Side-B 5
悪循環という言葉がある。現象がある。
当事者達の意思を超越した次元で、目的も手段も負の連鎖に陥ってしまうこと。
誰も望まなくとも、停めることができない。あるいは、停める手段を持っていても、自らがその役割に応じようとはしない。それを卑劣と蔑むのは簡単だが、大概は痛みを伴うその諸行に躊躇したとして、責めることはできないだろう。それでも尚、立ち向かう勇気を持つ者は賞賛されるべきにしても。
ことの発端は、社会の階層化とその問題点を危惧した一握りの人間が、何かをせねばならないと強く感じたことによる。その意識自体は、安定と安全だけを重んじる風潮にあって、立派と云えよう。ところがいざ行動に移す時には、問題点の本質や行動の結果がもたらす影響、それらを鋭く洞察する能力が無ければ、一連の経緯の全てが無為なものとなる。いや、無為であれば上等であって、多くの場合は迷惑以外の何者でもなくなってしまう。
彼らの意思の高尚さとは裏腹に、その拙速で稚拙な行動は、社会への憂さ晴らしの次元を超えるものではなかった。正義漢あるいは救国の志士たらんと立ち上がった彼らからすると、何とも皮肉な結果となった訳である。
彼らにとって、過去を継承するだけで富裕層を形成する者達、それが許せない。人は生まれながらにして平等であり、誰かの子孫とかそういった理由だけで世のヒエラルキーの上層部に君臨することは、民主主義の根底を揺るがす愚の骨頂。同列の意味で、後ろ盾の無い殆ど全ての人達が、予め用意された下位階層に組み込まれていくこと、それが馬鹿げたシステムであって、打破すべきものなのである。幼稚ではあっても、ある一面は的を得ているかもしれない。しかし、その為に彼らがとった行動は暴力。良家に生まれ育ったというだけで、さしたる落ち度もなかった少女。彼女を拘束し、蔑み、そして殺めた。いったいそれで何が変わると思ったのか。身代金の要求は、富の再配分だと主張した。誘拐は、真の警察的行為だと言って憚らなかった。そして殺人は、彼らなり法の執行だと云う。
こういった行動が、専制国家と共産主義の闇の部分だけを取り出したものであるということに、なぜ気付かなかったか。せめて、これから先の人生において、気付き、悔やむことが期待できるだろうか。
被害者の無念、親族の嘆き、知人の哀しみ、いったいこれらは何によって埋め合わされると云うのか。忘れ去られ、風化を待つのみであると考えるしかないのか。そんなことは有り得ない。
念が残る。
悪しき手段で残された悪しき念は、悪しき連鎖にはまり込む。悪循環である。悲劇の被害者の念は、悲劇の克服や、再発防止を願う心として萌芽するのではなかった。悲劇が訪れたのが、たまたま自分であったという不運。悔やむにしても悔やみきれない。他の誰でもよかったはずで、自分以外の候補者全てが恨めしく思えた。今置かれた状況が、如何に恵まれたものなのか、それを認識せずに過ごす者達は、その存在が既に罪であり、罰を与えねばならない。
ここに、テロリズムの被害者がテロリズムの思念を残すという、循環が生まれた。被害者側に漏れなく生まれる、復讐の誓いとともに。
誰も望んでいないように見え、テロリズムが根絶しない一つの理由である。
<続く>