第一部 嵐を呼ぶ少女(4)顎割れのヴォーティー
魚介水兵の弱点に気が付いたアナは陽動と兵站の両方から敵の裏をかき
顎割れヴォーティーの元へたどり着く。
蛸の怪人になってしまったヴォーティー船長を殺さずに助ける約束をした
アナだったが、果たして?
剣劇+銃+体術を駆使して戦う少女アナの海洋冒険ファンタジー!
(4)顎割れのヴォーティー
顎割れのヴォーティーは元タエト海軍の軍艦乗りである。
この世界で海軍と言うカテゴリがある国はタエトとアドリアだけだ。
軍隊として組織立っているののは北のエルオンド帝国が自国の船に私掠の許可を出しているためだ。
その武装商船を守るのがタエト海軍であり、この護衛の収入は積み荷の絹、茶葉などの莫大な利益から支払われるためタエト王国の重要な収入源であった。
ヴォーティーは腕の良い操舵と巧みな戦術で生涯で5隻の海賊船を沈め、拿捕した船を含めると両手両足の指で数えても足りない戦績だった。
「おはよう諸君! 今日もいい朝だ」
顎割れのヴォーティーの朝は早い。
人ではなくなった今もそうだった。
呪いにより睡眠自体必要のないモノだったが、就寝時間と起床時間は決められた通りに過ごした。
時間に正確なヴォーティーはエルオンド帝国産の懐中時計をこよなく愛していた。悔しいが品質は世界一だと思われる。
「ふむ、集合時間にピッタリである」
懐中時計の蓋をパチンと閉めると部下たちを見回す。
最低限の見張りを残して全員が集合している様だ。
新入りの船員は少し服装に乱れはあるものの、まあ及第点であろう。
ヴォーティーは満足そうに眺めると作戦を説明した。
ヴォーティーの懐中時計はノームの職人の中でも天才と呼ばれるオベロンの作ったものだ。
タエト王より勲章と共に賜った逸品中の逸品であった。
その時計を愛おしそうに眺めながら朝は始まる。
海洋生物とのキメラ体になり果てたこの体になっても生活の習慣は変わらぬのだろう。
時間前にベッドから降り紅茶を飲んでから顔を洗う。
整頓された書庫の前にある整頓された執務机。
綺麗に並べられ、光沢や色のバランスを考え抜いて配置された置物。
船が揺れた場合にも位置がズレないよう固定はしてあるが掃除と担当する水夫が戻す位置を間違える事が無い様に、絵心のある部下が配置を絵画して記録させた。
その絵と、配置を見比べながら蛸になってしまった顎を撫でる。
今日も完璧だ。自慢の髭も完璧な角度であった。
完璧は良い。
部下の配置も装備の配置も計算され、最短で最速で効率よく動ける。
時に戦いは想像もつかない事が起こることもあるだろうが、最善の段取りがそれを乗り越える手助けをしてくれるのだとヴォーティーは考える。
段取りの悪い兵站将校ほど役立たずはいない。
頭が悪く真面目な男を兵站将校にするな。ヴォーティーの持論であった。
紅茶を飲み終えると船の状態のチェックだ。
人員の配置、故障個所、備蓄の管理。
自分で確認しないと気が済まない。
副長の報告とすり合わせ、今日も完全一致させる。
副長はなかなかハンサムガイで陸ではモテた。
仕事では嘘をつかない事が彼の美徳で、毎朝の報告にブレはない。
今はサメのような顔になっているが。
元がハンサムなのか精悍な顔つきは魚介になっても変わらない。
信頼できる部下だ。
その信頼できる部下からあの女の報告があった。
なるほど捕らえたセバスチャン翁が護衛しているとなると間違いなさそうだ。まさしく探していた「姫」に違いない。
昨日は非常に充実をしていた。
イシュタル駐屯軍の総督はこの蛸の顔に多少驚いていたが「呪いでこうなったが気にするな」と一言で済ますといつも通り金貨を受け取って納得して頂いた。
蛸の顔の海賊より金貨が大事なのだろう。凶相持ちなど些事な事だ。
驚いたイシュタル兵を四、五人殺してしまったが、金貨を上乗せしたのでそれも些末な事のようだった。
おかげで街中に部下を配置したが問題はなかった。
おそらくお姫様はセバスチャンと合流を試みるだろう。
お姫様の実力は中々のものだが手の内が読めればなんという事はない。
