2 自分の立ち位置
カーテンを開ける音に、自分の意識が浮上していくのが分かる。
けれど、頭では理解していたとしても、気持ち的にはふかふかとしたベッドから出たくない。
明るさで目を覚ますべきなのだろうが、日光が入って頬やベッドを温められて余計に起きたくなくなってくる。
「ニーナ……もう少し寝てたいぃ」
目を開けずに、むにゃむにゃと寝言のように零したが、専属侍女であるニーナの小言は聞こえてこない。
(もしかして、昨日の今日だから甘いのかも)
そんな風に思いながら惰眠を貪ろうとしていたのだが、外から聞こえてくる声に、セラータは胸の奥から湧き上がる好奇心を抑えられなかった。
もそもそとベッドから這い出し、室内履きを履いて開け放たれた窓の外を覗き込んだ。
眼下に広がるのは裏庭で、そこにいたのは木製の剣で模擬戦をしている兄であり騎士であるカシアである。
彼は、軽やかな身のこなしと正確な動きで剣をふるっていて、上から見ているセラータだけではなく、周りを囲むようにして見学している他の騎士たちも魅了されている。
「カシア兄様はすごいのね」
声を張ったわけでも、本人に声をかけたわけではない。
そんな、ただの独り言のような呟きに、一つの勝負がついて相手と喋っていたはずのカシアが二階の窓から顔を覗かせていたセラータを見上げて手を振ってきた。
疲れ切って膝をついていたり、息を乱している騎士たちとは違い、カシアは汗一つかいていないし息も乱していない。
「起きたかい? 俺たちの眠り姫は」
「えっ! 寝坊した?」
「嘘だよ。たまたま、僕が早起きだっただけさ。でも、そろそろ朝食の時間だから身支度を整えて降りておいで」
本気で貴重な一日の数時間を無駄にしたのかと焦ったセラータに、からかいを含んだ笑い声をカシアは上げた。
寝坊はしていないと分かっても、自分がまだ寝巻き姿であるという事実は変わることはなく、恥じらいを感じながら窓から乗り出していた体を引っ込ませて、部屋に付けられている一本の紐を引いた。
この紐の先は働いている者たちの休憩室に続いていて、先にはベルが取りつけられていて、気付いた侍女の誰かが来てくれるはずだ。
けれど、身の回りのことを自分でしていた頃の記憶が戻ってしまった今、こうして着替えるのに人を呼んだり、待ったりという時間が無駄に思えて、先に浴室に入ると着ている寝間着のボタンに手をかけた。
パーティー用のドレスじゃない限りは、誰かの手を借りる必要はないだろう。
そんな考えのもと寝間着を足元に落としたところで、新たな自分として目覚めてから、まだ一度も自分の容姿を見ていないことに気がついた。
人生の記憶はあるし、その中に鏡を見たことだってあるはずだ。
けれど、まだ子供だから家族やメイドたちが口にする【可愛い】という言葉を信じて、鏡をじっくり見たことはないようだった。
鏡はどこだろうかと見回せば、大きな窓の横に丸い形の姿見が置いてある。
少しだけ違う人生ということにワクワクしながら姿見に近づき、映る自分の姿に見入った。
腰まで延びた豊かな髪は黒と紫の間の色をしていて、まるで夜空を切り取ったように美しい。
こちらを見返す少しつり上がった猫目は、家族とは異なり全員の色を混ぜた赤紫色に輝いている。
すべてがうっとりするほど美しかった。
前世の自分の見た目など思い出せなくなりそうだ。
なんせ、美しいのは髪や目だけではない。
日焼けなどしたことのない色白の肌。
顔のすべてのパーツは、大きさや配置が完璧だった。
(わぁー、異世界マジックってやつかな?)
前世では、あまり見た目には恵まれなかった。
かといって、整形をするほど見た目やおしゃれに興味があった訳では無いが、今の自分が見た目に恵まれていることには素直に嬉しいとセラータは感じた。
(少しは生きやすいかな?)
