第三幕・兆し
『…あーあー、情けねぇ。ビビった挙句が、この様かよ…』
身体に見事な風穴を空けられた龍は薄れゆく意識の中で自嘲する。
やり直したいという微かな希望も、肉体は既に応えてくれない。
やがて完全に暗転した意識は、次の瞬間に良く知るベッドの上で覚醒した。
既に砂漠や謎の男は影も形もない。
代わりに普段から全く役に立っていない目覚まし時計が、午前五時頃を順調に刻んでいる。
程なくして、全ては夢だったのだと理解が追い付くのだった。
その後の龍は失った水分を補うべく、リビングへと足を運ぶ。
そして丁度バスローブ姿でソファーに寛いでいる夏季と出くわすのだった。
「おいおい姉貴、何時も言ってるが風呂の後はさっさと服を着ろ。しかもその体勢じゃ色々と見えてるぞ」
「はぅあっ、びっくりしたわー………お寝坊のアンタがこんな朝早く起きるなんて、どないしたん今日は?」
「別に何でもねぇよ、ちょっと夢見が悪かっただけだ」
「嘘を言わんといて、それだけなら二度寝するやろアンタは。ましてや今日は土曜日なんやし………ははーん、さては女の子とデートやな?」
「俺がそんなことで緊張して眠れなかったってのか。こちとら姉貴がちょいちょい連れてくる同僚さん達のお陰で、色々と免疫は出来てるつもりだが?」
「んもぅ、そんな真に受けんといてや。それに幾ら女の子に慣れとるからって、油断してたらあかんよ。今の世の中はあの手この手で、人様を食い物にしようとする連中が幾らでも居るんやから」
「確かに気を付けねぇとな。目の前にいる姉貴でさえ、日夜罪のない男どもを食い物にしている訳だからよぉ」
「あ、カッチーンときたわ今の。覚悟しい、そないにいけずな弟にはとっておきのお仕置きタイムや!」
「いやお仕置きタイムって今時そんな古い………って何で脱いでるんだぁぁぁぁあ!?」
突如として夏季はバスローブを脱ぎ捨てた。
そのまま一階の自室へと向かうと、クローゼット内にある無数の私服の中から厳選する。
風呂上がりですっぴんだった状態も、卓越した化粧で素早く上塗りする。
これこそ業界トップのキャバ嬢と謳われる女の本領発揮だ。
彼女が本気になれば相手の好みを的確に読み取り、姿形から口調まで理想の女と化すのは造作もない。
今回の場合は弟へのお仕置きなので、他でもない私立ライラック学園の生徒会長を意識していた。
因みに二人の顔立ちは決して似ていない。
また武道の為に己を磨く明日香と、並み居る男達の為に己を保つ夏季では美の方向性が異なる。
その上で夏季は自らを最大限に寿々奈明日香へと仕立てた。
普段のウェーブヘアーもポニーテールへと変更、服装も動きやすさを重視している。
他にもカラーコンタクト、ヘアスプレーで印象を工夫している。
少なくとも龍は視線の先に実の姉の姿を見失っていた。
やがて彼女は少しばかり恥じらいを見せつつ、193cmの図体へと身を寄せてくる。
更には僅かに瞳を潤ませながら、艶やかな唇を近付けてくる。
対する龍だが、特に抵抗の素ぶりはなかった。
何故なら飛来家の場合、この程度は日常的なスキンシップの一つに過ぎない。
恋人や夫婦の間で然るべきことを、姉弟間でも当然の様に交わすのだ。
「…ったく、本当に懲りねぇな姉貴は。そうやってあんまり気安いと、本命と出会った時に黒歴史になるぜぇ?」
「残念でした~、後にも先にもお姉ちゃんの本命はアンタだけ~。他の男は何処までも行っても、単なるお客様なんや~」
「っかぁ~、だから食い物にしてる側だって言ってんだよ。そこん所を常に自覚してねぇと、勝ち組もあっという間に転落人生だぜ」
