人魚
弟が人魚を買うとのこと。
本人は〝飼う〟と言ったつもりだろうし、発音的にもその方が正しいのだろうが、わたしには〝買う〟にしか聞こえなかった。
人魚そのものにも興味があったらしいが、あの弟が何かしら生き物のために一生懸命になる、という姿がまったく想像できなかったし、少し聞いてみたところ実際投資が目的とのことなので、わたしの認識はかなり正しいものであることは間違いない。
とある有名映画監督の手によって感動長編として映画化されて以降、人魚は今富裕層で相当なブームであり、弟がそれを逃すはずがなかった。
家へ帰ると、早速その人魚に迎えられた。
息をのむほど美しかった。
足が魚の尾である以外は、人間と変わらなかったが、しかしながらこれほどまでに美しい人間は見たことがなかった。
長い睫毛、悩ましげな唇、幼げで大きな瞳、豊かな頬、そのすべてが、人間を誘惑してならなかった。わたし自身は生き物に値札を付けるのはあまり好ましくないと思っているが、高値がつくのも納得できる。
「どう姉さん、凄いでしょ?」
二階から階下のわたしに向かって、弟が自慢げに声を下ろした。
「高い買い物だったよ。大切に扱ってね。売値に響くから」
早々にこれである。
「まったくお前は……」
人魚は、無垢なる、何も考えていないような瞳で、じっとわたしを見つめていた。その真っ直ぐな瞳は、わたしの心を奥の奥まで覗き込んでいるようで、見つめ返すのは躊躇われたが、きっとそれは、わたしがこの人魚の行く末を慮ったばかりにそういう風に受け取ってしまっただけであろう――。
***
それからひと月経った頃であろうか、家へ帰ると、人魚の姿はなかった。
「売ったよ。結構な額でね」
弟はけろりと言い放った。呆れてしまった。人魚のためにと買ってきた、彼女の好きだった海産物の類いを、溜息交じりに冷蔵庫へと入れた。
はじめから判っていたことではあった。しかし、人魚はよく弟に懐いたし、弟も(意外にも)甲斐甲斐しく世話をしていたのだから、少しは親心でもついたものだと勘違いしていた。やはり、この弟はいつまで経っても弟でしかないな、と、もう一度溜息をついた。
だから、今、あの人魚によく似た……いや、あの人魚本人としか思えない、ほっそりとした長い足の、ワンピース一枚の少女が、土砂降りの中傘も差さずに玄関前に立っていることに、かなりの戸惑いと恐怖を覚えた。
初めて会ったときの、あの何も考えていないかのような無垢な瞳で、わたしをじっと見つめていた。
少女は何も話さなかった。あの(この?)人魚も、ここに居るときまったく何も話さなかった。端的に言えば、尾ひれがなくなって人間同様の脚となった以外は、あの人魚と何も変わらない。
「いやー、こんなことがあるんだね」
弟はわたしの連絡を受け取ると、出先からすぐに帰ってきて、ソファに座ってココアを飲む少女を暢気に眺めている。
「ちょっとアンタ、これどういうこと?」
「さあ? 分からない。分かっていることは、そうだね……この人魚を買い取った人物が殺されて……そう、変死していて、こうして、当の人魚とよく似た人物がぼくらの前に現れたということとだけ」
「……へー……ふーん……それはすごいねー……」
この弟、平然としているのが凄い。この状況を楽しんでいる節がある。人魚に対する興味も、むしろ強まってしまったようだ。
「で、アンタ、どーすんの?」
「こうなっちゃったら、どうにも。売りようもないでしょ。とりあえず、ここに置いておくしかないかなぁ」
弟は、この得体の知れない少女をウキウキしながら覗き込んでいた。わたしはこの弟の〝とりあえず〟は当てにならないことを知っている。一生ここに置いておくつもりじゃないか?
わたし自身も、やはり呆れながら、しかしどこかでこの少女の存在にウキウキしている節があった。やはりわたしも、このどうしようもない弟の実の姉であるらしい。前に人魚を早々に呆気なく売ってしまったときも、特にこれといって残念だとか可哀想だとかそういう感情も沸き上がらなかった。
わたしも人魚を……今となっては美しい人間でしかない、その少女をじっと見つめた。足は自在に尾に変形できるのか? ずっとこのままなのか?
そんなわたしの疑問など他所に、その少女は、口許だけで、僅かに微笑んだ気がした。