別れ
あの、六年生を送る会が終わった、次の週。
その週は、終業式だった。
杏樹たちの学校も半日になり、杏樹はお昼頃にうちに来ることになっていた。
私は、いつかの夏休み前のように、あるいは半日授業の日の後のレッスンの日のように、お昼ご飯を用意しながら、杏樹が来るのを待った。
窓を開けると、暖かい風が部屋に入ってきて、とても気持ち良かった。
花粉症には縁のない私は、この季節、窓を全開にするのが好きだった。
春の、温かい風を部屋に入れるのが好きだった。春の訪れを感じられる空気の温度が、好きだった。・・・たとえ、そのあと、部屋が多少埃っぽくなっても、それは掃除すれば済むことだ。
そういえば、杏樹と初めて出会ったのも、こんな風の吹く日だった。
・・・そう・・・春一番の吹く日だった・・・
不意に、杏樹と初めて会った日の事が、脳裏をよぎった。
香織さんの横で、そわそわ、垢抜けない落ち着かない様子だった杏樹は、いつの間にか随分成長していた。長い髪で、ぽっちゃりした雰囲気は変わらないけれど、その眼は無知なものではなく、いろいろなことを見て、感じて、成長した目だった。
そんな杏樹とのやり取りも、毎週楽しいものだった。笑ったり怒ったり、感情に素直で、いつも屈託なく笑うあの子に会い、触れるのが大好きだった。
そして今日も・・・杏樹のピアノレッスンの日だった。
「そろそろかなぁ・・・」
時計を見ると、もうすぐ12時。杏樹がここに来る頃だ・・・
一緒にお昼を食べて、レッスンして、杏樹の話をいっぱい聞いて・・・たったそれだけの事が、何よりも楽しみなことになっていた。思い描くだけで、心が温かくなり、自然と笑顔になった。
ところが・・・
時間が過ぎても、杏樹の"さくらせんせいー!!!"というあの呼び声は、外から聞こえなかった。
「遅いなぁ…」
時計を見ながら、少し心配になり始めた頃・・・
"ピーンポーン!・・・・ピーンポーン!"
突然、呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。
「はーい」
疑う事もなく、杏樹だと思った。でも、それにしては妙だった。
いつも、家の前の坂を歩きながら、"さくらせんせいーーーーー"と大きな声で私を呼ぶのに、今日に限って、その声は聞こえなかった。
その代り、
"ピーンポーン! ピーンポーン ピーンポーン!・・・・!
まるで急かすように、呼び鈴が何度も鳴った。私は軽くため息をついた。
杏樹が悪戯しているのかな・・・そう思いながら、玄関の鍵を開けた。
「杏樹、そんなに何度も鳴らさなくても・・・」
聞こえてるよ! そう言おうとした。
でも、目の前にいたのは、杏樹ではなかった。
杏樹より背の高い、深緑色のしっかりしたスポーツバッグを肩から斜めにかけた男の子と、その男の子と同じ位の背の、少しくたびれた空色のランドセルを背負った女の子が、立っていた。
見覚えある、知っている子だ。
師匠のピアノ教室に通っている、祥子ちゃんと、祐介君・・・確か、発表会の時にも会っているし、そのあとにも何度か師匠のレッスン室で会っていた。杏樹とも仲良しな子だ。
特に祥子ちゃんは、コウ君・・・杏樹が大好きな男の子のお姉さんだ。
「えっと・・・」
この二人が、うちに来る用事なんて、本当だったらあり得ない筈だ。レッスンは隣で受けているのだし、顔見知りではあるけれど・・・文字通り、杏樹を通じての顔見知り程度だ。
「さくらせんせい!」
その男の子・・祐介君は、はっきりとした口調で、そう言った。よく見ると、二人とも、全力で走った後の様に、息を切らしていた。更によく見ると、二人の後ろには数人の女の子が立っている。・・・その女の子達にも、見覚えがあった・・・
杏樹の、お友達だ。
夏のプールの時や運動会の時に顔を合わせているし、この間の六年生を送る会の時だって、実行委員の杏樹を手伝っていた。
でも、みんなの顔に、あの時のような笑顔はなかった。杏樹のお友達たちは、みんな、走ってきた後のようで、祐介君以上に息を切らし、汗びっしょりな子もいる。
「・・・確か、杏樹のお友達・・・だよね?」
私がそう聞くと、後ろの女の子たちはそれぞれ軽く頷いた。そして。
「杏樹ちゃんが、誘拐されたの!!」
突然、そう言った。
「は???」
私は耳を疑った。
誘拐?
誘拐って・・・あの誘拐?
その言葉を正確に理解するまで、何秒かかかった。
杏樹が、誘拐された?
まさか!
「誘拐ってどういう事?」
話についてゆけない私に、祐介君やお友達たちが口ぐちに話を始めた。
そのそれぞれが、自分の視点で話を始めるものだから、余計に訳が分からなくなり、混乱しそうだった。
それでも、その中で一番冷静だった祐介君と祥子ちゃんの話によると・・・
いつも杏樹は、仲良しなお友達同士、数人で下校するらしい。
でも、今日は、教室で帰りの会が終わるのと同時に、まるで飛び出すように教室を出たらしい。
「ピアノがあるから!またね!」
と言って・・・
"一緒に帰ろう"と、何人かのお友達が止めたらしいけれど、
「遅くなると、桜先生が心配するから!
それに、終了証、先生に一番に見せたいの!」
そう言って教室を出て行った。
今日は修了式。一年生最後の日。杏樹の一年生は、今日で終わりの筈だ。一年生がちゃんと終わると、修了証書、というのがもらえるらしく、杏樹はそれを、私に一番に見せたい、と言っていたらしい。
ところが、それからしばらくして、他のお友達が学校を出ると、正門からほど近いところに、杏樹がいた。
杏樹は、一人ではなかった。
見知らぬ男性が、杏樹の側に立っていて、その男性の傍には車がハザードを出して止まっていた。ちょうど歩道に設置されているガードレールが数メートル、途切れているところに、その車は止まっていたそうだ。
杏樹とその男は、何やら言い合いをしているみたいだった。
「杏樹!どうしたの?」
お友達の一人が、杏樹に声をかけた。
そして杏樹が、お友達に気づいて、その見知らぬ男性を放って、手を振ってこちらに来ようとした・・・
その時。
その見知らぬ男性は、杏樹の腕をつかみ、そのまま抱きかかえるようにして車の後部座席に押し込んだのだ。
「あ!」
「杏樹ちゃんっ!」
その車は、次の瞬間、猛スピードで走り始め・・・通りから、いなくなってしまった・・・
一瞬の、出来事だったらしい。
今から30分ほど前の出来事だったそうだ。
みんなは口ぐちに、その時の様子を話して聞かせてくれた。
誘拐!
本当に誘拐、連れ去りじゃない!
ただ事じゃない!
杏樹が誘拐された?いったい誰に? 何のために?
「学校に、そのお話、した?」
祐介君と祥子ちゃんにそう聞くと、二人は大きく頷いた。
「しました!
そこにいた、ほかの友達が、職員室にいる国仲先生にも話しにいきました!」
彼らがそう言った時。
家の中から電話の音が聞こえた。
「ちょっと待ってて!」
私は玄関前にたむろす子供たちにそう言うと、家の中に戻り、電話に出た。
「もしもし?」
"あ、叶野さんのお宅でしょうか? 有明東小学校の国仲ですけれど"
「国仲先生っ!」
私はすがるような気持ちで、先生の名前を呼んだ。
「先生っ! 今、杏樹のお友達たちがうちに来て・・杏樹が誘拐されたって話を・・・」
"ええ。私も先ほど、目撃した児童から聞いたところです"
電話の向こうでそう言う国仲先生の声は硬く、それだけで、楽観できない何かを感じた。
ぞわぞわと、背中のどこかが疼く。そう、まるで二時間ドラマで事件が起きる前のような・・・
ドラマだったら、たとえそれが事件でも、どきどきワクワク、何が起こるんだろう、と期待して見ているのに、いざ現実にこんなことが起こると・・・
楽観視なんかできるわけない!
"今、警察にも連絡しました。
杏樹ちゃん、今日は桜先生の所でピアノのレッスンだと言ってたんですけど?"
「はい!今日、来る予定でした」
"そんな事情で、杏樹ちゃんは、そちらには行けないと思います"
どうやら国仲先生は、杏樹が来なくて私が心配すると思って、電話をくれたみたいだ。
「・・・わかりました。わざわざご連絡、ありがとうございます」
そう言いながらも、連れ去られた杏樹の事が心配でならない。
「それで・・・杏樹は・・・」
子供たちの話を聞くと、杏樹が連れ去られて30分程だ。何ら情報が入ってくる時間ではないだろう・・・けれど、聞かずにはいられない。
"今、他の先生が杏樹の連れ去り現場を目撃した児童たちに、詳しく話を聞いているところです。警察にも、杏樹のお母さんにも、先ほど連絡しました"
「そう・・・ですか・・・」
"桜先生の所に児童が知らせてくれたんですか?"