「ん………せやな、ソコは否定せぇへんよ。そもそもお父ちゃんとお母ちゃんが居らんくなった時、長生きだけは諦めたもんな~」
「…俺としては、姉貴には長生きして欲しいんだがよぉ」
「いやんっ、可愛い!今のメッチャ良いデレやった!もう一回、もう一回!」
「嫌だねぇ、俺は欲しがりな女は好みじゃねぇからよぉ」
「このいけずぅ………そんな態度ならもうお姉ちゃんずっと離れへんで?」
「いや仕事っ、行けよ仕事ぉ!俺を一生養うんじゃなかったかぁ?」
「アレ、言わんかった?今週は久しぶりに月曜日の遅番まで、アフターもない完全フリーなんよ」
「…嘘だろ、嘘だと言ってくれよオイ」
「んもぅ、知ってるくせにぃ。お姉ちゃんは一度でも、アンタに嘘吐いた事はないよぉ?」
何処か悪戯に笑いながら弟を抱擁するその姿は、宛ら糸に絡まった餌を前にする女郎蜘蛛だ。
実際に休日の間、龍には気の休まる時は皆無だった。
自宅に居ようと外出しようと、殆ど姉と肌を寄せている。
夜に自室で就寝する時でさえも、常に姉の体温が感じ取れる。
布団よりも確かなその心地は、ここ最近の悪夢よりも遥かな安眠妨害に他ならない。
この調子が月曜日の夕方までは予定されている。
しかし龍にとって幸いなのは、月曜日が学生にとって登校日と言う点だった。
当日は姉に感付かれない様に早起きして着替え、朝食を食パンだけで済ませて出発する。
この時に半ば逃げる様な足取りだった為、未だ校門が開いていない時間帯に登校を果たした。
そしてこの事態が、私立ライラック学園に大きな波紋を呼ぶ。
元より龍の定時内登校は、およそ六年間を遡ろうと片手で数えられる程度の珍事である。
そんな男が朝練に赴いた生徒や、早出の教師達を次々と出迎える形である。
彼等からすれば、朝っぱらから怪奇現象を目の当たりにしたに等しい。
因みに学園の生徒会長である明日香も、いち早くこの現象とは出くわしていた。
彼女の方針として週明けは他の生徒達との挨拶を交わす為、早くから校門前で待機するのが常だからである。
ただし今回はお株を奪われた挙句、武芸者にあるまじきか細い悲鳴を漏らしてしまった。
その後は辛うじて役割を全うしようとしても、隣に居座った問題児の存在により終始違和感が拭えない。
やがて学園における最初のチャイムが鳴り響くと、およそ六年間で初となる組み合わせの手で校門が閉じられるのだった。
「…あ、あのっ、これは一体、何事ですかっ。もしや今日は世界が滅亡を迎えるXデーなのですか!?」
「何でだよっ、俺は終末兵器か何かかよっ。こうして俺が遅刻せずに登校したんだ、生徒会長なら歓迎する所だろうが!」
「ごっ、ごもっとも。しかし中等部の頃から六年余り、一向に態度を改めなかった貴方ですよ。何か良からぬことを企んでいるのかと勘ぐってしまいます」
「…人生は色々あるんだよ、本当に。それよりも信の姿が見えてねぇのが気になるんだが?」
「ああ、そう言えば………確かに見掛けていませんね。大抵は女子達に囲まれながら登校している筈なのですが」
「大方またテレビ局とかの取材に捕まってるんじゃねぇか。この辺りじゃ一番の有名人なんだからよぉ」
「その場合は私達に連絡を寄越すのでは。何時だったか、しつこい記者を撒く為にSNSを使って助けを求めて来たでしょう?」
「あれは俺達を巻き込みたかっただけだと思うぜ。トラブルに巻き込むのも巻き込まれるのも大好きだろ、アイツは」
「…確かに。実際にあの後、彼は常に屈強な護衛を従えているというネットニュースが出回りましたね」
