消えない風説
食卓が最高潮に盛り上がっていた、その瞬間だった。
―――ドンッ!! ドンッ!! ドンッ!!
家の戸が、壊れそうなほど激しく叩かれる。
「え……?」
食卓の端に座っていた娘の一人が、驚いた顔で立ち上がる。
「ちょっと待って、今――」
戸を開けた、その瞬間。
どさり、と重たい音を立てて、
髭をたくわえた村人が倒れ込むように中へ転がり込んできた。
「っ……!」
肩口から血が流れ、床に赤い染みが広がる。
「入ってくるな!」
村長が叫ぶが、男は息も絶え絶えに叫んだ。
「オ、オークが……!
村の入り口に……群れで来てます!!」
一瞬、時が止まった。
「……!」
次の瞬間、椅子が倒れ、皿が割れ、
家の中は一気に騒然となる。
「全員、外へ!」
村長が叫び、皆が一斉に立ち上がる。
―――外へ出た瞬間。
村長の家は、村の一番奥、わずかに高台に建っている。
そこから見えたのは――
村の入り口付近、燃え上がる家屋。
赤い炎が夜空を舐め、黒煙が立ち上っていた。
「そ、そんな……」
村長が青ざめ、足をもつれさせる。
「何を呆けてるの!」 母親が一喝し、
バシンッ! と村長の尻を叩いた。
「村長でしょう!指示を出しなさい!」
「は、はいっ!」
その横で。
チエは、何も言わずに炎を見ていた。
―――いや、睨みつけていた。
顔から血の気が引き、
その瞳には、はっきりとした怒りが宿っている。
「……ふざけんな」
低く、押し殺した声。
ドンッ!!
地面を踏み抜く音と共に、
チエの姿が一直線に火の上がる方向へ弾け飛ぶ。
「ちょ、待て待て!」 カイが遅れて声を上げる。
「……あちゃー、もう行きよったか」
頭を掻きながらも、
ヒョコヒョコと全力で後を追う。
―――場面は、村の入り口。
オークの群れが暴れ回っていた。
家を壊し、物を投げ、笑い声と唸り声が交錯する。
逃げ惑う村人たち。
「逃げろ!」 「子どもを先に!」
鎌やフォークを手に、
必死に立ち向かう村の男たちがいるが――力の差は歴然だった。
その奥。
村の入り口の外に、一際巨大な影。
体格の大きなオーク。
首には、複数のドクロを繋げた首飾り。
そして――
**巨大なジャイアントボア(大猪)**に跨り、
愉快そうに牙を剥いて笑っている。
「……っ!」
逃げる途中、子どもが転んだ。
足を取られ、地面に倒れ――
振り返った瞬間、オークの影が覆いかぶさる。
「―――!!」
次の瞬間。
ドゴンッ!!!
雷が落ちたような轟音。
地面が割れ、土煙が舞い上がる。
オークの目前に、
青い閃光と共にチエが降り立った。
「……どこ見て歩いとんねん」
一閃。
オークの体が、真っ二つに割れた。
血と衝撃波が弾け、
村人たちが呆然と立ち尽くす中――
チエはゆっくりと顔を上げ、
群れと、そして猪に乗るオークを見据えた。
ジャイアントボアの背に跨った、ひときわ体の大きなオーク――
ハイオークが、下卑た笑みを浮かべて口を開いた。
「グヘヘヘ……
おめーが、儂らの同胞をやったヤヅだな、ブフォ」
チエは、剣を下ろしたまま視線だけを向ける。
「……せやったら、なんやねん」
その一言に、ハイオークの目がねっとりと細まった。
「オメェ……
美人だなァ、グヒッw
オラど、遊ぶべよ……グヒへへ♥」
ヨダレを垂らしながら、
ハイオークは下品な笑い声を上げ、腕を振り上げる。
「囲めェ!!」
その号令と共に。
今まで村人を襲っていたオークたちが、一斉に振り向いた。
血に染まった武器を手に、
ぞろぞろとチエの周囲へ集まってくる。
チエは、動かない。
一体のオークが、チエへ向かう途中――
目の前にいた村の男を棍棒で払い除ける。
鈍い音。
男は地面を転がり、動かなくなった。
それでもチエは、動かない。
他のオークたちも、
歪んだ笑みを浮かべながら距離を詰める。
背後では、ハイオークが
ボアの上から腹を抱えて笑っていた。
「グヘヘヘ!
