プロローグ
私が、「杏樹」と出会ったのは、春の初め・・・春一番が吹き始めたときだった。
その日、春一番の温かい風と一緒に、憲一さんと、見知らぬ親子が訪ねてきた。
その風は、閉じこもっていた私の心の窓をこじ開けて、心の中を駆け抜けていった。
駆け抜けた後は、温かいけれど、どこか寂しい気持ちになった。その寂しい気持ちの正体を知ったのは、もっとずっと後になってからだったけれど、当時はまだ、私はその気持ちの正体を知るよしもなかった。
憲一さんは、隣に住む五歳年上の幼馴染みで、私のピアノの師匠の息子さんだ。ピアニストをしている師匠のマネージャー兼付き人をしていて、私にとっては兄のような存在だった。
その憲一さんがうちを訪ねてくることは、別に珍しいことではない。二年前、たった一人の身内だった父を癌で失い、ただっぴろい家に一人ぼっちだった私を気遣い、家が隣なのも手伝ってよく家を訪ねてきてくれたり、ご飯を作ってくれたりもしていた。彼は料理上手で、仕事が忙しいとき、彼がご飯を作ってくれるのは本当に有難かった。
かといって、何かのドラマのように、幼馴染が発展して恋愛に・・・なんていう甘い関係でもなく。
昔は、仲の良い歳の離れた兄妹みたいだった頃もあるし、思春期にありがちな、喧嘩ばっかりしていた頃だってある。
でも、昔はともかく、今は、私にとって憲一さんは、幼馴染、というより、長年お世話になっている師匠の息子さん、という、一線引いた人間関係で、私のほのかな恋心など、周囲にとっても私にとってもどうでも良いことだった。
でも、その憲一さんが、見知らぬ女性を連れてうちに来ることなんか、今までなかった。
その事実に、少しだけ心が痛んだのは、私が昔、この憲一さんの事を好きだったからだけど、その感情と心の痛みを、私は見ぬふりをした。
長い事、そうしていたように・・・そう、いつものように・・・
「桜に、頼みがあるんだ」
そう言うと、憲一さんは私にその親子を紹介してくれた。
「彼女は、東野香織さん。俺の高校の同級生なんだ」
彼がそういうと、親子連れの母親は、私に深くお辞儀した。つられて私もお辞儀した。
憲一さんと同じ歳、と言うことは三十代前半、と言ったところだろうか?でも、年齢の割にはとてもしっかりした人のように見えた。キャリアウーマン、といった雰囲気で、服装も化粧も、しっかりとしていた。
少なくとも、家で専業主婦兼子育てをしているような雰囲気ではない。社会に出て、一人前以上に働き、周囲にも認められている、大人の女性・・・
私は無意識に、背筋を正した。
「はじめまして、叶野桜です」
「はい。よく存じております」
香織さんは、私の挨拶に、にこやかにそう答えた。鮮やかだけど嫌味のない口紅の色と、それが似合う華やかな容姿は、どちらも私が持ち合わせていないものだった。
「秋の定期公演、聴かさせて頂きました。」
私の職業はピアニスト兼ピアノ教師。
高校卒業後、ドイツの音大に留学して、そのまま卒業した。在学中、いくつかのピアノコンテストで優勝、入賞を果たし、そのまま現地でピアニストとしてデビューした。本当だったら、そのままドイツで演奏活動をしているはずだった。
転機が訪れたのは2年前。たった一人の身内だった父が癌を患い、余命一年の宣告を受けた。私は父の看病のため、ドイツでの音楽活動を中断して帰国した。
私の帰国から半年後、父は帰らぬ人となった。
もう、ドイツで音楽活動を・・・とは考えられなかった。父の死で、そんな気力も情熱も失っていた。
今は、都内や市内の楽器店でピアノの教師をする傍ら、定期的にあちこちで演奏活動もしている。
香織さんが言っていた“秋の定期公演”とは、私が住んでいるこの地元でのコンサートの事だ。高校時代の友人やOBが来てくれたり、私の大切な友達も沢山来てくれたりで、一番規模が大きい公演になる。私自身も、自然、この地元でのコンサートにはとても力を入れていた。
「そのコンサートに、東野さんとお嬢さんも聴きに来てくれて、その・・・お嬢さんが、桜のピアノ、凄く気に入って・・・ピアノを教えてほしいんだって」
