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夏の章 第2話

 

 小学校は、夏休みとなった。


 ・・・・杏樹もそう言ってたし、毎朝見ている情報番組でも、『学生さんは夏休み』だと言っていた。


 けど、子供が夏休みだからと言って、私の生活はあまり変わらない。


 市内と都内にある教室で高校生や大人のピアノレッスンをして。


 月に何度かある、演奏や伴奏のお仕事をして。


 秋に開催される私自身のコンサートの準備もして。


 充実しているし、忙しいけど、あまり変わり映えのない日々だ。


 


 唯一、代わり映えがあるとしたら、私の休日くらいだろうか?




 夏になり、私の、週に一度の『休日』は完全になくなった。


 なぜなら、杏樹のレッスンが、学校帰りの午後から、午前中になったからだ。


 


 それだけなら、午後はお休みになるはずなのだけど。


 杏樹は、午前中、うちでレッスンをすると、そのままうちでお昼を食べて、時として夕方までうちにいるのだ。


 それは約束してそうなったわけではなく。


 ごく自然に、そうなっていた。


 今まで、休日の日にやっていた、お部屋のお掃除やら洗濯やら食料の買い出しは、ほかの日の仕事の帰りや、早く仕事が終わった日にまとめてやることになった…


 それでも、私は、不思議と杏樹と過ごす、この「休日」ともとれない「休日」が、不思議と楽しみとなっていた。




 子供なんて、好きではなかったのに。


 家でレッスンするなんて嫌だったのに。


 ましてや、憲一さんから『師匠の頼み』そう言われて、半分くらい、“仕方ない”という気持ちで教えていたのに。


 そりゃあ、杏樹を教える、と最終的に決めたのは私自身だ。


 あの、杏樹と初めて会った日、杏樹とお話ししてみて、教えてみよう、と思ったのは、ほかならぬ私だ。


 それでも、自ら進んでその役を買って出たか、と聞けば・・・それは違う。


 やらずに済むなら、やりたくなかった。


 


 休日は、自分の時間として、ゆっくりと過ごしたかったし、今までそうしてた。


 ピアノを弾くのは好きだし、仕事も好きだけれど、それで休日や自分の時間がつぶれるのは冗談じゃない。


 

 なのに、杏樹と過ごすこの時間が、嫌ではなかった。


 杏樹が家にいると、ゆっくり時間を過ごす・・なんていう私の理想の休日とは正反対だ。


 杏樹のいる時間の大半は、彼女のおしゃべりに付き合わされるし、


 練習だって、満足にやってきているわけではない。

 

 以前より少しはマシになったけれど、いまだに楽譜は満足に読めない。


 いい生徒か? 優等生タイプな生徒か? と聞かれれば・・・・はっきり言って、違う。


どちらかといえば、クラスに一人や二人いる『騒ぎ箱』的な子だし、小学生時代の私と今の杏樹が同じクラスだったりしたら、絶対一緒に遊んだりしないタイプの子だ。






 でも、私は。


 なぜか、杏樹と過ごす、この時間が、嫌ではなかった。


 憲一さんに言われて、半ば仕方なく教えているところも、勿論ある。


 仕方なく、ではあるけれど、何か月か教えていると、情が移る、ということだろうか?



 そんな過程はわからない。


 でも。


 杏樹の事を、私は嫌いではなかった。


 その気持ちだけが、全てだった。







「杏樹…その荷物、なに?」


 レッスンのためにうちに来た杏樹は、いつも持っているピンク色の手提げ袋のほかに、もう一つ、ビニール製の水泳バッグを持っていた。


 すると杏樹は、満面の笑みで、答えた。


「今日はね、この後、学校のプール開放日なんだよ!」


 杏樹に聞くと、どうやら夏休みのうち、何日かは学校のプールに入れる日があるらしくて、今日はその日らしい。(そんな制度、私が子供の時はなかったので、ちょっと驚いた)


「ほらっ!ちゃんとママに水泳カードも書いてもらったの!」


 杏樹は、水泳バッグをごそごそと漁ると、中から厚紙で作ったカードを引っ張り出した。それには、杏樹の体温と、親の承諾印が押してあった。


 そういえば、私が小学生の時も、水泳の授業の時は、こんな風に体温と親の承諾印を押した水泳カードを学校に出していたっけ?

 

 杏樹は私の目の前・・・の言うより顔の前至近距離に、嬉しそうに水泳カードをばっ!と出した。そしてそれを、見るともなく見ながら・・・


 ふいに、そのカードの裏の注意事項に目が行った。


『1~4年生は、保護者、または大人同伴でお願いします』


 注意書きの中に、その一文を見つけた。


「ねえ、杏樹?」


「なあに?」


「プールって、一人で行くの?」


「プールで、お友達と待ち合わせしてるの!」


「その・・・だれか、お友達のお母さんとか、来るの?」


そう聞くと、杏樹は、ぴたり、と動きが止まった。


「うん! のんちゃんのお母さんが来てくれるって!だからママがいなくても平気!」


 満面の笑みでそう言う杏樹の口調は、さっきと少しも変わらない。


「そっか・・・ならいいんだけど・・・」


 私はそう言いながら、少し、嫌な予感がした。


 言い表し様もない、根拠も何もない、予感だった。


 でも、きっと杏樹のお友達のママが同伴みたいだし・・・大変なことにはならないだろう。大丈夫・・・


私はそれ以上、心配事も否定的なことも、何も言わなかった。


 何より、プールに行くのが楽しみで楽しみで仕方ない・・・杏樹の全身からそんな気持ちがにじみ出ていた。そんな杏樹に水を差すようなことは言えず、『それじゃ、レッスンしようか?』と、私はいつものように杏樹に声をかけた。




 レッスンが終わり、いつものように杏樹のおしゃべりに付き合い。


 用意してあげたお昼ご飯を、杏樹はまるでかきこむように食べて、


「ごちそうさま! それじゃ、先生、さよーなら!」


 杏樹にしては珍しく、てきぱきと帰る準備をすると、ピンク色の手提げ袋とプールバッグを持って、駆け出すようにうちを出ていった。


「楽しんでおいで・・・」


 心に残る心配事を、それ以上口には出さず、私はそう言って彼女を送り出した。





 ところが・・・


 私の不安は見事に的中した。


 杏樹が出て行って、お昼ご飯の片付けを終えて、私自身のピアノレッスンをしようと、レッスン室に入ろうとした、その時。


『ピーンポーン』


 玄関の呼び鈴が鳴り響いた。


 宅急便かと思って、何も考えずに“はーい”と返事をして、玄関を開けると・・・


 玄関の前には、近所のおばさん・・・先日杏樹にアイスを分けてくれた、あの近所のおばさん・・・が立っていた。そしてその横には、杏樹が真っ赤な目をして立っていた。


 ついさっきまで泣いていたのだろうか?泣きはらしたような・・・あるいは今にも泣きそうな顔をしていた。


「どうかしたんですか?」


 私は杏樹ではなく、おばさんに聞いてみた。今の杏樹に、ちゃんと受け答えができなさそうだったから。


「実はね、杏樹ちゃんがそこの道を、泣きながら歩いてたから・・・どうしたのって聞いたら、プール入れなかったって・・・」


 おばさんがそう言い終わるか終らないかのうちに、杏樹は、私に抱き付いてきた。


「杏樹っ!」


 杏樹は、私に抱き付くと、本格的に泣き出した。


「・・・学校に行ったら、お友達、先にプールに入ってたのっ」


「うん、それで?」


 私は杏樹の背中をやさしくさすりながら、杏樹の言葉の続きを待った。


「のんちゃんのお母さんが来ていて、みんなは、のんちゃんのお母さんがいたからプールに入れたんだって」


「・・・・うん・・・」


「でもっ、私は、大人の人が一緒じゃなかったから、プールに入れなかったのっ・・・」


 どうやら杏樹達は、その、のんちゃんのママが同伴者、という事でプールに入る予定だったらしい。

 

 でも、手違いがあったのか、杏樹が待ち合わせに遅れたのか、杏樹以外のお友達は、そののんちゃんのお母さんが付き添い、という事で、すでにプールに入ってしまっていて、杏樹が待ち合わせ場所についたとき、すでにお友達の姿はなく。


 仕方なく、杏樹一人でプールに入ろうとしたら、“(杏樹は)大人の同伴者がいないから”という事で、入れなかった・・・という事らしい。


 学校側も、もうちょっと融通利かせてくれてもいいものなのになぁ…。


 私は泣きながら話す杏樹の話を聞きながらそう思った。


 そして、泣いている杏樹をここまで連れてきてくれたおばさんにお礼を言うと、おばさんは「いえいえ、どういたしまして」といつもの笑顔を 残して、帰って行った。


 私はとりあえず、杏樹を家の中に入れて、杏樹が泣き止むのを待った。


 よっぽど、プールに入れなかったのが悲しかったのか、杏樹はなかなか泣き止まなかった。


「プール・・・そんなに入りたかったの?」


 私は杏樹をさっきまでお昼ご飯の時に座らせていた椅子に座らせて、私は杏樹の前にしゃがみ、同じ目線の高さになった。


 杏樹はうん、と頷いた。


「入りたかった!


 だって、夏休みなのに、ママはお仕事忙しくって、あんまり遊びに行けないしっ、プールだって、大人の人が一緒じゃなきゃ入れないのにっ・・・今日だって、やっとお友達と予定合わせて、行ける事になったんだよ。


 ずっと前から約束してたのにっ・・・


 先に入っちゃうなんて、ずるいよっ・・・」




 ああ。そうか。


 私はなんとなく、納得した。


 悲しいのは、泣きたいほど悲しいのは、プールに入れないから、だけじゃない。


 お友達に・・・仲良しなお友達に、置いてきぼりにされてしまったのが、悲しかったんだ。


 それでも、杏樹一人で、お友達のいるプールに入れれば、まだよかった。


 でも杏樹には大人の同伴者はいなくて。入りたくても入れない。


 プールのフェンス越しにはお友達がいるのに。みんな楽しそうにプールに入っているのに。

 

 杏樹一人だけ、入れない・・・


それが悲しかったんだね・・・




 泣きじゃくる杏樹を見ながら。。。



 どうにかしてあげたい。



気が付くと、私はそう思っていた。


 私は時計に目をやった。時間は1時半。外は、一日で一番暑い時間帯になる。


「ねえ、杏樹? プールは何時までやってるの?」


「…夕方の四時」


「そのプールに同伴する大人は、プールに入らなくていいんでしょ?」


 私がそう聞くと、杏樹はうん、と頷いた。


「プールの端に、見学者席があるの。そこにいればいいの」


 泳がなくていいんだな・・・よかった。内心そう思ってから。


「よし、わかった。じゃ、私がついて行ってあげるよ」


 正直言ってしまえば、面倒事はあまり好きじゃない。出来るなら、未婚なのに子供の引率で小学校に・・・なんて、あまりやりたくない。


プールだって、本当はあんまり好きじゃない。


夏の日差しに当たると、私の肌は日焼けせず、代わりに真っ赤になってしまう。結構痛くなる。


 でも、目の前で泣きじゃくる杏樹を、これ以上見たくない。


「・・・本当?・・・」


 不安げにそう聞く杏樹に、私ははっきりと頷いた。そして、


「すぐ支度するから、待ってて」


 そう言って杏樹を待たせ、私は支度をした。


 日焼けしないように腕に日焼け止めを塗って、更に日除けの手のカバーを付けた。目深でつばの少し広い帽子を被って、暇つぶし用の文庫本を2,3冊と、水筒に麦茶を二人分・・・


 支度しながら、学校近辺に駐車場はなかったっけな・・・と思いを巡らせた。確か、学校から少し離れた、いつもよく行く郵便局の裏手に有料駐車場があったっけな・・・と思い出して。


 今から車で急げば、杏樹がプールに入れる時間が多くなるな、なんて考えながら、私は杏樹と一緒に小学校へと向かった。




「桜先生!早くー!置いてっちゃうよ!」


 学校につくと、杏樹は走り出しそうな勢いでプールのほうへと向かっていった。慌てて私も杏樹の背中を追いかけた。


 小学校は、10年以上昔に私が卒業した小学校だった。校舎も施設も、あるものは補修されていて、またある建物はあの頃以上に古くなり、私がいたころの面影は全くなくなっていた。


 プールも、つい最近修理されたらしくて、私が通っていたころと比べ物にならない程、きれいだった。


 そんな思いに浸る間もなく、杏樹はプールへと向かい、入り口にいる係の人に何やら一生懸命話していた。そして、その入り口にいる人と杏樹が、同時に私のほうを向き、杏樹は私を指さした。


 すると、入り口の係の人が何度か頷き、杏樹をプールに入れてくれた。


 それを追いかけるように、私も、係の人に促され、入り口からプールサイドへと向かうと、プールには、既に20人位の子供たちが入って、泳いだり遊んだりしていた。


 杏樹がプールサイドに来ると、プールに入っていた女の子・・・杏樹と同じくらいの年頃の子・・・が5,6人ほど、杏樹に手を振り、騒ぎ出した。


「あ、杏樹ちゃんだ!」


誰かのその声と同時に、周囲の、他の子まで騒ぎ出した。


 杏樹もその一軍に手を降ると、その子たちはプールから上がり、杏樹のいるプールサイドへと集まった。


「ごめんねー! 杏樹ちゃん、来るの遅かったから、もう来ないかと思って先に入っちゃったの!」


 お友達の一人が、杏樹に抱き付きながら、今にも泣きそうな声でそう言って謝っていた。どうやら本当に手違いだか、すれ違いだかがあったみたいだ。


「いいよー。私も、遅れちゃったもんね」


「でも、入れなくて、おうちに戻ったんでしょ?」


「あの人、だあれ? 杏樹ちゃんのお母さん?」


「違うよ! 私のピアノの先生!!」


「あ!私知ってる! 桜先生でしょ?」


 そう叫んだのは・・・・水着を着ていたし、水泳帽子も被っていて、雰囲気が違ってよくわからなかったけど・・・ひょっとして、この前熱中症で倒れていた、あの子・・・確か、梨香ちゃんといったっけ・・・・ではなかろうか?