「そうそう、アイツの心配はするだけ無駄なんだよ。どんなトラブルが起こったって、アイツなら全部を面白可笑しくしちまうんだからよぉ」
「それも確かにとは思いますが、一応は連絡してみます。これも生徒会長の務めですから」
明日香は制服の胸元ポケットから携帯電話を取り出すと、リダイヤル機能を駆使して信の番号へと繋いだ。
しかし電話越しからは電子音声による抑揚のないアナウンスが流れるばかりである。
ならばと今度はSNSを用いてメッセージを送るのだが、朝のホームルーム開始までに既読が付く事は無かった。
後に教師達にも一切の連絡が届いていないことが発覚し、この件は学園でも大いに話題となる。
何せ信は芸能人として早退する事はあっても、学生として遅刻した事は皆無なのだ。
特に女子生徒達の間では様々な憶測が飛び交い、中でもとある売れっ子アイドルとの逢引き説が実しやかに囁かれる。
根拠は何度か番組で共演を果たした程度なのだが、女子生徒達が黄色い声を上げだすには十分な材料だった。
また学園側も広告塔である特待生の唐突な不通は気が気ではない。
斯くして日頃から当人と親交が深く、学園の生徒会長を務める寿々奈明日香に白羽の矢が立った。
要するに生徒会を動かし、信の安否に少しでも裏付けが欲しいという案件である。
明日香としては内心で呆れ返る展開ではあったものの、彼女が率いる生徒会は日頃から士気が高く総出で動き出した。
なまじ有名人が相手である事から、その範囲は学園内だけでなく他校やテレビ業界にまで至った。
その末に学園屈指の問題児がふと漏らした証言を基に、信は巷で噂となっている街中の預言者なる占い師の謎に迫っていると目される。
即ち全てはテレビ番組用の企画に過ぎないという結論だ。
以上で概ねの者は納得し、放課後には初となる黒崎信の無断欠席が記録されるのだった。
「はぁ………今日は驚きの連続で眩暈がします。貴方の一件と言い、やはり今日は世界がひっくり返るXデーなのでしょうか」
「突っ込み所が満載だな生徒会長。俺が誰よりも早く登校して、信が無断欠席しただけで世界がひっくり返るってのか?」
「大袈裟なのは十分に理解しています。とは言えたったそれだけのことで学園がこの騒動ですよ。流石に大いなる不吉を感じてしまうのも無理はないかと」
「はいはい言ってろ言ってろ、どうせ明日からは全部いつも通りだぜ」
「私としては、貴方はいつも通りでなくなる方が望ましいのですけれど?」
「悪いがそれは期待するなよ。ところで生徒会長、近くのボウリング場が割引してるんだが?」
「生憎と私は誰かさんと違って、この後も生徒会や部活動に忙しい身なので。寮の門限を考えると暫くは厳しいです」
「ったく、寮生活になってからお前も連れねぇよな。分かったよ、独り寂しく帰るとするわ」
「はて………貴方の場合は独りの寂しさなど、夏季さんに抱きしめて貰えば全て解決するのでは?」
「おい馬鹿止めろ、思い出させんな。こちとらもう懲り懲りなんだよ」
「…ああ、成程。今日の貴方の行動は、そういう事でしたか」
「察しが良くて助かるぜ。序でに俺の傷ついた心を、優しく抱きしめてくれちゃっても良いんだぜぇ?」
「生憎と余所様の姉弟愛に踏み込む気はありませんので。それではまた明日、御機嫌よう」
受け入れ態勢となった193cmの図体を颯爽と横切り、明日香は自身の役割を果たそうと生徒会室へと向かう。
一方の龍は肩透かしを見せた後、揺らめくポニーテールを尻目に運動場へと向かう。
しかし何時も通り運動部が退散しようとした矢先、龍の携帯電話へ夏季からの着信が入った。
