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夏の章 第1話

「そういえば、どうだ?杏樹ちゃんのレッスン、うまくいってるか?」


 ある日の夜、仕事が終わって帰宅すると、久しぶりに憲一さんがうちにやってきた。


 師匠は、春先から先日までウィーンで仕事と公演があって、彼は師匠のマネージャーとしてその仕事に付き添っていた。帰国したのはつい先日だったので、彼と会ったのは、杏樹の事を頼まれた、あの日以来だ。


「うん、順調」


 順調だと・・・思う。


 レッスン内容は、私が考えているほど早くはない。けれど、ゆっくりだけど、以前よりも弾けるようになっている。楽譜も、読もうとしているのが伝わってきて、教える側としては、とてもうれしい。


 杏樹とも仲良くやっているし、問題は起きていない・・はずだ。


「そうか、母さんが心配してたけど、それ聞いて安心した」


 また・・師匠か。私は内心ため息をついた。


 師匠も憲一さんも嫌いではない。でも・・・憲一さんの口から「母さんに頼まれた」というというフレーズを聞くのが、嫌だった。


 彼の私に対する親切は、彼の意志などではなく、師匠に頼まれてのことだ。


「飯は?


今日うち、生姜焼きだけど、食うか?」


「・・・いらない・・・これから作るから、平気」


 実際、食事は食べていないけど、ご飯も炊いてあるし、仕事に出かける前、夕食が簡単に作れるように、軽く支度だけしておいた。


 最近は、いつもそうしている。外食があまり好きではないので、多少仕事で帰宅が遅くなっても、すぐに夕食が作れるように・・と。


「これから?大変だろ?」


「平気だからっ」


 こうやって私が仕事で遅く帰ると、彼が何かしら夕食を用意してくれている。それはそれで、とてもありがたいし感謝しているけど、いつまでも甘えているわけにもいかない。


「遠慮するな。母さんにも、お前にもメシちゃんと食わせるように言われてる」


 また、師匠・・・か。


 私は内心ため息をついた。


 結局、師匠の事を出した彼にかなうわけもなく。私は彼が作った料理を夕食に食べることになってしまった。


 彼は満足げだけど、私は、彼のそんな顔をまともに見ることが出来ず、彼が用意してくれた料理に目を落としたまま、彼が帰ってゆく気配だけを感じていた。 



 彼が私に優しいのも、こうやって気遣ってくれるのも、


 彼の意志なんかではない。


 でも、その優しさも気遣いも、


 最近はとても窮屈だ。


 それは、この優しさも気遣いも、彼の意志などでもなく、まして、彼が私に好意を持っているから、とかそういうわけでもなく、


「師匠の命令」だから・・・



 もう、そろそろやめてほしかった。


 「師匠の命令」で優しくするのも、こうしてご飯を用意してくれるのも。



こうして、憲一さんと向かい合えるのは嬉しいのに。


昔のように、子供扱いして、ひどい言葉を投げつけられた頃と比べたら、今の方が余程、まともな付き合いにはずなのに。


「師匠の命令」「母さんがそうしろって」彼がそう言葉にする度に、その嬉しさは凍りつき、嫌な柵だけが残る。


私が、母親同然な師匠の命令を拒めるわけもなく。


心密かに思いを寄せている憲一さんの好意を、断れるはずもない。


でもその好意は、彼の意志でも何でもない。



“師匠の命令だから仕方なく”



なのだ。


もう、こんな関係は嫌なのに。


こんな優しさ、辛くて耐えられないのに。


私はずいぶん長いこと、この辛さを、彼に対する恋愛感情と一緒に心の奥底に封印し続けている。


そして、その複雑な思いゆえ、この関係を壊せないままだった。


壊せないまま・・・






 七月。梅雨明け間近のこと。


 今日も、いつものように杏樹は元気にうちにやってきて、いつものように落ち着きなくレッスンをした。


 そしてレッスン後は、いつものように杏樹のおしゃべりに付き合った。

 

 こんなレッスンを始めて2か月。最近は、杏樹のこんなおしゃべりにずいぶん慣れてきた。・・・いや、慣らされてしまった。


「明日の土曜日ね、七夕のお祭りがあるの!」


「・・・城址公園でやってるやつ?」


「うん、そう!」


 杏樹は元気にそう答えた。


 “七夕のお祭り”


この行事は、私が子供のころにもあった行事だ。


 地域の幼稚園と小学校の合同行事で、学校の裏にある城址公園で行われる。


 城址公園には大きな七夕の笹が沢山飾られ、園児と児童は、その行事の数日前から折り紙で笹飾りを作り、短冊には願い事を書く。


 幼稚園と小学校のPTAや地域のボランティア、小学生の高学年や中学生のボランティアが催すちょっとしたゲームやイベントが、まるで出店のように軒を連ねる。


 近くの農家や農協、婦人会の人たちも、出店を(出店といっても、子供相手で学校行事の一環なので、元が取れるか取れないか、破格な料金なのだが)出したり、お手伝いとして参加している。一足早い夏祭りのようなものだ。


 私が子供だった当時も、そして多分今も、子供たちにとってはとても楽しみな、近隣住民や父母参加も許されているイベントの一つだ。


 もちろん、私が子供のころにもこの行事はあった。あの頃は、今よりもずっと子供の数が多くて、人も多くて、とてもにぎわっている印象があった。けれど今は地域の子供も、住んでいる人もずいぶん減った。規模もずいぶん縮小したみたいだけれど、それでも廃止させることもなく、“地域の方たちと子供たちの、数少ない交流の場だから”ということで、続いているようだった。



 杏樹は嬉しそうな顔をして、手提げ袋から色とりどりの短冊を取り出した。


「願い事、書くの?」


 七夕に短冊といえば、願い事だ。杏樹は嬉しそうに「うん!」と頷くと、ふで箱から鉛筆を取り出して、何やら書き始めた。みると、短冊は何枚もあるようだ。


「それ全部、願い事?」


「うん!だってお願い事、いーっぱいあるんだもん!一枚じゃ足りないよ!」


 それには、一年生らしい、ひらがなばかりで句読点のない文字で、願い事がつづられていた。


『おおきくなったら、おはなやさんになれますように』


『おともだちと、いっぱいあそべますように』


『おかしとあいすくりーむがいっぱいたべたい!』


『おうちでこいぬがかえますように』


『コウくんと、ずーっといっしょにいられますように』


 どれも他愛のない、かわいい願い事だ。


 そんな色とりどりの短冊を見ながら・・・ふと私は? 自分に思いを馳せた。


 私はあの時、どんな願い事をしたんだっけ・・・


 正直、心にすら、残っていなかった。ピアニストを志したのは、もうちょっと大きくなってからだし、あの頃は今と違って、子供らしい願い事の一つや二つ、あったはずだ・・・


 思い出せない願い事に少しイライラしていると、杏樹はそれにまったく構わずに、願い事を書き続けている。


 そして、その中の一つが、私の心を掴んだ。


『パパに、またあえますように』


 短くそう書かれた短冊には・・・きっと杏樹が書いたのだろう・・・男の人と女の子供の、決して上手ではない絵も書かれてあった。きっとこの絵は、杏樹のパパと、杏樹自身・・・


 短冊は何枚もあるし、願い事もたくさんあるけれど、願い事と一緒に絵まで描かれているものは、これ一枚だった。


「ね、杏樹? 杏樹のパパは?」


 これはもしかしたら、聞いてはいけない事だったのかもしれない。


 杏樹と杏樹のお母さんに初めて会って、憲一さんに紹介されたときに、杏樹のお母さんはシングルマザーであることも聞いていた。もしかしたら、杏樹にとってはつらい思い出なのかもしれない・・・


 けれど杏樹はケロッとしていた。


「ママと離婚しちゃった」


 一言。それだけだった。


「パパ、ママの事嫌いになっちゃったから、離婚したんだって。でも、杏樹の事は好きだから、時々、ママに内緒で会いに来てくれたの。でもね、もうずーっと、会いに来てくれないの・・・お仕事、忙しいんだって」


