昭和十七年三月二十一日 神戸港
先月、ソ連の冬季反攻がついに挫折し東部戦線がなんとか安定した。
これにはいくつかの理由がある。
第一に、極東軍を回せなかったソ連の兵力不足。
第二に、イギリス・アメリカのレンドリース途絶。
この状況下でのソ連の冬季反撃はモスクワ近辺から独逸軍を追い払うのみで息切れし、北方から逆撃をかけたソ連北西方面軍はスモンスク近郊で逆に突出部を中央軍集団に包囲され、大打撃を受ける。
そして、十二月以降異常な大寒波が北半球に到来。
ソ連軍すら戦う事のできぬ大寒波に双方休戦状態となり、特にアイスランド沖に腰をすえた大寒波は北大西洋を大荒れにし、イギリスからの援助ルートすら途絶。
イギリスの生命線である北大西洋航路すら船が出せぬ荒天状況でイギリスも青色吐息となり、ハワイのドラゴンによるアメリカレンドリースの途絶と共にソ連軍にボディブローのように打撃を与え続けた。
既に重包囲下で援軍の可能性もないレニングラードは「餓死か凍死か」の二択を迫られる羽目になり、ラドガ湖の脱出路上で凍死する市民が相次ぎ、モクスワからかろうじて独逸軍は追い払ったはいいがもはや予備兵力が枯渇しかけていた。
独逸軍もこの寒波で大打撃を受けたが、補給線の破綻状態から回復する為の時間が稼げ、戦線整理と共に予備兵力の抽出に成功していた。
その予備兵力の一部が、独逸アフリカ軍団なのだが。
独逸アフリカ軍団はトブルグ攻略戦の最中、シチリアに出現したドラゴンの為にイタリア軍が裏崩れを起こして攻略計画は頓挫。
英軍がドラゴンを気にして追撃を仕掛けてこなかったのは幸いである。
その後、私はベルリンに召還される。
責任を問われるかと思ったが、ソ連のことがあるので総統閣下の質問に私は堂々と答えた。
「貴官をアフリカから呼び戻した理由は分かっているな?」
「東部戦線以外無いと自認しておりますが?
総統閣下」
私の答えに満足したらしいが、同時に現状の困難さを認識したらしく、総統閣下はため息をついた。
「イタリア人と一緒に戦争をさせようとした私が間違っていた。
あの国の首相には武器支援で機嫌をとっておく。
どうせ、シチリアにドラゴンがいる限り、イギリスも手を出さないからな」
ドラゴンに手を出したアメリカがどんな目にあったかはベルリンにも届いていたらしい。
そして、そのドラゴンを手に入れた極東の同盟国のことも。
「後退した兵も順次再編に入っており、春には総統のお役に立てるかと思います」
私の発言に満足した総統閣下は大いに喜んで私の次の目的地を伝えたのだった。
「極東の同盟国が背後からソ連を殴るならば、勝利は間違いがない。
その為にも、躊躇っている彼らの背を押す必要があるのだ。
与えた三個師団の指揮権はそのまま貴官に与える。
華々しい活躍を期待する」
そこで一度言葉を区切って、広大な東部戦線の地図の中央にある街に目を向ける。
中央軍集団どころかソ連軍すら動けない史上空前の大寒波によって、膠着している目的地の名前を総統閣下は重々しく口にした。
「アフリカから撤退して、モスクワを落とせ」
と。
--第三帝国元帥の日記より抜粋--
長崎を出て翌日。神戸に到着。
やはり三日ほど停泊するので観光して船に戻るという日々なのだが、それに新たな習慣が加わる。
「九十九……百……百一……」
神戸は大陸から帰ってきた将兵で賑わっていた。
貨物船のほうも東南アジアの方から資源がやってきているらしい。
対米交渉は続けながらものらりくらりと言い逃れ、タイやスペインやトルコに作った法人を使って英国植民地やドイツへの輸出を再開し、戦時動員の解除を決定した結果である。
なお、ヴァハ特務大尉から聞いた話だが、現在の帝国の外交方針は定まっていないらしい。
竜のハワイ襲撃という日米関係の棚上げにより、その間に大陸から足抜けしたまでは良かった。
海軍が油を気にして対英交渉を突っ走り英国と手打ちをすれば、これ幸いと陸軍は宿敵ソ連打倒の為に兵を満州に集める。
これらは大本営が調整した訳ではなく、全て事後承諾で暴走した物だった。
それが黙認されたのは、英国とソ連同時に戦うだけの国力が在るわけないという冷酷な現実であり、どちらか戦うならばソ連だろうというだけでしかなかった。
更に、陸軍が即座に動かなかったのは冬という季節的な問題であり、春になればシベリアに攻め込む予定だったらしい。
それが北満州油田の発見で激変した。
はっきりと皆が思ったのだ。
「もしかして、俺達戦争しなくてもなんとか生けていけね?」
と。
こうなると、この国は動かない。
伊達に三百年引きこもりをしていた訳ではないのだ。
「我が第三帝国はコミュニスト達の冬将軍すら排除し、モスクワ陥落の為の準備を整えました。
これも、貴国が極東で睨みをきかせて、コミュニストどもを極東に縛り付けたおかげです。
コミュニストどもも最早風前の灯。
