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春の章

一言で教える、といっても。


 問題が皆無なわけではない。


 私は、土日も仕事をしていることが多くて、休みの日は不規則だった。


 休暇の日に時間を空けて教える、という事になる。私の休暇が一日減るということで、その調整もあった。


 休暇が不規則な私。杏樹のレッスンも、もちろん不規則になる。

 

 問題はそれだけではない。


物騒な世の中。私の家に通うことになる杏樹。この四月に小学生になるとはいえ、体格が大きくて三年生位に見えるけれど、この話を引き受けた時、杏樹まだ幼稚園児なわけで。

 

 防犯上、幼稚園児を一人で、この家まで通わせるわけにはいかない。


 更に、シングルマザーの香織さんは、平日は普通に働いているので、昼間に私の家までの送り迎えなど出来るわけもなく。

 

 どうしようかと悩んだけれど。


 幸い、私の家と杏樹の家は同じ区内で、住宅地はちがうけれど同じ小学校の学区。私が住む住宅地の表通りは、彼女の通うことになっている小学校の通学路だった。


レッスン開始は学校が始まってから。時間は、放課後。学校帰りに寄って貰うことにした。


 それでも、入学して、学校に通い始めたばかりの杏樹に寄り道などあまりさせたくなくて、レッスン開始は、学校に慣れて、給食も始まる五月の連休明けからになった。

 

 

 

 レッスン開始前の五月の連休中、私は仕事の合間に、知り合いの楽器店で彼女が使う楽譜やノートを買いそろえた。




 以前の音楽教室で何をやっていたのかは判らない。香織さんに、前の音楽教室での事を聞いたけれど、彼女自身は音楽教室でどんなことを教えているのか全く知らないらしい。

 

よくよく話を聞くと、ママ友さん同士の付き合いで音楽教室に通い始めたらしく、その教室の送り迎えも、ママ友さんに頼んでいたらしい。


何を教わっていたかは解らないけれど、とりあえず基本に忠実にレッスンしようかな?


そう思って、教材を揃えた。


子供向けのピアノの教則本、ワークブック、五線ノートは子供でも使いやすい、大きめな行間隔で、ピンク色の表紙の、可愛らしいキャラクターの絵柄のものにした。


「子供教えるんですか?」


たくさんの、子供向け教材を抱えてレジに持ってゆくと、そこには店長の女性が立っていた。私が中学の頃に大学生のアルバイトで働き始めて、そのまま就職して今は店長となっている。もうずいぶん長いつきあいになる。


彼女にそう聞かれ、うなづくと


「珍しいですね。


子供嫌いな桜先生が」


付き合いが長いせいか、この店長、遠慮というものがない。


「しょうがないでしょ?師匠がらみの頼みなんだから!」


「憲一君、でしょ?」


「っ!」


言葉をつまらせた私に、彼女はにやり、と人の悪い笑みを浮かべた。この楽器店は、師匠も懇意にしている所だから、当然憲一さんも、師匠のお使いで利用しているのだ。


「ま、いいけど、ね。


これもつけといてあげるわ。子供、こういうの好きよ。


ちゃんと教えられれば、憲一さんも桜ちゃんのこと、 見直すでしょ?」


頑張って。そう付け加えながら、彼女は買い求めた楽譜と一緒に、可愛いキャラクターもののシールと、出席簿のような台紙もつけてくれた。


「ん・・・」


曖昧に返事をしながら、支払いを済ませて楽器店を出た。そして、私と憲一さんの間に漂っている曖昧な関係から目を反らした。





 

私の家は、表通りから、住宅地のある細い道に入り、緩やかな坂道を登った先にある。正確な距離など知らないけれど、家、五軒分ほどの距離だ。この区画に、子供のいる家庭は一軒もなく、どこも、お年寄りや定年退職者が住んでいる。


私が子供の頃は、私の同級生や、同じ小学校に通っている子供もいたけど、ある人は私が留学している間に家を出て一人暮らしを始めたり、またある人は結婚して家庭を持ったりして、実家を出てしまい、ずいぶん静かな住宅地となってしまった。


もっとも、人の家のことばかり言えない。私の家も例に漏れず、私の留学中に父が癌を患い、帰国後他界した。母は私が子供の頃既に亡くなっているので、顔さえ覚えていない・・・・


物心つく頃から、気がつくと私の周囲は大人ばかりだった。それは、私がピアノのジュニアコンテストで優勝した頃からだった。


周りが大人ばかりだったからか、私も、他の子よりも早く子供らしさを失い、周囲も大人たることを私に望んでいた。


あの、憲一さんも・・・


『ガキの子守なんかゴメンだ!』


『あんなくそガキ、興味ねぇよっ!』


『母さんの頼みだから、仕方なく仲良くしてやってんだ!』


一体何年前だろう?