「はい、杏樹のお友達と、コウ君のお姉ちゃんと、リュウ君のお兄ちゃんが来ています。今、うちの玄関にいます」
"そうですか・・・"
電話の向こうの国仲先生は、何か考えているようだった。
"子供達は、そのまま家に帰してもらえますか? 一人にならないように、集団で帰るように言ってください。
私が今、そちらにお伺いできればいいんですが、杏樹の連れ去りの対応で、今、ここを動けないんです・・・"
「判りました」
私は、何か情報が入ったら、知らせてほしい、と国仲先生に伝えて、電話を切った。
そして、大きく息を吐いて、自分を落ち着かせた・・・つもりだったけれど、落ち着くわけもなく、落ち着かないまま、玄関にいる子供達の所に戻った。
玄関で待っている子供達は、玄関に来た私を一斉に見た。
「今、学校の国仲先生からお電話で、みんな、お家に帰るようにって・・・危ないから、一人で帰らないでって言ってたわ。
みんな、お家はどこ?」
「私達は、杏樹の住んでるマンションの近くです」
一年生の三人は、そう言って頷いた。
「それじゃあ、私が車で送ってあげるわ。祥子ちゃんたちは・・・」
「私たちは、歩いてすぐなので、祐介君と一緒に帰ります。家が隣同士だし、大丈夫です」
「二人だけで大丈夫?」
心配になってそう聞いた。でも、二人は大丈夫です! と頷いた。
そう言えばこの二人は、師匠の教室に毎週来てピアノを習っていたんだっけ・・・この辺りには通いなれているみたいだ。それに二人とも四年生。心配ないだろう。
「橘先生の教室には、毎週通っているし、大丈夫です!」
祥子ちゃんはそう言って、祐介君は何も言わずに頷いた。この二人なら・・・うん、しっかりしているから心配ないだろう。
「わかった。気を付けて帰ってね」
二人ははい、と返事をして、私たちにお辞儀をして、二人並んで帰ろうとした。
するとその時。
「桜先生」
帰ろうとして背中を見せた祐介君が、踵を返してこちらに戻ってきた。そして、カバンの中から、ごそごそと自由帳とも連絡帳とも取れるノートと鉛筆を取り出すと、その紙になにやら書き始めた。
「・・・・・」
私はその手元をじっと見つめた。
数字の羅列と、ローマ字の組み合わせを書いているようだ。
車のナンバーと・・・・色、あと・・・車種?
そう思い当った瞬間、その紙をノートからピリピリと破くと、私に差し出した。
「これ、杏樹を誘拐した車のナンバーと車種です。
国仲先生にも、伝えてあります」
私は、驚きで息をのんだ。
杏樹よりも年上とはいえ、小学四年生。私たちから見たらまだまだ子供だ。その子供が、ほんの一瞬見ただけであろう車の車種とナンバーを覚えていたのだ。
その記憶力と注意力に一瞬、返す言葉を失った。
「・・・車のナンバーなんて・・・見たのだって一瞬だったんでしょ? よく覚えてたね」
感心してそう言うと、彼は少しだけ、笑った。そういえば、祐介君の笑みなんて、初めて見た気がする。
「俺、車好きなんです。お父さんも車の仕事してるんです・・・それじゃあ、さようなら」
短くそう言うと、再び祥子ちゃんとの隣へと戻り、一緒に帰って行った。
私は、帰ってゆくその二人の背中を見送ると、後に残った杏樹のお友達を、自分の車に乗せた。
「杏樹のマンションの側ね?」
「うん!」
杏樹のマンションは、杏樹を送るために何度も行ったことがある。その近くの住宅地といえば・・・一か所しかない。
杏樹の連れ去りがあった直後だ。一年生女子三人をそのまま帰すのは危険すぎた。
通いなれた杏樹のマンションへの道が、今日は偉く遠く感じた。それでも、彼女たちの家のある住宅地の近くまで行くと、見知らぬ女性が数人、立っていた。
「あ、ママだ!」
後部座席に乗っている杏樹のお友達の一人が、そう声をあげた。私は慌てて、その女性たちの前で車を停めて、子供達を降ろした。
そこに立っていたのは、子供達のお母さんらしく、学校から杏樹が連れ去られた経緯を聞いて、心配で待っていたらしい。
「桜先生!ありがとう!」
子供達は口々にそう言った。母親たちは、子供が無事目の前に姿を現した安堵と、見知らぬ女性・・・つまり私・・・の車から降りてきた事で、うろたえているみたいだった。それでも、訳が分からないまま、無事送り届けた私に、軽い会釈をしていた。
その会釈に、私も軽い会釈で返事をすると、車を走らせ、家に戻った。
今は・・・ただ、自分に出来ることで、杏樹を探さなくちゃいけない・・・
理由も根拠もなく、そう思った。
そして・・・・杏樹を誘拐しそうな心あたりが一つ、あるのに思い至った。
「・・・まさか・・・・」
証拠などない。でも、あり得なくはない・・・
私は、はやる気持ちを抑えてアクセルを踏んだ。
心の中に湧いて出た"犯人の心当たり"を、確かめたくて・・・
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家に帰るとすぐ、私は憲一さんに電話した。
携帯に電話してもなかなか出てこず、ちょっとイライラしていると、やっと彼が出た。
"もしもし? 桜?"
「憲一さんっ!よかった、つながった!!」
"どうしたんだ?"
普段と何ら変わらない彼の声で、少しだけ心が落ち着いた。
「ごめんね、仕事中で・・・あの・・・今、平気?」
"打ち合わせ中だったんだ。すぐ出られなくてごめんな。ちょうど今終わったところだ。・・・どうかしたのか?"
こんな風に、どう考えても彼が仕事中な時間に電話したことなど一度もない。その状況に彼は戸惑っているみたいだった。
私は、杏樹が学校帰りに連れ去られたことを手短に話した。
"連れ去られた?"
「うん。子供達もそう言ってたし、国仲先生からも連絡が来たの。
それでね、目撃してた祐介君が、杏樹を連れ去った車のナンバーと車種、教えてくれたの」
私は、手元にある、祐介君がくれたメモを読んだ。
車のナンバーと色、車種を・・・すると、電話の向こうでため息が聞こえた。
"それ、晃也の車だ・・・"
やっぱり・・・私は心の中で呟いた。
"とにかくっ・・・・これから俺、すぐ帰るから、帰ってからゆっくり話そう!桜は、家にいてくれ!"
彼は一方的にそう言うと電話が切れた。私は、単なる無機質な物体になってしまった携帯を握りしめながら、祈るような気持ちで彼が帰ってくるのを待った。
テーブルの上では、杏樹と一緒に食べようと思って用意しておいたドリアが、寂しそうに冷たくなっていた。
憲一さんが帰ってきたのは、それから1時間程経ってからだった。
「憲一さんっ!」
玄関から入ってきた彼に、私は不安で縋りたい気分だったけれど、今はそれどころじゃない。
「桜・・・平気か?」
彼の手が、そっと、私の頬に優しく触れた。たったそれだけの事で、堪えていた涙があふれてきそうになる。
何よりも今、この状態で私の事を心配してくれたのはとても嬉しかったけれど、私はその嬉しさに浸る余裕などなくて、泣くのを再び堪えて、こくこくと頷くことしか出来なかった。
彼をリビングに通すと、彼は、私が一番気になっていた事をゆっくりと話し始めた。
「さっき・・・東野にも、車のナンバーの事は電話しておいた。東野も、晃也の車だって証言してる」
やっぱり、杏樹のパパ・・・私の心当たりと、一致していた。
「でも、どうして晃也さんが、杏樹誘拐するのよ」
一番の疑問をぶつけると、彼は少し、気まずそうに、少し視線を落とした。
「奴・・・強行手段に出たんだ・・・俺も東野も、想定していなかった」
そう言うと、彼は息をついた。疲れたのか、ダイニングの椅子にどさり、と腰かけた彼は、事実を整理するように、話を始めた。
「去年、お前、晃也に暴力振るわれて大怪我しただろ?
その事実と、東野と杏樹が奴に暴力振るわれた証拠をそろえて、晃也に子供を引き取る能力はない、って事で、弁護士通じて関係機関に提出したんだ。
それが受理されて、晃也夫婦が杏樹を引き取りたい・・・っていう申し出は棄却された。
それを晃也が・・・いや、晃也の奥さんが不服だとかで、かなりヒステリックに晃也を責めたらしいんだ。奥さんだけじゃなく、その奥さんの実家も・・・晃也の事を責めたてたらしい」
「責めたてたって・・・どうして?」
どうして、ここで晃也さんの奥さんの実家が出てくるの?
実家のご両親にしてみれば、晃也さんは、結婚しているくせに自分の娘に勝手に手を出した男。いくら自分の娘が、その男の娘を引き取りたいと言ったところで、赤の他人の連れ子が自分の孫になる、という状況に、奥さんの実家の両親は納得できるものなの?
普通だったら、結婚は勿論、引き取ることだって反対しそうなものなのに・・・どうして?
その私の疑問が、顔に出ていたのだろう。憲一さんが言葉をつづけた。
「晃也の奥さんの実家は資産家で、お父さんは、さる大手企業のCEOなんだ。その会社を一代で築き上げたようなやり手で、社会的地位も高いし、政財界にも影響力のある人だ。で、晃也の奥さんも、晃也自身も、今は会社役員として名前を連ねてる。
で、晃也の奥さんの実家の両親は、当初、晃也と自分の娘との結婚を反対していたものの、娘が妊娠している、って知ってからは、晃也達の子供をいずれは跡取りに・・・って考え直して、渋々、結婚を承知したらしいんだ。
もともと、会社の後継者問題が水面下で起こっていて、血族経営にするか、社内の能力あるものに経営を任せるか・・・と言う問題で揉めていたらしい。
もちろん、晃也の奥さんの実家サイドは、どうせ後継者を決めるなら、一族の誰かに・・・と強く思っていた。でも、今の次の世代に候補になるような人材はいない。晃也の奥さんに兄妹はいないしな。
だから、晃也の奥さんの両親は、まだ生まれてもいない晃也達の子供に必要以上に期待したし、晃也夫婦にも、自分の子供があの大手企業の経営者に・・・っていう野心もあったんだろう。
ところが、狂言妊娠と狂言流産、それと子供が出来ないってのにショック受けて・・・娘と晃也を結婚させてしまった事もあって、下手な噂が流れたら外聞が悪いし、下手をすれば、会社の評判にも、社員にも影響が出る。
紆余曲折の果て、娘夫婦がどうこう、というよりも、後継者をどうするか、という話になった。晃也の奥さんには、他に兄弟はいない。会社は親族経営で、ゆくゆく、継げるような後継者はいない。杏樹を晃也の連れ子として一族に入れて、跡取り候補に・・・なんて考えになったらしい。
晃也が、執拗に杏樹を引き取りたがったのは、奥さんが子供好きなのに妊娠不能で、子供は欲しくて堪らなかったから・・・なんだけれど、それだけじゃない。奥さんの実家の思惑も絡んでるんだ。
さらに、杏樹を跡取りとして認めさせれば、会社の実権は、ゆくゆくは、晃也夫婦へと移る・・・だから杏樹がどうしても必要だった・・・」
憲一さんは、そう教えてくれた。
事実はドラマよりも奇なり、とはよく言ったものだ。
まるでドラマみたいな展開が、今、目の前で繰り広げられている。
でも、ドラマみたいにワクワクするわけでもなく・・・ただ、その事実はむなしく、悔しく、何もできなかった自分がもどかしく無力に感じた。
目の前で事情を話してくれた憲一さんも、きっとそう思っているのだろう、口や声色にすら出さないけれど、今まで見たこともない程、悔しそうだ。
「でも・・・でも!
