お隣さんちは
馬車はゆっくりお隣の領へ向かっていく。
暴れ馬のごとく猛スピードでかけてく様子は全然ない。
それでも、外出ができただけマシというもの。
これまでは屋敷の奥でじっとしてただけに、お外の空気が美味しいの。
シャバの空気はうまいって本当なのね。
わたし達が今向かっているのは、ハイドライド伯爵家が治めるウェントリーズ地方の街。
普通、貴族は治める地域の名前がそのまま家名になっている事があるんだけれど、それは古い歴史のある家系を意味している。
国が興るさい、領地を与えられてそれが家名になったとか。
昔からその地域を治めている豪族だったので、家名も地名とイコールになっているとか。
爵位というのは大体地名に繋がっている。
複数の爵位を持っている貴族はそうでもないが、大体そう。
うちの長男兄とかがいい例だ。
彼は公爵家を継ぐまでは、世間ではメリザンド子爵を名乗っていた。
貴族というのは、こういうどこの家がいくつ爵位を持っていて、家督を継ぐまではどの爵位を名乗っているか、そしてその爵位のうちどれが長男以外の子供に与えられたか、という事を知っていなければならない。
他にも社交に必要で覚えなきゃいけない事はたくさんあるのだが、これが本当にめんどくさい。
人の顔を覚えるのが苦手とか、人の名前が覚えられないとか言ってられないのだ。
『相貌失認』とかで顔が覚えられない障害が100人に2人くらいいるらしいけれど、貴族社会ではシャレにならんのです。
地球の現代社会でも仕事をする上であり得ねえレベルだが、症状が軽ければギリギリなんとかやっていける。
だがここではそうはいかないのだ。
記憶力に優れ、コミュニケーション能力に優れ、カリスマ性を持ち。
さらには見目も麗しく身体能力にも恵まれたヒト種のサラブレッド。
それがお貴族様なのです。
そんな貴族社会だが、ここに後から参入してのし上がってくる突然変異が存在する。
ハイドライド伯爵家がそうだ。
彼らは80年ほど前、隣国との戦争で功を上げて男爵の地位を得た一族だ。
それだけでもすごい事なのだが、ただの戦上手というわけではなく、次の世代は内政に才を発揮して子爵に陞爵。
さらに3代目は航路を開拓、莫大な富を築いて伯爵へ。
サイト、小説家にニャルラトに多い成り上がり系チートヒーローの臭いがする一族なんである。
旅行に行こうと兄に言われたとき、わたしはまずこの伯爵領にいく事を提案した。
海の向こうの国からの商人達も多く、街には様々な文化の品々が並ぶと噂のハイドライド。
兄からの反対の言葉はなかった。
多分、自分でも最初の行き先に決めてたんだろうな、あれ。
道行きは本当にゆっくりのんびりだ。
護衛なしで大丈夫なのかと思うだろうが、そこはそれ。
我が家の使用人達が護衛なのです。
ユニコーン達が警戒に引っかかった賊の事を使用人達に知らせる。
使用人達はユニコーン達と一緒に討伐に向かう。
あとは分かるな、サーチアンドデストロイだ。
時々お馬さんや誰かの衣服や体に返り血がわずかに飛び散っていたりもするけれど、そんな時は見ないフリが礼儀というもの。
本当に気づかないアイラさんはさて置き、わたしと兄は持ち前のスルー力で問題を全力放棄させていただいた。
わたしら変装してお忍びの旅の最中だからね。
あんまり人と関わり合いになっとられんのですよ。
なにしろほら、いるはずのない人間が2人も混ざってるから。
フラグじゃない、フラグじゃないよ?
静かに余計な事しないで旅を楽しみたいだけの旅行者なのです、わたし達。
もうすぐ領境の街に着く。
馬車の窓を流れる美しい畑をキリと一緒に眺めながら、わたしはご機嫌で鼻歌を歌った。
今の気分にぴったりなのは渡辺美里の『eyes』。
親戚のあんちゃんがファンでよく聴かされた。
実家田舎だったからね、娯楽があんまりなかったんだよね。
誰かと出会えるのか、出会えないままなのか。
全てが待ち遠しくて全てを体験したい。
『美味しい魚とお酒よろしくね』
キリの言葉に「もちろん!」と答えてわたしは気がついた。
この体じゃ酒が飲めねえ!!
ノーーーーーーーウ!!!