1 痛みが記憶を呼び覚ます
「お嬢様っ!」
遠くから専属侍女の叫び声が聞こえる。
その切羽詰まった声に、セラータはここだと答えたかった。
自分は無事だと安心させたい。
頭では、そう思っていても、これまでの人生で感じたことのない痛みに、体を動かすことも出来なかった。
痛みがあまりにも強すぎるせいで、どこを怪我をしたのかさえ、今のセラータには分からない。
かろうじて分かるのは、頬に当たる草の感触と土の匂い。そのことから、自分が横たわっているということだけ。
これまで、ふかふかで綺麗な場所しか知らなかったセラータにとっては、あり得ない姿だ。
そう、地面に横たわるなんて、貴族としてはありえない姿。
なのに、この感覚も感触も初めてのような気がしない。
(おかしいわ。こんなこと⋯⋯したことがないはずなのに)
そう思った瞬間──。
頭の中に知らないはずの光景が流れ込んできた。
見たこともない物を頭に着けて、眼の前にある四角い物の中に映しだされている動く絵を見ながら、手元ではいくつもある四角い突起を指先で叩き操っている。
楽しそうに声を上げながら、誰かと会話をしているのは……。
(あぁ、あれは……私だ)
頭の中の光景を追っている内に、それが自分自身だということを直感的に理解した。
あの四角い物はパソコンで、手元にあるのはキーボード。頭に着けているのは、ヘッドフォンだ。
(そう⋯⋯私は、オンラインゲームをするのが好きだった)
目が霞んでくる。
もう、痛みで何も考えられない。
高い熱が引いていくように、体温がどんどん下がっていく。
指先が冷たくなり、地面に生命の全てが吸い込まれていくのが分かる。そして、代わりと言わんばかりに体の中を恐怖が這い上がってきた。
(私はこの感覚を知っているし、覚えているわ)
意識を失う直前、セラータの耳にはジャラッという鎖に似た音だけが聞こえていた。
☆
前世のセラータは、雪野月という名前の二十代後半にさしかかる普通の女性だった。
大学は出ておけという親の勧めで大学に進学し、最初の思いとは裏腹に充実した学生生活を送った。
ただ、やりたい仕事は見つからず、自分のコミュニケーション能力の低さに営業職は避け、事務職についてそれなりの日々を送る毎日。
唯一の楽しみは、パソコンで面白いゲームを見つけてプレイをするということだった。
周りの友人たちは婚活や結婚しはじめて、着々と次のライフステージへと進んでいたが、月は恋人をつくることもせずに趣味に没頭していた。
恋愛に興味がない訳ではなかったが、相手の顔色を伺ったり、記念日を祝うことやプレゼントに頭を悩ませることが面倒に思えていた。
けど、実際はこの人だという相手に出会えなかったというのが大きな理由かもしれないし、一人の時間が楽で楽しすぎたのが良くなかったのかもしれない。
そんなあの日もクリスマスだというのに新しいゲームの配信日で、仕事が終わって家路を急いでいた。
だから、急ぐあまりに注意力が散漫だったのだろう。
迫りくる光と衝撃、痛みしか覚えていない。
自分の身に何が起きたのかすら分からなかった。
ゆっくりと目を開くと、見慣れているはずなのに、そうではない気もする天井が広がっていた。
「お嬢様! お目覚めに」
「⋯⋯ニーナ?」
馴染のある声に、一言発してみたが、喉がカサついていて小さく咳が漏れた。
察しの良い侍女に体を起こされ、背中にクッションが差し込まれると、上手く力の入らない体は柔らかく受け止められた。
「大丈夫ですか? 慌てず、ゆっくりと飲み込んで下さい」
ニーナはグラスをセラータの唇に当て、慎重に傾けてくれる。
少しづつ流れ込んでくる水を、言われたとおりにゆっくりと口に含んで少しづつ飲み込んでいく。
渇いているという自覚はなかったが、本当は渇ききっていたのだろう。自然と喉が潤ったことにほっと息を吐けば、ニーナはグラスを片付けて軽くセラータの髪を整えてくれた。