「桜先生、って、この前、梨香ちゃん助けてくれた人?国仲先生と森村先生が話してた人だよね?」


「うん、そう!」


 きゃいきゃいと騒ぐ子達は、私の姿を見て、そして梨香ちゃんの話を聞いて、こんにちは~! と明るい声でお辞儀をした。私もそれに挨拶を返すと、プールサイドの端にある、見学者席へと向かった。そこだけは日よけもあり、ベンチもあって、保護者らしき人が数人、座っていた。


 バスタオルを片手に泳ぐわが子を心配そうに見ている母親、私とよく似た日焼け止めと目深な帽子、日焼けしないように長袖を着て、携帯をいじっている母親、プールに入っている子達よりも小さな子をあやしている年若い女性・・・様々だった。


 そのベンチの空いているところに腰掛けながら、杏樹を眺めていると、やがて杏樹は着替えるのか、友達と別れて更衣室へと向かい、数分とかからずに水着に着替えて出てきた。


 そして、嬉しそうにプールに浸かり始め、お友達と一緒に遊び始めた。


 杏樹は、とても楽しそうで・・・それは、今まで見たことのない種類の杏樹の笑顔だった・・・


 バシャバシャと水を掛け合ったり、ビーチボールを投げあったり、ビート板で泳いだり・・


 監視員の、大学生の人に遊んでもらったり・・・


 他学年の、どう見ても杏樹より年上な男の子にからかわれて頬をぷぅっ!と膨らませていたり・・・


 


 



 昼下がり、夏、一日で一番熱い時間帯。


 プールサイドは湿気が凄いし、コンクリートの照り返しも手伝って蒸し暑い。


 けど、少しだけ風が抜けていって、プール独特の匂いと湿ったアスファルトの匂いが鼻をくすぐってゆく。それらは、子供のころ、夏には当然のように私のそばにあったもので、少しだけ懐かしい気分にさせた。


 この匂いも、空気も、いつも私が過ごすレッスン室や教室の空気とも、私の日常とも違うものだった。


暑くて、蒸し暑くて・・・ある意味、季節ピッタリな気候で。


 仕事柄、一日の大半を、空調の整ったところで過ごす私にとっては、あまり縁のない、新鮮で健全な空気だった。


 しかも、小学校のプールなんて、卒業以来、もう一度来ることになるとは思いもしなかった。


 懐かしい気持ちに少しだけ浸りながら、私は杏樹達が楽しそうに遊ぶ様子を、ずっと眺めていた。







 子供のころは、当然のようにあった世界を・・・


 大人になると、いつしか失ってしまう。


 私は一体いつ、無くしてしまったんだろう?




 ・・・きっと、子供でいることをやめたとき。


    大人になるのを余儀なくされたとき。


    子供ゆえに、ひどい言葉を浴びせられた・・・あの頃・・・




『ガキの子守なんかゴメンだ!』


『あんなくそガキ、興味ねぇよっ!』



 随分昔の事なのに、あのときの憲一さんの言葉も、声も、まるで昨日の事のように、はっきりと思い出すことが出来る・・・


 私が、子供でいることをやめた日。


 さっさと大人になりたい、と願った時・・・




「桜先生?」


 突然、声をかけられ、あわてて思いを現実へと引き戻した。


 見るとそこには、Tシャツに膝丈までのジーンズをはいて、帽子を被った国仲先生が立っていた。


「国仲先生、こんにちは」


 私はあわてて立ち上がってお辞儀した。先生は、"そんなにかしこまらないでください"と笑っていた。


「職員室の窓からここが見えるんですよ」


 国仲先生は、校舎の一角を指さした。そこは、職員室らしく、ほかの教室とは雰囲気が違っていた。そして、私がここに通っていた時代も、あの一角に職員室があった。あのころから変わっていないようだ。


「桜ちゃんの声が、職員室まで聞こえてきましたよ。見てみたら、桜先生もいらっしゃったので、来ちゃいました」


 のほほんとした笑顔でそう言う国仲先生に、私は、はあ・・・と曖昧に返事をするしかできなかった。


“来ちゃいました・・・”。一見能天気にそう言う国中先生。学校にいる、ということは、お仕事中のはずなのに、こんな所に来てしまっていいの?


それに・・・先生って、学校が休みになると、夏休みになるんじゃないの?


「先生方は・・夏休みじゃないんですね・・・」


 学校が休みになると、先生方も夏休みになると思っていた。ところが。


「そんなことないですよ。ちゃんと学校に来て、お仕事していますよ。研修もありますし、今日みたいなプール開放日は、交代で子供たちの様子を見に行かないと。バイトの人に任せっぱなしにはできないんです」


 どうやら、プール監視をしている人たちは、近所の大学の水泳部員で、毎年プール開放日には、こうして大学生の人に来てもらっているらしい。


 先生はそういうと、私が座っているベンチの隣に腰かけた。


「あ、国仲先生だ~!!」


 プールから、杏樹の声が聞こえる。杏樹達は、こちらに・・・というより国仲先生に手を振っている。先生も笑顔で手を振り返している。


 生徒に好かれている先生みたいだ。自然に、私も笑顔になった。


「ところで、今日はどうしてここに?杏樹ちゃんの付き添いですか?」


 そう聞かれて、私は頷き、今までの事情を話した。先生は、そうですか・・・と何度か頷いた。そして、


「わざわざありがとうございます。


 杏樹ちゃんは、お母さんがお仕事しているので、保護者が同伴しなくてはいけないところには、あまり来られないんですよ。


 先日の七夕の集いの時も、一人ぼっちでしたから。


 ですから、こうして連れて来てくれて、本当にうれしいです」


「・・・私は、学校関係者でも保護者でもないんですよ?」


 私は未婚で、子供がいるわけではない。本来なら、学校に関わる必要のない、ただのピアノ教師だ。子供たちに、偉そうなことを言える立場ではない。保護者として・・・なんて聞こえがいいけど、保護者らしいことなんか、何もできない。


 けれど、国仲先生は私の不安ごとなどすべて消し去ってしまいそうなほどの、笑顔を見せてくれた。


「いいんですよ。


 こうやって、保護者以外の方でも、学校に関わって、理解して、協力してしてくださる人がいるという事は、学校側としては、とてもありがたいことなんですよ。


 地域の人の協力があっての、教育だと思っていますから・・・」


 そういえば、私たちが住んでいるこの地域は、地域の人が絡む学校行事が多いような気がする。


 この前の七夕の集いもそうだし、それとよく似た学校行事が、年に何度もある。


 私は留学していたし、帰国後はそう言ったことに絡むことは全くなかったけど、私が小学校に通っていたころからそうだったような・・・気がする。


「それに・・・」


 国仲先生は、さらに言葉をつづけた。


「杏樹ちゃんから、桜先生の話を、一学期、本当にたっくさん聞きました。


 とっても優しくて、ピアノが上手で、賢くて何でも知っているすごい人だって、いつも褒めていました。


 私も、杏樹ちゃんの話を聞きながら、どんな先生なんだろう、一度会ってみたいな、って杏樹ちゃんに話していたんですよ。


 ですから、この前の七夕の集いの時、お会い出来たときは本当にうれしかったです。こうして桜先生が、学校に興味を持って、関係してくださったのも、何かのご縁だと思っています」


いや、興味はないです。そう言ってしまおうと思ったけれど・・・辞めておいた。


 それ以上に・・・


想いをちゃんと言葉にできる大人・・・。国仲先生の、言葉や表情が、私の言葉を、止めていた。


 思っていることを外に出さない事・・・子供の頃、それが"大人の条件"だと思った。大人になるのに、"素直"な事は邪魔だと思っていた。


 目の前で屈託なく話す国仲先生は、本当に素敵で、かわいらしい人だけど。それは、外見だけではなく。


 こうやって、思ったことを素直に相手にぶつけることが出来る、この気質も、とても素敵だと思った。


 そして、思ったことを素直に私にぶつけてくる杏樹の表情と、一瞬重なって見えた。


 ・・・杏樹の担任が、この国仲先生で、良かった・・・


 私は杏樹の母親でも何でもない。杏樹の成長に何ら、責任があるわけではない。


 けれど。


 あの杏樹の、素直でのびのびとした性格を、この国仲先生は絶対につぶしたりしないだろう・・・


 子供の頃、私の"人格"が周りの大人につぶされたように。


 あんな悲しい事には、絶対にならないだろう・・・


 

 そう思うと、とても嬉しくなった。






「さくらせんせーーーーー! くになかせんせーーーい!」


 不意に聞こえた杏樹の声は、私を現実に引き戻した。


 みると、見学者席で座って話し込んでいた私と国仲先生を気にしたのか、プールの真ん中で遊びを中断して私に向かって手を振っていた。


 私は、考えていた事たちを心の隅に除けて、杏樹に手を振り返した。





 杏樹は、さっきまであんなに泣き顔だった事なんか、まるでなかったかのように笑い、ふざけ。


 人の輪の中心にいた。




 それだけで、普段、どんな風に学校で過ごしているのか、想像がついてしまう。


「いい子ですね、杏樹」


「ええ、いい子ですよ」


 私は、週に一度しか、杏樹と顔を合わせていない。


 杏樹の全部を知っているわけではないし、知りたいとも思わない。


 でも、あれがきっと、普段の杏樹。


 いつも、学校でもあんなふうに笑顔で、人の輪の中心にいるのだろう。



 そんな杏樹を見ることが出来たのが、少しうれしくて。


 私は持ってきた文庫本をカバンから一度も出すこともなく、プールで遊び続ける杏樹を、国仲先生と世間話をしながら眺め続けていた。






 夕方、プールの時間が終わるころ、国仲先生は職員室へと戻り、杏樹たちはプールから上がり、更衣室へと戻って行った。


 みんな、肌が真っ赤になっていて、きっと明日は、私も含めてみんな、ひりひりと痛むんだろうな・・・と、心のどこかで思いながら・・・





 そのあと、車で杏樹を、杏樹の住むマンションまで送りながら。


 さすがに杏樹は遊び疲れたのか、助手席でうとうとと眠りつつあった。


 杏樹がそばにいるのに、こんなに静かなのは珍しかった。


 私は、自然に、いつもかけているカーステレオの音量を絞った。


 眠っている杏樹を起こしたくなくて、スピードをいつもよりも控えた。


 自然、杏樹の住むマンションに着くまで、少し時間がかかった。



 マンションの前に着いた時、杏樹は完全に眠りについていた。


 一瞬、起こすのをためらった。


 このまま、もう少しだけ眠らせてあげたいような気がした。


 でも、このままでは、下手をするとずっと眠っていそうな気がしたので、私は杏樹に申し訳なく思いながらも、“杏樹”と、名前を呼びながら、軽く肩をゆすって起こした。


 すると杏樹は、ゆっくりと目を開き、一瞬の寝ぼけ眼の後、私の顔を、少し見上げた。


「おうちに着いたよ?」


 囁くようにそういうと、うん、と杏樹は頷いた。とろんとした目をしていたのはほんの一瞬で、少しだけ、真面目な顔をした。


 そして、


「先生、今日、ありがとう!」


 いつもの満面の笑みで、そう言った。


「どういたしまして」


 そういいながら、私は杏樹の髪をそっと撫でた。


 杏樹の髪は、まだ随分濡れていた。


「ちゃんと髪の毛、拭いて、乾かすんだよ」


「わかってる」


 私が母親みたいなことを言うと、まるで実の子供みたいな返事が戻ってきた。


そして、


「それじゃ、先生、さよーなら」


 と、まだ眠そうだがいつもの元気な挨拶と同時に、杏樹は私の車から降り、ぱたぱたとマンションの入り口まで走って行った。


 

 杏樹がいなくなった後の車の中は、どこか静かで。


 さっきまでだって、杏樹が眠っていて、静かだったのにそれ以上に静かで。


 まるで明かりが消えた後のようなさみしさだけが残った。



 私はそのさみしさから目をそらすように、軽く首を横に振り、カーステレオの音量を大きくした。そして、アクセルを踏んで、家へと向かった。




 とある夏の日の出来事だった・・・





 

############




それは、八月の、レッスンの日の事だった。


「桜先生、お祭り行きたい!」


 午前中、杏樹のレッスンが終わって、二人でお昼の冷やし中華を食べていた時、杏樹が突然そう言い出した。


「お祭り? 神社の」


「うん!」


 それは、近所の神社の夏祭りの事だ。


 学校の通学路の途中、この家の近所に神社があり、毎年八月の、ちょうどこの季節に納涼祭が行われる。


 昼間はお神輿や山車が近所を練り歩き、神社の通りには出店が軒を並べ、夜になると打ち上げ花火も上がり、賑わいを増す。


 私も子供のころも、何度かこのお祭りには足を運んだ。不在がちな父に「お祭りがあるから!」と言ってお小遣いをせびって、浴衣を着て、憲一さんに手を引かれて・・・


「行けばいいじゃない。杏樹のおうちから、そんなに遠くないでしょ?」


 確か杏樹の住むマンションからも、そう遠くはない・・・はず。杏樹を車で送るときに、この神社のすぐ近くを通る。


この神社は、私の家と杏樹の住むマンションの中間点位にあるのだから。杏樹にとってはうちに来るよりも、近い筈だ。


 そういうと、杏樹は、うん・・・・と、少し寂しそうな顔をした。


「学校にはね、大人の人と一緒に行ってください・・・って言われてるの。


でも、ママ、その日、大事なご用があって帰りが遅くなるんだって。


だから、お祭りに行けないって言われてるの」


「近所に・・・お友達とか、いないの?」


 いつか、プールに行った時みたいに、お友達のお母さんと一緒・・とかではだめなのだろうか?


「みんな、家族でお出かけだったり、親戚の人が来ていたりして・・・」


「そっか・・・」


 世間は八月のお盆。一般企業も夏休みになる頃。不在なおうちも多いだろう。


 かくいう私も、そのお祭りの日の土日は、担当している音楽教室がお盆休みになるので、お仕事がお休みになる。土曜日にお休みなんて、何ヶ月ぶりだろう。


「仕方ないね。普通のおうちも、お父さんの会社が夏休みになる時期だもん。


 杏樹のママは? 夏休みはいつ?」


「お祭りの後。来週からだって。私もおばあちゃんちに行くの!


