まるで物語のような
珍しく待っている客がいない、カラオケのフロント。
「――おひとり様ですか?」
店員さん、目大丈夫ですか?私の近くに誰か見えるとでも。
「ええ、おひとり様です。フリータイムでお願いします」
ケータイの会員証を出して最上級の笑顔で言う。
前に友達に“キレると笑顔になるよね”って言われたのを思い出した。確かにそうかも。
小さいバインダーに挟まった部屋番号を貰い、目指すは3階の302号室。
これからフリータイムが終わるまで7時間、喉が潰れても歌ってやろうじゃんか。
「消え去れ、あの男、ブルドーザーに轢かれろ、カラスに脳みそ食われろ、全身にハバネロ塗って悶え死ね」
呪いの言葉を吐き出しながらエレベーターを待つ。
その間に鞄からケータイを引きずり出して誰からもメールがないことにがっかりして、また元に戻す。
……一応ここで弁解、っていうか言い訳したい。
私はカラオケ好きだけどいつも独りでカラオケに来てるわけでもない。
いつも遊んでくれる友達がいないわけでもない。
もちろん、いつもこんな罵詈雑言を吐き散らしながら歩いてるわけでもない。
――私、高瀬梨代子は、彼氏にフラれました。たった5分前に。
記念日のデートで待ち合わせしてたら、いきなり。
しかも電話で。通話時間たったの21秒で。
『もったいぶってヤらせねぇ女とかうぜぇんだよ。ガキくせぇし、お前と付き合ってても何もいいことねぇわ』
それが最後に聞いたあの人の言葉。
古臭いながらもずっと大事にしてきた処女。簡単にほいほいあげたくなくて待たせたよ。
でも“この人なら”って、やっと思えたのに。
「生きた化石がいてもいいじゃん、ていうか記念日だからって思ったのに、ヤれなきゃポイってどういうこと、はげろ、永眠しろ」
「おーい」
「こんな時に限って誰とも連絡つかないし、おひとり様だし、夜は絶対誰か捕まえて飲んでやる、ビールにハイボールに熱燗に芋ロック、明日希望休出してよかった」
「オネーサン」
「カッツォ、ヴァッファンクーロ、ケ・バッレ、ストロンツォ、ヴァカガーレ」
「それ何かの呪文?」
え?
「魔物でも呼び出してんの?」
「え、あの……」
柔らかくて甘い声に振り返って、続ける言葉を失った。
モノトーンでシンプルなのにセンスのいい服を完璧に着こなしてる、長身足長なモデル体型。
さらっさらのアッシュブラウンの髪を片耳だけかけて、ルーズリーフ級に穴が開きまくってる耳にたくさんのピアス。
色素の薄い綺麗な目に長いまつげ、柔らかく笑ってる唇、すっとした高い鼻。甘い甘い、ハニーフェイス。
王子様だ。馬鹿みたいだけど本気でそう思った。
顔だけじゃない、全部が全部整ってる。私の人生で最高レベルの……ううん、今まで見てきた男の人の中で、絶対一番だ。
すごく、綺麗。女の子の夢を全部集めたみたいな……本当にいるんだ、こういう人。
呆然としてる私を見て、一瞬くらっときそうな笑顔を振りまいてくる……全く初対面の人。
誰、この人。何で私に声なんかかけてきたの?
「落としましたヨ、オネーサン」
これまた綺麗な手から渡された“モノ”を見て、一気に顔が険しくなったのが自分でもわかった。
ケータイについてたストラップの一部。さっき引きちぎった、彼氏とお揃いの……
「……す、みません」
捨てよう。ていうかさっき捨てればよかったんだ。何で未練がましく鞄なんかに入れたんだろう。
……“何で”なんて、わかってるのに。馬鹿な私。
未練がましいのは当たり前。だって、フラれたんだもん。未練あるもん。
――ちゃんと、好きだったのに。
いい雰囲気になっても最後までできなくて尻込みしちゃって、それでも笑って“待つよ”って言ってくれたのに。
一緒にいて楽しかったし、手つなげば幸せだったし、キスする時はいつもどきどきしたし……
……こういうのがガキくさいって思われてたんだよね。
社会人らしく、って年相応に大人ぶっても結局は駄目なんだ。中身が恋に恋してる女の子のまんまなんだから。
初恋の時からずっと変わらない。
いつまでも私だけを見てくれる王子様を探してる。現実で夢の存在を追いかけてる。
馬鹿なんだよね。自分でわかってるのに、変えられない根底が苦しい。つらい。
ため息をついた私を覗き込むみたいに、目の前の人が屈む。
「――りよチャン?」
「っ?!」
な、何で名前知って……あ、これか。
ストラップに彫ってある名前をできるだけ見ないようにして、何度か深呼吸する。
今の気持ちを傷にして残したくない。歌って発散させて吹っ飛ばしたい。
「かぁいい名前」
目の前の綺麗な笑顔に、何だかすごくイライラする。
何がおかしいんだろ。私は全く楽しくない気持ちでいっぱいだっていうのに。
「違います」
「じゃあかいチャン?」
「っ、それも違います」
何なの、この人。
へらへら笑って人の名前馴れ馴れしく呼んで来たり、色々と失礼過ぎない?
傷をえぐるようなことばっかり言わないで。何も知らないからって許されるわけじゃないよ、そういうの。
とんでもなく綺麗な人だけど……変な人、嫌な人。できればもう関わり合いになりたくない。
上の階で人を拾ってきたエレベーターがようやく1階に来る。
出てきた人たちの邪魔にならないように端っこに寄って。
「拾ってくれて、ありがとうございます。じゃあ」
それだけ言って乗り込んで、さっさと『閉』ボタンを押――せなかった。
「りよチャン、全然嬉しくないのに“ありがとう”は言っちゃダメだよ?」
「そん、なの……」
“あんたに関係ない”、そう言う前にドアが閉まった。
何なの、この人。
意味わかんない。初対面なのに馴れ馴れしいし、失礼だし、大体私は“りよ”って名前じゃ――
掴まれた左肩が、やけに熱い。
「……はなして」
「かぁいいのに冷たい」
「何……あんたに関係ないでしょ?!」
つい喧嘩腰になるけど、元々この人が私に喧嘩を売ってきたようなもんだ。
なら買ってやるのが筋でしょ……買ったことも売ったこともないけど、そんな物騒なもの。
「りよチャン怒ってもかぁいいけど、泣きそうなのはやだ」
「はぁ?!」
泣いてない。泣きそうには、なったけど。
ていうかさっきから“かぁいいかぁいい”ってうるさい!
傷心でそれどころじゃなくてもあんたみたいなド美形に連呼されたら照れるんだってば……!