こんな誘拐じみたことをして、事が露見したら、晃也さんだって無実ではいられない筈でしょ?
なんでこんなことをするのよ!」
そう。車のナンバーまで見られていて、子供とはいえ目撃者も一杯いる。警察も動き出している。
そんな状態で杏樹を連れ去って・・・見つからないとでも思っているのだろうか?
それこそ、ナンバーや車種まで控えられているのに・・・
私の疑問に、憲一さんは軽いため息をついた。
「奴は、俺たちが考えている以上に、子供の目撃証言を舐めてかかってる・・・って事だろう?
連れ去りだって、レンタカー使うなり、足が付きにくい車使うなり、方法はあるはずなのに、わざわざ自分の車を使う辺り・・・よっぽど晃也の立場が切羽詰っているか、小学生の目撃証言なんか、何の役にも立たないって思っているか・・・
杏樹の事を、自分の立場をより良くするための道具・・・くらいにしか考えていないんだろう。
あと・・・何かあったら奥さんの実家にもみ消してもらうつもりかもしれない。
晃也の奥さんの親戚には、政治家やら警察関係者もいるって聞いたことがある」
彼はそこまで言うと、大きく息を吐いた。
話が終わるころには、外はもう夕暮れ時になっていた。杏樹が連れ去られたのがお昼ごろだから、もう数時間経過している。
杏樹・・・今頃お腹すかせて泣いているのでは…そう思うと、少し落ち着いたはずの私の心は再びざわつき始めた。
不意に、憲一さんが立ち上がった。
「・・・ちょっと俺、出かけてくる。
弁護士やら保健所やら警察やら・・・連絡しなくちゃいけないところがあるから。いったん家に帰る。
明日、桜、仕事だろ?」
「う、うん・・・」
明日は駅前の音楽教室で講師の仕事がある。いくらなんでも休むわけにはいかない。
「進展があったら連絡する。あとは、警察と俺に任せてくれ。
杏樹は・・・必ず助けるから」
その声は確信に満ち、表情は落ち着いていた。普通なときだったら、その声と言葉と、彼の表情できっと安心出来るだろう。
でも今は・・・彼の事を信じられないわけではない。
言い表しようもない不安が、後から後から湧いてきていた。
「ねえ・・私に出来ることは?ない?」
駄目元で、そう聞いてみた。憲一さんは、首を横に振った。
「桜は、ここで待っててくれ。
もしも万が一、杏樹が自力で晃也の所から脱出できたとしたら・・・真っ先に来るとしたら、ここか、東野と住んでいるマンションの筈だ。
マンションには、東野の両親にいてもらっている。東野にも、杏樹の母親として、動き回ってほしいからさ。
桜はここにいてくれ。
もしも杏樹が戻ってきたら・・・俺と警察に連絡してくれ。いいな?」
彼はそう言うと、まるで私を安心させるように、私の頭を優しく撫でた。
そして、立ち上がり手早く身支度をすると、そのまま玄関へと向かった。その後ろ姿は、まるで戦場へと向かってゆく人のように見えて、息が詰まった。
「け、憲一さんっ!!!」
私は思わずその彼の背中を追いながら、そう呼び止めた。
手を伸ばせば、彼の背中に触れることが出来る距離。その彼の背中に手を伸ばした。
「なんだ?」
私の手が彼の背中に触れる直前、彼は振り返った。
私は、振り返った彼に、何か言いたかったけれど、想いは何一つ言葉にならず、私はただ、彼の顔を見上げた。
何かを望んだわけではない。でも・・・言いようのない程の不安に駆られて、私も落ち着かないのは確かだった。
不安で、不安で仕方が無い。そばにいて欲しい!
今だけは、どこにも行かないで!
杏樹のことも心配だけど、私だって不安なの!
でも、今、それを彼に言うべきではないことくらい、私にだってわかる。
それに、彼には、杏樹を探すツテも、動くだけの材料を持っている。けれど私にはそれがない。ないどころか・・・
(一緒にいても、邪魔になるだけ・・・)
引き止めることも、彼を手伝うことさえ、できないなんて・・・
そんな不安を察してくれたのだろうか?
それとも、もっと違う何かを彼は感じてくれたのか?
それは判らない。
結局、何も言えないまま私は俯いた。
今、何かを言ったら・・・きっとそれだけで、彼の足手まといになってしまう・・・
まるで力がぬけてしまったように、後ろの壁に寄りかかった。そして、足が役に立たなくなったように、その場にしゃがみ込みかけた、その時。
ドン、と、壁が響く音がした。それほど大きな音ではなかったけれど、壁が震えるように響いて、一瞬でハッと私は現実の世界に引き戻された。
驚いて顔を上げると、壁に寄りかかった私の、ちょうど耳の横のあたりに、彼の手があった。
そして、数旬遅れて、もう片方の耳の横の壁にも、彼の手のひらが触れる音がした。
両手を壁につき、その両腕の間に私がいて。
私の後ろは壁。
彼がほんの少し、両腕を曲げれば、私と彼の間の距離は、今までにないほど、近くなる・・・
彼の腕の檻にとらわれてしまったような、妙な錯覚に陥った私は、この、息さえも感じてしまうほどの距離感と、逃げられない状況で、はっと正気に戻った。
正気に戻ったものの・・・杏樹が誘拐された、というショックとは別のショックで、身体が動かなかった。
動けなくなった私を、憲一さんは、今までにないほど、優しい、慈しむような目で見下ろしていた。
そして、彼はその両腕を曲げると。
二つのショックでで震える私の唇に、触れるだけの優しいキスをしてくれた。
(えっ?)
一瞬、何が起こっているのか、判らなかった。
でも、その一瞬が、まるで永遠の別れの始まりみたいに思えて、余計に不安になりそうだった。
「心配・・・するな・・・」
耳元で囁くようにそう言うと、彼は、軽くため息をついた。その息遣いが、私の耳元と首筋に触れた。今までにない感覚と生暖かさにぞくり、とした。
彼は、そんな私に構わず、さらに言葉をつづけた。
「お前に、もう一つ・・・黙っていたことがある」
「え・・・?」
彼は真剣な表情だ。それにつられるように、私も彼の顔を見つめた。
彼の腕の檻にとらえられたまま、動くことが出来ないまま・・・
今まで感じたこともない程近くにいる彼は、ゆっくり口を開いた。
「・・・・東野と晃也の、離婚の引き金になった、晃也のDVの話、覚えてるだろ?
発見された時、東野と杏樹が大怪我していたって話・・・」
「う、うん・・・」
もう少し発見が遅かったら、大変なことになったかもしれない・・・って、憲一さんが言っていた・・・
憲一さんは、軽く息を吐いた。そして、意を決するようにして、言葉を紡いだ。
「あれの・・・第一発見者は、俺だったんだ」
「え・・・・」
血だらけだった、杏樹のママと杏樹の、第一発見者が・・・憲一さんだったの?