かつての自分は引きこもりとは言わないが、自己肯定感が低く対人関係に自信もなく、明るい毎日を過ごしていた訳では無かった。
せっかく前世を思い出したのだから、今生は明るく楽しく人生を楽しみたい。
前向きな気持になって、うきうきとしていたのがいけなかったのか、物音に振り返ろうとした瞬間──。
「お呼びでしょうか、お嬢さ……きゃああああああ!」
後ろから聞こえてきた甲高い悲鳴に、何が起こったのかと振り返ったものの動けないでいたセラータは、大きなタオルで全身を包まれた。
「セラータ様、遅れてしまい申し訳ありませんでした」
「ニーナ?」
タオル越しに伝わってくる専属侍女のニーナの体温に、ばくばくとする心臓は徐々に落ち着きを取り戻す。
「彼女はどうしたの?」
浴室の入口の前で、先程のメイドは腰を抜かして震えている。
たしか貴族の三女で、カシアお兄様付きの侍女になりたいと言っていた女性だ。
セラータは接点がなく、これまで遠くから見たことがあるくらいで名前すら知らない。
「恐ろしい、恐ろしい。あんな傷があるなんて汚らわしい。こんな女が王太子殿下の婚約者候補だなんて信じられない。ああ、そうだわ……わたくしがお父様にお知らせすれば」
そんな言葉が、小さく聞こえてきて首を傾げた。
痛みなんて一つも感じず、傷があることすら知らなかった。
「傷? なんのこと?」
何かを答えてくれる代わりに、ニーナのセラータを抱きしめる腕に力が入った。
「あら。ニーナ。答えてさしあげなさいよ。お嬢様には汚らわしい傷が背中にあって、今後の嫁ぎ先には苦労するってね。可哀想なお嬢様は、尊い血筋なのに役にもたたないって」
そう叫んだメイドの顔は、醜く歪んでいた。
「さっさとその女を連れて行って!」
ニーナの叫びに、何事かと顔を覗かせていた別のメイド二人が取り乱しているメイドを引っ張るようにして廊下へと連れて行った。
その間も彼女は暴れ、叫び、ヒステリックな笑い声を上げていた。
彼女のそんな笑い声が聞こえなくなるまで、ニーナは口を開こうとはしなかった。
「皆様が心配なさいますから、まずは着替えを済ませて食堂にまいりましょう」
「う……うん」
ニーナの動きは早かった。
すでに用意してくれていたのか、駆けつけた拍子に投げ出されたであろう一着のラベンダー色のドレスが床に転がっている。
自身の行動に驚いたように、セラータから体を離したニーナは床のドレスを見て唖然としていた。
「申し訳ありません。新しいドレスをお持ちします」
「いいよ、それで。別に汚れが付いた訳じゃないんだから」
時間がもったいない。そう思ってのことだったが、ニーナは少し悩んでいるようだった。
悩むことでもないだろう。部屋の中は、いつだって綺麗に掃除されていて汚れどころか、塵一つないのに。
仕方がなく、自分でドレスを手に取りセラータは身につけた。
「セラータ様!」
「急ぐんでしょ?」
浴室を出て、部屋のドレッサーの椅子に座って軽くブラシで髪を梳かし、小物の入っている引き出しからリボンを一本適当に選んでニーナに手渡した。
「これで髪を纏めてくれる?」
「かしこまりました」
なにか言いたげであったニーナも、主人であるセラータが手渡したリボンを受け取れば、気を取り直して念入りに髪を梳かしてハーフアップで髪を纏めてリボンを結んでくれた。
軽く鏡で出来を確認してから、靴を履いて立ち上がった。まだ若く子供のセラータの準備ならこれくらいで十分だろう。
「さあ、行きましょう」
そう声をかければ、ニーナは先を歩いて扉を開いてくれた。
淑女らしく急いでいても走ることはせず、朝日が差し込む廊下を姿勢よく優雅に進み、階段を下りて食堂へと入っていく。
「騒がしかったが、セラータ。何があったんだ?」
「なんでもありませんわ、ブライアンお兄様」
にっこりと微笑んでみたけれど、その険しく細められた赤い瞳は、追求を緩める気はなさそうだ。
「セラ。良くないよ? そうやってなにもなかったフリをするのって」
立ち上がってセラータを出迎えてくれたブライアンとは正反対に、行儀悪く椅子を逆向きに使って座りカシアは笑いを混ぜ込んだ声で言っているが、その目は全く笑っていなかった。
