4 楽園という名の箱庭
「これは⋯⋯どういうことでしょうか」
麻で編まれた籠を手に、いつも見ていた薬草園とは明らかに違う景色を前に、セラータは心細くなっていた。
美味しい朝食を食べ、授業に熱中してもいいように、昼食のサンドイッチとちょっとしたおやつ、保温の魔術加工されたポットに紅茶も入れてもらって、オリバーとニーナと共に薬草園に出向いたまでは良かった。
収穫に適した錬金工房のハサミと切るべき場所のレクチャーを受けて、しばらく自由に摘んできていいと言われて二人と別れ、セラータはローズマリーを摘んでいた。
一番初歩的なチンキを作って、そこから軟膏にすれば日常でも使いやすいだろうと考えたのだ。
ウキウキとした気持ちで籠いっぱいのローズマリーを撫で、立ち上る香りに気分を良くしながら、次はタイムを切ろうかなと立ち上がり一歩を踏み出しただけだった。
その一歩で、全てが変わるなんて誰が思うだろう。
目の前に広がるのは、ホーソン領とは異なる季節の場所だった。
自分の過ごしている領地は春で、目の前に広がる景色はオレンジや茶色で、どう見たって──秋だ。
フィーバーフューの白い小さな花が沢山咲いている。
反対側を向けば、ワイルドストロベリーの実が赤く熟していて、収穫されるのを今か今かと待っているようだ。
けれど、不穏なほど綺麗で静かな場所に、セラータの第六感ともいうべき部分が、決して手を触れるべきではないと警告を発している。
そのまま動かずにいると、背後で空気が動いた。
「ほぉ⋯⋯人間の子供とは珍しい。それも、赤子ではなくデビュタントを数年後に控えた年頃か」
温かみのない声に、緊張感を滲ませながら振り返れば、一人の青年が立っていた。
栗色の髪を一つに結んで右肩に流し、襟や袖の部分がフリル状になっているゆったりとしたシャツと薄手のズボンを身に着けた姿は、どこか休暇中のカシアとよく似ている。
一瞬、慣れ親しんだ様子に気を許しかけるが、そっと顔を伺えば時期尚早だったことに気がつく。
相手のセラータを見る硬質なダイヤモンドの輝きを持つ瞳には、好意的な様子は微塵も伺えない。
喋りかけることすら許されていないようで、動くことさえすべきではないとさえ感じさせた。
「⋯⋯なかなか懸命な子供のようだな。保護者はどこだ?」
表情には出ていないものの、声には少なからず驚きが混じっている。
セラータの親を探すように、辺りを見回している彼の横顔を見れば、髪の間から人間とは違う少しだけ尖った耳が現れた。
前世で言うところのファンタジー世界にいるエルフの耳のようにも見えるが、長く尖っている訳ではない。
人間の耳の先を丸いと表すなら、その部分が少し尖って見えるといった程度だ。
今まで見たこともない自分とは違う要素に惹かれてじっと見ていると、聞き逃してしまいそうなほど小さな笑う音に目を反らした。
「そんなにわたしの耳が珍しいか?」
「ご、ごめんなさい。じろじろ見るだなんて失礼なことをして」
バツが悪くなって謝れば、先程まで纏っていた剣呑な空気が嘘のように消えていた。
「妖精の領域に足を踏み入れ、妖精の指輪を持っているくせに、おかしな奴だ」
「私には、まだ妖精さんたちの姿は見えません。この指輪も、どうしてプレゼントされたかのさえ分からないのです」
「やはり見えていないのか。だが⋯⋯」
少し考え込む様子を見せた彼は手を伸ばし、セラータの顎を指先で上げさせると複雑に煌めく瞳で、まるで目の中を覗き込むように目を合わせた。
「妖精が好む緑の瞳を持たないお前がどうしてと思ったが⋯⋯面白い魂の作りをしているな。どちらもお前の魂で間違いないのに、まるで時代の違う魂がくっついているように見える」
すべてが分かっているかのように言われ、どきりっとした。
【時代の違う魂】
前世を思い出したことと関係があるのだろうか。
今日、この時まで魔術師のオリバーですら、セラータの変わった点に気がついていないのに──。
このことが何をもたらすのかさえ分からず、未来に向けて手探り状態なのに、知られて良い相手なのかすら分からない。
セラータはまだ、彼の名前すら知らないのだ。
「そう身構えるな。力の強くない妖精たちは、その魂に惹かれたのだろう」
