婚約破棄の対価は、私の年収300倍です ~元悪役令嬢、暗躍ス
王都エルドリアの午後は、いつも通り穏やかだった。王宮エターナル・パレスの応接室に差し込む陽光は柔らかく、磨き上げられた銀の紅茶セットを優しく照らしている。
静かにカップを唇へと運ぶ。
対面に座る金髪の男性、第一王子ジョシュア・グランディア殿下が、落ち着きなく指を組んだり離したりしている。私の婚約者だ。
彼が何を言おうとしているか、わかっていた。
「ルーナ」殿下が口を開く。「実は……君に大事な話がある」
「はい」
紅茶を受け皿に戻した。音一つ立てずに。
「率直に言う」殿下は私の目を見た。青い瞳に決意が宿っていた。「婚約を解消したい」
応接室に静寂が降りた。窓の外から、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。春の終わりを告げるような、少し物悲しい調べだった。
表情を変えなかった。変えるつもりもなかった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
私の声はいつもと同じ温度。氷のように冷たい、と人々は陰で囁く。ルーナ・ウィンターフェル公爵。北部の極寒の地を治める公爵である私は、その領地の名にふさわしく、常に冷静だと評されていた。褒め言葉として受け取ったことは一度もない。
「私は……」殿下が言葉を選ぶ。「聖女グレイスを愛してしまった」
ああ、やはり。内心で小さく息をついた。
聖女グレイス・ハーロウ。平民出身ながら、稀有な治癒魔法の才能を持つ少女だ。半年前、大聖堂アヴァロンで「聖女」として認定され、瞬く間に王都中の話題となった。
金髪に緑の瞳を持つ可憐な容姿と、常に泣きそうな儚げな表情。殿下のような「正義の騎士」を気取る男性には格好の餌だろう。
「君とは、三年前に婚約した。政略結婚だ。それは理解している。だが、私は……真実の愛を知ってしまった」
真実の愛。随分と安い言葉だ。
「グレイスは、私を必要としている。彼女は孤独で、誰にも守られず、ただ一人で聖女としての重責を背負っている。私は彼女を救いたい――」
「それで?」殿下の言葉を遮った。「私との婚約を解消されたい、と」
「そうだ。君は……冷たい。感情が見えない。三年間、私は君と共にいたが、君が笑ったところも、泣いたところも、怒ったところも見たことがない。君は一人でも生きていける。君に私は必要ないはずだ。むしろ、君にとって私は重荷だったのではないか」
やっと来た。三年待った甲斐があった。さあ、どんな言い訳を聞かせてくれるのかしら。
彼の言葉は、こちらにとって都合のいい解釈だ。もちろん間違ったことは言っていない。
「承知いたしました。婚約を解消いたしましょう、ジョシュア殿下」
即答すると、殿下の目が驚きに見開かれた。
「……それだけか? 何も聞かないのか。抗議も懇願もないのか」
「いたしません。殿下が望まれるのであれば、私がお引き止めする理由はございません。どうぞ、聖女グレイス様とお幸せに」
嘘ではない。本当に彼の幸せを願っている。
殿下は困惑したような表情を浮かべた。おそらく、もう少し劇的な場面を想像していたのだろう。涙を流す婚約者を毅然とした態度で振り切る、という凛々しい自分を。ふはは。残念だったな、殿下。
席を立ち、深々と一礼する。
「それでは、正式な手続きは後日、ということで。失礼いたします」
応接室を出て扉を閉める直前、殿下の呆然とした顔が見えた。
廊下に出て、そ知らぬ顔で王宮の出口へ向かう。すれ違う侍女や騎士たちが礼をするので、軽く頷きを返した。
私の首には祖母から受け継いだ小さな首飾りがかかっている。銀の鎖に、小さな青い宝石。ただの装飾品だと、誰もが思っている。その宝石は微かに温かい。何かが動き始めたことを告げるように。
*
ルーナが去った応接室で、ジョシュア・グランディアは呆然と立ち尽くしていた。