いつも笑顔な杏樹の表情に、少しだけ影が降りてきた。その短冊に目を落とし、泣いているようにも見えた。


「杏樹・・・」


 さみしそうな杏樹・・・私はいったいどんな言葉をかけていいのかわからなくなった。やはり、聞いてはいけない事だったのだ・・・


 そう思って、何も言わずに杏樹の髪を優しく撫でた。


 そういえば、私も昔、母がいなくて寂しい思いをしていた時、誰かにこうして頭をなでてもらった・・・


 あれは誰だっけ・・・


 記憶の糸を手繰ろうとしたけれど、それはすぐに杏樹の声によって中断させられた。


「先生のパパは?」


 突然そう聞かれて、私は意識を過去から、今、杏樹へと移した。


「え?」


 びっくりしてそう聞き返すと、杏樹の顔は短冊から私へと移っていた。


「先生のパパとママは?」


 ・・・私の両親の事・・・


 そういえばあまり聞かれたことはない。


 周囲の関係者は私の身の上を知っている人が多く、そして知っているからこそ、余計なことを聞かない。


 教室の生徒も、その大半が大人や10代後半の生徒で、教室では余計な話はしない。


 だから・・・こんな風に両親の事を聞かれるのは稀だった。


「私のママはね・・・私が杏樹よりもっと小さかったころ、病気で死んじゃったの。


ママの顔は、もう写真でしか知らないし、一緒に遊んだりした思い出も、ないんだ」


 実際は、お母さんと遊んだり、抱っこされたりしたことはあったのかもしれない。でも、それは記憶すらない、遠い昔の事だ。


「パパはね、二年前、やっぱり病気で死んじゃった。ママとおんなじ病気だったの」


 二人とも、癌だった。母は、私を生んでからすぐに発病し、父は二年前発病した。二人とも発見が遅く、発病後半年もたたずに亡くなった。


 今の私には、身内、と呼べる人は殆どいない。 父の親戚は、みんな地方に住んでいて、父の葬儀以来会っていないし、母の親戚に至っては、母がドイツ人とのハーフなので、親族はみんなドイツに住んでいる。留学中はお世話になったし、今もメールのやり取りはしているけど、何かあった時にすぐに会いにゆける距離ではない。


「そっか・・・先生も、一人ぼっちなんだね・・・」


 それは、まるで独り言のような、小さい声だったけれど、私の胸に突き刺さった。


 杏樹の母は、シングルマザーで杏樹を抱えて働いている。それは、私の子供時代と重なって見えた。


 母が亡くなった後、父は幼い私を祖母に預けて働いていたけれど、間もなく祖母も亡くなり、この家で、一人で父を待つ日々となった。


 隣に住む師匠と憲一さんが世話を焼いてくれて、私にとっては母や兄のような存在だったけれど・・・寂しさすべてが癒えるわけではない。


 “いない”という現実から逃れられるわけではない。


その寂しさや現実から逃れるように、私はピアノにのめりこんでいったけれど。


 杏樹は・・・


 いったいどうやってあの寂しさや孤独を埋めているんだろう・・・




 気が付くと私は、


 たまらなくなって、


杏樹をぎゅーっと抱きしめていた。




「先生?どうしたの?」


 杏樹は驚いたのか、抱きしめる私の顔を不思議そうに見上げている。


「別に・・ぎゅーしたかったの」


 私はふざけた顔をしてそういった。すると杏樹も笑って、


「じゃ、私も先生の事、ぎゅーしてあげる!」


 杏樹の手が私に抱き付くようにからんできた。


 杏樹の身体は、ひどく体温が高く感じた。まるで杏樹の心の温かさ、そのもののようだった。






 もしかしたら。


 この時私が杏樹を抱きしめたのは。


 あの頃の私が、誰かにそうしてもらいたかったからかもしれない。 


 誰かに、ぎゅって、・・・パパやママみたいに・・・抱きしめて欲しかったから・・・・



「そうだ!先生!


 これあげる!!」



 それからどれくらい時間が過ぎてからか。


 杏樹は私に抱き付いたままそういうと、その両腕をほどき、ピンク色の手提げ袋から細長い色画用紙を取り出した。


 薄いピンク色のそれは・・・七夕の短冊だった。


 上のほうには小さい丸い穴が開いていて、すでに紐が通されていた。


「先生も、願い事、書こうよ!


 私、結んできてあげるから・・・


あ、そうだ!


先生も土曜日、お祭りに来てよ!」


「え?私?」


 突然の杏樹の言葉に、私は返す言葉を失った。


「うん! だって、近所の人とかいっぱい来てるよ?


先生が来ても、誰も怒らないよ!


だからおいで!


一緒に短冊、飾ろうよ!」


 杏樹は満面の笑みだった。本当に来てほしい・・・表情からそんな感情がにじみ出ていた。



 その表情に、不思議と心がぐらついた。私もそこに行きたい、と思った。


 でも・・・


「駄目だよ」


 それでも、私はその杏樹の申し出を断った。土曜は、都内で友人の演奏家がコンサートをする。その伴奏として私も舞台に立つことになっている。


それをキャンセルする訳にはいかない。


「お仕事、休めないんだ。ごめんね」


 そういうと、杏樹の笑顔は消えてしまった。 


「先生も、パパとママみたいなこと、いうんだね」


 その一言は、私の心を酷く抉った。


 そう、私もまた・・・


 父に、あるいは隣の師匠に、同じことを言われ続けて育ったのだ。


運動会は勿論。


七夕の集いも


夏祭りや日曜日のちょっとしたイベントの日も、


ピアノの発表会やジュニアコンテストさえも


仕事が忙しくて、父がきてくれたことは、数える程しかなかった。



 そして、私も、今の杏樹のように、ひどく傷ついていた・・・筈。





 ああ、人は。


ううん、私は

 

 学習能力が、ない。


 あの頃、言われて傷ついた言葉を。


 私もまた、杏樹に言っている。


 杏樹が傷つくかも・・・という可能性さえ気づかずに。


 私は、あるいは杏樹の母は、あるいは大人は。


 いつから、そんな簡単な思いすら、忘れてしまうんだろう・・・



 子供の気持ちと、大人の事情。


 それぞれ譲れないもの。


 一人ぼっちの子供の孤独の裏で


 大人もまた、それぞれの事情を抱えながら働いている。


 子供の気持ちも、大人の事情も。


 なかったことにはできないのに。


「ごめんね、杏樹」


 こんな言葉が、杏樹の心を癒せるのか、わからないけれど。


 私はそう言うしかなかった。


 杏樹は、まるで大人みたいに、“仕方がない”と大きなため息をついた。


「じゃ、先生も願いごと、書いて! 私が飾ってきてあげる!」


それで許してあげる!そう言いたげに、私の顔を見上げた。


「願い事・・」


「そう!願い事!」


 願い事、か。


 大人になると、だんだん、こういう短冊に書けるような願い事が、なくなってゆく。


 そして、過去どんなことを願ったのかさえも、忘れてしまう・・・


「何にもないの?」


「ん・・・・」



 それでも・・・今、一つだけ。


 杏樹の笑顔を見ながら、願い事を思いついた。


 私は手元のボールペンで、杏樹にも読めるような平仮名でその願い事を書いた。


「あんじゅが、いつもわらっていますように」


 ひらがなで書いたその願い事を、杏樹は見た途端、私に満面の笑みを見せた。


「先生! この願い事なら、もう叶ってるよ!」


 杏樹はそう言って私に抱き付いてきた。


「せんせい、だーいすきっ!