顔を強張らせるセラータに気がついた彼は、白く線の細い手で彼女の秋よりも冬が合いそうな夜空色の髪を撫でた。
毛のある生物を撫でたことがないような、不器用な手つきではあったが温かいものだった。
身を任せたくなる心地よさに目を閉じようとすると、撫でる手がぴたりっと止まってしまう。
なんだろうかと見上げれば、別の所を見ている彼の目元が僅かに険しくなった。
「⋯⋯どうやら、迎えが来たようだぞ? あの出入り口の作りは、ローゼのものだな。だとすると、お前は」
最後の方には、声が小さくなりすぎてセラータの耳では聞き取れなかった。
なにか重要な事かもしれないと聞き返したかったが、質問出来るような間柄ではない。
大人しく口を閉じれば、強い風が吹いてフィーバーフューの花を揺らし、白い花弁を舞い上げた。
「セラータお嬢様っ!」
あまりの風の強さに、ぎゅっと目を瞑っていた目を開ければ、視線の先に走ってくるオリバーが見えた。
「先生、どうしたのですか? そんなに慌てて」
切羽詰まった顔つきに、セラータは内心驚いた。
自分は数十分程度の迷子で、ここまで心配されるほどの幼子ではない。
「どうしたのではありませんよ! 一体、どれほどの時間が経っていると思っているのですか!」
頭ごなしに怒られて、ちょうど反発心も育まれる年頃のセラータは、むっとした。
「ほんの三十分ほどはぐれただけではないですか! たしかに心配かけたとは思いますが、私は幼子では」
そこまで言って、セラータはオリバーの手元に視線が釘付けになった。
彼の手には、魔鉱石のランタンが握られていたのだ。
最初に思ったのは、まだお昼前なのになんでだろうという点だった。
夜じゃないかぎり、明かりが必要になるのは洞窟だが、そんなところまで探しに行かせてしまったのだろうかと思えば、さすがのセラータの心に罪悪感が湧いてくる。
「⋯⋯ご心配をおかけ」
頭を下げたところで、自分の考えが違うことに気がついた。
魔鉱石ランタンで照らされていない足元が真っ暗だったのだ。
(えっ!)
慌てて頭を上げて空を見上げれば、きらきらとした星が瞬いていた。
どう見ても日が沈んだばかりではなく、夜も深い時間の暗さだ。
「ようやくお気づきですか? セラータお嬢様は、十三時間ほど行方不明だったのですよ」
「そ、そんなに⋯⋯時間が経っているだなんて気がつきませんでした。だって、長くても三十分程度だと」
「あなたが入ったのが、妖精の領域だからです。あそこの時間の流れは、誰にも予測がつかない。中にいる妖精によって、経過する時間の流れが変えられているのですよ」
オリバーは疲れ切った顔で言った。
「わたしの契約している妖精であるローゼは、そこまで弱い妖精ではないんです。そんな彼女ですらお嬢様がいないこと、場所を補足するのにかなりの時間を有しました。あなたが対面したのは、妖精の中でも類稀な存在の方でしょう」
「それって⋯⋯」
「ローゼもおいそれと口に出来ない名の方ということです。さあ、お屋敷に帰りましょう」
探すことに手を貸してくれたローゼの姿を見ることは叶わず、お礼も言えないまま屋敷に戻ったセラータは、当然だがアーベントとセリーナにこっぴどく叱られることになった。もちろん、ニーナには泣かれてしまった。
そして危なく、遠くにいる兄たちにも十三時間もの失踪を報告されてしまい、二度と妖精と接触しないように薬草園への立ち入りと植物魔法の勉強を禁止されるところだったが、そこはオリバーがうまく宥めてくれて事なきを得た。
今回がたまたまであって、そう簡単に特別な妖精の領域に足を踏み入れられるはずがないと思っていた。
きっと、オリバーだってそう思っていたはずだ。
セラータの考えは、何一つおかしくない。
妖精はただでさえ気まぐれで、執着を持たない種族とも言われている。
妖精がそう考えている理由も、人間と時間の流れも寿命も違うからだと言われているのだ。
一回迷い込んだだけの人間のことなんて、一晩経てば忘れてしまうだろう。
そう思っていたのに、翌日薬草園に収穫に出ると、またもやセラータはあの青年の領域に立たされていた。
唖然としながら佇む彼女に、彼は不思議そうな顔を向けてくる。