「……、泣いてないけど。頭どうかしたの?」
「俺の胸でよければ貸しますヨ」
何、この宇宙人……言葉が通じてない。
自分のペースが崩される。悲しむ暇もないくらい、意味のわからなさで頭がいっぱいになる。
どうしよう。何で私、こんな未知の生物と一緒にエレベーターなんか乗っちゃったんだろ。
早く着かないかな、今何階……って私ボタン押してない!
「りよチャン3階?俺と一緒」
「……」
「運命だねー」
この外見じゃなきゃ確実に店員呼ばれて警察行きだと思う、この人。
ていうかこの人もひとりでカラオケ?……ううん、きっと友達か彼女が先入ってるんだ。結構軽そうだし、ただ女の子と遊ぶのかも。
喋るのに疲れて、黙って壁に寄り掛かる。
向こうが凝視してきても無視無視。
私のと違う、甘い香水がほんのちょっとだけ漂ってくる。そんな微妙な空間。
……何で私にこんなに絡んでくるんだろ。私そんな興味そそられるような存在じゃないと思うけど。子どもっぽいし、平凡だし。
ポーン……
『3』のランプが点滅する。
やっと解放される。そう思った瞬間だった。
「りよチャン」
「だか、――んぅ?!」
何、で……
どうして、私はキスされてるの?
意味わかんない。ひどい。あったかい。変だ。おかしい。頭、ぐらぐらする……
「んん、っ……やっ」
「――……」
なに、何か、言って……
おかしいよこんなの。
でも、もう頭がうまく動かない。
キスって、こんなのじゃない、はずなのに……
抵抗する力もなくなってきて、膝ががくがくしてきて。
そんな中、唐突にその感触が離れていった。
「はぁ、っは……」
息、やっとできた……
ぐったりした私を中に残して、全ての元凶は悠々とエレベーターを降りる。
振り返って、この凶行というか一から十まで意味不明すぎる行動について何か言うのかと思いきや。
「りよチャン、すげー綺麗」
壮絶な色気、いやフェロモンをまき散らして、そう言い残した。
意味、わかんない。
何で、どうして。頭の中はそればっかりのオンパレード大行進。
その中でも最大の謎は、
フラれた悲しみに浸る余裕もないくらい、どきどきしてる私自身だった。
× × ×
「――で、その強烈な電波王子が部屋に入ってくるかもしれないから30分の料金だけ払って逃げてきた、と」
「だって意味わかんないんだもん意味わかんないんだもん!」
何とか部屋に入ってぼーっとしてたけど、よくよく考えたら何か怖くなって逃げるように後にしたカラオケ店。
やっと捕まった親友を連れ回して買い物してカラオケの代わりにストレス発散して、やってきた安いチェーン店の居酒屋でジョッキ片手に今日一日のアクシデントをずらっと並べていく。
「梨代子ってほんっと、何か……」
「何」
「おもしろおかしい人生送ってるよね」
「ぜんっっっぜん、うれしくないぃ……」
「彼氏のことはさ、言っちゃ悪いけど大体いつもと同じパターンじゃん?んで同時期に変なのに好かれるのもいつもと同じパターン」
確かに。
ここまでひどいのは初めてだけど高確率で体の関係でモメて別れるし、言われてみれば傷心の時期に次の彼氏候補みたいな人が現れる……大体変わった人が多いし。
さすが真琴、中学からの付き合いは伊達じゃない。
「でも今回、いつもより落ち込んでないね」
「……色々と頭が混乱してて落ち込む暇がないっていうか」
一瞬にして朝からの記憶がフラッシュバック……は、しなくて、カラオケに入ったところからの数分の記憶が強烈過ぎて、そこだけ何度も何度もリピートされる。
あんな綺麗な顔して、あ、あんなキス……
「うひゃああぁ!!」
「あーはいはい落ち着いて。別に初めてでもないでしょうが」
「あああああんなの今までなかったもん!!」
立っていられなかった。何か、食べられちゃうような感じがしてちょっと怖かった。
……っていうか、何で受け入れちゃったの、私。
絶対頭がおかしくなってたとしか思えない。あのフェロモンにあてられたんだ。
「真琴ピンポンして」
「ピンポンってあんた……はいはい」
悪かったですね、子どもみたいな言い方して。
やってきた店員さんに甘いカクテルじゃなくて焼酎のロックを頼む。
どこの居酒屋に入っても微妙にびっくりされるのにももう慣れた。外見からして甘いお酒しか飲みませんって感じなのは自分でもわかってる。
ちらっと向かいを見て、ため息。
上品なブラウンのショートヘアに隙ナシばっちりなメイク。着てるもののセンスもいいし、背だって高くてモデルさんみたいだし顔は文句なしの美人さん。
綺麗な真琴。どこからどうみても大人の女の人。
それに比べて貧相な私。背は150前半だし、顔は子どもっぽいし、髪は猫っ毛で傷みやすいからいじれないし……はぁ。こんなんじゃ大人のお付き合いなんてできないの当然なのかなぁ。
「私、綺麗な美人になりたかった」
「は?そんだけ可愛く生まれといて何言ってんのあんた。喧嘩売ってんの?」
「い、いえ……」
今本気で凄みませんでしたか?真琴さん……
「おっきなうるうるの目!ふぁさふぁさなまつ毛!ぷるぷるの唇!毛穴どこって感じの肌!ふわっふわの髪!まさに男が全身全霊かけて守りたいって思えるお姫様タイプのくせに!あーもー梨代子マジ卑屈!マジ高望み!マジ馬鹿!」
「ちょ、落ち着いて……」
「“真琴は俺なんかに守ってもらわなくても平気なんだよね”とか言われたあたしはどうすりゃいいの?!男なんだから本能的に女守れよ!つーかマジでブッ殺すあの男ぉ!ちょっとオニーサン生ひとつ追加!」
「か、かしこまりましたっ」
あ、荒れてる……
ていうか別れたのかな、まだ付き合って2週間くらいじゃなかったっけ……?