ーー袋の鼠というより袋の子猫といったところか。
ヴォーティーは含み笑いをすると朝礼を終えて各自持ち場に着くよう号令を出した。
まあ爪だけには気を付けないとなるまい。
我ながら上手い事を言ったと笑った。
アナとラマンチャ達はしっかりと休息を取り、夜が更けてから行動に移った。
あの後、デニは顎割れヴォーティーを救うというアナの言葉にえらく感激したのか何か手伝えることはないか? とうるさい程催促した。
アナはその気持ちに感謝を述べ「でも危ない事はしないでね」と念を押して微笑んだ。
すっかり舞い上がったデニは張り切って偵察に出かけた。
配達の仕事で街を熟知している。
ラマンチャが屋根の上から様子を見ていたが危なげな様子はなかった。
偵察から帰ってきたデニの報告によると魚介水兵は夜目が効かないのか姿が見えず市街に危険はなさそうだった。
アナもフード付きのマントで身を隠しながら屋根に上ると新市街の方に目をやった。
月が山裾に消える時間。落ち合う予定の方角からチラチラと明かりが見えた。セバスチャンの合図だ。
遠くて姿は確認できないが明かりの瞬きが通信だと教える。
自分でも首飾りを発光させ、周囲から見えぬようにマントでそれを包み答えた。
もう一度不規則に光が瞬く。
「あれ、なんかの信号?」とラマンチャが聞くと「アナは海軍のね」と教えてくれた。
共通の信号ではなくタエト海軍が使う信号だ。
一応、アルファベットに変換する事が出来るが、意味不明な羅列になる。
アナは小さな羊皮紙に書き留めると懐から手帳を出して確認した。
「沈黙の羊203…」
アナが屋根は屋根からするりとした身のこなしで降りるとラマンチャに耳打ちした。
「セバスチャンは多分捕まっているわ」
「どうして?」
「なにか様子がおかしいですわ」
「手筈通り落ち合う合図を予定とは別の暗号で送ってきた。
という事はその逆という事ですわ」
ラマンチャには伏せているがセバスチャンは元情報将校で彼の情報には二重三重の意味がある。
「なるほど流石ですわね…」
アナは暗号にある203の数字を見て何かを納得した。
アナはもう一度、屋根に上り周囲に魚介水兵が居ないかを確認すると
デニを呼んで先ほどとは違うメモを渡した。
「危ないようだったらメモを捨てて逃げて頂戴ね。配達屋さん」とお駄賃を渡す。
行き先は「踊る羊亭」という宿屋だ。
『セバスチャンと言う人に渡してください』と羊亭のおかみさんに渡すとだけでよいとアナは言った。
デニは仕事柄、簡単な単語や住所ぐらいは読む事が出来るが、メモには全く理解できないアルファベットと数字の羅列が書いてあった。
デニは小さな羊皮紙を丸めると懐にしまって羊亭へ急いだ。
カーラ・ロウィーナ号船内ーー
時は戻ってセバスチャン達だが、ものの見事に捕まって顎割れヴォーティーの船の船倉に放り込まれていた。赤ら顔達は別室で取り調べを受けている。
赤ら顔にとって命の恩人であるピンクのおねえちゃんと、セバスチャンには悪いが自分の命の方が大事であろう。
セバスチャンの予想通り赤ら顔は拷問を受ける前に白状した。
落ち合う場所や、他に仲間がいない事。欲望の種子とかいうモノを探していること。そればかりか盗み聞いた海軍の暗号の事まで話した。
暗号には数種類あり、どれを使うかによって意味が異なる。
セバスチャンが船で通信手をしているというノッポに連絡を頼んだ際、伝えた言葉がその種類らしい。
サメ頭の副長がその情報に大喜びをして酒を奢ってくれた。
エール腹は頭があまり良くないので尋問は早々に終了した様子だ。
何を聞いても要領を得ない。そして記憶力があまりよくなさそうだ。
ノッポは? というと、赤ら顔の情報から身ぐるみはがされて暗号のメモを奪われていた。
暗号さえわかれば赤ら顔の情報だけで事が足りる。
陸に上がって仕入れたばかりの上等なエールをご馳走され、赤ら顔は照れながら相伴に預かった。肉も上等なら魚介のスープも上等。焼いた魚にたっぷりとレモンをかけて出された。
なかなかの歓迎ぶりだ。
その間も会話から情報を引き出されているのだが素人の赤ら顔には解っていなかった。
