昭和十七年三月三十一日 熱海温泉
結局、あの後家を出てから一週間はマダムが泊まっている熱海の旅館で過ごした。
出発は伊豆の下田港からだったからだ。
その間、時々ヴァハ特務大尉がやってきて異世界への勉強が始まる。
「まずはこれを肌身離さず持っててください」
そう言って渡されたのが、知らない宝石つきのネックレス。
首にかけてみるがいまいちピンとこない俺に、ヴァハ特務大尉は説明を続けた。
「通訳魔法がかかったネックレスです。
とりあえず、身につけた状態なら意思疎通ができます」
借りにも異世界に行くのだから、当然言葉など違うわけで。
最終的には向こうの言葉を覚えないといけないが一時的には大いに助かるアイテムだ。
「私たちの世界は、中央世界・東方世界・西方世界の三つに分かれます。
この世界をこちらで当てはめるならば、大陸という言葉がしっくり来ると思います。
その為、言葉は国々によって違いはありますが、大本は中央・東方・西方の三つの言葉に集約されます」
ヴァハ特務大尉の説明は更に続く。
大きな大陸が三つあり、その中にいくつかの国々がある事は向こうの世界も変わらないらしい。
「これに、それぞれの種族が使っている言葉、私たちはダークエルフですのでエルフ語などがありますが、ひとまず置いておきましょう。
私たちが行く所は西方世界で、その為にこのネックレスは西方世界の言葉を入れています」
ヴァハ特務大尉が上から借りてきてテーブルに広げられている秘蔵の異世界の地図は、なんというか大航海時代の地図というか、見た帝国側が即座に測量班と測量船を送り込むことにした事から察してほしい。
なお、今回の第一次異世界派遣船団だが、以下の陣容で送り出される。
仮装巡洋艦 愛国丸
測量艦 筑紫
第二〇駆逐隊 (天霧、朝霧、夕霧、狭霧)
特別陸戦隊 一個中隊
今回は海軍主導の作戦の為、お客様扱いの俺は具体的に詳しい事を知らされていない。
だからこそ異世界に逃がせる好機とも言うのだが。
そんな中で、最低限知らされている事は、
「竜とその眷属の保護の為、異世界に長期滞在できる根拠地を作る。
今回はその調査と滞在が目的」
ぐらいなものだ。
竜とその眷属保護が目的とは言え、聞いた感想は白瀬南極探検隊だなと俺は思ったり。
で、俺は置き去りにされる予定だからスコット隊だろうかなんて自虐してしまう。
「このネックレス、魔法が弱まると黒ずんできます。
そうなったら耳が聞こえない感じになるので、大きな町にある魔法協会に行って魔法を回復させてください」
もう一つ魔法が切れかかっているネックレスを取り出して、魔法回復の実演をしてみせる。
こうやって魔法が切れかかった状態と、それが回復する所を見させてくれるのは本当にありがたい。
会話というのは意思疎通の為に必要だから向こうでの命綱である。
それと平行して荷物を作ってゆく。
当たり前なのだが、向こうの世界では拳銃の弾が補充できない。
拳銃とその弾倉は向こうでの戦闘の切り札だ。
「まさか、適当に買ったこいつが役に立つとはね……」
俺は秋月土産の虎徹大小を見て苦笑せざるを得ない。
ヴァハ特務大尉の説明を聞けば聞くほど、向こうの世界は剣と魔法と化け物溢れる未開地という印象を持ってしまう。
手榴弾、発炎筒、双眼鏡、着替えに雨着、地下足袋、靴下、手ぬぐい、石鹸、洗面道具、裁縫道具、ノートに筆記用具、救急用包帯、医薬品、食料と飯盒に水筒と背嚢になおしてゆく。
シャベルにつるはし、寝具と小型天幕を背嚢の上に載せて完成。
いくつか小袋を吊るす事を考えたが、
「街中で、袋を切られて取られますよ」
という事で断念したのだ。
これを背負って行軍すると大陸を思い出す。
「あとご要望の自転車も用意させました」
「助かる。
どうせしばらくは遠出をするつもりは無いんだ。