「梨代子、閉店まで飲むよ」
「え、明日講義は?」
「午後から!ほら飲め!」
「ちょ、待って一気はきつい!」
今日は真琴の家に泊まることになるんだろうな、とか思いながらちょうどよく来た焼酎をあおる。
何食べても何飲んでもどれだけ話しても、やっぱりあの感触と笑顔だけは忘れられそうになかった。
× × ×
「高瀬さん、今日これから飲みに行くんだけどどう?」
「すみません、ちょっとこれ片さなきゃいけないので……」
“せっかく誘っていただいたのに”って続けると、残念そうに帰っていく……三好さん?ん?三島さん?三橋さんだったかな……
入社して半年近く経つけど人の顔と名前が未だに一致しない。
同じ部署の人はいい加減覚えたけど、あの人はフロアが一緒なだけで違う部署の人だ。
わざわざこっちに来て声かけてくれたのにごめんなさい。
でもあんまり大人数で飲むのとか好きじゃないんです。何度か話したけど仲が良いわけでもないし。
「ていうか、何で私?」
そんなひとりで寂しそうに見えた?うわぁ、やだなぁ……そんなにわかりやすいのかな、私。
ちゃんと職場でも友達っぽい人いるのに。今日は彼氏とのデートがあるからってきっかり定時に帰ったけど。
「はぁ……」
元カレと別れて10日。
……あの人と会って、10日経った。
馬鹿みたいに視線が彼を捜す。
通勤の電車でも、あのカラオケ近くの通りでも。
仕事が思ったように進まない。
気づいたら手が止まってて、あの日にトリップしてる。
この行動が何の前兆なのか、私は知ってる。
今回よりずっと軽いけど、似たようなことがたまにあるから。
「……前兆?」
“前兆”なんかじゃない。きっともう始まってる。
名前すら知らない人なのに、言葉が通じない宇宙人なのに。
――いつもみたいに、恋に恋してるんじゃないかって何度も自問自答した。
でもやっぱりこのどきどきは消えてくれなかった。
思い出すだけで、体のどこかがぎゅうぅってなる。何だか痛いくらいに。そこは今までと違うかな。
普通に考えたら絶対おかしいことされたのに、びっくりしたけど、全然、嫌なんて思えなくて。
あの時間もあの空気も、全部覚えてる。
掴まれた肩がまた熱くなった気がする。細いのにやっぱり男の人だって感じがして。
あ、あのキスだって、何か、どうしても忘れられなくて……
「うきゃあぁ……!」
「高瀬さん。
それ週明けでも余裕で間に合う仕事だし、今日は帰っても大丈夫よ?」
…………あ。
残業してた先輩が苦笑してるのを見て、もちろん平謝りするしかなかった。
「す、すみませんお仕事の邪魔をしてしまって!」
「別に邪魔になってないから平気よ。おもしろいなぁとは思ったけど」
「うぅっ……」
恥ずかしい。
職場でこんなことばっか考えてて、全然進まないし、むしろ妨害しちゃってるし。
「高瀬さん、三木に何かされたら私に言ってね」
「え?」
「あの節操なし、一応同期だから。ったく、こんな可愛い子狙うなんて……身の程知らずよね」
あれ、何かちょっと真琴に似てる。
真琴の方がきつい感じだけど、かっこよくて美人なとことか、雰囲気とか。
ていうか三木さんだったんだ、あの人。ちょっと惜しい。“三”がつく名前だったのは覚えてたんだけどなぁ。
「……先輩。仕事とは全然関係ない…本当に唐突な私事なんですが、ひとつ質問してもいいですか?」
気づいたらそんな言葉がこぼれた。
「どうぞ。役に立つかはわからないけどね」
真琴より更に大人な女の人の、余裕のある笑顔。
仕事もできて、リーダーシップもとれて、素敵な先輩。
こんな人になれたらいいな、と思うけどきっと私はなれない。
私とは全然違う人だから、なおさら聞いてみたくなった。
「恋に恋するのと、その人自身に恋するの、はっきりとした違いってどこだと思いますか?」
こんなことをいきなり人に、しかも先輩に聞くなんてどうかしてる。
なのに取り消そうともせずに答えを待ってしまう自分がいる。
「そうねぇ、あんまり考えたことなかったけど……」
上品なネイルが塗られた先輩の指がデスクを2回叩く。
「綺麗か汚いか、はちょっと嫌な表現よね。
んー……つらいかどうか、かしら。後者は涙が出る。嬉しくても悲しくてもね。それが一番違うと思うわ」
つらい。泣きたくなる。
だったら、この胸の痛みはきっと――
× × ×
「真琴、着いたよー」
『ごめん、研究棟の方のカフェテリアにいて。あと10分くらい』
「はぁい」
大学を卒業してそのまま院に進んだ真琴と、一般企業に就職した私。
卒業したくせにちょくちょく遊びに来ちゃうのは、真琴に会うためもあるけど、未だに社会人になりきれてないせいかもしれない。
定時きっかりに上がった今日も、金土またいで真琴のとこに泊まりに来たついでに大学に顔出したとかいう。自分で言うのも何だけど……私、ほんとに真琴好きだなぁ。
夕方のキャンパスを歩いてみても、みんな見たことのない顔。
タメ以外に知り合いあんまりいないんだよね。サークルは3年になってすぐ辞めて疎遠になっちゃったし、ゼミの後輩くらい……名前と顔、一致するかなぁ。
教授とはこの前お茶したばっかり。仲良くなった講師の先生は講義の時以外は別の大学にいる。
結果、暇。
カフェテリアでココアを買って、外の席に座る。
この気温ならまだ過ごしやすいし、中はちょっとうるさいから。
通りかかる人たちを眺めながら、ぼんやり考えるのはやっぱりあの人のこと。
似たような髪の色、似たような背格好の人を見るだけで何だか苦しくなる。
あの日から、どんどん悪化してる気がする。
今まではこんなことなかった。ただ楽しくてどきどきした。
苦しいのなんか別れる時だけ。それも何日かすれば治まった。
会えたら、少しは楽になるのかな?
わかんない。これが先輩の言ってたこと?
「名前……」
知りたいな。きっと顔に負けないくらい綺麗な名前なんだろうな。
「やばい!来たよ来たよ城戸クンと叶クン!」
「やっぱかっこいい~!え、嘘、今日天音くんいんじゃん!ラッキー!」
隣りのテーブルにいた女の子たちが内緒話になってない内緒話をする。
さっきまで普通に話してたはずなのに、この会話はやけに耳に入ってくる。
何かこういうの見ると、若いなぁって感じがする。私より大人っぽいのに中身が若い。1年生とか2年生かな。
「3人揃うと何か圧倒される~……」
「そういや聞いた?城戸クン彼女8人いるって」
「えーマジぃ?でもあんだけかっこいいなら許せるかも」
「だよねぇ。つーか何か天音クンも似た感じかもって聞いたんだけど…」
「え?ちょっとショック……あんな王子様系でそれって。まさか叶クンも?」
「ないない!見るからにないっしょ」
……、最近の大学生って。私も半年前まで大学生だったけど、こんなアレじゃなかったよ?