船倉に戻されたエール腹とのっぽにも食事が振舞われたがセバスチャンには何故か質素な犬の餌以下の食事があてがわれた。
セバスチャンの待遇を他所に三人の部屋は賑やかだった。
手枷が無ければちょっと隙を見て船内を見て回りたかったが、まあこの手枷は外すのに骨が折れそうだ。
ご丁寧に魔力石のカギだ。 合鍵は作れぬし。ピッキング不能。
本来は脱出してほしくない王侯貴族級の捕虜に使う。
セバスチャンは手枷を眺めて頷いた。
「ふうむ、顎割れ殿はエルオンド産の製品が好きなのか? ま、略奪品先がエルオンドの船と見たほうが妥当だな」
セバスチャンはとりあえずどうした物かと勘案した。
顎割れのヴォーティーはタエト海軍のエースだったため何度か顔を合わせたことがある。
今は蛸の凶相持ちになってはいるが、本人であろう。
とするとこの船はロウィーナ号か。
目隠しをされて船内に連れ込まれたが船倉についてから目隠しを取れば意味がない。
隠そうとも無駄な事だ。
竜骨から伸びてくる肋骨を見れば船の大きさや型式は見当が付くのだ。
間違いない。
顎割れの愛船カーラロウィーナ号、元タエト海軍の武装艦だ。
武装艦だったころの名前はもっといかつい名前だったが今はそんなことはどうでもよい。
ロウィーナ号以外の船に乗せられていたら厄介だったが、目論見通りであった。
とりあえず犬の餌以下の食事を腹に入れながら状況把握に努めた。
しかし隣は随分賑やかだ。
サメ頭の男はおそらく副長のケンブルだろう。真面目で仕事が正確だ。
おそらく忠誠心の低そうな捕虜に酒を飲ませ、情報を吐かせている最中だろう。
「ご苦労な事だ、まあ存分に話してもらわぬと計画が狂う」
さて、と周りを観察すると停泊中とはいえ見張りの魚介水兵の数が少ない様に見える。
おそらく、市街に配置中なのだろう。
姫様は無事なのだとわかる。
犬の餌以下の料理を口にしたのも兵站を分析するためだ。
陸に上がって補給したばかりと言うのにこの飯の臭さは何なのだろう?
ロウィーナのコックは優秀と聞いていたがこの辺りに何かヒントがありそうだとセバスチャンは思った。
船内に統率が取れていない水兵が多数混じっている。
というか殆どだ。
という事は几帳面で有名な船長の元々の部下ではないだろう。
僅かに着衣に乱れがある。
今回の作戦規模からすると圧倒的に人手不足なのは間違いない。
街を封鎖するのは海賊船の戦力では少なすぎる。
街にあふれていた魚介水兵の数を考えるとカプリコルヌ号の船員を魚介水兵にしたと考えるのが妥当であろう。
が、所詮は新兵たちだ。
統率を取って指揮するには心もとない。大半が街に出ているに違いない。
「要所に就くのは生え抜きの部下、残りは新兵か?」
おそらく船内に残っている副長ケンブル以外、生え抜きの部下は少数しか配置されていないと見て良い。
ーーお嬢様があの暗号に気が付いたなら十分勝機はある。
哀れなヴォーティーを助けようなんて言わない限り…。
とすると、お嬢様が行動を移すまでまだ時間がある。
セバスチャンは「飯が臭い、手が痛い」と喚きながら哀れな年寄りを演じて待つことにした。
市街 踊る羊亭ーー
踊る羊亭でデニを待っていたのはいつもの優しいおかみさんではなくフードを目深にかぶった男達であった。
配達員であるデニは怪しまれずに通された。
メモは男達に「おかみに渡しておく」と強引に奪われたがアナに言われた通り抵抗せずに渡した。
大銀貨1枚も貰えるような大仕事にしてはあっけなく終了。
その後、踊る羊亭から男たちが出ていくのをしっかりと見張りデニはアナに報告した。
「メモ、取られちゃったけど本当にいいの?」
すまなさそうにデニは報告したがアナはニコニコするばかりできちんと出来たことを褒めてくれた。
デニの報告では男たちは港に向かったという。
アナが言うには向かった先に顎割れヴォーティーか、副長のケンブルがいるとの事だ。
デニもラマンチャも興奮気味で出発を待ったが、アナはあくびをしながら「奇襲をかけるなら今だけど、まあ今日の所は寝ましょうか?」とラマンチャ達の家に戻った。
