昭和十七年三月二十四日 東京 陸軍省
最近極東の島国の首都で見る光景。
下品なナチスのフレンチメイド。
それを啓蒙する為にわが国が派遣したヴィクトリアンメイド。
この二者の争いを仲裁する、「巫女」と呼ばれる島国の神の召使。
メイド達の争いは主人の格を著しく傷つける。
大国の主人たるもの、メイドはしっかりと御するべきなのだ。
――タイムズ 1942年三月より抜粋――
横浜到着。
少しの間稽古をつけてくれた武道家と別れ、俺はヴァハ特務大尉と共に陸軍省に出向く。
「中尉の選択肢はあまり多くありません」
横浜到着前の帝亜丸の客室のベッドの中でヴァハ特務大尉が説明する。
彼女が何も着ていないのと、その隣で同じく何も着ていないマダムが興味津々で聞いているのはもうあきらめた。
「一つは、全部忘れてもとの任務につく事。
忘却の呪文というのがあって、その間の事を忘れる事ができるのですが、機密に関わることですからこの船旅は確実に忘れてもらわなければなりません。
場合によって私との出会いも覚えていたらまずいと判断されるようならば、忘れてもらう事になります」
「それは駄目!
ヴァハちゃんの事を忘れるなんて私が許さないんだから」
完全部外者のはずなのだが、どうしてマダムが話を仕切っているのだろう?
まあ、俺もそれを選ぶつもりはなかったから、マダムの言葉を遮らなかったが。
「二つ目は、この場で死んでもらって……」
「ヴァハちゃん。
怒るよ」
淡々とした中に隠そうともしない怒気に俺もヴァハ特務大尉も黙る。
選択肢は全部あげないといけないのは分かっているのだろうが、それを遮って怒ってくれたマダムの心遣いがありがたい。
「と、なると三つ目なんですが、中尉、私たちの世界に来ませんか?」
ヴァハ特務大尉は淡々とした口調で俺の唯一の選択肢を語る。
「私達の世界では、多くの同胞が未だ迫害されています。
帝国は私達の同胞を助ける為に協力してくれるそうです。
その中に紛れ込ませる事ができます。
後は野となれ、山となれで」
その言い方がおかしかったのかマダムが耐え切れずに笑い出し、俺は憮然とするが選択肢が無い以上何も言い返す事ができない。
マダムがシャワーを浴びている時に、己の立ち位置をヴァハ特務大尉が教えてくれたからだ。
「いいですか、中尉。
帝国と英国の中華民国に対する麻薬および偽札とレンドリース横流しの裏取引は、ばれたら致命的外交ダメージになりかねません。
やっと足抜け出来た大陸で反日感情が再燃するし、国内外から非難が殺到するでしょう。
その為、多くの勢力が中尉の命を狙っていますし、これの暴露を企む勢力、たとえばこれから国民党相手に戦争をする中国共産党や、英国との関係が完全に破綻するので否応無く接近することになる独逸あたりは、中尉の身柄をなんとしても確保しようとするでしょう」
腰を振りながらこれだけの台詞を言えるのだからヴァハ特務大尉も凄いが、それになれつつある俺も大概である。
「私ができるのはここまでです。
私は、この後大陸に帰って、上海のマダムのお店で働かないといけないので」
「そうよ。
ヴァハちゃんにお店譲るの」
タオルで体を拭きながら浴室を出たマダムがヴァハ特務大尉の言葉尻を捕らえて付け加える。
え?
どうしてそうなった?