ならば、荷台があってすばやく動ける自転車は欲しかった所でね」
自転車を買う為に月賦を組むご時勢に、それを確保できるのだから竜神様に感謝しきれない。
荷造りに異世界の知識を少しでも得る為にヴァハ特務大尉から情報を聞き出していたら、一週間なんてあっという間だった。
で、明日は出発という日。
少し時間ができたのでマダムと海岸を歩く。
「こんな所に連れてくるなんて、辰馬くんは私を蹴るつもり?」
なんてマダムに言われて気づく。
ここ、『金色夜叉』で貫一がお宮を蹴った場所じゃないかと。
こっちが気づいたのを悟って楽しそうに笑うマダム。
尾崎紅葉まで読んでいたのか。この人。
「明日でお別れね。
今まで楽しかったわ」
上海で片桐少尉と別れた時も思ったが、この人は寂しい時に本当に綺麗に笑う。
俺は異世界に、マダムはこっちに残り、ヴァハ特務大尉も残留組だ。
戦争終結に伴う大掃除はかなり大規模なものになるらしく、今度は満州に飛ぶらしい。
楽しくも濃厚な船旅だったが、その終わりが近づいているのを俺もマダムも悟り、ただ黙って熱海の海岸を歩く。
夕焼けの赤景色の中、波の音だけが妙に耳に残る。
「マダ……」
俺の口をマダムの指が押さえて、俺は続きを言う事ができない。
夕焼けの中で俺が知る限り一番綺麗に笑って見せたマダムは、その笑顔を崩す事無く、俺が言おうとした言葉を断った。
「言ったでしょう。
縛る女にはなりたくないの。
このままずるずる体を重ねていったら、私、辰馬くんなしで生きて行けなくなっちゃう。
それで、いつ帰るか待つのを耐えるのはつらいわ」
俺は不幸にもこの国の暗部を知ってしまったが為に、口封じをされる訳で。
最低でも欧州大戦が終るまで、最悪このまま異世界に島流しというのが俺の現状だ。
「すまない。
マダム……」
「いいわよ。
けど、忘れないで。
人は、帰れる場所があるならば、強くなれるわ。
私は、辰馬くんの帰れる場所になれたかな?」
「なれるかな?」ではない、過去の問いかけ。
それの意味が分からないほど俺は鈍くは無い。
「なれたよ。マダム」
「良かった」
そんな他愛ないやり取りが、夜の色っぽさよりもはるかに記憶に残るだろう。
俺は、このマダムの笑顔を忘れないと誓った。
だからこそ、この台詞でこの船旅を終わらせよう。
別れるのは明日の朝、夜にはきっと体を重ねるけど、ここで俺とマダムの行き先が変わる。
「いってきます。マダム」
「いってらっしゃい。体に気をつけてね」
伊豆 下田港。
明治の御世に外国に開放されたこの港に六つの高い灯台が建設されたのはつい最近の事である。
しかも、その建設において軍が関与し、褐色色の耳の長い外国人がちらほらとみかけられたこの灯台は何から何まで変わっていた。
港の少し洋上に五つ海上に建設されていた灯台は夜間は警戒の光らしい赤や青の光こそ出すが、こんな短距離で五つも立てられる理由がまったく地元住民には理解できなかった。
もちろん、上空から見るとこの五つの灯台が港中央部から円状に配置されており、灯台の赤と青の光同士を法則に沿って結ぶと五芒星を構成している事にも。
俺達が乗り込んで船団は灯台群の中央に集まった。
それから灯台群が光り輝いたと思った時には既にこの世界からは消えていた。
長かった……主人公の背景作る為に始めたのにマダムがかわいくてかわいくて。けど、ここでヴァハ特務大尉とマダムは退場予定。
かわいいからまた出すかもしれないが。
次章からこの物語のヒロイン登場予定。
この写真は『帝国の竜神様』読者の大隅氏から頂いたもので、わざわざ物語にあわせて作ってもらったそうです。
『帝国士官冒険者となりて異世界を歩く』に掲載しても良いとの許可を頂いたのでUP。
大隅氏にはこの場を借りて感謝を。