予想外だった。あまりにも、あっさりとしていた。三年間婚約していた女性が、何の抵抗もなく婚約解消を受け入れた。涙一つ流さず、声を荒げることもなく、ただ「承知しました」と言って去っていった。
やはり、彼女には感情がないのだろうか。
彼は窓辺に移動して庭園を眺めた。色とりどりの花が咲き誇っている。
これで良かったのだ。そうだと彼は自分に言い聞かせる。グレイスを救える。そして、ルーナも重荷から解放される。
三年前に婚約したとき、ルーナは十七歳だった。王宮に来た彼女は有能だった。あまりにも有能すぎた。
ジョシュアは正直なところ安堵した。ウィンターフェル公爵家は北部の要。その女公爵との婚約は、政治的にも経済的にも王家として完璧な選択だった。
しかし彼は、実際に彼女と接してみると、居心地が悪かった。彼女は常に冷静で、常に正確で、常に先を読んでいた。ジョシュアが何か発言する前に、彼女は既に答えを用意していた。困っている書類仕事も、いつの間にか片付いていた。忘れていた約束も、彼女が代わりに果たしていた。
彼は自分が無能だと言われているように感じていた。そう、それが本音。ルーナ・ウィンターフェルといると、ジョシュア・グランディアという人間が、ひどく小さく見えた。
だが、聖女グレイスは違う。彼女は弱く、儚く、守るべき存在だ。彼女の前では、強くいられる。彼には必要とされている実感があった。
「これで良かったんだ」
誰に言い訳しているのか、彼にはわからなかった。
ジョシュアは応接室を出て、聖堂へと向かう。グレイスに良い知らせを伝えなければ。彼女はきっと、涙を流して喜ぶだろう。その光景を想像すると、胸が温かくなった。
*
王宮の図書室は、静寂に包まれていた。高い天井まで続く書架には、王国の歴史を記した書物が整然と並んでいる。この部屋に入ることを許されているのは、王族と一部の高位貴族のみだ。
第二王子、レオ・グランディアは、書架の影に身を隠していた。
応接室の隣にある、小さな控え室。隣室の会話は、壁を通して微かに聞こえる。魔法を使えば、もっとはっきりと聞くこともできたが、それは必要ない。
兄が何を言うか、予想できていた、ルーナがどう答えるかもわかっていた。
やはり彼女は受け入れたか、と彼は小さく息をつく。
銀髪のルーナ・ウィンターフェル公爵の姿が、脳裏に浮かぶ。氷のような青い瞳。決して笑わない唇。しかし、時折見せる、ほんの僅かな表情の変化。レオだけが、それに気づいていた。
五年前、初めて彼女に会った時から理解していた。ルーナ・ウィンターフェルは、冷たいのではない。誰にも理解されないことに、疲れているだけだ。
そして、彼女は今、動き出した。
書架から、一冊の本を取り出す。王国の婚姻法について記された、分厚い法典だ。ページを開いて条文を確認する。第十五条。婚約破棄に関する規定。
さあ、始まる。レオは静かに本を閉じた。
兄は気づいていない。自分が何を失ったのか。そして、これから何が起きるのか。
彼はポケットから、小さな封筒を取り出した。ルーナ宛の手紙だ。すぐに届けよう。彼女が次の一手を打つために必要な情報がここにある。
図書室を出た。廊下には誰もいない。足音を殺して歩き、密かに王宮を後にした。
誰も第二王子の動きに気づかなかった。常にそうだった。影のように、誰にも気づかれず、しかし全てを見ている。それが、レオ・グランディアという男の生き方だった。
*
ウィンターフェル公爵邸は、王都の北区にある。白い石造りの広大な屋敷。周囲には、北部から運ばれた針葉樹が植えられ、一年中冬が訪れているかのような静謐な雰囲気を作り出していた。
馬車から降りて玄関をくぐった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