ジュニアコンテストに出場する、ずっと前だから、小学生の・・・


杏樹くらいの頃だろうか?もっと上だったような気がする。


兄のように慕い、大好きだった憲一さんにそう言われるようになった。


あれ以来だ。


言われて傷ついて、泣いた。


泣いて、泣き腫らした目で憲一さんに会えば“泣き虫なガキは大嫌いだ!”と罵られた。


決していじめっ子だったわけではない。優しい兄のような存在だった頃もあった。


いつごろからか、突然、変わったのだ。


ひどい言葉を叩きつけるようになったのも、優しく接してくれなくなったのも。


理由なんて分からないし、心当たりもない。


きっと・・・多分。


本人に確認したわけではないけれど。


私の事を世話を焼いたり、優しくしていることを、彼のお友達にからかわれたのかもしれない。


あるいは・・・年下の、自分よりも小さい子供の面倒を見るのが、面倒くさくなったか・・・


悪意をもってやったことだ、とは、今は思っていない。


子供の成長過程で誰もが当然通る、通過儀礼のようなものだ。と、今は思う。



でも・・・当時は、とてもショックだった。


そして、その日以来だ。


少しでも周りに認められたい、早く大人になりたいと思い始めたのは。


そして・・・


「・・・・・・」


私は軽く首を横に振った。思い出しかけた過去の想いを振り払うように。


そして、家に戻ると杏樹の家に電話をした。案の定、香織さんは留守で、電話に出た杏樹に、レッスンの日と時間を知らせた。


「それじゃ、学校帰りに寄るんだから、学校の先生にはちゃんと許可を貰ってくるのよ?」


『判ってる!』


物騒な世の中。学校帰りに寄り道するときは、学校の先生の許可がいるのだそうだ。何でも寄り道先の住所や名前、職業や連絡先まで申告しなくてはいけないらしい。


「寄り道しないでくるのよ?知らない人についてっちゃだめよ?」


『はーい!』


電話の向こうの杏樹は、以前会ったときと同じように元気いっぱいだ。


私は、まるで母親みたいなことを言いながら、電話を切った。そういいながらも、様々なことが心配で仕方がなかった。


知らない住宅地、知らない家でレッスンする杏樹。今までとは違うレッスンをするであろう杏樹。


そして、そんな彼女をちゃんと教えられるだろうか、という不安が、後から後から湧いてきて、らしくもなく前日夜は寝付けず、朝も食欲がなかった・・・




ところが。




私のそんな心配は杞憂に終わった。




最初のレッスンの日。約束の時間。


落ち着かない私は、レッスン室でピアノを弾く気にもなれず、部屋の中をうろうろしたり、表の道路の見える窓から外を覗き込んだりして過ごしていた。


端から見たら、それはとても滑稽だっただろう。


そして、もう何度目になるのか・・・窓の外を見て、家の前の道路には誰も居ない事を確認して時計を見ると、もう時間は随分過ぎていた。


もしかしたら交通事故?それとも、家がわからなくて迷子になってるの?


心配事が、あとからあとからわき上がってきた。


そしてその心配に駆られて、学校の方まで通学路を歩いて杏樹を探しに行こうか、と、携帯を掴んだときだった。


「さくらせんせーーーーーーーい!」


窓の外で、微かに子供の声がした。それは、ともすれば聞き逃してしまいそうなほど、微かな声だった。


外から聞こえた声が小さいから、ではない。今私がいたのは、防音設備の整ったレッスン室で、外の音は防音してあるはずのこの部屋に私がいるから、だから、だ。


逆に、この防音している部屋にまで聞こえてくるほどの、大きな声が、外から聞こえる・・・・ということ・・・


私は慌てて玄関へ走り、サンダルを引っかけるように履くと、転がるように外に出た。そして門の外まで出ると・・・


家の前の緩やかな坂道を、大きなランドセルとピンク色の手提げ袋をさげた女の子が、一生懸命歩いてきていた。


そして、私の姿を見つけた途端、大きく両手を・・・その片手にはピンク色の手提げ袋があった・・・振りながら、一生懸命、緩やかな上り坂を走り出して、私の方に駆け寄ってきた。


背が高く、体付きも標準的な一年生よりも大柄な杏樹だが、走るのはちょっと遅い。もしかしたら学校からここまで歩いてくるのに疲れ切ってしまったのかもしれない。


はあ、はあ、と息を切らしながら走ってきた杏樹は、私の側にたどり着くやいなや、私にばふっ!と抱きついた。


「せんせい!!あいたかった~~!!」


まるで私の今までの心配など全く意に介することなく、力一杯抱きついてきた。


久しぶりに会った杏樹は、また背が伸びたように感じた。身体が大きくなったが、それでもランドセルはそれ以上に大きく見える。そして、ランドセルも重いのだろう。私は杏樹の抱きついてきた勢いを受け止めきれず、後ろに倒れそうになってしまったけど、辛うじてバランスを保った。


「杏樹・・・大丈夫だった?」


聞くだけ無駄かも知れないけど、そう聞くと、杏樹は、私の質問の意味を理解しているのかいないのか、


「うん!」


と大きく頷いた。そして。


「つかれたーーー!喉渇いちゃった!」


と脳天気にへへっ!と笑っていた。


その笑顔を見た途端、私は今までの心配など、まるで無駄だったような気がして、妙な脱力感に襲われた。へなへな、と座り込んでしまいそうになった。




喉をからしてやってきた杏樹を部屋に入れ、いつか来たときのようにリンゴジュースを出してあげると、杏樹は嬉しそうにごくごくと、あっという間に飲み干した。よほど喉が渇いていたのか、汗びっしょりで、声も少し枯れていた。