「……大したことではありません。そもそも、私はこの傷についても知らなかったのです。ニーナ以外の者を呼んでしまった私の落ち度で済むでしょう?」
小さくため息を零し、なんてことはない風を装ってみたものの、セラータの予想を裏切るような空気が食堂に流れた。
少し前まで黙って成り行きを見守っていた両親ですら、説明をしなさいとその目が告げている。
こうなってしまえば、セラータが話すまで楽しい朝食とはいかないだろう。
「簡単に言えば……」
「ブライアン様。発言をお許しいただけますでしょうか」
嘘を織り交ぜて穏便に済ませようとセラータが口を開くのと同時に、声を上げたのは珍しくもニーナだった。
普段なら主人であるセラータたちの食事の場で、侍女である彼女が口を開くことはない。
「いいだろう。セラータは、話を省きそうだからな。発言を許す。ニーナ、見たままを報告しろ」
ブライアンがそう告げれば、家族全員の視線がニーナに集中した。
セトの隣の席に座り、発言権の無くなったセラータは、目の前にあるカトラリーを見つめることしか出来なくなった。
「セラータ様の背中の傷を見たモニカが、暴言をぶつけたのです。わたしの口からはとても申し上げにくいので、こちらの⋯⋯音声のみですが記憶石がありますので聞いていただければ分かるかと」
ニーナは、自身の首に着けていたネックレスを外すと、ブライアンに差し出した。
受け取った彼は、指先でネックレスに埋め込まれている魔石を撫でると、全員に聞こえるようにテーブルの中央に置いた。
『セラータ様、遅れて申し訳ありませんでした』
『ニーナ? 彼女はどうしたの?』
『恐ろしい、恐ろしい。あんな傷があるなんて汚らわしい。こんな娘が王太子殿下の婚約者候補だなんて信じられない。ああ、そうだわ……わたくしがお父様にお知らせすれば』
『傷? なんのこと、ニーナ?』
『あら、ニーナ。答えてさしあげなさいよ。お嬢様には汚らわしい傷が背中にあって、今後の嫁ぎ先には苦労するってね。可哀想なお嬢様は、尊い血筋なのになんの役にもたたないって』
『さっさとその女を連れて行って!』
『皆様が心配なさいますから、まずは着替えをすませて食堂にまいりましょう』
音声はそこで終わっていた。
残されたのは、重い沈黙と肌の表面をチリチリと焦がすような家族たちの魔力だ。
中でも一番強いのはブライアンだった。
「このメイドは、お前の専属になりたがってた女じゃないのか?」
「あー、その声はそうかな。たしか……伯爵家の夢見がちな令嬢だった気がする。野心家というよりは、自分の美貌があればどんな男も落とせるって思ってる女だね」
「処分はどうするつもりだ?」
「うーん、うちの騎士団の世話係とかに送ればいいんじゃなーい? ちょうど人でも足りないみたいだし」
「それに関してはお前に任せる。それと、セラータ」
ブライアンは私のところまで歩いてくると、膝を折って目を合わせた。
「すまなかった。先にその傷について話しておくべきだったな。ある意味、あの女の言っていることは正しいとも言える。その傷がある以上、名のある貴族に嫁ぐことは難しくなるだろう。特に王太子妃にはなれない」
「んっ?」
最後の言葉に、セラータは思わず首を傾げてしまった。
前世を思い出す前のかつての自分は、王太子と結婚して国母になりたいとでも言っていたのだろうか。
「ごめんなさいね。私に聖女の力があっても、家族を治せないのでは意味がないわ」
全く記憶にないことについて聞こうと思っていたのに、セリーナが申し訳無さそうに顔を曇らせてしまい、タイミングを逃してしまった。
「そんなことをおっしゃらないでください。それは仕方がないことなのですから」
セラータの母であるセリーナは、国が認める聖女だ。全ての傷を治せるほどの力を有しているが、唯一治せない対象がいる。
それは、血縁者だ。
一族が聖女の力を独占しないように、誓約魔法を教会と結ばせるようにすることで一族を治せないようにしいた。
そのため、セラータを治せるのはガビィーなどの魔法医か、教会に属する他の聖女になる。