筆頭侍女のマーガレットが出迎える。二十八歳の彼女は、母の代から仕えている古参だ。とはいえ、八歳年上なので、私は彼女にお姉さん的な感情を持っている。彼女は完璧だ。私の前では常に、茶色の髪を後ろで一つに結び、凛とした姿勢を保っている。
「ただいま、マーガレット。お茶の用意を。それと、執務室に来てちょうだい。話があるの」
「かしこまりました」
マーガレットは一礼して厨房へ向かった。
二階の執務室に入る。父が使っていた部屋だ。父、ウィリアム・ウィンターフェル公爵は三年前に急逝した。心臓の病だった。まだ五十歳という若さで。
私は十八歳で公爵位を継いだ。女性が公爵位を継ぐのは、王国の歴史でも数えるほどしかない。当時、周囲は私を見くびっていた。すぐに領地経営は破綻して荒廃するだろう、と。
二年後、ウィンターフェル公爵領の収益は三倍になった。北部の特産品である魔石と高級毛皮の流通を独占し、新たに蒸気船を使った貿易路を開拓した。さらに、王都の銀行に投資し、莫大な配当を得ている。今や、ウィンターフェル公爵家は他の五大公爵家を抑え、王国で最も栄える領地となった。
机の引き出しを開けて、鍵を取り出した。部屋の奥にある大きな金庫。鍵を差し込み、重い扉を開ける。中には、様々な書類や宝石が収められている。その一番奥に、古い羊皮紙の束があった。
それを取り出す。表紙には、金の文字で『王家婚約証書』と記されている。ページをめくる。第一条、第二条、第三条……そして、第十五条。
その条文を音読する。
「婚約を一方的に破棄した側は、相手方の年間総収入の三百倍を慰謝料として支払わなければならない」
逆に言うと、簡単には婚約破棄できません、とも取れる条文だ。
署名欄には二つの名前。
先々代の国王、ロバート・グランディア二世。
そして私の父、ウィリアム・ウィンターフェル。
二十五年前、この契約が結ばれた時、私はまだ生まれていなかった。しかし生前の父は言っていた。
『ルーナ、この契約書は大切に保管しなさい。いつか、お前を救うことになる』
当時は意味がわからなかった。だが、今ならわかる。先王ロバート二世は、聡明な方だった。自分の孫が、いつか愚かな選択をすることを予見していたのだろう。そして、それを罰するための仕掛けを、この契約書に埋め込んだ。
私の年間総収入は、一千万金貨だ。その三百倍。三十億金貨。王国の年間予算が五十億金貨であることを考えれば、この金額がどれほど途方もないかわかる。
ノックの音がした。
「お嬢様、お茶をお持ちしました」
「どうぞ」
マーガレットが入室し、銀のトレイを机に置いた。紅茶の良い香りが漂う。
「マーガレット」婚約証書を彼女に見せた。「予定通りね」
マーガレットは表情を変えなかった。
「殿下は、契約書のことをご存知なかったのですか?」
「知っていたはずよ。婚約時に両家が署名しているのだから。ただ、内容をきちんと読んでいなかったのでしょうね。殿下らしいわ」
紅茶を一口飲んだ。
「では、これから」
「ええ。王宮に正式な通知を送る。慰謝料の請求書と共に」
「かしこまりました。準備いたします」
マーガレットは深く一礼した。
彼女が退室した後、執務室の窓を開けた。北の風が、部屋に流れ込む。少し冷たいが、心地よい。夜空を見上げると、星が瞬いていた。
ジョシュア殿下……あなたは、自分が何を失ったのか、まだ理解していないでしょうね。
でも、すぐにわかる。三日後には。
口元が緩む。小さく、とても小さく笑った。誰も見ていないこの部屋で。
*
婚約破棄から二日後の午後、ジョシュア・グランディアは王太子執務室で書類と格闘していた。
机の上には、処理すべき文書が山積みになっている。外交文書の返信、予算案の確認、貿易協定の更新書類。どれも期限が迫っているものばかりだ。
いつもなら、ルーナがこれらを処理してくれていた。いや、正確には「処理してくれていた」ことに、今になって気づいた。彼女は週に一度、この執務室を訪れていた。お茶を飲みながら世間話をする、という名目で。