ヴォーティー船長は水兵長の報告から「姫」が夜襲をかけてこないと踏んで熟睡した。あまり必要はないとはいえ毎日の日課をこなすのは気持ちが良い。
朝の日課である熱い紅茶を飲む。
魚介水兵たちは徹夜の警備で多少疲労していたが結局、奇襲が来なかったことにホッとした。
魚介水兵達は朝の訓示を受けて持ち場に戻る。
今日は決戦と聞かされて、逸る気持ちを抑えつつ、要所に就いた。
踊る羊亭で得た暗号と、赤ら顔達から得た情報によると「姫」の狙いは沿岸砲台の陣地である。
陣地を制圧した「姫」はそこからカーラロウィーナ号に砲撃を加え、混乱に乗じてセバスチャンと合流する作戦であろう。
「小娘の考えそうな作戦だ」
わざわざ解読されている海軍暗号で知らせに来るとはとんだ間抜け、浅知恵だ。
副長ケンブルは、わざと砲台陣地を手薄にしてその周りに伏兵を配置した。
船長の命令で船の位置を少し遠ざけ、陣地の固定砲の角度を動かした。
ヴォーティー船長曰く、「素人に砲撃は難しい」のだと。
しかしながら侮ってはいない。
あのお嬢さんはヴォーティー船長を蹴り飛ばし、囲みを破って見事に逃走してのけたのだ。
単独で銀騎士級の戦力と見ても過大評価ではないだろう。
正面からやりあうのは得策ではない。
ケンブルは飛び道具が使える部下にクロスボウを装備させて屋根に潜ませた。
姫が潜伏していると思われる場所から死角になるように配置し、さらに念を打入れて、夜中のうちに簡易バリケードを要所に設置し逃走経路を塞いだ。
まさに袋の鼠だ。
あとは姫がノコノコと現れるのを待つだけなのだが…。
「遅い、情報ではこちらを目指すはずなのだが?」
沿岸砲台の陣地には少数の見張りを立たせ、配置についた兵には身動き一つさせていない。
長時間、薄暗く蒸し暑い屯所に体育座りのサメ頭副長は焦れていた。
真面目な分、計画通りにいかないと不安から苛立ってしまう。
指揮官の苛立ちは部下に伝染する。このためケンブルは堪えた。
「ケンブル様、姫は低血圧なのでは?」
「うるさい! そんなわけあるか」
窮屈な姿勢で朝の配置からすでに五時間が経過。つい語気が荒くなる。
いかんいかんとサメ頭を振るうと後頭部についた背びれが一緒になってぶるぶると震えた。
サメ頭のケンブルは樽から柄杓で水をかぶると部下にもかけてやる。
「この身体になって一つ不満があるとすれば頻繁に水が必要な事だな」
いや、どう見ても魚の顔になった事だろう? と部下たちは思ったが怒られるのが嫌で口をつぐんだ。
呪われたのは仕方ないにしても水分が必須なのは陸上の任務ではけっこう堪えるなとケンブルは部下の様子を見る。
兵站に大量の水が必要になるのは考え物だ。
「暗号には今日の早朝、我々が訓示を受けている間にここを襲うと示し合わせているのに」
ケンブルは奥歯を嚙み砕くほど焦れた。
まあサメの歯だ、噛み砕いてもまた生えてくるであろうが。
太陽が真上になっても姫は現れなかった。
港や山道に至る要所も襲われた様子はない。
「低血圧にもほどがあるぞ、あの姫!」
ケンブルは単眼望遠鏡を握りしめて窓枠の隙間から外を覗いた。
「やっぱり低血圧なんですかね」と魚介水兵。
水を被りながら一緒に見張る。
「寝坊するにも程がある!」とケンブルが憤慨すると部下もうんうんと頷いた。
部下たちもかなり消耗している。
こちら側に配置されたのは元々の部下、最精鋭の魚介水兵だ。
気力も十分で早朝の襲撃に備えており今頃は姫を捕縛している筈だった。手持ちの水だけでは炎天下のなか持たない。
案の定、屋根に配置した魚介水兵は水が足りないとハンドサインを送ってきている始末だ。
ケンブルは仕方なしと水の配給を指示した。
一方、その頃のアナはまだラマンチャの隠れ家に居た。
正確には隠れ家の屋根に上って何やら白い筒を覗き込んで様子を見ている。
アナは水の配給に回る魚介水兵を見つけると、その出所である沿岸砲台陣地の屯所を確認した。
思った通り、沿岸砲台の陣地方面は敵の伏兵だらけだった。