「仕事柄、上流階級の男と親密になる場所が必要な訳でして。
上海租界の中にあるマダムのお店はまさにうってつけでした。
国共内戦が勃発すれば、ここが帝国情報収集の拠点として機能する事になるでしょう」
ヴァハ特務大尉の説明によどみは見当たらない。
スパイの隠れ蓑として高級娼婦そろう娼館というのは、ある意味分かりやすいとも言える。
ここを表の看板にして、更に複数の拠点を作るつもりなのだろう。
なんて事を考えていたら、ふとマダムを見て気づく。
「じゃあ、マダムはどうするんだ?」
「私ね、ヴァハちゃんに頼まれてこっちで仕事をするのよ。
色々教えてほしいんだって」
二人を交互というか同時に抱いた感想なのだが、ヴァハ特務大尉はベッドの中ではマダムを越えるぐらい凄いのだが、会話や仕草や全体的な総合力ではマダムにかなわない。
これは、彼女達黒長耳族が元々奴隷種で、迫害された最下層に生きる黒長耳族の多くは、言われたら足を開くように躾けられていたという歴史的背景がある。
だが、こっちで生きる以上、裸で腰を振るだけでは生きていけない。
その為に、全体を高級娼婦化する事を企み、その講師としてマダムに白羽の矢が立ったという事だ。
もちろん、それだけでない。
俺への脅しの材料としてマダムが使われる可能性があるから、保護してしまおうという訳なのだが、それはマダムに伝える必要は無いだろう。
「で、俺は向こうでどうすればいいんだ?」
「お好きに。
とりあえず、こっちに戻らない限り何をしても構いませんから。
もちろん、できるだけ支援はする方向ですが」
本来殺すか記憶を消すかするつもりだっのに、この温情判断である。
後で知ったが、俺の処遇はヴァハ特務大尉に一任されていたらしい。
で、俺やマダムを知ってこの判断である。
間違いなくマダムの功績だろう。
そんな訳で、俺はヴァハ特務大尉が俺の神祇院への出向扱いの手続きを取る為に、参謀本部と陸軍省を行ったり来たりのお役所仕事に振り回されている訳で。
三宅坂の陸軍省前でそれが見れたのは、ある意味良かったというか悪かったというか。
陸軍省の玄関前で、メイド達が対峙していたのだから。
「これはこれは、ごきげんよう。
伝統しか残っていない、トミーの娼婦様ではございませんか。
体毛剃り忘れたから、その長いスカートで隠していらっしゃるのかしら?
ナタリー」
上品に微笑みながら優雅に一礼するのだが、動作と日本語が伴っていない。
メイドらしくカチューシャをつけたショートボブの金髪、皆大きな胸を揺らし、奉仕後なのだろう顔を上気させ、乱れたメイド服を調え、汗を拭きながらその短いミニスカートを揺らす。
彼女の後ろには彼女と同じような極上美人のフレンチメイド達が並んでいる。
「SSきっての諜報員アンナ・シェーンベルク。
その筋では有名な女スパイ。
中尉を見つけたら酒池肉林で捕まえようとしますよ」
俺を壁に隠しながらのヴァハ特務大尉の説明に俺は背筋が寒くなる。
美女のハーレムは男の夢だが、マダムとヴァハ特務大尉ですらあれなのだ。
確実に絞りつくされる。
シュールな図ではあるが、その下にある国際情勢と女むき出しの争いはえげつないことこの上ない。
フランス戦以降、占領地が急拡大した独逸はその占領地の治安維持に四苦八苦しており、特にレジスタンスの抵抗や占領地政府高官に対する連合国の諜報活動に対抗する為に、女性中心の武装SSが結成されたのだった。
彼女たちは諜報員として育成され、中立国の船で帝国に送られたが、帝国は女性参政権がらみの混乱からゲッベルス宣伝相の提案で社会奉仕者としてのメイドSSになったという経緯を持つ。
もちろん、母体が武装SSなので兵士でもあるのは言うまでも無い。
なお、その短いフレンチスカートから見えるタイツの所にモーゼルのホルスターがあるのについては外交官特権となっているらしい。
そのメイドSSがこの極東の果ての島国にまで出張ってきたのは、束の間の平和ボケを満喫している大日本帝国を色と金で釣る為だったりする。
「その下品なフレンチメイドはナチの牝豚さん達ではございませんか?
ごきげんよう。
アンナ」
とても上品な日本語を奏で、陸軍省正門で対峙したのがロングスカートなびかせて箒とモップを持つ正装ヴィクトリアンメイド数人。
彼女らはナチのメイドSSの存在を知って急遽作られ派遣された、英国情報部のエージェント達である。
「先頭でアンナに優雅な罵倒を言ってのけたのがナタリー・スチュワート。
カチューシャの下に美しい赤髪を三つ編みにしてアンナに軽蔑の視線を投げつける彼女こそ、英国情報部のエースの一人ですよ。
こっちは中尉を見つけたら、確実に殺しに来るのでご注意を」
なんだろう?