 桜先生は、どっか行くの?」


 杏樹の問いに、私は頷いた。


「うん、私は再来週。ドイツの親戚のおうちに行くの」


 お祭りの週末はお盆休みで教室でのレッスンがお休みになるけれど、それとは別に、お盆休みと重ならない夏の終わりの時期に夏休みをもらってる。


 亡くなった私の母の実家はドイツにある。毎年、年末年始とこの季節は、母の実家に帰るようにしている。飛行機の航空券も早割を利用して、かなり早い時期にとってあるし、向こうについてしまえば、母の実家に泊めてもらえるようにしてある。


 母の実家は、母の父母・・・私にとっての祖父母と、母の兄夫婦、その子供(私にとっては従兄妹にあたる)と、大家族だ。私が留学中は、そこにさらに私も下宿していたので、いつも人がいて大騒ぎだった。


母の実家は、代々音楽一家で、祖父も叔父もヴァイオリンやピアノをこよなく愛して、従兄妹たちもそれぞれ音大で腕を磨いているほどだ。家族が揃うと、みんなでアンサンブルをすることもあって、私も良く伴奏させてもらった。


 時々、こうして日本で一人で暮らしていると、あのドイツの家の喧噪がとても懐かしくなる・・・



「それでね、先生! 夏祭りに行きたい!」


 突然杏樹は、脈絡なく話を元に戻した。


「だから、今度の土曜日、連れてって!」


 話を戻し、本題をぶつけてきた。


「私が?」


「うん!」


「夏祭りに?」


「そう!」


「・・杏樹を?」


「駄目?」


 縋るような目をして、そう聞き返す杏樹・・・最近、私は杏樹のこのてのおねだりに弱い。


 この前のプールの時もそうだ。あの日は泣きじゃくる杏樹を、どうにかしてあげたい、と思った。


(私も随分杏樹には甘いなぁ・・・)


 心の中でそうつぶやいた。



 子供は嫌いだ。


 少なくとも杏樹に会う前まではそうだった。


 今も、正直、子供は苦手だ。


 でも、杏樹は嫌いじゃない・・・


嫌いどころか・・・


嫌いどころか・・・

 

「・・・わかった。夕方、うちにおいで。一緒にお祭りに行こう」


私は、心に出かけたフレーズを表に出すこともできずに、そう言うと


「本当? わーい!先生、ありがとう!!!」


 杏樹は、嬉しそうな満面の笑みで、私にそう言った。その笑みは、子供らしい元気いっぱいな笑みだった。


「それでね・・・先生にお願いがあるのっ!」


 杏樹は、珍しく真剣な表情で、私の顔を覗き込み・・・私にその“お願い”とやらを耳打ちした・・・・



「え!」


 その“お願い事”を聞いた途端、私はびっくりして大声をあげてしまった。


「駄目? 先生、持ってない?」


「いや、持ってるよ!持ってるけど・・・」


「だって、せっかくのお祭りなんだよ!」


「いつものじゃダメなの?」


「ダメ!」


 しばらくこんな押し問答が続いた。



 杏樹のお願い事とは。


“浴衣が着たい”


“桜先生も、浴衣を着てきて”


という事だった。



 正直、浴衣なんぞ、殆ど着た事がない。


 いや、持っているわけだから、着た事は何度かある。子供の頃だったら、お祭りで少しは着たことがある。


 でも、大人になってからは・・・お祭りで着たわけではなくて、夏、病院や老人ホームに仲間と一緒に慰問演奏やボランティア演奏に行った時、夏らしい服装を・・・と言って、仲間も一緒に浴衣を着て演奏した・・・それくらいだ。


 お祭りで着たことなどない。そもそも、この地元のお祭りでさえ、帰国してから一度も行ったことがないのだ。


「鈴ちゃんのママが、浴衣を縫ってくれたの!


 せっかくもらったんだから、着たいの!


 だから先生も、一緒に浴衣、着ようよ!」


 

 最近、杏樹のこの手の類の“お願い”にめっぽう弱い。


結局私は、折れることにした。


「・・・わかった。杏樹、浴衣は一人で着れる?」


「・・・着れない・・・」


 まあ、そうだろうな。いくら子供向けに仕立てられている浴衣とはいえ、一人で上手に着るのは無理がある。


「それじゃあ、着せてあげるから、うちに来るとき、浴衣と帯、持ってきてね」


 ・・・夕方、下手すれば夜に杏樹を連れ回すことになるのだから、杏樹のお母さんの了承も必要になりそうだ。


連絡が取りにくい杏樹のお母さん・・・連絡がつかなかったら憲一さんにでも連絡をお願いしよう、と胸の内でつぶやいた。


 そんなつぶやきに気づくわけもなく、杏樹は、嬉しそうにはしゃぎながら、“桜先生、大好き!”と私に抱き付いてきた。



 杏樹の身体は、病気なわけではない筈なのに、妙にあったかくて、優しい熱を帯びていた。


 その熱は、今の私は持ち合わせていないものなのに、ひどく懐かしく、私の中にも昔、あったものだった。


 いったいいつごろ、無くしてしまったのか・・・思い出そうとすれば、すぐに思い出せる筈なのに・・・・心が思い出すのを拒否していた・・・





 

 お祭りの日の当日・・・



 夕方、約束の時間よりも少し早目に、私は浴衣に身を包んだ。


 濃紺に、青の流水と大きな花模様の入った、少し大人びた雰囲気の浴衣は、帰国してすぐの頃、買ったものだった。


 浴衣を着て、普段伸ばしっぱなしの髪を結い上げて、浴衣とセットで買ったかんざしを飾った。そして、いつもとは違う、浴衣に合う化粧をして、すっかりお祭りに行く支度を整えた。




 杏樹が来る約束の時間まで、まだ随分あるけど、杏樹の浴衣の着付けもする事を考えると、私自身の着付けは早めに済ませたほうがいいだろう。


と、もっともらしい言い訳を自分に言いながら・・・


お祭りの日が近づくに従って、私はこの約束が、だんだん楽しみになっていた。


出かけるのはあまり好きじゃない。人ごみはもっと苦手だ。


この約束だって、最初は杏樹に頼まれて「仕方なく」だったはずだ。


それなのに、昨日の夜は、まるで遠足の前の日みたいに、楽しみで眠れなかった。


鏡をみると着飾った私の姿。無意識だったけど、笑っていた。


決まった恋人がいるわけではない。着飾って出かける用など、殆どない。あったとしても、仕事関係だ。女友達もいるけど、私は土日も仕事していることが多いので、休みがあわなくて、女友達と遊びに行くことも滅多にない。


 そう考えると。こうして仕事以外で着飾るなんていつぶりだろう?


もともと、仕事以外で出歩くのはあまり好きではない。休日など、掃除と洗濯と買い出しで終わってしまう。不健康だ、と言われてしまったらそれまでだけど・・・


杏樹のことがなかったら、こんなこともなかったかもしれない。そう考えると、少しは杏樹に感謝しなくちゃいけないのかな・・・。


 ・・・と、その時。玄関先で人の気配がした。と同時に呼び鈴の音が聞こえた。


 杏樹かと思って、あわてて玄関先に行くと、玄関先には憲一さんが立っていた。


「よう・・・」


「・・・何?」


 ぶっきらぼうではない。でも、感情のこもらない声に、短い挨拶にそう応えると、憲一さんは軽いため息をついていた。


「・・・なんだよ?浴衣なんか着て」


「お祭りに、行くの」


「デートか?」


 デート、そう言った憲一さんの顔が、一瞬、少しだけ引きつっていたような気がしたけど、気のせいだろう。


「まさか」


 まさか・・・それを聞いた瞬間、憲一さんは口元だけ少し笑った。


「珍しいな。浴衣なんて」


「中、入る?

師匠のお使いでしょ?」


 普段、家が隣で家族同然なのをいいことに、勝手に私の家に入ってくる彼。でも、私が浴衣姿のせいか、入るのを躊躇しているようだった。


 私は、彼にそう言うと


「入る」


 当然だろ、と言いたげに家の中に入った。どうせ師匠のお使いで来たんだろう。



 リビングに彼を通すと、私は彼にいつもの通り、アイスコーヒーを差し出した。彼はありがと、と言いながらそれを受け取った。


「お前がお祭りなんて、珍しいな。子供のころ以来だろ?」


「うん」


 否定、しなかった。


 最後にお祭りに行ったのは、まだ小学生の時で、やはり今日の杏樹のように、一人で行くことを学校側に禁止され・・・当時中学生だった憲一さんに手を引かれて行ったのだ。


杏樹くらいの歳の頃、だった。


 あれ以来、行っていない。


 もう、何年くらい、あのお祭りに行っていないんだろう・・・



「・・・誰と行くんだ?」


「え?」


「男と、か?」


その言葉には、少しとげがあったような気がした。私は首を横に振った。


「杏樹に頼まれたのよ」


 決して私の意志ではない・・・言葉の裏にそんな思いを隠しながら、私はそれに答えた。


 そう、私の意志などではない・・・私一人だったら、お祭りなんて行こうともしないだろう。


 全部、杏樹がいるから、杏樹に頼まれたから・・・



「まあ、それはいいんだけどさ」



軽く息を吐くと、彼は言葉をつづけた。


 「あんまり杏樹に関わるなよ?」


 突然、憲一さんは不思議なことを言った。


 憲一さんの顔を見ると、憲一さんは少しだけ、不機嫌そうな顔をしていた。


「最近の桜、レッスン以外に杏樹に関わりすぎだぞ。ピアノ教師の域を超えている」



“ ピアノ教師の域を超えている?”



 それは私にも自覚はあった。


 先日の熱中症の時の事とか、プールの付き添いの事を指しているのだろうか?それとも、夏の間とはいえ、彼女のお昼を用意して一緒に食べていることだろうか?


 師匠はいったいどこで、そんなことを知ったんだろう?


 この夏の出来事・・・たとえば杏樹の熱中症の事とか、お昼を一緒に食べていることとかは、師匠には話していない。せいぜい、杏樹のお母さんに報告したくらいだ。


 それを師匠と憲一さんが知っている、という事は。杏樹の母から憲一さん経由で、師匠が知ったのだろう。


「しょうがないでしょ?こっちにだって色々事情があったんだから」

 

 言い訳のようにそういったけど、憲一さんの不機嫌は収まらないようだった。


「・・・母さんが心配してたぞ。お前がレッスン疎かにして杏樹と夏休み満喫してるって、さ。


そんな暇があったら、自分のレッスンしろよ。


そんなんじゃ、秋のコンサート、まともな演奏でいないぞ!」


・・・また師匠・・・か。


 私はため息をついた。


 “師匠が”、“母さんが”・・・彼の常套句だ。


 そして・・・私の一番嫌いなフレーズ。


 言われたら、私はそれ以上、反論出来ない。


「秋にはさ、お前、自分のコンサートあるんだから。


 杏樹と遊んでる暇があったら、自分の事しろよ。


 ただでさえ、教室の仕事忙しいんだから・・・」


 いつもなら、おとなしくその言葉に頷いていた。


 それを受け入れるかどうかは別にして、その場では頷いて、その話は終わりにしていた。


 それが一番いい方法で、それが一番“大人な対応”だと思っていた。


 でも、最近は、憲一さん相手に“大人”を演じるのが、嫌になっていった。


 憲一さんから“師匠の命令”の話を突きつけられるたびに、どんどんいやな気分になっていった。


  師匠が彼を介して私に伝言をする度に、私の中の大切な何かが削り取られているようだった。



そして、削り取られた後は、何とも言えない虚しさが残るだけ・・・


 その感覚に耐え切れなくなった。



 ずっと、ずっと・・・・・・


 我慢してきた。それが大人だと思っていた。


 でも、その我慢も・・・限界!



「・・・いい加減にして・・・」


 いつもなら、彼のその言葉に、私は頷いているだろう。


 師匠は私にとって母親同然だし、長年お世話になっているピアノの師匠だから。


 師匠には逆らいたくない。師匠の言葉を持ってくる憲一さんにたてつく気もない。


 ため息付きながら、自分の思いに蓋をしながらも、従っていた。


 でも・・・



 もう、嫌だ!


 物分かりの良い大人を強いられるのも。


 憲一さんが、師匠を介してしか私と向き合ってくれないのも!


 そんな向き合い方しかできないなら、


 いっそ、私の前から今すぐ姿を消してよ!




「いい加減にしてよっ!!!!」



 

 私が初めて、彼の言葉にたてついたせいか、彼はびっくりしたように私を見た。そして、怒りと、どんな感情なのか読み取れない表情をした。


「お前・・・なに言って・・・」


 何言ってるんだよ?


 母さんの伝言だぞ?


 逆らうなよ!


 きっと彼はそう言いたかったに違いない。


 でも、私はその言葉よりも先に、ずっと溜め込んでいた想いを正論に包み込んで彼に叩き付けた。


「杏樹のレッスンは、私の休暇の日なのよ!


私の休暇をどう使おうと、私の自由でしょ!」


反論した私に驚いたのか、憲一さんは戸惑いながら、それでも言い返そうとした。


でも、私は彼の反論を許さなかった。


「そもそも!


私の所に杏樹を連れてきたのは貴方でしょ?


勝手に私の休日つぶす原因作っておいて、ごちゃごちゃ言わないでよ!


私は師匠や憲一さんの都合の良い人形じゃない!」


「でも、母さんが・・・」


何か言おうとする憲一さん、それよりも先に、私は言い放った。


「じゃ、師匠に伝えて!


今日は約束しちゃったから行ってくる!


これ以上私のプライベートに関与しないで!


やるべきことはちゃんとやっています!」


あとで師匠にも、直接言おう。


師匠の伝言を、憲一さんに頼むのは、やめて欲しい。


私に用があるのなら、言いたいことがあるのなら、ちゃんと直接私に伝えてほしい!


秋のコンサートの準備も、曲のレッスンだって、ちゃんと進めている。


いくら師匠でも、とやかく言われる筋合いはない。


憲一さんの伝言じゃ、埒がない。


「・・・帰ってくれる?


帰って今すぐ師匠につたえてきて!


 もうすぐ杏樹がうちに来るの」


「でも・・・」


 さらに何か言おうとする彼に、私は最後の言葉を叩き付けた。


「出て行って!


どうせあなたは師匠のパシリなんでしょ?


パシリなら、パシリらしく、今すぐ伝えてきてよっ!


 それとも何?


 師匠の私宛の伝言は無感情に伝える癖に


 私の、師匠宛の伝言は伝えられないっていうの?


