、苦しいだけ、何も生み出さない、ただ時間と心を消費するだけの人間関係・・・


 私と彼の人間関係は、もう元には戻れないような気がした。


 ならばいっそ、会わずに済むならそうしたい。


 でも、それも出来ないだろう。



「・・・・・・・」



 私は、ため息を一つ、つくと。


 携帯の電源を落とそうとして・・・


 ふと思い立って・・・気まぐれも手伝って、憲一さんからのメールを、下へとスクロールさせてみた。


 すると・・・



『いろいろごめんな。


 帰ってきたら、ゆっくり話がしたい


 時間、開けてほしい』



 たった一言。


 でも。いつもの彼の無機質な言葉ではなく。


 少しだけ、ほんの少しだけ、彼の感情がこもっているような気がした。


 無機質な仮面の下の、不器用な想い・・・


 彼に、そんなものがあるのだとしたら・・・・




 その一言に込められた、

 

 普段は感じられない、彼の、血の通った想いは、


 不思議と、ずっと凍り付いていた私の"何か"に、温かく灯をともした。




「・・・・・・・」


 私は、ゆっくりと、携帯を、大切にバッグの奥へとしまい込んだ。粗雑に扱ったら、彼の"想い"さえも、また凍り付いてしまいそうに感じて・・・・




 帰国して、彼と会ったら。


 以前のように、何もなかったように向かい合おう。


 話し合えるなら、話し合って。


 でも・・・付かず離れず。もう、深く付き合わない。



 それが一番、私が傷つかず、平和なような気がした。




 そう思いなおしたとき。再び携帯が鳴り響いた。


 今度はメールではなく、着信だった。


 ディスプレーを見て、名前を見た途端、自然に顔がほころんだ。


「もしもし?」


「もしもし?さくらせんせい?」


 電話の向こうからは、杏樹のあの元気な声が聞こえた。


「杏樹・・・」


『せんせい、今日ドイツに行っちゃうんだよね?』


「うん、今、空港にいるの」


『そっか!間に合ってよかった!』


 杏樹はそう言うと、えへへ、っと電話の向こうで笑っていた。


「どうしたのよ?」


 不信に思っていると、電話の向こうから、少し神妙な声が聞こえた。


『先生、行ってらっしゃい!気を付けて行って来てね』


 いってらっしゃい・・・


 何気ない挨拶なのに。


 どうして杏樹が言うと、こんなにも温かい、優しい気持ちになれるんだろう?


 憲一さんの事もあって、あんなにも心が沈んでいたのに・・・


 杏樹の声を聴いただけで、こんなにも、心が軽くなる・・・


『先生?どうかしたの?』


「え?なんでもないよ?」


『本当に?』


「うん!杏樹から電話が来たから、びっくりしただけ」


『うん!驚かしたかったんだ!』


 杏樹は嬉しそうだ。


 次に杏樹と会う頃は、もう新学期が始まっているはずだ。ランドセルを背負って、午後、家に来るのだろう。


「次に会うのは、九月のレッスンだね」


『うん!ちゃんと練習しておくね!』


「・・・楽しみにしてる・・・」


 そんなちょっとした言葉を交わして、私たちは電話を切った。


 携帯をカバンにしまいながら・・・気が付くと私の顔は笑っていた。


 憲一さんの事、杏樹とのこと。


 帰国したら、またひと悶着あるのは目に見えている。


 でも・・・


 また杏樹に会える。そう思うと・・・そのひと悶着も、"まあ、いいか"と思えてしまう。


 それは、杏樹の性格ゆえなのか、私が慣れてきたからかは、判らなかったけれど・・・




「さて。そろそろ行くか」


 私は立ち上がり、カフェを出ると、搭乗カウンターへと向かった。



 


 八月の最後の週・・・私の夏休みの始まりだった・・・






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