魚介水兵が大量の水を必要とすることを見込んでわざと出発を後らせたのだ。せっかく死角に配置していても水の配給を受ける様子で丸わかりだった。
「アナ姫様、その白い筒はなんなんッスか?」とデニ。
アナ姫という言葉をやんわりと断りながらアナはデニに説明した。
「魔導単眼鏡ってまあ簡単に言うと遠くを見る道具ですわ」
「何か面白いもの見えます?」
「まあ面白いものは見えないけど、目当ての人は見つけたかな」
アナは、音もなく路地に降りると、今朝に話した作戦で行きましょうとデニに告げた。
「なあアナ、本当にこれ着なきゃダメなのか?」
ピンクのスカートを穿いて全身隠せるフード付きのマントに着替えさせられたラマンチャは不平を言った。
「どうせマントで隠すならスカート余分じゃね?」と。
アナが準備と言っていたのはこの事かとラマンチャは納得いかない顔をしながら思った。夜のうちに奇襲をかけず衣装ケースを取りに行っただけなのはこういう事かと穿き慣れないスカートの裾を摘まんで嫌そうな顔をする。
「あら結構お似合いです事よ?」とアナの口調を真似てデニが笑う。
デニは指さしてゲラゲラ笑い転げている。
「お前も着るんだよバカデニ」とラマンチャはもう一着のスカート放ってよこした。
「マジ?」
嫌そうな顔をするデニに「大まじめですわ」とアナが微笑む。
アナは微笑みと共に有無を言わせなかった。
「ラマンチャの言う通り、全身隠したら意味ないんじゃ?」
しぶしぶスカートに穿き替えたデニは恥ずかしそうにフードを目深に被る。
「裾からちょっとだけ見えるでしょう? まあそれで十分ですのよ」
とアナはちょっと悪い顔になる。
デニに変装用のかつらをかぶせると意外に女の子に見えた。いや男の娘か。顔の汚れを落とすと結構可愛らしい。
ラマンチャの方はなんかこう…ダメだ。誰も得しない感じがするが作戦には支障がない。
ピンクのスカートがちらっと見えればいいのだ。
顔は関係ない。
「で、馬車で街を走れと…」
戒厳令の敷かれた街で馬車を疾走させるとそりゃあ目立つ。
デニとラマンチャは拝借した馬車で配置についた。
デニは山間部の街道方面を、ラマンチャは港に向かう事になった。
ラマンチャは昨日アナが通せんぼを喰らったホロ付きの馬車を拝借する事にした。
中にアナが潜むためだ。
彼らの死角でアナを降ろす作戦だ。
ラマンチャは適当に港に近づいたところで打ち合わせ通り、急に速度を上げてイシュタル軍の駐屯地へ疾駆した。
伝令兵が水分の配給に精を出しているところに不審な馬車が二台。
魚介水兵たちは大騒ぎだった。
こんな時に冷静に指示をくれる副官は砲台の屯所に籠っていて不在。
水を被りながら体育座りをしていた。
彼の視界には馬車は見えない、というよりアナは見えないようにコースを取っていた。
街中に配置された魚介水兵は不審な馬車を勝手に追ってよいのか、追ってよくないのか判断が出来ぬままパニックになっていた。
普段なら船の上できっちり指示が行き届く所だが街は広い。
『襲撃、または通過しようとする者を生かして捕らえよ』という命は受けている。
しかし街中を走り回る、女の子の御者が乗ってる馬車はどうするんだろう? 昨日の大立ち回りを見ていた魚介水兵たちは困惑した。
てっきり強行突破してくるものだと思っていたからだ。
副長のサメ頭はアナが馬を使うことも想定して街道出口に馬防柵まで配置させたが寄ってこない事には話にならない。
街道を守る巨漢の海老頭水兵長は街に配備している石弓魚兵に出来る限り大声で叫んだ。
しかし残念だが海老の顔から発せられる声は見た目の怖さと裏腹に遠くまで届くような声ではなかった。
すぐさま伝令の魚介水兵を呼び寄せるも水を配るのに忙しいらしく、なかなか集まらない。
「戦の基本は兵站と陽動でしてよ? サメ頭のおじ様」
混乱の中、顎割れのヴォーティーは船の周囲に居た魚介水兵どもを伝令に向かわせたが、もともと伝令兵ではないため配置についた兵の位置を探すので手いっぱいだった。
副官サメ頭は精鋭と共に伏兵の任を遂行していて役に立たない。
