一時の暖灯
村娘は、まだ少し震える脚で立ち上がると、深く、深く頭を下げた。
「……あ、あの……本当に、ありがとうございました……
命の恩人です……」
言葉を探すように、胸の前で手を握りしめ、意を決したように顔を上げる。
「よ、よければ……村で……その……
せめて、お礼を……!」
チエは、即座に顔を背けた。
「要らん」
一言。
氷みたいに短い。
「……森抜けるついでやっただけや」
そのまま踵を返そうとするチエに、
カイが「あっ、ちょ、ちょちょちょ」と慌てて割って入る。
「いやいやいや!
そら命救われた側が“お礼したい”言うてるのに、それ切るんは人としてどうなん?」
「どうもこうもあらへん」
チエは面倒くさそうに言い捨てる。
「腹も減ってへんし、用もない」
「嘘つけや。朝から何も食うてへんやろ」
「……関係ない」
「大アリや」
カイは即答し、村娘に向き直る。
「なぁ? こういう時はな、助けた側が遠慮するより、
助けられた側の気持ちを受け取る方が、丸く収まるんやで?」
村娘は、こくこくと何度も頷く。
「は、はい……!
粗末なものしか出せませんけど……!」
「粗末で十分十分。
なんなら粗末な方が胃に優しい」
「カイ」
チエが低い声で呼ぶ。
「……何勝手に決めとんねん」
「勝手ちゃう。これは外交や」
「どこがや」
「村との友好関係構築。
あと情報収集。あと寝床確保。あと飯」
指を折りながら、当然のように並べる。
「……最後本音やろ」
「一番大事や」
チエは眉をひそめ、明らかに嫌そうな顔をする。
「面倒くさい」
「面倒くさい言う割に、さっきオークは一瞬でバラしたやん」
「それとこれは別や」
「別ちゃう。
“力で解決できへんこと”を処理する係が、ワシや」
そう言って、カイはチエの肩に腕を回す。
「ほらほら。
ちょっと行って、ちょっと食うて、ちょっと休んで、
ちょっと情報聞いて、ちょっと寝るだけや」
「……“ちょっと”の数おかしい」
「気のせいや」
チエはしばらく無言で村娘とカイを見比べ、
最後に小さく舌打ちする。
「……日が沈む前までや」
「よっしゃ!」
カイは即座に村娘へ笑顔を向けた。
「ほな案内してもらおか。
この子、人見知り激しいねん。噛まへんから安心してな」
「誰が噛むか!」
チエは即座に突っ込みつつ、
結局、二人の後ろについて歩き出した。
まんまと丸め込まれたことを、
本人だけが認めていない――そんな背中で。
村へ続く細い道を、三人は並んで歩き出す。
森は静かだった。
だが、その奥で何かが、確実に動き始めていることを、
まだ誰も知らない。
村の入り口を抜けた瞬間、空気が変わった。
人の気配。
生活の匂い。
焚き火と土と、獣の皮の混じった、落ち着かない匂い。
チエは無意識に一歩、村娘から距離を取った。
「……人、多い」
「そら村やからな」
カイは対照的だった。
歩きながら、すれ違う村人一人ひとりに、軽く手を挙げて声をかける。
「どーもー」
「こんにちはー」
「ええ天気ですねぇ」
「……あ、そこの子、剣触ったらアカンで?」
村人たちは最初こそ警戒した視線を向けていたが、
カイの人当たりの良さに、次第に表情を緩めていく。
一方で、チエは完全に無言。
視線は地面か、遠くの森ばかり。
村娘は、そんな二人の間を歩きながら、
何度もちらちらと後ろを振り返る。
「……あ、あの……もうすぐです」
案内された先にあったのは、
村の中でもひときわ大きな家だった。
太い柱。
広い庭。
修繕の行き届いた屋根。
「……でか」
チエが思わず呟く。
「なるほどなぁ」
カイは納得したように頷く。
「村長ん家やろ、これ」
村娘は少し恥ずかしそうに頷いた。
「は、はい……」
そして、家の前まで来ると、
扉を開けるなり、家の中へ飛び込んでいく。
「お父さーーん!!」
その声は、驚くほどよく通った。
「私、帰ったよ!!
それでね、森でオークに追われて……
この人たちが助けてくれて……!」
外にまで、はっきり聞こえる。
「命の恩人なの!!