 パシリのくせに!」


 私の言葉に、憲一さんは、呆然と立ち尽くしたままだった。


 少しだけ、傷ついたような目をしていたけれど、そんな彼の眼に、もう心は動かなかった。


 私は、立ち尽くす憲一さんを置いて、リビングを出た。




 部屋を出ながら、あふれだしそうになる涙を抑えることが出来なかった。


「っ・・・・」


 それでも泣き声を上げずに済んだのは、救いだった。


声をあげて泣けば、きっと憲一さんに気づかれる。


それだけは絶対に嫌だった。


『ガキみたいに泣くやつは嫌いだ』


彼に昔そう言われた一言は、知らないうちに、長年、私の心をがんじがらめにしていた。



子供でいることを辞めたのも、


早く大人になりたい、と願ったのも、


ただ、憲一さんに認められたいからで、


彼に子供扱いされたくなかったから。


“ガキのくせに”と、ひどい言葉を、言われたくなかったから・・・



でも・・・


たとえ大人になったとしても、


私と憲一さんの、根本的な人間関係は


全く変わらない・・・






 憲一さんは好きなのに。とっても好きなのに。


 子供のころから、ずっと好きだったのに。


たとえガキ扱いされようと


冷たくあしらわれようと


それよりずっと以前、兄のように優しかった、面倒見てくれた彼の事が


私はずっと・・・今も変わらずに、好きだった・・・







 けれど、今、師匠の使いっ走りをする憲一さんは、嫌いだ。


 絶対に、自分の言葉で自分の考えを言ってくれないから・・・


 そうして、私も、自分の思いなど、ぶつけられなくなっている。


 

 私が、今ここで、どれだけあがいても、


 所詮、憲一さんと私の関係は、


 師匠の息子と、弟子。師匠のマネージャーと弟子。


 その関係は揺るぐことは決してない。


 むしろ、憲一さんに、私は好かれていない。


 想いはどこまで行っても私の一方通行で、叶う事など絶対にない。


 だからこそ、私は、あの子供の時から、自分の想いを封じ続けた。


 さっさと大人になることで、自分の感情に蓋をして、生き続けた。




 いつからこんな風に、彼との関係がこじれてしまったんだろう・・・



「ガキの世話なんか冗談じゃない」


子供の頃、憲一さんに投げつけられた、言葉。


子供だったのに、子供でいることを、否定された。


だから、さっさと大人になりたかった。




子供は嫌い。


ずっと、そう思っていた。


でも、それはきっと。


あの、私が子供だった時、大好きだった憲一さんに


「子ども」でいることを否定されたから・・・


 早く大人になることを強いられて、子供らしさを失ったから・・・


子供でいることが許されている子達に対する、醜い嫉妬・・・





 杏樹とは正反対だ。


 杏樹は、どれだけ知ってる言葉が少なくても、一生懸命、自分の言葉で、感情のすべてを私にぶつけてくる。


それは杏樹が子供だから許されること。子供だからこそ、許されること・・


私は子供の頃、それを否定された。感情をぶつけられる、遠慮なく感情を受け止めてくれる人が私の周囲にはいなかった。


感情をぶつける・・・あるいは、わがままをいう事・・・


それは、私が持っていない、そして失って随分経つ“子供らしさ”そのものだ。


私は、そんな杏樹だからこそ・・・自分自身の心に正直にぶつかってくる彼女とのやり取りが、好きなのだ。


嫌いだったのに、好きになっていった。


まるで、私が失って しまった何かに、杏樹を通じて、触れているみたいで。





杏樹、あの子は・・・


憲一さんや、私とは正反対だ・・・



#########


 やっと私が泣き止んだ頃、杏樹は私の家にやってきた。


「せんせぇ! こんにちは!」


「こんにちは、杏樹」


 泣き止みはしたけれど、私の眼は腫れぼったくて、せっかく施した化粧もひどく落ちてしまっていた。泣きはらしたことなど、一目瞭然だろう。


 杏樹は、玄関で出迎えた私の、そんな顔を見るなり、いつものあの笑顔が曇った。でも、その時は、それ以上何も言わなかった。


 杏樹の手元には、約束通り、大きな紙袋があった。


 杏樹と一緒にお祭りに行く、と約束をした翌日、私は杏樹のお母さんの携帯に連絡して、お祭りに一緒に行くこと、浴衣を一揃え、持たせてほしい旨をお願いした。同時に、夜連れまわすことになってしまうのでその許可も欲しかった。


 杏樹のお母さんは恐縮しながらも、お礼と、『くれぐれも杏樹をよろしくお願いします』と、丁寧におっしゃっていた。



 杏樹のお母さんに事前に連絡がついたせいか、杏樹は、大きな紙袋に必要なものを入れて持ってきたのだ。


 身体の大柄な杏樹が持っても、引きずって歩きそうなほど、大きな紙袋。それを持って、私の家の前のゆるやかな坂を上ってくるところは、想像しただけで少し痛々しかったけど、それ以に、嬉しそうな笑顔だった。


よほど、この夏祭りに行くのを楽しみにしていたのだろう・・・私と同じように・・・


「せんせぇの浴衣、すごいきれい!」


 玄関に上がりながら、私が着ている浴衣を、目をキラキラさせて見ている。


「きれい?」


「うん!私も大きくなったらね、こんな浴衣、着てみたい!」


「杏樹の浴衣は?見せて?」


「これっ!」


 杏樹は私に紙袋を差し出した。中には、白地に色とりどりの花と花火があしらわれた浴衣が入っている。


「さて、それじゃ、浴衣、着ちゃおうか?」


「うん!」


 本当はすぐにでも着せたかったけど、外を歩いてきて汗びっしょりになっている杏樹、このまま浴衣を着せるのはかわいそうな気がして、とりあえずシャワーを浴びてもらい、杏樹に浴衣を着せた。



 杏樹の浴衣は、デパートで売られているような量産品ではなく、ちゃんと手縫いで仕立てられたものだった。


 杏樹のお友達のお母さんが縫った・・・と言っていたけれど、素人の私が見ても、とてもしっかりと仕上げられている。


 浴衣は、体格が大き目な杏樹でもちゃんとサイズが合うように、標準のものよりも大きめに縫われていて、杏樹が袖を通しても、何ら違和感がなかった。


「これ、杏樹のお友達のママが作ったの?」


「うん!」


 杏樹は嬉しそうに大きくうなづいた。


「すずちゃんのママが、縫ってくれたの!


 すずちゃんのママはね、お裁縫がすごく上手なんだよ!


 七五三の時のドレスとか、入学式にすずちゃんがきたお洋服とかも縫っちゃうんだよ!」


 それって、上手、というより・・本格的に洋裁をやっている人ではないか?入学式に着る服って、子供とはいえ、一張羅。そんな服まで縫っちゃうなんて、すごい・・・



 杏樹が、そのお友達のママの自慢をしている間に、私は杏樹に浴衣を着せて、帯を結んだ。そして、杏樹の伸ばしっぱなしの髪の毛を纏めて、浴衣と一緒に紙袋に入っていた髪飾りをつけてあげた。


 そうすると、普段の杏樹とは違う、垢抜けた雰囲気の子供になった。とてもじゃないけど、小学一年生には見えない。


「さて、出来上がった」


 すべての着付けを終えて、私は杏樹を姿見の前に立たせた。


「うわーーーー」


 感嘆の声をあげた。その表情だけで、一生懸命杏樹に浴衣を着せてよかった、と心から思える笑顔だった。


「先生、ありがとう!」


「どういたしまして」


 満面の笑みを浮かべてそういう杏樹に、私はそう答えた。


いつも杏樹に見せる笑顔で・・・・


 笑顔を・・・みせた。


 つもりだった。


 でも・・・・


 浴衣を着て笑っていた筈の杏樹の表情から・・・・笑顔がすっと消えた。

 

「先生?」


 心配そうな、杏樹の声が、耳を掠めた。鏡越しに、杏樹は私の顔をじっと見ていた。


「・・・泣いていたの?」


 杏樹は、鏡から、私のほうに向けた。心配そうな眼の色と表情は、作り事ではない、本気で心配しているようだ。


「何かあったの?


誰かが、先生を虐めたの?」


 まるで縋りつきそうなほど、顔を近づけてきた。私は杏樹と、鏡を交互に見た。鏡に映る私の眼は・・・さっき泣いたせいか、かなり腫れている。きっと杏樹じゃなくても、誰が見ても、泣きはらした後だと気づかれてしまう・・・


『なんでもないよ』


 そう言うのは、簡単なことだ。いつも私はそうしてきた。


 感情を押し隠すのなんて、お手の物だ。憲一さんの前では、ずっとそうしていた。


 杏樹1人騙すなんて、どうってことない。


 それなのに・・・


 『なんでもないよ』


 その一言が、口から出なかった。


 いつも、素直に、自分の感情を、持っている言葉で一生懸命伝えようとしている杏樹。


 そんな杏樹と過ごす時間が長いせいだろうか?


鏡に映る、感情を押し殺す自分の姿が、ひどくみすぼらしく、汚らしく狡く見えてしまった。


 私の隣に立つ杏樹の笑顔がとてもキラキラ輝いて見える。


 私はいったいいつ、杏樹のような素直な心を失ってしまったんだろう・・・


「さくらせんせぇ?」


「っ・・・・・・」


 さっき、やっと我慢した涙が、再びあふれてきた。


 そして・・・


「喧嘩・・・しちゃった・・・」


 たった一言、言葉にできた。


「喧嘩?」


杏樹が私の顔を覗き込んだ。杏樹の大きな目が、まっすぐに私を見つめていた。



「・・・ひどいこと、言っちゃったんだ」


 憲一さんに・・・


「その人ね・・・ずっと、いつもいつも、私が、言ってほしくない、嫌いな言葉ばっかり言うの。だから・・・私もひどいこと、言っちゃったんだ。


 きっと、嫌われちゃった・・・ね」


 憲一さんに・・・



「その人、すごく意地悪なのにね。


 酷い言葉、言われることだって、いっぱいあったのに。


 その人は、私の事なんか、全然好きじゃないのに・・・」


 

 ああ、私って、バカみたいだ。


 いくら子供の頃、お兄ちゃんみたいに優しくて、親切だったからって。


まるで刷り込みみたいに彼を好きになって。


 彼が変化して、酷い言葉で罵られようと、彼に好かれていなかろうと、好きな気持ちは少しも変わらないなんて。


 さっさと諦めて、好きでいることをやめてしまえばいいのに。


 諦めることも出来ず、思い続けることも・・・辛い。


「せんせぇ・・・泣かないで・・・」

 

 想いのすべてを吐き出したわけではない。


 きっと、言葉なんか断片的で、杏樹には理解できないだろう。


 誰の事を言っているかだって、わからないに違いない。


 小学一年生の子供に、大人の醜い心を見せたくなんかないし。


 さっさと心を立て直して、いつも通り、杏樹と向かい合わなくちゃ・・・



 そう思っているのに。


 感情の波は収まらず、涙はいつまでたっても引かなかった。



 私の横では、杏樹が、心配そうに・・・泣きそうな顔をして私を見あげていた。


 泣いている私よりもずっと、悲しそうな顔をしていた。


 そんな杏樹の顔が、私の涙で歪んで見えた。


 



 そして・・・・



 不意に、お腹の辺りに、温かい感触が触れてきた。


 見ると、杏樹が、立ったまま泣き続ける私に、そっと、抱き付いていた。


 いくら大柄な杏樹とはいえ、背は私よりも幾分低い。その彼女が私に正面から抱き付くと、胸のちょっと下に顔をうずめるような姿勢になる。


 抱きしめる両腕を私の腰から背中に回して、ぎゅっと抱きしめている。


「あ、あんじゅ?」


 そんな杏樹の行動に戸惑っていると、


「大丈夫だよ、ちゃんとごめんなさいっていえば、仲直りできるよ」


杏樹は能天気にそう言った。



ごめんなさい・・・か。



 私は内心ため息をついた。


 

きっと憲一さんは、そういって私が折れてくるのを待ってる。


 私は悪くないけれど。私が悪いのを認めて、『ごめんなさい』って折れるのを、待っているに違いない。


だから・・・絶対に『ごめんなさい』とは、言えない。


「ごめんなさい」私がそう言ってしまったら、私が「悪い」ことになってしまう。


彼にだって、改めて欲しいところはある。私にだって、妥協できない一線がある



ここで、私が、非を認めて謝ってしまったら、結局今までの関係を続けることになる。今まで通りの、都合良くてあやふやで苦しい人間関係に・・・


その苦しさに耐えられないのは・・・ほかでもない、私自身。

 



 妥協してしまったら・・・ずっとこのままだ・・・苦しいままだ。


 

 私はもう、憲一さんと、何にもないふりして向かい合うのに、限界を感じていた。




 だから・・・杏樹が言うように、彼に謝ることなんか、できない・・・


 

 だからこそ・・・こんなにも・・・・悲しいのかもしれない。


 涙が止まらないのかもしれない・・・



「大丈夫だよ!・・・先生」


 不思議なもので。


 杏樹がそういうと、本当に平気なような気がする。


 そして何よりも、ぎゅっと私に抱き付いてくれている杏樹の体温が、ひどく心地よくて。


 ああ、他人に癒されるって、こういうのの事を言うのかな・・・


 (温かいなぁ・・・杏樹は)


 この杏樹がくれる心地よさを手放したくなくて、私は、杏樹の背中に、そっと手をまわした。


 

 もしかしたら、私は。


この時、久しぶりに、自分以外の『他人』に甘えたのかもしれない。


 子供の頃、憲一さんに、甘えることを『拒否』された、あの頃以来だった・・・



#########


 結局、私が泣き止んだのは、外が随分薄暗くなってからだった。


 お祭りなんか、とっくに始まってしまっている時間だった。


 そのお祭りを楽しみにしていたはずの杏樹なのに、杏樹は、泣き止むまで、文句ひとつ言わず、私のそばにいてくれた。


 お祭りに行きたいだろうに。私がこんなになってしまったせいで、お祭りに行くのが遅くなってしまっているのに。


 泣き止むことが出来なくなってしまった私の傍に、ずっといてくれた。


 やっと泣き止み、充血した目をアイスノンで冷やして腫れを落ち着かせると、化粧を直した。それでやっと、いつもの私に戻れた。


「ごめんね、杏樹、せっかくのお祭りなのに、行くの、遅くなっちゃった…ね」


 化粧を直しながらそういうと、杏樹は、ぶんぶん、と首を横に振った。


「いいのっ!でも、先生、平気?」


「うん、もう大丈夫よ・・・ね、杏樹?」


「なぁに?」


「・・・ありがとう・・・」


 そばにいてくれて。ありがとう。

 

 こんなみっともない大人を、甘えさせてくれて、ありがとう。


 たくさんの思いを込めて、そういうと、杏樹は、いつもの笑顔で私に、『どぉいたしまして!』と元気に言ってくれた。



 ああ、この子はきっと。

 

 自分の何気ない優しさが、こんなにも私の心を軽くした、なんて、まったく気づいていない。


 でも・・・それもまた、杏樹らしい。


 杏樹のくれた体温を、心の中でしっかりと抱きしめながら、私は身支度を終えた。


「お待たせ!杏樹。


 さて、出かけようか?」


「うん!