後に残ったのは統制の取れない烏合の、いや魚合の衆の新米魚介水兵で完全に小娘に翻弄されている。
かといって沿岸砲台の屯所が制圧されるのもまずい。
サメ頭の配置はそのままに事態を収拾するしかなかった。
伝令が機能し始めてやっと幌馬車を追い詰め始める。
その様子にヴォーティー船長は拳を握りしめた。
「やはり統制が取れない奴らは使い物にならぬ、作戦が終わったらみっちり訓練せねば」
街の中心部、いつもならバザーでにぎわう中央通り周辺で幌馬車は右往左往していた。多少焦ったが指揮系統が回復してきたからだ。
手筈通り姫の退路を塞いでいくまで、そう時間はかからぬだろう。
「一瞬、ほんの一瞬、冷や汗をかいたぞドルシアーナ姫」
そう言って桟橋に設置した臨時指揮所に腰を掛けた。
ヴォーティー船長は上着を直し、ズレた海賊三角帽を額の中心に持ってくる。ふむ、概ね作戦通りと安堵のため息をついた。
港を臨む中央通りの真ん中で馬車が急停止する。
伝令が伝わった石弓魚兵がウマを射殺したようだ。
単眼望遠鏡を覗きながら降伏の合図に両手を上げる姫の姿を確認した。
「やはり小娘、セバスチャンが居なければこんなものよ」
蛸の粘液にまみれた唇を舐める。勝利を確信したその時だった。
「ごきげんようヴォーティーガン大尉、王太子様からの叙勲式以来かしら」
ヴォーティー船長がギョッとして単眼鏡を降ろすと、そこには肩幅に足を開き、重心を自然体にした「姫」が立っていた。
要するに覚悟完了、臨戦態勢、当方に迎撃の用意ありという佇まい。
ピンクのブラウスに白い乗馬ズボン、長い編上げのブーツ。腰には反りのあるサーベル。
両手はぶらりと下がっているが隙が見えない。
姫のリーチからすると遠い様にも思えるが、そんなことはない。
ヴォーティーには解る。
完全に「姫」の間合いだった。
最後に会ったのは7年前、7歳の少女だったが見覚えがある。
「やはりそうでしたか」
タエト王家が絶えた今、おそらく王位継承権は父テンペスト公に次ぐ2位のドルシアーナ=M=テンペストだった。
「これはこれはドルシアーナ姫、お知らせいただければお迎えに上がりましたのに」
ヴォーティー船長は恭しく礼をすると蛸の触手を嬉しそうにうねらせた。
「まだ父は正式に王位を継承しておりませんわ?」
「ではドルシアーナ公爵令嬢とお呼びしましょうか姫様」
タエトを見捨てた裏切り者の娘である、積年の念がヴォーティーの触手を震わせた。
「今日お伺いしましたのは大尉の正気を取り戻すためですわ」
そう言い放ち、眼光は鋭く船長を見据える。
「もう昔の事です。タエトは滅亡し今は大尉ではありません」
黒い縮れた髪の間から触手が伸びていく。スリ師トリアノを捕らえた触手だ。
「ですが大尉は諦めていないのでしょう?」
「何をですか?要点がつかめませぬ」
「王都の奪還ですわ」
そう言って黒いレザーの手袋を両手にはめる。
「姫様、アドリア産のシルクの手袋が確か略奪品にありました、進呈しましょう。そのような武骨な手袋、お似合いになりませんぞ?」
と顎髭を撫でつける。
手袋をはめている間もドルシアーナには隙が無い。
ヴォーティー船長は効き手を脇腹の横にゆったりと空間をあけて漂わせ臨戦態勢を取った。
サーベルでも銃でも抜ける態勢だ。
「いいえ、結構よ、貴方を殴るときその…手が傷付きますもの」そういってはにかむ。
はにかむ所か疑問だが、人を殴った経験があるならわかるだろう。
歯が拳に突き刺さるのを防止しているのだ。
ご丁寧に拳を保護する鋲が付いてる。喧嘩用の皮手袋だ。
「とんだじゃじゃ馬ですな」
ヴォーティー船長は少し重心を後ろに下げた。
刹那、急に崩れ落ちるような体制からアナは急加速し、拳を突き出して来た。相手の呼吸、動作の起こりに合わせて攻撃してきたのだ。
起こりを制されたヴォーティーが辛うじて顔を逸らし、拳を避けると、顔の前で拳は掌に替わる。アナの掌は小さいが視界を奪うには充分であった。
視界を遮られたと同時に弾けるような音が三回。
腹に強烈な衝撃を受け、足先まで痺れるような痛みが走る。
魔導銃か?