だからわたし、いつも笑ってるよ!」


 

 杏樹の笑顔で、心の古傷が癒されているのを、感じながら・・・






「私が飾ってきてあげる!」


 そう言ったくせに杏樹は、私の願い事を書いた短冊だけをレッスン室に忘れて行った。


一緒に願い事を書いた、レッスン室の丸テーブルの上に置き忘れた、ピンク色の短冊を見つけたのは、その日の夜遅くで、それが、私が書いた短冊だとわかった時、軽いめまいと頭痛がした。


  あんなに楽しそうに、『私が飾っておいてあげる」と言っていたのにこれだ。


 きっと、杏樹と出会う前の私だったら、「これだから子供は・・・」と、子供嫌いな理由を拾って溜息ついて、ゴミ箱に捨てていただろう。


でも、ここ2ヶ月ほど杏樹と向き合うようになって・・・何となく、こんな忘れ物さえも『杏樹らしい』と感じてしまっていた。


  或いはもしかしたら・・・私を、七夕の集いに連れてきたくて、わざと忘れたのかもしれない、とさえ思っていた。



 私は、散々迷った挙句、仕事に行く前、朝早く、城址公園に寄る事にした。


 朝早い時間にも関わらず、父兄か先生かと思われる大人がわらわらと準備をしていた。


大きな笹を設置している数人の男性は、きっと子供達の父親だろうし、会場設営や出店の準備に奔走しているのは教師かPTA関係者だろう。


 普段、朝の城址公園はとても静かなのに、流石に今日はざわつき、活気があった。


 私は何食わぬ顔で城址公園内の、大きな立派な笹が飾ってある所へと向かった。


 いったいどこにこんなのが生えているんだろう? そう思うほど大きな笹を見上げながら、つい、杏樹の学年・・一年生の笹はどこだろう?と探していた。


 笹飾りを見ると、なんとなく、上級生のクラスの笹飾りは判った。飾りが綺麗だったり、短冊に書かれている文字も綺麗だったり、漢字で書かれていたりすると、五年生かな?六年生かな? という想像はつく。


 気が付くと私は、あんまり真剣に笹を見上げていたらしい。


「それは、5年生の笹ですよ」


 突然、後ろからそういわれた。


 びっくりして振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。


 歳は私と同年代か、少し年上くらいだろうか?小柄で、少し長めの真っ黒いセミロングの髪を後ろで一つに束ねて、Tシャツに動きやすそうなズボンをはいている。


童顔でかわいらしい、人懐っこい笑顔を私に向けていた。


 一瞬、杏樹と似ているような気がしたのは、気のせいだろうか?


 首には、ネームプレートがかかっていて、小学校の名前と名前が記されていた。どうやら杏樹の通う小学校の先生…らしい。


 やさしくて、元気いっぱいで生気に溢れている。生徒に人気のある先生、といった雰囲気が全身からにじみ出ているような人だった。


「あ・・・そうですか・・・」


 私は曖昧にそう答えながら、それ以上気に留めることもなく、その先生から目をそらした。


「どこかのクラスの笹をお探しですか?」


 それでもこの先生が、食いつくようにそう聞いてきたのは、私が片手に短冊を持っていたからかもしれない。


 正直、あんまり関わりたくなかった。けれど、ここで聞いた方が手間が省けるとも思った。


私は頷いて、杏樹の名前を出した。すると、その先生は、ぱぁっと、今までとは違う種類の笑顔を見せてくれた。


「ああ、杏樹のクラスの笹なら、あっちです」


 その先生は、そういうと一本の笹を指さした。


 私はその先生にお礼を言うと、その笹のそばに近づいた。


 上級生の笹に飾られた、作りこまれた綺麗な飾りとは違って、もっとシンプルだけれども勢いがある飾りが、たくさん飾られていた。飾りも上手に作られているわけではない。けれど、きっと元気いっぱいにいつも外で泥だらけになるまで遊んでいるような子達が、慣れない手つきで一生懸命作ったんだろうな・・・それらを見ながら、自然に笑みがあふれた。


「なんか、杏樹っぽいね」


 そして、笹飾りと一緒に飾られた短冊を見ると・・・杏樹と似たり寄ったりな字で、かわいらしい願い事がたくさん、書かれていた。


 そんな願い事の中に・・・


『ぴあのが、もっとじょうずになって、さくらせんせいにいっぱいほめられますように』


 見覚えのある筆跡でそう書かれた短冊を見つけた。見つけた瞬間、心臓が跳ね上がるかと思うほど、高鳴った。


 ゆっくり、その短冊に手を伸ばし、名前を見ると・・・


『ひがしの あんじゅ』


 ひらがなでそう書かれていた。そして、名前の横には、おそらく杏樹が書いたのだろう・・・女の子の似顔絵が、二つ・・・きっとそれは、杏樹と、私・・・



短冊の周りには、色とりどりの色鉛筆で書かれた音符やト音記号まで書かれていた。最近やっとかけるようになったト音記号はまだ不完全で、ぐしゃぐしゃっとしていた。とても花丸はあげられない。


でも・・・


 やっぱり杏樹だ。


私は確信した。


 昨日見せてくれた願い事とはまた違う、それでも嬉しくなってしまうような願い事が書かれていた。いったいいつ、こんなの書いたのだろう。


昨日、杏樹の手元には短冊があった。だからこれはきっと、それ以前に学校でつけたものだろう。


 もしかしたら。


 杏樹がもっとピアノが上達したら、私が喜ぶとでも思ったのかもしれない。


 あの杏樹だ。考えそうだ。・・・と、そう思ったのは、私が杏樹を買いかぶりすぎているからだろうか?


 答えなんてどこにもない。




 でも・・・




 私は、収まらない笑顔のまま、その杏樹の短冊の横に、私の短冊を飾った。


『あんじゅが、いつもわらっていますように』


 そう書いた短冊を・・・


 二枚の短冊は、まるで寄り添うように、私の手元から離れて、風に揺れ始めた。


「杏樹ちゃんのお知り合いですか?」


 見ると、さっきの先生が、私に話しかけてきてくれていた。私は、はい、と頷いて、自分が、杏樹のピアノの先生であることを話した。


このまま名乗らなかったら、まるで私が近所の不審者みたいに思われそうだ。


・・・ところが、私が名乗ると先生は今までとは違う種類の、親しみの混ざった笑みを見せてくれた。


「もしかして・・『さくらせんせい』ですか?」


「え?」


 杏樹、私の事、先生に話したのだろうか?


 そりゃあ、杏樹が学校帰りに私の家に寄る・・・という事で、学校側には私の個人情報を知らせてあるけれど。


名前と住所、電話番号と携帯番号、ご丁寧に職業や勤め先まで、学校側は把握しているはずだ。


でも、「さくらせんせい」。と、そう呼ぶ生徒は、私の教え子の中には杏樹、一人しかいない。それ以外に生徒は、私のことを“叶野先生”と苗字で呼ぶ。


杏樹自身が、学校で私の話をしない限り、「さくらせんせい」という呼び名を、学校の先生が知っているなんて・・・あり得ない。


 

「そうですか・・・あ、私は杏樹の担任で、国仲と申します」


その先生は、そういって私にお辞儀した。


「杏樹の担任の先生・・・ですか・・・」


 なんて偶然だ。気が付くと私は、緊張を少しほどいて笑っていた。


「杏樹は、よく『桜先生』の事を私に話してくれますよ。


 すごく厳しいけど、優しい先生だ、と。


 先生なのに、学校の先生みたいじゃない。


 大人なのに、ママとも違う。


 何でも知っている、すごく年上のお姉さんみたいだって、


 嬉しそうに話してくれましたよ」


 先生は、杏樹と私の事を、まるで自分のことのように楽しそうに話してくれた。一方、話された私のほうは、面と向かってこんなことを言われて、恥ずかしくて顔が熱かった。


「杏樹の話を聞いて、杏樹は本当に『桜先生』の事が大好きなんだな、って思いましたし、


 私も、その『桜先生』にお会いしてみたかったんです」


 それはまるで、何かの告白みたいで、妙な気分だった。


「・・・そう・・・ですか・・・」


「ええ。お会いできて嬉しいです」


思いをちゃんと言葉にする・・大人なのに、まるで杏樹みたいだ。


 学校での杏樹・・・きっとこの先生相手でも、彼女は私と同じようにマシンガントークをするのだろうか?