ていうかそんな興奮するほどかっこいい人、うちの大学にいたかなぁ。
まぁこの大学人多いし、私があんまり周りの人のこと見てなかったからかもしれない。
どの辺にいるのかわからないけど、噂の3人を視線で探すのも何だかミーハーな気がして、通勤の時に読んでる本を取り出す。
本は何でも読むけど、最近の読みやすい文章よりちょっととっつきにくい文章の方が好き。
今読んでるのは大好きな作家さんお得意の架空歴史小説で、戦乱の波に呑まれながら運命に逆らおうとしている男女を中心に物語が進んでいく。
切なくて、苦くて、どこまでも強く美しい文章。思わずため息が出る。
「それ、いい話だよね。その人の本の中でも特に生きてるって感じがする」
「そうなの、場面の描写だけで心情まで痛いくらい伝わってきて」
「ディートリヒが全軍に向かって鼓舞するとこ、すげー好き」
「わかる!私はアマーリエがライナーのところに向かって森を駆ける場面、が……」
――さっきから私、誰と話してるの?
顔が上げられない。上げなきゃいけないのはわかってるんだけど、無理。
だって、この声、聞き覚えがある。
忘れるわけない、この甘い香りも全部覚えてる。
やばい。何だか泣きそう。
「こんにちはーりよチャン」
ちょっと緩い感じの、独特の口調。
たった数分、そんな短い時間を共有しただけ。
それなのに、どうしてこんなに会いたかったんだろう。
「……私、“りよ”って名前じゃありません」
「んじゃ自己紹介しよっか。俺、天音司。つかさチャンって呼んでね」
「……、高瀬梨代子です。高瀬って呼んでください。私もそうしますので」
喋れないと思ったのに言葉はするする出ていく……嫌な感じに。
何でこんなに悪い態度しかとれないの私っ!ていうかやっぱりやたら名前綺麗だしっ!
「……司」
「あ?いたの久人」
「いるに決まってるだろう。どれだけ都合のいい頭の造りをしてるんだ、お前は」
………顔を上げるタイミング、完全に失った……
頭上でごちゃごちゃ話してるのを気にしないで本を読み続ける度胸もない私は、そのまま固まることしかできない。
どうしよう、どうしよう。
でも顔見て普通に話せる自信なんかないよぉ。
頭がぐるぐるする。真琴早く来てくれないかな……
「なぁ、俺と付き合わねぇ?」
「…………は?」
ぱっと顔を上げて、予想以上に近くにあった顔に椅子ごと後ずさる。
近っ!え、誰、誰?!何この人?!
目の前にいたのは真っ赤な髪をツンツンに立てて、ピアスとか指輪とかアクセサリーをじゃらじゃらつけた、結構チャラい感じの人。
でも顔とかはかなりかっこいい。天音、さんとはタイプが違って、ちょっと野性的?ワイルド系?何かそんな感じ。
…………さっきの幻聴かな。何か、“付き合う”とかそんな言葉が聞こえた気がしたんだけど。
「ねー晴昭、どんな風に死にたい?」
「ちょ、挨拶だよアイサツ!可愛い子見たら言うだろ普通!な、久人?」
「言わない。お前の異様な頭と一括りにするな」
……うん。誰が“城戸さん”なのかわかった。天音さんに城戸さん、っていうことはこの人が叶さんか。
黒髪黒縁メガネの、いかにも頭のよさそうな顔。でもやっぱり当然のように美形。クールビューティーみたいな。
何でこんなに系統が違うのに一緒にいるんだろ、この人たち。
「高瀬先輩、ですよね。去年卒業された」
「ふぇ?!は、はいっ」
「りよチャン、かーぁいー」
「すみません。この馬鹿共、全く言葉遣いがなってなくて」
「い、いえ、大丈夫、ですけど……あの、ごめんなさい、どこかでお話しました?」
「いえ、ほぼ初対面です。以前文芸サークルに入ってらっしゃいましたよね。入れ違いに近い形になりましたけれど」
「ああ、それで……」
「ココア飲んでんの?かぁいい、りよチャン」
っうるさいなぁ!必死であんたを視界に入れないようにしてるんだから黙っててよ!!
目が合ったりなんかしたら絶対顔真っ赤になる自信ある。声だって震えないようにするのが精いっぱい。
やっと泣きそうなのが治まってきたのに……なんて厄介なんだろ。
会ったらもっと重症化した。もっと苦しくなった。
先輩が言ってたことってこれなんだね。
私、この人に恋してるんだ。
「司、お前は鬱陶しい」
「ぶっ!ひゃっひゃっ!ご愁傷~」
「お前は騒々しいし存在が下品だ、晴昭」
「俺一言だったけど晴昭二言言われたね」
「……だから何だってんだよチクショウ!」
…………あのさ、浸らせてよ、少しくらい。
恋に恋してない状態なの、はじめてなんだから。
その相手目の前にしてアレだけど。でも何か恋愛モードの雰囲気とか根こそぎ奪ってくのやめて。
間抜けな会話で心臓を落ち着けることができるのだけは感謝したいけど。
『~♪~~♪~』
少し前に流行ったアーティストの曲。
流れてるのは、私の手元、テーブルの端から。
ぱっと3人がこっちを振り向く。
慌てて天音さんと目が合わないように逸らしてなんとかセーフ。ていうか向こう年下なら“さん”より“くん”だよね、うん。
「ごめんなさい、電話出ますね」
「どーぞどーぞ」
あんたには言ってない!やめて声かけないで心臓休憩中だから!