こっちの方がえげつないはずなのに、背筋が寒くならないのは。
ちなみに仕込み杖らしく、銃か剣のどちらかがあの鉄製箒とモップにあるだろうと言われているのだが、やはりこれも外交官特権らしい。
どうやら両方ともこっちには気づいていないらしい。
「私達は牝豚達の腰振って喘ぐしか能の無いご奉仕の無礼を慰めに行く所なので。
日本の皆様も大変でしょう。
同盟国とはいえ、牝豚で自慰するなんて」
「まぁ、皮肉しか出ないばばあの喘ぎ声を聞くのならば、日本人が同盟を破棄するのも当然の事かと」
もの凄く空気が歪む陸軍省玄関前。
当然のように玄関についている衛兵達も遠巻きでおろおろするのみ。
大体、この国に外人がいる事自体が珍しいのにしかもメイド姿。
片やフレンチ、片やヴィクトリアン。
たちまち物見に集まるが、遠巻きに見守るのみ。
「大変ですわねぇ。
悪魔以下のコミュニストと手を組んですら、冬将軍すら生かしきれない無能同盟国をお持ちのお方は。
その汚い体で、哀れみでも貰いに来たのかしら?」
「あらあら、役に立たないといえば勝手に宣戦布告して豪快に負けまくって援軍を頼んだ挙句、勝手に撤退して総統閣下を呆れさせた貴方達の同盟国には叶いませんわ。
豚は豚らしくソーセージにでもおなりになったら?
まだ食べられるだけ、そのあたりの野良犬なら食べていただけると思いますわよ」
外人の美人メイドさんがとても流暢な日本語で相手を下劣に罵倒している場面は、そう見られる物ではない。
かと言って、下手に手をだしたら愛人と本妻の板ばさみに似た苦痛を味わうのは想像に難くない。
(これ、外交問題だよな)
(いや、この二国戦争しているし)
(だよな。俺達関係ないもん)
(お前、両方とも食べていたじゃないか)
(お前だって)
ひそひそ遠まきに情けない会話を交わす日本の男性達。
そんなのを尻目ににらみ合う英独メイド達に仲裁の声をかけたのはやっぱり女性だった。
「あのぉ」
実にわざとらしいはかなげな小声でメイド達がその方向に視線を向けると、そこに黒長耳族の巫女さん達がいた。
御幣を持っているあたり、払うのは物の怪ではなくメイド達らしい。
「内務省神祇院巫女局の者なのですが、そろそろこの場を収めてもらえたらと」
とても白々しい声と反比例して、白衣からはみ出るばかりの褐色の胸を持つ黒長耳族の娘達に男達の視線が集まる。
ただ、声とは裏腹にしなやかに鍛えられた体と、さり気なく彼女達の懐に隠し持っているのだろうクナイと小太刀に気づくのは周囲の男達では誰もいなかった。
「内務省神祇院巫女局局長のオイフェ様。
上海などで暴れた私の上司にあたります」
つまり、俺がらみの書類手続きの終着点の一つがあの巫女さんという訳だ。
ヴァハ特務大尉の手には俺がらみの稟議書の束があり、隙あらば判子を貰う為にとこの場からはなれないらしい。
まだこの世界に来て三ヶ月程度のはずなのだが、恐るべし官僚組織。
「あら、これはこれははじめましてと申すべきかしら?
たしか、オイフェさんでしたっけ?