 わーい、お祭り!


 私、お腹すいちゃった!」


「じゃ、まず、出店で、何か食べようね?」


「あ!私たこ焼き食べたい!」


「はいはい、たこ焼きね」


 そう言って笑うと、杏樹は足取り軽く、私はいつもと同じ足取りで、それぞれ玄関へと向かっていった。






お祭り会場は、近くの神社。


けれど、神社のお祭りに便乗して、近くの大通りや駅前広場も出店や屋台が軒を連ねる。


夜になると、町の外れの河川敷では花火大会も開催されて、賑わいを増す。


 私と杏樹は、離れないように手をしっかりと握って、神社の参道へと向かった。


参道は、もうかなりの人だかりだったけど、身動きとれないほどでもなく、ちょっと安心した。


参道に飾られた提灯が優しいオレンジ色の光を灯して、普段とは違う、少し懐かしい色に見える。


その光に照らされて、杏樹は出店を見ながらはしゃいでいた。


「せんせぇ!たこ焼き食べようよ!」


「あ、かき氷だ!すごーい!色んな色があるよ!

あたし、イチゴ味とメロン味しかたべた事ないんだぁ! ブルーハワイってどんな味がするの?」


「先生!りんごあめ!一緒に食べよう!」


 きゃいきゃいと騒ぎながら参道を歩き回る杏樹と手をつなぎながら、私は杏樹の横顔をずっと見ていた。杏樹は終始、楽しそうに笑っていた。


杏樹と一緒に屋台のたこ焼きを頬張り、色違いのかき氷でこめかみを痛くして、りんご飴と綿菓子をシェアして食べ・・・


 杏樹は、終始笑顔だった。心から、本当に、このお祭りを楽しんでいる、そして今、本当に楽しいんだな…それが伝わってくる、笑顔だった・・・


 心から笑っている杏樹の笑顔を見ながら、ふと・・・


(私は・・・)


 いったいいつ、こんな風に笑う事を忘れてしまったんだろう?


 最後に、こんな風に笑ったのは、いつだったんだっけ・・・


 子供でいることに決別したのは・・・憲一さんに子ども扱いされたくなかったから。


 でも、一番最後に、今の杏樹みたいに、子供らしく笑ったのって・・・



「あ、杏樹!」


「あんじゅちゃん!」


「なんだ、杏樹じゃん」


 ふと見ると、杏樹の周囲を、杏樹と同じように浴衣を着た、杏樹と同じくらいの年頃の子が囲んでいた。


 この前、学校のプールに付き添った時にいた女の子もいるし、初めて見る子もいる。中には男の子もいて、杏樹と笑顔で言葉を交わしている。


「あ、リュウ君だ! リン君もいる!」


 お友達相手でも、その相手が男の子でも、杏樹の態度は変わらない。杏樹は、女の子だけでなく、男の子にも好かれているようだ。


 それはたとえば、もうちょっと大きくなってからの、女子が男子を慕うような恋愛感情とかではなく、もっとごく自然で、子供独特な素直な感情なのだろう・・・


 やがて杏樹は、その友達たちに、バイバイ、と手を振ると、私の処に戻ってきた。


「・・・おかえり」


「ただいま! 先生!デメキンもらっちゃったぁ!」


杏樹の手には、金魚すくいで獲った金魚が二匹、小さなビニール袋に入っていた。


 一匹はデメキンで、もう一匹は、普通のオレンジ色の金魚・・・


「リュウ君とコウ君が、金魚すくい競争やったんだって! いっぱい捕まえたから、くれたの! おうちに帰ったら、ママに水槽出してもらうんだ!」


「お家で飼えるの?水槽とかあるの?」


「うん! パパが熱帯魚好きで、飼ってたの! その水槽がまだ残ってるから、それ出してもらうんだ! ママもお魚好きだから、きっと喜ぶよ!」


 杏樹は嬉しそうにはしゃいでいた。





 やがて、その出店もあらかた見て、再び神社の参道入り口に戻ってきたとき。


「あっ・・・」


 私は思わず足を止めた。


 私の視線の先には、ガラス細工の出店が出ていた。


 風鈴や、ガラス細工の置物やトンボ玉をあしらった根付やちょっとした髪飾りがあり、お祭りの提灯の明かりを浴びて、ゆるやかに光っていた。


 食べ物屋さんや射的、ちょっとしたゲームやくじの屋台が多い参道のお店とはちょっと違う空気を醸し出していて、そこだけとても涼しげだった。


 それは杏樹も感じたのか、それとも私に合わせてくれたのか、杏樹も足を止めた。


「きれーい!」


 杏樹は、その出店に駆け寄った。そこに置かれた、小さなガラスの動物の置物や、風鈴に描かれた色とりどりの絵、ちょっとした、アクセササリーや飾りに、杏樹は釘づけになった。


 その屋台の片隅に、ガラス細工の指輪があった。


 お花を形どった、色とりどりの指輪・・・


 そのガラス細工の屋台の、ほかの売り物と比べたら、見劣りしそうなほど、小さな・・・子供向けのガラスの指輪だった。


(これ・・・・)


 その指輪に、見覚えがあった・・・



~~~~~



『杏樹、おいで!』


『なあに、けんちゃん!』


 浴衣を着た私に、私より前のほうを歩く彼は、手招きした。そして、指さした先には、ガラス細工の出店。


『これ、見てみ!すごいきれいだよ! お星様みたい!』


 その中で、一番目をひいたのは、色とりどりの、小さなガラスの指輪だった。


 赤、ピンク オレンジ、黄色


 青、紫 黄緑・・・


 ガラスにつけられた色は、お祭りの提灯の優しい柔らかい光をうけて、一際輝いて見えた。その輝きは、どんな本物の宝石よりも、きれいに見えた。


 私は、そのキラキラした指輪が欲しくて、お財布に入っているコインを手のひらに出した。でも、さっき買ってしまった綿菓子で、その指輪を買えるだけのお金はなかった。


『指輪、欲しいのか?』


『うん! でも、お金ないから、いいや!』


 私がそういうと、彼は、仕方ないなぁ、とつぶやきながら、ポケットからお財布を取り出した。そして数枚のコインを取り出した。


『おじさん!このピンクの指輪ください!』


 彼が選んだのは、ピンク色のお花をあしらった、ガラスの指輪だった。


『はいよ!これかい?』


 おじさんは、その指輪を手に取ると、お金と引き換えに彼にそれを渡した。そして、私の手を取ると、私の指にスッとその指輪をはめてくれた。


『ほら、無くすなよ!』


 彼が指にはめてくれた指輪は、私の薬指で、きらきらと光を反射し始めた。


『ありがとう!けんちゃん!』


『どういたしまして』


 彼はにこにこ笑っている。懐かしい笑みだった。・・・あの頃は、今よりもずっと、この笑顔がそばにあった。


『ねえ、どうしてお姉さん指なの?』


 ふと、指輪をはめてくれたのが、普段よく使う人差し指や中指ではなくて、薬指だったのが気になって、彼に聞いてみた。すると。


『指輪は、薬指にするんだよ。うちのお母さんもお父さんも、左の薬指に、指輪してるだろ?』


 彼のお父さんはヴァイオリニストで、今は海外で演奏している。お母さんはピアニストで・・・私のピアノの先生だ。


『うん!うちのお父さんも、お姉さん指に指輪してる!


 そっか、指輪は薬指にするんだね・・・』


『その花、桜の花みたいだろ? だからそれにしたんだ!』


『うん!私もね、この指輪が欲しかったの!ありがとう、けんちゃん』




~~~~~



 懐かしい思い出が、前触れもなく、脳裏をよぎった。


 あれは、私が二年生の、夏・・・初めて浴衣を着て、憲一さんに手を引かれてやってきた、このお祭りで・・・


 まだ、優しかった憲一さんが、買ってくれた、桜色の指輪・・・


「先生! これ、綺麗!」


 隣ではしゃぐ杏樹と、私の思い出が、音もなくリンクした・・・・


「買って…あげよっか?」


「本当?」


 杏樹の言葉に私は返事をせず、ピンク色のお花を形どった指輪を指さした。


「これ、ください」


 そういうと、ガラス屋のおじさんは"はいよ!"と威勢よく返事をすると、その指輪を手に取り、お金と引き換えに私の手のひらに置いてくれた。


「はい、どうぞ」


 さすがに、杏樹の指にはめてあげるのは気が引けたので、私はそれを杏樹の手のひらに置いてあげた。


 とたんに、杏樹の表情が喜びで一杯になった。


「ありがとう!先生! これ、あたしの宝物にするね!」


 杏樹はそう言うと、それを右手の人差し指にはめた。そして、その指を提灯の光にかざして、きらきらと輝くその光を嬉しそうに眺めた。


 そんな杏樹の表情を見ながら・・・私はさっき思い出したばかりのあの記憶を、振り返った。


 まだ、憲一さんが、優しいお兄さんみたいだった頃。


"ガキの子守なんかゴメンだ!"


 あの悲しい言葉を投げつけられる前の出来事・・・


 もしも、・・・あり得ないかもしれないけれど・・・もしも・・・


 あの夏祭りの日のままの人間関係で、私と彼が大人になっていたら、どうなっていたんだろう・・・


 いくら考えても、想像がつかない。


 相変わらず、私の片思いだったかもしれない。今よりも疎遠になっているかもしれない。


 でも・・・


 たとえ片想いでも疎遠でも、今よりもずっとマシな関係になっているような気がする。


「ありえない・・・か・・・」


 口の中でそうつぶやくと、私はあの頃の優しい思い出を、胸の奥の感情と一緒に封印した。


 もう二度と、思い出したりしない。振り返ったりしない。


 そう心に誓いながら・・・


 そして、相変わらずはしゃいでいる杏樹に、そっと声をかけた。


「杏樹、もうすぐ花火始まるから・・・花火の見えるところに行こうか?」


 花火の会場は町はずれの河川敷なので、今からそこに行くことはできないけど、この神社から少し離れた、住宅地の中にある公園からは、この花火が見える。少し坂を上った上の方にある公園だ。


 純粋に花火を見るだけだったら、私の家の二階のベランダからでも十分に見える。毎年私はそうしていた。


 でも、そんなところで見るよりも、きっと杏樹は外で見たいのだろう。


 杏樹は、"行く!"と元気に答えると、指輪をしている手を私の手に重ねて、手をつないだ。


 私の手のひらに、杏樹の指輪のガラスの感触が触れて、不思議な体温になっていた。


 私と杏樹は、参道の出店を後にした・・・




 その公園は、住宅地の中でも小高い丘の上にあって、花火を見るにはちょっとした穴場だ。


 このあたりに住んでいる人しか知らないだろうし、知っていたとしても・・・この界隈に住む人たちは、こんな公園で見るよりも、少し足を延ばして打ち上げ花火の会場まで足を運ぶだろう。


でも、花火の会場までは少し距離があるし、見物人も多いので、この、見晴らしの良い公園で見物を済ませる人も、結構いる。

 


 そう広くもない公園だけど、眺めはよくて、晴れた昼間だったら、私たちの住む町が一望できる。


 私の思った通り、その公園は人がほとんどいなくて、静かな・・・はずだった。


 公園に設置されている街頭の下に、二つの人影が見えた。


(あ・・・・)


 一瞬、誰だかわからなかったその人影・・・でも、その人影を見た瞬間、私と手をつないでいる杏樹の手が、びくっ!と驚いたように震えた。


「・・・ママ・・・?」


 つぶやくような、小さい声で、そうつぶやいた。それはきっと、私にしか聞こえなかっただろう。


 私には、その人影が、杏樹のママだと気づかなかった。


 でも・・・


 二つあった人影の、もう一人のほうは、・・・私にも、わかった。


 街灯の下で、立ち話するように、向かい合っている。それは、恋人同士のような距離感にも見えた。

 

 向かいっている人影のうちの一人が、杏樹のママ。


 そして、もう一人は・・・


「憲一さん・・・・」


 見間違えるわけがない。


 杏樹が、自分のママを見間違えなかったように。


 私が、憲一さんを見間違えるわけが、ない。


 それくらい、私にとって彼は、一番近くて、一番遠い・・・


恋人同士のように見える、二人の距離感、そして、その片方が憲一さん。


憲一さんは、優しく笑っていた。それは私には絶対に見せてくれない表情だった。


私と向き合う時に感じるような、無機質で無感情なものとは対照的だ。


胸の奥が、悲鳴をあげる程、激しく痛んだ。


痛くて、痛くて、息ができない位に苦しい・・・


それなのに、私は、それを顔にも出さず、平気で何もない振る舞いをしていた。


今までそうしてきたように。


そう振舞ったことに、不思議も疑問もなかった。



でも・・・


「ママ・・・」


 私は隣に立つ杏樹の顔を見た。杏樹の顔は、その人影をじっと見つめていた・・・でも、その顔は、私が知っているあの笑顔などではなく・・


 見たこともないほど、怒りと悲しみで歪んでいた・・・


それは、今の私の立ち居振る舞いとは正反対だった。




 その場で立ち尽くしながら、私たちはその人影を見ていた。


 少しずつ目が慣れてきて、その人影の表情も、はっきりとしてきて・・・


 二人が、とても楽しそうに談笑しているのまで、しっかりと見えてきた・・・


心が、抉られそうになる、憲一さんの笑顔・・・


私の知らない、見たこともない、憲一さんの、笑顔・・・


けれど、 そんな表情まで見えた次の瞬間・・・


 杏樹が、私の手を離した。


「杏樹?」


 そして、つかつかと、杏樹はその人影へと向かっていた。


「ママっ!」


 杏樹のその声は、いつも私と話す時のような声ではなかった。


 怒っているのか、低く鋭く、震えて聞こえた。


 その声に驚いたように、人影はくるりとこちらを向いた。


「杏樹っ!」


 驚いた女性の声が聞こえて、私はあわてて、杏樹のそばに駆け寄った。


 でも、私が杏樹のそばに立つより先に・・・杏樹は爆発した。


「・・・・お仕事じゃ・・・なかったの?」


 その爆発は、怒り、というよりむしろ・・・悲しみで満ちていた。


「杏樹、ちがっ」


「お仕事でお祭りに来れないんじゃなかったの?