「私に?」
「はい」
香織さんは頷いて、隣に座る子供に視線を移した。つられて私も女の子に視線を移した。
外見は、小学3,4年、と言ったところだろうか?どちらかと言えばぽっちゃりとした顔立ちだ。
真っ白だが健康的な肌の色と血色の良い頬の色をして、真っ黒いまっすぐな肩までの髪を、後ろで無造作に束ねていた。
今時の、何処にでもいる、ごく普通の女の子のように見えたけど、真っ黒な目は落ち着きがなく、辺りを物珍しそうに見回し、そわそわと腕や足を動かしている。
落ち着きなく視線や手足を動かしているのは、大人の話に退屈しているからか、それとも大人の話に自分がついて行けないからか・・・・多分、両方だろう。
正直、子供は少し苦手だった。担当している都内や市内の音楽教室でも、子供相手のクラスは受け持っていなかった。私が受け持っているクラスは、例えばある程度弾ける子だったり、大人の人のクラスだったりだ。
落ち着きのない子供。いつもだったらそれだけで、教えるのは躊躇するだろう。でも、何故だろう?・・・その落ち着きのなさに、不思議と、嫌悪感は全く感じなかった。
香織さんは、更に言葉を続けた。
「もともと、近くの音楽教室でリトミックとピアノを習っていたのですが・・・あまり好きではないのか・・・上達しないというか・・不真面目だったんです。
ところが、先日の桜さんのコンサートを一緒に聴きに行ったところ・・・桜さんのピアノをとても気に入って・・この人に習いたい、と言いだして聞かなくなったんです」
そして、自分の同級生に私の幼馴染みがいる・・・というのを思い出して、憲一さんに相談してみた・・・という事だった。
「どうだ?桜?よかったら・・・教えてやってくれないか?」
言われて私は当惑した。
私が、子供を苦手だ、という事は、憲一さんが一番よく知っているはずだ。それなのに、どうして?
教えることは別に構わない。私だって、ピアニストをやりながら、教室でピアノ教師をしているのだ。
でも、私が普段教えているのは、例えば音大進学を希望する子だったり、趣味でピアノを弾いている大人で、プロ並みに弾ける人達だ。
子供向けなクラスは受け持ったことがない。勿論、教えられない訳ではないけど、もっと子供を教えるのが上手な先生だっているはずだ。
「私は・・・市内の○×楽器店や▲◎の音楽教室で教室を持っています。そちらに来て頂けませんか?そちらでしたら、私以上に、子供にピアノを教えるのを専門にしているスタッフもいます。そちらで・・・」
それに、もう一つ、気が進まない理由があった。それは・・・私の自宅で、他人のレッスンはしたくないのだ。
もちろん、この家にもピアノもあるし、自分専用のレッスン室を作った。でもそれはあくまでも自分用で,他人をレッスンするための物ではない。
部屋は私用の楽譜や道具があるだけで、他人を招き入れるには殺風景この上ない。他人を招き入れられるような場所ではない。
楽器店に併設されている教室の方が広いし、教えるにはちょうど良い空間だ。
ところが、香織さんは首を横に振った。
「私もそうしようとおもいまして、楽器店に相談しました。
けど・・・そちらのピアノ教室ですと・・・叶野先生は子供向けのクラスを受け持っていない、と言われました。叶野先生のクラスはどこも一杯で、今、叶野先生のレッスンを受けることは出来ないと言われました。空き待ち状態だ、と。
他の先生のレッスンを受けることも考えたのですが、一緒に教室見学したのですが、この子が嫌がって・・・どうしても叶野先生がいい、といって聞かないのです。
橘くんとは高校時代の同級生で、叶野さんとお知り合いだと聞き、無理を承知で相談しました。
お願いします。杏樹に、ピアノを教えてやってくれませんか?」
香織さんはそう言って頭を下げた。
その真剣な様子に、逃げ出したい気分になったけど、私は憲一さんに視線を移した。
「俺からも頼む。
仕事の合間でどうにかなるなら、教えてやってくれないか?