「あのね、学校からお家まで、凄い遠いの!」


喉の渇きが癒えると、杏樹は途端にお喋りを始めた。


「途中までね、はるかちゃんと一緒だったんだけど、はるかちゃんのお家、ここよりも学校の近くだから、途中でバイバイしてきたの。


その後、二年生のマキちゃんに会ったから、一緒に帰ってきたの!でもマキちゃんは歩くの速いから、追いつくの、大変だったんだ!」


なるほど。歩くのが早い上級生と一緒に来たから息切れをおこしているのか。そう納得しながらも、“走るくらいの”スピードで進みながらこのテンポで話し続ければ、そりゃあ疲れるし、喉も渇くだろう。


喉の渇きが落ち着いたのか、杏樹は引き続き、話を始めた。


今日、学校で起きたこと、クラスの男の子同士のケンカの事、それを見て悲しくなって泣いてしまったこと、教室の前のヒマワリ花壇の事・・・


給食の時は、杏樹の班の空いた席に担任の先生が座った事。食べながら担任の先生と話したこと・・・


別に話が上手、という訳ではない。年相応に知らない言葉だって多いし、“言葉のチョイスがちょっと違うだろ?”と思う話もあった。けれど、話を聞いているだけで、杏樹の見てきたその情景が目の前に浮かんできた。


その情景、一つ一つに、杏樹の笑顔と、周りの友達の笑顔があった。


「・・・・・・・」


気がつくと時計の長針はゆうに時計を一回り近く周り、レッスンの時間は過ぎようとしていた。


それでも私は、最後まで杏樹の話を聞いてしまった。


中断させることも出来たはずだし、レッスンの事もあるから、むしろ中断させるべきだったのだろう。それに、杏樹はここにピアノレッスンをしにきているわけで、おしゃべりしにきたわけではないのだから。


それでも、楽しそうに話す彼女の話を止めることは・・・出来なかった。





その後。


話を全て終わらせて満足げな杏樹相手に、どんなピアノレッスンをしたか、正直良く覚えていない。多分、何処の教室の先生でもやるような、平凡な子供向けレッスンだったのだろう。


でも、レッスンの間の杏樹は、きらきらした目で私を見つめ、癖なのか、両足を落ち着きなくぶらぶらさせていた。


そう言えば杏樹は、自分の話をしている間、あんな風に足をぶらぶらさせていたっけ・・・?思い出せなかった。


それよりも何よりも、彼女の話の方が記憶に残っていた。



私が小学校を卒業したのは、もう今から十年以上も前だ。しかも、物心ついた頃から部屋に閉じこもってピアノを弾いていた。


友達がいなかったわけではないけど、どちらかと言えば内向的で、活発に外で遊ぶような子供ではなかった。虐められていた時代もあった。


そんな私にとって、杏樹の話は、私が全く見たことも、体感したこともないような、“小学校の世界”だった。


きらきらと輝いてみえた。


そして、その輝きが、私には眩しすぎて、目を逸らしたくなった。


でも、目を逸らすことが出来なかったのは・・・最後まで話を聞いてしまったのは・・・


目を逸らしたくなりながらも、最後まで聞いてしまったのは・・・・




その答えを、私は探せないままだった。





#####春 第2話





不規則とはいえ、週に一回。


杏樹と私のピアノレッスンは続いた。


楽器店の店長がくれたキャラクターのシールと出席カードを、杏樹はとても気に入ったらしく。


レッスンが始まる前、レッスン室においてある彼女の出席カードに、“今日はどれを貼ろうかな?”と嬉しそうにシールを選んでいる顔を見ると自然に私まで笑顔になった。


彼女がレッスンを一回、受ける毎に、出席簿にはシールが増えてゆく。


その過程が楽しいらしい。


“子供って、こういうの好きよ”


そう言っていた店長。


杏樹の、ワクワクするような笑顔を見ながら、その言葉は本当だったんだな、としみじみ思った。




ただ、レッスンの内容はといえば・・・・・


順調に・・・というのはちょっと大袈裟だ。




当初の予定から変わった点が沢山あった。


まず、レッスンの時間が、当初の約束以上に長くなった。


理由は、レッスン前に始まる杏樹の話があまりにも長く、レッスン開始が遅くなり、結果的に杏樹が私の家にいる時間が長くなったからだ。




それと、レッスンの内容・・・


私が考えている以上に、杏樹のピアノレベルは低かった。


まず、楽譜が読めていない。前の音楽教室では、楽譜の読み方や音符の事も習っているはずだった。それなのに、それらが全然出来ていなかった。楽譜を見て、ピアノを弾く・・・という事が全く出来ていなかった。


幼稚園に入ってから2年間、ピアノを習っていた・・・と杏樹は言っていたけれど、一体その教室で何を習っていたんだろう?そう感じてしまった。


その一方、杏樹は音を聞くことが出来た。私がお手本を一回弾いてあげると、すぐにそれを覚えて弾くことが出来た。そして、私が弾いたピアノの音が、何の音か、すぐに当てることが出来ていた。どうやら耳はとても良いらしい。


そして、私が教本の曲をお手本に弾いてあげると、杏樹は踊り出したそうに嬉しそうに手足をそわそわさせていた。


どうやら以前のピアノ教室は、ピアノを教える、というよりもピアノに合わせてダンスしたり歌ったり、ということに力をいれている教室だったらしい・・・という事を知ったのは、随分後になってからだった。