「まだ、お前がドイツにいた頃だ。
あの日・・・
母さんのコンサートで。俺は、母さんに付き添ってたんだ。
その日、何度も東野から電話があった。
でもコンサート中で、電話に気づけなくて、やっと気づいてコールバック出来たのは、コンサートが全部終わった後、・・・夜遅い時間だったんだ。
東野からの電話は昼過ぎから夕方にかけて、何度かあったけど、俺がそれに気づいた時にはもう、連絡が途絶えて何時間か過ぎていた。
俺は、彼女に、何かトラブルがあって、それも解決したのかと思って、かけてみたけど、東野は出なくて・・・
嫌な予感がして、東野のマンションに行ったら・・・血だらけの東野と杏樹が倒れていたんだ。
手元には血だらけの携帯があって・・・電話の発信履歴を見たら、俺の他に何人か友達に、何度も何度も連絡した跡があった・・・でも友達、みんな捕まらなくて、唯一、遅くなったとはいえ、繋がったのが俺だけで・・・
俺が警察呼んで、救急車も呼んだんだ・・・」
「・・・それで・・・杏樹のママの事・・・あんなに一生懸命だったの?」
今まで、杏樹のママの事で必死に動き回っていた彼の姿が、後から後から脳裏をよぎった。それは、かつての友人を助けるだけにしては、度を越しているようにもみえたし、彼が杏樹のママに特別な感情を抱いているのかと思ったし・・・特別な何かを誤解されても仕方ない程のものだった。
そう、私だって、彼と杏樹のママの仲を誤解したほどだった。
「・・・ガキの頃から知ってる幼馴染のあんな姿・・・二度と見たくなかった・・・発見したとき・・・もう死んでいるのかと思った・・・」
彼は俯くように目を伏せた。その光景が、彼にとって、どれだけショッキングなものなのか、その表情だけで判ってしまう。
「あの頃の俺は・・・余裕なんかなかった。
ドイツに留学したお前は、いつまでたっても帰って来る気配は無いし、ドイツでコンテスト優勝して、現地デビューして・・・もう日本には戻ってこない・・そう思っていた。
そう思うと、絶望的だったし・・・自棄になってた時もあった。
そんな俺を、東野が支えてくれたんだ。
東野だって、晃也との事で苦しんでいたのに。それでも、自暴自棄になる俺を見捨てずに、励ましてくれたんだ。
“必ず桜ちゃんは日本に帰って来るから。
その時には、前みたいに冷たくしないで、ちゃんと向かい合って、
ちゃんとした人間関係を作ればいいのよ。
昔に戻れなくてもいいじゃないの。
初めから・・・“初めまして、橘憲一です”から始めたっていいんだよ。
私達夫婦みたいに、破綻しちゃ駄目だよ・・・
破綻させたら、もう後戻りなんか、出来ないんだから・・・”」
一瞬、まっすぐに私を見ていた彼の目が、遠くを見た。
そうか・・・
心に何かが、すとん、と落ちた。
彼が、ここまで杏樹のママに関わるのは。
幼馴染だから、だけじゃない。
第一発見者だった、というのもあるけど、それだけでもない。
私と憲一さんの事を、ずっと、ずっと見守っていてくれたんだ。
見守って、見守り続けて、幼馴染の恋が成就するように、祈っててくれたのだろう・・・
私の知らない時代の憲一さんと杏樹のママとのやり取りが、見たわけでもないのに、まるで映画のワンシーンのように鮮明に、脳裏に流れた。
私は何も言えず、彼の腕の檻に捉えられたまま、彼の顔を見上げた。
彼の顔は、どこか、決意に満ちていた。
「・・・だから、行ってくる。
東野がいなかったら、今の俺と桜の関係はなかったと思うし、今、こうやってお前と向き合うことも、優しくすることも出来なかった。
それに、血だらけの東野なんか、二度と見たくない。
・・・もう同じ間違え、繰り返したくないんだ」
そう言うと、再び、私の唇にそっと、自分のそれをふれさせた。
次のキスは、さっきよりも少しだけ、暖かく感じた。
そんなキスに、呆然と立ち尽くす私をおいて、彼は足早に玄関から出て行った。
残された私は・・・どうすることも出来ず、その場にペタリ、と、崩れるように座り込んでしまった。
彼が触れた唇の暖かさだけが、私の不安を和らげる、唯一の光の様に感じて、彼が触れた唇を指でそっとなぞった。
唇に触れた私の指先にも、唇にも、彼の暖かさがまだ残っていたけれど、それさえも、少しずつ、消えて行った・・・
消えてゆくにしたがって、今まで抑えていた様々な感情が溢れ出し、それでも、泣きたい気持ちだけは、ぐっと我慢した。
今、一番泣きたいのは、私じゃない。きっと杏樹のママだし、杏樹自身だし・・・憲一さんだ。
もっと強くならなくちゃ・・・杏樹が戻ってきたときに、笑顔で抱きしめてあげられるように。
泣くのはその時だ・・・
そう、言い聞かせた。
########
それから数日、憲一さんの姿を、隣の家で見ることはなかった。
師匠に聞くと、しばらくマネージャー業を暫く休ませてほしい、と言われているらしい。
師匠も、事情はなんとなく知っているみたいだけれど、口に出すつもりはないらしく、何かを聞き出すことは出来なかった。
学校の国仲先生にも警察にも連絡してみたけれど、杏樹は見つからないらしい。
警察側は、子供の証言にあった車のナンバーから晃也さんの事は割り出していたけれど、まだ証拠が足りないらしく、晃也さんの家に強制捜査とかが出来ないらしい。
さらに晃也さんに事情聴取をしたけれど、知らない、の一点張りで、結局釈放されたらしい。
八方塞がり・・・私にはそう見えてしまった。
答えは・・・杏樹を連れ去った人は判っているのに・・・問い詰めることも、助けに行くことさえも出来ない、もどかしさが余計に落ち着かなかった。
そのあとは、ただひたすら、落ち着かなさが増えてゆく日々だった。
教室で生徒を教えていても、ライブの打ち合わせをしていても、気が付くと杏樹の事が心配で仕方なかった。
杏樹、ちゃんとご飯は食べているの?
痛い想いはしていない?
泣いていない?
そんなことが心配で、夜も寝付けないほどだった・・・
それから、更に数日後がすぎた。
既に、杏樹が誘拐されてから一週間以上過ぎていた。
相変わらず、憲一さんからは連絡一つなく、杏樹の消息も分からないまま、私の心配も落ち着かなさもピークになっていた。
そんな状態でも、ほったらかしにできない自分の稼業を恨めしく思いながら、心ここにあらずなまま、講師の仕事をこなした。
この一週間、仕事をしている時間がやたらと長く感じる。気が付くと杏樹が心配で、杏樹の事を考えていた。
集中できないまま、生徒にまでその不安は伝染しているみたいだった。
「先生、どうかしたんですか?」
その日教えていたのは、この春から音大に進学が決まっている女の子で、つい先日、第一志望の音大に合格した子だ。彼女にそう聞かれて、私は慌てて首を横に振った。
「え?ううん、何でもないよ?」
「なんか、疲れてるみたいですね」
「ん・・・ちょっとね」
曖昧に笑ってごまかしたけれど、果たして成功していたのか微妙だ。
そして・・・・・・
その日の仕事がやっと終わって帰る途中だった。
突然、ポケットの中で携帯が鳴り響いた。
ちょうど、家の最寄りのバス停に降りて、家まで歩いている途中だった。
着信音を聞いて、誰からの電話かを確かめもせずに電話を出た。
「もしもし?」
"桜?俺だ"
「憲一さんっ・・・・」
電話越しに彼の声を聴いただけなのに、胸が詰まって泣きそうになった。
「杏樹は? 杏樹はっ?」
私は、一番心配で仕方がない事を彼にぶつけた。
彼の声は、少し疲れているようにも聞こえたけれど、暗くはなかった。
"心配ない、ついさっき保護された。国仲先生にも東野にも連絡済だ。多分、国仲先生からお前の自宅に連絡が入っていると思う・・・"
「そう・・・よかった・・・」
杏樹が無事保護された。たったその一言だけで、私は再び体の力が抜けそうになる。
体の力が抜けて、ずっと我慢していた涙腺が一気に壊れて、私は携帯を片手に泣きそうになった。
"泣くなよ"
受話器の向こうで、憲一さんの声が聞こえた。
「だ・・だってっ・・・」
"まあ、杏樹の事は・・・帰ってから話すから・・・1時間位で帰れると思う。その時話す"
「うん・・・うん!判った!」
私と憲一さんは、それぞれ電話を切った。
電話を切った途端、すべての力が抜けて、ふらふらと倒れそうになった。
そのあと、やっとの思いで家まで帰ったけれど・・・それから憲一さんがうちに来るまで何をして過ごしたのかさえ、覚えていなかった。多分・・・疲れが一気に出て、ソファーで眠ってしまっていたのだろう・・・
その後、ドアの呼び鈴がなった。あわててがばっ!と起きると、軽く服と髪の毛を整えて、ドアを開けた。
ドアの前には憲一さんが立っていた。
「・・・ただいま・・…」
静かな声でそういう彼に、抱き着きたい衝動にかられたけれど、すんでのところで私は、その思いを心の奥にしまい込んだ。
「おかえり・・・なさい・・・」
ほぼ一週間ぶりに会った憲一さんも、疲労からか疲れているようだったし、少し痩せたみたいだ。
それに、頬や腕に殴られたような痣が残っていた。
「・・・怪我・・・したの?」
「ちょっとな。大したことない」
「でもっ・・・」
「お前も、人のこと言えない顔してるぞ・・・ちゃんとメシ、食ってたか?」
彼の言葉に、何も言い返せなかった。何しろここ数日、ろくに眠れず、食事ものどを通らなかったのだ。
言葉に詰まる私に、彼は少しだけ笑って、軽く髪を撫でてくれた。
「心配かけて、すまない」
彼の言葉に、頷くことしか出来ず、一瞬、私達の間に妙な沈黙が流れた。
「とりあえず座って、今コーヒー淹れるから」
台所に行き、コーヒーを淹れて出してあげると、彼は少しほっとしたような顔をして、それに口をつけた。そして、軽く息を吐いた。
私は彼の向かいの席に座って、ミルクと砂糖が多めなコーヒーを一口飲んだ。
「どっから・・・話すか?」
彼は、まっすぐに私を見つめた。それは、ある種の覚悟を私に促すような目で、私はほんの少しだけ、背筋を正すと、軽く息を吸って、吐いた。
「話せるところから」
私がそう言うと、憲一さんは頷いた。
その憲一さんの話によれば。
杏樹が救出されたのは、今日の 夕方だった。
誘拐した人は、杏樹のパパ・・・晃也さんだった。
私達の予想通りだった。
冬、発表会の後、杏樹に拒絶された杏樹のパパ。
杏樹に拒絶された怒りとショック、それでも子供を望む奥さんや奥さんの実家との諍い・・・
それらが、杏樹のパパの暴走を促したようだ。
追い詰められた杏樹のパパが、思い余って、杏樹を誘拐してしまった…らしい。
杏樹が誘拐された日、憲一さんが言っていた通りだった。
けれど、杏樹のパパ・・・晃也さんが誘拐した、という、決定的な証拠があったわけではない上、逮捕状や捜査令状といった令状が出ていたわけではないので、憲一さんや、警察が、晃也さん夫婦の家に踏み込む事は出来なかった。
さらに、晃也さんが、杏樹の実の父親だ、という事実が、事態をややこしくした。
"実の父親が娘を連れて行って何が悪い"
晃也さんにそう言われては、警察は何も言えないみたいだ。
さらに、晃也さんの奥さんの親戚が、警察に圧力をかけて、事件の存在そのものをもみ消そうとしていた。警察も、日がたつにつれて、動きが鈍くなっていった。警察の人間の、奥歯に物が詰まったような、曖昧な物言いに、憲一さんは何度もキレかかったそうだ。
憲一さんは弁護士さんと相談して、警察以外の機関や児童相談所とも連携して、晃也さん夫婦の家に、半ば無理やり踏み込んだそうだ。
晃也さんは不法侵入だ、何だと大騒ぎして、憲一さんと殴り合いにもなったらしい。でも、児童相談所は、警察の令状がなくても、立ち入り調査が出来るそうだ。その権限を使ったらしい。
ここに戻ってきた憲一さんは、大怪我、とまではいかないものの、出て行った時にはなかった、軽い打撲や怪我をしていた。晃也さんとの殴り合いの時にできた傷だろう。
そして、晃也たちの住むマンションの一番奥・・・物置とも納戸ともとれるような狭い部屋に、杏樹は軟禁されていた。
口はガムテームでふさがれ、手足もガムテープで縛られていた。
おそらく、連れ去られた杏樹が、大声を出したり暴れたりした結果、こんな仕打ちを受けたのだろう。マンションの隣室の人が、この部屋から子供の叫び声や泣き声を聞いたけれど、数日すると、それはパタリと止んだ・・・と証言していた。
発見された杏樹は・・・酷く暴力を受けたような跡があった。命に別状はなかったものの、かなり衰弱していた。保護された後、病院へと搬送されたそうだ。
児童相談所から警察へと連絡がゆき、晃也さんは警察に連行されて、事情聴取を受けているそうだ・・
全ての話を憲一さんから聞いた時、私は大きく息を吐いた。
「とにかく・・・杏樹は無事なのよね?」
「ああ。今、病院で治療受けてる。何日か入院する事になった。警察も動きだしたから、もう心配ないだろう」
「病院はどこ?
