2.刻印誓約書
ここには幸いと言っていいのか、調停員がいる。
婚約を解消して、はい終わりになんてさせない。
「では婚約解消にあたり、今後の関係も踏まえて話し合いませんか? 幸い、調停員の方もいらっしゃいますし……、構わないでしょうか?」
ルティーナは最後の言葉を調停員に問うように訊ねた。
調停員はグリドート侯爵家が選んだ者だが、調停員自体は厳しい試験と国王陛下に認めてもらわなければなることのできない国家役員である。
名前と顔は公開されており、胸元には輝く国王公認の調停員専用ブローチ。彼は間違いなく、本物の調停員だった。
彼らが受け持つ仕事は責任のあるものが多く、魔法契約をして犯罪を犯さないよう制約を施している。
「ええ、構いませんよ」
「ありがとうございます」
快く応じてくれた調停員に、ルティーナは頭を下げて礼を言った。
調停員もよくあることなのだろうか、彼女の礼に頷いた。
「グリドート侯爵令息様もよろしいでしょうか?」
元婚約者になったジュリオルにも同じように訊けば、苦い顔をした。なにか不都合でもあるのだろうか、あからさまに嫌そうな態度をしている。
貴族ならば、もう少し体裁を取り繕うのが普通である。
「いや……、もう少し間を置いてもいいと思うが……」
「このようなことは、お互いのためにも早めに決めてしまわれたほうが後腐れがなくてよろしいですよ?」
「あ、ああ……、でも……」
渋る理由はどこにあるというのだろうか? 握った拳の人差し指を口元に当てて考え出した元婚約者に、ルティーナはため息をつきたくなった。
彼の浮気相手は、この男のどこを気に入ったのだろう? そう思ってしまうほどに目の前の男は優柔不断のようだ。
婚約解消を、意気揚々と持ってきた男と同一人物かと疑いたくなった。
綺麗に整えられたウェーブがかった金色の髪に、青い瞳がよく映える美形だ。顔立ちは甘く、どちらかといえば王子様のような出で立ちは貴族女性には人気らしい。
対するルティーナは、少し薄めの茶色い髪に濃いアメジストの瞳。きつめに結った髪に分厚めの眼鏡は、彼女をより一層地味に見せていた。
もっとも、視力は悪くなく、髪も基本的にこんなきつめに結ってもいないが。
「これを最後の話し合いにすれば、あなた様の大切な方も安心するのではないでしょうか?」
「っ!?」
「どうなさいますか?」
そう言いながらルティーナ穏やかに微笑んだ。
(バレてないとでも思ったのか、なんとも愚かなことだ)
彼の不貞は、学園に入学した当時から分かっていた。
人目がありそうな場所で、いかにも「バレてください」といわんばかりに逢瀬を交わせば、自然と周りの者の目にも付くし噂も耳に入る。
腰に手を添え、普段聞かないような甘い言葉を吐き、口付けをする。
妙に冷めた目で見ていたな、とルティーナは思い出していた。
むしろ、一緒に見ていた友人のほうが憤慨していて、諫めるのに苦労したなと思い出してしまった。
元婚約者はルティーナに険しい顔を向けてきたが、些細なことだ。
その表情は、この男が不貞を働いてきたなによりの証拠にほかならなかった。
「……分かった」
結局、元婚約者は今後の話し合いに承諾した。
ルティーナは口の端が上がるのを、ぐっと我慢し表情筋を保った。
彼女にとって、ここからが正念場だからだ。
「ありがとうございます。……では、刻印誓約書での約定とさせていただきたくございます」
「なんだって!?」
元婚約者が驚くのも無理もない。
刻印誓約書。
簡単に言えば、魔法を用いた誓約書だ。取り決めされた内容は書き換えられず、破棄もできない。調停員を必ず間に立てなければ、発行されない重要書類の一つだ。
なお、魔法ではなく刻印なのは、王家の紋章入りだからだ。
「そんな大事にしなくても……」
「大事?」
なにを言っているのやらこの男は……と、思わずルティーナは眉が寄りそうになった。
「婚約解消は十分大事ですよ」
そう答えたのは調停員だった。
「普通は調停員である私から進言する予定でございましたが、手間が省けました」
どうやら似たような経験がありそうな調停員は、ローテーブルの上に刻印誓約書を取り出した。
刻印誓約書は淡く発行しており、王家の紋章がしっかり押されているのが見える。
「では、刻印誓約書の内容を決めていきましょう」
