サラリーマンのササキさん 2
ハラダとササキは『ス・マート』からほど近い、高架になっている線路下の喫茶店に入って相談することにした。
「それで? あなたがデートに誘いたいっていうコは誰なのかな?」
「デ、デートなんて! そんないきなり……」
ズバリ核心を突いたハラダの質問にササキはドギマギする。
「なーにカマトトぶってるのよ。お近づきになりたいなら、デートに誘わなくちゃ。今日の行動力があればなんてことないでしょ」
「お近づきって……名前も知らないし、会話したこともないのに突然『デートしませんか』とか無理だから! 簡単に言わないでよね」
奥ゆかしさは女性のものだと思っていたハラダは、予想以上に奥手なササキの様子に頭を抱えた。
「あなたそんな調子でよく『紹介しろ』なんて言えたわね。昔は名前を聞くなんて、むしろ声掛けるきっかけになったのに」
ハラダの心底呆れたという声に、ササキはうなだれるしかない。
人間関係の希薄な者は、新しいコミュニケーションを築くことに臆病になりがちだ。特に恋愛となると、失敗を恐れるあまり初めから手を出さない選択肢を選ぶ場合も多いという。
ササキは傍目には人付き合いの上手そうなタイプに見えるのだが、どうやら恋愛経験はほとんど無さそうだった。
「……今は迂闊に声なんか掛けられないよ。不審者扱いされかねないんだから」
「ああ、確かにね。嫌な世の中になったものよね、全く。まぁいいわ。とにかく、ササキさんの気になるコは誰なの?」
「たまたま六時くらいに寄ったときにいたんだ。夕方から入るコだから、たぶん大学生くらいだと思うんだけど……。先週の木曜日にいた小柄な人だよ」
『ス・マート』は午後五時に店員の交代がある。夕方の勤務は高校生・大学生が中心だが、高校生がテスト期間のため現在はほとんどが大学生だ。
「ササキさん、夕方に来ることないもんね。先週の木曜日か……それならアカネちゃんかな」
「アカネちゃん……」
彼女を思い浮かべ、ササキは口元をだらしなく弛めた。
「気持ち悪いわね。それで、このあとはどうするの?」
「え?」
二人の間にやや静寂の時間が流れる。
「えって何よ。もしかして、何も考えてないの?」
「……どうしたらいいですか」
開いた口が塞がらないとはこのことかと、ハラダは内心、彼のふがいなさを嘆いた。
名前を知るのでさえ他人頼り。そして先の展望さえ無い。一体何をしたくてハラダの手を煩わせるのか、彼女は困惑するばかりである。
「いくら今時の若い人って言ったって、限度があるでしょ。あなたがどうしたいのか分からなかったら、こっちはお手上げよ。こんな状態で紹介したら、アカネちゃんに迷惑だわ」
「……すみません」
ササキはぐうの音も出ない。
「一旦引き受けた以上私もアドバイスはするけど、彼女とお近づきになりたいのは私じゃない、あなたなんだから。脳味噌フル回転させて、どうするのか自分で考えなさいな」
すっかり肩をおとしたササキを見ながら、ハラダは冷めてしまったコーヒーを飲み干し、店員を呼ぶと二杯目を注文した。
「ササキさんも、ちょっと一息入れましょ。コーラフロートがクリームコーラになっちゃったから」
コーラに浮かんでいたバニラアイスは完全に溶け、グラスの中でマーブル模様を描いている。それをぐるぐるとストローでかき混ぜ、飲まずに弄ぶササキ。
「うーん……」
どうやら言われたとおり、このあとどうするのかを考えているようだ。眉間に皺を寄せた顔だけなら、真面目に見えないこともない。
二杯目のコーヒーが届いたハラダは、砂糖とクリームを入れスプーンでひと混ぜすると、ふうふうと息を吹きかける。が、一向に飲もうとしない。
「ハラダさん、飲まないの?」
「猫舌なのよ。なのに冷え性だから温かい飲み物じゃないと駄目なの。困ったもんよね」