すぐにお見舞いに・・・」
お見舞いに行きたい、といったけれど、憲一さんは首を横に振った。
「やめておけ」
「どうしてっ!」
感情的になった私に、彼の声は冷静だった。
「今、杏樹、気が動転してて、誰かに会える状態じゃない」
「でもっ!」
今までどれだけ心配だったか!
一目でいい、杏樹の姿が見たい!
そう思ったけれど、それでも憲一さんは首を横に振った。
「今まで・・・軟禁状態で暴力振るわれていたんだぞ。
まともな精神状態じゃない」
言いにくそうに、彼は言った。返す言葉を失った私に、さらに憲一さんは追い打ちをかけるようにいった。
「今杏樹のママがつきそっている。会えるような状態になれば、必ず連絡くれるはずだから!今はやめておけ! ついさっきまで杏樹は・・・晃也から虐待受けて、それこそ、あのまま放置されていたら死ぬかもしれなかったんだぞ?
晃也、泣いて大騒ぎする杏樹に、食事も水もろくにあげていなかったんだ。
だから・・・衰弱しきってる。
・・・今は辞めてくれ・・・」
そう言われては・・・私は何も言い返せない。
「そん・・・な・・・」
会いたいのに。こんなにも会いたいのに・・・・
でも、今の現状が解らないわけでは無い
理解するしか・・・ない。
私は、それ以上何も言わずに、頷いた。
頷くしか・・・出来なかった。
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それから、私は、杏樹のママからの連絡を待ち続けた。
世間は春休みが終わり、四月、新学期になっていた。
冷たかった風は、春の温度になり、庭の桜も咲き、散り始めていた。
本当なら、杏樹は二年生として小学校に通い始めている筈だ。
それなのに、杏樹についての連絡は、私の所はもちろん、憲一さんの所にも来なかった・・・
学校にも、杏樹についての連絡はなく、国仲先生も心配しているようだった。
心配が絶えないまま、私はただ、杏樹母娘からの連絡を待つことしか出来なかった。
ところが・・・
5月、ゴールデンウィークが明けてすぐ、思わぬ連絡が憲一さんの所に入った。
「桜、ちょっといいか?」
仕事が終わって帰ってきた所で、憲一さんがやって来た。
でも、その表情はどことなく硬くて、良くない知らせだ、と感じた。
そして、これから彼が話すであろう話に、無意識に身構えていた。
「杏樹、なんだけどさ・・・・引っ越すんだって、さ。学校も転校するって」
憲一さんは、言いにくそうに、言葉短くそう教えてくれた。
「ど・・・どうして?」
晃也さんは、杏樹の誘拐、暴行の罪で逮捕された。晃也さんの奥さんも、事情聴取を受けている。
もう、杏樹母娘を脅かすものは、ない筈。あとは、杏樹が回復さえすれば、前みたいに杏樹に会える・・・
そう思っていただけに、この突然の連絡だ。
一瞬私は、突き落とされたような感覚になった。
彼が言うには。
晃也さんの奥さんの親戚が、警察に圧力をかけて、晃也さんを釈放させたらしい。
"実の父が娘を家に連れて行って何が悪い!"
離婚したとはいえ、親子の関係は切れない筈だ・・・その晃也さんの言い分を、晃也さんの奥さんの実家が後押ししたのだ。
さらに、晃也さんの奥さんのお父さんや親戚が、警察上層部に知り合いがいるらしく、裏で金品と共に手をまわしたらしい。
晃也さんの奥さんの実家にしてみれば、後継者問題があるとはいえ、一会社の最高責任者の娘とその夫が警察沙汰になったとあっては、外聞が悪い・・・という思いがそうさせたのだろう。
そして、晃也さんが野放しになった以上、杏樹のママと杏樹の身が危ない。
また、杏樹が誘拐される恐れがある。
今住んでいるところにいれば、また晃也さんが何をするかわからない・・・
杏樹のパパから逃げるように、杏樹親子は、この町を離れることになったとか・・・
「なんでっ・・・」
どうして?
杏樹親娘は、何も悪いことしていないのに。
それなのに、どうして杏樹達が追いやられなければいけないのよ!
憲一さんの話を、私はどこか遠い国の言葉のように感じた。
杏樹が・・・いなくなるの?・・・・
そんな・・・
嘘・・・でしょ?
「ねえ・・今・・どこにいるの?」
せめて一目でいい、一目だけでも会いたい。
ううん、引っ越してしまうのは、もう仕方ない。せめてサヨナラ位、言いたい!
私のその言葉に、憲一さんは、寂しそうに首を横に振った。
「情報が・・・どこから漏れるかわからない。
だから、東野達の引っ越し先は・・・俺も、教えてもらえなかった」
「そんなっ!
心当たりとか、ないの?」
すがるような思いで、憲一さんに聞いたけど、彼は首を横に振った。
「・・・今まで、東野の両親の家にいたんだけどさ。
もう・・・新しい引っ越し先に引っ越したってさ。
東野の実家も・・・晃也は知ってる。
だから、晃也には・・・晃也や、晃也の奥さん、その実家には、絶対居場所を知られたくないらしい。
国仲先生にも、新しい住所は知らせないそうだ・・・」
私は思わず、憲一さんの腕を掴んで揺さぶった。
「そんなっ・・・
私、まだ杏樹にさよならもいってないのよ!
お願いっ!
もう一度だけ、杏樹に会わせてっ!
お願い・・・よ・・・・」
そう言いながら、足元がぐらり、と揺れたような気がした。
気が付くと私は、床に膝をついていた。
立っている力さえ、もうなくなっていた。
「桜っ?」
そんな私を、慌てて憲一さんは支えてくれた。でも、もう自分の足で立つことなど、出来なかった。
「ねえ・・・お願い・・・
何でもするから・・・
どんな言う事も聞くから・・・
杏樹に・・・会わせて」
私は膝が抜けて立ち上がれない身体のまま、憲一さんに縋りついた。
「おね・・・がい・・・・・」
目から、ずっと我慢していた涙が、後から後から溢れてきた。
誘拐された時も。
助けるために奔走していた憲一さんを待っているときも、
杏樹が救出されて病院に搬送された時も。
回復するまで待ってくれ、と彼に言われた時も。
ずっと堪えていた涙が、一気に溢れてきた。
溢れた涙は顔を濡らし、私の手を濡らし、床に小さな滴になった。
「判ってくれ。
全部、杏樹と東野の身の安全の・・・為だ・・・」
そう言った、憲一さんの表情も辛そうだ。
「東野も・・・この前まで家や職場に、晃也が現れたりしていて、ノイローゼ気味なんだ。
仕事の過労や杏樹の事も祟って、今は身動き取れない。
杏樹も・・・監禁して暴力振るわれたショックが原因で・・・まだ混乱している。
こんな時に晃也が現れたら、どうにもならないだろ?
