本流
彼女が目覚めた。隣には彼が寝ていた。時計は午前4時を指している。
豪奢なレストランでは、二人の将来に関わる会話は途切れてしまった。階下の部屋に移った二人は、まるで現在を堪能しようとでも云うが如くに互いを求め合い、無限に続くかと思えた行為は、力尽き眠りに落ちることで終焉を迎えた。
何も身に纏わずに眠っていた彼女は、湿って素肌に纏わり付くシーツに不快感を覚えた。それは数時間前の営みによる生々しい類のものではなく、寝ている間に代謝された汗に違いない。悪い夢をみたのだ。燃え尽きて眠る場合、多くは朝までの快眠となる。見た夢を覚えている
ことすら珍しい。だが今は、うなされ、苦しみ抜いて目が覚めた。
夢の中で草原に立っている少女は、自分だったのだろうか? そして、優しく、どこまでも優しく少女を包み込んだ男性は誰なのだろう? 隣の彼とは少し違っていたようだ。しかし、一緒にいることで得られる安心感とトキメキ。長い間、忘れていたような気がする。彼と付き合い始めた頃に味わった甘酸っぱい思い出。幸せには慣れてしまうと云うが、それは事実なのだろう。人は新しい刺激を常に求めてしまう生き物なのだ。
1年前のこの日、恋人達の隣の部屋で少女が断末魔の中に描いた妄想。それが残留した思念として、彼女の思考に割り込んだのである。勿論、そんなことに彼女は気付かない。少女の思念はいつの頃からか自走していて、そういう状態を魂と云うのだろうか。誰彼構わず思考に割り込む訳ではなく、特定の相手を選定していた。彼女は知らず知らずの内に少女に選ばれたのだ。
花開く前に摘み取られた命。無念と云うのも無常に思える魂は、本来ならその先にあったであろう未来、それを奪われずに淡々と生きる者に憎しみを持つ。増してや、明日があることを当然とし、それに満足していない者が許せるだろうか。
優しさと愛情に満ちていた男性は、彼女の前で豹変した。少女が1年前に見た幻想そのままに。そして、鬼の形相が言う。
「お前が憎い!」
再び彼女の全身から冷や汗が滴った。
夢を思い出したのではない。隣の彼が寝言を言ったのだ。「お前が憎い」と。
彼女は、恐る恐る半ば枕に埋もれた彼の顔を覗き込んだ。
<続く>