 でも、こんな優しくて素直そうな先生相手だったら、きっと杏樹も、容赦なくマシンガントーク、するだろう。


「杏樹には、今日、この集いに来るように言われたんですけど、今日、仕事でこれから行かなくてはいけないので・・・短冊だけ飾りに来ました」


 来れて、よかったです。


 小さな声で、そう呟いた。


杏樹や、目の前にいる国仲先生に少しだけ習って、思いをちゃんと、言葉にした。


そう、杏樹がいつも、私にそうしてくれるように・・・


来て、良かった。


杏樹の、あの短冊を見ることができて、良かった。


杏樹の担任の先生に、会えて良かった。


学校での杏樹を、少しだけど、知ることができて、良かった・・・




私は、杏樹の担任の先生に深くお辞儀すると、先生は明るい声で“どういたしまして”と、笑っていた。


「杏樹ちゃんには、桜先生がきたこと、ちゃんと伝えてあげますね。


きっと杏樹ちゃん、飛び上がって喜びますよ」


「その杏樹、想像できますね」


私は、いつも全身で、知る言葉の全てで感情を表す杏樹を想像すると、同じことを考えていたのか、先生もクスッと笑っていた。


あんまり先生らしくないな・・・私の持っている『小学校の先生』のイメージとは随分違う雰囲気だった。


でも・・・杏樹にはぴったりだ。


あの先生のクラスで、のびのびと毎日を過ごしている杏樹が、簡単に想像できた。


そして、妙に安心したし、ほっとした。





 私は、そんな気持ちを温かく抱えながら、城址公園を後にした。


国仲先生は、忙しいはずなのに、私を最後まで見送ってくれた。その気持ちは、柔らかく暖かくて、私の心を解していった。


 そして、私自身の仕事へと、頭を切り替えた。


今日は舞台本番、楽しく演奏できそうだ。心が軽かった。






 杏樹が、あの短冊に気づいたかどうかは。


あの先生が、杏樹に私のことを伝えたかどうかは、


 それこそ、織姫や彦星だけが知っている・・・かな?


 



・・・・・




 梅雨が明けると、すぐに小学校は半日授業になる。


 ・・と言うことは、杏樹がうちにたどり着く時間も、いつもよりも早くなり。

 

 授業が半日で、給食がない、と言うことは、お昼も食べずにうちに来ることになる。

 

「一旦お家に帰って、お昼ご飯を食べてからおいで」


そう言ってみた。でも、家に帰ってもお母さんはいないし、独りぼっちだから、と、「桜先生のお家で一緒にお昼ご飯が食べたい」と言いだした。


さすがにそれには驚いて、杏樹の母親に相談すると、「杏樹がそこまで言うなら・・・もし先生がご迷惑でなければ、夏の間だけでも、そうしてもらえますか?」とまで言われてしまった。


信頼されているのか放任なのか、判断に困るところだ。




 かくして、休暇の日、いつも一人で食べていたお昼ご飯は、杏樹も一緒に食べる事になった。

 

 杏樹は、「ママからお昼代貰ってるから、帰りにコンビニでおにぎり買ってくるね!」と嬉しそうにうきうき顔で言っていたけれど、ランドセル姿のままコンビニに立ち寄りなんてさせるわけにはいかない。もし何かあれば、杏樹が帰りに立ち寄っている、私の責任になってしまうかも知れない。

 

 結局私は、杏樹と自分、二人分のお昼を作る事になってしまった。

 

「休暇の筈なのになぁ・・・」


 料理は決して嫌いではないけど、仕事が立て込むとつい手抜きをする癖がある。特に休日のお昼なんて、ろくに食べずに済ませてしまうことも多い位だ。

 

 休暇なのに、苦手な子供のレッスンして、休暇なのに、普段はやらずに済んでいる料理をして、休暇なのに・・・

 

「休暇、なのになぁ・・・」


 テーブルには、二人分のチャーハンとインスタントのスープ。あと麦茶。

 

 このテーブルに、二人分の食事を並べることは、父が亡くなってからは、なかった。

 

 時々憲一さんが私のご飯を作ってくれたり、隣で作ったお惣菜を持ってきてくれることはあるけど、彼はここでは食べず、食事はいつも一人だった。

 

友人が皆無なわけではない。


ただ、私自身、仕事が不規則だし、その友達の大半が、結婚していたり、私同様仕事の休みが不規則だったりと、ゆっくり友達と会う暇などなかった。


音楽家や演奏家の仲間が家にくることは良くあるけど、大半仕事がらみで、レッスン室でその用の大半を済ませてしまう。


そう、私にとってレッスン室は仕事部屋も兼ねていて、このリビングは、私のプライベートな空間・・・の、はずだった。


そこに杏樹を入れることに抵抗がないわけではない。でも、他の誰かとここで食事をするよりも、ここ何ヶ月かで気心がしれつつある杏樹のほうが、よっぽどマシのような気がした。


それでも、いつもと違うテーブル、いままでと違う休暇に、戸惑うことしかできなかった。

 

 

 

「さくらせんせーーーーーーーーーい!」


 12時を告げる鐘の音が市内に響く頃、いつものように、外で杏樹の叫び声が聞こえた。


 私はお昼の支度を終えたばかりのテーブルを一瞥してから、玄関を開けて、杏樹を迎えに出た。

 

 杏樹は、家の前の緩やかな坂道の途中にいた。そして私を見つけると、手に持っている帽子を振った。

 

 杏樹はノースリーブのTシャツに短パンをはいて、靴下を履かずに、素足に運動靴を履いていた。

 

 うちに来た頃と比べて随分長くなった髪の家は頭の上の方でポニーテールにして、可愛らしいチャームのついたシュシュで束ねている。

 

 いつものようにピンク色のランドセルに、ピンク色の手提げ袋、そして肩には水筒までさげている。

 

 まるで遠足か校外学習みたいだな、と思った。

 

 そんなことを考えている間に、杏樹は緩やかな坂を重たい足取りで駆け上がり、いつものようにばふっ!と私に抱きついた。

 

 いや、抱きつく、というより倒れ込む、といった感じか・・・・

 

 

「あつーーーーーーーーーい! つかれた!」

 

 杏樹のうなじは軽く日焼けして、赤味がかって汗ばんでいた。顔も腕も汗びっしょりだ。脱水症状や熱中症を起こさないだろうか? と心配になった。

 

「中に入って! 今麦茶あげるから」

 

「うん!」

 

 私は杏樹を引きずるようにして家に入れると、軽くエアコンの効いたリビングに通して、氷を一杯入れた麦茶を差し出した。

 

「ありがとう!いただきまーす!」

 

 差し出した麦茶を勢いよく飲み干し、更に飲みたそうだったのでグラスに再び注ぎ・・・あっという間に三回も麦茶をおかわりした。


気がつくと、杏樹しか飲まない筈の麦茶のボトルが半分以上減っていた。

 

「おいしかったーーー!!!!」

 

 ほっとしたようにそう言う杏樹は、汗びっしょりだったけど、いつもの明るい笑顔だった。

 

 その笑顔を見た途端、さっきまで感じていた戸惑いは、どこかへ消えてしまった。

 

「ご飯・・・たべよっか?」

 

 戸惑いが消えた理由に、一瞬思いを馳せようとしたけど、それ以上に、お腹を空かせているであろう杏樹の方が気になってそう聞くと、杏樹は嬉しそうに“うん!”と頷いた。

 

「わーい!チャーハンだ!」


「おいしいかどうか判らないよ?」


「おいしいよ!」


まだ食べてもいないのに、杏樹はそう言っていたずらっ子のようにえへへっと笑った。


 私と杏樹は、それぞれテーブルについて、“いただきます”と両手を合わせて言った。杏樹は私の作ったチャーハンにぱくついた。


「おいしーーー!」


 なんて事もない、普通のチャーハンを、杏樹は満面の笑みで頬張りながらそう言った。

 

「そういえば、杏樹は、給食のない日のお昼はどうしてるの?」


 杏樹の母はシングルマザーで、平日は働いているはずだ。


「ママが、作っておいてくれるの?」

 

 そう聞くと、杏樹はううん、と首を横に振った。

 

「マンションの一階に、コンビニがあるの。いつもママ、お昼代はくれるから、コンビニでおにぎりとか買って食べてるんだ・・・ママ、忙しいし、朝も早いから、私を起こしたら、もう出かけちゃうんだ」


「じゃあ、朝ご飯も、一人なの?」


 私がそう聞くと杏樹はうん、と頷いた。

 

「でも、朝ご飯は、ちゃんと作ってくれるよ!夕ご飯も、お家に帰ってから作ってくれるの!」


 まるでとってつけたようにそう言った杏樹の目は、少しだけ、寂しそうな色が混ざっていた。

 