大切なお客様とのお食事会だから、お祭りは行けないって!


ママ、言ってたよね?


なんでママが、浴衣着てここにいるの?」


 杏樹のママは気まずそうに、杏樹から少し目をそらした。


「なんで嘘つくのよ!」


「杏樹っ!やめなさいっ」


 私はあわてて杏樹を止めようと、杏樹の腕を掴んだけど、杏樹は私の手を再び振り払った。


 一瞬・・杏樹のママは仕事の帰りなのかも・・・そう思ったけど、彼女の服装はそれを裏切っていた。


 杏樹のママは・・・浴衣を着ていたのだ。仕事帰りや、接待帰りには見えなかった。


「杏樹・・・どうしてここに・・・」


「桜先生に、ここに連れて来てもらったの!


 ここ、花火が一番よく見えるところなんだって!」


 杏樹がそう言った瞬間、杏樹のママは、悲しい、泣き出しそうな目で私を見た。


(ちがう・・・杏樹のママは嘘なんかついていない)


 杏樹のママの眼は、嘘を言っているようには見えなかった。


 でも、杏樹は、そんな杏樹のママの表情に気づけないのか、それともそんな余裕がないのか・・・


「ママも橘さんも大嫌い!


 どうして橘さんは私からママを取るの?」


 今にも泣きそうな声で、杏樹のママと憲一さんを、杏樹はなじり続けた。


「やめて杏樹っ!ね、機嫌直して・・・これからお祭り一緒に見に行こうか?」


「もういいもん!お祭りは桜先生につれてってもらったもん!」


 杏樹の悲痛な声は、静かな公園に悲しく響いた。


 いつだって杏樹は、嬉しさも、楽しさも、その思いのすべてを私にぶつけてくれている。


 悲しみや苦しみも然り・・・


 その感情を、杏樹のママは受け止めきれず、持て余している。


 もっとも、感情のすべてをぶつけてくる杏樹を、上手に受け止める、なんて、簡単なことではない。私だって・・・いまだにその感情を受け止めきれないのだ。ううん、私だけじゃない。あんなに感情のすべてを正直にぶつけてくる子供を、私は知らない。


 それくらい、杏樹は自分の感情全てでぶつかってくる。


 そんな杏樹とのやりとりは、私にとってはいつも心地よいものだった。


 でも・・・


 それは、私たちが、嘘偽りない気持ちで向かい合った時に限ったもので。


 たとえば、私や大人が嘘をついて、杏樹と向かい合った時、杏樹の気性は、大人にとっては手痛い刃となって襲い掛かる。


 実際、杏樹のママは、困ったような顔をしたまま、杏樹を持て余し気味だ・・・




 子供の正直さや素直さは、時として・・・


 大人にとっては手に余る、厄介なものになる。



   少なくとも、私にはそう見えた。


 


 



 結局、杏樹のママは、嫌がる杏樹の腕を掴んで、去って行った。杏樹はそれを拒否していたけれど、最後まで、"ママの嘘つき!大嫌い!"と叫んでいた。騒ぎを聞いて、こちらをじろじろ見ている、決して多くない周囲の人の目線から逃げるように去って行った。


 去ってゆく間際。


 杏樹のママが、振り返りざま、さっきまでの寂しい目のまま、私に向かって軽く会釈していた。


 その視線に、私もお辞儀を返しながら、私は去ってゆくその二人の背中から目を離せなかった。


 杏樹は、こちらから背中が見えなくなる間際まで、暴れて、杏樹のママを困らせていたようだった。


 あの二人、これからどうするんだろう?


 おちついて話し合いなんか、できるんだろうか?


 杏樹は物わかりの悪い子ではない。落ち着いて、ちゃんと話をすれば、わかってくれる子だ。



 今の杏樹と杏樹のママに、それが出来るのだろうか?



 でも、それは、杏樹のママと杏樹の問題で、私のあずかり知らないことだ。



 所詮私は、ただの杏樹のピアノの教師で。


 杏樹の家の事や、家族間の事まで思いを馳せる立場ではない・・・


 


 結局、公園には私と憲一さんだけが、残ってしまった。


 杏樹が騒いだ後の公園は、お祭りの喧噪さえも静かに聞こえた。


 憲一さんを見ると、憲一さんも気まずそうに、私を見ようとはしなかった。それは、彼の感情や想いそのものを表しているみたいで、もの悲しかった。


 私を見ようとしない彼。そういえば彼はいつもそうだった。


 向かい合うときもそうだし、私と話す時だって・・・・


 "母さんがそうしろって"


 "母さんの命令"


 彼は、そう言うときしか、私とまともに向かい合おうとしない。


 そう考えてしまうと・・・


 杏樹のママが、少し、羨ましい。


 少なくとも憲一さんは、さっき、自分の意志で、杏樹のママと向かい合っていたんだから・・・


(偉そうなことごちゃごちゃ考えてても、結局は醜い嫉妬、か)


 さっきの、憲一さんと向かい合っていた杏樹のママへのどろどろとした醜い嫉妬と向かい合いながら・・・



 結局。憲一さんが優しいのは・・・それこそ「師匠の命令」だから・・・


頭でわかっていても、その事実は、この上なく重たく・・・・悲しい。


「桜?

 どうする?

花火見てくか?」


 そろそろ、打ち上げ花火が始まるころだ。周囲には、それを見に来た近所の人たちが集まりつつあった。さっきよりは人が多いけど、それでも花火の会場やお祭りの出店の所で見るより、よほど人は少ない。


 花火見物をするにはもってこいだ。


 けれど、私は首を横に振った。


 私の中では、夕方の憲一さんとのやり取りが、そしてさっきの杏樹のママと彼との様子が、重苦しく心に残っていた。


 それを鋭く感じているのか、憲一さんはわざとらしくため息をついた。そんな仕草さえ腹立たしい。


「・・・まだ怒ってんのか?

 いい加減つまんない事で怒るなよ!

ガキじゃあるまいし!」



 はき捨てるようにそう言った。



『ガキじゃあるまいし』



そう言われた瞬間


私の中で、一番触れて欲しくない古傷が


そのたった一言で、悲鳴を上げる程酷くえぐられた。


 いつまでも子ども扱いされて、大人としてさえ、扱ってくれない。


 さっき、杏樹のママと向かい合っていた彼の表情、そこから伺える扱いとはひどい差だ。


 今更私の事、好きになってほしいなんて思わない。そんな思い、とうの昔に凍り付いた。


 でも・・・でも!


 せめて、子ども扱いはしないで!


 これでも、社会に出て、一人前に働いている。


 ピアニストとしても、ピアノの教師としても、年相応にやってこれてる。


 相応の経験を積んできている。それなのに、一方的に子ども扱いされるなんて嫌だ!



「私は・・・」


 心の中に渦巻くやるせなさ、納得いかない想い、彼に対する割り切れない想いは、


 もう、見て見ぬふりなんかできなくなっていた。


「私はそんなにガキじゃない!」


 きっ! 彼の顔を見上げて、私はそう言い切った。


 薄暗くて、憲一さんがどんな顔をしているか判らなかったけ。けど、見たら心がぐらつきそうだったから、まともに見ないまま、私は叫ぶように思いを吐き出していた。


「師匠は大好きだし、尊敬してるけど

 師匠のパシリに、興味はない!」


 きっ!と、彼を見上げて、そう言い放った。


 言った瞬間、一瞬だけ見えた憲一さんの顔が、怒りと、どこか読み取れないような感情で歪んだ。


「そんな・・・の・・・」


 そうして、言い返すかのように出てきた彼の言葉にも、一瞬の戸惑いがあった。でも、それはほんの一瞬だった。


「・・・興味ないとか嫌いだとか・・・」


 絞り出すような、低い声は、苦しそうにも聞こえたし、何を言おうか迷っているようにも聞こえた。


「興味ないとか嫌いだとか、仕事相手にそういう言葉を吐くこと自体、子供だろ!

 俺は、これでも母さんのマネージャーだぞ!

 お前の師匠の言葉、お前に伝えてやってんだぞ!

 その相手に興味ないとか嫌いだとか、言える立場なのかよ!

  自分が大人だって断言するなら、立場をわきまえろ!

 母さんの弟子なら弟子らしく、母さんの言う事聞いておとなしくしてろよ!」


 鋭く、怖い声で、その声に私はびくっと肩が震えた。


 ・・・今思うと、彼のそんな怖い口調は、初めて聞いたような気がする。


 遠い昔、私をガキ扱いして罵ったときも、ひどい言葉を投げつけられた時も・・・


 今ほど、怖くはなかった。


 その"怖さ"は、あの時より彼が歳を重ねたからなのか、それとも単なる虚勢なのかは。


 私に推し量るすべはなかった。


「それなら・・・」


 でも、彼のその言葉におびえるほど・・・その言葉で大人しくねじふせられる程、私は弱くもなかった。


 あの頃だったら・・・ガキ扱いされて、彼にひどい言葉を投げつけられたあの頃だったら、それで私も傷ついて、おとなしくなっていただろう。今までみたいに。


 でも・・・


「もう、いい」


 でも。


 ・・・・その時、脳裏に、さっきの杏樹の姿が過った。


 自分に嘘ついた。どうして嘘をついたのだ、とママに食って掛かっていた、杏樹の姿。


 私の子供の頃、もしも、あの時の杏樹のような強さがあったら・・・


 過ぎてしまった出来事に、"もしも"なんて言っても仕方のないことだけれど。


 もしも・・・もしもあの時・・・


「それじゃ、もういい!」


 私は、断言した。


「師匠が私への伝言を、憲一さん経由で伝えるんだったら。


 私、師匠の弟子、やめる!


 私への伝言を、私に直接伝えてくれない師匠なら・・・


 そんな師匠なら、私のほうから、やめるわよ!」


 売り言葉に買い言葉。


 まさにそれかもしれない。


たったそれだけの理由で師匠の弟子を辞めるなんて、私もどうかしている。でも、もう引くことなどできない。


「もう、師匠のパシリに用はないわ!


 今の言葉も、私が直接、師匠に伝える!


 これから先、私への言葉を、憲一さんに伝えさせるなら・・・


 師匠の関係も、なかったことにしてもらうわ!」


 私は、憲一さんの顔を見据えたまま、そう断言した。



 師匠の弟子をやめる・・・そんなことが許されるわけがない。


 そんなことをすれば、私はもう、ピアノや音楽の仕事が出来なくなるかもしれない。


 それくらい、師匠は音楽業界と深くかかわっている人だ。


 でも・・・


 

 もう、後には引けなかった。


 


 私はそれ以上、彼と向かい合う事なんかできなかった。


 私は彼から目をそらし、公園を後にした。


「桜っ!」


 背中では彼が呼んでいたけど、追いかけてくる様子は、なかった。


 もう、私は、彼に振り返りたく、なかった。


 ############



あのお祭りの翌日から、私は師匠と話がしたくて、憲一さんの顔を見る度に、師匠に会えないか頼んで見た。けれど、


「母さん、忙しいってさ」


彼は無感情にそう言っていた。


 その無感情さは、今まで以上に、冷たく聞こえた。





 ここ何ヶ月も、私は師匠とまともに顔を合わせていない。


 師匠自身が忙しい、というのもあるだろう。だからこそ、憲一さんに私への伝言を頼んでいたのだから。


 でも・・・隣に住んでいながら、こんな風に顔を合わせないのも、絶対におかしい・・・



 もしかしたら、今度の顛末を、憲一さんが師匠に話して、師匠が怒って私を避けているのかもしれない、と思うこともあった。


 でも、師匠だったら・・・もし今回の一件を師匠が知ったら、1も2もなく私を呼び出すだろう。それさえない、という事は、おそらく師匠の耳には入っていない。


ぐちゃぐちゃ考えていても仕方が無い。


 師匠と、話がしたかった。


 このまま、憲一さんを間に挟んだままだったら、師匠ともぎくしゃくしたままになりそうだ。


 憲一さんとぎくしゃくするのはこの際仕方ないけど、それが原因で師匠とまでぎくしゃくするのは嫌だ。


 だから、師匠とは直接、話がしたい。


 もし、もしもそれで、師匠と折り合いがつかなかったら・・・・その時は、私が辞める以前に、師匠から破門されるだろう。


 破門・・・それは、師匠と弟子の関係を切られること。それを考えると、まるで地面が崩れるような感覚になる。


 子供のころから師匠にはお世話になっていたし、母親みたいな存在だ。その相手から、縁を切られるなんて、考えられない。


 でも、このままじゃ、駄目だ。


 このままの関係のままでいたら・・・私の心が、壊れる。





 あのお祭りの翌日も、週明けも。師匠は留守だった。


 師匠に会うために、隣の家の玄関のチャイムを押したけど、出てきたのは憲一さんだった。


「師匠に会わせて!」


「留守だ!」


 そういうと彼は玄関を力任せに閉める。


 きっと、今回の一件で怒った憲一さんが、取りついでくれていないんだろうな・・・そう思ったけど、そう思う反面、そんな風に考える自分自身の心が、ひどく醜く思えた。


 世間は八月のお盆休み。


 杏樹のレッスンも、今週はお休みだった。


"おばあちゃんのおうちに遊びに行くの!"


 この前、笑顔でそう言っていた。


 そういえば、杏樹は、ママと仲直り出来たのだろうか?