私はリトミックダンスなんか教えられないんだけどな・・・そう思いながらも、私は楽譜の読み方、書き方を教え、楽譜を見ながら弾くことを、1から教え直した・・・


杏樹は決して馬鹿ではない。教えればちゃんと出来る子・・・だと思いたい。


でも、集中力がないのか、すぐに飽きてしまう。


子供は多かれ少なかれ、そういった傾向がある、とは聞いているけれど・・・杏樹が飽きるまでの短い時間に、杏樹が飽きないように教えるのは至難の業だった。


「厄介だなぁ・・・」


彼女が帰った後の、いつもと違う空気になったレッスン室で一人になった私は、ピアノの教則本をぱらぱらめくりながら、ため息をついた。


教本は、私が子供の頃に使っていたものとは全然違って、まるで絵本みたいだった。




…………………………




私の休暇は、不定期だけど大体週に1日。拘束時間もまちまちだけど、夜遅いレッスンなんかも受け持っているので、ひょっとしたら、普通の会社員さんよりもほんの少し長い時間働いているかもしれない。


だから、家の事・・・例えば部屋の掃除とか買い物といった雑務も、仕事の下準備も、私自身のレッスンも、全部、その週に1日だけの休日に全て済ませる事になる。


その休暇は、杏樹のレッスンで半分近く、潰された。


午後は杏樹のピアノレッスンがあるので、午前中に、部屋の掃除と買い物を済ませようとすると、かなり忙しい休日になってしまう。


のんびり休暇・・・なんて冗談じゃない。


早起きしてお部屋の掃除を済ませて、スーパーの開店と同時に買い出しに行く。そうするとあっという間にお昼になる。お昼が過ぎると、杏樹が来る時間はもうすぐだ。


車で買い出しに出かけて、家のガレージに車を停めて、買い込んだ食料を車から降ろした。


一週間分の食料やら雑貨やらを両手一杯に抱えて玄関のドアを開けて、玄関の中に置いて、もう一度車に戻って・・・と作業を繰り返していると・・・


「桜ちゃん?」


突然声をかけられた。振り返ると、そこには近所に住むおばさんが立っていた。


子供の頃からお世話になっている人で、確かこの人の子供は私と同年代だったけれど、結婚してこの家を出て行った。私が帰国した頃には、ご主人と二人きりで近所に住んでいる。


子供の頃から、何かと世話を焼いてくれている人で、私が帰国した後もそれは変わらない。そして父が亡くなったときも、いろいろ世話を焼いてくれていた。


「こんにちは」


そう言ってお辞儀をすると、そのおばさんは、足早にこちらに近づいて来た。


「ねえねえ、桜ちゃん、最近貴方のお家に良く来る小学生のお嬢さんって・・・あなたのご親戚?」


このおばさんに、唯一、欠点があるとしたら、異常に“話好き”な点で。この人に捕まってしまうと、そう簡単には逃がしてくれない。近所の噂話やら、別居している娘夫婦の事やら、ご主人の事など・・・話が尽きることはない。


こういった井戸端会議があまり好きではない私にとって、このおばさんはちょっと苦手で、子供の頃、面倒見てくれたご恩はあるし、嫌いではないけれど、長話は勘弁してほしい、そんな存在だった。


そのおばあさんが言っている「小学生のお嬢さん・・・」もしかして杏樹のことだろうか?


一瞬背中がひやりと冷たくなった。あの杏樹が、何か失礼なことをこの人にしたのだろうか?


私が住んでいるこの住宅地は、昔は子供がいっぱいいた。中には、いたずらばっかりやっているガキ大将みたいな男の子もいた。


しょっちゅうイタズラをしては、近所の大人に怒られてた子もいた。


でもそれはもうはるか昔のこと。今はもう、この住宅地、この地域に、小学校に通っている子供は殆どいない。


それでも、あの当時の記憶はとても鮮明で、一瞬、あの杏樹がなにかとんでもないことをやらかして、近所の大人を怒らせたのでは?という不安で一杯になった。


そんな不安が表情に出たのかもしれない。


「いいえ。今度私の家で教えることになった生徒です。


あの・・・杏樹が何か失礼なことでもしましたか?」


そう口に出して言った瞬間、再び背中に冷たいものが走った。実際に考えていたことだけれども、こうして言葉にすると、妙に現実味を帯びてゆく。本当に杏樹がこの人に失礼なことをしたのではないか、と・・・


杏樹はいい子だ。素直で明るくて、元気いっぱいで・・・でも、一般的なあの年頃の子と比べると元気があり過ぎて、落ち着きがない。


誰にでも明るく接しているように見えるけど、それは、人によっては鬱陶しく、ウザく見えるだろう。


大きな声で挨拶できるのも、確かに美点ではあるけど、その声は大人から見たら大きすぎて煩すぎる程だ。何せこの静かな住宅地の三軒先まではっきりと聞こえるほどだ。


あの子が良かれと思ってやった「何か」が、このおばさんに何か失礼な、迷惑なことだったのかもしれない・・・


一度、悪いことを考えると、その悪い予感はどんどんの大きくなってしまう・・・


そんな私の表情を読んだのか、おばさんはそれを払拭するように、にこにこ、嬉しそうに笑って“いいえ”と首を横にふった。



「この前、家の前で会ったんだけどね。私の顔をみるなり、大きな声で“こんにちは!”って挨拶していたわよ?


全然知らない私に、よ?