だから、晃也から逃げるって・・・言ってた
それから・・・・桜に・・・
心から、ありがとう、って・・・・伝えてくれって・・・」
憲一さんからの、杏樹のママからの伝言を、
私は聞き取ることなどできなかった。
聞き取れないほど、私は・・・・
声をあげて、泣き崩れていた・・・
泣きじゃくる私を、憲一さんはぎゅっと抱きしめてくれた。
なきながらも、彼の体温をじかに感じた。でもそれは、私がずっと会いたいと願っていたあの杏樹の体温とは明らかにちがうものだった。
何もできなかった自分が恨めしくて。
自分の無力が情けなくて。
私には、どうすることも、出来なかった。
ただただ、自分が情けなくて、大人の癖に、子供一人守れない、という現実が、
身体が全身が、マヒするほど、痛かった・・・
そして・・・
「桜っ?!」
憲一さんの、驚いたような声が、聞こえたけれど、私はそれを薄れてゆく意識の中で聞いていた。
#######
ぼんやりとした意識の中で、目を開けると、薄暗い部屋で私は眠っていた。
一体いつ眠ったのか、覚えていない。
杏樹にもう二度と会えないことを聞いたのは覚えていた。
そして・・・その後の記憶が曖昧だった。
散々泣きじゃくり、憲一さんが宥めてくれたけど、それでも泣き続けて・・・
最後の瞬間、憲一さんの声が聞こえたような気がした。
辺りを見回すと、そのは私の寝室で、私はベッドに寝かされていた。そしてベッドサイドには、別の部屋から持ってきたのか、椅子があって、憲一さんが座っていた。
憲一さんは、座ったまま、眠っているようだった。
あの後、彼がここまで運んでくれたのだろう。
(ありがとう・・・)
彼だって疲れている筈なのに、眠っていない筈なのに、それなのにこうして私のそばにいてくれた、その彼の優しさが嬉しかった。
私は、ベッドから抜け出すと、彼の身体にそっと、毛布をかけてあげた。
本当だったら、ベッドでちゃんと寝かせてあげたかったけれど、私一人で、眠る彼を起こさずにベッドに移すのは不可能だった。
けれどせめて、毛布くらいかけてあげたかった。
私は寝室を出ると、ふらふらと、レッスン室に入った。
時間は真夜中だった。エアコンもついていない、ひんやりとしたレッスン室には、当然だけれども、杏樹の気配すら、ない。
それは当然の事なのに。杏樹と出会う前は、私はいつも一人で、ここで過ごしていたはずなのに。
まるで知らない部屋のようだった。
「っ・・・・・あん・・・じゅっ・・・・」
彼女の名前を呼ぶ声は、声にさえ、ならなかった。
私はその場にうずくまり、みっともなく、泣き続けた・・・
涙は、枯れることなく、溢れ続けた・・・
後から後から、杏樹との思い出が蘇ってきた。
・・・住宅地のど真ん中で、私の家の側に来ると、大声で「さくらさんせい!」と呼ぶ、杏樹。
最初は近所迷惑だと思っていた。
けれど。
「最近静かになったと思ったら、杏樹ちゃん、いなくなっちゃったのね」と、先日、あの近所のおばさんは寂しそうに言った。
私はそれに、何も言えずにいた。
このおばさんから、杏樹は、よくアイスやお菓子を貰っていた。
"さくら先生と一緒に食べてね"
という言葉と一緒にもらって来たアイスやお菓子を、レッスンの後、二人で食べることもあった。
単なる、どこにでも売っている安物の駄菓子のようなお菓子だったはずなのに、杏樹は"美味しいね"と嬉しそうに食べていた。
その笑顔を見ているだけで、私も幸せな気持ちになって、一緒に食べているアイスが、とてもおいしく感じた。
・・・集中力がなくて、しょっちゅう足をぶらぶらさせ、テキストをやるときも集中力がない。
・・・それも、少しずつ少なくなっていって、年が明けるころには、ピアノに集中できるようになっている。
治ったのはいつ頃だっけ?
いつごろから、ピアノに集中できるようになったんだっけ・・・?
そう、確か・・・
確か・・・発表会が終わった頃だ。
あの頃から、杏樹がピアノと向き合う時の顔つきがずいぶん変わったっけ・・・
"いつか、『仮面舞踏会』を、さくらせんせいと一緒に連弾するの!"
そう言うようになった頃から、急に上達したような気がする。
集中するようになった・・・
それが、何よりもうれしかった・・・
・・・レッスン室の本棚に、少しずつ子供向けの絵本や児童書が増えて行った。
杏樹がいなくなった今・・・それらが妙に寂しい。
一年前までは、このレッスン室に、児童書や絵本なんて一冊もなかったはずなのに。
気が付くと、本棚の一角には、ぎっしりと、絵本や児童書があった。
その本棚の横の、小さなテーブルには、彼女の書いた絵や、手紙がクリアファイルに入れて、置いてあった。
最後のレッスンでここで会った時のまま、だった。
夏になると。
いつも汗びっしょりで、ここに来ていた。
「喉が渇いたー!」と言う杏樹、とにかく水やお茶を飲みたがった。
気がつくと、私は、冷蔵庫に麦茶を大量に作り置きしていた。
その癖は、杏樹がいなくなった今も抜けないまま、気が付くと大鍋で大量に麦茶を作って、ボトルに入れて冷蔵庫に入れていた。
いないのは判っているのに、杏樹が連れ去られた後も、勿論今朝も、そんなことをしてしまう自分が、思い返すと酷く滑稽だ。
そして、いつまでたっても減らない麦茶は、悲しみをさらに深くしていった。
杏樹に泣かれて連れて行った学校のプール
ねだられて一緒に行った神社の夏祭り。プレゼントした、ガラスの指輪。
そして、偶然見つけたタイムカプセルの地図を見て、一緒に掘り起こした、私の子供時代の思い出・・・
ご褒美をあげるから頑張って、と励ました運動会。
結局ビリだった徒競走。それでもがんばった杏樹にあげたご褒美のゼリーケーキとアメリカンドック・・・
学校のお芋ほりで掘ったサツマイモで、一緒に作ったスイートポテト。
私のライブを聴きに来て、感激してくれた杏樹
冬の初めの発表会で、一生懸命弾いていた曲。
一緒に過ごしたクリスマス。
独りで過ごしていた元旦に、わざわざ年賀状を届けに来てくれたっけ。
大雪の日、二人で作った雪だるま。
そして・・・花いっぱいになぁれ、といって飛ばした、六年生を送る会の、たくさんの風船・・・
それから・・・
気が付くと、過ぎ行く季節の中に、必ず杏樹がいた。
杏樹が、笑っていた。
尽きない思い出が、後から後から心に去来していった。
「変なの・・・」
二度と会えないわけじゃない。今生の別れというわけではない。
生徒との別れだって、初めてじゃない。
今回の杏樹の様に、急に教室を辞めてしまう人だって、珍しくない。
でも、今回は・・・
今回の、別れは・・・
「どうしてっ・・・」
たった一人、子供が一人、いなくなっただけなのに・・
「こんなに・・・」
こんなに・・・
ムネガ、イタインダロウ・・・
カナシインダロウ・・・
がらんとしたレッスン室。前はこの部屋で一人でいるのが普通だったのに。
それをさみしいと思ったことなんかないのに。
今は、酷く寂しかった。
自分とは違う体温を持っていた子が、ここにいて、その体温を持った子が・・・今、ここにはいない・・・
たったそれだけなのに・・・
ふらふらと、絵本の本棚に近づき、杏樹のために買い揃えた絵本を、指でなぞってみた。
「あ・・・・」
そこには、あの"はないっぱいになあれ"があった。
そう、杏樹が気に入って、この絵本の様に、学校で、風船を飛ばした。
六年生を送る会に、六年生と一緒に・・・そして、私も呼んでくれた・・・
みるともなく、その本をぱらぱらとめくると、その本の半ばから、何かがすとん、と落ちてきた。
「?」
そのページには、風船を拾ったコンが植えたひまわりが、山の中にたくさん増えた、そんな挿絵が描かれていた。
山奥に沢山咲く、ひまわり・・・そして、それを見て、笑顔になっている、コンと仲間たち・・・
「・・・・・」
そのページから落ちてきたのは、お手紙の封筒のようだった。私は、足元に落ちたその封筒を拾った。
『さくらせんせいへ』
その封筒には、そう書かれていた。
私は一瞬の戸惑いの後、その封を開けてみた。
すると、相変わらずの平仮名ばっかりの、杏樹の筆跡が飛び込んできた。
『さくらせんせい、
いつもぴあのおしえてくれてありがとう
さくらせんせいのこと、だいすきです』
そう書かれた、かわいらしい模様の便箋と一緒に、折り紙で折ったハートが入っていた。
一体、いつ書いたんだろう?
きっと、杏樹がこの本を借りているとき・・・
でも、杏樹は、こんなお手紙を挟んだよ、なんて言っていなかった。
あの杏樹の事、お手紙を挟んだとしたら、私に何か言うだろう。お手紙を読んでほしくて・・・
杏樹はそう言う子だ。
それなのに、杏樹はこの本を返す時、そんなこと、言っていなかった・・・
こんなもの、いつ私が見つけるかわからないだろうに。
「っっ・・・・・・」
再び、涙腺が壊れだした。
目頭が酷く熱かった。
生徒に感謝されることは、多々、ある。私だって音楽教室で教えているのだ。
相手は、大人だったり学生だったり、様々だ。
教えたお礼を言われることだって、たくさんある。
でも・・・こんなに心が暖かくなったことは、なかった。
こんなに、切なくなる感謝の手紙、貰ったことなど、なかった。
それに・・・
大人のレッスンは「月謝を払ってるんだから、教えて当然」と考えている人が多いし、私も、そう思っていた。
お金をもらって、教えているんだから、教えることには責任を持つ。お金を貰っているんだから、いい加減なことを教えられない。私だって真剣に教える。
でも、 杏樹とは、教えている、というより、遊び半分だ。これをレッスンとして、お金を取るのが逆に申し訳なくなることだってある。
そんなレッスンに対する、杏樹のお礼・・・
「あん・・・じゅ・・・・」
悲しい気持ちと、嬉しい気持ちとが混ざって、言葉にすら、ならない・・・
悲しいのに、満たされる。
嬉しいのに、切ない。
そんな、両極端な想いで、一杯だった。
私は・・・その手紙を抱きしめながら・・・収まったはずの涙が再び溢れ出した。
そして、まるで感情の全てが壊れたように、ただ、泣き続けた・・・
「どうしてっ」
どうして・・・私はこんなに無力なの?
あの子一人、助けられないまま、いなくなることさえ、止められないなんて・・・
あんなに大好きな子だったのに・・・・
あんなにっ・・・私の心に刺さった子は他にいない。
あんなにも天真爛漫に、私の事を慕ってくれた子は、今までいなかった。
それなのに、私は・・・そんな杏樹の危機一つさえ、庇ってやることも、助けてあげることも・・・出来なかった・・・
「桜?」
それからどの位、時間が過ぎたんだろう?