 その表情に、見覚えがあった。

 

 


 私は、物心つく前に母を失い、父は、仕事で忙しく、子供の頃は、あまり父に構ってもらった覚えがない。

 

 母親代わりだった師匠だって、いつも居てくれたわけではない。コンサート間近になるとほったらかしにされてしまうことも沢山あった。

 

 結局、師匠が忙しいときは、当時小学生だった憲一さんがご飯を作ってくれたりもしたけど、一緒にご飯を食べていたのは、小学2,3年のころまで、健一さんが中学生になるまでだった。憲一さんも、中学生で部活や勉強が忙しくなり、隣に住む子供の面倒まで見ていられなかったのだ。


それ以後は・・・ご飯は、独りぼっちで食べることの方が多かった。

 

このリビングで・・・


「・・・杏樹も・・・私と一緒だね・・・」


「え?なあに?先生?」


 杏樹は頬にご飯粒をつけて、私の小さな独り言を聞き返した。

 

 私は慌てて首を横に振った。

 

「なんでもないよ・・・・ほら、ほっぺにごはんついてるよ」


 私は、不意に思い出した孤独を杏樹に悟られないように笑うと、杏樹の頬にくっついたご飯粒を指でとってあげた。

 

 そういえば、こんな些細な事でさえ・・・私は誰かにして貰った覚えが、ない。

 

「ありがと!先生!


何か先生って、ママみたいだねっ」


 うふふっと笑ってそういいながら、杏樹は再びチャーハンを頬張った。

 

 私の作ったチャーハンを、杏樹と私は完食していた。

 

 いつもは、今日作った半分の量でさえ、私は一人で食べきれないのに、気がつくと私も、お腹いっぱい食べていた。

 

 お昼を食べて、杏樹のお喋りに付き合い、レッスンをして、またお喋りに付き合い・・・

 

 休暇にしては、体も心も安まらない。

 

 それなのに、お腹も心も満たされていた。

 

 

 それだけなのに、幸せな気持ちになれた。



 ######################



 

 夏 第3話






 その日は、1学期最後のピアノレッスンの日だった。

 

 来週のレッスンからしばらく、杏樹は学校帰りではなく、家からうちに直接来ることになるし、レッスン時間も、学校帰りではなく、もうちょっとお互いの都合の良い時間になりそうだ・・・そんな事を考えていた午前中。

 

 うちでお昼を食べる杏樹の為にお昼を作り、軽く部屋の掃除もして、時計を見ると、もうお昼の時間を随分過ぎていた。

 

 今日は遅いな・・・そう思いながら冷蔵庫からアイスコーヒーのペットボトルを引っ張り出して、グラスに注いで飲み始めた。

 

 今日は給食のない筈の日だし、もううちに着くはずだ。

 

 それなのに時計はそろそろ十二時半を過ぎようとしていた。

 

 することもなく、テレビをつけると、おなじみのお昼の報道番組で女性キャスターが淡々とニュースを読んでいる。

 

 “今日はこの夏一番の猛暑を記録しています。最高気温は・・・”

 

 “光化学スモッグが発令されている地域もあるようです、お出かけの際は充分注意して下さい・・・”


「どおりで暑いはずだ」 

 

 そう呟きながら、杏樹は平気かな・・・と心配になった。

 

 

 

 最初は、お友達と遊びながら帰ってきているのかと思って楽観的に考えていた。

 

 きっと、喉をからしてここに着くに違いない、と・・・

 

 でも、時計の針が一時を過ぎた頃、急に心配になった。

 

 私は携帯を掴んで玄関に走ると、サンダルを引っかけて玄関を出た。

 

 いつもだったら、家の前の、この緩やかな上り坂を、杏樹は重たい足取りで走ってくる・・・筈。

 

“桜せんせーーーーーーい!”と大声で私を呼びながら。


それなのに、家の前の道は閑散としていた。


私の心配はピークになった。そして、さっき聞いたニュースも手伝って、一番考えたくない可能性に、思い当たった。


“まさか・・・熱中症?”


 思わず玄関に戻り、台所へと走ると、冷凍庫に入っている、ありったけの保冷剤と、常備しているスポーツ飲料の小さめなペットボトルを、その辺においてある買い物用のトートバッグにぶっ込むと、それを持って車に乗りこんだ。


車の中は蒸し風呂のように熱くて、エアコンを目一杯かけた。そして、家の前の坂道を車で走り下りていた。


 住宅地を出て、通学路を小学校に向かって走り出した。


 通学路は閑散としていて、小学生一人、いない。


 太陽は頭の真上を照らしていて、車の中にいても、その暑さが伝わって気持ち悪いほどだ。



 車を運転しながらも、不安は、いくら拭っても消えなかった。


 いつも、汗びっしょりになってうちに来る、杏樹。


 うちでも、麦茶を沢山飲んでいる、杏樹。


 途中で喉を渇かして倒れているのではないか?


 そんな考えが頭から離れなくなってしまった。



 そして、車を走らせてすぐ。


 私達の住宅地と学校の、ちょうど中間点にさしかかったとき・・・


 見慣れたピンク色のランドセルを背負った女の子が、歩道にいた。


 杏樹だ!!


 私はハザードを出して、杏樹の側に車を停めた。


 杏樹はしゃがみこんでいたけれど、一人ではなかった。


 杏樹のすぐ側には、杏樹よりもずっと小柄な女の子が、倒れこむように踞っていた。


「杏樹!」


「あ、さくらせんせい!!」


 私の存在に気づいた杏樹は、今にも泣きそうな顔をしていた。その手には、杏樹の背負っている物とは違う色のランドセルがあった。

踞るお友達の分の荷物だろう。


 踞っている子は、ぐったりとしていて、私が居ることにさえ、気づいていないようだ。


「どうしたの?


その子、怪我でもしたの?」


 私は少し腰をかがめて杏樹の顔を覗き込んだ。杏樹はううん、と首を横に振った。言葉が出てこない杏樹の顔をじっと見つめると、その大きな目からは、涙がボロボロと溢れてきた。


 その表情は・・・楽観的な事態ではない事を物語っていた。


「暑くて、気持ち悪くて歩けないんだって!」


 彼女がそう言うか言い終わらないかのうちに、杏樹は、大声で泣き出した。


 私は踞る女の子の顔を覗き込んだ。


 身体は、普段の杏樹とは比べものにならない程汗びっしょりで、顔色は真っ青、息も絶え絶えだった。


 その子は肩に水筒をかけている。それを手に取り、軽く振ってみたけど、水は少しも入っていないようだった。飲み干してしまったのだろう。



「大丈夫?」


 その子の肩をそっと揺すって声をかけたけど、意識が朦朧としているのか、返事はない。そして触れた肩は・・・微かに震えているような気がする。


(熱痙攣!)


 すぐにその症状に思い当たった。


 汗をかいて、喉が乾いて、水ばかり飲んでいたに違いない。


 身体から塩分や糖分が汗と一緒に出てしまうと、体が、熱中症よりも症状がひどい熱痙攣を起こす危険性がある。


「杏樹、水ある?」


「・・・ないの、さっき梨香ちゃんに全部あげちゃった・・・」


 杏樹の声は涙声だ。


 熱中症予防で、まめに水分をとるように・・・と言われているけど、それは時と場合による。


 水だけ飲ませておけば絶対平気、というわけではない。


 この子の場合は、それが悪い方に作用してしまったのだろう。


 私は持って来たトートバッグからスポーツ飲料のボトルを引っ張り出して、蓋を開け、その子の口元へ持って行った。


「飲める?少しで良いから、飲んで!」


 私はその子の口元に杏樹の水筒の飲み口を当てたけど、水を飲む体力も消耗しているようだった。


それでも、微かに意識が残っているのか、少しずつ、飲み始めた。それでも、水さえ飲む体力も残っていないのだろう。文字通り、口をつけただけのように見えた。


体力がかなり消耗しているようだ。


このままでは危険!・・・それは、素人の私から見ても、明白だった。


「ねえ、どうしたらいいの? 梨香ちゃん、死んじゃうの?」


「死ぬわけないでしょ!」


 私は杏樹を叱咤した。


 でも、楽観的ではいられない。このままでいれば、命にもかかわるだろう。


 一瞬、私の家に連れてゆくことも考えた。けれど、ここまで消耗してしまっては、家での処置にも限界がある。


 考えている暇はない。


 私はその子を抱き上げると、車の後部座席に寝かせた。そして、家から持って来た保冷剤で額や首筋、痙攣している腕を冷やし、靴を脱がせて服も緩め、車のエアコンを強くして車内をもっと涼しくした。