物騒な世の中でしょ?学校でも、知らない人とは口を聞かないように指導しているって言うし。


でもあの子はね、ちゃあんと挨拶していたの。


なんだか、昔を思いだして、すごく嬉しくなったわ。


その子、まっすぐあなたのお家に向かって行ってたし。向かってく途中も、大声で“桜せんせい!”ってあなたの事、呼んでいたわ」


おばさんの話を聞きながら恥ずかしくなった私は、思わず深くお辞儀した。そして


「すみません、あの、杏樹がなんか大声出してご迷惑では・・・・」


ただでさえ、子供がいない静かな住宅地。あの子の声は住宅地中に響いているのだろう。


それほど、あの子の声は大きくて、よく通る。私たちが子供の頃はそんな子供たくさんいた筈だけど、それはもう、どのくらい昔なんだろう?


「そんなことないわよ!今時珍しい元気いっぱいないい子じゃないの!」


おばさんはそう言って、それじゃあまたね、と言って去って行った。


その背中を見送りながら、ふとあのおばさんの背中はあんなに小さかったっけ?と、思った。


しょっちゅう世話を焼いてくれば、おばさん。


遊んでいると、家に入れてくれて、麦茶やおやつをくれることもあったし、


遊んでいて怪我をすると、その怪我の手当をしてくれたこともあった。


特に、母親不在で、母親代わりの師匠はピアノにかかりきりだった時期は、このおばさんのこういった優しさに触れる度に、世のお母さんは、こんな風に子供と接するのか・・・と実際の、居もしない自分の「お母さん像」とダブらせてみていた。


けれど、私が子供の頃、あのおばさんはもっと大きかった気がするし、背中も広かった。


それは私が大人になったからか、それとも・・・




それとも?




その言葉の先を見つけるより先に、私は思いを現実に引き戻した。


今日は午後から杏樹がレッスンに来る。準備をしなくちゃ・・・




その答えを見つけることが出来たのは、もっとずっと後になってからだった。





 午後、いつものように、杏樹は約束の時間よりも少し遅れてやってきた。

 

「さくらせんせーーーーーーーーーーーーーい!」


 家の中で耳を澄ませると、杏樹の叫び声が聞こえた。

 

 私が玄関先まで出ると、いつものように杏樹はピンク色の手提げ袋を片手に、緩やかな上り坂を一生懸命歩いていた。

 

「こんにちは、杏樹」


「こんにちはーー!さくらせんせい!!」


 そう言いながら、ばふっ!と抱きついてくる杏樹の肩を、よしよし、と撫でてあげると、肩は汗びっしょりだった。きっと、ランドセルがピッタリとくっついている背中も汗ビッショリなのだろう。

 

「喉渇いた?何か飲む?」


 そう聞くと、杏樹はううん、と首を横に振った。

 

「あのね、今日はこれ、貰ったの!」


 杏樹はそう言いながら、ピンク色の手提げ袋からごそごそと何かを取り出した。

 

「??」


 手提げ袋からは、小さな白いコンビニのビニール袋が出てきた。

 

「あのね、さっき、知らない人からこれ貰ったの!」


 そのビニール袋からは、子供向けのスティックアイスが数本、出てきた。

 

 “知らない人から貰った”

 

 けれども私は、そのワンフレーズで、背筋が冷たくなるような気分になった。

 

 一体誰から貰ったんだろう?

 

 おそらく、杏樹は知らないにしても、私と杏樹の関係を知っている近所の人だろう・・・それでも、知らない人から無償でものをもらうのは良くないし、そんな些細なきっかけが、例えば誘拐とか犯罪につながることだってある、と聞いたことがある。


杏樹にこれをくれたのが近所の知り合いだったら、物を貰った以上、ちゃんとお礼に行かないといけないし、貰いっぱなしというのは性に合わない。

 

「知らない人から、物とか貰っちゃ駄目なんだよ?」


 とりあえず、常識的なことを言ったけど、杏樹は首を横に振った。

 

「ううん、知らない人だけど,知ってる人だよ?」


「はぁ?」


 言っていることが判らず、私は変な声を上げてしまった。杏樹は、一生懸命言葉を探しているみたいだった。

 

「あのね、ここに来る途中に、いつも挨拶しているおばちゃん!


今日もさっき、お庭にいたから挨拶したら、いつも元気ねって言って、これくれたの。


“桜先生と一緒におやつに食べてね”っていってたよ!


だから一緒に食べよう!」


 杏樹の満面な笑みに、私はつきかけたため息を飲み込んだ。そして、午前中に立ち話した、あの近所のおばさんの笑みを思い出した。


あの人に違いない。そういえば私が小さい頃も、こうしてしょっちゅうおやつを持たせてくれたっけ?

 

 杏樹を家に入れながら、彼女は、アイスを貰ったのがよっぽど嬉しかったのか、満面の笑みでアイスの袋を振り回していた。

 

 やれやれ・・・私はそんな杏樹をみながら苦笑いした。

 

 今日、杏樹が帰ったら、あのおばさんの所にお礼に行かなくちゃな。

 

 ・・・話が長くなっても良いように、ちゃんと家の仕事を終わらせて、時間があるときの方がいいかな?