後ろから声がして、私は涙を両手で拭った。
「平気か?」
レッスン室の床にべたりと座り込んだまま泣いていた私に近づいて、背中を、そっと撫でるように擦った。
「平気っ・・・」
そう言っては見たけれど、彼から見たら、全然平気じゃないだろう。
そして、まるで私の背中に話しかけるように、静かに言った。
「人って・・・
どうしてこんなに、無力なんだろうな・・・」
その瞬間、私ははじかれたように彼の顔を見た。憲一さんは目を伏せ、俯いたままだった。
私もまた、彼と同じことを考えていた。その事実に、軽く驚きながらも、妙に納得した。そして、こんな悲しい想いさえも、彼と共有している・・・その事実が、不謹慎だけれども、嬉しく思えた。
彼だって・・・ううん、彼も。
幼馴染で、大切な友人を救う事が出来ず、失ったのだ。憲一さんと香織さんの付き合いは、私と杏樹の年数とは比べ物にならない程、長くて・・・憲一さんがどれだけ、香織さんを大切に思っていたかは・・・たとえその思いが恋愛感情ではなかったとしても・・・痛い程、判ってしまう。
その彼女を失ったのだ・・・喪失感はきっと私以上だろう。
「私もね・・・
と憲一さんと・・・同じこと、考えてた
どうして、私はこんなに無力なんだろうって・・・」
感情が涙と一緒に溢れ出して、言葉は最後まで言えなかった。
その時、私の背中を撫でていた憲一さんの手が、ふっと止まった。かと思うと、ぎゅっと、背中から強く私を抱きしめた。
「!!!っ」
驚いた瞬間、言葉にならず、かといって逃げだすこともできず、私はレッスン室の床にしゃがみ込んだまま、背中に彼の、少し湿った体温を感じた。
触れている彼の腕は、小刻みに震えていた。それはまるで、泣くのを・・感情を抑えているようだった。
「けんいち・・・さん・・・」
私は何も言わずに、震える彼の腕に触れた。触れた瞬間、びくっと、驚いたように彼の腕に緊張が走った。
彼もまた、泣きたい気持ちを抑えながら、今まで走り回っていたに違いない。杏樹と、香織さんを助けるために。それが出来なかった無力感、喪失感は・・計り知れない。
「桜・・・」
小さな、囁くような声だった。
「お前だけは、何があっても・・・
杏樹や東野みたいな想い、絶対にさせない・・・」
震える彼の腕とは裏腹に、その言葉はとても強く、決意に満ちているように聞こえた。
私は、泣き止む事が出来ないまま、力なく、何度も頷いた・・・
#################
「桜?」
あれから時は流れ。
気が付くと、世間はもう、梅雨明けを迎えていた。
暇になってしまった、私の休暇の日。
することもなく、自分のレッスンをするわけでもなく、ぼぅっとレッスン室に引きこもって過ごすようになっていた。
去年、杏樹のレッスンのせいで、私の休暇はなくなってしまった。
だから、休暇にやっていた掃除や洗濯、買い出しは、ほかの仕事の日の後に済ませる癖がついてしまっていた。
休暇は丸一日、杏樹の為に空けておいたから。
その杏樹がいなくなってしまうと、そんな休日さえ、エアポケットのようになってしまった。
杏樹がいなくなった後、そんな休暇になるたびに、憲一さんは私の家にやってきた。
心なしか、来る毎に、声や、表情が、自然で、優しくなっている気がした。それは、私が、杏樹がいなくなってショックを受けたから・・・私に気を使っている・・・だけではないだろう。
「桜?」
することもなく、お気に入りのソファに埋まり込んで、アイスティーを飲んでいた。でも、美味しく淹れた筈のアイスティーは、すでに氷が溶けてしまっている。見るからにぬるそうだけど、この季節だったら、こっちのほうがマシかもしれない。・・・半ば自虐的にそう思いながら、すっかり生ぬるく、不味くなってしまったアイスティーに口をつけた。。
「何?」
「何? じゃなくて!
なんて顔してんだよ!
ひどい顔して!」
憲一さんはあきれ顔だ。
「もとから」
「ガキみたいなこと言ってないでさぁ!」
「ガキだもん」
そう言う私に、憲一さんは一瞬、ため息をつくと、少し真面目な顔をした。
「聞いたぞ。
お前、佐々木さん達とのミニライブの伴奏、断ってきたって。
佐々木さんから俺に苦情が来たぞ!」
そう・・・今は、舞台に立つ気力が、ない。
杏樹を失った喪失感は、思った以上に私の心を蝕んでいた。
舞台に立つ気力さえ、ない。
教室レッスンはかろうじてこなしているけど、その程度だった。
和也さんから誘われたミニライブの伴奏も、他の仲間に誘われた伴奏も、すべて断っていた。
「・・・憲一さん、私が和也さんの伴奏するときは、すごい嫌な顔するじゃない」
「っ・・それとこれとは別だろう!
お前だって、俺が嫌な顔してても、平気な顔して奴と舞台に立ってただろ?・・・」
「憲一さん、私が和也さんと舞台に立つの、嫌だったんでしょ?」
「当然だろう?どれだけ嫉妬したと思ってるんだ? 気が狂いそうだったぞ!」
「それなのに、私が和也さんの伴奏断わると、そんなこと言うんだ?」
「・・・・・」
憲一さんは気まずそうに口ごもった。
一方私もまた、気まずくて、彼から目をそらした。
不毛だ。
こんなことを言いたいわけじゃない。それに、私が舞台に立ちたくないのは、別に憲一さんのせいじゃない。彼が嫌な顔をするから、和也さんとの仕事を断ったわけじゃない。
ただ・・・舞台に立つ気力がないのだ。
こんなもやもやした気持ちのまま、舞台にたっても・・・納得いく演奏が出来ない。それがわかりきっていた。
プロとして、あるまじき姿だ。
「・・・仕事の話だ」
低い声でそう言われ、私はびっくりして顔を上げた。彼から、仕事の話が来るなんてずいぶん久しぶりのような気がする・・・そう、彼が嘘ついて"師匠の命令"と言っていた頃以来だ。
「…何?」
「母さんからの依頼だ。
Kフィルとの共演。
・・・本当は母さんが出演するはずだったんだけどさ、この曲だったら、お前の方がいいんじゃないかって・・・
Kフィルとは話がついてる。あとはお前が引き受けるかどうか、だ」
ばさっ! と渡された書類と楽譜に、私はざっと目を通した。
Kフィルは、私達が住むこの市を拠点に活動しているプロオーケストラだ。和也さんが所属している。
内容は、秋に開催される、市の小中学生を対象にした芸術鑑賞会。毎年Kフィルと市の教育委員会が提携して行っているものだ。
プログラムはどれも、誰もが知っているクラシックや、知っていてほしいクラシックがメインだ。
何年かに一度、師匠もこれに呼ばれて、Kフィルと共演している。もちろん私も、裏方として手伝ったりもする・・・
「私が・・・Kフィルと演奏?」
「チャイコフスキーのピアノコンツェルト。お前だったら楽譜なくても出来るだろ?」
「ん・・・」
弾けないわけではない。超がつくほど有名な曲だ。多分、クラシックを知らない子供でも、一度くらい聞いたことがある曲だ。
でも・・・心にぽっかりと空いてしまった大きな穴は、私から、何かをする気力さえも、奪い去っていた。
「・・・なあ、桜?」
「何?」
「ピアノ、弾けよ」
ソファの前で、私を見下ろすように話していた憲一さんは、ソファに座る私の横に座り、私に向き直った。肩が触れるほどの距離が、私にとってはぎこちない。
「・・・舞台で、ピアノ、弾けよ。
お前が、舞台でピアノ弾き続ければ、さ。
どっかで必ず、杏樹の耳に届く筈だろ?
お前が舞台で、しっかりと演奏し続ければ、
杏樹には必ず伝わると思うぜ。
・・・杏樹のために、舞台でピアノ、弾けよ!」
「舞台で・・・?」
杏樹に・・伝わるの?
聴いて、くれているの?
私の心の中の呟きに、憲一さんは大きく頷いた。
「あの杏樹の事だ。どこに行っても、必ずピアノを弾いている。
ピアノを弾いてりゃ、今、活躍しているピアニストの存在だって・・・わかる筈だろ?
お前が・・・ピアニスト、叶野桜として、舞台に立ち続けりゃ、必ずいつか、杏樹だって、舞台で演奏するお前に気づくはずだ!
もし・・・お前に本当にその気があるなら、舞台に立つ機会位、いくらでも俺が作ってやる!
だから、舞台で弾け!
こんなところで引きこもるんじゃない!」
彼は私の両肩に手を置くと、揺さぶった。
「叶野桜は何のためにドイツに留学したんだよ!どうしてピアニストになったんだよ!
そりゃ・・・きっかけは、俺がお前に酷いこと言ったせいだけど!
ピアノ、好きなんだろ? 舞台で弾くのが好きなんだろう?
ピアノが好きで、ピアノを弾き続けるため、ピアニストになったんだろ?
こんなところに引きこもるためじゃない筈だろ!」
言い聞かせるように、そう言った。その言葉は、枯れ果てていた私の心に、別の風をおこさせた。その風は、今まで杏樹がいた空間、今ではすっかり冷たくなってしまった空間に、もっと違う匂いの空気を連れて来ていた。
「・・憲一さん・・・」
「ん?」
「私、さあ」
「なんだよ!」
「憲一さんのまともな言葉、久しぶりに聞いたよ・・・」
冗談と本気が半分ずつ混ざった思いでそう言うと、彼は・・・不機嫌な顔をするかと思いきや・・・
「まともって・・・お前なぁ!
俺、これでもお前の師匠のマネージャーだぜ!」
少しあきれ顔でそう答えてきた。そして、真面目な表情を作った。
「お前を舞台に立たせる人脈位、いくらでも持ってる!
何のためにマネージャーやってたと思ってるんだ!」
「え・・・」
何のために・・・師匠のマネージャーを・・・?
怪我をして年取った師匠を助けるためじゃないの?
「いつか・・・お前の役に立ちたい。
裏方の、その他大勢の一人でもいい、小さくてもささやかでも、お前を支えられる存在になりたい。
・・・お前が留学した時、そう思ったから・・・
今の俺だったら、お前一人、表舞台に出す人脈くらいいくらでも持っている!
だから・・・・」
そう言うと、憲一さんは私から顔をそらした。
「っ・・・・その話はもういい!!
