帝国史 農地解放の登場とその背景より
竜神様と黒長耳族保護の波紋はこの四ヶ月の間にじわりじわりと帝国体制内に毒の様に広がっていった。
彼女達は迫害されている事もあり、その持てる力の全てを使って日本に恩返しをしようとしている。
それが実は大問題だったりする。
彼女達の保護と引き換えに、ただ同然に得られる石人形を中心とする巨大な労働力に、多くの政府官僚はあっさりと狂った。
戦時、あらゆるものが動員される中で国力に乏しい帝国にとって、彼女たちの価値はあまりに大きかったのは当然だった。
無投資にもかかわらず、工場を建て、あるいは資源を掘り出し、あるいは食料を生み出すものたち。
それは、膨大な戦費によって破産寸前に追いやられていた帝国にとって、無から金を生み出す錬金術であった。
だが、現在は戦時ではない。
危うい上に立っているとはいえ、大日本帝国は戦争のない状態――平時――にある。
そして平時だからこそ、この錬金術が問題になった。
黒長耳族は異世界でも半ば奴隷以下に迫害されていたが、大日本帝国という新たな保護者に嫌われないように異世界以上に働く事を決意していた。
彼女達は自分達に価値があると分かれば保護してもらえるというその一点にかけ、このお人よしの遅れた帝国主義国家の関心を買い取る事に成功したのだ。
その結果が、黒長耳族保護を名目に内務省内部で盲腸と化していた部署を中心に成立した神祇院である。
神祇院は彼女たちの有能な働きにより、現在では帝国髄一のカウンターインテリジェンスであり、国内諜報機関となりおおせた。
だが、その神祇院は現在混沌状態にある。
設立当時からの黒長耳族を主体とする巫女局と、女性参政権を得た純粋な日本人であるナース達看護局の間で、どちらが主流派となるかを争い出だしているためだ。
まずいことに、黒長耳族のトップが名目上とはいえ天皇にあり(それを裏付けるかのように彼女たちは緋袴を穿く権利を有している)、一方ナースのトップはこれまた名目上だが赤十字総裁である皇后にある。
この状態で、どちらが本流かを主張するのは極めて政治的に微妙なことになる。
事態をややこしくさせているのが、先日帰って来たばかりの異世界派遣船団の結果だった。
二千人ほどの黒長耳族が自ら進んでの無償奉仕に近いとはいえ神祇院に所属し、あまつさえ数百人規模の獣耳族まで連れてくるという事態に海軍はおろか陸軍も歓迎して獣耳族の保護まで加えられ、信じられないほど急速に水ぶくれする異世界人女性に看護局に所属するナース達も対抗上人間を入れざるをえず、実際使える女性を入れるという事は英独のひも付きメイドしか残っていなかったからだ。
ならばと、水ぶくれするであろう予算で彼女達を縛ろうとしたが、異世界交易によって持ち帰った大量の金貨に誰もが目がくらんでいる。
さらに、現在の内閣が固有の調査機関と内部調整機構を有しておらず、国内問題に対して有効な手を打つことがひどく難しい上に、その調整すらも神祇院に一任していた状況がどんどん事態を悪化させていた。
それゆえに彼女たちの存在が危惧され始め、先日の銀座カレー事件で各省庁が競って神祇院に肩入れをしたのは、表向き黒長耳族が主流である神祇院を支持する裏に、日本人女性である看護局を支持する事に他ならなかった。
軍部の一部で黒長耳族を歓迎しつつも憂慮しているのが、黒長耳族の彼女たちの多くが特務の名前で階級を与えられ、軍の諜報部門や参謀として軍務をこなしているということにある。
つまり、一朝事が起これば、何らかの手段によって部隊の妨害や指揮を行える立場にあると言うことだ。
そして、諜報も担当すると言うことは、いわば政治将校として軍内部に影響力を有するのである。
黒長耳族で構成された諜報機関だけに、黒長耳族の長や竜神様が政治的介入を決意した場合、これに乗ってしまう可能性を捨て切れなかったのだ。
もちろん彼女たちが帝国を裏切るとは思えないが、だからと言ってそれを制度で認めてしまうのはあまりに危険が大きすぎた。