だが実際には、ジョシュアが放置していた書類を、さりげなく持ち帰り、翌週には全て片付いた状態で戻していたのだ。
「くそ、この契約書の内容が全く理解できない」
頭を抱えた。南方諸国との貿易協定更新の書類だ。専門用語が並び、条文は複雑に入り組んでいる。どこに署名すべきなのかさえ、判然としない。
執務室の扉が、勢いよく開いた。
「殿下!」
宰相、ジェイコブ・ストーンが飛び込んできた。四十八歳の彼は、常に冷静沈着で知られている。その彼が、今は顔を紅潮させ、息を切らしていた。
「宰相、どうした」
「大変なことになりました。これをご覧ください」
ジェイコブは手に持っていた羊皮紙を机に叩きつけた。
ジョシュアが羊皮紙を手に取る。表題には『慰謝料請求書』とある。差出人は、ウィンターフェル公爵家。
「慰謝料? 婚約破棄に慰謝料が発生するのか?」
「通常は発生しません。しかし、殿下とウィンターフェル公爵家の婚約には、特別な契約が付随していました」
ジェイコブは額の汗を拭った。
「特別な契約?」
「はい。先々代のロバート二世陛下が制定された、王家婚約証書です」
ジェイコブが別の書類を取り出す。古い羊皮紙だ。
「この証書の第十五条に、婚約破棄に関する規定があります。読み上げます。『婚約を一方的に破棄した側は、相手方の年間総収入の三百倍を慰謝料として支払わなければならない』とあります」
ジョシュアは首を傾げた。こいつはなにを言っているのだ、という風に。
「三百倍? それは……」
「ルーナ・ウィンターフェル公爵の年間総収入は、一千万金貨です」
声が震えながらジェイコブは続ける。
「その三百倍。つまり、三十億金貨を、殿下は支払わなければなりません」
執務室が静まり返った。時計の秒針が刻む音だけが、やけに大きく響く。
「三十億……金貨だと?」
「はい。王国の年間予算は約五十億金貨です。そこから三十億を慰謝料として支払えば、軍事費、社会福祉、道路整備、全てが停止します。王国の運営そのものが、崩壊します」
ジェイコブが断言したところで、ジョシュアの手から羊皮紙が滑り落ちた。
「待ってくれ。それはおかしい。なぜ、そんな契約が」
「先王ロバート二世陛下の深慮でしょう。陛下は、王族が軽率な婚約破棄をすることを防ぐため、この条項を設けられたのです」
彼は深く息をつく。
「私は婚約時にそんな説明を受けていない!」
「いえ……受けておられるはずです」ジェイコブは別の書類を示した。「こちらが、三年前の婚約式の記録です。殿下は、この証書に署名なさっています」
そこにはジョシュアの署名があった。彼は思い出そうとする。三年前、婚約式の日。様々な書類に署名を求められた。父である国王が「形式的なものだ」と言っていたような気がする。内容を読んでいなかった。
「嘘だ。そんな金額、払えるわけがない。ルーナだって、それはわかっているはずだ。これは脅しだ」
ジョシュアは立ち上がって拳を握りしめる。
「脅しではありません」ジェイコブの声は冷たかった。「ウィンターフェル公爵家は、王国評議会に正式な訴えを提起しました。魔法契約に基づく請求ですので、法的拘束力があります」
魔法契約。それは、この世界で最も強力な契約形態だ。署名した瞬間、魔法的な拘束が発動し、違反すれば罰則が自動的に執行される。
ジョシュアが椅子に崩れ落ちる。
「どうすればいい」
「交渉しかありません。ウィンターフェル公爵との直接交渉です。減額、あるいは分割払い、何らかの妥協点を見つけなければ」
「ルーナが応じるだろうか」
「わかりません。ただ、一つ申し上げておきます。ルーナ・ウィンターフェル公爵は、王国で最も優秀な経営者の一人です。感情で動く方ではない。理性で判断なさる。つまり、取引の余地はある、ということです。彼女が本当に望んでいるものを提示できれば」
ジェイコブの表情は厳しかった。