 ママが大好きな杏樹。ちゃんと和解できればいいのだけれど・・・


"大丈夫だよ、ちゃんとごめんなさいっていえば、仲直りできるよ"


 あのお祭りの前、杏樹はそう言っていた。


 でも、私と憲一さんは、"ごめんなさい"の一言で和解できるような人間関係では、ない。


 それに、彼にだって改めて欲しいところはたくさんあるのだ・・・それを私が一方的に謝ったところで・・・何も関係は変わらないだろう。





 週の半ばを過ぎたころ。


 隣へ行って、玄関のチャイムを押した。


 するといつものように憲一さんが出てきた。


「師匠に会わせて!」


「お前、しつこい!」


「いいから会わせて!」


「留守だ」


「いつ戻るの?」


「さあな」


「師匠から聞いてないの?マネージャーのくせに!」


「お前、口の利き方気を付けろよ!」


「なんでパシリに敬語使わなきゃいけないのよ!


 私は、師匠の弟子です。あんたの弟子ではない!」


 もう、憲一さんとの人間関係は滅茶苦茶だ。


 ・・・ううん、違う。


 もともと破綻していたのだ。


あの、子供の時に。


 それが、"師匠"っていう中和剤があったから、関係がまともだったというだけで。


 間に"師匠"がいなくなってしまえば、こうも簡単に破綻してしまう。


 それほど、私たちの関係は脆いものなのだ・・・


「もう帰れよ!」


「そうする。師匠がいないんじゃ、あんたに用なんかないもの」


 そう捨て台詞を吐いたときだった。


「桜? 桜が来てるの?」


 家の奥から、聞き覚えがある・・・そして随分長いこと、聞いていない声がした。


 そして、その声と同時に、奥から出てきたのは・・・


「母さん!」


「師匠!」


 私と憲一さんは、同時にそう叫んでいた。


「桜、久しぶりじゃない!どうしたの?急に」


 師匠は、そういって、憲一さん二は目もくれずに私に駆け寄ってきた。


とうに還暦を超えている筈だけど、外見は、それ以上に若々しく見える。身のこなしも綺麗だし、年相応に白髪が増えてきている髪は、茶色く染めていて、それがよく似合っている。


「師匠に・・・お話があって・・・今、お時間大丈夫ですか?」


 すると師匠は、嬉しそうに笑った。


「大丈夫よ!どうしたのよ改まって!


それに、お話って・・・いつでも会いに来てくれていいのよ!


 用がなくても来てくれたらうれしいのにっ!」



 何か月か会っていない筈なのに、師匠の態度は、以前と全く変わらず、気さくで・・・その空気感にほっとした。


 と同時に、憲一さんが無機質に私に伝えていた、様々な"師匠の伝言"さえ・・・あやふやに思えた。




「今週ずっと、師匠にご用があって、会いに来ていたんですけど・・・


 いらっしゃらないって憲一さんに聞いていました。


 お仕事、忙しいのでは?」



 事実、憲一さんにはそういわれていた。


 ところが師匠は、首をかしげた。


「確かに仕事はあるけど、今週は家での打ち合わせが多かったから、ずっと家にいたわよ。

おかしなこと言うのねぇ、憲一?」


くすくすくす、師匠はそう笑いながら憲一さんを意味深に見つめた。


「え?」


(留守だ)


 憲一さんはいつもそう言っていた。・・・それさえも嘘だ、という事だ。



「さ、立ち話もなんだから上がって!

 私もあなたに大切な話があるのよ!

 それから、その堅苦しい敬語、辞めなさい。

 前までは、普通に話してくれたでしょ?」


 

 そう。以前までは・・・師匠と私の間に憲一さんが頻繁に入ってくる前までは、師匠と弟子、というよりも母親と娘、といった関係だった。


 確かに、ピアノに関しては師匠だから。仕事の話になれば、ちゃんと敬語は使っていたし、師匠と一緒に仕事関係の打ち合わせに行くときは、ちゃんと敬語を使っている。


 でも、それ以外の時は・・・敬語を使っていなかった。



 ちらり、と憲一さんを見ると・・・・


 憲一さんは、今まで見たことがないほど、気まずそうで・・・悔しそうな顔をして、私を睨みつけていた。


 それは、まるで悪事が露見したドラマの黒幕みたいで・・・笑えないほどに滑稽だった。


 そして・・・その表情で、私は、憲一さんとの間の"何か"が崩れてゆくのを感じた。


 それは良い兆候なのか、そうでないのか・・・私には判らなかった。






 


 師匠の書斎は、隣の家の二階にある。


 ピアノが設置されてあるレッスン室は、私が子供のころから、師匠のレッスンを受けるときに使っていた部屋だけど、それとは違う、まるで図書室のように本棚に囲まれている部屋だ。


 大概師匠は、仕事の打ち合わせはレッスン室でする。けれど、あの部屋は師匠にとっては「仕事部屋」であって、この書斎は、師匠の私室のようなものだ。


 図書室、というには堅苦しさがなく、部屋の片隅には冷蔵庫と、簡易型の食器棚もある。師匠に言わせると、「飲み物を取りに台所に行くのが面倒くさい」という事らしい。


 すすめられるままに椅子に座り、師匠が淹れてくれたコーヒーを飲んだ。


「ずいぶん久しぶりね。最後に会ったのは・・・去年の年末だったっけ?」


「そうですね。Nフィルの第九を聴きに言った時以来ですね」


 とはいえ、あの時も、憲一さんが一緒で、師匠とゆっくり話など出来なかった。ことさら私と師匠の話の邪魔をしていたわけではないけれど、彼がいると、話したいことも話せない。まるで監視されているみたいで・・・


「・・半年ぶり・・・以上ね。元気だった?仕事は順調?」


「はい。教室の生徒も、ちゃんと教えられていると思います・・・杏樹も、最近やっと、レッスンが軌道に乗ってきました」


 つい、杏樹の事を話してしまった。


 そういえば、杏樹を教えることになったのも、憲一さんの、"母さんも、出来ればお前に教えてほしいってさ"という言葉があったからだ。


 ところが、師匠は不思議そうな顔をした。


「杏樹? 誰?新しい生徒さん?」


「え?」


 とたんに、私と師匠の間に沈黙が走った。


「憲一さんから預かった生徒です。"東野杏樹"ちゃんです。憲一さんには、師匠が、私に教えてほしいって言われて、うちで教えています・・・」


 そう。確かに、杏樹と初めて会ったあの日、彼は私にそう言ったのだ。


"母さんも、出来ればお前に教えてほしいってさ"


 と・・・そして、"師匠の言葉なら・・・"と思って、教え始めたのだ。


 もちろん、教える、と最終的に決めたのは私自身だけど。師匠の言葉も、きっかけの一つだった・・・


 それなのに・・・


「東野さん・・・ね。久しぶりに聞いたわ。


憲一の同級生だった子ね・・・ずいぶん前に結婚したって聞いたけど、娘さんがいるのね・・・」


師匠は懐かしそうに目を細めた。


「あの子も、うちの門下だったのよ。桜は知らないと思うけど。


高校卒業して、教室は辞めてしまったんだけど、憲一とは定期的に連絡とってるみたいね。


ずいぶん前、高校の時の同級生と結婚したって聞いたけど、娘さんが生まれてしばらくした頃、そのご主人の不倫が原因で、離婚したって聞いてるわ。


憲一も随分、二人の相談にのってたみたいよ。ご主人も、憲一とは友達だったから、二人の仲裁に入っていたけど・・・


今も、いろいろ相談に乗っているみたいね


ほら、女手一つで子供を育てるのは、いろいろ大変でしょう?」


そうか・・・それで、杏樹のママと憲一さんは仲良しだったんだ・・・


いいなぁ・・・不意に、杏樹のママが羨ましく思えた。


杏樹のママだって大変なのに、きっと私以上に苦しい思いをして生きているのに・・・そういう人を羨ましい、なんて思うこと自体、どうかしているけど。


憲一さんに、子供扱いもされず、ちゃんと彼と向き合える事も、対等に相談できる、という人間関係も、私と彼の間には、あり得ない人間関係で・・・そして、私だって、彼とは対等になりたい、と思っていたから・・・


「師匠・・・今日は・・・師匠にお話しがあるんです」


 私は、そんな思いを頭の外に追い払うと、まっすぐに師匠を見ながら、胸の中で、言葉や思いを整理した。


 そして、大きく息を吸って、はくと、今までの憲一さんとのやり取りを話した。


 憲一さんが、師匠からの伝言を持ってくること。


 その憲一さんから、"師匠の頼み"といって、杏樹を任されたこと。


 私のプライベートにまで踏み込んでは、"師匠が・・・"と、師匠の名前を出してあれこれ世話を焼いたり、余計なことをいう事・・・


 それら全てを客観的に話すのは、難しかった。でも、彼の一挙手一投足で私が心理的に迷惑に思っているのは事実だった。


「・・・師匠の言葉を、憲一さんに伝言させるのは、辞めてください。

 用があるなら・・・こうして直接会って、顔を見て、言ってほしいです」


 よく考えると・・・こうして師匠と面と向かって話すのも、本当に久しぶりだ。それがなくなってしまったのは・・・憲一さんが"師匠の伝言""母さんが・・・・"と、私たちの間に入ってきたせいだ・・・


 そんなことすべてを、私情を交えずに話すのは難しかったけど。


 話を終わったとき。師匠は心底困った顔をしていた。



「憲一ね・・・」


 そうつぶやいて、深いため息をついた。憤りと、諦めと、ほんの少しの呆れの混ざった声だった。そして、


「あの子にも困ったものだわ・・・」


 吐き捨てるようにそう言った。


「え・・・」


 師匠のその反応と、さっき玄関先に"留守だ"と言われた後で師匠が出てきた時点で、うすうす気づいてはいたけれど。


 まさか、と思っている一言を、私は口に出そうとしていた。


 でも、それより早く、師匠が口を開いた。


「桜には・・・謝らなくちゃいけないわね。

 ・・・・ごめんなさい、桜

 うちの憲一が、あなたにそんな子供じみたことをしていたなんて、まったく知らなかったわ」

 ゆっくりと首を横に振りながら、師匠はあきれたようにそう言った。

 

 私は、憲一に、貴方の事を頼んだことなど、一度だってないわ。

 大体、考えてもみなさい!

 いくら兄妹同然に育ったとはいっても。成人した嫁入り前の弟子の面倒や世話を、憲一に頼めるわけないでしょ!

 何ら間違えが起こったらどうするのよ!」


 そう断言した。そして。


「確かに、私もここのところ忙しくて、貴方とゆっくり時間をかけて話す暇なんかなかったけれど。

 それでも、大切な用があれば、私があなたに伝えます。憲一になど頼みません」


 それじゃ・・・やっぱり・・・


「あの子が独断でそんなことをやっていたなら、それこそ越権行為だし、職権乱用だわ。

 私からよく言っておくわね」


 師匠は、にっこり笑ってそう言った。そして、一瞬・・・師匠が何か考え込むような表情をした。


「まさか・ね・・・」


「??」


 師匠の呟きについて、聞き返そうとしたとき・・・


(コンコン・・・)


 ドアをノックする音がした。と同時に、憲一さんが部屋に入ってきた。その手には、氷のたくさん浮かんだアイスコーヒーとお茶菓子ののったトレイがあった。


 気のせいか、それとも故意か偶然なのか、そのトレイのお茶菓子は、私が好きな銘柄のクッキーだった・・・


 でも、それを持っている憲一さんの顔は・・・さっき同様、気まずそうで、いつものような無感情なものではなかった。


 まるで、無表情な仮面がヒビ割れているように見えて、いつもの彼からはあまりにもかけ離れて見えて、滑稽で、無様だった。


「顔色が悪いわねぇ、憲一」


 師匠が、憲一さんにそう言った。その言葉には、どこか棘があるように感じた。


 憲一さんは、トレイを持ったまま立ちすくみ、そして私のほうをキッと睨みつけた。


「桜に聞いたわ。

 憲一。

 桜に、私の言葉を勝手に伝えていたのは、本当なの?

 勝手なことを、私の言葉として、桜に伝えていたの?」


 歯に衣着せぬ、とはこういう事を言うのかな?


 師匠は、まさに今、私が師匠に話したことを、簡潔に彼に投げつけた。


「どういうつもりなの?」


 憲一さんは、少しうろたえたように師匠と私を見た。そして。


「・・・それは・・・

 母さんが仕事、忙しそうだったから、俺が代わりに・・・」


「私の言葉ではない言葉を、

 "伝言"と偽って、桜に伝えていたんですか?」


「俺だって、母さんと桜の為に・・・」


「やって・・いたんですね・・・」


 ゆらり・・・今までの、気さくな師匠の雰囲気が、凍り付いたような気がした。そして、少しずつ、怒りが露わになっていった。


「私の言葉、と嘘をついて、桜を惑わし、余計なことをしていたんですね?」


「・・・お、俺が見張ってなきゃ、桜だって勝手なことしてたかもしれないだろ!」


 負けじと憲一さんが反論した。


「桜の勝手なこと、とは、具体的に何ですか?」

 

 憲一さんはテーブルにトレイをがちゃん、と乱暴に置くと、私の方も見ずに、師匠のほうをまっすぐに見据えた。


「・・・外の教室で連日夜遅くまで教えて、食事を抜いたり手を抜いたり、自分の健康管理や体調管理も出来ていない。

 それに、自宅で教えてる生徒にかかりきりすぎて、自分のレッスンも最近は疎かだ!

 秋には、コンサート控えてるのに、その準備も進んでない。

 桜は、誰かが見張ってないと、自分のレッスンさえも、やってないだろ!

 それ、ピアニストとしてどうなんだよ!

 誰かが見張ってやんないと、何にもできないガキじゃないか!」


 まるで訴えかけるように、彼は大声で話し始めた。


 まるで、罪状を声高に訴える、被害者のようだ。


 それを、私はどこか、冷めた心で聞いていた。


「・・・そう・・・それで?」


 その空気を、師匠も感じているのか、憲一さんにさらに話を促した。でも、それは、憲一さんの話を興味を持って聞いている、という感じではなく・・・やはりあきれているようだった。


「そのガキの面倒みてやって、何が悪いんだよ!

母さんが忙しそうだから、

俺が代わりに面倒見てやってるんだ!

それを桜は、師匠のパシリだお使いだって、

しまいには、俺が嫌だから、母さんの弟子、辞めるなんて言い出すんだぜ!