物事は何事も例外はあるし、仮に日本人が黒長耳族を迫害するようになれば、彼女たちもやむをえない手段をとる可能性もある。
そして、そうなる可能性は消して少ないものではない。
神祇院とはまさにそんな場所となっていた。
かつて陸軍が有していた諜報機関は長い大陸での戦争の結果ほとんどが弱体化し、内務省の保持していた特別高等警察も本土はともかく外地の諜報に手が回らない。
にもかかわらず、東京では英独による女性市民権を隠れ蓑とした諜報機関が荒れ狂い、それにつられて他の政治活動も活発化している。
なにより、戦争終結による陸軍の動員解除により国内の労働力が余り始めている。
その一方、生産される物資は、英国に資源という首根っこを押さえられているため国内を満足させる最低限に近い分量しか手に入れられていない(生活できる必要なだけの物資を注意深く交易されているのだ)。
余剰に乏しく、しかもその貴重な余剰も一次大戦よろしく欧州に輸出され、国内には残らない。
結果、物価だけは際限なくあがり続ける。
この状況で国民が未来に希望など持てるはずもない。
今は戦争終結という幸事により国民は幻惑されているが、これが落ち着けばどうなるかは火を見るより明らかである。
市民権運動は女性権についての話で埋め尽くされているので悪化していないが、これに経済的困窮の不満が加わった場合、その矛先は魔法を持っていないため安く働けない日本男性から仕事を奪い、その上権力をかさにした黒長耳族に向けられてしまうのだろうという事は明白だった。
農業に至っては、更に問題が深刻化する。
当然の事だが、物は多く作れば価値は下がる。
それは農家の収入減少につながり、それを補うために更なる生産を目指すという江戸時代からの問題については現在に至るまで解決していなかった。
その状況下での植民地からの安価な農作物の輸入は農家の失業を招き、まだ供給過剰な軽工業はその失業者を受け入れるだけの市場を持たず、国内の不満をそらす為に対外戦争を行ってそれで大陸にどれだけ金と血を落として泥沼にはまった事か。
そんな悪夢二度と繰り返すつもりはない。
異世界貿易にも問題が内包していた。
異世界から奪い取った金銀宝石の代償が織物や酒・味噌・醤油に伝統工芸品という江戸時代からの手工業というあたりがとことん泣けるが、派遣された交易船団によってもたらされた大量の金銀宝石は売却すれば帝国の財政再建の一助になると分かってはいた。
問題は、現在の貿易慣行で決済に必要な金銀は世界中からロンドンの銀行に、第二次大戦が始まってからはニューヨークの連邦準備銀行に集められている点にある。
これらの銀行に所属していないこの大量の金銀の存在を知れば、欧米が黙っているほど国際社会は優しくはない。
必ず口を出し、なんだかの形で彼らの管理下に置こうとするだろう。
異世界交易の金銀は大蔵省の一元管理という事で、ひとまずその売却を含めた使い道については先送りする事で決定したのはそんな理由がある。
産業革命に百年遅れたつけの何と重たい事か。
しかも、現在の帝国の生命線の一つたる異世界交易の金銀を入手しているのが、手工業による生産品ときたものだ。
現状、異世界交易は帳簿上では大黒字状態ではあった。
だが、裏を返せば価値のある物しか持ってきていない程度の交易量という事でもある。
一つの例を出す。
この昭和十七年当時、帝国が保有する商船団のトン数は公称で六百万トンである。
分かりやすくイメージするなら、一万トンの船を六百隻保有していると言ってもいい。
この六百隻の船が世界の海に散らばり、鉄鉱石や原油、食料や繊維や工作機械を積んで帝国に運び、帝国から持ち出しているのだ。
では、金銀宝石を持ってきている異世界交易に常に従事している船の数は何隻かといえば、実は一隻でしかない。