 

 そんなことを考えながら、私はため息をついた。

 

 あのおばさんとの長話にはいつも閉口するのに、不思議と、今は、いつもほど嫌な気分ではなかった・・・

 

それはもしかしたら、目の前で満面の笑みで、“アイス食べてもいい?”と期待を込めて、大きな目で訴えてる杏樹のお陰かも知れない。






#############春 第3話




「だから、ちゃんと楽譜を読んで、楽譜の通りに弾くんだよ?」


 六月の終わり。


 世間は梅雨時。


 雨音が聞こえてきそうな空模様で、実際じとじとと鬱陶しい雨が朝から降っていた。

 

 けれど、レッスン室の中にいると、部屋の防音設備のせいでそんな音は聞こえない。


 それでも、レッスン室の中は、このどんよりとした梅雨空と同じくらい、どんよりしている。

 

 

 

 杏樹に、楽譜の読み方を教え始めて、もうすぐ二ヶ月になる。

 

 けれど、杏樹は相変わらず、楽譜が上手く読めない。

 

 一度私が、その楽譜を弾いてあげると、音を覚えて弾くことが出来るみたいだけど、それでは意味がない。

 

 ちゃんと目の前の楽譜を見て、弾けるようになってほしいのだけど・・・

 

 私の教え方が悪いのか、それとも子供には、もっと時間をかけて、ゆっくりと教えるべきなのか・・

 

「杏樹、じゃ、この音符は、何の音?」

 

「えーっと、“ド”?」

 

「ちがうよ。レ。じゃ、これは?」

 

「あ、これわかる!“ミ”でしょ」

 

「はずれ。ソ」

 

 万事がこんな感じだった。

 

 そして私が呆れてため息をつきそうになる頃、杏樹の足がぶらぶらし始める・・・飽きてきた証拠だ。

 

「それじゃ、おうちでもちゃんと練習してくるんだよ?」


「はーい」


 杏樹の返事は、少しつまらなそう。その横顔を見ながら、私も教え方を考え直さなきゃいけないかなぁ・・・そう思うようになっていた。




 大人に教えるのとはわけが違う。


 それはわかっている・・・



 

 杏樹はレッスンに使った楽譜をピンク色の手提げ袋に、のろのろとしまいはじめた。

 

 その手提げ袋の中には、真新しい教科書が一冊、入っていた。

 

『あたらしい こくご』


ひらがなでそう書かれていたその本は、授業で使う国語の教科書だった。


「杏樹、それ国語の教科書?」


「うん」


「ちょっと・・・みせてくれる?」


 杏樹はいいよ、と言いながら私に教科書を手渡した。


 それをぱらぱらめくると、随分な変わり様に驚いた。


 私達の頃の教科書よりも随分絵柄も多くて、色合いもきれいだ。教科書、というよりも絵本に近いかも知れない。


「今ねぇ、これやってるの!」


杏樹はそう言って横から手を出して、ページを少しめくった。


「“はなの みち”っていうの、先生知ってる?」


 私は思わず息を呑んだ。

 

 それは、短いお話で。忘れようもないほど、短いお話だ。

 

 私が子供の頃の、国語の教科書にも載っていた。十年以上前の、小学一年生の国語の教科書にも、だ。

 

 そんな思いには全く気付かない様子で、杏樹は、そう長くもない話を、楽しそうに暗唱していた。


 くまさんが、自分のお家で小さい粒のいっぱい入った袋を見つけて。

 お友達にきいてみようと思って、お友達の所に持って行ったけど、袋には穴が開いていて、袋の中身は空っぽになっていた。


 それが春になると、くまさんのお家からお友達のお家までの道が、花の一本道になっていた・・・というお話だ。


 その暗唱を聴きながら、ふと、こんなふうに、文字を朗読するように、音符も読めるようになればいいのにな・・・と思った。

 

「先生、どう? いいでしょ?」


 杏樹は相変わらずの満面の笑みで、私の顔を見上げた。私は慌てて、うん、そうだね。と答えた。

 

「ねえ、杏樹?」


「なに?」


 私の声色が変わったからか、杏樹の声も、少し大人しくなった。私は、なるべく優しい声で、杏樹に言った。

 

「ひらがなも、音符も、一緒だよ?


ひらがなは声に出して読むけど、音符は、ドレミで歌ったりピアノで弾いたりするの。


音に出す方法は違うけど、読めさえすれば、ちゃあんと読めるし、弾けるんだよ?」


果たして上手に伝えられていたか私には判らなかった。


子供にピアノを教えたことがない私。よく考えると、こんな風に子供相手に楽譜の読み方を教えたことなどない。


その私が教えるのだ。教え方だって悪かったかも知れない。


でも、私は、自分の言葉で、杏樹にそう伝えてみた。


「国語の教科書を読む前に、まず、ひらがなを覚えたでしょ?


ピアノも一緒。ピアノを弾く前に、音符や、音をちゃんと覚えようよ?


音符が読めるようになると、きっとピアノ、もっと楽しくなるよ?」


ね?


杏樹にそう言ってみると、杏樹は少しだけ考え込んだ。そして、真面目な顔を、いつもの満面な笑みに変えると、「うん!」と元気に答えた。


「私、頑張って音符も覚える!