猫みたいな顔でハラダが言うので、ササキは思わず吹き出した。
「何よぉ、何がそんなに可笑しいの?」
自分の顔が猫にそっくりだとは思っていないハラダは、ゲラゲラ笑い続けるササキを細い目の奥から睨みつける。
「ごめんごめん。猫舌があんまりにもしっくりきたもんだからさ」
「訳分かんないこと言ってないで、どうするか考えたの?」
「うん、決めた」
涙を拭き拭き、ササキは言った。
「ハラダさん……先にどんなコなのか教えて!」
再び頭を抱えたハラダであった。
二人の作戦会議(という名のハラダによる説教)はそれから一時間ほど続き、解散したのはとっぷりと日が暮れた後だった。
「はー疲れた。……あらやだ、もうこんな時間。主人には晩ご飯お弁当で許してもらいましょ」
「ごめんね、ハラダさん。でもおかげで少し勇気が出たよ。いきなりだけど、このまま『ス・マート』に行ってくる。思い立ったが吉日と言うし!」
「……うん。やる気が出たのは良いことだけど、アカネちゃん今日休みだよ」
ササキの顔が、見る見るうちにどんよりとしてくる。
「タイミング悪かったわねぇ」
「……俺、いっつもこうなんだよ。要領悪くて運も悪い。やる気出した時に限って、空回りするんだよねぇ……。そういう運命なのかな、ハハ」
すでに諦めモードのササキは、悟ったように言った。彼にとっては日常茶飯事らしく、短く息を吐くと口の端で笑う。
「本当は、簡単に切り替えられないんでしょ?」
「……慣れてるから……」
困ったように眉尻を下げたササキを見て、ハラダは猛烈に悲しくなった。
「そうやって運とかタイミングのせいにして、簡単に目標から逃げちゃ駄目。本当に諦めが付くのって、たっくさん失敗してもがいて『ああ、やり切ったな』って心から思えたときだけだと思うの。ササキさん、まだ何にもしてないじゃない。食い下がって自分の主張通したこと無いでしょ? 歳を取ればやりたくてもできないことだらけになる。突っ走れるのは若いうちだけよ」
いつの間にか、ハラダはササキの両腕を掴んでいた。
この青年は、今までいろんなことを本当はしたかったに違いない。だが好機に恵まれず、自分の思い通りにできたことがほとんどないのだ。
だから、ちょっとでも上手くいかないと距離をとる。初めから傷つかないように。そして諦めたふりだけが上手くなる。
しかしそれではいつまで経っても、やりたいことなどできはしない。若い情熱だけが心の奥でくすぶって、固く抜けない棘に変わってしまう。
それがハラダには寂しかったのだ。
「ハラダさん……」
うっすら目を潤ませるササキ。
「……痛い」
「あらやだ。つい真剣になっちゃったわ。ま、とにかく、アカネちゃんの次の出勤日に行って、何か会話してきなさいな」
「が、頑張ります」
ササキはぎこちないガッツポーズで、引きつった笑顔を返した。その様子に一抹の不安を覚えつつ、彼と別れるハラダであった。
数日後の昼前、硬い表情でササキが来店した。
「いらっしゃいませー……」
彼の表情にただならぬものを感じ、思わず身構えるハラダ。
ササキは何も持たずに真っ直ぐレジへ来た。
「唐揚げをあるだけください……」
「へっ?」
唐揚げは、昼を見越して五個入りを六パック作ってあった。
「そんなに買ってどうするの」
返事は無い。ハラダは怪訝に思いつつも、とりあえず袋に包む。
ササキは心ここにあらずだ。眉をぴくりともさせず、ぼーっとレジカウンターに貼ってある『ス・マート』のキャラクター『モグラのすまっち』を、じっと見つめている。すまっちは量産品の笑顔を返し続けている。
「ササキさん。……サーサーキーさん!」
「うわぁ! あっ、ハラダさんだ」
声を掛けられて初めてハラダが目の前にいたことに気づいたようで、キョロキョロ辺りを確認している。