あの一瞬くらっときそうな笑顔を直視してたら……今頃私は顔を真っ赤にして走り出してるだろうなぁ。
「もしもしっ」
『――梨代子、ごめん普通に待たせてて』
「大丈夫だよ。真琴のためなら半日待ったって平気だもん」
『あははっ……って、実際半日待たせたのはあんたでしょうが』
「うぇ、まだ覚えて――」
ぞくりと、冷たいものに包まれたような気がした。
やっと向けた視線の先に見えたのは、作り物みたいに綺麗な顔。
はじめて見た、笑顔以外の天音くん。表情がないと、すごく怖い。人間じゃないみたい。
やだ。何でそんな顔するの。笑ってよ、やだよ、天音くん。
「っ、」
たぶん、あとちょっとで泣く。
それがくる前に、天音くんと視線が合わさる。
少しだけ見開いた綺麗な目がさっきはガラスみたいに見えたのに、一瞬で命を吹き込まれたみたいにきらきらして。
「りよチャン、ココアちょーだい?」
頷けば彼が笑う。
笑ってくれるならいくらだってあげるよ。
何だってしてあげたい。
今度は嬉しくて、また泣きたくなった。
『梨代子?どしたの』
「あ……ううん、何でもない。そっち終わりそう?」
声が変にならないように頑張った。
真琴にはバレてるかもしれないけど、特に何も言われなかった。
『それがねぇ……あたし若本と組んで資料作ってんだけどさ、あいつ遅刻してやがんだよね。あとは合わせて人数分刷れば終わりだってのに……!』
「あれ、私さっき若本くん見たよ?」
『はぁあ?!いつ、どこで、何してたあのボンクラ!!』
「えーと、真琴に電話するちょっと前に……そこのコンビニで」
『あンの野郎……ブッ殺す』
「女王様が怖くて脱走したのかもね」
『……梨代子?』
「すみませんでした真琴さんは素敵に無敵なレディです」
電話口なのについ頭を下げる私って、間抜け。
ちらっとテーブルを見るといつの間にか丸いテーブルを囲むように全員が着席してる。
あれ、さっきまで座ってたの天音くんだけだったのに……
ていうか、物凄く、居心地悪い。
3人がじっとこっちを見てるのももちろんだけど、周りの視線が怖いくらいすごい。
隣りのテーブルの女の子2人組も……何か、“射殺すぞ!”って感じの視線だし。
私みたいに子どもっぽい女がこんな人気のある人たちと同じテーブルにいるってことがよっぽど気に入らないのかな。
ひとりでいる時は本読んだり自分の世界に入ってるから周りなんか気にならないんだけど、こういう時はちょっとつらい。
真琴といても結構見られること多かったなぁ。真琴美人だし、私は引き立て役にもなれないお子様だし。
『まぁ、そういう訳で若本とっ捕まえて仕事押し付けるまでもうちょい待ってて』
「え?刷るの全部若本くん?」
『当たり前でしょ。あたしとの約束をすっぽかして何のお咎めもないと思ってんの?』
「……鞭で叩くのはやめてあげてね」
『あんたがあたしをどう思ってんのか、今夜じっくり語ってもらおうか』
「やーん!痛いのいやー」
『どんなプレイだ。あ、若本来やがった……あと5分以内にそっち行くわ』
「んー」
早めにお願いします、真琴さん。
これ、針のむしろよりひどいよ。
携帯を閉じて、何を言おうか迷う。
な、何か周りがやけに静かなんだけど……
「りよチャン」
「は、はい?」
「痛いの嫌なら気持ちいのは好き?」
ゴッ、
叶くんの教育的指導みたいなものが飛んできたのは、当然だと思う。
私、別にそういう関係の話に疎いわけじゃないもん。何言われたかくらいわかる。
天音くん、やっぱり軽い人なんだ……
そうだよね、女の子たちもそんな感じのこと言ってたもんね。
初対面で思ってたことだから予想よりダメージは少なかった。少なかっただけで、0だったわけじゃないけど。
……よく考えたら、私初対面であんなキスされたのにこんな普通に話してて、遊び慣れてますよって見える……?
どうしよう、違うのに。誰でも平気なんじゃなくて、天音くんだから平気だったのに。今こうして話してられるのに。
これ、今伝えたらおかしい、よね。絶対。またタイミング逃した……馬鹿、私。
「司お前何聞いてんだよ」
「そうだ。意外とまともなこと言えるな、晴昭」
「気持ちいいの嫌いな女の子いるわけねぇだろうが」
「…………」
ゴッ!
あ、さっきより痛そう。
「……高瀬先輩、待ち合わせですか?」
「あ、はい。院生の友達と。あの、叶くんたちは講義大丈夫なんですか?」
ずっと気になってたんだけど、今講義時間内だよね。私が大学着いた時はちょうど休み時間の終わり時だったし。
高校みたいにみんなが講義出てるわけじゃないのはわかるんだけど……ちょっとこれは人が多過ぎじゃないかと思う。しかもこの時間ならみんな帰り時のはずなのに。
この3人がやたらめったらかっこいいからみんな注目しちゃうんだ。3人揃うの珍しいらしいし。
「ああ、俺たち全員、今日はもう講義取ってないので」
「そう、ですか」
天音くんに会えたのは嬉しい。それは嘘じゃない。
でもこんな風に色んな人に見られながら話なんてできない。すごく、息苦しい。
だから正直、早くここを離れたい。
この大学に天音くんがいるってわかっただけでも大収穫だ。頑張って探せば構内のどこかで会える。
今日は不意打ち過ぎたから、もうちょっと心臓落ち着けてから改めて会いたいな。だってこれじゃどう考えてもまともな会話なんかできないよ。
「じ、じゃあ私はこれで失礼しますね」
「え」
「え?!」
「えー」
な、何……?!何でそんな不満そうなの、何でそんな驚いてんの?!
「りよチャン、俺さびしい」
「はっ?!」
は、え、ど、どゆこと?
やだ、天音くんかわいい、っていうか、さびしいとか普通に照れる!!