夜のお仕事の貴方達のご活躍はこちらにも届いておりますわ」
と、フレンチメイドのアンナが嫌味を言えば、
「まぁ、まるで植民地人が舞踏会の正装を着ている様でとても似合っておいでですわ。オイフェさん。
今後ともよしなに」
とヴィクトリアンメイドも慇懃無礼に皮肉をぶちまけるが、この巫女娘はにこにこ笑ってこう言ってのけた。
「ありがとうございます。
いえね、殴り合いでも殺し合いでも、お好きなだけするのは構わないとは思いますの。
けど、まだ中立を維持している政府の首都で、関係者を前に罵り合いをするのは、せっかくの美貌とメイドとしての誇りに傷がつくと思いますがいかがでしょうか?」
この一言で女達は悟った。
このアマ、ヤル気だと。
「ここは、同盟国のありがたい忠告に従いますわ。
では、これにて失礼いたします。
トミーの娼婦様、帰る時は魚雷にまで腰を振ってお沈みにならぬように」
巫女娘の横を抜けてゆくアンナとフレンチメイド達に、ヴィクトリアンメイドのナタリーが返事を投げ捨てた。
「貴方達も、インド洋が誰の物か考えてから物をおっしゃったら?
同盟国の殿方の哀れみでも買ってお帰りなさいなせ。
神祇院長耳局の皆様、ご無礼をいたしました」
優雅にロングスカートを摘んで一礼して見せて、この場を去ってゆくヴィクトリアンメイド達。
後は、ぽかんとした男達と神祇院の巫女娘のみ。
「申し訳ございませんが、今見た事と聞いた事は他言無用にお願いします」
こくこくこくと人形のように首を振る男達を尻目にヴァハ特務大尉がオイフェに突貫する。
「オイフェ様すいません!
この稟議書に判子をお願いします!」
「お久しぶりね。ヴァハ特務大尉。
じゃあ、こちらの方が神堂中尉ね」
オイフェ局長が俺に頭を下げ、俺も日本人らしく頭を下げ返す。
「神堂辰馬陸軍中尉です。
この度は、お世話になります」
胸の谷間から取り出した、ネックレス形式の判子を稟議書に押しながら、オイフェ局長が口を開く。
なお、胸の谷間から判子を取り出したあたり、俺含めた周囲の人間がガン見していたのは言うまでも無い。
「こちらこそ、巻き込んでしまった事を申し訳なく思います。
あちらの世界へは一週間後に最初の船を出す予定ですが、それまで先ほどのメイド達は味見しないでくださいね。
ここまでこの国が防諜を気にしない国だとは……」
オイフェ局長が判子を押しながら愚痴る。
いや、他省庁間内での防諜などはえらく固かったりするのだ。
問題は外国人に対して口が軽かったり、自分の管轄でない情報は簡単に聞きだせるという所にある。
英独メイドの取り扱いについては、内務省神祇院が初めて手がける防諜作戦だった。
それでも、陸海軍から霞ヶ関にいたるあちこちの男達が味見をしてしまい、初動段階で次々と情報が流出。
しかもそれが女性参政権と絡んでしまった事で政治問題化してしまい、防諜としては大失敗だったりする。
「憲兵と特高に連絡して。
彼女たちの奉仕を受けた者に個別聞き込みをかけてもらわないと。」
判子を押していたオイフェ局長の言葉に、後ろの黒長耳族の巫女が頷いて離れてゆくが、彼女の判子は止まらない。
その肉の味を味わった実体験から言うと、聞き込みという「説教」で治るとは俺は思ってはいない。
だが、始めない事にはこの国は情報戦において後手後手に回される。
そういう事なのだろう。
女の敵は女。
彼女達に負けられるはずがなかった。
「はい。
書類的にはこれで問題はありません。
これからよろしくお願いします。大尉」
判子を押し終わって、ヴァハ特務大尉に稟議書を返したオイフェ局長が俺にも声をかけた。
また判子を胸元にしまう姿が色っぽい。
「え?
自分は中尉のはずですが?」
俺が訂正の言葉を入れたら、オイフェ局長はやんわりと口を開いて言葉を返した。
「満州国軍に昇進で誘われたそうですね。
それを防ぐための昇進と考えてください。
それに、異世界で苦労するのですから、その前払いと考えていただけたらと。
では、失礼」
黒長耳族の巫女達を引き連れて、オイフェ局長が去ってゆく。
そのドライな考え方に俺も納得していたら、ヴァハ特務大尉が俺に声をかけた。
「とりあえず一週間後に迎えに来ますが、それまでどうしますか?」
俺は背伸びをしながら、気だるそうにこれからの予定をヴァハ特務大尉に伝える事にした。
「家に帰るさ」
あまり帰りたくも無い家ではあるが。