「杏樹も乗って!」


 そう言うと同時に杏樹は、慌てて車の助手席に乗りこみ、ドアを閉めた。


 杏樹がシートベルトをするのと同時に、私はアクセルを踏み込んだ。


 踏み込みながら、ここから一番近い病院を頭の中で捜した。車で飛ばせば五分とかからないだろう。


「杏樹!学校の電話番号、あとで教えて!病院に着いたら連絡するからっ!」


 最大風量にした車のエアコンとエンジン音が妙に煩く聞こえたけど、その音に負けないように、杏樹に怒鳴った。


「あ、あたし、学校の電話番号、しらない・・・・」


 杏樹の声はまだ泣き声が混ざっている。いつもは大きな声で笑顔なのに、今はその影もない。


 でも、今はそれに構っていられない。こんな状態の子供をほっといて、万一のことがあったら大変だ。


「連絡帳でもプリントでも何でもいいから!どっかに書いてあるでしょ!探して!」


 私にそう怒鳴られ、はっとした顔をした杏樹は、慌ててランドセルを開けて、まるでランドセルをひっくり返すかの勢いで中を漁った。


「桜先生、あった!、これっ!」


杏樹に連絡帳を渡され、私はそれを片手で受け取った。


「ありがと!病院に着いたらすぐにかけるからね!」


 私はアクセルをさらに踏み込み、病院へと向かった。





 私は、私の住む住宅地の側にある診療所に飛び込んだ。


 ここが、学校からも私の家からも一番近い診療所だからだけれど、理由はそれだけではない。


 ここの診療所の女医は、私の小学校の頃からの幼馴染みで、そのお父さんもこの診療所の医師で、私は小さい頃からここで診て貰っていたから、気心が知れているし、信用出来るからだ。


 父親と娘、二人の医者と二,三人の看護士だけでやっているような、小さな診療所だ。それでも、いつも混んでる国道を渋滞覚悟で走らなくては着けないような総合病院に、時間をかけていくよりもよっぽどマシだ。


 診療所に車を停め、熱中症の子・・杏樹によれば、梨香ちゃん、というらしい・・・を横抱きして診療所に入った。


 私は、既に顔見知りになっている受付の子に事情を話すと、受付の子はバタバタと奥へと走っていった。そして程なく、白衣を着た女性が待ち合い室にやってきた。幼馴染みの女医、由香里だ。


「桜! 久しぶりじゃない!


どうしたの?熱中症って、この子?」


 私は由香里に事情を手短に話すと、“こっちへ”と、診察室へと通してくれた。


 待合室には、他に診察を待っている人が何人か居たので、申し訳ないな、と思ったけど、彼女はそんな私の顔で考えを読んだのか、“急患でしょ?この子が優先!”と断言してくれた。


 梨香ちゃんの熱中症は、私が考えている以上に重たい症状だったみたいだ。病院に着いたときには既に意識はなかった。


けれど、点滴を打ち、由香里と看護士さんがてきぱきと処置してくれた。


「この季節、こういう患者さん、多いのよ。


 学校側は、水さえ持たせておけばいい、って思ってるみたいなんだけどね。


 時々水飲みすぎて症状が悪化しちゃうことがあるのよ。


 熱中症の時は、水だけじゃなくて、ちゃんと塩分や糖分も、少しずつでいいからまめにとらないと、悪化することがあるのよ・・・


 それに、光化学スモッグも発令されてるでしょう?


 気をつけてないと、取り返しがつかないことになっちゃうのよ」


 独り言の様に、由香里はそう言った。


 私は由香里に後のことを頼むと、診察室を出た。杏樹は、出て行こうとする私と、点滴を打っている友達と両方を迷うように交互に見ると、やがて私を追いかけるように、心配そうについてきた。


 私は、待合室の片隅の椅子に座ると、さっき杏樹に渡された連絡帳に書かれてある、小学校の電話番号に連絡した。


 事情を話すと、逆にクラスと名前を聞かれた。そう言えば私は杏樹のクラスを知らなかったけれど、連絡帳にクラスが書いてあり、杏樹のクラスを言うと杏樹の担任の国仲先生が替わってくれた。この前、城址公園での七夕の集いで会った先生だ。


『もしもし?お電話かわりました。国仲です』


「あ、私、叶野と申します。東野杏樹のピアノの・・・」


『桜先生ですよね、覚えていますよ。七夕の集いの時は、来てくださってありがとうございます』


聞き覚えのある、柔らかい親しみを感じる声が聞こえて、それだけでホッとした。


でも、そんな平和な話は長く続かなかった。



『それで、杏樹ちゃんが熱中症で倒れたんですか?』


「いえっ!杏樹は平気なんです・・・杏樹は梨香ちゃんって呼んでるんですけど・・・」


 私は、あの倒れた“梨香ちゃん”とやらの名字もクラスも知らなかった。でも、国仲先生は知っているらしく、


『梨香ちゃん?・・・・・あっ!4組の萩原梨香ちゃんですね!杏樹ちゃんと帰る方向が一緒の子です』


 倒れたのは、杏樹と同じクラスではなく、同じ一年生だけど、帰る方向が同じの子だったらしい。


病院名を言うと、国仲先生は、わかりました。と言って、すぐに梨香ちゃんの担任の先生と梨香ちゃんのお家と連絡をとって、こちらへくる、と言って電話がきれた。


私は、大きく息を吐いて、携帯を切った。


よもや、子供がいるわけでもない、独身で、教師でも学校関係者でもない私が、こんな形で学校に連絡することになるとは、思いもしなかった。


でも、これで心配はないだろう。もうすぐ梨香ちゃんのお家の人も来る・・・それだけでも安心した。


「せんせい?」


待合室の長椅子に座っている私、その横に杏樹が座って、心配そうに私の顔を見上げるように覗き込んでいる。


「先生、大丈夫?辛そうだよ?」


「ううん、大丈夫よ?」


そうは言ったけど、正直疲れた。普段は無縁な心配や、やりつけないことを立てつづけにやったからだろうか・・・


普通に考えれば、私の日常の、一番かけ離れた世界での、出来事のはず。


本当なら、子供との接点など皆無なはずの私が、熱中症の子供を拾ってしまったのだから。


子供が学校帰りに熱中症になる・・・全く聞かない話じゃない。でも、子供のいない私にとっては、どこまで行っても他人事だ。


けれども、子供のいる親御さんにとっては、他人事じゃない。


もしかしたら、それと似た感覚なのかも知れない。杏樹は私の子供ではないけれど、大切な生徒。その杏樹が関わったのだから・・・


他人事になど、ならない・・・



やがて、病院の入り口の外で物音がして、ドアが開いた。そして、杏樹の担任の国仲先生と、国仲先生よりも幾分年上な女の人が入ってきた。


「国仲先生!」


「あ、桜先生!この度は、うちの児童が大変お世話になりました」


国仲先生は、待合室に私を見つけると、近づいてきてそう言って深くお辞儀した。そんな姿に私は恐縮してしまった。


「いえ、そんな・・・」


「で、梨香ちゃんは?」


「今、先生が処置してくださっています」


 すると、待合室での私たちに気づいて、梨香ちゃんの処置をしている看護師さんが“中にどうぞ”と言ってくれた。


 国仲先生達は、診察室の中に入って行った。


 その後ろ姿を見届けると、私は顔見知りの看護師さんに、帰る事を告げた。そして、何かあったらうちにも連絡してほしい、と頼んで、診療所を後にした。ここの診療所は、私もよく通っているところで、私の連絡先も知っているはずだから、さほど問題はないだろう。


 

