灯る夢
町の外れ、昼間やいうのにやけに賑やかな宿屋があった。
扉を開けた瞬間、香ばしい肉の匂いと、杯の触れ合う音、腹の底から笑う声がどっと流れ込んでくる。酒場を兼ねた安宿――だが活気だけは一流だった。
「旅の人かい? 泊まりなら一人銀貨二枚、先払いだよ!」
奥のカウンターから、艶のある声が飛ぶ。
整った身なりの――いや、よく見れば年相応の貫禄を備えた……お姉様が、腕を腰に当てて立っていた。
「泊まりでお願いしますわ」
カイがにこやかに銀貨を差し出す。
「二階、奥から二番目。通り側の部屋使いな!」
それから、カイが恐る恐る……
「あと、部屋に水桶とタオルもお願いできます?」
「はいはい、すぐ持たせるよ」
手際のいい返事に、カイは満足げに頷いた。
チエは何も言わず、フードを外しながら階段へ向かう。
その背中を見送っていたカイが、急にわざとらしく咳払いをした。
「いやぁ〜……しかしやなぁ……チエみたいな美人さんと同じ部屋泊まるやなんて、恐れ多うて出来ひんわ。ワシは外で、静か〜にしとくさかい」
にやけきった顔。
どう見ても下心しかない。
チエは立ち止まり、振り返りもせずに深いため息をついた。
「……ほんま、気色悪いわ」
階段に向いながら
「はよ消え」
シッ、シッ、と手で追い払う。
「お、おお! そない言われたら仕方あらへんな!」
カイは洋々と人混みへと向かう。
「ほな明日、午後三時! 例の場所でな!」
言うが早いか、カイは脱兎のごとく酒場の人波に消えた。
チエは額を押さえ、小さく息を吐くと、そのまま二階へ上がる。
部屋の扉を閉めた瞬間、下からの喧騒は嘘のように遠のいた。
静寂。
革張りの簡素なベッドが、部屋の中央にぽつんと置かれている。
チエは鎧のまま、トコトコと歩み寄り――
「……つかれた」
そのまま、ばふっと倒れ込んだ。
天井を見つめながら、身体の芯に溜まった疲労が、ようやく主張を始める。
剣を握り、村を追われ、門を潜り抜け――
今日は、もう、何もしたくなかった。
チエは、いつの間にか眠りに落ちていた。
――小さな家が、そこにあった。
木造の、どこにでもありそうな家。
扉を開けると、広い部屋に大きなテーブルと、大きな椅子が一つだけ置かれている。
チエは椅子によじ登る。
体が今より小さい。
テーブルの上が、よく見えた。
中央には、花が一輪。
名も知らない、素朴な花。
ふわりと、温かい匂いが鼻をくすぐる。
煮込み料理の匂い。
腹の奥が、きゅっと鳴る。
ふと、奥を見る。
台所に、女の人がいた。
背中越しでも分かる、柔らかな雰囲気。
その人はちらりとこちらを見て、微笑む。
何も言わず、大きな皿に料理を盛り付ける。
湯気の立つ皿を両手で持って、こちらへ歩いてくる。
チエの胸が、じんわりと温かくなる。
理由なんて、分からない。
ただ――
帰ってきた、そんな感覚。
胸の奥が満たされて、言葉にならない幸福感に包まれる。
――その瞬間。
「待たせたねー! 水桶とタオル、置いてくよ」
声。
チエは、はっと目を開けた。
視界が現実に戻る。
宿屋の天井。
軋むベッド。
体を起こすと、部屋の扉の前に、あの姉さんが立っていた。
足元には水桶と、きれいに畳まれたタオル。
どうやら、置いて帰るところだったらしい。
姉さんはチエを見ると、にこっと笑った。
「疲れてんだね。ゆっくりお休み」
そう言いながら振り返り出口へ向かう。
「夕方、降りてきな。ご飯、用意しとくよ」
それだけ言って、扉を静かに閉める。
ぱたん。
部屋に、また静寂が戻った。
チエは小さく息を吐き、もう一度ベッドに倒れ込む。
仰向けになり、天井を見つめる。
さっきの夢。
小さな家。
大きな椅子。
花一輪と、温かい料理。
顔のはっきりしない、優しい女の人。
「……なんや、あれ」
呟きは、誰にも届かない。
胸の奥に、名も知らぬ感情が、静かに残っていた。
カイはと言うと、宿を出た瞬間、空気が変わった。
昼下がりの王都。
大通りには人が溢れ、笑い声と呼び込みの声が飛び交っている。
肉を焼く匂い、香辛料、酒の甘い匂いが混ざり合い、町は生き物のようにざわめいていた。
カイは、その真ん中に飛び出す。
「いや〜、生き返るわぁ……!」
鼻歌交じり。
足取りは軽く、跳ねるように。
人混みを器用にすり抜け、ぴょん、と一歩、またぴょん、と一歩。
ぶつかりそうになっても、くるりとかわす。
まるで、最初から行き先が決まっているかのように。
大通りを抜けると、少しずつ人の数が減っていく。
賑わいの輪郭が薄れ、声が遠ざかる。
店と店の隙間。
わずかに口を開けた、暗い路地。
カイは迷わず、そこへ入った。
鼻歌は止まらない。
石畳の先には、下へと続く階段。
昼間だというのに、影が濃い。
ぴょん。
ぴょん。
階段を降りるたび、音が消えていく。
聞こえるのは、カイの靴音と、気の抜けた鼻歌だけ。
階段を降り切ると、少し広めの路地に出た。