ちなみに、残りの船は何をしていてるかというと、その八割が英国および英国植民地との交易であり、その八割の内の六割を占めるのは英国植民地(オーストラリアや南アフリカ)を中継地とした米国向け輸出である。
この六百隻の船を維持するために雇用が生まれ、この六百隻の船が持ち込む食料や資源がないと帝国は簡単に崩壊するのだ。
そして、この船達を守るために大日本帝国海軍は存在しているはずなのだ。
敵船を沈めるのは手段であって目的ではない。
帝国を富ませる道は至ってシンプルなものだ。
『英米と協調し、その交易によって国を成す』
その簡単な事ができずに四苦八苦していたのが少し前の帝国だったのだがそれはさておき。
現在の異世界交易は、一隻の黒字船に浮かれて五百九十九隻の船の事を考えていないに等しい。
同盟を結んでいながら、独逸勝利の世界を望んでいない理由もそこにある。
大陸国家である独逸は、対ソ対英戦に勝利した場合帝国を含めたユーラシア全土に経済ブロックを作る巨大帝国となる。
その巨大帝国および経済ブロックの成立を、世界一の金融・工業大国である米国は絶対に望まない。
ブロック経済はその盟主国を機軸に域内交易での統制で国を維持発展させる政策だが、既に巨大すぎる米国の資金と生産力は南北米州だけでは持て余していたのだった。
帝国が大陸利権をめぐって米国と対立した米国側の背景はそこにある。
米国は市場を締め出され、その巨大な資金と工業力を軍事力に変えて枢軸に戦争をしかけるだろう。
その巨大な米軍に独逸の代わりに太平洋上でぶちあたるのが帝国など割があわなすぎる。
つまるところ、世界に冠たる大日本帝国という幻想に酔った国民は、この国がまだ産業革命そのものを終えていないという事実をみたくなかったのだろう。
経済とはいきつく所、価値の問題である。
もう少し言い方を変えると「誰が貧乏くじを引くか」という言い方でもいい。
だからこそ、彼女達黒長耳族は自ら最初に貧乏くじを引いたのだ。
永遠の時間を持つ彼女達にとって時間は彼女達の絶対的な味方だ。
なお、異世界での人間とエルフの対立から始まった「大崩壊」という破局とその後五百年に及ぶエルフ迫害はこの時間が原因だったりする。
少数だが時間と共に絶対的優位に立ってゆくエルフに大多数の人間が恐怖感を覚えたのだ。
もちろん、彼女達も五百年前の失敗を繰り返したくはないし、人間社会との良き共存を望んではいた。
だが、人間のほうに先が見えるもの――エルフの持つ貧乏くじは最後は人間が引く事に気づいたやつ――がいると、たとえエルフがどう語ろうとも反エルフ感情が広がってゆくのだった。
そして、大日本帝国でそれに気づいたのはやはり秀才ぞろいの政府官僚達の一部だった。
彼女達を保護するのはまぁ仕方が無い、助けを求めた美女ぞろいの一族をむげにするほど人でなしでもない。
だが、彼女達が持っている巨大な特権は解体しないといけなかった。
彼女達を権力の中心からいかに引き剥がすか?
神祇院と内務省地方局が出してきた国土開発計画は、黒長耳族使用という問題点のほかに、地方の豪農階級に富をもたらして末端の小作人まで富が回らないという致命的な欠陥があった。
黒長耳族と地方豪農が婚姻関係で結ばれたりでもしたら日本に新たなる貴族階級の登場を許しかねないし、これ以上富の偏在を許したら共産革命すらおきかねないこの計画を修正するにあたって地方豪農階級から土地を取り上げる必要があった。
その為、遠慮仮借なく異世界から富を吸い上げ、その利益で地方の地主から土地を買い上げる。
その政策、『農地解放』は、昭和維新という呪われた御旗の根本にある本土二千万人の小作農達の解放という使命をもって登場する。
異世界に植民地が作られて、彼らに農地を与える事を約束して、開発途上に甚大な犠牲が出る事を予期しながらも大規模殖民が一気に加速したのはそんな背景があったのだった。
説明回。
辰馬視点なのだがこうして大局を入れておかないと、何が起こっているのか分からないという罠。