面倒見てやってる俺が嫌だからって!

桜、生意気すぎるんだ!

いくら母さんの弟子だって、言っていいことと悪いことくらい、あんだろ?

いい加減にしろよ!」


 俺は悪くない、無罪だ。


 悪いのは俺ではなく、桜だ・・・


 そう叫んでいるように聞こえた。


「・・・つまり、憲一は。

 桜の為に、私のお使いだと偽って、

 桜に嘘の情報を渡していた、っていう事ね?

 それを、桜に拒絶されて、逆ギレして今の言葉?」


「う、嘘じゃないだろ!」


「でも、私は、憲一にそんなことを頼んだ覚えはありません!


それなのにあなたは、私に頼まれた、と言って、桜の世話を焼いていたんでしょ?」


「わ、悪いことしていたわけじゃないだろ!

 桜の為に・・・」


「それが余計なことなんです!」


ぴしゃり、と師匠は彼の言葉を一刀両断した。


「まだわからないの?

 成人した大人の女性に、いらない世話を焼くことが、どれだけ迷惑か!

 あなたは考えたことないの?

 貴方のその行動が、自立した大人の女性のプライドを傷つけているんですよ!

 何ら、間違えが起きたら、あなたはどうやって責任を取るつもりなの?

 あなたがやった余計なことで、もしも万が一、桜に精神的、物理的な・・・ピアニストとしてやっていけなくなるような怪我や損害を与えたら、 貴方はどうやって償うつもりなの?

 そんな損害も、“俺のせいじゃない、師匠の命令だ”で通すつもりなの?

 無責任にも程があるわ!」


「っ・・・・」


 憲一さんは、それ以上、何も言えなくなった。ぎりり、と悔しそうに歯を食いしばる音が聞こえた。


 この空間で、私も師匠も、


 憲一さんの言葉の中に、信用できるひとかけらも見いだせい。



「・・・杏樹を・・・

 杏樹を教えてやってほしい、って言ったのも、師匠?それとも憲一さんの独断?」



 私は杏樹の事を出した。すると、とたんに彼の顔色がさっと変わった。


「あ、あれはっ・・・母さんには後で報告すればいいって思ったから・・・」



「あとで、とは、いつですか?

 私は、東野さんの娘さんを、桜が教えてるなんて、さっき桜から初めて聞きました。

 東野さんが・・・杏樹ちゃんのお母さんが私の処に来たことは、一度もありません!

 ・・・結局、貴方が、私の名前を勝手に使って、勝手に動いたんでしょう!」



 「そ、それは・・・」


 憲一さんは、それ以上何も言えなくなった。師匠は首を横に振った。話にならない、そう言いたげに。


「もういいです。

憲一、部屋から出ていきなさい。

 桜とは、大切な話があります」


そう言って人払いをしたが、憲一さんは縋りつくように首を横に振った。


「仕事の話だろ?

 おれは母さんのマネージャーだから・・・」


「この部屋で仕事の話はしません!

 それはあなたもよく知っているはずですよ!

 まだ判らないんですか?

 今、ここに貴方の居場所はありません!

 貴方も子供じゃないのだから、空気位読みなさい!」


 師匠に一喝され、憲一さんは、どこか傷ついたような顔をした。


 その顔は、この夏、何度も見ているような気がする・・・でも、今の憲一さんの傷ついた表情は、ひどく胸が痛んだ。


 いつもなら、私はそんな痛みもすべて、見て見ぬふりして知らんぷりする。


 それが、一番、私が傷つかない方法だった。


 でも・・・今は・・・


 見て見ぬふりさえ出来ないほど、悲しい程に突き刺さった。見て見ぬふりしていた自分の想いさえも、脅かすほどに・・・



 部屋を出る間際、彼が小さい声で何か言ったような気がしたけど、それを聞き取ることはできなかった。


あるいは聞き取ることが出来たら、私と憲一さんの人間関係が変わったかもしれない。


 ばたん、とドアを閉める音が、部屋に重たく響いた。それを聴きながら、師匠は深いため息をついた。


「まあ、いいわ。


 桜」


「はい」


 師匠は、私ににっこりと笑って見せた。


「私は、大切な話を憲一に任せるようなことはしません。今までだってそう。これからも。

何かあれば、遠慮なく会いに来て。憲一に遠慮することはないわ。

貴方は一人前の、私が育てた立派なピアニスト。何に憚ることもないわ。それは私が一番よく分かっているわ。

だから・・・憲一のせいで、貴方が私の門下から離れることはないし、そんなの、私が許しません」


「師匠・・・」



 気が付くと、私は。


 不覚にも泣き出していた。



 師匠は、まるで子供をあやすように、"そんなことで泣かないの"と言って、あやしてくれた。


 優しく髪を撫でてくれる手の感触には覚えがあった。


 子供の頃、よくこうやって、師匠は髪を撫でてくれた。


 その感触はとても懐かしくて優しくて・・・それだけで心が癒される。


 判ってくれていた。


 師匠に、ずっと信用されていた。


 たったそれだけの事なのに、泣きたくなるほど、嬉しかった。


「ただ、ね。桜・・・」


 師匠は、私の両肩にそっと手をのせると、まるで言葉を選ぶように、視線を彷徨わせた。


「・・・ただ一方的に、憲一を責めるのだけは、辞めて。

 憲一には、憲一なりの考えや想いだって、あるのよ。

 それを理解しろ、とは言わない。

 でも、そういったものもある、ってことだけは・・・

 心の隅にでも残しておいてほしいの」


「憲一さんの・・・想い?」


 思わず、そう聞き返してしまった。


「どうして、彼があんなことをしたのか、判る?」


 突然そう聞かれ、私は首を横に振った。



 判るわけがない!


"ガキの子守なんか御免だ!"


そう言って私を突き放した人が、師匠の名前を使ってまで私の行動を縛り続けていたのだ!


 そんなの、判るわけがない!


「わからないですよ。そんなの・・・憲一さんじゃなきゃ、判らないです」


「そうね・・・憲一に直接聞かなきゃわからないわね」


 師匠は少し、あきれたように肩をすくめた。


「でもね。憲一には、憲一の気持ちや想いがある。

どうして憲一が、嘘を重ねて貴方のそばにいたのか。

今じゃなくていい、いつか・・・貴方もそれは判ってほしいわ」



 師匠は、静かな声で、そう言った。





 憲一さんの・・・気持ち?


 嘘をついてまで、私の側にいた理由?


 そういえば、そんなこと、考えたこともなかった。


 私にとって、憲一さんは・・・


・・・ずっと、好きだった人だ。・・・慕っていた。


 兄のように優しい存在だったこともある。



 でも、ひどい言葉を投げつけられてからは・・・


 慕うのも、好きでいるのも、辞めた。


 彼に対する思慕のすべてを、胸の内に封印して、生き続けた。




 いくら私が彼の事を好きでも、所詮一方通行。それじゃあんまり悲しすぎるから。


 そして今は・・・師匠の息子と、弟子。それだけだ。


 でもそれは、私の気持ちであって。


 彼の気持ちなど、考えたことなどなかった。




 ううん、違う。


 彼の気持ちなど、判り切っている。


 あのひどい言葉を投げつけられた時も、


 彼の感情を全く感じられない今の関係も。


 そこから感じる彼の気持ちなど・・・


 私に向いているわけ、ない・・・




師匠との話を終えてから、私は師匠の書斎を出た。


 そして玄関に向かい、家に帰ろうとすると・・・


「桜」


 玄関で靴を履いていると、後ろから声をかけられた。


 それが誰か、なんて、振り返って確認するまでもなかった。


「桜」


 私は靴を履くと、彼に振りかえらず、そのまま玄関から出ようとした・・・


「桜っ!」


 後ろからは、イラついたような憲一さんの声が、再び聞こえた。


 そして。


「悪かったな」



 彼の謝罪の言葉は、ひどく小さな声だった。その言葉に驚いて、私は彼に振り替えると・・


 憲一さんは、今までに見たことがないほど、小さく、無様に見えた。


(憲一なりの想いも判ってやってほしい)


 さっきの師匠の言葉が、心をよぎった。


「どうして・・・今まで嘘ついてたの?」


どうして、憲一さんの言葉を、“師匠の命令”なんて言って、私に伝えたの?


「お前は・・・そうでなきゃ俺の言葉なんか聞かないだろ?」


「自分のいう事聞かせるために・・。嘘ついたの?


私を、あなたの思い通りに動かすために?」


 私の質問に、彼は直接答えなかった。その代わり。


「寂しかったんだよ」


 吐き捨てるように、そう言った。そして、それを補うように、言い訳をつづけた。


「・・・留学から戻ってから、お前、前と比べて凄い偉くなっちまったから、さ。俺なんか軽くあしらわれると思ってた。すっげー遠い存在になってた」


 偉くなった・・・それは多分、半分くらい、本当の事だ。


 留学先で、ピアノの国際大会とかコンテストで優勝や入賞したりして、現地でピアニストとしてデビュー出来た。戻ったときには、留学前と比べて、プロのピアニストとしての自覚も、少しはあっただろう・・・


 演奏してお金をもらう事、ピアノを仕事にすることの面白さや辛さも、あの留学中に知った。


 学生時代のような、甘ったるい気持ちでは、ピアニストなんかやってられない。


 だから、留学して変わった、という彼の言葉は、…当たっているのだろう。


「・・・子供の頃はさ、いつも俺の後ろ、ついてきていたくせに、帰国したころは、俺のほう、見向きもしなかっただろ?」


 それは違う。それは、留学のせいではない。それ以前からだ。


 それは、子供の頃に彼に投げつけられた、あのひどい言葉のせいだ。彼は、それが判って言っているのだろうか?


「俺が・・・その、母さんの名前を出せば、お前、少しはこっちを向いて話してくれたから・・・」




 呆れた。




 そんな理由で、今まで嘘をついていたのか。


 そんな彼の態度に、二年間、私は傷ついていた、という事か。



 私が憲一さんから距離を置いた本当の理由さえも知らずに、この人はなんて勝手なことを言ってるんだろう!




 でも・・

 

 人なんて、大人なんて・・・あるいは、他人なんて。


 そんなものかもしれない。




 自分のしたことさえ自覚なく忘れ去り。


 自分のせいで他人がどれだけ傷ついたかも知らずに。


 自分の負った傷ばかり重大なこととして扱い、他人の傷なんて知ったことじゃない。


 自分が傷つかなければ、相手は傷つけても構わなくて。相手におわせた心の傷なんか、好きなだけ過小評価して。


 加害者のくせに、"あいつのせいで、傷ついたのは俺の方だ!"と被害者面して騒ぎを大きくして。


 勝手に傷ついて、勝手に落ち込んで・・さりとて無関心にもなれず・・・


 

 

 子供の頃、貴方の言葉で傷ついて、距離を置いた、私。


 それから歳を経て、その距離をさみしく感じた、憲一さん。


 私は無関心になり。


 彼は気を引くために嘘を重ねた。




 子供じみた彼の行いも。


 一刻も早く大人になりたい、と願った、あの頃の私の想いも。


 所詮、同じコインの表と裏のようなものだ。



 




 もし、今。

 

 彼とちゃんと向かい合うことが出来たら。


 その"憲一さんの気持ち"とやらも話してくれるんだろうか?



 そうしたら、彼とは子供の頃の関係に、戻れるの・・・?



 でも。それをするには、私と憲一さんの関係は冷たすぎた。





「・・・無理・・・・」





 彼の気持ちも理解してあげろ?


 冗談じゃない!


 誰がわかってあげられるものか!



じゃあ、今まで、"師匠が言ってたから"という、彼の言葉に従うことしか出来なかった私の想いは?


ずっと、憲一さんのこと好きで、好きで。


どうしようもなく好きで。


でも、ひどい言葉を投げつけられて、嫌われていると思っていた。


どうにもならない恋だ、割り切って


その想いにさえ、なかったことにして目を逸らし続けた。


私の気持ちは、いったい誰がわかってくれるの?


誰が癒してくれるのよ!


そんな謝罪ひとつで癒せるほど浅い傷じゃない!




「桜っ!」


「無理だよ。もう・・・


 元に戻らない」


 私は、振り返り、彼にそう断言した。



 もう、これで最後。


 彼に思いをぶつけるのは、これが最後。


 最後だから・・・



「あんたは何も判ってない」


 そういうと、きっ! と、彼の顔を見据えた。


 いったい私はどんな目つきをしているんだろう?


 私の顔を見て、彼が一瞬、びくっと怯んだ気がした。



「貴方は・・・

 

 大好きな人にひどい言葉を投げつけられた事がある?


 昨日まで優しくしてくれた人が、今日になって突然酷い言葉を投げつけて来たのよ! 


 子供なのに・・・子供でいることを拒絶された子供の気持ち、考えたこと、あるのっ?!」


 気が付くと私は、心にたまった想いのすべてを吐き出していた。



「私は・・・


 私は貴方からそんな仕打ちを受けたの!


 大好きだった人に!


 そんなひどい仕打ちを受けたのよっ!


 今更、謝罪されたって、


 許せない!


 元に戻れない!」




 そう、もう戻れない。


 あの、子供の頃には、もう戻れない。


 あなたに子供でいることを否定されて。


 子供でいることを辞めてしまったから。


 今更子供の頃には・・・・貴方を無邪気に慕っていたころには


 もう戻れないの!


「桜・・・・」


 驚いた眼をして、私を見ている憲一さんに、私は背を向けた。


ああ、私ときたら!


 あんな表情にさえ、私の心はまた動く。


 動く心にさえ、見て見ぬふりをして心の奥にしまい込まないと。


 また子供の頃のように、彼の言葉で傷ついてしまう・・・・



 ああ、私は、何にも変わっていない。


 大人になったつもりなのに。


 子供でいることを拒絶したくせに。

 

 彼の言葉に、まるで子供みたいに一喜一憂して、


 今もまた、動揺している・・・・



 玄関を出た瞬間



「もう・・・やだっ・・・・・」


 私は耐えられなくなって、その場にしゃがみ込んだ。


 

 傷つかないように守り続けていた心が、


幼稚な思いが、


 むき出しになって、晒されてしまったみたいで。


 それに耐えられなくなった私は、


 玄関を出た処で、泣き崩れた。



 子供みたいに、みっともなく、声をあげて泣いていた。





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