「どうした? 収穫しないのか?」
気楽にその会話に答えて良いのか分からず言葉に困っていると、彼の周りに小さな光がいくつも漂った。
「⋯⋯ああ、そういうことか。きちんと別の種族と距離を保つとは賢いな」
様々な種族が行き来する辺境の地で育ったセラータは、幼い頃から他種族との関わりについて学ばされている。
妖精と距離を取るべき理由は、妖精には人間の決まり事が通用しないからだ。
自身の国のルールに従い、縛られることがない。
何よりも、自分が気に入り許した相手以外とは話もせず、むやみに話しかけ殺されることもある。
相手が喋る許可を出すまで、慎重にならなければならない。
ましてや、名前を聞くなどご法度である。
名前は相手との繋がりを作るもので、妖精や魔族はそれで相手を縛ることもでき、どんなことに使われるか分からない。
「喋りかけること、発言することを許す。わたしのことは、フェリーズと呼べ」
「あ、ありがとうございます。フェリーズ様」
「敬称は必要ないが⋯⋯まあいい。それで、収穫しないのか?」
「なぜですか?」
「そうして薬草を摘んでいるところからして、お前は魔女なのだろ? ならば、人間の領域の薬草などより、妖精の領域の薬草のほうが効能が高い。それに、お前のような者が使うには、扱いやすいだろう」
「そんなに違うものなのですか? それに、魔女とはどういう⋯⋯」
空気中がきらきらしている以外、ホーソン領の薬草園と何ら変わらないようにセラータの目には見える。
「薬草を扱えるのは魔女だけだからな」
「でも、魔法薬学科が王立学院にありますし、ポーションなどにも使われていますよね?」
「あれは、錬金術の類だ、自らの魔力を注ぎ、作り出されたポーションと人間たちが呼ぶ代物は、我々妖精にとっては意味の無い物だ。まあ、人間には効果があるだろうがな」
すたすたと歩き出したフェリーズにセラータもついて行くと、きらきらとした光の粒子もついてきた。
自分の顔の周りに飛んできた光に、擽ったさを感じながら空を仰ぎ見れば、僅かだが普段見ている空とは違う色合いが混じっていて、ここが別の領域や狭間だということがわかる。
視線を周りの景色に向ければ、ほっとため息が漏れた、。
綺麗に区画整備されている様は、自生しているというよりも薬草園と同じように管理されている場所のようで、見ていてセラータは楽しかった。
一歩進むたび、衣服とハーブが擦れて良い香りが立ち上って鼻を擽り、風で揺れるさまは目も楽しませてくれる。
「嘘だと思うのなら、昨日のローズマリーとここのローズマリーを別にして同じ物を作ってみるといい」
「摘んで良いのですか?」
「お前ならかまわない。そもそも、この領域にわたしの許しなく人間が入ることはできないのだから、いいに決まってるだろう」
まだ出会って大した時間は経っていないが、その時初めてセラータはフェリーズの微笑みを見た。
無機質なほど整っている顔を見ていた時には、表情が浮かばず崩れないところが魅力的に見えていたが、笑うと目元が穏やかになり雰囲気も和らいで目を奪われる。
ずっと見ていると、このまま彼とここに居たいという不思議な気持ちが湧いてきて、少しの危険を感じたセラータは視線を反らした。
「では、ローズマリーを少し収穫させてもらいますね」
籠の中に入れてある錬金工房のハサミを取り出し、次に生えてくる部分のことを考えながら切って籠に入れていく。
静かにローズマリーと向き合っている間、フェリーズは機嫌が良さそうな空気を出しながら隣で立っている。
時々、遠くに視線を向けるが、そばを離れる様子はない。
「とても穏やかで、ずっと居たいと思わせる場所ですね」
フェリーズの柔らかな様子を見ていると、セラータは思わず込み上げてきた言葉を口にしていた。
「ならば、ずっと居れば良い。ここには、人間が最も望むものがあるぞ?」
彼の瞳の奥に、セラータには分からない不可解な光が浮かんだが気がした。
どこか悪魔の甘い囁きのようだ。
「⋯⋯望むものですか?」
一体、何だろうかとセラータは考え込んだ。
人間が最も望むというくらいだから、自分だって望むことかもしれない。