「どうしたのよ。じーっと見て、すまっちに惚れちゃったの?」
「違う! 聞いてよハラダさん、大変だよ!」
先ほどとは打って変わって、何か焦っているようだ。しかし、ハラダはつい数分前とのギャップに不気味なものを感じていた。
「何なのよ。ぼーっとしてたと思ったら急に騒ぎ出して。とりあえず落ち着きなさいな。唐揚げ、全部で千五百円です」
ササキに袋を手渡すと、きょとんとしてハラダと袋を交互に見ている。
「こんなの頼んだっけ?」
「何言ってるのよ。入ってくるなり唐揚げ全部くれっていったじゃないの。本当におかしいわよササキさん」
「キャンセルは……」
「できません!」
ピシリと言われて、ササキは渋々財布を取り出した。
「二千円のお預かりで、五百円のお返しです。ありがとうございます」
「……皆さんでどうぞ」
たった今受け取った唐揚げを、袋ごとハラダに差し出す。散々食べ飽きた大量のそれをハラダは受け取りたくなかったが、あまりに行動が異常なササキの様子に断るのも気が引けた。
しばし逡巡していると、
「ハラダさん要らないなら私いただいて良いですか?」
隣で見ていたヤマグチが、すかさず袋に手を出す。
「ああ、ヤマグチさん家お子さん三人いるもんね。どうぞどうぞ、うちはお父さんと二人だし、揚げ物は最近控えてるから」
「ありがとうございますー! 助かります! ササキさん、ご馳走様です」
食べ盛りの男の子が三人なので、ヤマグチはいつも『食費が大変』と嘆いている。唐揚げは特に争奪戦が起こるため大量に必要であるから、今日はかなりの節約になったと胸をなで下ろした。
「お役に立てて何より。無駄にならなくて良かったよ」
「唐揚げが行き先決まったところで。ササキさん何があったのよ」
今、店に客らしい客はいない。
「そう! そうなんだよハラダさん! 俺、とんでもないことを……」
「何なの。もったいぶってないで、早く言いなさいな」
ササキは、息を整えゴクリと唾を飲んで唇を震わせながら、ようやく喋った。
「俺……アカネちゃんを、いきなりデートに誘ってしまった……」
まるで大罪を犯したかのように恐る恐る言うササキだったが、聞いていたハラダとヤマグチは拍子抜けして言葉を失った。
「何て大それたことをしてしまったんだ!」
一人で大騒ぎしている彼に、二人は盛大なため息を返す。
「あ、あれ? 反応がおかしい」
「……私、唐揚げもう一回揚げて来まーす」
「私タバコの補充途中だったー」
二人はササキに背を向けて、それぞれ仕事を始めた。
「ちょっと! 真剣に聞いてよぉ」
「お客様ー、他のお客様のご迷惑になりますのでお静かにお願いしまーす」
極めて事務的な反応のハラダにショックを受けつつも、ササキは引こうとしない。
「俺、彼女に会うためにここ何日も通ったんだ。それで昨日やっと会えたから、まずは軽く声掛けるつもりだったんだけど、何故かいきなり『デートしてください!』って言っちゃって……」
「それの何が問題なのよ。最初からそれが目的なんだから、手っ取り早くて良いじゃない」
「順番が違うでしょ!? 彼女にも、名前も名乗らずいきなりですねって」
タバコを什器に詰める手を休めず、ハラダは笑う。
「それでフられた?」
「ハラダさん、オブラートに包むって知ってる?」
「粉薬飲めないの? お子ちゃまねー」
「そういう意味じゃなくて。そしてフられたわけでもなくて」
適当にあしらっていたハラダだが、最後の一言に驚いて、しまいかけのタバコをバラまいてしまった。
「ちょっと、今何て? フられたわけじゃないって……」
「うん……断られなかった。でも、条件付きでって」
「条件?」
コクリと頷くササキ。次の言葉に、ハラダは大いに混乱する。
「ハラダさんも同伴でって……」