そうしたら、ピアノも、「はなのみち」みたいに大好きになれるよね?」


私はそうだね、と頷きながら、杏樹の頭を優しく撫でた。




 その次のレッスンの時、杏樹は、完璧、とまではいかないけれど、音符をしっかりと読もうとしていた。


 楽譜を、それこそ穴が開くかと思うほど凝視しながら、これがド、これがレ・・と、五線紙の上の音符を一生懸命数えていた。


 一瞬、杏樹と私、それぞれ、見えない小さな一歩を踏み出せたように感じた。







 杏樹が楽譜を読むようになり、同時に国語の教科書も良く読めると知ったあの頃から。

 

 私はレッスン室の本棚の片隅に、数冊の絵本を置き始めた。

 

 

 

 買い物ついでに寄った本屋で、絵本を見つけると、つい“これは杏樹が読むかな?”“これは杏樹が好きかな?”などと考えてしまい、買ってしまうようになった。


私自身も、杏樹くらいの年頃の時、絵本が好きだった。たった一人で、誰もいない家の中で、図書館や学校の図書室から借りてきた本を読んで過ごしたこともあった。



 挿絵がきれいな絵本、


 杏樹の年頃でも読めるような、漢字の少ない絵本。


 内容がやさしい絵本・・・


 まるで母親にでもなった気分だった。


 

 杏樹は本を読むのが好きらしく、私がレッスン室に置いた絵本を、レッスンの後、いつも楽しそうに読み始めた。

 

 時には“先生、これ貸して!”と、持って帰って行くこともあった。

 

 私が買った絵本を、大事そうにピンク色の手提げ袋に入れて、さらにその手提げを大事そうに抱えて帰って行く後ろ姿を見ると、それだけで、どこか満たされた気持ちになった。



 

 やがて、レッスン室の本棚は、杏樹用の絵本や、児童向けの本で一杯になったけれど、それはまた別の話。





####春 第4話


 

 レッスンの日の夕方。

 

 もうすぐ梅雨明け、といった頃だったか。

 

 夕暮れなのに、本当だったら夕焼けがきれいな時間の筈なのに、外はどんよりとした曇り空で、さっきからにわか雨が降っていた。


 そういえば、台風が日本列島に近づいている・・・と天気予報で言っていた。明日の今頃は台風が上陸するらしい。

 

 レッスンはもうとっくに終わっていた。けれど雨が酷い。でも、一時的なにわか雨のようだったので、私は杏樹と相談して、“雨が小降りになるまで”うちで時間を潰すことにした。

 

 

 

 いつものように杏樹にジュースを出し、私は自分用のアイスコーヒーを冷蔵庫から出した。

 

 毎週、喉を渇かしてここにたどり着く杏樹のために、いつの間にかうちの台所には子供が好きそうなリンゴジュースやブドウジュース、麦茶のストックが多くなり、普段の杏樹のレッスンの時にも、こうして二人で飲み物を飲んで過ごすようになっていた。

 

 それは、約束してそうなったわけではなく。

 

 ただ、ここに来る時には汗びっしょりで喉を渇かして来るし、

 

 おそらくここから帰るときも、家に着く頃には汗びっしょりで喉を渇かして帰るのだろう・・・と思うと、何も飲ませずに帰すのがかわいそうになってしまったのだ。

 

 それぞれ飲み物を飲みながらも、杏樹は学校での話を矢継ぎ早に話す。

 

 今日は学校でこんな事があって、あんな事があって・・・

 

 杏樹の話は尽きることがない。それは、杏樹が帰らなくてはいけない時間を私が知らせるまで、延々と続く。

 

 やれやれ、この子は大きくなったら、道ばたで井戸端会議をしている、噂好きなおばさんにならないだろうか?・・・そう思う反面、“子供とはこんなもんだ”と、半ば諦める心境になってきた。

 

 そして、諦める心境になればなるほど、こんな矢継ぎ早な話につき合うことが出来る担任の先生や母親とは、私が想像も付かない程の忍耐力を持っているんだなぁ・・・と、感心してしまう。


“母親・・・か”


 私にとって“母親”というフレーズは、あまりにも印象が薄く、顔は写真でしか知らない。


 その母親も、もしも生きていたら、こんな風に私の話を聞いてくれる存在になったのかなぁ?

 

 そんなことを考えていたとき・・・

 

 “ピーンポーン・・・”

 

 呼び鈴を鳴らす音がして、私は杏樹の話を中断し、玄関先に出た。、

 

 玄関には、宅配便のお兄さんが立っていて、“宅急便ですよ”と言って、きれいな包装紙に包まれた荷物を両手に持っていた。

 

 受け取って、杏樹の居る部屋に戻ると、杏樹は眼をきらきらさせてその荷物を見つめていた。

 

「先生、それなあに?」


 差出人を見ている私に、杏樹はわくわくと聞いてきた。

 

「うん・・信州に住んでるお友達から」


 お友達、というと聞こえが良いけど、実際は去年、信州でコンサートをした時にお世話になった人からのお中元だった。

 

この季節になると、仕事でお世話になった人や団体から、お中元やお歳暮がよく届く。それはとても有難い事だけど、毎年そのお返しに苦労する。


 封を開けると、杏のジャムと杏のお酒の詰め合わせだった。

 

 そういえば、この送り主の実家は杏の農家だと言っていた。

 

「杏製品の詰め合わせ」


「あ、知ってる! 私の果物!!!」


 杏樹は突然、そう大声で言った。私は思わず、空いている片手で自分の耳を軽く塞いだ。それくらい、大声だった。

 

「杏樹の果物・・なの?」


 一方、言われた私は、軽くキーンと耳鳴りしている片耳を押さえながら、杏樹にそう聞いた。

 

 そういえば、杏樹の名前は、感じで「杏の樹」と書く。その事を言っているのだろうか?

