『笑うカモメ亭』での一幕 その四
冒険者の宿は常に人で賑わっており、俺はいつものように『笑うカモメ亭』の扉をくぐる。
ただ一つ、いつもと違うのはベル・リール・ボルマナの他にマダムがついてきているという所だろうか。
マダムを見た男は声を止め、女達は明らかな敵意をマダムに向けるが、アール・ヌーボーのドレスに身を包んだマダムの微笑に男女とも息を止めざるを得ない。
あえて肌をドレスで隠し、市場で買った花をあしらって飾りに使っているだけなのに、それが見る人を惹きつける。
片手に煙管を持ち、その持っている手が白く美しい。
「なんかあきらかに空気が違うんですけどぉー」
ベルのぼやきも気にせずにマダムはカウンターに座る俺の隣に座り、女達の安堵と男達の嫉妬の視線を受け止める。
こういう時に格というのは表れる。
「よう。色男。
また女をかえてきたか」
マスターが茶化すが、それに俺が答える前にマダムが一言。
「あら、いい女はいい男を選ぶもの。
私が傍に居る以上、色男なのは当然でしょ?」
マダムの言葉にマスターは一瞬虚を突かれ、そして大爆笑して店内の注目をさらに集めてしまう。
「違いない!
そんな色男様は支払いも当然男気を見せていただけるので?」
マダムは小袋から金貨を取り出して、あえて胸元で見せ付けて音を立てるようにテーブルに置く。
その金貨の音が三回鳴れば、金貨の音が耳目を集めるのを分かった上で、にこり。
「今日の食事と酒と宿泊。
全てこの人のおごりで」
先に男達が歓声をあげ、女達は敵意の視線を下げざるを得ない。
なんだろう?
マダムから勉強させてもらっていたけど、本人前にするとかなわない所が見えてしまうから苦笑するしかない。
で、そんな俺を見てベルとボルマナとリールの三人が苦笑しているのがわかるが、俺は見なかったことにした。
「あら、私もごちそうに預かってよろしいのかしら?
勇者様」
その声と共にアニスが現れる。
肩から背中と胸元を大胆に露出させ、その豊満な胸には大きなルビーのネックレスが赤い光を放っている。
肘まで包む緋色の手袋に包まれた右手に持つのは銀色の装飾が施された扇。
ちらりとマダムを見て微笑むアニスに、マダムは余裕の笑みを崩さない。
空気が変わる。
互いに妖艶かつ笑顔なのに、ベルとボルマナとリールの三人は俺を見捨てて自然に遠巻きになる。
さらにその向こうから男女がこの女の戦いを見物するが、はやし立てたり口を出したりしない。
女の争いは、本気ならば本気な分危ないのだ。
「どうぞ。
辰馬くんはそんなケチな男じゃないので」
「さすが。
シンドー君って太っ腹なのね」
アニスも俺の隣に当たり前のように座る。
両手に花のはずなのに、なんだろう?
麗しい女性達に特別な呼ばれ方をしているのは分かるのだが、戦場でも感じた事が無い背筋が凍るような寒さは。
「じゃあ、今日は私もベッドにお呼ばれしていいの?」
「だぁめ。
どうせ向こうでさせてあげるから我慢しなさいな」
甘酸っぱい口調で酒をたしなみながら、マダムとアニスは言葉を紡ぐ。
……いや、訂正しよう。
言葉と言う刀で切り結ぶ。
笑顔が、仕草が、その全てが完璧であるがゆえに、描竜点睛を欠いているのは目。
冷徹までにみなぎる敵意とプライドがその目から発せられて相手を威嚇しているのだ。
「『させてあげる』ねぇ……」
「ええ。
辰馬くんちょっと冒険に出るのだけど、人が足りないの。
で、貴方を呼びに来たと」
俺は一切言葉を出さずに、食事と酒を堪能するふりをする。
正直、今どんな料理が出ても味が分かる訳が無い。
何か言葉を発しようとしたのだが、マダムとアニスの双方から目で黙らせられていた。
マダムはキセルに火をつけて紫煙を立ち上られているのに煙管を弄んでタバコの香りを楽しむのみ。
アニスは扇で風をつくりながら俺に向けて鼻をくすぐる香水の香りを送る。
「私を入れる理由、聞いてもいい?」
「だって貴方、辰馬くんを裏切らないでしょ?」
そこから紡がれるマダムの言葉は、俺の予想をはるかに超えていた。
昔、片桐少尉も真顔で言っていたな。
美人ほど笑顔で感情を隠すって。
「今回の冒険ね、辰馬くんの恩人と対決するのよ。
場合によっては殺し合い。
その時に辰馬くんの手が鈍って辰馬くんの命を落とす事が無いように、代わりにあの人を殺してくれる人を探していたの」
こっちが意図して避けていた事に容赦なくマダムは踏み込んで、俺は思わず持っていた木のジョッキを落とす。
エールを飲んでしまった後なので、こぼれたエールがほとんど無かったのが幸いだが、そんな事しか今は考えられない。
「遠巻きに眺めている彼女達に任せれば良かったんじゃないの?」
「あの子たちは私と同じで抱かれて情が移りすぎてるわ。
だから、辰馬くんの静止で手が鈍りかねない」
話題になった三人も体を硬くするが、何も言ってこなかった。
彼女達にとって異世界に当たる内地での任務。
その不安もあるのだろうが、彼女達もマダムの指摘に図星になっているのかもしれない。
「私は今は女でしかないわ。
おそらく、ベルちゃん、ボルマナちゃん、リールちゃんの三人も女になってしまった。
だから、辰馬くんを失うのが怖い。
けど、あなたはまだ娼婦でしょう?
