第三惑星の夢
重厚な漆黒の扉が、目の前にそびえ立っている。
魔王城。この世界のすべての悪意が煮詰まったような場所だ。しかし、その入口に立つ黄金の鎧を纏った男の顔に、恐怖や緊張の色は微塵もなかった。
男の右手には、神話の時代から受け継がれたという聖剣が握られている。背後には、彼に絶対の忠誠と愛情を誓うエルフ、聖騎士、そして獣人が控えている。彼女たちの熱を帯びた瞳は、ただ一人の「最強の勇者」の背中だけを見つめていた。
男は、ここまでの道のりを脳内で反芻し、自らの人生に酔いしれていた。
すべては、あの交差点での凄惨な事故から始まった。友人にも見限られ、定職にも就けず、手応えのない面接にくたびれた夜、不注意から歩き出した赤信号の交差点を歩き出していた。直後に耳に不快なクラクションと眩い白光を浴びせかけられ、何かが砕け潰れる音を聞いた。
気がつけば、男はこの見知らぬ世界で目を覚まし、親切な人たちに拾われた。
しかし恵まれなかったのか、はたまたその気質故に恵みを遠ざけてしまっていたのか、以前いた世界で培われた偏屈さからパーティーを追放され、魔物に襲われ、また全てを失ったと絶望していたところで大いなる女神の恩寵を受けていることに気付いた。彼に与えられたのは『無限の魔力』『絶対回避』『奇跡の自動回復』という、常識外れの力だった。
その後は痛快な人生だった。元パーティーメンバーたちを、逆恨みから圧倒的な力で蹂躙し、社会的な死を与えて復讐を果たした。面倒な修行や、人間関係の構築などという無駄な過程はすべてすっ飛ばし、男は自他共に認める救世主として成り上がったのだ。
残るは、この城の最奥にいる魔王を聖剣の光で消し飛ばし、完全なる英雄の座に就くだけである。
男が扉を吹き飛ばそうと魔力を練り上げた、その時だった。
――プツン。
男の全身から溢れ出ていた黄金のオーラが、まるで冷水を浴びせられたように消失した。
「……な、なんだ? どうなっている!?」
男は焦った。もう一度魔力を練ろうとするが、体内の底なしだったはずの魔力が、一滴残らず枯渇している。それどころか、体が鉛のように重い。常時発動していたはずの『絶対回避』の身軽さも消え失せている。
突然取り乱した勇者の姿に、背後の美少女たちが怪訝な顔を見合わせる。
己の力の源が途絶えたことを悟った男は、膝をつき、天を仰いで悲痛な声で祈りを捧げた。
「我が女神よ! 俺の力が……奇跡の恩寵が使えなくなっている! これでは魔王に勝てない! 一体どうしたのですか、答えてくれ!」
静寂が下りる。
やがて、天蓋の彼方から、女神の荘厳な声が響き渡った。
しかし、その言葉の響きは、男の知る「慈愛に満ちた神の言葉」ではなかった。どこか遠くでカチカチと小気味よい音が聞こえた直後に、冷たく、抑揚のない声が男の脳髄に直接語りかけてきた。
『――お問い合わせありがとうございます。お客様のアカウント情報を確認いたしました。現在、お客様のツールは「無料お試し期間」を過ぎております。引き続き機能をご利用いただくには、月額プレミアムプランへの移行が必要です』
「……は?」
男は間抜けな声を漏らした。ツール? アカウント? プラン?
神聖な魔王城に響き渡る、あまりにも場違いで事務的な単語の羅列。男は混乱しながらも、虚空に向かって吠えた。
「ふざけるな! 俺はこの世界の救世主だぞ! 今から魔王を倒して、この女たちに最高にカッコいいところを見せなきゃならないんだ! 金ならいくらでも払ってやる、早く力を戻せ!」
数秒の沈黙。
再び、天上から感情の一切こもらない音声が降り注ぐ。
『誠に申し訳ございません。また、ログを確認しましたところ、お客様の度重なる「他プレイヤーへの迷惑行為」と「ステータス改ざん」が、正規の運営パトロールに検知されかけております。弊社は非公式ツールによるお客様の不正利用に関しまして、一切の責任を負いかねます』
その通告と同時だった。
地響きを立てて、魔王城の漆黒の扉が重々しく開かれた。
奥から現れたのは、角の生えた恐ろしい魔族などではなかった。それは、空間の景色をバキバキと不快な音で砕きながら這い出てきた、色彩の剥がれた巨大な幾何学模様の塊だった。世界の理屈から完全に外れた「それ」は、圧倒的な死の気配を撒き散らしていた。
絶対的な絶望を前に、男の背後にいた美少女たちの目に、はっきりと「失望」と「恐怖」が浮かび上がる。男を崇拝する魔法が解け、彼女たちはただの冷たい瞳で「力を持たない男」を見下ろした。
「お、おい嘘だろ!? 助けてくれ女神様! 女たちが、俺をゴミを見るような目で見ている! やめろ、こっちに来るなあああッ!」
無様に床に這いつくばり、命乞いと泣き言を喚き散らす勇者。
天上の声は、もはや哀れみすら見せず、ただ最後の手続きを実行した。
『"Per Article 8 of our Terms of Service, we will now terminate your service. We appreciate your trial and your cooperation with our survey."(利用規約第8条に基づき、サービスの提供を強制終了いたします。試用とアンケートへのご協力、ありがとうございました)』
直後、化け物が振り下ろしたノイズまみれの腕が、男と取り巻きたちを呑み込んだ。
さっきまで最強の勇者だった者たちは、ただの「エラーデータ」として一瞬で空間から消去された。
「あーあ、また一人規約違反で消えちゃったなー」
薄暗いオフィスで、オペレーターの女は通話の切断ボタンを押した。
同時に、サブモニターで稼働させていた、神々しい後光を背負った「古代の装いの女神アバター」のアプリケーションをシャットダウンする。
女は安物のオフィスチェアに座ったまま、凝り固まった肩を解すように大きく伸びをした。
そして、部屋の中央に視線を移す。
そこには、デスクランプ代わりの大きめのライト(恒星)が鎮座しており、その周りをいくつかの小さな球体が、規則正しい軌道を描いてくるくると回り続けていた。
女は、その中のひとつ――青と緑に塗られたちっぽけな球体――をぼんやりと目で追いながら、誰に聞かせるでもなくぼやき、ため息を一つ吐いた。
「さて、また次のトラック事故起こさなきゃ……」