建物に囲まれ、空は細く切り取られている。
光は届かず、昼なのに、まるで夕暮れのように薄暗い。
カイは、ふと立ち止まる。
振り返り、上を見上げた。
さっきまでいた町並みが、ずっと高い場所に見えた。
人の流れも、声も、もう届かない。
「……ふふ」
小さく笑い、視線を戻す。
路地の奥へ。
再び、鼻歌とスキップ。
ところどころに、街灯が灯っている。
昼間なのに、ぼんやりとした橙の光。
その下には、酔いつぶれて眠る男。
壁にもたれて動かない女。
光と闇が、無秩序に混ざる場所。
カイは、気にも留めず、歩いていく。
軽やかに。
楽しげに。
やがて、その背中は路地の闇に溶け、
鼻歌だけが、ほんの少し遅れて消えた。
鼻歌交じりで跳ねるように歩くカイの足が、ふと止まる。
T字路。
その突き当たりに、一軒だけ――
壁の隙間から、怪しく滲む桃色の光を漏らす建物があった。
昼の王都では明らかに浮いた色。
誘うようで、拒むようで。
まるで夜の名残だけが、そこに溜まっているかのようだ。
カイは建物の前で立ち止まり、
口元に、にやりと笑みを零す。
「……あったあった」
扉を――
勢いよく、押し開けた。
中は、酒場だった。
だが、普通の酒場ではない。
天井から吊るされた灯りは、すべて桃色。
影はやたらと柔らかく、人の輪郭を曖昧にする。
テーブル席に並ぶ客たちは、どれも――
だらしなく、厭らしい顔。
酒に溺れ、欲に身を委ねた者たち。
給仕の女の子たちが、店内を行き交う。
肌の色は様々。
赤い肌、黒い肌。
中には、青い肌の者すらいる。
角や尻尾、明らかに人ではない特徴を持つ者もいた。
だが、誰もそれを気にしない。
ここでは、それが“普通”なのだ。
「いらっしゃいませぇ〜♥」
甘く、艶のある声が、店内に木霊する。
男を絡め取るような声音。
カイは入った瞬間から、きょろきょろと視線を走らせる。
目当ては、はっきりしている。
そのとき――
店の奥から、一段と色気を孕んだ声が響いた。
「あ〜らぁ……カイじゃない?」
ゆったりと、余裕を含んだ声。
「お久しぶりねぇ〜」
その声を聞いた瞬間、
カイの顔が、ぱぁっと明るくなる。
「リリアちゃぁ〜ん!
会いたかったでちゅよぉ〜!」
一気に子供みたいな声色。
両手を広げ、めいっぱい跳ねるように――
彼女へ向かって飛び出した。
だが。
リリアは、微動だにしない。
伸ばした人差し指で、
ちょんと、軽く。
次の瞬間。
どがんっ、と鈍い音を立てて、
カイは床を転がった。
「ぐぇっ」
「もう……やだぁ〜」
リリアは、くすりと笑う。
妖しく、そしてどこか優しい微笑み。
「欲しがりさんね」
紫色の肌。
均整の取れた肢体。
頭には羊のような角。
桜色の、さらさらとしたロングヘア。
背は高い。
二メートル半近くはあるだろう。
――圧倒的な存在感。
床に転がったままのカイは、
それでも、だらしなく笑っていた。
「……はぁ……相変わらずやなぁ……」
見惚れたように。
恋した少年のように。
桃色の灯りが、二人を包む。
転んだカイは、何事もなかったかのようにすくっと立ち上がり、
そのままリリアの方へ歩み寄る。
今度は、拒まれなかった。
リリアは腕を広げ、
その大きな体で、カイをすっぽりと抱きしめる。
「カイちゃん……会いたかったぁ〜……ふふっ」
柔らかな感触に、
カイの顔はあっという間に彼女の胸元に埋もれていく。
しばらくは、そのまま。
されるがまま。
だが――
さすがに息が続かなくなったのか、カイがじたばたと暴れ出す。
「ぶはっ……!
ちょ、ちょっと待ってぇ……!」
両手で彼女を押し返し、ようやく顔を引き抜く。
切れ切れの息を整えながら、懐から金袋を取り出す。
「……はい!」
じゃらり、と音を立て、
それを天に突き上げる。
「明日まで、リリアちゃんは俺のもんや〜!」
「あらまぁ……
う・れ・し・い」
リリアはくすりと笑い、
人差し指でカイの鼻を、ちょん、ちょん。
完全に骨抜きになったカイは、
彼女に手を引かれるまま、カウンター奥へと進んでいく。
奥へ続く廊下。
入口は、カーテンだけで仕切られた小部屋が並び、
そこからは、男女の妖艶な吐息が幾つも漏れてくる。
さらに奥へ。
装飾の施された、しっかりとした扉が連なる区域に入ると、
途端に、音が消える。
途中、布の少ない女性たちとすれ違う。
給仕なのか、警備なのか――
その区別すら、ここでは曖昧だ。
リリアは迷いなく進み、
やがて、一番奥。
ひときわ豪華な装飾の施された扉の前で、立ち止まる。
扉が、静かに開く。
中には、
見事なベッド。
湯気の立つ風呂。
そして――
用途の分からない器具が、整然と並んでいた。
「……へへ……」
状況を理解しきれないまま、
間の抜けた笑みを浮かべるカイ。
その背中を、
リリアが優しく押す。
――ぱたん。
重い音を立てて、扉が閉まった。
桃色の灯りは、
廊下の向こうへ、静かに遠ざかっていく。




