1.婚約解消
「――それでは、互いの署名を確認させていただきます。はい、大丈夫なようですね。では、本日を持ちましてルティーナ・アトレ伯爵令嬢とジュリオル・グリドート侯爵令息の婚約の解消を、調停員立ち会いのもと、今ここに承認させていただきます」
この日、ルティーナは約八年間婚約した否――していた婚約者との婚約を解消した。
理由は相性不一致による不和だそうだ。
不和など今さら、まともに会うことすらなかったくせに、なにを言っているんだかと彼女は愚痴を喉の奥に押し込んだ。
婚約破棄ではなく解消なのは、解消のほうが破棄より外聞が悪くないという、なんとも無責任な内容だ。
婚約破棄も解消も、多かれ少なかれ外聞は悪くなる。
貴族社会など相手を蹴落として生きているような者もいる。そんな彼らに噂のネタを与えてしっまったも同然だ。
本当は婚約破棄の予定だった。婚約者の不貞に訴えるかたちで、だ。
不貞しているのは事実だったし、証拠も集め終わったところだった。
先手を取られた。
表情には出さずにルティーナは強く奥歯を噛みしめた。
「……君は、こんなときでも表情を変えないんだね」
眉をしかめながら婚約者だった男がそう言った。
『淑女たるもの、簡単に表情を読ませるようなことはしてはなりません』
とは、あなたの母の言葉なのですが? 心の中でそう思いながら、ルティーナはため息の代わりに細く息を吐いた。
そもそも婚約自体、元婚約者の実家であるグリドート侯爵家からの打診だ。
アトレ家は伯爵家。家格が侯爵家より下なので逆らうことができず、しぶしぶ婚約の打診を受けた。
ルティーナに婚約者がまだおらず、断る理由が思いつかなかったのだ。
「まあ……、そのようなことはございませんわ。大変、動揺しております」
ルティーナは元婚約者に楚々として答えた。
動揺しているのは本当だ。
訪問の連絡もなく、当日に調停員を連れてきて、突然の婚約解消。これを動揺せずにいられる人間は、いったいどれだけいるだろうか? 聞かせてほしいものだ。
婚約解消の書類には、すでに侯爵当人の名が署名されていた。
侯爵も婚約の解消には承認済みだということ。本人は用事があるのか、いるのは元婚約者になったジュリオルのみ。
好都合だった。
この八年で、だいぶ状況が変わったのだから婚約の終了自体に問題はない。
問題なのは、何事もなく婚約解消というところだ。
元婚約者の不貞の証拠はもちろん、アトレ家からの持参金の前金を浮気相手に貢いでいた証拠もある。
あとは伯爵家でも格上の侯爵家と戦える、公正に判決を下してくれる所に持っていくところまできていたのに……すべて無駄になってしまった。
すべて無駄にしたのは元婚約者ではなく、その浮気相手だ。「破棄ではなく、解消のほうが誰も傷つかない」と、彼に進言した。
そんなわけがない。傷は浅くともつくのだ。
家名にも、ルティーナにも。
♢ ♢ ♢
元婚約者ジュリオルと婚約した当時、元婚約者は婿入りの予定だった。
理由はアトレ家に子どもはルティーナしかおらず、親族にも継嗣となる者が産まれなかったからだ。
ところが婚約して二年後、アトレ家に待望の第二子が誕生した。しかも男児。
家督は男でも女でも継ぐことができるが、ガレシア王国では基本的に男児が継ぐことが多い。
ルティーナは喜んだ。
もちろん、ルティーナの両親も喜んだ。だが、同時にルティーナに対して複雑な表情をした。
婚約者がいるのに申し訳ないと思ったのだろう。
だけど、そんなことはない。むしろ、一番喜んだのはルティーナだった。
これで格上の侯爵家の傀儡にされずに済むと。
そんな考えを持つルティーナは、転生者だ。
転生者といっても、前世の自分の名前すら覚えておらず、社会人として働いていたなとか、この世界とは違う世界で生活していたなとか、小説の魔法に憧れていたなと、思い出すぐらいだ。
だからこそグリドート侯爵家に対し、冷静に考えることができた。
元婚約者の実家、グリドート侯爵家が野心家と知ったのは婚約した後だった。
野心、と思いつくのはもっと爵位の高い人への婿入りだが、年齢が釣り合う爵位の高い家からは断られ、結果として爵位の低い、そして自分達の利になりそうな資産が潤沢にある家に目を付けた。
それがルティーナの家だ。
最初は些細な変化だった。
婚約して一年たった頃、婿入り予定だった元婚約者への持参金の前金の金額が増えた。
理由は「もっとアトレ家のために勉強したい。だから、そのために持参金を増やしてほしい」と。
その金額は許容範囲だったのか、ルティーナの父は了承してしまった。
それが間違った選択だと気付いた時には、すでに遅かった。
その後、明らかに遠慮がなくなった。
一ヶ月もしないうちにまた催促がきたのだ。断れば「前は了承したのに」と家格が上の者から言われ、断ることも難しく、少しずつ資産が奪われていった。
そんな折に産まれたルティーナの弟は、アトレ伯爵家の希望だった。
跡取りもでき、侯爵家に取り込めない家など興味もなくなるだろうと、そう思っていたのだが、予想に反して婚約白紙の話は出なかった。
予想できる理由は二つ。
一つは都合のいい金づるを手放したくない。
もう一つは、家格こそ下がってしまうが爵位をもう一つ持っているからだろう。
グリドート侯爵家は爵位こそ高いが、資産はそれほどなく、元婚約者は三男。
家を継ぐことはできず、三男ともなれば与えられる爵位もない。
爵位を持たせたい親心……ではないと、婚約解消された今なら絶対に言える。
彼らは、ただただ自分達の金づるを手放したくなかったのだ。
いずれは婿入りするのだからと、アトレ伯爵家の持つ資産を持参金と宣い、それを湯水のように使い始めたのだ。
そのたびに、グリドート侯爵家は羽振りが良くなっていった。
代わりに、アトレ伯爵家は質素になっていった。
そして今では、領地運営だけでは賄えないほどの金額を催促され、資産も底を突きかけていた。売り払ったものも多くある。
だからルティーナは金策対策に動いた。グリドート侯爵家に知られないように、悟られないようにこっそりと。
アトレ伯爵家の名義として無理に増やそうとすれば、また持参金と言い使われる可能性があり、無闇に資産を増やすことはできなかった。
でも、こっそりと別の方法でグリドート侯爵家にはバレないように増やすことは成功した。
今回の婚約解消は、侯爵家にとって我が家は用済みになったということだろう。
使えなくなった金づるは、もういらないということだ。
搾り取るだけ搾り取って、あとは捨てる。
お家乗っ取りは考えておらず、初めから資産だけが目当てだったのだ。
悪人もビックリな持参金という名の略奪だった。
幸いと言っていいのか、爵位は奪われず、失うこともなかった。
今度はそれを奪われないために、元婚約者にここでしっかり杭を打っておかなけば……ルティーナはそう決意した。
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