また合った彼の目が三日月みたいな形になる。
「かぁいい~ほっぺ、りんご」
「っ!!」
からかわれた。直感でそう思った。
だってそれしか有り得ない。私がこんなあわあわしてるから楽しんでるんだ。
はっきりとわからない周りのざわめきがまるで私を馬鹿にしてるみたいにみたいに聞こえた。
最悪、何か、むかつくし、すっごい悲しい。
天音くんにとってはどうでもいい言葉なんだろうね。“さびしい”も“かぁいい”も簡単に言える。
でも私はその一言一言に浮かれたり落ち込んだりするんだよ。
私、単純だから。遊び相手になるにはレベルが足りなさ過ぎる。
でも、好きなんだもん。
「……っ」
「うちの可愛い子をいじめた奴、蹴り飛ばしてやるから立ちな」
そんなこと言うから裏で女王様って言われるんだよ。
涙が引っ込むくらい、かっこいい親友さまのご登場だ。
× × ×
煙草は吸わないけど、煙の動きとか、吸ってる姿を見るのは好き。
真琴が吸ってるのは見てて何だかどきどきするくらい色気があってかっこいい。
周りがどれだけ見てても全然お構いなしに、椅子を持ってきて私の横で煙草に火をつける真琴。
さっきまで泣きたかった気持ちが落ち着いてくる。
「――で、あんたら何?いや、あんたら自体はどうでもいい。何で梨代子に絡んでんの?」
近くにある灰皿に軽く煙草を叩いて、じろりと3人を睨む。
こ、怖い……
「絡んでねぇよ!つーかあんた俺と付き合わねぇ?マジですっげぇ好み」
「付き合うかジャリ。電波飛ばしてんじゃねぇよ」
「電波?ラブコールならガンッガン飛ばしてっけど」
「黙れハゲろ」
口調が荒れるのは相当イラついてる時。
ごめんね、真琴。軽い人苦手なのに。
真琴は優しい。厳しい時だってもちろんあるけど、いつだって私を助けてくれる。
今もそうだ。真琴がこうやって入ってきてくれなかったら、きっとあの場で泣いてた。
つらかった。軽い人ってわかってても、こんなたくさん人がいる中で好きな人にからかわれるのは。
軽く流せないくらい、好きになっちゃったから。本当に、重症過ぎる。
「すみません、俺がサークル関係で一方的に高瀬先輩のことを知っていたので話しかけました」
叶くんがまるで“自分のせいだ”と言わんばかりに真琴に頭を下げる。
誰も悪くないのに。私が勝手に落ち込んだり泣きそうになったりしたのに。
「ちが「違うでショ。俺が最初にりよチャンに話しかけたんだから。ねぇ、りよチャン」
真正面から綺麗な笑顔にぶつかって、言葉で返せない。
傷ついたのにやっぱりどきどきして苦しくて。
何とか首を縦に振ると、真琴が深いため息をついた。
「…、……誰が話しかけたとかはこの際どうでもいいけど、こんな動物園の檻レベルのギャラリーに囲まれていい気分すると思ってんの?話すならそれくらいの配慮したらどう?つーか散らせないなら不用意に話しかけんな」
周りに聞こえる音量で言いながらうっとうしそうに周りをぐるっと見て、煙を吐き出す。
それを合図にしたみたいにぱらぱら周りの人たちが解散していく。
隣りのテーブルの子たちもそそくさ帰って行って。
こんな風に私もはっきり言えればよかったのかな……ここまで言えるのは真琴くらいか。
「はぁ……梨代子、もう1本吸わせて。そしたらいつもンとこ行こ」
「うん」
あれ、珍しいな。いつも飲みに行く前は1本だけなのに。
若本くんの件、そんなに疲れたのかな……
「えっ?!帰んのかよ梨代子と真琴」
「…………あ゛?」
あやー……地雷。
真琴は親しくない人に馴れ馴れしくされるのをとことん嫌う。初対面の人に名前を呼ばれるなんてもっての外。
「き、城戸くんっ、真琴はね、遊佐真琴って言うの。だから名字で呼んで、ね?」
「何で。真琴のが可愛いじゃん」
綺麗な真琴の顔からビキッて音が聞こえた気がした。
「晴昭、やめろ。初対面で失礼だろうが」
「好きな女の名前呼んで何が悪ぃんだよ」
「てめぇに好かれてたまるか毛根ひとつ残さずハゲろ」
「真琴、スキンヘッド好きなのかよ。俺似合うかな~似合っちゃうだろうな~」
「……沈めていい?こいつ」
「りよチャン、ココアまだある?」
「ぅえっ?!」
ちょ、何で雰囲気全然無視なの天音くんっ!ていうか話しかけないでどきどきする!
「ココア、ないなら買い行こ。さっき結構飲んじゃったし」
「だ、いじょぶ、です……も、帰るし」
今、ちょっとだけ思い出して即行で頭の中にしまいこんだことがある。
ストローがついた私のココアを、天音くんが飲んだってことは……
考えちゃダメだ。絶対考えちゃダメ。
動揺しちゃダメ。向こうにとっては何でもない事なんだから。恥ずかしいなんて思っちゃダメ。
「んー……遊佐サン、りよチャン貸してもらえます?」
「はっ?!」
「……20分以内ね。泣かせたら往復ビンタ3セットで」
「それはやだなー」
意味、わかんない。
掴まれた手首が、あの日の左肩よりずっと熱くなる。
「もうちょい待とうと思ったんだけどね」
「えっ、な、なに……」
「やっぱ無理。こんなにかぁいいんだもん」
半ば引きずられていく感じで、振り返っても誰も助けてはくれなかった。
歩いてるのに置いてけぼりの感覚。どうしてこんなことになってるの?
真琴がほんの少しだけ笑ったのに首を傾げる前に、引っ張られてる変な体勢のせいでちょっとこけそうになる。
「っわ、」
「危ないよ、りよチャン」
細いはずの腕一本で軽々体勢を戻される。
甘い香りが強くなった。ううん、近くなった。
どうしよう、胸が苦しい。
「ごめんね、ちょっと電話させて」
「え、あ、はい……」
だったら手を離してくれてもいいのに。
ちょっと引いてもびくともしない、綺麗な手。
ねぇ、天音くん、熱いよ。どうして私に触るの?
「――雄士、部室開けて。誰も入らせんな。絶対に」
『――?!……!』
「うるせーから。お前も出てけ。その辺で覗いてたら吊るすから」
あ、あれ?
何か、いつもと違う……
甘い声なのにさっきよりもちょっと低くて、何か違う人みたい。
電話の向こうではまだ話してるような音が聞こえたけど、天音くんは普通に携帯を閉じる。
「りよチャン、部室棟入ったことある?」
「な、ないです……サークル棟と分かれてるんで」
「そっかー」
「…………」
って、それで会話終了?!
意味わかんないよ!何なのこの展開!
無言のままサークル棟を通り過ぎて部室棟に向かう。
すれ違う人たちがみんな見てる。でもどうしたらいいかわかんない。手も、離してくれないし。
「あ、天音くん……あの」
「やっと呼んでくれたー」
「え?」
「久人も晴昭も呼んだのに、俺だけ仲間外れだったから」
やめて。そんなこと言われると期待しちゃうから。
天音くんが思ってるのと違うように考えちゃうから。
私で遊んでるんだってことだけなら、わかってるよ。
だってそうでしょ?
初対面でキスしたのに逃げない女、おもしろそうだと思ったんでしょ?
どきどきするけど、それ以上に苦しいよ。
階段を上がるときすら掴まれたままの手首が熱でおかしくなりそうだった。
「はい、どーぞ」
「お邪魔します……」
通された部屋は雑誌とボールが転がってるくらいでそんなに汚くなくて、わりと新しそうなソファーがあるのが特徴的だった。
サークルの部屋より大きいなぁ。部活だから人数も多いのかな。
「バスケ部、なんですね」
「ん、そう。座って」
未だに手は離してくれない。隣り合わせで座っても、微妙に距離が取りにくい。
どうしておとなしくついてきちゃったんだろ。
全然、意味わかんない展開なのに。
あの日と同じだ。何で……
「天音くん、は……どうして私に構うの?」
「かぁいいから」
何でもないみたいにさらっと言われて、やっぱり胸が苦しくなる。
この人……私があたふたしてるのとか、きっと全部わかってる。
なのに笑って、ただからかって。
「何か……意味わかんないんだけど」
全部全部わからない。
どうしてあの日私にキスしたの?