視界の端に見事に装飾の施された単筒が見えた。
タエトの王立魔導院が試験的に作っていたとは聞いたことがあるが…。
最初に邂逅した際も数発撃っていた。
逃げながら弾丸を込められるとも思えない。
最新兵器である銃は構造上、先込めの単発銃で連射はできない。
自身の持つ三連式の単筒もバレルが三つあるから連射できるのだが、あの時ドルシアーナ姫が持っていた銃はバレルが一つのタイプだった。
人間、頭を打たれると仰け反る。腹を打たれると蹲るものだ。
ヴォーティーの意思とは関係なく身体が前のめりになる。
幸い、呪われた身体のお陰で致命傷にはならずに済んだ。
代わりに内臓がカクテルされて手足がしびれる。
小さな足がヴォーティーの鳩尾を抉るように蹴る。
そのまま鳩尾を踏み台にして駆け上がると、膝でヴォーティーの顎を正確に蹴り上げた。
一呼吸だった。
綺麗にトンボを切って着地するまで、ほんの一呼吸だったのだ。
ヴォーティーはその素早さに何をされたのか分からなかった。
「ちょっと時間がありませんの、荒事は避けたいのですけれど…ごめんあそばせ?」
肩をすくめて謝意を伝える。しかし全く隙は無い。
美しく幼い顔からは想像がつかないが、この少女は相当な場数を踏んでいる。攻撃を仕掛けるタイミング、位置取り、呼吸を読んで動きを制する。
間髪入れずに攻撃を繰り出す。
顎をと腹を押えるヴォーティー船長は咄嗟に回避行動に出る。
この男も場数を踏んでいる、完全に勘だった。
アナは回避行動を読んで踏み込む。
船長の回避が先だったが易々と間合いを詰めた。
歩法の違いだ。
さらにサーベルを抜かせないよう利き手に中段蹴りを繰り出す。
船長は咄嗟にガードしてしまう。
アナの猛攻にサーベルにまで文字通り手が回らぬのだ。
ドルシアーナのつま先には鉄板が入っているのだろうか?
蹴り脚はガードした右手を制圧しつつ、つま先は脇腹に突き刺さる。
空手でいう三日月蹴りだ。
サーベルを抜かせぬと共につま先の鉄板が肋骨を折る。
ヴォーティーの脇腹に強烈な痛みが襲う。
さらに銃撃。
とっさに顔を庇わなければ魔道銃を数発喰らうところだった。
全くもって認めたくないが防戦一方だ。
ヴォーティーは海賊を拿捕する際、何度も視線をくぐってきた。
悪名高い海賊の頭と切り結んだことも一度や二度ではない。
しかしこの姫様はどうだ? そんなものは比ではない。
容赦もなく機先を制してくる。
年の頃から十四、五だろう。
正々堂々、正面から仕掛けられて大の大人が打ち負ける。
とりあえず体制を整えようにも夏の嵐のような荒れ狂う攻撃に、ヴォーティーは成す術なく追い込まれた。
ガードの隙間から黒い拳が顎を狙う。
縦の拳が隙間を縫うように鼻をかすめた。
同時に内膝に割り込んできた右足が膝を外側に弾き飛ばす。
人体の構造に精通している。
膝を内側から押され踏ん張ることも出来ず体勢を崩す。
後ろに飛ぼうにも、拳で体制を崩され軸足を殺され、どうにもならない。
体格を活かして捕まえようと両手を振り回すが、また脱力するようなステップでそれをかわし腹部に銃弾を撃ち込む。
ヴォーティーが勝っているのは耐久力だけだ。
なんとか死なずにいるだけで圧倒的な手数で戦闘域を小娘に支配されている。
ヴォーティーはなりふり構わずドルシアーナを押しのけ、なんとか地面に転がると片膝をつきながら抜刀した。
内臓のダメージは甚大だが呪いのお陰で回復できる。