母さんも、出来ればお前に教えてほしいってさ」
憲一さんは控えめにそう言った。
“母さん”・・・そう言われると、私はこれ以上断れない。
そして・・・憲一さんにそう言われると複雑な気持ちになる。
憲一さんのお母さんは、私にとってピアノの師匠で、親のいない私にとっては小さい頃から母親代わりで、憲一さんが兄代わりだったのだ。
だから、師匠と憲一さんの言うことを私は断れない。師匠としてのご恩もあるし、親代わりをしてくれた人、だから。
そして憲一さんは・・・いつごろからだろうか・・・・?
二言目には、「母さんがそうしろって」「母さんに言われたから・・・」という言葉を頻繁に使うようになっていた。
憲一さんがこうして私のそばにいてくれるのも、父を病気で失って、一人ぼっちになった私を師匠が心配して、憲一さんに、私のそばにいるように言ったらしい・・・
結局憲一さんが、こうして私のそばにいるのは、師匠に言われたからで・・・彼の意志ではない。
それがわかってしまうからこそ・・・彼の言葉や、優しい親切の一つ一つ、素直に受け取れない。きっと彼の、私に対する行動も言動も、師匠の命令が混ざっているものだから・・・
そして今回の事も・・・
師匠の命令なら、私がこの子を教えることを断ることなど出来ない。憲一さんもそれはよく判っている・・・はずだ。
「・・・あまり・・・子供向けなレッスンは出来ないかも知れません。それでもいいですか?」
普段、子供相手のレッスンをしていない私、正直子供を相手にする自信はなかった。
そう聞くと、香織さんははい、と頷いた。
「よろしくお願いします」
香織さんがそう言ってお辞儀すると、まるでそれに習うように隣に座る子供も深くお辞儀した。
「よろしくお願いします」
そう言って顔を上げた子供の目は、生き生きと私を見つめていた。
その視線に、気圧されるような気がした・・・
その後、香織さんと憲一さんに頼んで、その子と二人きりにさせて貰った。
この子がどんな子なのか知りたいので、親のいないところで、話をしてみたかったのだ。
「えーっと、あんじゅちゃん?」
私がそう聞くと、彼女はうん、と大きく頷いた。
「今・・・いくつ?三年生?四年生?」
「・・・あたし、来年、小学生になるの!」
そう元気に答えたものだから、私はびっくりしてその子を見つめた。
「小学生??」
背が高く、身体も大きい杏樹・・・てっきりもっと年上だと思った。
「うん!今度一年生なんだ!」
大きな、はきはきした声でそう答えた。その声や言葉は、この春小学生になるにしては、しっかりしているように思えた。
少なくとも、私が知っているどの小学生とも違うような気がした。
「そっか・・・
ランドセルとか、もう買って貰ったの?」
とりあえず、ピアノとは関係のない話をしてみると、杏樹は目をきらきらさせて頷いた。
「うん!
この前、おじいちゃんとおばあちゃんが、ショッピングモールで買ってくれたんだ!
ピンク色にね、白い線の入っててね、横にお花の刺繍がしてあるの!
それでね・・・」
杏樹は、ランドセルの話を続けた。どうやらよっぽど嬉しかったらしく、手振り身振りを添えて話を続けた。
秋にランドセルを買いに行ったけど、その日は買えず、注文になった事。その注文したランドセルが先日出来上がり、取りに行ったら幼稚園のお友達と偶然会った事、そして、そのお友達全く同じ色だったこと・・・
ランドセルを買った後、フードコートでみんなでアイスクリームを食べたこと、それは、目の前でアイスとフルーツを混ぜて作ってくれるアイスで、苺が一杯入った、見たこともない程きれいなピンク色のアイスクリームだったこと、それがどれだけ楽しかったか・・・
「それでね・・・そのランドセルはね・・」
矢継ぎ早に話を続ける彼女に私は閉口した。それでも話そうとする杏樹の話に、私はなすすべもなく、ただ付き合い続けた。
「そのお友達のはるかちゃんは、幼稚園に入った時からのお友達なの!
