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救いのないこの異世界で 〜異世界転移した俺は、英雄ではなく奴隷だった〜  作者: 鏡月胡桃
第二章 奴隷奮闘編

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第八話 『奴隷市場』

 ……ここは?


 意識が浮上するにつれ、まず耳に届いたのは、低く、湿った空気の音だった。

 ざわめき。金属が擦れる音。どこかで鳴る、短い悲鳴。


 目を開ける。

 視界いっぱいに、黒ずんだ鉄格子があった。

 あの地下の部屋と鉄格子の種類は変わらないが、状況はまるで違う。


 牢屋ではなく、檻。


 縦横に組まれた鉄の棒が、俺を囲っている。

 いや、囲われているのは俺だけじゃない。視線を巡らせると、同じような檻がいくつも並び、その一つ一つに、人影があった。


 ……檻。


 理解した瞬間、背筋が冷える。


 花園で、レギぺギドと戦った。

 グラッシュ・ルーズに追い詰められ、最後はアイツに......。


 「……あ」


 声を出そうとして、喉がひどく乾いていることに気づいた。

 あの日から、そこそこ時間が経っているということなのだろう。


 体を動かそうとする。

 その瞬間、手首と足首に、ずしりとした重みが伝わった。


 鉄製の重りだ。


 拘束具の冷たさが、皮膚を通して骨にまで染み込んでくる。


 服も違う。

 着ていたはずのものはなく、代わりに身につけているのは、土と汗で汚れた、ぼろ布のような服だけだった。


 ……なるほど。


 状況が、嫌というほど噛み合っていく。


 「……奴隷、か」


 呟いた声は、驚くほど冷静だった。


 異世界に来て、命がけで戦って、そして今は檻の中。

 奴隷として売られている。

 そしておそらく、この場所は奴隷を売買するための場所。奴隷市場とでも言うべきなのだろうか。


 笑えない。

 けど、驚きもしなかった。


 あの戦いで、死を覚悟するほどだ。その死よりも奴隷になるのは嫌だったけれど。それでも、そうなることは少しはわかっていた。


 ただ一つ、問題があった。


 力が、出ない。


 魔法どころか、指先にすら力が入らない。

 首元に違和感を覚え、手を伸ばそうとして、ようやく気づいた。


 皮膚の下に、何かが埋まっている。


 ……ギュッチャの実。


 レギぺギドが言っていた、弱った生物から体力と魔力を吸い取る植物。

 弱者を縛るためだけに存在する、()()()()()()()


 試しに、それを引き抜こうとした。

 だが、びくともしない。


 力がない者には、抜けない。

 力がない者だからこそ、吸われる。


 実に、よくできている。


 「……最悪だな」


 吐き捨てるように言って、檻の天井を仰いだ。


 この先、どうなる?