 

「うん、私の名前ね、“杏”から取ったんだって! 前にママがそう言ってたの!」


 そこまで言うと、杏樹は“えーっと・・・”と、何かを思い出すように、目を軽くつぶって空を見つめた。


 そして数秒すると、再び話を始めた。でもその口調は、今までの大声ではなく、少し声は低く、普通に聞いていられるくらいの声の大きさだった。

 

 「えーっと・・・・“とうり いわねど おのづから・・・”」

 

 杏樹の口から出てきた言葉は、中国の古い諺だ。

 

「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す・・・?


中国の古い諺ね?」


よくこんな難しい言葉を知っているなぁ・・・感心しながら杏樹を顔を見ると、杏樹は嬉しそうに笑った。


「そう、それ!


ママがね、この諺みたいな人になれるようにってつけたんだって!」


・・・・・桃やスモモは言葉を発することはないが、美しい花と美味しい実の魅力にひかれて人々が集まり、その下に自然と道ができる。

徳のある人の側には、その人が何ら特別なことしなくても、自然と人々が集まってくる。


確かそんな意味の諺だった・・・筈。


“杏樹”という珍しい名前には、そんな意味が込められていたのか・・・


 改めて私は、目の前で得意げに話をする杏樹を見つめ、そして、あの日一度あったきりの杏樹の母の顔を思い浮かべた。

 

 その由来を聞いただけなのに、あの杏樹の母が、自分の娘をどれだけ慈しんでいるのかが伝わってくるようだった。

 

「・・・素敵な名前だね」


「うん!」


杏樹は元気にそう答えると、えへへっ、と嬉しそうに笑いながら、またジュースを飲んだ。


「そういえば、先生の名前は?」


「え?」


 急に話を返されて、私はびっくりして杏樹の顔を見た。杏樹は、まっすぐに私を見つめていた。

 

「先生は、どうして“桜”っていう名前になったの?」


・・・そう言えば私は今まで、自分の名前について、誰かに聞かれたことなどなかった。


“春らしい名前ですよね”


と、褒められることはあっても・・・その由来まで興味を持つ人など、私の周りには誰も居なかった。


「先生は、4月生まれなの?」


「ううん、1月生まれ」


「じゃあ、どうして桜なの?」


 杏樹のことだ、私が4月生まれで、桜のきれいに咲いた日に生まれた、とでも思ったのかも知れない。実際は、ちょっと違うのだけれど・・・


「私のお婆ちゃんが住んでいた地方はね、とっても早咲きの桜があったの。1月から、3月位まで咲いている野生の山桜なの。その桜が咲き始めるかの頃に生まれたから、“桜”っていう名前になったの」


私の名前、“桜”は、本当は漢字では“早桜”と書く。


でも、出生届提出間際に「わかりにくい名前だから」と、普通の「桜」という字にかえたのだとか。




 私の母は、ドイツ人と日本人のハーフで、日本で父と出会い、結婚した。

 

 母の両親は今でもドイツで暮らしている。

 

 けれど、母は私を妊娠して出産する時、ドイツの実家に里帰り出産せず、父の実家でお世話になったそうだ。身重な身体で飛行機に長時間乗る事が難しい体調だったらしい。

 

 その父の実家で私が生まれ、祖母が名前をつけた、と聞いている。祖母もまた、若い頃夫を戦争で亡くし、どうやらその早咲きの桜にとても深い思い入れがあったらしいけれど、その話を私は聞くに至らなかった。

 

 “想いを託す”・・・その桜の花言葉。祖母は、あるいは母は、何かの想いを私に託したかったのだろうか?

 

 名前をつけてくれた祖母も、私を産んでくれた母も、もうこの世には居ないので、聞く術もない。今更考えても答えのでない問いかけだった。

 

「そっか・・・でも、ねえ、先生!しってる?」


杏は何処か楽しそうに私の顔を覗き込み、私の物思いを強制的に遮断した。


「杏と桜って、ピンク色で、似てるんだよ?


私も、桜先生みたいになれるかな?」


「・・・どうだろうね?」


 私も杏樹に話を合わせるように笑って見せた。

 

 そういえば、杏の花の花言葉は・・・なんだっけな?

 

 数秒考えて、その花言葉を思いだし・・・そして目の前の杏樹の満面の笑みを見つめて・・・

 

 気がつくと、私は本気で笑っていた。

 

「??先生、どうかしたの?」


「え? ううん、なんでもないよ?」


「なによー! せんせい!! どうしたの?」


「何でもないわよっ!」


そういいながも、笑が止まらなかった。


 思い出した。

 

 杏の花の、「花言葉」

 

 『乙女のはにかみ』『慎み深さ』

 

 

 杏樹に、この花言葉だけは、しばらく内緒にしておこう。

 

 この二つの言葉とは全くかけ離れた生徒を目の前に、心の中でそう思った。

 

 

 気がつくと、外の雨があがり、西の空は、黒い雲間から夕焼け色が差し込んで見えた。

 

 

 

 それは、夏が来る、少し前の出来事だった。

 


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