それを見たジョシュアは目尻をもみ始めた。聖女グレイスのことが脳裏をよぎったのだ。彼女のために婚約を破棄した。彼女と結ばれるために。だが、このままでは結婚どころではない。
「グレイスにはまだ伝えるな。彼女をこの件に巻き込みたくない」
「かしこまりました。それでは、ウィンターフェル公爵との会談を調整いたします」
ジェイコブが一礼して退室したあと、ジョシュアはおもむろに窓の外を見やる。王都の街並み。守るべきこの国。それが、愚かな選択のせいで、崩壊の危機に瀕しているとジョシュアは自覚した。
ルーナ。君はどうしてこんなことを。
答えはすでにわかっていた。彼女は何も悪くない。契約書に記された通りのことを請求しているだけだ。悪いのは、契約書をろくに読まずに署名し、婚約を破棄したジョシュアだ。
彼はようやく、自分の愚かさを理解し始めていた。
*
王宮の謁見室は、荘厳な空間だった。高い天井には、歴代の王を描いたフレスコ画が施されている。大理石の床は磨き上げられ、壁には王国の紋章を刻んだタペストリーが掛けられている。
私は一人で、その広間の中央に立っていた。対面には、国王ロバート・グランディア三世が玉座に座っておられる。その隣には、王太子ジョシュア。そして宰相ジェイコブ・ストーン。三対一。だが、怯まなかった。
「ルーナ・ウィンターフェル公爵」
国王が口を開いた。五十二歳の陛下は、白髪混じりの金髪に威厳ある風貌をお持ちだ。しかし今日は、疲労の色が濃い。
「まず、息子の軽率な行動を詫びる。しかし、三十億金貨という額は……率直に申し上げて、支払いは不可能だ。王国の財政が崩壊する」
言葉を選んでおられる。
「承知しております。ですから、私も譲歩する用意がございます」
謁見室に、緊張が走った。
「譲歩、とは」
「全額の請求は致しません。ただし、条件がございます」
「条件? どのような」
陛下の前にジョシュア殿下が身を乗り出した。
かつて私の婚約者だった男性。今はただの債務者だ。
「三つの条件を満たしていただければ、慰謝料を半額の十五億金貨に減額いたします」
「十五億でも相当な額だが……」
宰相ジェイコブが口を挟んだ。
「それでも、三十億よりは遥かにましです。宰相閣下。十五億であれば、五年間の分割払いで対応可能でしょう。年間三億ずつ。王国予算の六パーセント。緊縮財政を敷けば、何とかなる額です」
ジェイコブの目が、わずかに見開かれた。理解したのだろう。私が王国の財政状況を正確に把握していることを。
「条件を聞こう」
国王が促された。
「第一の条件。ジョシュア殿下の王位継承権を放棄していただきます」
謁見室がざわめいた。
「何を言っている。私は第一王子だ。王位継承者だっ!」
ジョシュア殿下が激昂したので、普段より冷たく返す。
「でしたら、王としての責任を果たしてください。婚約破棄という軽率な行動で、国家を危機に陥れた方に、王位を継ぐ資格があるとお思いですか」
「それは……」
「第二の条件。聖女グレイス・ハーロウの、聖女資格を剥奪していただきます」
「グレイスは関係ないだろう! 彼女は何も悪くない」
再びジョシュア殿下が叫んだ。
「本当に?」私はポケットから、一通の書類を取り出した。「これは、魔法医師ギルド本部からの調査報告書です。聖女グレイス・ハーロウに関する」
書類を宰相に渡すと、それを読み上げ始めた。
「えー『聖女グレイス・ハーロウの治癒魔法は、極めて強力だが、その代償として彼女自身の生命力を消費している。現在のペースで魔法を使い続ければ、あと十年で彼女の寿命は尽きる』と記載されております……これはいったい……」
ジョシュア殿下の顔が、蒼白になった。
「嘘だ」
「魔法医師ギルドは、王国で最も信頼される医療機関です。そして、グレイス本人は、この事実を知っています。彼女自身が以前、ギルドに相談していたからです」
一息置いて続ける。
「グレイス・ハーロウは、自分の寿命を知りながら、それを殿下に隠して近づきました。おそらく、王太子妃という地位を得て、残りの人生を安楽に過ごすため」
