来訪者-6
ニキビのようなジンマシンのような細かいブツブツが、顔を掴んでいた感触と同じ部分に手形として浮かび上がっている。霊障という言葉で済ますことは簡単だろうが、何度も言うように霊の存在を信じない。仮に霊がいたとして何故こんなことをするのか理解できない。霊も元は人間のはず、それが風呂場に忍び込み私の顔を掴むという行為は何を意味するのか、何を伝えたいのか理解できない。
顔の痣に触れてみても痛みも痒みもなく、ただの肌の感触である。とにかく体を拭いて着替え、こんなことになる--こんなことをされたことに--腹立たしさを感じ、寝てしまうことにした。リビングに戻るとあの黒い小さな石はテーブルの上に乗ったままで、少し離れたところから見ると若干ながら膨張しているような錯覚を感じる。ただの石と思いこむには少々無理があったかもしれないと思いながらも、寝室に向かう途中、石に注意しながら横切ると右耳にとても小さな耳鳴りが起こった。
それは聴力テストに使う音のように一定の大きさのとても小さな音であり、神経が敏感になっていなければ気がつかなかいぐらいものだ。耳鳴りなら普段も起こることだが、違和感を感じて辺りを見回してしまった。いつもと変わらないリビングだが、ひとつ分かったことは黒い石に近づくと音がするということだ。好奇心からか恐る恐る近づき、耳鳴りは次第に大きくなり、石まで20cmほどのところで右耳を傾けると、耳から湯気でも抜けるような感覚と共に耳鳴りは消えた。
この不思議な感覚に再び石に対する恐れが浮かびはじめ、すぐにその場を退散することにしたが、取材用のマスクが目に入った。脂汗でびっしょりと濡れていたマスクが金属のように固まり、広げることすらできなくなっていた。たかが汗に濡れた布が自然乾燥でこんなに固まるはずがない。感触も布であり、冷たくもなく凍ったわけでもない。もちろん室内で凍るわけもないのだが。
とにかく固まったマスクを捨て、黒い石を見ないように電気を消してから逃げ込むようにして寝室に入った。
真っ暗な部屋だが、カーテンの隙間から街灯か月明かりがうっすらと光を射している。まだ神経が敏感になったままなのか、普段は気がつかないことも気付き、精神が疲弊しきらないうちに寝てしまおうとベッドに入ると、とても深い眠りに付くことができたのを覚えている。夢という夢を見ることもなく気がついて起きた時には昼前になっていた。
リビングに行けばあの黒い石はやはり置いてある。朝日が射していたが相変わらず真っ黒なままの不気味な石がそこにあることで眠気のまどろみを味わうこともなく、無理やり覚醒させられたように眠気は去り、心が重い朝を迎えたのも覚えている。
黒い石の横を通り過ぎる時、昨夜と同じように耳鳴りが聞こえた。今度は左耳だった。不思議に思ったが無視して洗面台に向かうと耳鳴りは消えた。鏡を見ると昨夜の顔に付いていた手形の跡が右側だけ綺麗に消えていた。左側には昨夜に比べて赤黒くなった手形が残っている。眠気のまどろみの中にいたら気付くことはなかったかもしれないが、黒い石が手形を消したと気付いた。
自分の体で実験するのも気が引けたが、リビングに戻るとやはり左耳だけ耳鳴りが始まった。恐る恐る石に左耳を近づけると、昨夜と同じように耳から湯気が抜けたような感覚があった。すぐに鏡を見に戻ると顔から痣は綺麗に消えていた。
この時からだった。石が味方をしてくれると確信した。これほど頼もしい強力な味方がいるであろうか。味方と分かると昨日までの恐怖心は消え、そして心が重い朝から晴れ晴れとしたすがすがしい朝に変わる。
石を撫でてやろうかとリビングに戻った時だった。電話が鳴り、長身の黒人が取材と偽ってきた取材先からで今日の取材をよろしく頼むというものだった。私はもう取材を受けたといちおう嘘を繕ってみたが「先生、取材は今日ですよ。もしかして執筆に力を入れすぎて夢でも見ているのでは? いや、もしかして寝ぼけていますか?」と笑われた。
取材に来るのは日本人かと聞くと、おかしなことを聞くものだと言われたが日本人の3人で来ると言う。取材に来る時間も昨日と同じであり、その時になって気がついたのが電子カレンダーの日付が昨日と同じということだった。