とにかくっ!」
言葉に詰まる彼の耳は、真っ赤だった。
こんな憲一さん、初めて見たような気がする・・・
一年前の今頃、いつも偉そうに師匠の命令を無機質に伝えていたあの憲一さんは、いつの間にか、心と血の通った、もっと身近な存在になっていた・・・
ううん、もしかしたら・・・
はじめから、そうだったのかもしれない。
無駄な遠回りをして、いがみ合ったけれど・・・
「・・・・うん・・・・」
私は、憲一さんに小さく頷いた。
「私・・・舞台に・・・立つ・・・」
顔をあげて、彼にそう言った。
「だから・・・私に、貴方の力を貸して下さい。
手伝って・・・下さい」
私は、そう言って彼に頭を下げた。下げた瞬間、まるで時間が止まったように、彼の反応はなかった。
それに不安になって顔を上げようとした、その瞬間。
彼は、ぎゅっと私を抱きしめた。
「お前の為だったら、いくらでもやってやるよ」
抱きしめながら、耳元でそう囁いた。息遣いと、彼の熱が、耳から流れ込んできて、愛を囁やかれているみたいだった。
#############
秋の初めのKフィルとの芸術鑑賞会を皮切りに、私は舞台に立つ仕事・・・演奏活動に重点を置いていった。
舞台に立つのは嫌ではない。ドイツに留学していたころから、舞台の上での緊張感も演奏も大好きだった。
断りつづけていた和也さんとのミニライブや、友人演奏家の伴奏も、積極的にこなすようにした。
そして憲一さんは、あの時の言葉通り、舞台に立つ私を献身的に支える立場となっていった。
伴奏、そうでないにかかわらず、どこからともなく舞台で演奏する仕事を持ってきた。それは、大きなコンサートホールでの仕事から、小さなライブハウスでのイベントまで、様々だった。
私は、憲一さんが持ってくるその仕事を一つとして断らず、こなして行った。
“杏樹が何処かで気づくはずだ”と言う彼の言葉が、今の私を支え続けていた。
それが、私なりの、私にしか出来ない、杏樹捜しだった。
憲一さんは、そんな私の想いを理解してくれているのだろう。私が舞台に立つ日は、必ず私と一緒に現場に入り、身の回りの事をやってくれたり、他のスタッフと一緒に準備に奔走したり、終わった後の片付けや、雑務をこなしていた。
彼だって師匠のマネージャーをやっていて、その仕事だって忙しい筈なのに、予定を調整して、私に付き添う時間を作ってくれていた。
不思議と、彼が付き添ってくれる本番は、スムーズに事が進み、トラブルなく舞台本番を迎えることが出来た。気のせいなどではなく、彼がそんな風に動いてくれていた・・・というのは、火を見るよりも明らかだった。
師匠のマネージャーをやっていた彼、その人脈の広さ、師匠の舞台の裏方で培った技術や知識は、私が考えている以上に豊富で深いものだった。
今まで全然気づかなかったけれど、ありていに言ってしまえば、彼はすごく"出来る"存在だった。
『いつか・・・お前の役に立ちたい。
裏方の、その他大勢の一人でもいい、小さくてもささやかでも、お前を支えられる存在になりたい。
お前が留学した時、そう思ったから・・・』
杏樹を失って落ち込んでいた私に、舞台に立つことを勧めた時、彼が言っていた言葉は、本当だった。
気が付くと、私が舞台に立つとき、裏方としての彼は、私にとって、なくてはならない存在となって行った・・・
そして・・・秋の終わりのソロコンサートの日・・・
この日も彼は、率先して裏方をやってくれた。
その後ろ姿を頼もしいと思う反面、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
けれども。
『お前がピアノを弾き続けていれば、杏樹は必ず、お前のピアノに気づくはずだから、俺の事は気にするな。
演奏に集中しろ』
彼にそう言われて、私は、彼への気持ちは封じて、ただ舞台で演奏することだけに集中した。
もしかしたら杏樹が、去年みたいに聞きに来てくれるかも・・・そう思ったけれど。
演奏中、見渡した会場にも、本番終了後のロビーにも、いくら探しても、杏樹の姿は見つけられなかった。
(桜先生!)
あの、私を見つけたときの、杏樹の嬉しそうな甘い呼び声が、空耳の様に聞こえる。そのたびに私は、我に返るように辺りを見渡した。でもそれは所詮空耳で、杏樹の姿はどこにもなかった。
去年は、この会場で杏樹のパパと対峙して、杏樹のパパの申し出を断って、逆上した杏樹のパパに殴られそうになったんだっけな・・・
・・・そしてそれを、憲一さんが助けてくれて・・・
あの去年の出来事が、鮮明に脳裏によみがえった。
けれど、杏樹は勿論、杏樹のパパも、最後まで、会場には現れなかった・・・
演奏後、ロビーでお客様に挨拶しながらも、あの子とよく似た子がいると、杏樹では?と目で追った。結局それは他人の空似で、杏樹ではなかったけれど、そんな自分に少し、呆れた。
最後のお客様が会場から出た後、私はその背中を見送りながら軽いため息をつき、少し疲れの溜まった身体を引きずるようにして楽屋に戻った。
時計を見ると、撤収時間まで、随分余裕があるような気がした。
楽屋に戻り、何時もより少しゆっくりとドレスから私服に着替えて、荷物をまとめた。廊下では、裏方をやってくれている知り合いが、打ち上げの会場と時間を言って回っていた。
裏方の仕事も殆ど終わっているみたいだ。今日は、随分スムーズに裏方も進んでいるみたいだ。
すると、雑務を終わらせたのか、憲一さんが、楽屋の前にいる私に駆け寄ってきた。
「荷物、車に積むぞ。会場まで、車、乗ってくだろ?」
私の返事を聞くよりも早く、彼は私の荷物を持ってくれた。
「うん、ありがとう・・・でも車で行ったら、憲一さん、酒飲めなくなるよ?」
「今日は飲まないからいいんだ・・じゃ、そろそろ移動するか?
会場にはもう、みんな向かってる」
彼は言葉短くそう言った。
本当なら、彼は結構お酒が好きで、今までは、こういった打ち上げではいつも仲間と飲んでいた。けれど、私の裏方をやるようになってからは、一切打ち上げで酒を飲まなくなっていた。
「今日くらい・・・飲んだら? 車だったら、ホールの駐車場に停めさせてもらえば、大丈夫でしょ?」
ホールの警備担当の片瀬さんに頼めば、それくらいどうにかなるだろう。けれど、憲一さんは首を横に振った。
「いいんだ」
その言葉に、私はそれ以上何も言えず、ただ、彼の背中をついて行った。
心なしか、彼の背中は、どこか緊張しているような気がした。少なくとも、無事本番が終わった、という安堵感はなく、未だに本番中、裏方中・・・といった雰囲気が漂っていた。
「・・・どうか・・・したの?」
彼の背中を追いかけながらそう聞いたけれど、彼は"なんでもない"と言って、駐車場へ向かった。
車に私の荷物を積んで、私を助手席に乗せてくれて、彼は運転席に座った。
けれど、憲一さんはエンジンをかけるわけでもなく、車には、不思議な沈黙が漂っていた。
「どうかしたの?・・・疲れてるの?」
その沈黙に耐えられなくなって、私はそう聞いてみた。
「桜」
不意に名前を呼ばれ、同時に彼は私のほうに向きなおった。
「・・・? なに?」
一瞬、今日の演奏で何か酷いミスでもあったかな? と振り返ったけれど、心当たりは全くなく。私の知らない裏方でとんでもないことでもあったのか、と思い、私は身を固くした。
さっきから車の中に漂う不思議な緊張と、心当たりのない事たちで不安な顔をしていたのだろう、彼は、やっとその緊張を解いて、笑顔を見せてくれた。
でも、その笑顔さえも、少し固い気がした。
憲一さんは、大きく息を吸って、吐くと。
「来週、親父が帰国してくる」
短く、そう言った。今年、彼のお父さんがウィーンから帰ってくる、という話は、去年の年末位から知っていた。
「そっか・・・ついに帰ってくるんだね」
これから、憲一さんは親子三人で暮らすんだね・・・そう思うと、とても微笑ましい気持ちになった。けれど彼は、帰ってくるお父さんの話はそれ以上話さずに、
「・・・桜?」
再び私を呼んだ。
「何?」
今度は少しだけ、私の緊張感が解けていて、普通に、そう聞き返すことが出来た。
「親父が・・・帰国してきたら・・・
なるべく早めに時間、作るから。
親父に会ってくれないか?」
言われて、私は再び緊張した。
彼のお父さんに会う・・・家が隣なわけだし、彼にそう言われるまでもなく、会う機会はいくらでもある。
でも、あえて彼がそうやって言葉にする意味・・・それを考えるまでもなかった。
「桜?」
「は・・・はいっ」
次に名前を呼ばれた時は、再び緊張が走った。でも、きっと彼のほうが、私以上に緊張しているのかもしれない・・・
「俺と・・・結婚してくれないか?
隣の幼馴染として、じゃなくて、婚約者として、正式に、親父に会ってくれないか?」
次の瞬間。涙腺が壊れたように、涙があふれた。
ずっと、彼から欲しかった言葉。聞きたくても聴けなかった言葉だった。
「桜?」
私が泣きだしたからか、彼は慌て狼狽えているみたいだった。私は、ポケットからハンカチを引っ張り出して、目頭を押えた。
嬉しくて、嬉しくて。
幸せで流れ出た涙は、いくら拭っても、収まらなかった。
それでも、必死で、私は首を縦に振った。泣きながらで、声にならなかったけれど・・・
「長いこと・・・待たせちまって、ごめんな・・・」
彼は、私の背中に両手をまわすと、ぎゅっと抱きしめた。そして、耳元でそうささやいた。
「もう二度と・・・泣かせない・・・約束する・・・」
私は、何度も何度も、彼の腕の中で、頷いた。
今年は、私にとって、今までに無い、特別な年になった。
最愛の弟子が、いなくなってしまい、悲しみに暮れ。
そして、私達の、新しい歴史の一ページ目が刻まれた、忘れられない1年となった・・・




