昭和十七年一月二十八日 上海
もし、天佑というのがあるのなら、これこそ天佑なのだろう。
もっとも、それは俺自身にとっては不幸以外の何者でもなかったのだが。
--馬鹿竜の飼い主の嘆き--
当時、東洋で最も栄えていた都の名前をあげよという問いが出たら、答えた人間全てがこの都市の名前をあげるだろう。
上海と。
この街の繁栄はアヘン戦争で英国が土地を租借した事から始まっている。
租界では行政権と治外法権が認められ、香港上海銀行をはじめとした欧米の金融機関の極東における拠点となっている。
治外法権の為に大陸政府の施政権もほとんど及ばない状態になり、大陸情勢の不安定化に伴って多くの中国人が上海に流入。
租界の取り決めを行った条約では中国人犯罪者は大陸政府に引き渡すはずであるが、治外法権をかさに上海は中国人にとって法の抜け穴として機能し始める。
特に、政治犯の引渡しは行われないことが大半であったため、中国人の中には結社を組む者や現政権に対する革命勢力を組織する者も現れ、中には青幇のような組織も結成されるようになった。
上海では外国から訪れる人間にパスポートは不要で、ロシア革命後には白系ロシア人が上海に多く流入。
更に治外法権を得た日本やドイツ、イタリアなどの列強の人々もこの町に住むようになり、様々な人の流入と共に上海は豊かさを増し、これらの外国人によって上海は多様な文化を与えられた。
多くの人によって産み出された莫大な富は上海に摩天楼を築き、百貨店のような大型販売店では多種多様な客の為に多種多様な商品が並び、多様な茶を楽しめる茶館をはじめ上海では食べれない料理がないと言われるほど多彩な料理が店に並ぶようになっていった。
自由な発想が出来た風潮はおおくの思想誌を生み、映画産業が発展。
その映画が豊かなる上海の姿を映し、さらに多くの中国人と外国人を呼び寄せた。
一方で、法規制の緩さは阿片窟、売春宿、カジノなどの商売が行われる土台になり、裏社会が築かれ、青幇は行政を買収しおおっぴらに売春宿や阿片窟を営み阿片の流通を支配した。
また、安い中国人労働力を求めて多くの工場も建てられたが、その工場への労働力供給を裏社会が取り仕切っていた。
このため、多くの貧しい労働者は裏社会に中抜きされた労働条件の悪い仕事に付き、非常に狭い部屋に住み、麻薬や売春などの行為に手を染めるものも多かった。
これでも大陸の戦乱と腐敗は目に覆うほどひどく、この街には常に人が集まり、最盛期には百五十万人を超える人間が狭い租界の中に暮らしたという。
植民地主義の拠点、裏社会の拠点、人種の坩堝な欲望の街を人々は恐怖と憧れをこめて『魔都』と称えたのである。
そんな魔都の景気だが、実はあまり良くない。
日中戦争が勃発し、第二次上海事変以後は実質的に日本軍の統制下に置かれるようになり、その後ヨーロッパにおいて第二次世界大戦が勃発すると、本国や他の植民地から切り離された為に輸出入も滞りだしたからだ。
これで、噂されていた対英米開戦に帝国が踏み切っていれば帝国は租界に進駐し、敵国人となった英米人は抑留され、同時に上海租界の繁栄を支えた英米の銀行や企業は閉鎖されて上海はその繁栄を終えていただろう。
俺は私服で酒をあおりながら、そんなとりとめの無い事を、華やかな青幇のカジノを眺めつつ考えていたのだった。
「お待たせしました。