その手は僅かに震えていて、彼女の瞳は潤んでいる。
「本当は、お嬢様が目を覚ましたらすぐに伝えるように言われれていたのです。すぐにアーベント様にお伝えしてきますね」
足早に部屋を出て行くニーナの背を見送ると、扉が閉まる音の後に訪れた静寂が、前世を思い出したばかりのセラータに少しの恐怖を心に感じさせた。
まだ、セラータの頭に現世と前世が混じり合い始めたばかりだからなのか、十年以上過ごしてきたはずの部屋が広すぎる気さえしてくる。
(どうしたものか⋯⋯)
一人の時間を使って、今の記憶が大丈夫かどうか確認することにした。
不安を覚えながら少し考えてみたが、自分についても家族との思い出なんかも思い出せるから何も問題はなさそうだ。
自分はセラータ・ホーソン。十三歳。
ホーソン辺境伯爵の娘。
三人の兄がいて、セラータは唯一の娘。
何よりも大事なのは、家族に愛されているということだ。
頭の中で色々と整理していると、大きな音を立てて扉が開いた。
「セラータ!」
悲鳴にも近い声に、ぎょっとする間もなく力強く抱きしめられた。
甘い香りが鼻をくすぐり、それが母であるセリーナの香りだということに気がつく。
セリーナの体は震えていた。首元に埋められた顔の辺りに濡れた感触がして、彼女が泣いていることを強く意識する。
「お母様⋯⋯心配かけてごめんなさい」
自然と出てきた言葉を口にすれば、抱きしめる腕が緩んだ。
「いいのよ⋯⋯無事ならいいの」
「ああ、そうだな。目を覚まして良かった」
セリーナに同意する言葉と共に、大きくて温かい手がセラータの頭を撫でる。
その触り方は、父なのだとすぐに認識できた。
「お父様も、ごめんなさい」
セリーナの背を撫でる手も、見るからに優しさで溢れている。
「そろそろ、わたし達にもセラータの顔を見せてはくれませんか?」
ずっとセリーナの抱きしめる腕から開放されることはなく、動けなかったセラータは、ベッドの反対側にいる人の気配には気がついていても、顔を向けることは出来ずにいた。
けれど、心配そうな声にようやくセリーナの腕は解かれ、セラータはゆっくりと顔を向けた。
右に振り返ったセラータは、そこに並び立つ三人の姿にぽかんっとしてしまった。
「どうした? セラータ」
驚きで目をぱちくりとさせているセラータの様子に、体を屈めて顔を覗き込んできたのは、とにかく美しい男性だった。
さらりっと揺れる黒髪も、一見冷たそうに見える赤い瞳も、現実からはかけ離れた美しさをしている。
「父上。魔法医は呼んだのですか?」
あまりにもセラータがぼーっとしていることに不安を覚えたのか、長兄であるブライアンは、ベッドの反対側にいる父──アーベントに鋭い視線を向けた。
「もちろんだ、ブライアン。すでに、傷の治療は済んでいるが、目覚めてからの意識の確認のために、まだ屋敷内に留まってもらっている」
「それなら、ニーナ。すぐに呼んできてくれ」
ブライアンは、ニーナに少し強めの口調で言うと、セラータに向き直った。
「セラータ。わたし達が分かるか?」
「はい⋯⋯ブライアンお兄様、カシアお兄様とセトお兄様です」
一人一人確認するように視線を向けながら言えば、それぞれ頷いてくれる。
「⋯⋯大丈夫なようだな」
厳しい顔つきで、セラータの全身に目を走らせるブライアンに対して、隣にいる紫色の髪を片側だけ伸ばして緩く三つ編みにしているカシアは、ベッドに腰掛けセラータの夜空を写し取った色をした髪を優しい手つきで何度も梳いてくる。
「俺達の大事なお姫様を傷をつけたあいつは、見つかったのかい?」
カシアの手は優しい動きをしているし、口元には笑みさえ浮かんでいるが、その青い目はこちらが凍えてしまうのではないかというくらい冷たい。
「俺が探しに出ていいっていうなら、すぐに見つけて殺してやるのに」
優しい動作とは裏腹に、言っていることはあまりにも物騒である。
「カシアお兄様⋯⋯なにもそこまでしなくても」