しかし、教会の聖女は人数が少なく、簡単に呼び出すことは出来ない。
魔法医が特別多くいる訳ではないが、魔法が使える人間なら少なからず治癒は使える。ただ、国に属する魔法医という肩書の人間は、その中でもずば抜けて深い治癒が可能で、中には心臓が止まっていない限りは全ての怪我や病気を治せるという者までいる。
「それで、この傷はどういったものなのですか?」
治らないものは仕方がないと、特に気にすることなく問いかければ、ブライアンは驚いた顔をしていた。
「それは⋯⋯ドラゴンがつけた傷だ。突然、庭園の上空に現れたドラゴンが、セラータに襲い掛かって尾で傷をつけたんだ。覚えていいるか?」
「わかりません。私はそのドラゴンの姿も見ていないし、襲われた理由もわかりません」
思い出そうとしても、その時の光景は朧気だった。
辺境伯爵領は、魔物が出る地域に隣接しているが、ドラゴン族は上空の浮島に国を持っていて人間の領域に来るのは稀だ。
ましてや魔力と知性の高いドラゴン族が理由もなく人間を襲うことはない。
そこは、前世で見た物語のように人間に退治されるような生き物とは違う。
「不思議なのは、誰もがそのドラゴンの姿を認識していないということだ。わたし達も未だにドラゴン族について研究が進んでいないのが現状だからな」
「やっぱり、まだ見つけられてなかったのかい?」
「ああ、誰も姿を見ていないんじゃ⋯⋯ドラゴンを特定するのも難しい。分からない以上は、お前でも探し出すのは難しいだろう」
「ったく⋯⋯忌々しいよ」
そもそも、騎士団の副団長とはいえドラゴンと一戦を交えるのは無理があるだろうと思いながら、ずっと気になっていることについて聞く機会をセラータは窺っていた。
二人の会話が止まり、今だと思って声を上げた。
「あの⋯⋯ブライアンお兄様? ずっと気になっているのですが、王太子妃とは何のことでしょうか」
「ああ、そのことか。お前に似合いの立場だったが、受けるかについていつ話そうかと父上と話し合っているところだった。王命だったが、断る手間が省けた」
「セラータは、あの王太子が嫌いだったしね。セラに聞くまでもないでしょ」
「そうだったのですね」
ぼんやりと考えてみると、記憶の奥底に触れた。
少し前だが、王城で開かれたガーデンパーティーで、つり上がった目元について気が強そうで好かないと指を指され、すでに国のために働いているブライアンやカシアが義理の兄になるなんて嫌だと言われた記憶が蘇る。
その時は、あまりの言われようにセレーナにしがみついて泣いてしまった。
といっても、あの時のセラータはまだ絵本で読んでいた王子様に憧れていたため、王子様に会えると楽しみにガーデンパーティーに参加していたのだ。
結果、優しいどころか最低最悪なクソガキだったせいで、ショックで泣いてしまったといってもいい。
そこでセラータは、はっとした。
つり上がった目元。気が強そう。
そんなキーワードで浮かび上がるのは、かつて前世で読んでいたライトノベル小説や漫画だった。
キーワードにもなる特徴を揃えているのは、いつだって悪役令嬢と呼ばれる立ち位置のキャラクターだ。
王太子に嫌われようが、逆に執着して彼が心奪われるヒロインに嫉妬して嫌がらせをして、余計に嫌われるという悪循環。
物語によっては、ヒロインが国を救う存在だった為に、悪役令嬢は王太子どころかその周りの人間や国民にも嫌われ、寛大な心で許すヒロインの申し出よりも自分のプライドを曲げることが出来ず──。
断罪されるのだ。
そこまで考えてしまい、セラータの血の気は一気に引いていった。
前世と違い、現世は楽しそうな雰囲気だというのに、もう最悪の未来しか考えられない。
自分はまだ十三歳だ。
いつ死ぬのかなんて考えたくもないし、怯えたくもない。
(決めた!)
その時、セラータは心に誓った。。
(絶対に、王太子とヒロインらしき人物には近づかない)
この世界がゲームや小説の世界とは限らないが、疑ってかかるのはいいことだろう。
そのくらいしか、今のセラータに出来ることはないのだから。