セラータは他人が何を望むかではなく、自分なら一番に何を望むかを考えることにした。
今の彼女が一番望んでいるのは──。
(安寧だ)
命を脅かされることなく、ゆっくりと生活や人生を楽しむ。
それには、世界が平和である必要がある。
「安寧ですか?」
心のままに告げれば、フェリーズは目を丸くした。
「違いましたか」
表情を見る限り、自分の答えが不正解であることを悟った。
「面白いことを言うな。お前の一番の望みは、安寧なのか?」
「はい。そうすれば、大切な人たちといつまでも幸せに暮らせますから。他の方たちは、違うのですか?」
「お前とはまったく違うな。人間たちの一番の願いは⋯⋯長寿。強欲な奴らは、不老不死すら望む」
うんざりとしているというより、少しばかりの嫌悪感が浮かんでいて、ぎくりっと体が強張る。
妖精には良き隣人である者と、悪しき隣人の者が存在して、後者の者は平気で人間を殺す。
フェリーズは、どちらなのだろうか。
突然、自分の身に近づいた危険性に、どうするべきか分からない。
兄たちの忠告は素直に聞いておくべきだったのかもしれないと思い始めた時だった。
「さて、そろそろ家に帰れ」
「えっ!」
「なんだ、帰りたくないのか?」
「いえ、そういう訳ではないです。ただ、そんなにあっさりと帰宅を促されるとは思っていなかったので驚きました」
「そうか? お前たち人間は、妖精界の空気を慣れないうちに吸いすぎると死ぬからな。徐々に滞在時間を長くして、体に馴染ませていかなければ、お前が壊れる」
つまり、それが妖精界に行って帰ってこない人々がいる理由なのかもしれないと思えば、もう来ない方がいいのかもしれない。
両親やオリバーにも心配をかけていると思えば、自分の命を危険に晒してまで来る必要もない。
薬草園への収穫も何か対策を講じればいい。
そう自分の中で結論を出したセラータは、屋敷に帰るべく足元に置いていた籠を手に取ったが──。
「これを食べろ」
差し出されたのは、木苺だった。
瑞々しく、まさに食べ頃であることが目で分かるほど真っ赤に熟している。
「妖精界のエネルギーを浴びて育った木苺だ。これを食べれば、中毒は起こさずに少しは馴染むだろう。ここに来る度に、口にすれば問題なく長時間過ごせるようになる。体が馴染めば、いずれはずっと居ることも可能になる」
なかなか手を伸ばさないでいるセラータに、しびれを切らしたフェリーズは彼女の唇に木苺を押し付けた。
そこまで近づけられると、甘い香りが漂ってきて誘惑に抗うのは難しくなる。
僅かに口を開くと、ゆっくりと押し込まれ、熟していたせいで歯に軽く当たっただけで実が裂けて口の中に甘酸っぱさが広がった。
手を引いたフェリーズの繊細な指先に果汁が付着して、木苺の赤がより鮮明にセラータの目には映った。
「熟しているようだな」
指先に付着した果汁を舐め取る仕草は、色香に溢れていて、貴族女性が妖精に入れ込んで屋敷に囲ったなんて話も、強ち嘘ではないのだろうなと思わせる。
セラータとしては、妖精のイメージは前世であった海外の人気テーマパークの有名な妖精のキャラクターだったため、貴族女性が妖精に恋するイメージが沸かなかったが、フェリーズと出会って考えは変わった。
愛や恋といったステージからは離れて過ごす気でいるセラータには、妖精は手のひらに乗るような小さい存在であってほしかったとさえ思う。
「お前は、わたしのお気に入りだ。わたしは箱庭に閉じ込めて壊す趣味はないからな⋯⋯そう簡単に壊れられては困る。また会おう⋯⋯セラータ」
不穏な言葉に、一度瞬きをすると、セラータは薬草園の真ん中に立っていた。
耳に残るのは、初めて呼ばれた名前の響きだ。
だが、セラータは気をつけて名乗らないようにしていた。
妖精に多くを認知されるのは危険だからと、わざと口にしないでいたのに。
セラータは、自分が一体、彼の関心をどうして引いてしまったのか不思議でならなかった。
唯一わかっているのは、また両親や兄たちに怒られる問題を抱えてしまったということだけだ。
なんなら、今回ばかりはオリバーにも怒られるかもしれないと思えば、口の中にあった瑞々しい甘酸っぱさを忘れるほと胃のムカつきを覚えた。