相手が誰かは分からないが、そこまですることではないと思ってセラータは口にしたのだが──。
「セラータは分かっていない。自分がどんな目にあったのか。相手は万死に値することをした」
するりっと手を取られ、注意をそちらに目を向ければ、長い薄紫色の髪を軽く一つに束ねた三人目の兄であるセトが紫色の目に悲しみを湛えていた。
「セトの言うとおりだよ。傷自体はきちんと治癒しているから痛みが無くて気がついていないだろうけどね」
部屋の入口からした声に、そちらに目を向ければ、一人の中性的な白衣姿の人が立っていた。
男性にも女性にも見えるその外見に、どちらか判断するのは難しい。
けれど、一つ分かるのは隣にニーナがいることから、ブライアンが呼んでくるように言っていた魔法医だということだ。
「ガビィー。セラータが少しぼんやりすることがある。問題はないか見てくれ」
ブライアンはセラータの横からずれると、魔法医を招き入れた。
ベッドに座っていたカシアも、セトも離れていく。
「ご機嫌はいかがかな? セラータ嬢」
横に置いてあった椅子に腰掛けたガビィーと呼ばれた魔法医は、セラータの手を握るとそう問いかけてきた。
白銀の髪は太い三つ編みにされていても腰まであり、エメラルドグリーンの瞳は宝石のように輝いている。
丸い眼鏡を僅かに鼻先まで下げて見つめられると、全てを見透かされているような気がしてきて落ち着かない気分になった。
「体調も怪我も問題ありません。すぐにでも運動が出来そうなほどです」
「それはよかった。ブライアンは心配性だね。三日も目を覚まさなかったんだ⋯⋯セラータ嬢の反応は普通だよ」
手首の内側に指を当てたり、視線を全身に走らせたりしたガビィーは、何度も頷いている。
「でも、運動はしばらくしてはいけないよ? 消化に良い食事をして、ゆっくりと体を休めるんだ。薬を飲む必要はないが、代わりに栄養のある物を食べること。いいね?」
「はい。魔法医様」
「ガビィーでいいよ。今後も顔を合わせる機会はあるだろうしね」
メガネを指先で押し上げたガビィーは、にやりと笑って席を立った。
少し離れたところに立っているブライアンの元に行くと、何やら深刻そうに話し合いを始めている。
本当は、自分には話せないほど深刻な病気でもあるのではないかと不安が湧き上がったが、セラータの視界を遮るようにまたカシアがベッドに腰掛けた。
「まったく、起きてそうそう運動だなんて普通言い出すかな」
「本当に運動をしたりしませんよ。大丈夫ですっていう比喩です」
「そうだとしてもさ。とにかく、ガビィーが言う通り今は何も気にせず体を休めること」
カシアは、セラータの鼻先をトンッと指先で軽く叩くと微笑んだ。
こんなに甘い仕草をするが、騎士団では副団長をしていて、魔法と剣術に長けている。
部下である騎士団員からの信頼が厚い一方で、甘い微笑みが貴族女性たちから人気で一見軽薄そうな遊び人に見えるのだが、こうして接されると人気なのも頷けた。
「ガビィーの指示に従うとなれば、今夜は軽めの夕食を済ませてゆっくりと眠ることだ」
カシアやセトと違い、温度の感じられないブライアンの声に、部屋で一人きりの病人食かと残念に思っていたセラータだったが、体がふわりと浮いて小さく声を上げた。
「きゃっ!」
「私が連れて行こう」
着替えもしていない寝巻き姿のセラータは、ブライアンに軽々と抱き上げられ、彼の首にしがみついた。
慣れない高さに、少しだけこの姿勢が怖かった。
「お前を落とす訳がないが、そうしておけ」
「まぁまぁ、ブライアンったら」
目を丸くした母は、くすくすと嬉しげに笑って父と共に先に部屋を出ていってしまった。
その一団には、ガビィーの姿もある。
けれど、そんなことは気にしていられなかった。
前世を思い出したせいで、体とは違い考えも感情も二十代になっている今、過去に異性との関係がなかった喪女には心臓に悪い。