誰の物でもある代わりに、誰の物にもなってはいけない。
だからこそ、あなたは手が鈍る事も無い」
ああ。
この人は大陸でどれだけの人を、恋を、地獄を見てきたのだろうか。
「ひどい人。
シンドーくんの恩人を殺せと言うのね?」
ぱちんとアニスが広げていた扇をたたむ。
マダムの煙管からいつのまにか煙は消えていた。
「あなたはそれを拒否できない。
だって、愛にとって重要なエッセンスである『憎しみ』が手に入るのよ」
「ええ。
貴方が手にしたように。
貴方、ここでシンドーくんに嫌われても構わないと思っているでしょ?」
マダムが俺を見て穏やかに微笑む。
「わかる?」
アニスも俺を見て微笑む。
「わからないとでも?」
俺は両方の視線を感じながら、その両方に顔を向ける事ができない。
俺をおもちゃにして絶世の美女二人が楽しそうに笑う。
「聞かせて。
今の恋人の為に、昔の恋人を殺す事を頼む感想は?」
アニスは片桐少尉と俺とマダムの関係に気づいたのか。
たったあれだけの会話で。
「最悪に決まっているじゃない。
けど、あの人は最初から最後まで心はノモンハンに置き去りになっていた。
それをとうとう私は連れ戻す事ができなかった。
あの人ね、私に辰馬くんの所に逃げろって伝えてくれたのよ。
俺を止めてくれって言っているような気がしたわ」
置かれていたジョッキを手にとってマダムがあおる。
そのマダムらしからぬ豪快な飲み方に、俺だけでなくアニス以外の全ての視線が集まっているのにマダムは気にしない。
「私はもう娼婦ではなく女よ。
女として辰馬くんを選んだ。
だから、絶対に辰馬くんを連れて帰れる貴方に頼んでいるの」
しばらくの無言の後、アニスはふっとため息をついた。
立ち上がってそのまま出口の扉に向かい、マダムに一言。
「いいわ。
受けてあげる。
あなたが愛されなくなっても、私が貴方の分まで愛してあげるわ」
マダムは立ち上がって、出てゆくアニスに頭を下げる事で応えたがアニスはそれを見る事無く出て行った。
「なぁ、あの場に俺が居る必要あったのか?」
帰り道、悩みぬいた末に俺はマダムに尋ねる事にした。
マダムは俺の腕に手を絡めるが、それを振りほどけない。
「あったわよ。
あそこまで言ったら、辰馬くんは絶対帰ってくるでしょ。
あの人の情念に負けない思いが無いと、あの人に勝てないだろうから」
その言葉は強がりに聞こえるのは俺の自惚れだっただろうか?
不意にもう片方の手にベルが手を絡めてくる。
顔を見ると、怒っているようにも見える。
「マダムは心配性なの!
ご主人は絶対にあたしが守るから、心配しないで!」
そのベルの手を強引に離して、今度はリールが腕を絡めた。
「そうです。
私がいる以上、ご主人に手出しはさせません」
「こら!わんこ!
その手を離せ!」
「なんか野良猫が騒がしいですね」
きゃーきゃーわーわーの二人の掛け合いにボルマナがくすりと笑うが、その後で俺の目を見て強く頷く。
彼女なりの決意の証なのだろう。
しかし、三人ともマダムを引き剥がさないあたり格づけはできているんだろうなぁ。
「熱海を思い出すわ。
焼けぼっくいに火がついちゃった。
どうしてくれるのよ」
マダムの言葉に、きょとんとする三人。
そうか。彼女達はこの諺は知らないわけだ。
手を離したマダムは少しだけ駆けて、イッソスの港を背後に振り向く。
空に浮かぶは赤と青の月。
それを従えて、マダムは涙をぬぐって楽しそうに微笑んだ。
「体を重ねて縋る女になっちゃったんだから、責任取りなさい。
その代わり、私が、私達が、辰馬くんの帰る場所になってあげる。
だから、絶対に帰ってきてね……」
あの熱海からそんなに経っていないのに、ひどく昔のように思える。
たがら、俺はマダムに、熱海での言葉を告げる。
どうせこの後一緒に寝るのだろうが、この言葉がこの依頼の始まりにふさわしいだろう。
同じ言葉なのに、意味は真逆になった言葉を。
「いってきます。マダム」
「いってらっしゃい。体に気をつけてね」