実は夏季と同じ店に在籍するキャバ嬢の一人が、先日から体調を崩していた。
そんな彼女の穴埋めとして残りのメンバーは総力する事になり、夏季も看板嬢として数日ほど店で泊まり込みながら切り盛りする。
これは飛来家の大黒柱でもある夏季にとって、避けては通れないアクシデントの一種だった。
斯くして龍はこの数日、自宅の豪邸で一人暮らし同然となる。
同時に私立ライラック学園の問題児としての本領発揮でもあった。
「おっ、龍ちゃんじゃないか。何時もので良いかい?」
「おう、頼むぜおっちゃん」
姉との通話を終わらせた後、龍は運動場から意気揚々と街中へと繰り出した。
そして先ずは腹ごしらえとして、馴染みのラーメン屋を訪れる。
其処で醤油ラーメンの大盛りを注文し、チャーシューのおまけを店主から頂戴した。
「お、おい見ろよ隣の学生さん」
「うわ、8レーン連続ストライクじゃん。マジで凄くない?」
続いての龍は割引券を手にボウリング場を訪れた。
其処で3ゲームを一人でこなし、うち一つはパーフェクトの300点を刻んだ。
その後は同建物内にあるビリヤードや、アーケードゲームに時間を費やす。
次第に学生が出歩いて良い時間帯を過ぎて行くが、数日はその奔放を抑えられる存在が不在である。
「…おい兄ちゃん、何を黙って俺達の間を横切ってんだぁ?」
龍からしてみれば、まだまだこれからという所だった。
そんなとある道すがらで、些細な事からガラの悪い五人組と衝突する。
そしてそのまま五対一の喧嘩にまで発展した。
しかし両陣営にある頭数の差は早々に覆った。
一発一発が的確な龍に対して、五人組の攻撃は一発もまともには入らない。
「こ………このガキがっ、ぶっ殺してやる!」
その内に五人組は各々に得物を取り出し、一斉に襲い掛かった。
しかしそれでも尚、素手のままの龍に圧倒される始末だった。
ただし偶然にも通り掛かった通行人達が警察沙汰にしており、193cmの図体は完全勝利を目前にして脱兎の如く逃げ果せる。
一方の五人組は殆ど身動きが取れない状態だった為、揃って警官達に捕まり聴取を受ける。
因みに彼らは得物を手にしたまま、警官達には自分達が被害者であると口々に主張した。
対する警官達は何を馬鹿なと呆れ、尚も息巻く五人組を勾留する。
そうして真実は、闇の中に消えた。
同時に飛来龍の夜遊び街道、その初日の幕が引く。
後は熱いシャワーを浴びて汗を流し、緩々と自室のベッドで就寝するだけとなる。
既に日付は変わっていたが、彼にとっては大した問題ではない。
何せ学業への遅刻は日常茶飯事で、数日は姉への体裁も必要ないのだから。
「…って、なんだよまたか。また俺はこんな夢を見てるのか?」
ふと目覚めると、其処は見知らぬ場所だった。
意識ははっきりしていて、身体も自由に動かせる。
これは既にお馴染みとなりつつある、夢心地に他ならない。
「…まぁ、良いか。どうせやる事は変わらねぇしよ」
193cmの図体は今までの夢と同じく、先へ先へと向かう。
その足取りはこれまでの散々な目から、全く懲りていない。
そうして辿り着いた先は、月下に映える豊かな丘だ。
其処では今正に、熾烈な決闘が行われている最中だった。
片や分厚い大剣を片手で軽々と振るい、山を抜く威勢を放つ。
片や鋭い短刀二丁を逆手に携え、水よりも遥か流麗に立ち回る。
大剣使いの方は一見して、身長200cmに届こうという屈強な大男だ。
短刀使いの方は女性だが、身長170cm以上と体格は恵まれている。
そんな両者の戦いは数え切れぬ衝突と拮抗に塗れ、白熱と化した火花が幾重にも散華する。