少尉……いや、休暇明けには中尉でしたか。失礼」
先の戦闘の後、小隊は交代で休暇に入り、俺はその休暇後に中尉に昇進する事が決まった。
その後の配属先は未定らしいが、急に世界に現れた竜達のおかげで帝国も世界も大混乱というのは変わっていないらしい。
東京発で「竜帝都侵入!!帝国軍機の迎撃により撃墜!!」という発表が大本営からなされたとほぼ同時刻、こいつらで一番貧乏くじを引いた国がこいつらの存在が現実かつ恐るべきものである事を伝えていたからだ。
「ドラゴンにより、ハワイおよび太平洋艦隊に甚大な被害が出る」
と。
「娑婆まで持ち込まなくてもいいさ。軍曹。
そちらの方は?」
「健松です。大陸浪人ですよ。
片桐さんには昔世話になりまして」
狭い日本にゃ住み飽きたとばかりに、大陸に渡って一旗あげようとした人々の事を大陸浪人という。
大陸での苦労の為か横の繋がりが強く、恩を忘れないって任侠世界まんまだな。
片桐軍曹と仲良くなれた訳だ。
多分、軍曹の横流しの相手と見た。
「まぁ、こんな席です。
とりあえず乾杯しましょうや」
「ですな。
再開を祝して、新たなる出会いに」
「乾杯!」
出てくる酒も料理も極上品、周りにはべる女も一級品ぞろい。
さて、鬼が出るか蛇が出るか。
「で、こんな場所で俺の昇進祝いを名目に呼んだ理由を話してもらおうか?」
こっちの言葉に健松は気押される様子もなく、老酒をあおる。
「こっちに出張る名目に使わせてもらいました。
何しろ、今の上海を牛耳る大日本帝国の将校様ですから」
彼と同じように老酒をあおる。
老酒が体に染み渡るのを感じながら、テーブルに出された料理をつまむ。美味。
「たかだか少尉の出世祝いにどれだけの威光があるのやら」
「その程度でいいんですよ。
あまり高級将校すぎると足がつきます。
要するに、租界警察への言い訳なので」
上海租界は列強の市民代表で構成する評議会を最高議決機関として、その下に警察組織を持っていた。
その為に大陸より腐っておらず、金で買収するのはいいがその建前が求められるのである。
で、俺はその建前に最適だったという訳だ。
「少尉殿。
気づいていらっしゃいますか?
カジノの連中、武装して警戒してますぜ」
片桐軍曹に言われるまでもない事だが、俺も気づいていた。
それに、健松が茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「ご存知でしょう。
最近上海の夜を賑わしている蝗の話は。
それですよ」
魔都上海の歓楽街は、その華やかさと裏側に深い深い闇が横たわっている。
そんな闇の中の噂で蝗と呼ばれる恐怖の話は急速に上海暗黒街に広がってきたのだった。
紅幇、藍衣社、CC団と上海暗黒街のカジノが次々と襲われ、他のカジノが襲われた後に追撃した彼らの武装組織も軒並み壊滅され、襲撃者もその追っ手も帰ってこない事から蝗と名づけられて恐れられているという。
残っていた上海最大のカジノを持つ青幇が狙われるのは青幇自身分かっており、青幇もかき集めるだけの戦力を用意したのである。
「だが……誰だ?
裏社会をまとめて敵に回している阿呆は?」
俺は酒を煽りつつ考える。
この日支事変の戦火で日本の占領下にある地区はおろか、フランス租界・共同租界まで影響力がある裏社会青幇までを敵に回す?
そんな戦力の一人が健松という事らしいが……待てよ……?