 考えなくても、答えは見えている。

 売られるか、使い潰されるか、殺されるか。


 弱者に、選択肢はない。



 ――――



 意識が戻ってから、どれくらい経っただろう。一日は経っていないだろうが。


 時間の感覚は曖昧だったが、この市場の入口から差し込む太陽の光からおおよその時間帯はわかった。

 そして何度か水と、硬いパンが与えられた。

 量は少ないが、他の檻よりはましらしい。


 その理由も、すぐに分かった。


 この市場では、奴隷にも()がある。


 言葉を理解できるか。

 指示に従えるか。

 力があるか。

 魔法が使えるか。


 条件が多いほど、値段は上がる。


 皮肉な話だ。

 知性があるからこそ、高く売れる。


 周囲を見渡すと、言葉を発せない者、視線が合わない者、明らかに正気を失っている者もいた。

 そういう奴隷は、狭い檻に詰め込まれ、食事もろくに与えられていない。


 俺はまだ、()()だった。


 だから、水とパンが出る。

 だから、すぐには殺されない。


 その事実が、胸に重くのしかかる。


 「おいおい、おっちゃん。こいつ、さすがに高すぎねえか?」


 檻の外から、声がした。


 恰幅のいい男と、商人風の男が、俺を品定めするように見ている。


 「言葉も喋れる。魔法も使える。知性もある。健康状態も悪くない。妥当だろ」


 「けどよ、こんな値段じゃ売れ残るぜ?」


 「構わねえさ。門番にでも、護衛にでも、欲しがる物好きはいる」


 ……値段。


 俺は、数字で語られている。


 「で、売れなかったらどうすんだ?」


 「決まってる。入荷して三日だ。三日経っても売れなきゃ、四日目に拷問好きのヤツに流す」


 拷問。


 一瞬、意味が分からなかった。


 「言葉が出せるやつは命乞いをするからよ、そういう変なマニアに好評なんだぜ。バカにできない金を出してくれんだ」


 理解した瞬間、胃の奥がひっくり返る。


 殺されずに、ただ痛みを与えられ続ける。


 冗談じゃない。


 「なあ、こいつにも聞こえてるんだろ?」


 「そりゃそうだ。わざわざ教えてやる義理はねえがな」


 二人は笑った。


 だが、怒りは湧かなかった。

 それどころじゃなかった。


 時間が、ない。


 三日。

 今日を含めて、あと二日。


 誰でもいい。

 金持ちでも、貴族でも、クズでもいい。


 買ってくれ。


 心の底から、そう願っている自分が、たまらなく惨めだった。



 ――――



 三日目。


 市場の入口から差し込む光が、ゆっくりと色を失っていく。


 夕方だ。


 ……終わりが近い。


 「おい、出ろ」


 檻の鍵が外される音がした。


 一瞬、心臓が跳ねる。


 買われたのか?


 期待が、すぐに打ち砕かれた。


 「これから三十分ほど歩いたところに、モノ好きがいる。覚悟しろ」


 「……え?」


 足が、震えた。


 「待ってください! まだ三日、経ってない!」


 「早めに処理しといた方が楽なんだよ」


 腕を掴まれ、引きずられる。


 抵抗する。

 叫ぶ。

 だが、力がない。


 いやだ。


 いやだ、いやだ、いやだ。


 こんな終わり方、納得できるわけがない。


 花園では、死を受け入れかけた。

 でも、それは戦いの中での覚悟だった。


 今のこれは、違う。

 拷問という痛みの末に待っている死。


 ただ処理されるだけの死。

 拒むことすら許されない死。


 「いやだ!!」


 その瞬間。


 市場の入口が、勢いよく開いた。


 「ここで、一番上質な奴隷を買わせてもらう!」


 大きく、よく通る声。


 「値段は問わない!」


 空気が、一変した。


 赤い髪の女性が立っていた。

 鍛え上げられた体。腰には剣。

 一目で分かる、ただ者じゃない。


 市場の視線が、一斉に彼女に集まる。


 「一番上質、か」


 支配人が、ゆっくりと俺を見る。


 「なら、こいつだ。金貨千五百枚」


 「問題ない」


 彼女は即答し、袋を差し出した。

 中で、金属音が鳴る。


 「釣りはいるか?」


 「いらない」


 短いやり取り。


 俺は、呆然と立ち尽くしていた。


 助かった……?


 いや。


 違う。


 俺は、選ばれたんじゃない。


 ――買われたんだ。


 彼女は俺を見ると、短く言った。


 「行くぞ」


 その声に、逆らう理由はなかった。


 外へ。

 俺は、市場から出た。


 自由ではない。

 ただ、持ち主が変わっただけだ。


 それでも。

 生きている。


 その事実だけが、今の俺を支えていた。


 外には俺を買った女性の他に、その女性よりも歳上であろう男性がいた。


 「じゃあ、右手を出せ」


 「右手?」


 よく分からなかったが、とりあえず、右手を出す。


 その右手に女性は何かをした。


 「っっ!」


 右手に激痛が走った。

 熱い。

 ただ火傷をした時のような熱さじゃない。

 鉄板でそのまま焼かれているかのような、とてつもない大火傷。


 俺は痛さにその場にへたり込む。

 右手の甲を見てみると、何かの絵が焼き付いていた。家紋のようなものだった。


 「奴隷には奴隷印が義務付けられていてな、それを付けさせてもらった。その印は消えることはない。ちなみにだが、その印には、主人の命令に歯向かわないようにする効力が付いている」


 俺は女性を見上げる。

 奴隷として。


 「さあ、話をしようか」


 今、この瞬間、俺は、奴隷として、主人を持ったのだ。

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