ペンを手に持ち、調停員はルティーナ達を促した。
刻印誓約書に書く内容は、すでに決めていた。
内容に関して彼女は、家族とも相談し前々から考えていたのだ。もしもの事態を想定してのことだったが……、もしもが起こってしまった。
「まずは私から……よろしいでしょうか?」
先手必勝とばかりに、ルティーナは調停員に尋ねた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。では、これは絶対に入れてほしいのですが、婚約の復縁は絶対にしないことです。可能ですか?」
「可能です。婚約の復縁不可ですね。グリドート侯爵令息様は構いませんか?」
ルティーナの誓約書の内容に、元婚約者はあからさまにほっとした顔をした。
「ああ、いいよ」
声色も弾んでいるように聞こえ、「今まで使ってきた持参金を全額返せ」とかじゃなくてほっとしたのだろうか。それとも、縋りつかれるような未練があると思われていたのだろうか。
正直、元婚約者との婚約の復縁には欠片も興味はなかった。
持参金の返却については戻ってくるとは思えず、またそれらを返却となると揉めることになると予想できるので、その件に関しては両親と相談のうえ、返却を求めないことにした。
下手な出しゃばりは身を滅ぼしかねない。
それに、金銭に関していえばルティーナにはあてがある。
「では次に、我がアトレ家への敷居に今後二度と、どんな理由があろうとも、立ち入りを禁止することは大丈夫でしょうか?」
「アトレ伯爵家への無用の立ち入りを禁止するですね、大丈夫です。グリドート侯爵家も同じ内容でよろしいですかな?」
「ああ」
刻印誓約書に制限はない。細かく細かく決めていく。
「我が家の資産から支払われていた持参金を本日から永久停止」
「えっ」と元婚約者が小さく声を出す。
「今後、二度と、我が家の資金から持参金の引き出しができないよう、よろしくお願いします」
「はい、アトレ伯爵家からグリドート侯爵家への持参金の永久停止、または無断使用禁止ですね」
「ま、待ってくれ、それは困る」
調停員が問題なく刻印誓約書に記入していくのに、元婚約者は待ったをかけてきた。
その顔には焦りが見え隠れしていて、忙しなく瞳が動いていた。
「なぜでしょうか? もう婚約解消したのですよ。我がアトレ家は、すでにグリドート侯爵家とは赤の他人で、我が家には困る理由がまったくないのですが?」
「そ、それは……」
そう、婚約を解消した今、グリドート侯爵家の事情はアトレ伯爵家にはまったく関係がなくなるのだ。
アトレ伯爵家の資金を持参金と言って引き出し、勝手にいろいろとやっているのはグリドート侯爵家なのだから、二度と使われないように対策するのは当然のこと。
言いどもる元婚約者をルティーナは気にすることなく、刻印誓約書に記入する内容を調停員に告げる。
「そして、グリドート侯爵家による我が家への干渉を今後一切、禁止してほしいのです」
「グリドート侯爵家からアトレ伯爵家への干渉禁止……。これは上位の家から下位の家への圧力の停止や強制の制限に分類されますが、よろしいでしょうか?」
やはり一切禁止は難しいらしい。完全に内容を受け入れられるとは最初から思っていなかったが、折衷案を提示されただけでも重畳と思うことにした。
「はい、それで構いません。そもそもこの婚約自体、我が家は乗り気ではなく彼の家からの打診でした。それを向こうから解消を提示してきたのです。今後、関わりたくないと思うのは当然でしょう?」
「……なるほど、確かにそうですね」
調停員はルティーナの話に頷き、刻印誓約書に先ほどの折衷案を書き込んでいった。
刻印誓約書には特殊な魔法がかかっており、その内容が虚偽である場合、記入できなかったりする。ゆえに、刻印誓約書に記載された内容は絶対だ。
ルティーナは視線だけを動かして元婚約者を見る。途中から声が聞こえなくなったからだ。見れば彼は呆然としていた。
(まさか我が家から婚約してほしいと思っていたのか、だとしたらなんておめでたい……)
彼女は冷めた目で見ていたが、調停員の声にそちらに意識を引き戻される。
「他にはございますか?」
「はい。――」
調停員に刻印誓約書に記入していく約定を、ルティーナは次から次へと言っていく。
元婚約者は、もうなにも反応はしなかった。