 帰り間際、もう一度だけ、診察室をのぞいて梨香ちゃんの様子を見ると、梨香ちゃんの意識は、まだなかった。でも、さっきよりも顔色が良いように見えた。梨香ちゃんのそばにいる看護士さんも落ち着いて対処していたので、もう、心配はないだろう。


 待合室の時計を見ると、もうすぐ二時になろうとしていた。待合室には、患者さんは誰もいなかった。梨香ちゃんの処置が終わると、由香里はすぐ他の患者さんの診察に戻ったので、きっと診察も終わったのだろう。今は診療所は昼休みになっていた。


「ねえ、もうこの病院にいなくても良いの?」


 その診療所を出ると、私は杏樹にそう聞かれた。私は、うん、と頷いた。


「あの子の事は、ここの先生が見てくれてるし、学校の先生も来たでしょ?お家の人も来るみたいだし、そうしたら、私は、用はないでしょ?」


「ん・・・・でも・・・梨香ちゃん、平気なのかなぁ・・・」


「大丈夫よ。ここの先生は、私のお友達で、すごくいい先生だから、すぐに治してくれるよ。」


「本当?」


 一瞬、少しだけ杏樹の顔にいつもの笑顔が戻ってきた。私はその笑顔にホッとしながら、杏樹を元気付けるように大きくうなづいた。


「それに・・・」


言いかけた言葉を、私は口に出さなかった。


“ここに、もう私は、用はないのよ”


 その言葉を飲み込んだ。これは、大人の事情だ。

 

 私は・・・学校関係者でも、保護者でもない。


 ただの、近所の住民で、杏樹のピアノの先生。


 ただの通りすがりに等しい。


 ただそれだけなのだ。


 学校に無関係な人間が、長時間いていい訳が・・・ない。


「杏樹、お腹空いたでしょ?


今日はレッスン、いいから、お昼食べたら、お家まで送ってあげるね。


今日は蒸し暑いし、光化学スモッグも出てるから、無理なことはしないほうがいいよ」


 さっき、緊急事態とは言え、今までにない程、杏樹に対して激しい言葉遣いをした。


 杏樹は、友達があんな事になったからか、それとも私の怒鳴り声を聞いたせいか、口数が少ない。


「ねえ・・・先生?


梨香ちゃんが倒れたのって、私のせい?」


 上目使いで、私を見ながら杏樹はそう聞いてきた。


 それは、叱られるのが判っていて、それを覚悟しておどおどしながら待っているようだった。


「そんなわけないでしょ?」


 私は間を置かずにそう答えた。それでも杏樹は不安顔だ。


「でも・・・私、何にも出来なかった・・・


お水欲しがるから・・・梨香ちゃんの水筒のお水がなくなった後は、私のお水あげたんだけど、私のお水もなくなったら、急に倒れちゃって・・・

もっとお水、たくさん持ってたら良かったの?」


「杏樹・・・」


「私が、お水持ってなかったから、梨香ちゃん、倒れちゃったの?」


「それは違うよ」


 私は大きく首を横に振った。


 確かに、熱中症を起こしていたけど、多分あの子は、水を飲み続けていても何らかの症状は出ていただろう。


 暑いから、熱中症になったら大変だから、といって、水ばかり飲む人は多い。でも、水さえ飲んでおけば熱中症を予防できるか、といえば、それは違う。


 汗を沢山かけば、水分と一緒に身体の塩分や糖分も身体の外に流れてしまう。それらも補わないと、もっと大変なことになってしまう


 ・・・夏、スポーツをする人が、水だけでなくスポーツドリンクをよく飲むのは、あのスポーツドリンクには、水分の他に、汗と一緒に出てしまいがちな栄養や塩分が多く含まれているからだ。


 でも、熱中症や脱水症状の正しい知識を持っている人は、大人でもそう多くないだろう・・・


「ねえ、先生!


教えて!


梨香ちゃん、熱中症になっちゃったんでしょ?


お友達があんな風になったら、私はどうしたらいいの?


学校でも、テレビでも、ママも、熱中症に気をつけて、って言ってるの。


出かけるときはお水を持って、帽子を被って行きなさいって言ってるの!


でも、梨香ちゃんみたいに、お水飲んでても、帽子被ってても、熱中症になっちゃったら、私どうしたらいいの?



誰か、人が通ったら助けて貰おうと思ったけど、誰も通らないし、


知っている人やお友達のお家、全然ないし、桜先生のお家までまだ遠かったし・・


ひっ・・・ひっく・・・・どう・・したら・・・」


杏樹は、堪らなくなったのか、泣き出した。


「杏樹・・・」


車は私の家の前に着いた。私はブレーキを引き、車を止めると、泣きじゃくる杏樹の頭をそっと、撫でた。


「杏樹は、よく頑張ったよ。


お友達にお水分けてあげて、見捨てたりしないで、ずっと側にいてあげたんでしょ?


よく頑張ったよ。


杏樹が側にいたから、あの子は、あれ以上、大変なことにならなかったんじゃないのかな?」


優しく頭を撫でていると、杏樹は、突然私に抱きつくと、堰を切ったように大声を出して泣き出した。


「杏樹っ」


 抱きつかれるまま、私も杏樹の身体を抱きしめた。

 

 杏樹の服も、汗でびっしょりで、ひんやりとしていた。

 

 それなのに私の胸にくっつけている顔も、溢れ出る涙もとても熱く、温かかった。

 

 私は、そんな杏樹が落ち着くまで、ずっと抱きしめてあげた。

 

 

 

 杏樹、怖かったんだろうな。

 

 お友達が、具合悪くなって。

 

 一生懸命、何かをしてあげたいけど、何も出来なくて。

 

 助けてほしいのに、助けてくれる大人は誰も居なくて、途方に暮れたに違いない。

 

 

 

 背が高くて、がっしりしてて、見た目よりも大きな子供に見えても。

 

 しっかりしていて、童顔でもお姉さんみたいに見えても。

 

 所詮は小学1年で。

 

 あんな事が起きたら、どうして良いか判らない・・・

 

 それでも、杏樹なりに、一生懸命だったに違いない。

 

 杏樹だって、普段から喉を渇かして、うちに来ると沢山麦茶を飲む子だ。

 

 あんな炎天下で、歩いていたのだ。杏樹だって喉が渇いていたに違いない。

 

 それでも、自分が飲む分の水をお友達に全部、飲ませてあげて。

 

 あんな状態のお友達を、見捨てもせず、最後まで側にいたのだ。

 

 自分の不安や、泣きたい気持ちを全部抑え込んで・・・

 

 どれだけ、不安だったんだろう?

 

 どれだけ、泣きたい気持ちだったんだろう?

 

 私が迎えに行ったあの時、杏樹は今にも泣きそうだった。

 

 そして私が来るのと同時に、彼女の目は涙で一杯になった。

 

 あんな杏樹の顔・・・初めてだった。

 

 いつも楽しそうに笑っている・・・くるくる表情を変えて話す杏樹だけど。

 

 あんな泣き顔は、今まで見た事、なかった。

 

 

 

「よく、頑張ったね」




 今、周りの大人にできることは。


 子供の頑張りを見逃さずに、それを認めて、受け入れて。


 褒めてあげること、なのかな?




 ピアノレッスンもそうなのかな?


 どこまで頑張ったのか、ちゃんと見極めてあげて。


 できてるところは、ちゃんと褒めてあげたら、


 子供相手でも、もっとうまく教えられるのかな?


 よしよし、と杏樹の背中を、頭を撫でながら、

 

 杏樹の涙が止まるまで、私は杏樹をぎゅっと抱きしめていた・・・・




 その日の夕方、光化学スモッグの警報が解除されて、涼しくなってから、念のため杏樹を車で自宅マンションまで送ってあげた。


 杏樹は、隣の住宅街のマンションに住んでいる。学校から歩いて20分程だろうか?


