来訪者-4
黒い小さな石を放って置いたまま、何もすることができないまま、腰を抜かした状態で這うようにして書斎に逃げる。このマンションに引っ越してきた時に、デザインのこだわりでドアのノブをL字に変えさせたが、そのこだわりが役に立つ時が来るとは思わなかった。恐怖によって手が震え、握力がない今は普通のドアノブだったら握って回すなんてことすらできなかったはずだ。この震えを止めるためには、恐怖から逃れるためにはあの黒い小さな石から離れるしかない。このままではあの石の前で精神が崩壊してしまう。
L字のドアノブに震える手をかけるだけでドアは開いた。そこは変わらぬいつもの部屋で、明るい書斎でしばらく気を落ちつけることにした。
何が自分の身に起きたのか整理したのもその時だった。見も知らぬ驚くべき長身の黒人が取材を偽りやってきた。その黒人は私が幾人もの命を奪ってきた犯罪者だというのを知っている。警察ですら10年間も捜査しているのに私を探し出すことが出来ていないというのにだ。
黒人は依頼があると言った。その内容も書類を盗み出すというわけがわからないものだったが、あの異常なほどに黒い小さな石の意味がわからない。役に立つと言っていたが一体、あの石に何ができるというのか。
確かにただの石ではないと感じている。実際、あの石によって体が震えるほどの今までに感じたことのない恐怖の中にいるのだが、それは私が依頼を断らないようにあの黒人が脅迫した延長線であり、あの黒人がそばにいるような、常に私を見張っているような緊張感を黒い石が宿しているだけだ。この恐怖は石の力ではないと理解するのに時間がかかった。
人間には思い込みの力というものがある。気持ちを整理させ、あれはただの石ころだと必死で自分に言い聞かせた。立ち向かう気分で今一度リビングに戻り、石ころを眺めてみた。
書斎に逃げ込む前よりも恐怖感は収まったが、少々、足の震えが残っていた。やはり500円玉程度の大きさしかない石は単純に黒いというだけではなく、上から眺めてみれば立体的な遠近感をなくし、横から眺めても遠近感はなく、1cm程度の薄い石だと分かった。しかし、どこから眺めても空間そのものに穴があいたような錯覚を起こす程黒い。簡単にいえば月並みだが宇宙の漆黒さというのか、光が通用しないような黒さだった。
この石を味方にしなくてはならないわけだが、しばらくそれに触るのに躊躇した。何度も指を近づけたが本能が止めるのが分かる。ただ触ろうとするのに訳のわからない吐き気もした。これが私の役に立つとは到底思えない物体だ。あの黒人は平然と触っていたが、こんな石をいともたやすく触り、持って見せ、さらにはポケットなどに入れて持ち運んでいたなんて考えられるものではない。あの黒人は普通の人間ではないと疑った。
もしあの黒人が超能力者であるならば私の犯罪歴を知っていてもおかしくはない。だが、超能力者などという選ばれた人間なんぞ存在するはずがない。これは私の持論だ。そして幽霊も決して信じない。だとすれば残る選択肢は一つしかない。これも持論だが、物体として存在しているはずの地球外的な者だ。そう、あの黒人は宇宙人である。恐怖を味わったことで混乱していたとは思うが、結論はそれだった。
信じられない現実から逃げたかったのかもしれない。宇宙人なんていうものにしておけば、この恐怖と石から感じる不快感を取り除けると思ったのかもしれない。しかし、その後も何度も石に触れようと挑んだが、指にしびれが現れたので諦めた。
いつの間にかもう深夜0時だった。書斎に逃げてから3時間も石と格闘していたわけだ。気分を変えるためと、体に残る気持ち悪さを消すために風呂に入ることにした。