第四十二話 『セイシンのツヨサ:母と子 その一』
視点:日比野琴音
なぜなのだろう。
なぜか地面に沈んでいった。
そしてあたしは今、まるで海中にいるような感覚に陥っている。
沈んでいく。
地面という終着点がないから、どんどん深くへ。
『ツヨサ、ミせたまえ』
そんな声が脳内に響いて、あたしの意識は途切れた。
――――
目が覚めた。
ただ目を開けただけだけれど、その目が見る景色はいつもと違っていた。
いつもと違う。
それは今の話であって、過去のあたしからすれば、それはいつもの景色だ。
「あたしの部屋......」
かわいらしいキャラクターのぬいぐるみやらなんやらに溢れ、その空間にそぐわない電源が付きっぱなしのゲーミングPCがそこにぽつんと置かれていた。
なぜ、あたしはここにいるのだろうか。
その疑問を抱えつつ、それは魔法だからと妙に納得もしつつ、あたしはそれでも不思議に思う。
あたしは、ふと時計に目をやった。
時計は、そろそろ午後の五時を指そうとしていた。
それを見た瞬間、あたしの胸の鼓動が早くなる。
早くしないと。
それが脳内で幾度となく繰り返される。
あたしは急いでゲーミングPCを奥の方へとおいやって、ぬいぐるみで隠した。
「これなら、大丈夫」
一仕事終えて、あたしは大きなため息をついた。
時計が午後の五時過ぎを指し、玄関が開く音がした。
「琴音ちゃんただいま~」
「おかえり、ママ」
母の帰宅。
母が、家にいる。
あたしが、最も嫌いな時間。
異世界にきて、この時間からは解放されたつもりだった。
なのになんで、またこの時間を過ごさなければならないのか。
「琴音ちゃんの部屋、ちょっと確認するね」
母は、あたしの部屋へと入っていく。
部屋の隅々までをチェックして、言った。
「琴音ちゃん。なんでこの子がここにいるの?」
母は、一つのぬいぐるみを指さした。
母の顔は酷くゆがんでいた。
「ねえ、なんで?この子はここにいないと駄目だって言ったよね?
部屋の一番高いところ、琴音ちゃんをいつも見てくれますようにってお願いしたいんだけど?
ねえ、なんでここにいるの?」
「ねえ、なんで」と繰り返し、一歩ずつ、あたしに近づいてくる。
「ごめんなさい」
「ふざけないで!!」
謝ったあたしを、母は殴った。
はたくでも、強くビンタしたでもなく、殴った。
右手で拳をつくって、肩にそれをぶつけた。
よろけるあたしに、母はさらに拳をぶつける。
胸の近くに。
あたしは、その場に座り込んだ。
「ママの言うことちゃんと聞かないと駄目っていったよね?
ほら、約束して」
「琴音は、ママの言うことをちゃんと聞きます。
ごめんなさい」
それを言うと、母は満足したのか笑顔になり。
「わかればいいの」とリビングへと歩いて行った。
あたしは視界から母が映らなくなってから、部屋へと戻った。
母。
本来であれば、子を守り、子から慕われるような存在。
だが、それはあたしを除いての話だ。
日比野琴音は可愛くないといけない。
部屋はぬいぐるみや可愛いキャラクターが溢れていないといけない。
母のことはママと呼び、自分のことは琴音と言わなければならない。
そんな母の自分ルール。
それに反せば、待っているのは反省させるための暴力。
そんな母の元でしかあたしは育たなかった。
育つしかなかった。
父はそんな母に嫌気がさして、出ていったから。
母とあたしだけ。
ここは、完全に母の理想郷と化していた。
そんな嫌なことを振り返ったあたしは、今なぜここにいるのかという疑問をどうにかして解消しようとした。
いわば、事の整理である。
あたしはルーズリーフを取り出し、どこのキャラのものかもわからないシャープペンシルに書き始めた。
やはり、一番重要なところは、『ノコリのモノのツヨサ、ミサセテもらうぞ』『ソのツヨサ、セイシンなり』『ツヨサ、ミせたまえ』の言葉だろう。
精神の強さ。
これが、求められているのだろうか。
確かに、整理してみると、あたしの人生の中で、精神面で一番きついのは母の存在だ。
要は、母に打ち勝ち、精神の強さを証明しなければならないということなのだろうか。
「そうと決まればだ!」
あたしは部屋を出て、リビングでくつろぐ母のもとへと向かった。
言ってやるんだ!今までの怒りも不満も恐怖も全部全部!!
そう息巻いて母の前にやってきた。
「ママ、あのね」
「どうしたの、琴音ちゃん」
言葉が出てこない。
なんで、どうして......!
「......今日の、晩御飯って何?」
「あら、おなかがすいているの?
急いでつくるね」
母はそう言って台所へと向かった。
なんで、どうして言葉が出なかったのだろう。
なぜ、母を前にすると、ママと呼んでしまうのだろう。
これは、あたしの意思に反して起こっている。
そうするように本能がそうしている。
呪いだ。
あたしは、そんな自分への怒りを晴らすために、部屋に戻り、ゲームをしようとした。
可愛くないといけないというルールに反しているそれは、あたしにとっての救いだからだ。
ゲーミングPCを取り出し、起動する。
バレないように、音量をゼロにする。
「琴音ちゃーん。お味噌汁の具は......」
そう言いながら、ノックもなしに、無断で入ってくる母。
部屋に入らなくてもいいはずなのに、わざわざ入ってくるのが母らしい。
日比野琴音は可愛くないといけない。
これは母にとって最も大切なルールだ。
それを破っているところを、完全に見られた。
「何......しているの?」