 途中で杏樹に道案内してもらいながら、マンションの前に車を止めると、杏樹は“先生、ありがとう!”と、いつもの元気の良さを取り戻して、そう言った。


「さようなら。また来週ね」


「うん!さようなら」


 杏樹は車から降りると、私の車が走り出し、見えなくなるまで手を振ってくれた。


 気が付くと、私の気持ちも、随分軽くなっていた。


 杏樹の表情や、ちょっとした事で、私まで嬉しくなったり悲しくなったりしている、


 たかだか子供一人の一挙手一投足に・・・


 前はこんなこと、なかった。


 子供はあまり好きではないし、できれば関わりたくなかった。それは今も変わっていない。


 でも・・・


 


 嫌いじゃ・・・・ない。


 少なくとも、杏樹は・・・・・・


 そう、自覚し始めていた。





 



 それから数日後。


 その日は終業式の筈だった。



 もっとも私には、その実感はまるでない。



 明日から夏休みなのは学生さんだけで、私が教えている教室は、いつもどおり生徒さんが来るはずだ。



 終業式だ、と知ったのは、毎朝よく見る情報番組のキャスターさんが言っていたからだ。それがなかったら、気づかないだろう。



 その日、仕事は午後からで、お昼過ぎまでは何も予定が入っていなかった。



 杏樹のレッスンもない日だったので、今日は仕事の時間まで、久しぶりにのんびりできる・・・そう思っていた。



 リビングのソファに埋まりこんで、ずっと読みたくて読めなかった、何か月も前に買った、本屋大賞を受賞した本を読みふけっていた。



 手元には大好きなアイスコーヒーに氷をたくさん入れて、それを飲みながら、大好きな本を読む・・・私にとっては極上の休暇だ。最近はちょっと仕事が忙しくて、こんな時間さえも取れなかったな・・・そう思いながら、本の世界に没頭していった。



 

 お昼近くになった頃。



 突然、家の電話が鳴り響いた。



 びっくりしてソファから立ち上がってディスプレーを見ると、知らない番号からだった。



 仕事柄、なるべく電話には出るようにしているけれど、大体、仕事相手の番号は登録しているし、仕事相手は、私の携帯に直接かけてくることが多いので、こういう全く知らない電話番号から自宅電話が鳴ることはめったにない。こういった電話は、出ないようにしている。



 居留守を決め込んで、私は再びソファに座り直し、本の続きを読み続けた。やがて電話の音は止まった。


 諦めたかな?



 そう思ってほっとして、再び本の世界に戻った。



 ところが。


 

「さくらせんせいー!」



 お昼のチャイムが鳴り響いた、少しあと。



 玄関の外で、微かに私を呼ぶ声がした。



 いくらなんでも、今日はレッスンではないし、杏樹が来る日ではない筈なのに・・・



 休みの日は大概杏樹が来る。でも今日はこない。


無意識に感じてしまった空耳かと思い、無視することにした。



 すると今度は、玄関チャイムが鳴り響いた。



 びっくりして玄関ののぞき穴から外を見ると、杏樹と・・・どこかしら見覚えのある人が数人、立っていた。



『やっぱりいないなぁ・・・』



 杏樹の不安げな声が、玄関越しにかすかに聞こえた。杏樹の横には、国仲先生が立っている。



 これには、私も驚いた。


 なんで杏樹が?今日はレッスンはない日なのに!



 どうして国仲先生がここにいるの?また何かあったの?



 それに、杏樹たちの後ろにいる人は誰よ?


 


 一瞬パニックを起こしそうになったけど、このまま居留守を決め込むのはまずいような気がして、私はおそるおそる、玄関のドアを開けた。



 すると、不安げな杏樹の顔がぱぁっ!と明るくなり、次の瞬間、私にばふっ!と抱き付いてきた。



「よかったぁ!桜先生、いたぁ!」



「杏樹・・・どうしたの?今日はレッスン、ないのよ?」



「ちがうの!」



 杏樹は私に抱き付きながら、ぶんぶん!と首を横に振っている。



 いったい何事かと思うと、国仲先生が、笑顔で立っていた。いつか、七夕の会場で会った時と、同じ笑顔だった。



「国仲・・・先生?」



「お休みの日に申し訳ありません」



 先生は、そういって深々とお辞儀した。そして。



「先日は、うちの学校の生徒を、助けてくださってありがとうございます」



 よく見ると、国仲先生の後ろには、あの日倒れていた杏樹の友達・・・梨香ちゃんと、そのお母さんらしき人が立っている。



私がそちらを見ると、その二人も深々と私にお辞儀していた。



 さらにその傍には、あの日、国仲先生と一緒に病院に来ていた国仲先生よりも幾分年上な女の先生もいた。雰囲気から察するに、どうやらこの人は、梨香ちゃんの担任の先生・・らしい。



「梨香ちゃんのお母さんが、どうしても桜先生にお礼が言いたいとおっしゃっていまして」



 国仲先生が言うには。



 梨香ちゃんのお母さんが、梨香ちゃんを助けた人にお礼が言いたい、と、梨香ちゃんの担任の先生に相談したところ。



 梨香ちゃんの担任の先生は、誰が助けてくれたのか、よく知らなかったらしい。



 そこで、梨香ちゃんとずっと一緒にいた杏樹が、梨香ちゃんの担任の先生に呼ばれて、その事を聞かれ、杏樹は"桜先生"(つまり私)の事を話したらしい。



 住所や個人情報は、学校に登録してある(杏樹が毎週立ち寄る、という事で、私の住所や職業については、学校に届け出してある)けれども、学校の児童や先生の中で、"桜先生"と直接会い、ちゃんとした意味で面識があるのは、杏樹本人と国仲先生の二人だけだった。(国仲先生とは、七夕の集いの日に知り合ったし、この前梨香ちゃんを連れて行った病院でも顔を合わせている)



 桜先生の家の住所は判るけれど、見ず知らずの大人がいきなりお礼にお伺いしては、その"桜先生"もびっくりするだろう。



ということで。



「杏樹と国仲先生が、案内してきたんですか・・・??」



「まあ、そんなところです。


 お休みの処、申し訳ありません」



 再び、そういって深々とお辞儀した。


そして。


「うちの娘が大変お世話になりました」



 梨香ちゃんのお母さんに、とても丁寧にお礼を言われ、私は恐縮するしかなかった。



「うちの娘は、とても内気で、入学当初、あんまりお友達がいなかったんです。



 杏樹ちゃんは、クラスが違うけれど、帰る方向が一緒で、いつも一緒に帰ってくれているんです。杏樹ちゃんは、いつも娘の事を気にかけてくれて、杏樹ちゃんのおかげで、最近やっと、一緒に遊ぶお友達もたくさんできた、と言っていました。



 杏樹ちゃんのおかげです。ありがとうございました」



 そういわれながら・・・私はどうやら、杏樹の保護者か何かと間違えられているような気がした。



確かに梨香ちゃんを助けたのは私だけど、それは杏樹がいたからで、杏樹と梨香ちゃんが仲良くなった事と私は無関係の筈なんだけどな・・・



 散々お礼を言われて、今後もよろしくお願いします。と丁寧に言われては、私も何も言わないわけにもいかず、"はぁ・・・こちらこそ・・・"と曖昧に返事をした。



 やがて、それらがひと段落つくと、"お休みの日に大変失礼しました"という言葉を残して、先生たちと杏樹は車に乗り込んだ。



 杏樹は、車の窓から、最後まで、「先生、またね!!」と嬉しそうに手を振っていた。





 帰って行ったあと、玄関先は急に静かになった。



 台風一過、とはよくいったもので。まさにそんな気分だった。



 もう、本の続きを読む気もなくなった。どさっ!とソファに埋まりこむように座って、水っぽくなってしまったアイスコーヒーを流し込んだ。



もう氷はすべて溶けていた。



(はぁ・・・・・なんか、これから先、面倒なことになんなきゃいいんだけどなぁ・・)



 胸の中での呟きは、予感だった。



 それは、未婚で、子供がいない筈なのに、考えている以上に小学校に絡んでしまった、という自己嫌悪も混ざっていた。



 正直、子供は嫌いだ。



 関わりたくない。



 杏樹は嫌いじゃないけれど。それは杏樹だからで。



 こんなことがなければ、杏樹とさえ、関わらなかったはずだ。



 面倒事は嫌いだし、ましてそれに嫌いな子供まで絡んでくるなんて、冗談じゃない。


 


 けれど・・・



 その時は、私は、その現実を受け入れるしか術がなかった・・・



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