「違う。グレイスは、そんな女性ではない」
ジョシュア殿下は首を振る。
「でしたら、直接お聞きになってはいかがですか。彼女は聖堂アヴァロンにおります。呼び出しましょうか」
提案したところで、謁見室を沈黙が支配した。
「ルーナ公爵。第三の条件は」
国王が、重々しく口を開かれた。
「ジョシュア殿下と聖女グレイスを、平民に降格させた上で、国外追放としていただきます。二人は、それぞれ別の国へ。真実の愛とやらが本物かどうか、試す良い機会でしょう」
声に感情は乗せない。淡々と要求を述べていく。
憤怒の形相で、ジョシュア殿下が椅子から立ち上がった。
「ルーナ! 君は……そこまで冷酷なのか」
震える声の彼を見つめる。かつて、愛していると錯覚していた男性。今は何も感じない。
「冷酷? 殿下こそ、私を『冷たくて人間味がない』とおっしゃいました。その通りです。私は冷酷です。だからこそ、契約を遵守し、正当な権利を主張しているのです」
「君は、復讐のためにこんなことを」
「復讐? 違います。これは、対価です。殿下が選択した行動の、正当な対価です」
国王に向き直った。
「陛下。この三つの条件を満たしていただければ、慰謝料は十五億金貨に減額し、五年間の分割払いを認めます。拒否なさるのであれば、全額三十億金貨を、即座にお支払いいただきます」
国王は長い沈黙の後、深く息をつかれた。
「ルーナ公爵。一つ、聞かせてほしい。君は、最初からこれを計画していたのか」
答える必要はなかった。国王は既に全てを理解しておられる。ウィンターフェル公爵家の兵、十五万が王都外縁を取り囲んでいる。……その意味を。
「ジョシュア。お前は、王位継承者としての資格を失った。今ここで、継承権を放棄しなさい」
「父上っ!?」
「これは命令だ」
有無を言わさぬ声に、ジョシュア殿下は膝から崩れ落ちた。
「……承知、いたしました」
その光景を見ても、何も感じなかった。いや、嘘だ。ほんの少しだけ、胸の奥が痛んだ。でもそれだけだ。
「ルーナ公爵。条件を全て受け入れる」
「ありがとうございます、陛下」
深々と一礼した。
謁見室を出る時、振り返らなかった。振り返る理由がなかった。廊下でマーガレットが待っていた。
「お嬢様」
「終わったわ。これで私は自由よ」
マーガレットは何も言わずに頷いた。
王宮を後にすると、夕暮れの空が赤く染まっていた。何かの終わりと、何かの始まりを告げるように。
*
国王の決定から三日後、ジョシュア・グランディアは王宮の一室に軟禁されていた。
小さな部屋だ。窓はあるが、鉄格子がはめられている。家具はベッドと机と椅子のみ。王子の部屋とは思えない簡素さだった。しかし文句を言う資格はない。彼は全てを失った。王位継承権。王太子という地位。未来。全てを。
彼は来週、平民に降格され、南方の商業都市へ追放される。二度とこの国には戻れない。
扉がノックされた。
「入れ」
鍵が開く音。扉が開くと一人の女性が入ってきた。金髪に緑の瞳。聖女グレイス・ハーロウだ。いつものように泣きそうな表情を浮かべている。
「殿下。私は信じられません。どうして、こんなことに」
ジョシュアは、声の震える彼女へ目をやる。かつて愛していると思った女性。だが今は違う感情が湧き上がっている。
「グレイス。君は知っていたのか」
「何を、ですか」
「君の寿命のことだ。魔法医師ギルドに、相談していたそうだな。君の治癒魔法が、君自身の命を削っていることを」
グレイスの表情が一瞬だけ固まった。ほんの一瞬。だが、彼は見逃さなかった。
「それは……私は殿下に心配をかけたくなくて」
「嘘をついた、ということか」
「嘘では」
「では何だ。君は自分があと十年しか生きられないことを知っていた。それなのに、私に近づいてきた。なぜだ」
グレイスは俯いた。
「殿下を、愛していたから」