貴国の英雄達もコミュニストを滅ぼす戦争に参加してくださると、わが国としてはとても助かるのですが」
先に外相と会見した独逸大使が皮肉を言うのも無理が無い。
そして、救いが無いのがこうして大使が外相を問い詰めても、帝国意思決定そのものが無い現状において何も影響力がなかったという現実だったりするのだが。
そんな事をなんとなく思いながら、俺は素振りを続ける。
「二百九十九……三百っと……こりゃ便利だ」
マダムとヴァハ特務大尉が仲良くなった結果、夜も仲良く襲ってくるようになって、このまま搾り取られ続けると腹上死すると土下座した結果、ヴァハ特務大尉がくれた薬のおかげである。
彼女達の居た世界では、二階まで届くような化け物相手に戦わねばならないから、身体能力の一時的向上と、士気高揚の薬が売られていりする。
「薬って事は、副作用は?」
「高揚しすぎて、盛ります」
「うわ。何その媚薬」
という事で使ってみた結果、二人の攻撃を凌いで見事撃破したのはいいのだが、まだ高揚しているので甲板で買った虎徹で素振りをする訳で。
「ほう。
こんな場所で真剣を使って素振りをしている輩がいるのか」
声がかけられてその方を向くと、稽古儀姿の小柄な男が一人。
「邪魔したらすまなかった。
ちょっと滾っていてな。
こうやって鎮めている訳で」
高揚しているせいか、微妙に口調が荒くなる。
このあたりも薬の高揚のせいらしい。
「おや、大陸帰りか。
それは縁があるものだ。
俺も大陸の帰りでな。
大将の秘書みたいな事をして動き回っていたのよ」
その言葉に背筋に悪寒が走る。
はったりかもしれないが、大陸で大将なんてどう考えても陸軍関係者だ。
自分の知ってしまった暗部の活かし方は分からないが、それが表に出るのはまずいというのは俺にもわかる。
「何、おびえなくて結構。
今はただの武道を志す者として話をしているのみで、政など俺には分からんのでな」
快活に笑う自称武道家だが、まったくと言っていいほど隙がない。
士官学校で武道はやらされたが、実際に使ったかと言うと馬に乗った匪賊相手だったので、使った覚えは無い。
「それで、何か御用で?
邪魔でしたら場所を譲りますので」
高揚した気分も冷めて、下手に出てこの場を去ろうとするが、そうは問屋がおろさないらしい。
手を横に広げて俺の退路を塞ぐ。
「急かすな。急かすな。
ただ、お主の武がもったいないので口を出したまでのこと」
武がもったいない?
何を言っているのだろう。こいつ。
「まぁ、言っても分からんだろうな。
武を語るのは言葉では足りぬ。
その刀、俺に向けてみよ」
高揚していた自分の感情がこの武道家を前にすると恐怖に変わる。
打てない。斬れない。
隙が無い。
身体能力が向上していたはずなのに、恐怖を感じないよう高揚感に包まれていたはずなのに。
なるほど。
ヴァハ特務大尉が言っていた化け物というのが、この武道家を前にしてようやく分かった。
こんな薬を使っても勝てないぐらい強いという事が。
「どうした?
その刀は飾りか?」
とめどなく汗が流れる。
体が震えるが足が動かない。
そして、意を決して刀を振るおうとして……
「まいった」
潔く土下座した。
まったく勝てる気がしなかった。
その土下座を見た武道家が気持ちよく笑う。
「いいぞいいぞ。
見所がある。
ほら、そこの嬢ちゃんも隠れとらんで出て来い」
え?
武道家の声の先に俺と同じように汗だらだら、顔真っ青のヴァハ特務大尉が出てきた。
というか、いつから居たんだ?彼女は?
「何だ。
気づかなかったのか?
俺が声をかけた時にはもうそこで見ていたぞ」
楽しそうに笑う武道家と対比するようにこちら側は真っ青。
大陸で無双の働きをした黒長耳族相手に、それをへこまして見せたのだから。
こいつが刺客だったら、俺の命は無いだろう。
「一つよろしいですか?
あなたはこの人に『見所がある』とおっしゃいましたが、彼はついにその刀を打ち込む事ができませんでした。
どこに見所があったのでしょうか?」
俺も気になっていたそれを、ヴァハ特務大尉は口に出し、武道家が楽しそうに笑う。
「決まっているじゃないか。
最も強い技、『自分を殺しに来た相手と友達になる』をやって見せたのだからな!
気に入った。
俺も横浜まで乗る身なのだが、その間で良かったら稽古をつけてやる。
だから、未熟なうちはその薬はやめとけ。
恐怖が分からんようじゃ、長生きはできんぞ」
快活に笑いながら、去ってゆく武道家を俺達は呆然と見送る事しかできなかった。
「あんな人、この世界にもいるんですね……」
ヴァハ特務大尉の声を聞きながら、俺は立ち上がる。
ふと気になった事を彼女に尋ねた。
「なぁ、あんな人も向こうの世界にいるという事らしいが、向こうの世界じゃあんな奴のことを何ていうんだ?」
ヴァハ特務大尉は少し顔をこわばらせながらその名前を口にした。
「竜と戦いし者。
『勇者』と」