なんとか距離を開ける事が出来たぞ。
ヴォーティーはサーベルを前に掲げ牽制しながら息を整えた。
「なんという姫様だ、殴り合いが得意とはこのヴォーティー、驚きましたぞ」
銃を使った接近戦闘術というのか、タエトの騎士の流儀にはない戦いだった。
「おほめに預かり光栄ですわ」と答えながらアナは左足を音もなく後ろに引いて少し重心を下げた。
いつの間にか魔道銃は腰のベルトに収まっている。
褒めてはいないが瞠目に値する。
キッチリと剣の間合いなのだ。
腰に下げた身の細いサーベルに剣気を纏わせる。
ヴォーティーは牽制に伸ばしたサーベルを引けずにいた。
引いた動作に合わせて切り込んでくるつもりだ。
あの速さで突かれたら今度はおそらく避けられまい。
頭を貫かれても死なないか?
呪いの身体は恐ろしく頑丈だが頭を吹っ飛ばされた経験はない。
自ら実験するわけにもいかず、じりじりと間合いを外しにかかった。
体重をわずかに後ろにかけただけなのに姫は鋭く踏み込んでくるのだ。
剣の気が頭蓋を貫くと予告している。
荒くなった呼吸、息を吸うタイミングで姫は仕掛けて来た。
コンマ1秒の隙。
ここまでとは…とヴォーティーは驚愕した。
切っ先が眉間を狙っている!
自分の命を懸けて耐久試験を実践するわけにもいかず、咄嗟に剣と腕でガードすると斜めに上・下・中段と綺麗に切り込まれた。居合でいう翡翠の太刀筋だ。
そんな知識はヴォーティーにあるはずもなく一方的に切り込まれ、右手、左わき腹から胸、右の脇腹が同時に熱くなる。
蛸の青い血が流れ削がれた触手が地面でのたうった。
しかし浅い。
切られたのが人間なら戦闘不能レベルなのだろうが(もっとも腹に銃弾を撃ち込まれた時点で戦闘不能なのだが)幸い今は蛸の怪物である。痛みも人間のころより少ないし何より傷が再生する。
姫は勝利を確信したのか少し間合いを取って残心した。
ヴォーティーはここにきて漸く貴重な間合いと体制が手に入った。
そして貴重な時間も。
伝令に走っていた部下が戻りつつある。
囲んで飛び道具で終いだ。
勝機は掴める場所にある。
「姫様、とてもお強いですな、ですがお疲れでしょう?」
確かにアナは息が上がってきている。
小さい体で無酸素運動を繰り返したツケが回ってきているのだ。
なんだかんだ強いと言っても十四歳の少女だった。
身体が出来上がっていない。
アナは息を整えながら目線を動かさず周囲を確認した。
このままでは多勢に無勢で押し切られてしまう。
陽動で作った貴重な時間が過ぎていく。
後ろから石弓で狙われているのが殺気でわかる。
合図と共に狙撃されるだろう。
顎割れのヴォーティーは弱くない。
機先を制して型にはめただけだ。
戦いに順応され、戦術を駆使されば負けるのはこっちだ。
石弓魚兵が迫る。
石弓の間合いまでのあとどのぐらいだろうか?
同士討ちを避けるためヴォーティーに切りかかろうにもその手は喰わないだろう。
間合いを測って近づかない。
「糞くらえですわね」
視界の端に駆け寄る魚介水兵たちが見える。
四ぃ、五、結構いますわ。
後ろに気配が三、左右に四、五。
まだ遠い。
走りながら石弓は引けても当たらない。
ドルシアーナはサーベルを鞘に戻すと深く沈みこんだ。
いよいよ顎割れのヴォーティーとの対決も佳境。
丁寧口調のお姫様が魅せるトンでも武技。
統制を取り戻した魚介水兵の群れに取り囲まれるドルシアーナ姫。
まて次号!