ソレは最早、両名だからこそ成せる一種の芸術だった。
少なくとも前進あるのみだった龍が、固唾を飲んで見守る観客と化す代物だ。
しかし肝心の決着に関しては、耳を劈く様な高音により突然として中断となった。
原因は飛来家の各部屋に設置されているインターホンである。
来客となればここぞとばかりに活躍し、夢心地の者を目覚めさせる際にも十分な威力を発揮する。
斯くして龍は不本意ながらも起き上がり、安眠妨害の元凶を黙らせるべく玄関へと向かった。
因みに元凶とは白いシャツの上から膝近くまで届くデニム製のジレを着こなし、ダメージ加工を施したジーンズを穿くポニーテールの女性だった。
「ご機嫌よう。今日は相も変わらずの様で、心底がっかりしましたよ」
「朝っぱらから誰かと思ったら、我らが生徒会長さんとはな。目覚まし時計にしては贅沢が過ぎて怖いんだが?」
「はぁー………貴方は時計を見ていないのですね。今はもうとっくに放課後ですよ」
「おっとマジか。姉貴が出払ってるとは言え、流石に半日分の寝坊は想定外だったぜ」
「夏季さんが不在、と………さてはまた、悪い癖が出たのではないでしょうね?」
「ノーコメントだ。それよりも先ずは、俺の安眠を妨害した用件を聞かせろよなぁ」
「…別に、大した事ではないのですけど。昨日の信に続いて、貴方まで連絡が取れない事を少し不審に思いまして」
「つまりわざわざ俺を心配して出向いたってのか、何かとお忙しい生徒会長さんが。こりゃやべぇな、いよいよマジで今日はXデーになるぜ」
「それは昨日の意趣返しのつもりですか。本当に貴方は…いいえ、貴方達は昔から意地が悪いんですよ。もしドッキリを仕掛けようとしているなら、今の内に白状しなさい」
「残念だが見当違いだぜ。っていうか、その感じだと信の奴はまた無断欠席したのか?」
「…ええ、その通りです。相変わらず電話には出ませんし、SNSへのメッセージも未だに既読すら付きません」
「単に忙しいだけじゃねぇのか。テレビ番組の特番とかの収録で、手が離せないとかよ」
「否定はしませんが、こうも連絡が着かないのは流石に………もしかしたら、何かトラブルが起きているのではないかと」
「そんなマジになるなよ、アイツの事だからまた下らねぇ事に首を突っ込んでるだけだぜ」
「だと、良いのですが…」
「…まぁ、確かにこのままだと気持ちが悪いな。折角お互いにフリーな訳だし、今からアイツのアパートにでも行ってみるか?」
「…賛成ですが、その前にきちんと身なりは整えてきてください。間違ってもそんな寝起き姿で出歩こうとは思わない様に」
「おっと流石は生徒会長、こんな時でも目敏いな。それじゃあ仕度してくるから、ちょっと待ってろよ」
龍は自室に一旦戻ると、先ず灰色のタンクトップとカーゴパンツに着替える。
その上で私服としてよく使うミリタリージャケットを羽織り、後は寝ぐせだらけになっていた髪を何時ものオールバックに整えて準備を済ませる。
やがて飛来家の長屋門前で合流した二人は、先ずは最寄りの駅へと足を運んだ。
そして最寄りの駅からは市外方面行きのバスへと乗り込んで一時間ほどを掛ける。
後は行き着いた停留所から徒歩で半時間近くを要せば、漸く信の住まいへと辿り着く。
其処は街はずれの山間に位置する、築五十年以上となる二階建ての木造アパートだった。
特にリフォームの類は施されておらず一室は三畳、トイレは共用で風呂は近場の銭湯を使う必要がある。
加えて殺風景な上に人里も遠く、住居として選ぶよりは夜間の心霊スポットとして見た方が遥かに御誂え向きだ。