どうして今日私に話しかけたの?
どうして今私を連れ出したの?
気まぐれでも嬉しい、それよりももっと、悲しい。
「わ、私の反応が子どもみたいで楽しいとか?」
「りよチャン」
「あんまり天音くんの周りにいないタイプ?こういうガキくさい女」
「……りよチャン」
「遊ぶには向かないと思うよ、私自他ともに認めるお子様だ――」
「梨代子」
どくん、と耳の奥から大きな音が聞こえた。
「ちょっと大事な話するから、聞いて。ね?」
有無を言わせない響きに黙るしかない。
向けられない視線の代わりに、全身が隣の気配を窺う。
ちょっと困ったみたいに笑うのがわかった。
何の話?
だって私たち、大事な話をするほど深い仲じゃないんだよ。
会ったのだってこれが2回目で――
「俺とりよチャン、これで話すの3回目だって知ってる?」
「え?」
嘘。
こんな印象が強い人、一度会ったら忘れるはずない。
顔を上げようか迷って、結局俯いたまま。
「やっぱ覚えてないかーまぁ当たり前だけど」
「……ごめんなさい」
「覚えてる方が奇跡だからいいよ。あーでも割と印象に残ってるかもね、1月の後期試験最終日なんだけど」
1月の……?
必死で記憶を掘り起こす。
4年の後期はほとんど講義なんか取ってなくて、試験期間で大学に来たのは2回くらいで。
1回は午後から試験を受けてそのままゼミの子たちと遊びに行った。
もう1回はレポートを出しに行って、真琴が次のコマ試験だって言うから本を読んで待ってようと思って図書館に行く途中で……
――そうだ、確か男の人とぶつかったんだ。
向こうが持ってたプリントとか全部ひっかけてばらまいちゃって。
『す、すみませんっ!』
『いえ、大丈夫です。それより本が……』
『え?あ、うそっ!』
雨が止んだ次の日だった。
その人のプリントはちょっと湿ったとこに落ちたんだけど、私の本は水たまりにべっちゃり浸かっちゃって。
『まだ半分の半分も読んでないのにぃ……!』
あの時も、今日持ってるのと同じ作家さんの本だった。
神話をベースにした戦記物の最終巻。これから最後の全面戦争に入るところだったのに。
一応ぺらぺらめくってみて、またがっくり。
カバーをかけてても中身はぐっしょり濡れちゃってて、もう読むのは難しい。
少し古い本だしマイナーな作家さんだから本屋に置いてある望みは薄い。
『あれ?それ【アウロラの空】ですか?』
『へ?!あ、は、はい……』
まさか知ってる人がいるなんて思わなくて、本を落としそうになるくらい驚いてぱっと振り向いた。
目の前にいたのは、細くて背の高い男の人。
寝起き?って聞きたくなるくらいぼさぼさな髪の毛に大きなメガネ。肌が白くてモロ文系って感じだった。
でも外見なんて大した問題じゃなかった。
“この本について語れそうな人がいる”、私が思ったのはその一点だけだった。
『俺以外にそれ読んでる人、初めて見ました』
『ふふっ、私もです。結構マイナーなんですよね、すごくいいお話を書くのに』
『友達に勧めても誰も読まないんですよねー、おもしろいのに……あ、』
プリントを小脇に抱えていきなりしゃがみこんだその人は、持ってたクリアケースから一冊の本を取り出したんだ。
『これ、よかったらどうぞ。俺はもう読んだんで』
差し出されたのは、水浸しになった本と同じ装丁で同じタイトルの……
『え?!そ、そんな、大丈夫ですっ』
『大丈夫って……それもう読めないでショ。俺がぶつかったせいで水浸しになったんだし、貰ってください』
『で、でも……』
『じゃあそれ読んだらちょっと語り合いましょう。同じ日に同じ本持ってた、同じ作家好きな仲間として』
『っはい!ぜひっ』
その時見た笑顔がとっても素敵だったのは覚えてる。
綺麗に笑う人だなって思ったことも、何も考えないで頷いちゃったことも――覚えてる。
その人とはその場で別れて、真琴と飲みに行った。
帰ってきた夜中、一気に最後まで読んでから“そういや私卒業じゃん”って思って。
守れない約束しちゃったな、とか大学に行けばまた会えるかな、とか考えてた。結局それから一度も会わなかったけど――
あの時の人が、天音くん?
……やっぱり一致しない。本の話の印象が濃すぎて外見とかはかなりおぼろげなんだけど。
「あの、天音くんあの時とずいぶん印象違うんだけど……」
「たまにああいう格好して息抜きしてんだよね。騒がれるのとかほんとはあんま好きじゃないし」
「息抜き……」
「結構気づかれないもんだよ?誰も気にしないから講義の時も静かで快適」
それはギャップがあり過ぎるからだと思う……
でも天音くん、あんなに女の子から人気あるのにそういうの苦手なんだ。
人気があり過ぎるからなのかな。ただ歩いてきただけで女の子たちがすごい騒いでたもんね。毎日あれだったら確かに疲れるかも……
あれ、だったらあの子たちが言ってた“軽い人説”は?この感じだと嘘、っぽいような。
じゃあ私に軽い言葉をかけるのは何?やっぱり意味わかんない。
頭の中のあのおとなしそうな人と、隣にいるきらきらの天音くんがうまくかぶらない。
あ、でも笑顔は同じだったかもしれない。
一瞬くらっときそうなくらい素敵な笑顔、そこだけはよくよく思い出せば一緒だ。
「あ、あの本、最後まで読んだよ。あの日の夜中から朝方で一気に。やっぱりすごくおもしろかった!ありがと」
「ならよかった。やっぱりよチャンは話がわかりますネ」
ちゃんと顔を見てお礼を言えた。
顔だってそんなに赤くなってない気がするし、態度が悪くもならない。どうしたんだろ、私。
さっきみたいに胸が痛くなったりしなくて、何だかあったかかった。
天音くんの笑った顔が好き。ふわふわしてて甘くて優しい。
すごく、好きだと思う。
あの日会った天音くんは王子様みたいじゃなかったけど、それでも笑顔はそのまんまだった。
確かあの時も思ったんだ、“こんなに綺麗に笑う男の人、はじめて見た”って。
「りよチャン、小さいしやたらめったらかぁいいから年下だと思い込んでたんだよね、俺」
「……子どもっぽいって正直に言ってくれていいよ」
「んーん、かぁいいの」
……女の子に“かぁいい”って言うの、癖なのかな。きっとそうだよね。
「こんだけかぁいいんだからすぐ見つかるなーって思って、春休み明けてからずっと捜してたんだけど見つかんなくて」
