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そして、時は過ぎ・・・


杏樹との別れから三度目の春。


 私は、憲一さんと結婚した。


 杏樹がいなくなってから、一時、寂しさとショックで身動きをとれなくなってしまった私。


 そんな私を献身的に支えて、再び舞台で弾けるように励ましてくれたのは、他でもない、彼だった。


 その憲一さんからプロポーズを受けて3年あまりがすぎ、私は三十路となっていた。


結婚を急いだつもりも、先延ばしにしたつもりもなかった。でも、婚約期間3年、と言う年月は、他の人から見たら随分のんびりしているように見えたみたいだ。


婚約したままいつまでたっても、式はおろか入籍すらしない私たちのことを、周囲はことさら心配した。


「お前ら、本当に大丈夫なのか?」


仲間内で、私と憲一さんの不仲の噂まで飛び交って(その噂の情報源は、状況を面白がって高みの見物を決め込んでいた和也さんだった・・・というのは割とどうでも良いことだけれど)辟易した。仲間内だけならまだしも、師匠にまで言われた時は、二の句が継げなかった。


「憲一が何か貴方にまた失礼なことを?」


 師匠の私室に呼ばれてそう切り出された時は、その誤解を解くのが大変だった。


 


別に結婚をもったいぶったわけも、躊躇したわけでもない。勿論不仲になったわけでもない。


けれど・・・


私や憲一さんには、決着のついていないことが一つ、あった。


それは結婚や憲一さんに対する躊躇ではなく、あの、突然いなくなってしまった杏樹と杏樹のママに対する想いだった。


私たちは、婚約した後も、忙しい仕事の合間を縫って杏樹親娘の行方を捜した。出来ることなら、私たちの結婚式にも、出席して欲しかった。


けれど、どれだけ捜しても、杏樹親娘の行方は判らなかった。


ツテを使って、探偵や警察に頼んだりもしたけれど、大きな手がかり一つ、得られなかった。


香織さんは勤めていた病院をやめて以来足取りは掴めず、杏樹の通っていた学校も、引っ越し先は香織さんの実家、と言うことになっていた。けれど、その香織さんの実家には、香織さんのご両親が住んでいるだけで、ご両親は、杏樹親娘の住んでいる場所を、決して教えてはくれなかった。


何度も何度も説得してみた。けれど、香織さんのご両親は、私のことは信頼してくれているみたいだけれど、それでも杏樹たちの居場所は教えてくれなかった。


教えてくれない理由は明確だった。


どこから、杏樹のパパ・・・晃也さんに情報が漏れるか判らない。そして、晃也さんにばれてしまったら、また杏樹の身に危険が降りかかるかもしれない・・・そんな想いが、余計に香織さんの両親の口を重たくしていた。


 散々手をつくし、それがどれも実を結ばず、ようやく、杏樹を探すことをあきらめるのに、三年、かかった。


 ただ唯一の希望は・・・


 憲一さんが私を励ますために言ってくれた言葉だけだった。


『お前が、舞台でピアノを弾き続けさえすれば、杏樹は必ずお前に気づくはずだ』


『なあ、桜?

 音は空気に乗って、人の耳に届くだろ?。

 だったら、人が生きている場所には、必ず音が響く。杏樹達がこの世に生きていて、桜が演奏し続けていれば、必ずお前の音は、いつか杏樹の耳に届く・・・だから、弾き続けるんだ!』


 今考えると、途方も無い話だ。でもあの時は、彼のその言葉一つだけを信じて、私は今まで以上に精力的に、舞台で演奏することにした。


それが、私に出来る・・・そして、私にしか出来ない『杏樹を探す』方法だった。



 結婚した後も、私は、音楽教室でピアノを教え、また舞台に立ち、音楽の仕事をつづけ、憲一さんもまた、師匠・・・私にとっては義理の母になったわけだけれど・・・のマネージャーを務め、舞台に立つ私を支え、それとは別にクラシックに携わる仕事にも従事していた。


これは、婚約してから知ったことだけれど、憲一さんは裏でクラシックプロデュース等も随分前からやっているらしく、クラシックの著名人の間では(師匠の息子、というのを差し引いても)知られている存在らしい。彼自身、そういったことを全く話してくれなかったので、知るよしもなかったけれど・・・


 人々がクラシック離れしている昨今。そのクラシックの良さを知って、もっと身近に感じてほしい・・・そんな想いから、プロデュース業に力を注いでいた。





・・・・・・・・・




結婚後しばらくして、私は、憲一さんとの間の子供を身籠った。


 杏樹みたいな娘がほしい、と思ったけど、生まれた子供は男の子で、私は酷く落胆した。


 けど、憲一さんは、生まれてきた子供を、とてもかわいがってくれた。


「男だろうと女だろうと、俺と桜のたった一人の子供だろ?