「なぁ、俺の昇進祝いだったな。
じゃあ、どうして誰も兵達がやってこないんだ?」
俺の質問に片桐軍曹と健松のが同時に噴き出す。
おもしろくて仕方ないらしく、テーブルをばんばん叩きながら酒をあおる。
「どうしてどうして、片桐さんこの方掘り出し物じゃないか!」
「だろう。
だからお仕えしているという訳さ。
兵達は健松の手配した宿で、少尉殿の驕りという事で楽しくやっていますよ」
そして代わりに、健松の手配した手下がこのカジノに集まっているという訳だ。
片桐軍曹は真顔に戻って、俺の方を見つめた。
「少尉殿。
俺は、娑婆で生活したいとは思うが渡世の水を産湯に長く生きてきた。
だから、義理人情は忘れないし、健松との付き合いもそれがきっかけさ。
俺はこの間の戦闘で、少尉に助けられた恩は忘れるつもりはねぇ。
この席は、そんな恩返しの一つって訳さ」
そうか。
戦場で助けるというのは、そんな意味を持っていたのか。
きっとそれが、片桐軍曹の人望の源なのだろう。
ざわっと、空気が変わった。
その方向を見ると、数人の男女がカジノに入ってきた所なのだが、連れていた女が尋常ではなかった。
「おいおい。
ここは、吉原じゃないだろうに。
なんだあの花魁太夫様に高級娼婦連中は?」
「気をつけろ。
あいつら只者じゃない」
何故か初老の老人の護衛の一人の腕を掴んでしなをつくる花魁太夫だが、信じられないほどの極上の美人だった。
着飾っている着物も極上の友禅で、頭の飾りも全て極上の品物ばかり。
だが、一番の問題ははしゃいでいるように見えてここまで匂ってくる香水で隠し切れない、甘く、妖艶で発情している極上の牝の臭いがこの花魁太夫から発せられていた事だろう。
その花魁を守るように動いている数人の高級娼婦達だが、皆黒のミンクコートを纏っても出ているのが分かる胸と尻、小さめな清楚な顔、月のように輝く銀髪、唇だけが薄明かりなのに薔薇のようにつぼめられた唇、そのミンクコートの下から突き出ている締まった足。特徴的な尖がった長い耳。
かつかつと小気味良い黒い高下駄とハイヒールが床を叩く音が静まり返ったカジノに響き、薄明かりにその肢体の影を映し出していた。
俺は彼女達を見た覚えがある。
南方系の褐色肌に尖がった長い耳。
そして、石人形を動かし、魔法で片桐軍曹の傷を治した女たち。
完全に女達に隠れるようだが、中央にいた初老の老人だけは明らかに別格だった。
何しろ、入った男女達はこの老人を守るように動いていたのだから。
裏社会のボスには見えないが、何かの組織の頂点だろうとは察しがつく。
初老の老人はこのようなカジノの空気に当たり前のようになじみ、淡々と席に座って皆の視線を気にせず一言だけ口を開いた。
「さぁ、遊ばせてもらおうか」
この日、俺達はカジノが破産するという伝説の一部始終を見る事になる。
「何をやっていやがった!」
彼らが去った後、カジノ支配人の怒りは収まる事はなかった。
普通に打てば負け続け、いかさまをすれば見破られ、暴力に訴えようとすると女たちの色気に隠された殺気で手が出せず。
彼らは八百万ポンドもの勝ちを一切換金せずに、ただ一通の手紙を支配人に渡してくれと言って去ったのである。
もちろん、追っ手を差し向けたが、捕まえる事すらできず。
「何が書いて……これは……」
支配人はあわてて口を閉じて言葉を飲み込んだ。
書かれていたのは、大日本帝国と重慶政府との仲介の依頼。
青幇は国民党政府と関係が深く、トップは蒋介石総統と義兄弟の契りを交わしたとも聞く。
国際情勢の激変で日本が大陸に対して攻勢を強めているのは事実で、最近は現れた竜を大陸に飛ばして示威行為を行っていると聞く。
竜が帝国にやってきた後、帝国と竜との間に協定が成立していた。
その協定の手付けとして彼女達は戦争をしていた大陸戦線に介入。
彼女達の操る石人形がこの大陸でどれほど役に立ったか考えるまでも無い。