毎日、はるかちゃんと幼稚園で遊んでるの!」
話はいつしか、ランドセルではなく、そのお友達の話になった。それでも話は終わらない。
「いつもね、私、はるかちゃんとコウ君とあこちゃんと、リョウ君と一緒に遊んでるの!
昨日はみんなで縄跳びしたんだ!
それでね!・・・」
私が呆れて黙っているのを、もしかしたら杏樹は、「真面目に話を聞いてくれている」と思ったのか、嬉しそうな顔のまま、話を続けている。
杏樹の話が一通り終わる頃は、時計の長針がゆうに半周、回った頃だった。しかもそれは、話が終わった、というより、杏樹自身が話し疲れて息をついたからだった。
聞いている方も疲れたが、話している杏樹も相当疲れたらしい。
息をついている杏樹を見ながら、私は内心ため息をつき、席を立った。
その私の姿に、彼女は一瞬不安げな顔をした。“あ、やっちゃった・・・”そう言いたげな顔が、妙に可愛い。
「飲み物、持って来てあげるね」
その不安を取り除くためにそう言い残し、私は部屋をでた。そして台所で、いつもの癖でコーヒーか紅茶を用意しようとして・・・相手が子供なのを思いだし、ジュースでも出そうと思った。けど、普段子供などいない、私一人だけが暮らしているこの家に、ジュースなど常備していなかった。
少し考えてから、年末、御歳暮で頂いた缶ジュースの詰め合わせの箱を引っ張り出して、その中からリンゴの缶ジュースを選んでコップにあけて、持って行った。
部屋に戻った私を見て、杏樹はほっとした笑顔を見せた。そして私が用意したジュースを1口飲んだ。
「これ、おいしい!」
嬉しそうにそう言う彼女に、私は、ずっと聞いてみたい、と思っていた一言を聞いてみた。
「ねえ、杏樹ちゃん?」
「なあに?」
「・・・私のコンサートを聴いて・・私に習いたいって、思ったの?」
そう聞くと、杏樹はうん、と大きく頷いた。
「・・・どうしてかな?」
正直言うと、こんな子供が、私のピアノに引かれた理由が知りたかった。
更に言ってしまえば、先日の地元のコンサートは、こんな子供向けのプログラムではなかった。ほぼ全曲クラシックだった。確かに、大人だったら一度や二度、聞いたことのある曲を多めに演奏したけど、それでも幼稚園児が好む曲は・・・皆無だった筈だ。
「・・・覚えてないの?」
すると一瞬、杏樹は傷ついたような、悲しそうな顔をした。
「え?何を?」
思わず聞き返した。けれど杏樹は、「なんでもない」と首を横に降った。
「・・・あの時のピアノ、凄く上手いなって思ったの。
この先生に習いたいって思ったの」
さっきの、傷ついたような顔が気になった。けど、・・・どうやら理由なんかなかったらしい。
それにしても舞台で演奏するピアニストを捕まえて「凄い上手い・・・」って・・・
私は思わず笑ってしまった。
「凄い上手だった?」
その笑いを堪えながらそう聞き返すと、杏樹は大きく頷いた。
「うん!
私もあんな風に弾けるようになりたいの!」
大きな黒い目をきらきらさせてそう言った。
「ここでは、杏樹ちゃんが今まで通っていた音楽教室みたいなリトミックや、ダンスは教えられないよ?
私が杏樹ちゃんに教えてあげられるのは、ピアノだけよ?
面白くないかも知れないけど、それでもいい?」
それは、最終確認だった。
これで、彼女が頷いたら、私はこの子を教えてみようと思った。ためらったら、断るつもりだった
けれど、彼女から戻ってきた答えは私の考えを越えていた。
「うん!
ダンスやリトミックなら、私が先生に教えてあげる!
一緒にやったら、きっと先生も楽しいよ!!」
手足を目一杯ばたつかせながらそう言う彼女に、呆れながらも、気がつくと自分の顔が綻んでいるのを感じた。
「そっか!楽しいか!!」
「うん!楽しいよ!」
その笑顔は、迷っていた私の背中を、まるで突き飛ばすように押していた。
私が、この家で、杏樹にピアノを教える、と決めたのは、杏樹のこの笑顔を見た時だった。
こうして、私と杏樹の日々が始まったのだった・・・