「私卒業してたしね」
「そー、先輩が卒アル見せてくんなきゃ絶対気づかなかった。2コも上なんか予想外だったし」
「え、天音くん3年生なの?!」
「そだよ。まだ脂乗ったハタチでーす。ま、老けてるって言われるけど」
「老けてるんじゃなくて大人っぽいんだよ」
年下なのはわかってたけど、改めて本人から聞くと……何かなぁ。
ていうか卒アル見たんだ。個人写真、ちょっと髪型失敗しちゃったんだよね、あれ。前髪ぱっつんで子どもっぽくなっちゃったし……天音くんに見られたと思うと無性に撮り直したくなる。もっとメイクも頑張ればよかった、うぅっ。
「ね、りよチャン」
「うん?」
「ずっと捜してたって言ったよね、俺」
「ん?うん」
「あの日もずっと、捜してたんだよ」
「――え?」
喉の奥が張り付いたみたいに、うまく声が出なくなった。
何、言って……
「毎日毎日色んな場所に行って捜した。大学にいてもずっと目で捜してた」
期待しちゃダメ。違う。きっとそういう意味じゃない。
「えと、」
「言っとくけど、本の語り合いするためじゃないからね?」
正しいと思ってた逃げ道が塞がれる。
“もしかしたら”が止まらない。
だってそんな、有り得ない。
こんな女の子の夢を全部集めたみたいな王子様が、私を捜してたなんて。
平凡で、子どもっぽくて、恋愛初心者、そんな面倒な私を。
「こんなお姫様みたいな子にあんな笑顔向けられて、忘れられる男がいたら見てみたいよ」
どきどきじゃない、どくんどくん、って鳴ってる。
また胸がぎゅうぅってなって、すごく痛い。
壊れちゃうそう。
いい加減手、離して。もう限界だよ。
手を引こうとした瞬間、また左肩に熱。
向かい合わせにさせられて、逃げるのも逸らすのも阻止される。
「捜せば捜すほど、どんどんハマってった」
「あまね、く……」
「見つけた時はほんと偶然でさ。独り言盗み聞きしちゃって、今フリーならもうこのタイミングしかないって思った」
「あ……」
「ちょっとかっこつけていい?
高瀬梨代子さん、あなたに一目惚れしました。俺と付き合ってもらえませんか」
――もう、無理。
視界がぼやける。
喉が勝手にしゃくり上げて。
嬉しくて泣いたのなんか、多分はじめてだ。
「ちょ、りよチャン?!」
「っひ……く、っ……」
「うそ、俺何かまずかった?ごめん、やばいくらいかぁいいけどっ、ごめん!」
「ち、がっ……ふぇ」
好き、好きなの。
すごく嬉しい。大好きなの。
言いたいのにうまく舌が動かない。
心を取り出して見せることができたらいいのに。
こんなに心臓がどきどきしてるんだって、伝われば……
「っえ?!」
伝えたい。それ以外何も考えないで、ただ抱き着いた。
少し高い体温。
甘い香りが頭の芯まで入ってくる。
「ねぇ、これってやっぱ……都合よく考えていいの?」
私が震えてるのか、天音くんの声が震えてるのか、よくわかんなかった。
心臓の音がうるさい。どっちのかもわかんない。
わからないことだらけだけど、これだけはわかるよ。
「っ、す…き……」
「ははっ……すげー、何それ……俺しにそう」
――二度目のキスは、どこまでも優しかった。
現実だけど夢みたいな存在、見つかったよ。
私だけを見てくれる王子様。恋に恋する暇がないくらい、夢中になれる王子様。
彼に似合うお姫様、なんて柄じゃないけどちょっと背伸びしながら頑張るから。
どうか物語みたいなこの恋が、終わりませんように。
END
*おまけ*
えっと……
「何のプレイ?晴昭」
「愛の確認行為に決まってんじゃねぇか!」
「おかえり梨代子。飲み行こっか」
真琴の腰に抱き着いてる城戸くんはやたら嬉しそうで、
城戸くんの頭を抑え付けてる真琴は心底嫌そうで、
うなだれてる叶くんは何か全部諦めてるみたいに疲れ切ってた。
な、何があったの……?
私と天音くんが抜けてそんなに時間経ったっけ?
「あの、叶くん……?」
「……すみません」
「いえ、こちらこそ、何か……叶くん、今度飲みに行こう?」
そう言うしかないくらい、哀愁が漂ってた。
「真琴ー愛してるー!お前のためなら彼女とも別れるぜ!」
「へーそう」
「晴昭日替わり彼女達成したんじゃなかったっけ?」
「ばっ、司、おまっ余計なこと言うんじゃねぇよ!」
「余計な情報なくてもてめぇの評価はマイナスだから心配すんな。つーか天音、あんた梨代子泣かせたね?」
ま、真琴怖いよ……
泣かせたっていうか私が勝手に泣き出したっていうか。
とにかく天音くんは悪くない。だって嬉し涙だったんだもん。
「違うのっ、これは私が……」
「んー……泣かせたけど、その分幸せにしますから」
ぎゅうって抱きしめられて、顔が勝手に赤くなる。
だってそんな、何か、ぷぷぷろぽーずみたいな……
「…………前言撤回。泣かせたら、じゃなくて悲しませたら往復ビンタして車に縄で括って峠引きずり回す」
それ、いいのかな……何か色々と。
「絶対しませんーやっと手に入ったんだから。りよチャン大好き、愛してる」
「ぅえっ?!!」
「かぁいいかぁいいかぁいい~」
「…………あたしが噂で聞いた天音司って、こんな感じじゃなかったはずなんだけど。別人?」
「……無気力で掴めなくてミステリアス、とかって噂ですか?合ってますよ、あの司で」
「どこが。全っ然違うじゃん。何あれデレ期?」
「確かにきめぇ!つーか司の本気って初じゃね?さっきのも余裕なさ過ぎ。だせぇ」
「ああ、電話の時か……珍しくわかりやすかったな」
「ガチでマジだったよな。あいつめんどくさがりだし彼女もあんま作らねぇのにさぁ~まぁあんだけかわいけりゃわかるけど。あ、もちろん真琴のがいい女だぜ?!」
「へーそう」
「面倒な奴が増えた……はぁ…」
天音くんの腕の中で必死に心臓と格闘してた私に、そんな3人の言葉なんか聞こえるはずもなかった。
閲覧ありがとうございます。
私が書く小説は女子が強くてかっこいい場合が多いのですが、今回はそのいつものパターンを捨てて真っ当な恋愛小説を目指しました。でも何だか違ったような……
次回からは強か女子がほとんどになると思います。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
20130829/汐