命が命と出会って、新しい命が誕生する・・・そんな奇跡みたいなことに、性別なんか関係ない・・・」


出産に立ち会い、陣痛に苦しむ私の傍で手を握り続けていた彼は、生まれたばかりの赤子を、不器用な手つきで抱っこしながら、不器用だけど彼らしい普遍的な言葉を言っていた。


 翔、という、いつか夢に、願う場所に旅立ち、羽ばたいて欲しい、という想いを込めた名前を息子に与えたのも、憲一さんだった。


 教室や舞台演奏を、育児を理由に産休を取っていた私は、時間が許す限り、翔の側にいたけれど、そんな私以上に、憲一さんは、生まれてきた子供を溺愛していた。


その姿は、以前の、冷たく無感情だった彼からは想像出来ない姿だった。


 忙しい時間をやりくりしつつ、一緒に公園で泥だらけになるまで遊んだり、産休が終わり、演奏活動や教室レッスンを再開すると、私の仕事が立て込む時は保育園の送り迎えまでやってくれた。


小学校に進学したら、何かといえ仕事の都合をつけて学校行事やPTA活動に顔を出し、気が付くと保護者・・・特に同級生のママの間でも、子煩悩なパパとして顔と名前の知られる存在となっていた。


 そして私もまた、そんな彼に引きずられるように、学校行事やPTAの活動に足を踏み入れるようになっていた。






 学校に行けば、相変わらず国仲先生がいた。


 杏樹と同学年だった子達は、もうとっくに小学校を卒業していた。それでも国仲先生は、教員として小学校に残り、杏樹がいなくなった後も、変わらずに交流があった。それは、杏樹がいた頃のような、杏樹を挟んだ人間関係とは違う、人と人、友人同志としての付き合いに近いものだった。


 息子が入学した年は、その国仲先生が息子の担任になった。私は、悪気のない悪戯の匂いを感じながらも、入学式の後、国仲先生と、担任と保護者、という立場で再会し、思わず笑ってしまった。


 何年かして、子煩悩な憲一さんに引きずられるようにして学校行事やPTAで学校に訪れることが多くなると、校舎内で私を見つけては、あのころと変わらない笑顔で駆け寄ってきてくれた。


(ああ、杏樹と似てるな・・)


 その笑顔を見るたびに、先生と知り合ったきっかけとなった、あの子を思い出した。


 もう、国仲先生との間に、杏樹との話は出てこない。国仲先生も忘れてしまっているのかもしれない。


 それでも、国仲先生が、翔を・・・翔だけでなく、ほかの生徒たちを見る目は、表情は・・・あの頃、杏樹や、そのお友達たちを見ていた、あの人懐っこい笑顔のままだった。




・・・・・・・・・・



 翔が物心ついたころ・・・幼稚園に入学する少し前。


 私は、翔にピアノを教えてみた。


 父方の祖父母は音楽家、母親もピアノ教師、父はマネージャー兼クラシックプロデューサーという家庭環境のせいか、小さい頃から音に対しては敏感だった。よく、私の真似をしてピアノの椅子に座っては、鍵盤を叩いて遊んだり、レッスン室に篭る私のそばで、絵本を読んだりして過ごていた。


そんな息子に音楽の才能を見出した・・・と言うわけではないけれど、何となく、ピアノが好きに見えた息子の気持ちを伸ばしてみたかったのだ。


 教えてみると、翔のピアノ好きも手伝って、みるみるうちに上達した。小学校に入学した後も、その腕前は抜きんでていた。中学に進学した後は、学校での合唱コンクールで伴奏者賞をもらう程の実力があり、校内でも“ピアノ弾かせるなら翔だろ?ー”と言われる程だった。親であり、ピアノ教師でもある私から見ても、親ばかな気持ちを差し引いても誇りに思った。


 けれど、ピアニストになるつもりは、本人にはなく、私や憲一さんも、息子をピアニストにするつもりもなかった。


 そのせいか、ピアノが趣味、と言い切る、ただの音楽好きな少年となり、成長していった。


時々、私と連弾の相手をしてくれたり、私の本番用の楽譜を引っ張り出して、私とは違う奏法で弾いたりしていた。


そんな後ろ姿を見るにつけ、私の仕事、好きなことを、翔も理解してくれていること、さらにそれを、翔も好きになってくれていることを実感し、心の片隅が、温かくなるような、満たされた気持ちになった。





 さらに時が過ぎ・・・


 中学生の半ばになった翔も、進路を決める時期になった。


 そんなある日、翔に医者になりたい!と打ち明けられた。


  私たちの驚きと言ったらなかった。


 ピアニストにする、とか音大に通わせよう、とかそんなことを思ったことはない。けど、どうしてよりにもよって医者に? 確かに成績は悪くない、けど、どうしてそんな金のかかる進路に・・・と思ったけど。



でも、彼にしてみれば、昨日今日で決めたことではなく、口にはしないものの、ずっと決めていたことだったようだ。


 

