闇の閃光
――森は、逃げ場にならなかった
――はあっ、はあっ……!
湿った森の空気を裂くように、荒い息がこぼれる。
少女は両腕でバスケットを抱え、木々の間を必死に駆けていた。
枝が頬をかすめ、足元の落ち葉が滑る。
それでも足を止めることはできない。
後ろから、低く濁った唸り声が聞こえた。
――グゥ……ォオ……
獣のようでいて、獣ではない。
喉の奥で腐った何かを転がすような、不快な音。
少女は歯を食いしばり、さらに速度を上げた。
心臓が胸を打ち破りそうなほどに脈打つ。
(お願い……お願いだから……!)
だが次の瞬間、足元の根に躓いた。
きゃっ、という短い悲鳴とともに、身体が前のめりに倒れる。
土と落ち葉が視界を埋め、バスケットが手から離れて転がった。
中身の果物が散らばる音が、やけに大きく響く。
背後から、唸り声が近づいた。
――グルゥ……グァァ……
一つではない。
二つ、三つ……それ以上。
重たい足音が、確実に距離を詰めてくる。
少女は震える手で地面を掴み、必死に身体を起こした。
振り返ることはできない。
バスケットを見る余裕もなかった。
ただ、立ち上がり、再び走り出す。
木々の隙間から差し込む光が、やけに遠く感じられた。
背後で、何かが嗤ったような気がした。
――もう、すぐそこまで
少女は枝をかき分け、ほとんど転がるように森を駆け抜けていた。
腕や頬に引っかかる痛みなど、気にする余裕はない。
――はっ、はっ……!
息が喉に張り付き、肺が焼けるように苦しい。
足元の感触も、もうほとんど覚えていなかった。
それでも、無意識に振り返ってしまう。
木々の影が揺れ、闇の奥で何かが蠢いた気がした。
――グゥ……グァァ……
確実に、近づいている。
少女は叫びそうになるのを必死に堪え、前だけを見て走った。
枝を払いのけ、低木を踏み越え、必死に足を前へ出す。
次の瞬間だった。
――ズンッ。
右足に、信じられないほどの衝撃が走る。
「……っ!?」
鈍く、重い痛み。
悲鳴すら出ないまま、身体がよろめく。
数歩も持たず、膝から崩れ落ちた。
土の上に倒れ込み、震える手で右脚を見下ろす。
そこには――
深く突き立った、一本の矢。
赤黒い血が、すでに滲み始めていた。
「……あ……あ……」
声にならない声が、喉から漏れる。
背後から、足音がはっきりと聞こえた。
――ドス……ドス……
重く、乱暴な踏みしめる音。
そして、唸り声が、すぐそこまで迫っている。
――グルゥ……グァァァ……
恐怖が、一気に押し寄せた。
呼吸が乱れ、胸が上下に激しく揺れる。
息を吸おうとしても、うまく入ってこない。
視界が、滲む。
涙が溢れ、森の景色が歪んでいく。
(いや……いや……)
祈りの言葉すら、頭から抜け落ちていた。
ただ、迫る気配だけが、残酷なほど鮮明だった。
少女は震える手で、右脚に突き刺さった矢を掴んだ。
「……ぬ、抜け……」
歯を食いしばり、力を込める。
だが、指先に伝わるのは、生々しい痛みだけだった。
「っ――あぁっ!!」
声にならない悲鳴が漏れる。
腕に力が入らず、矢はびくりとも動かない。
その時だった。
――バサッ。
正面ではない。
斜め前の草むらが、大きく揺れた。
「……っ!」
心臓が跳ね上がる。
――バサ、バサバサッ!
揺れは一つじゃない。
複数だ。
足音が、もう隠そうともせず迫ってくる。
――ドス……ドス……ドス……
息が、急激に浅くなる。
はっ、はっ、はっ……
喉が狭まり、空気がうまく通らない。
ヒュ――ッ、ヒュ――ッ……
自分の呼吸音が、やけに大きく聞こえた。
――グァァァァァ!!
獣じみた咆哮と共に、影が飛び出してくる。
醜悪な顔。
牙を剥き、濁った瞳で獲物を見下ろす――オーク。
「……いや……」
次の瞬間だった。
――キィン。
澄んだ、金属音。
青い光が、視界を裂いた。
縦に。
横に。
斜めに。
幾筋もの蒼光が、一瞬で森を走り抜ける。
オークたちの動きが、ぴたりと止まった。
そして――
ずるり、と。
身体が、崩れ落ちた。
肉片が、ばらばらと地面に散り、
遅れて、血しぶきが少女の視界を赤く染める。
あまりに一瞬で、悲鳴すらなかった。
少女は、呆然とその光景を見つめる。
血の雨の向こう。
そこに――
青く輝く剣を手にした、ひとりの少女が立っていた。
揺れる光を纏い、
まるで森そのものが道を譲っているかのように。
その姿だけが、やけに鮮明に見えた。
血と土と、異様な静けさが残る空間に、青い剣を手にした少女が立っていた。
チエは剣を一振りもせず、ただ鞘へと納める。
カチリ、と乾いた音。
彼女は倒れ伏す“それら”には一切視線を向けず、
ふい、と横を向いた。
その足元には――
サイコロの目のように、無惨に切り刻まれたオークの残骸が転がっている。
そこへ。
「……ひぃ……ひぃ……っ!
ちょ、ちょ待てや……速すぎやろ……っ」
森の奥から、情けない息遣いと共に一人の男が飛び出してくる。
長い外套を翻し、細身の体を前屈みにしながら、必死で走ってきた。
カイだった。
「まったく……また置いていきよって……
オークがサイコロステーキになっとるやないか」
転がる死骸を一瞥し、肩をすくめる。
「芸術点は高いけどな。
後片付けする身にもなってほしいもんやで、ホンマ」
そう皮肉を零しながら、彼は怯えて動けずにいる村娘へと歩み寄る。
チエは相変わらず、興味なさそうにそっぽを向いたままだ。
カイは膝をつき、できるだけ穏やかな声で言った。
「もう大丈夫や。怖かったな」
村娘は震えながらも、小さく頷く。
右脚には、まだオークの矢が深々と突き刺さっていた。
「今から抜くけど、一瞬やからな。
……信じて」
そう言って、カイは矢を掴み、一気に引き抜く。
村娘が短く悲鳴を上げるが、
ほぼ同時に、淡い青の光がカイの掌から溢れ出した。
治癒魔法。
光は傷口を包み込み、裂けた肉と血をなぞるように塞いでいく。
痛みが引いていくのが、村娘自身にもはっきりと分かった。
「ほら、もうええ。跡も残らんで」
そう言って、カイはにこりと笑う。
その背後で、チエは何も言わない。
ただ静かに、森の奥を見つめていた。
まるで――
この先に待つ“何か”を、既に知っているかのように。




