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真之

氏之(持隆)の興亡4

作者: 重左衛門
掲載日:2026/07/14

伊予河野氏討伐

(前略:香西備後守元資、奈良、大内)左衛門尉、元安安富山城守盛長、安富左京進盛保、谷兵庫頭景久、寒川左馬允元港、十河十郎景貞、以下同州(讃岐)豊田郡仁保観音寺に充満す。海軍到来を待つ。阿淡(阿波・淡路)の兵、船数百艘、讃州(讃岐)笠水崎かさみずさきを廻りて、豫州(伊予)宇摩郡川江新居郡天満浦に充満す。宇都宮、長門守、観真ら合して馳せ参ず。日来ひごろ河野剽掠ひょうりゃくせられし。諸兵共に共迎え来たりて市を成す。陸軍、岐宮(いつきのみや/斎宮)を越え、河江かわえに入る。河野通能みちよし等、合戦の計を設くといえども、山名方の衰微せる者、無頼(頼るべきところなき)処の故、香西肥前守、附して(降伏させて)これを香川。隣里の好を以て、讃岐守(細川頼之)執達とりつぎ故者ゆえ、和平を申請す。故に同列に犯されし地、本主に還附す。園寺(西園寺)屋形、国中を一統せしむ。義春、帰陣す。阿波国なる者は、四国の辺鄙へんぴにして、鹿暴勇悍かぼうゆうかん之山人、共に細川刑部大輔頼春、其の子右馬頭二世、武徳を率いせり。国中の兵革用事なき、讃岐守詮春あきはる以来、義之……


現代語訳(大意)(前回の続き:讃岐の国人領主である香川・香西・奈良氏に加えて)大内左衛門尉、元安、安富山城守盛長、安富左京進盛保、谷兵庫頭景久、寒川左馬允元港、十河十郎景貞らの諸将が、同国(讃岐)の豊田郡にある仁保や観音寺のあたりに溢れんばかりに集結した。彼らは海軍(水軍)の到来を待った。やがて、阿波・淡路の兵を乗せた数百艘の船が、讃岐の笠水崎(現在の香川県三豊市周辺の岬)を回って現れ、伊予国の宇摩郡川江(現在の愛媛県四国中央市川之江)や新居郡天満浦(現在の西条市周辺)の港を埋め尽くした。細川方に味方する伊予の宇都宮氏や長門守、観真(高橋氏の一族などか)らも合流して馳せ参じた。これまでは河野氏によって領地を脅かされ、略奪(剽掠)を受けていた現地の諸兵たちも、細川軍を迎えようと次々に集まり、まるで市が立つかのような大盛況となった。陸路を進む軍勢は、岐宮(※伊予の斎宮・現在の新居浜周辺の神社か)を越えて河江へと入った。敵である河野通能らは、細川軍を迎え撃つための合戦の計略を立ててはいたものの、彼らが後ろ盾としていた山名方の勢力はすでに衰退しており、もはやどこにも頼るべき宛てがない状態であった。そのため、香西肥前守(元資)はこれ(河野方の降伏の意思)を受け入れ、香川氏らとともに隣国同士のよしみを以て、かつて細川讃岐守(頼之)が四国を平定した先例に倣って調停(執達)を行った。こうして(河野氏から)和平の申し入れがなされた。これにより、河野氏の反逆によって侵略されていた細川方の諸将の領地は、すべて元の領主(本主)へと還付されることとなった。(南予の)西園寺屋形(西園寺氏)も、自国領内を一統(安堵)することができた。大将である細川義春は、この大きな戦果を携えて無事に阿波へと帰陣した。(ここから、細川家を支えた阿波国の武勇と歴史の総括に入ります)そもそも阿波国という場所は、四国の辺境の地であり、(野生の鹿のように)荒々しく勇猛果敢な山の民が多く住む土地である。彼らは初代の細川刑部大輔頼春、そしてその子である右馬頭(頼之)の二世代にわたる優れた武徳によって率いられてきた。それ以降、国中で大きな戦争(兵革)が起きることもなく治まったのは、阿波守護となった細川讃岐守詮春以来、そして細川義之らの……(次へ続く)

続く

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