 心当たりはあった。


 翔は小学一年の時、学校の下校途中に交通事故に遭った。


 狭い、歩道やガードレールのない通学路での事故だった。


 翔は頭を打ち、大怪我をした。救急車で病院に搬送され、何時間にも渡る大手術のすえ、かろうじて一命をとりとめた。


 後遺症が心配されるほどの大怪我だったし、もう助からないだろう、と周囲に言われ、私も憲一さんも嘆き悲しみ、たった一人の我が子の死を覚悟した。

 

 けれど、その時翔を担当した医者はとても名の知れた、腕の良い脳外科医で、4ヶ月ほどの入院(その半分以上は意識不明だった)と、何ヶ月かに及ぶリハビリをうけ、一年、学校を留年したけど、奇跡的に後遺症も残らず、現在に至っている。


 その医者のように、人の命を救えるような医者になりたい、と翔は言っていた。


 私も憲一さんも、反対しなかった。・・・彼の決心は固く、反対できなかったし、するつもりもなかった。


 そして今、息子は、子供の頃事故で搬送された医科大学付属高校への受験のため、塾通いしている。決してランクの低い大学ではなく、容易な事ではなかったけれど、息子が、自分の意志で決めたことだった。


 成績は決して悪くないので、(親の欲目か、それとも親バカか?)多分大丈夫だろう、と思う反面、やはり、親としての心配は絶えなかった。




・・・・・・・・・




 時間は少し、前後する。


 憲一さんと結婚し、翔を授かり。


 一人息子の育児に奮闘し、また成長を見守りながらも、私は育休が明けると同時に音楽の仕事を再開した。


 仕事・・・しかも普通の会社員とは違う特殊な仕事と子育て。うまく両立出来たのは、私一人の力のわけではなく、音楽や私たちの仕事を理解し、協力を惜しまなかった憲一さんや、独身時代からコンサートやライブの度に手伝ってくれた友人たちのお陰だ。コンサートの合間、まだ幼い翔の面倒を見てくれた友人や、舞台で演奏する機会を与えてくれた仲間たちには、きっと一生、頭が上がらないだろう。


 その頃の経験は、その後も生きていった。


 ライブや発表会の時、小さい子供が演奏中に騒いでも良いように、子供が騒いでも安心して演奏を聞けるようなチャイルドスペースを確保すること、親子席を増やすこと、授乳室やおむつを替える場所を充実させること・・・そう言ったことに目が届くようになったのも、その頃の経験があったからだろう。


 いつか、子供も大人も、ストレスなく、同じホールで同じ音楽を楽しめるようなコンサートを仲間と企画して、実現させてみたい・・・そんな夢を描くようになっていった。





そして、産休明け、教室講師に復帰したとき、教室で私を待っていたのは、私が最も苦手としていた、子供のピアノレッスンのクラスだった。


 そこにいたのは、運命のいたずらか、杏樹と同じ年頃の、たくさんの子供達だった。


 子供が苦手な私に子供を教えることが務まるのか、心配だった。けれど、杏樹を教えたときの経験や翔を育てた経験が役に立って、思ったよりもうまく教えることが出来た。


 時には手を焼き、時には、その子供に学ぶ事も多かった。


 そして私は・・・気が付くと、教室の中に、杏樹のような子供を探していた。


 でも、探すまでもなく、見つけることができていた。




 どの子供の中にも、「杏樹」はいた。


 例えばそれは、できなかった課題が上手に弾けて、一杯褒めてあげたときの子供の笑顔だったり、


 生き生きとした目で私の話を聞く、そのまっすぐな視線だったり、


 お友達と喧嘩して泣きじゃくっているその表情だったり、


 はたまた・・・同じクラスの大好きな男の子のことを恥ずかしそうに話す仕草だったり・・・


 そんな「杏樹」を 子供の中に一つ、見つける度に、私は自分の笑顔をも一つ、見つけていた。


 気がつくと、私の周囲は、「杏樹」の欠片を抱えている子供で一杯になっていた。



 やがて、その子供達は成長して、


 ある子供は学校の合唱コンクールで伴奏をし。


 またある子供はピアノコンテストに出場し、


 またある子供は、芸大や音大を目指し必死になってピアノを弾き、


 ある子供は、・・・こういう子が圧倒的に多かったけど・・・音楽好きでピアノ好きな大人へと成長していった。・・・


 私は、また、その子の表情や心の中に「杏樹」をみつけ・・・


 そんな日々を送っていた。






 そして・・・私と憲一さんは、静かに穏やかに、歳を重ねて行った。


 結婚する前の、あの無感情な人間関係は、まるで遠い夢の中の出来事のようにさえ感じる。


 でも、今思うと、あの冷たかった人間関係さえも、今の私たちの関係を作るのに必要な出来事だったのかもしれない・・・


そうとさえ、思うようになっていった・・・




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