それでも信は私立ライラック学園に入学した当初の頃から、このアパートの二階三号室にて一人暮らしを続けている。
芸能界における活動の都合で外泊が多くなった現在でも、一向に転居の素振りはない。
この態度は信の先輩に当たる芸能人達は勿論、凡そ六年の付き合いとなる龍と明日香にさえ疑問視されていた。
そもそも信の住まいである二階三号室は、無事に辿り着ける保障すらないのだ。
二階に上る為の階段は手すりがなく、明らかに老朽化している。
またこの階段を無事に踏破したとして、三号室までには悲鳴のように軋みを上げる薄っぺらな共用廊下が待ち受けている。
当然ながら新たな居住希望者は現れておらず、信より以前にも誰か居たのかも定かではない。
「さーて生徒会長、俺はここで待ってるからよ。たたーっと、ひとっ走りして来てくれよ」
「この期に及んで何を世迷い事を。貴方も一緒に行くんです」
「馬鹿言えよ、駄目だって。どう見てもこのアパートはもう俺の体重を支え切れねぇよ、行っても怪我するだけだぜ」
「ご安心を、貴方の体はとても頑丈です。二階程度なら仮に落ちたとしても大したことはありません。この空手部主将である私が保証します」
「嫌な保証だなクソったれ。もし俺の身に何か起きたら、絶対にお前も巻き込んでやるからな」
「上等です。その時は思い切りクッションにしてやりますから、そのつもりで」
「いやぶっちゃけお前にクッションなんて要らねぇだろ。その無駄に実った胸さえあればどうとでもなるぜぇ?」
「…ふぬぅあああああっ!」
「いっ………てぇえなこらあぁっ!」
全く遠慮のない平手打ちが、人気のないアパートにかつてない快音を響かせる。
そして私立ライラック学園においては日常ともいえる光景が幕を開けた。
最大のコンプレックスを突かれた明日香は怒り心頭で、得意の蹴り技を連発する。
対する龍は平手打ちこそ許したものの、以降の追撃に対しては腕っ節で応える。
これが相変わらず全くの互角で、次第に二人は熾烈を極めて行った。
普段ならこうした二人の騒動は頃合いを見て止めに来る男が居る。
今回の場合ならアパートの二階三号室から何食わぬ顔で現れる。
これは若き三人が出会ってから中高を通じ、凡そ六年間に及んで培った阿吽の呼吸だ。
しかし大事な一角を欠いた今、二人は一向にブレーキが掛からない。
そもそも出会ったその日から、二人はブレーキを掛けるつもりがない。
片や幼い頃から理を突き詰め、武道に行った。
片や幼い頃から我を通し続け、喧嘩に長けた。
互い違いの二つは何時しか何度も衝突しながら、一度たりとも決着には至らず今日を迎えている。
もし今が鬼の居ぬ間と言うのなら、白黒を付けるには丁度良い。
ソレが元より両想いであったのなら、気持ちを押し留める余地などない。
斯くして二人は理性を彼方へと吹っ飛ばし、いよいよ正面から本気で踏み込む。
念願の勝負まで、あと数秒もあれば良かった。
「止めときな!」
たった一声ではあった。
それでも今まで通り、二人の決着を制止する意志には違いない。
ただし声色に関しては酷くしわがれており、アイドルでもある黒崎信とは程遠い。
その正体は艶を失った褐色肌とざんばらな白髪が特徴的な、小さな老婆に依るものだった。
彼女は松葉杖がなければ歩けない程に衰えてはいるものの、その垂れ下がった瞼の奥から覗く眼光だけは刃物よりも鋭さを保っている。
此処まで読んでいただき感謝<(_ _)>
拙いですが、もし少しでも楽しんでいただけなら幸いです。
良ければ次回以降も拝読して頂ければ幸い。