「本当に? それとも、王太子妃という地位が欲しかっただけか」
ジョシュアの声が低くなる。
「違います」その目に涙がにじむ。「私は本当に、殿下を愛しています。だからこそ、残りの人生を殿下と共に過ごしたかった」
「その結果が、これか」ジョシュアが部屋を見回す。「君のせいで、私は全てを失った」
「私のせい、ですか」
グレイスの声がわずかに変わった。涙は流れている。だが、その声に、何か別の感情が混じっている。
「殿下。婚約を破棄したのは、殿下ご自身です。私は、殿下に頼まれたわけではありません」
「だが、君が」
「私が何をしましたか。私はただ、殿下に優しくされて、嬉しかった。それだけです。婚約破棄を唆したことは、一度もありません」
グレイスの声が強くなったことで、ジョシュアは言葉を失う。確かに、グレイスは何も言っていない。婚約を破棄しろとも、ルーナを捨てろとも。全て、ジョシュア自身が決めたことだ。
「殿下は、ルーナ様を見下していました。冷たくて感情がない、と。でも、それは違います。ルーナ様は、ただ殿下に理解されていなかっただけ」
「君は、ルーナの味方なのか」
「味方も何も。私は、真実を言っているだけです。殿下は、ご自分で選択なさった。その結果を、私のせいにしないでください」
グレイスは首を振って扉へ向かった。
「来週、私も東の小国へ追放されます。もう、お会いすることはないでしょう。殿下、どうか……ご自分の選択を悔いてください」
振り返ってそう言いながら、彼女は出ていった。
一人取り残されたジョシュアは窓辺に座り込む。鉄格子の向こうに、王都の街並みが見える。将来的に彼が守るはずだったこの国は、もう関係ない。
ジョシュアの瞳からほろりと涙がこぼれた。それは、王子としての最後の涙だった。
*
一ヶ月後、王都エルドリアの社交界に、久しぶりの大規模な夜会が開かれた。場所は王宮の大広間。シャンデリアの光が、貴族たちの華やかな衣装を照らしている。
私はバルコニーに出て、夜空を見上げていた。黒いドレスを纏っている。喪服ではない。力を象徴する色だ。
「やはり、ここにいたか」
背後から低い声がした。
振り返ると、一人の男性が立っていた。黒髪にグレーの瞳。眼鏡をかけた知的な雰囲気の男性。レオ・グランディア。第二王子だ。
「レオ殿下。お久しぶりです」
軽く一礼した。
「お久しぶり、か。昨日も、手紙をやり取りしていたというのに」
何も答えなかった。答える必要がなかった。レオが私の隣に並ぶ。
「兄が国外に去った」
「存じております」
「グレイスも」
「ええ」
しばらく沈黙の中にいた。心地よい沈黙だった。
「ルーナ。君は全てを計画していたのか」
「何のことでしょう」
「とぼけるな」
わざとらしすぎて苦笑する。バルコニーとはいえ、人目のある場での小芝居。周囲の人びとはすました顔で聞き耳を立てていた。
レオが急に声を落とした。周囲に聞こえないように魔法障壁を貼るという、ある意味、密談宣言だ。
「三年前、兄と婚約した時から、君は婚約破棄を計画していた。契約書の条項を確認し、グレイスという駒を配置し、兄を誘導した」
答えなかった。否定も肯定もしなかった。レオが乗ってきたのだから。
「俺は君のやり方に感心している。見事だ。法に則り、正当な手段で全てを手に入れた」
「ジョシュア殿下は、全てを失いましたが?」
「あれは自業自得だ。兄は選択を間違った。それだけだ」
彼は断言した。興奮しているのか、少しかかっている。軌道修正しなければ。
「レオ殿下。なぜ、私にそこまで理解を示してくださるのですか」
「理由が必要か?」彼が私の方へ向き直る。「ルーナ・ウィンターフェル。俺は五年前、君と初めて会った時から――」
「ダメですよ、殿下。それ以上は」
私は彼の唇を人差し指で塞いだ。
(了)
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