爆弾で壊された鉄道の修復に巨大な石人形達が砂利を整え、線路を運んでゆく。
壊れた・ガス欠のトラックを石人形が押して自陣に持ってゆく。
ゲリラ達の攻撃に盾兼囮として石人形達がつっこんて行く。
全て彼女達の功績だった。
彼女達自身のスキルも馬鹿にならない。
山野の薬草に詳しく、その知識で多くの怪我人を助けた。
人以上の適応力を持ち、山林地帯ではゲリラを掃討してみせた。
夜の慰安も凄く黒長耳族の長が相手をした時は、陸軍の中隊が一夜にして吸い取られたという笑い話がある。
それらを成すのに要した期間、わずか一ヶ月。
それだけの時間でこの大陸では敵味方とも絶対的脅威としてその名前を轟かせていた。
大々的に行われた竜の大陸お披露目は大陸住民に衝撃以上の何かをもたらしていた。
そもそもこの大陸は易姓革命思想というものがあり、王朝交代時における正当性を与えるものだっただけに、清から中華民国への移行時の混乱がそのまま続いているこの中華大陸で、皇帝の象徴である竜が日本軍機と共に空を飛ぶというのは、国民党共産党等の大陸勢力の全否定に繋がりかねなかった。
ありがたい事に、元や清という前歴もあり、図らずも日本がこの中華王朝を継承するというプロパカンダとなっている。
竜は零戦を連れてこの一ヶ月間大陸を飛びまくった。
重慶お披露目から四川、西安、広東に占領地宣撫の陸軍要請を受けて北京や上海、満州まで飛んで見せた。
効果は劇的に現れた。
まず占領地の治安が回復。
点と線でしかない占領地だったが、その占領地でのテロやゲリラが急激に減ったのが一つ。
当然、殺し文句は「触ると竜神様に祟られるぞ」である。
死者を恐れる日本と違い生者こそ恐れる中国では、生身の竜の怖さが増強されたのだろう。
汪兆銘政権が急に協力的になったのが更に一つ。
内部に国民党と繋がっている者が多いだけに、汪兆銘政権が協力的になったのは福音と言ってよかった。
竜の権威によって新たな支配者となろうという野心むき出しなのが問題ではあるが、真面目に仕事をする分には問題がない。
中国人は勝ち馬に乗るのが早い。
だが、奥地にある国民党政府と共産党は頑強に抵抗を続けていた。
彼らは帝国がこれ以上攻め込む余裕が無い事を知っている。
そして、英米ソの支援がある限り大陸を逃げ回ってしまえば帝国が干上る事を知っている。
「大老に連絡をとれ。
そこから先は知らん」
どうせここ以外にも、表裏共に大日本帝国からのアクションは来ているのだろう。
結果まで気にする事はないし、それで八百万ポンド払わなくてすむのならば万々歳だ。
とはいえ、経歴に傷がつくのは避けられないが、生きていれば汚名返上の機会もあるというものだ。
「だが……いい女だったな……」
狂乱の賭場で濃厚な牝の匂いを発し続けたあの花魁太夫に支配人は見とれた。
あれが、日本の最高級娼婦の一人であるぐらいは彼も知識として持っている。
だから、彼は知らない。
その最高級花魁に化けたのが異世界からやってきて現在この大陸を騒がせている竜本人であり、その竜なんて気にする事無く博打に狂奔していた本職以上の腕を持つばくち打ちが、日本海軍の三長官の一人だった事を。
そして、竜が魔法で三峡にダムを築いて塞いでしまい、四川盆地を水攻めにしようとしている事を。
竜との協定の内容
1.帝国は竜の富士山における龍脈契約および眷属(黒長耳族)召還を容認する。
2.帝国は竜の眷属居住地として富士演習場・屋久島・北海道知床・日高山脈・東北白神山地や奥羽山脈奥地等の土地を提供する。
3.帝国は竜の眷属保護に対し土地の提供をはじめとした支援を約束する。
4.3.の改定は改めて帝国と竜との間で協議する。
5.竜および竜の眷属は帝国居住者として帝国に協力する。
6.竜の交渉および保護またそれにかかる諸経費と全責任、さらに竜の協力は海軍が責任を持って行う
龍脈契約については後々説明する予定。