逃げねぇのかァ? 人間よォ!」
―――その時。
チエの表情が、わずかに歪んだ。
嫌悪。
吐き気。
そして――怒り。
次の瞬間。
ピリ……ピリピリッ
チエの足元から、
電気が弾けるような青い光が走る。
「……っ」
最初に辿り着いたオークが、
棍棒を振り上げ――
その瞬間。
バチンッ!!
青い電光を残して、
チエの姿が――消えた。
「……?」
次の刹那。
村の入り口一帯に、
青い直線が走った。
縦に。
横に。
斜めに。
まるで空間そのものが、
切り裂かれていくかのように。
「ギ――」
「ブ――」
声にならない音だけを残し、
50体は居ようオークの群れの影が、次々と崩れていく。
ハイオークは、
何が起きたのか理解できず、間の抜けた顔をした。
「……あれ?」
その視界いっぱいに。
チエが、立っていた。
ボアの鼻先、
わずか一歩もない距離。
ハイオークの目が見開かれる。
「―――!?」
ドンッ
次の瞬間。
オークの群れ。
ジャイアントボア。
そしてハイオーク自身。
微塵に消えた。
残ったのは――
静寂と、空気に漂う焦げた匂いだけだった。
燃え上がっていた家々の炎が、次々と不自然なほど静かに鎮まっていく。
赤から黒へ、音を立ててしぼんでいく火の中を、カイは歩いてきた。
掌を軽く振るたび、淡い光が走り、残り火が嘘のように消えていく。
倒れ込んでいる村人に声をかけ、泣きじゃくる子どもの頭を撫で、肩を貸しながら、ゆっくりと――だが確実に、村の入口へ近づいてくる。
入口の中央。
瓦礫と血の匂いの中で、チエは膝に手をつき、大きく息を吐いていた。
「……っ、はぁ……はぁ……」
剣を地面に突き立て、荒い呼吸を整える。その肩が、わずかに震えている。
「やれやれやな……」
背後から聞こえた声に、チエが顔を上げる。
カイが最後の火を消し終え、腰に手を当てて深く息を吐いた。
「ふぅ〜……」
そして、次の瞬間。
「何一人で突っ込んでんねん!!」
雷鳴のような怒声が、夜の村に響いた。
「はぁ!? あんたが遅いんが悪いんやろが!!」 「遅いもクソもあるか! 相手の数見たんか!?」 「見とるわ! せやから全部斬ったんや!」 「結果論でドヤるなや!!」
火の消えた入口で始まる、完全に場違いな喧嘩漫才。
村人たちは呆然と、その光景を見ていた。
――が。
誰かの、ひそひそとした声が漏れる。
「……蒼の、光瘦……」
別の声が、重なる。
「……あの色……間違いない……」
ざわり、と空気が変わる。
一人の村人が、震える指でチエを指さし、叫んだ。
「厄災を招く……蒼の光瘦だぁぁぁ!!」
その叫びが、引き金だった。
「出ていけ!」 「厄災だ!」 「村に災いを呼ぶな!」 「出ていけ! 出ていけ!!」
恐怖と疑念が、怒号となって膨れ上がる。
チエの目が見開かれ、我に返る。
「……あ……」
カイはその様子を見て、短く天を仰いだ。
「……アチャー」
後方から、張りのある声が割って入る。
「皆!! 何を言ってるんだい!!」
村長の妻――豪快な母親が、人波をかき分けて前に出る。
「あの子はね! 私たちを助けてくれたんだよ!!
あんたたちの家も、子どもも!!」
しかし、その声は怒号に呑まれていく。
「蒼の光瘦!」 「厄災め!」 「出ていけ!!」
言葉が刃となり、チエの胸を刺す。
チエは唇を強く噛み締め、俯いた。
「……」
その肩に、ふわりと影が落ちる。
カイが、何も言わずにフードを被せた。
そして、チエの肩をしっかりと掴む。
「行こか」
それだけ言って、振り返らずに歩き出す。
チエは一瞬だけ村を見回し――何も言わず、その背に従った。
二人の姿は、村の外れの闇へと溶けていく。
火の消えた村に残ったのは、
恐怖と後悔、そして――言葉にできない沈黙だけだった。




