1 追いかけて
お隣に住んでいる幼馴染のお兄ちゃんは、私の憧れの人です。
私より一つ年上で、童顔だけれど、とても整った顔をしています。
くりっとした大きな瞳。空気を含んだような軽やかで、ふんわり柔らかな質感・雰囲気のヘアスタイル。エアリーヘアです。いつも見惚れてしまいます。口元もあどけない感じです。
そんなお兄ちゃん──桜野栄太お兄ちゃんに、小さい頃から纏わりついていました。栄太お兄ちゃんはすごく優しくて、いつも遊んでくれました。
「栄太お兄ちゃん。今日も遊んで?」
「いいよ。じゃあ、公子ちゃんにピアノを弾いてあげようか」
栄太お兄ちゃんはピアノが上手です。今日はポップな感じで『トルコ行進曲』を弾いてくれました。私はそれに合わせて踊ってしまいました。
「公子ちゃんは弾かないの?」
私の家にはピアノはないけれど、キーボードがあります。試しにバイエルの中の『アマリリス』を弾いてみました。
「上手じゃないか、公子ちゃん」
「私には、鍵盤が重い……」
キーボードよりもピアノの方が、とても鍵盤が重いのです。褒めてもらえましたが、これ以上は弾けません。
栄太お兄ちゃんは音楽が好きで、小学校の音楽クラブに入りました。フルートを選びました。
翌年の小学四年生になったとき、栄太お兄ちゃんと同じ音楽クラブに私も入りました。
ただ不器用な私には、フルートのキー装置は多すぎて無理そうです。優しい音色のホルンを選びました。
ホルンのキーは少ないですが、その分、唇の震わせ方で音を変えます。音域も広くて、とても難しいです。でも頑張って練習しました。
「公子ちゃんは、ホルン頑張っているね。今度一緒に吹こうね」
栄太お兄ちゃんが、嬉しい約束をしてくれました。
♦ ♦ ♦
私は中学でも栄太お兄ちゃんを追いかけて、ブラスバンドの部活に入りました。
文化部ですが、結構体力勝負です。朝練の前に、校庭を十周走ったり、腹筋運動などをします。
ブラスバンドでは栄太お兄ちゃんに──もう恥ずかしいから『桜野先輩』にしてくれ、と言われました。『先輩』呼びなんて何だか他人行儀です。私は勝手に、栄太くんと呼びました。『栄太くん』でも何も言われなかったので続行中です。
難しいけれど『キャンディード序曲』が演奏したかったので、私が二年生のときに希望を出しました。
「『キャンディード』? またテンポの速い曲を選んだね」
「だって栄太くんの木管演奏聴きたいんだもん」
後日、希望が通って『キャンディード序曲』を皆で演奏しました。ものすごくテンポが速い木管演奏を、栄太くんは軽々吹いていました。とっても格好良かったです。また私のリクエストを聞いて欲しいです。
高校も栄太くんを追って入学しました。かなり私にとったら難関の高校でしたが、猛勉強して合格しました。
その代わり、授業についていくのがしんどいです。もともと理数系は苦手です。問題を当てられそうになると、眠った振りをしてやりすごしています。数学は人生の中で最大の謎です。生物や地学も謎に満ち溢れています。
高校ではブラスバンド部はなく、オーケストラの部活でした。オケ部です。ホルン吹きとしては嬉しいです。ブラスバンドの曲よりオケの曲の方が、ホルンが目立つ部分などが多いからです。
オケ部の中ではホルンパートの人が、私以外三人しかいませんでした。去年、皆卒業してしまったそうです。
「五十嵐公子です。お願いします」
五十嵐は私の苗字です。ホルンのパートリーダーの白砂先輩は、微笑んで歓迎してくれました。
白砂先輩は、女優さんのような華のある美人な女性です。
「ホルン経験者が来てくれて嬉しいわ。全員で四人しかいないから、五十嵐さんにも頑張ってもらわないとね」
ホルンパートは、4パートある曲も多いです。四人でぎりぎりです。
割と1st、3rdが、高い音で目立ちます。2nd、4thが、低い音で曲を支えます。
ここのパートは、白砂先輩以外、高校からの初心者の先輩ばかりのようです。早速、ヘンデルの『水上の音楽』の、3rdの楽譜を渡されました。
「ちょ、ちょっと待ってください。私はオケの初心者です」
慌てる私に、白砂先輩は笑いました。
「内々の合奏だから。五十嵐さんの実力を聴かせてもらいましょう」
押し切られてしまって、仕方なく私は譜面の書き換えをしました。
ホルンは基本F音がドの音です。栄太くんが吹いているフルートはC管楽器で、Cの音がドの音です。ピアノと同じで、CDEFで、ドレミファです。
ホルンの譜面はどうしてF音がドで書かれていないのでしょうか。B♭がドの音だったり、Dがドの音だったり、E♭がドの音で書かれていたりするのです。ホルン以外も、書き換えが大変そうなパートもありますが。
「公子ちゃんならば出来るよ」
栄太くんがにこにこして、そう言いました。まるで天使の笑顔です。昔からずっと優しいです。
「じゃあ、栄太くん。私が『水上の音楽』を上手に吹けたら、お願いを聞いてね」
「お願い?」
栄太くんは首を傾げました。私は深く頷きました。
「お願い、だよ。約束」
私はホルンを左脇に抱えて、栄太くんと指切りをしました。
何故か栄太くんは、頬を赤く染めていました。