抱き上げられるのも、こんな美形の顔が目の前にあるのにも慣れなくて、心臓が爆発するのではないかと思うほど、ドキドキしていた。
おまけに、部屋を出て迷いなく廊下を歩くブライアントの間に会話はない。
(嫌われている訳ではないのだろうけど)
そうセラータが思えるのは、彼女を抱き上げている腕の温かさと、確かな足取りではあるがなんとなく調整されているように感じるからだ。
「こんな顔してるけどさぁ……こいつが一番セラータの事故を聞いて取り乱すくらい心配してたんだよ」
聞こえてきた声に振り返れば、後ろを歩くカシアがいたずらっぽく笑った。
確かに目の前の顔に目立った表情は浮かんでおらず、傍から見たらセラータの存在すら興味なさそうに見える。
「僕だって心配した」
「分かってるよ、セト。でも俺達が心配してるっていうのは、セラータも分かっているさ。そう思えるだけの信頼関係が築けているからね。けど、ブライアンとは少し距離があっただろ?」
「そうだけど⋯⋯」
「俺達は一緒の時間があったけど、ブライアンは早くに城に上がったから、セラータとの時間が無さ過ぎて甘やかす機会を逃してたんだよ」
言われてみれば、セラータの記憶の中には、カシアとセトとのものはあるが、ブライアンとのものは少ない。
領地の草原で花冠を作った日や、暖炉の前で踊った記憶にもブライアンの姿はなかった。
その時間、彼は色々な分野の勉強をしていた。
伯爵家の長男として、求められる振る舞いがあるからと。
もともと、セラータとは十歳ほど歳が離れており、自ずと遊び相手になったのは五歳の差のセトである。
八歳違うカシアも遊んでくれたが、もっとも近しいのはセトだ。
そんな彼ですら、学院を卒業して王立研究所に所属するようになってからは、領地に帰ってきたのは今回が初めてだ。
だから、セラータはベッドの横に三人の兄たちがいることに驚いた。
その中でも、ブライアンがいることが一番の驚きかもしれない。
「心配してくれて、ありがとうございます⋯⋯ブライアンお兄様」
「お前は甘えるということをしないからな。心配するのは家族として、兄妹としても当たり前だ」
安定感のある腕に抱えられながら、辿り着いた食堂の椅子に下ろされると、肩には軽くて肌触りのいいストールが掛けられた。
「ありがとう、セトお兄様」
「その服装では、少し薄すぎる」
頭を撫でてくれたセトは、セラータの向かいの席に座るブライアンの隣に腰を落ち着けた。
そこは、普段はカシアの席ではと思っていたが、カシアはセラータの隣に座った。
「私たちは先に夕食を終えてしまったから、デザートでもいただきましょう。セラータには、料理長がミルク粥を作ってくれたから、ゆっくりと食べなさいね?」
「はい⋯⋯お母様」
そう言ってみたものの、自分以外の前に置かれたデザートのほうが美味しそうに見えて、返事する声も自然と小さくなるのは仕方がないだろう。
「ほらっ、俺が食べさせてあげるから、こっちのミルク粥を食べてしまおう」
カシアはそう言うと、スプーンで一口分掬い取り、セラータの口元に持ってきた。
「あの⋯⋯お兄様? お粥くらい自分の意思で食べられますよ?」
「いいから、いいから。ほら、あーん」
拒絶は受け入れないと言わんばかりに、スプーンを持つ手を引くことはない。
仕方がなく口を開けば、スッと口の中に入ってきて、唇をわずかに閉じればそれに合わせてスプーンが引き抜かれた。
「美味しいかい?」
「んぐっ⋯⋯はい。甘くて優しい味がします」
その後も、にこにこしたカシアに食べさせられるという羞恥に耐えながらの食事が続いた。
それも、まさかのデザートまでだ。
正直、今のセラータにはキツい。
更に追い打ちをかけるように、食後に部屋に送り届けてくれたセトに寝かしつけられた。
(⋯⋯恥ずか死ぬ)
眠りに落ちる間際、セラータの頭の中に浮かんだのは、人間は羞恥心で死ぬかもしれないということだった。