すごく強くて、青く光る剣で……!」
チエの顔が、みるみる険しくなる。
「……やめろ」
「いやもう遅いって」
カイは小声で返す。
「……目立つ」
「とっくに目立ってる」
「帰る」
踵を返そうとした、その瞬間。
「はいはいはい、逃げ場封鎖〜」
カイが後ろからチエの背中をぐいっと押した。
「ちょ、カイ!」
「観念し。
ここまで来たら、腹くくるしかあらへん」
「聞いてへん!」
「聞かんでええようにしたんや」
そのまま、ずるずると玄関の中へ押し込まれる。
「いらっしゃいませぇぇぇぇ!!」
中から響く、村娘の明るすぎる声。
チエは完全に嫌そうな顔で、
靴音を立てないように、そっと中へ足を踏み入れた。
一方、カイは満面の笑み。
「どうもどうも〜
通りすがりの善良な冒険者でーす」
その瞬間、
家の奥から、低く落ち着いた男の声が返ってきた。
「……話は、聞いている」
チエは心の中で、静かにため息をついた。
――もう、逃げられへんな。
こうして、
二人は村の“中心”へと、完全に足を踏み入れてしまった。
村長は思ったよりも小柄な男だった。
日に焼けた顔に深い皺、けれど目はどこか人懐っこく、落ち着きなく娘の無事を確かめるように視線を走らせている。
「怪我はないか? 本当に大丈夫なのか? さっきの話は本当なんだろうな?」
娘は少し呆れたように笑いながらも、助けられた経緯をもう一度説明する。
そのたびに村長は何度も頷き、何度も胸を撫で下ろした。
そこへ、奥の部屋から豪快な足音と共に現れたのが母親だった。
大きな体躯に張りのある声、腕を組んでチエとカイを一瞥すると、即座に深く頭を下げる。
「命の恩人だね。礼を言うよ。本当にありがとう」
有無を言わせぬ圧だった。
続けざまに「飯、食べていきな」と断定口調で言われ、チエは一歩引きかける。
「いや、うちは別に……」
「まぁまぁまぁ!」
即座に割って入ったのはカイだった。
「こんな立派な娘さんがおる家や。そら親御さんも誇らしいやろ?」
その一言で村長の目が輝いた。
「そうだろう!? この子は昔からな──」
始まった娘自慢は止まらない。
カイは相槌を打ちながら絶妙に煽り、二人はすっかり意気投合してしまった。
チエは母親の迫力と、盛り上がる男二人を見比べ、そっと肩を落とす。
「……しゃあないなぁ」
渋々、腰を下ろすチエの背中を、母親が満足そうに叩いた。
食卓には次々と料理が並べられていった。
焼いた肉、煮込み、山菜の和え物、香草の効いたスープ。
木製の大皿が置かれるたび、湯気と香りが部屋を満たしていく。
「さあさあ、遠慮しないで。たくさん食べて」
母親は一切手を休める気がない。
チエの前にはすでに皿が二枚重なっているというのに、さらに別の料理が置かれる。
「ちょ、ちょっと待ってぇな……それ以上は入らんて……」
チエが引きつった笑みで言うが、母親は気にも留めない。
「若いんだから、食べなきゃ損よ」
一方その頃。
「……それでな、この子が五人姉妹の長女なんだ」
村長はすっかり上機嫌だった。
食卓には村娘を含め三人の娘が並んでおり、皆どこか目元が似ている。
「へぇ〜、五人もか。そら賑やかやろなぁ」 カイが楽しそうに頷く。
「毎朝が大変でね。家の中が戦場みたいだよ」 「わかるわ〜、それ絶対楽しいやつや」
完全に話が噛み合っている。
「残りの二人は、今は首都に出ているんだ」 村長は少し誇らしげに言った。 「上の二人でな。もう立派にやっている」
娘たちが照れたように笑う。
「首都かぁ……それは大したもんや」 カイは感心したように杯を持ち上げる。 「ええ育て方した証拠やな」
「そうだろう!」
村長の声は一段と大きくなり、話は止まる気配がない。
その横で。
「……カイ、ちょっと……」
チエは山のような料理を前に、小声で呼びかけるが――
カイは村長の娘自慢に夢中で、まったく気づかない。
「これもどう?」 「それ、体にいいのよ」
母親の追撃が止まらない。
チエはついに観念し、箸を持ったまま天を仰いだ。
「……なんでうちは、いつもこうなんや……」




