第1話 チョロい俺の始まり。
「起きて。お兄ちゃん」
「もう少し寝かせて……」
五秒ルールがある。それは食べ物を落としてから五秒以内なら食べてもセーフ、というものだ。同じように朝にも「五分ルール」がある。あと五分以内に起きるのだからもう少し寝ていてもいい、というものだ。
だからと言うわけじゃないが、俺はこう告げる。
「あと五分」
決まった――っ! 伝説の言葉を俺は使ってしまった。これで俺はいっぱしの五分ルール使い者だ。
ふ。我ながら完璧なタイミングだった。
「なんだ。もう起きているんじゃない」
「ああ。そうだな」
あれだけテンションのある言葉を使うとしっかり目が冴えてしまのだった。
「俺は学校いくけど、どうする?」
「えと。まだ登校するのは不安……」
分かった。少しでも不安がなくなるといいんだが。
朝支度を整えると、俺は高校に向かう。
桜の咲く季節。四月の風が花びらを舞わせる。
「よっ! 緑苑。やっているか?」
「ぼちぼちだな。……というか飲食店じゃないんだが」
後ろの席の黄竹愛斗に応える。
「突っ込みの切れが悪いなー。おしいっ!」
「なにが「おしいっ!」だよ。いつまでもボケボケしていると、ぬけさくになっちまうぞ」
「ちげーねー」
「それよりも、お宝本だぜ。これは極上だ」
「ほ、本当か……! お前の株価が上がったぞ」
紙袋を渡してくる黄竹がにまにまして気持ち悪いのを取り除けばいいことずくめなのにな。
「おっはー! やっている? 緑苑」
鈴の音が鳴るような声音に耳が心地よい。
「お前もか……。俺は店じゃねーぞ」
「やっているかー。なら良かった」
彼女はうんうんと頷く。
青色の髪をハーフアップにしている。線の細い身体は女性らしい。翠色の瞳が吸い込まれるように美しい。
「どうした? 青草果梨奈」
「いや、面白そうな話をしていると思ってね」
そのジト目はやめろ。男の子の矜持というものがあるのだ。だからその目はやめろ。
「祈っているだけじゃ伝わらないぞー」
果梨奈はにししししと笑い、紙袋をとろうとする。俺は身体をひねり、紙袋を隠す。
「にししし。その隠し方は怪しいぞー」
「なんなんだよ。お前は」
「なーんて。今日はたくさんお食べ」
そう言って鞄から重箱を取り出す果梨奈。果梨奈は男の子は食べるもの、と認識しているせいか、善意で五人前の料理を差し出す日もある。今日がその日だ。
「おう。大きいな!」
重箱は五段ある。
「男の子ならそのぐらい食べるっしょ」
「いや。まあ、うん」
躊躇いつつも一段目に手をつける。
ちなみに果梨奈はメシマズである。
もう一度言おう。
メシマズである。
まずは失敗することの少ない卵焼きから。箸で触った感じは悪くない。というか、失敗しないだろう。
そう思っていた俺がバカだった。中に殻が残っているではないか。
果梨奈が不安そうな目でこちらを見ている。感想がほしいのだろう。
「う、うまいぞ」
「良かったー! ちょっと失敗したけど、そう言ってもらえて嬉しい」
いつの間にかいなくなった黄竹の分も俺が食すことになった。でもこのままじゃ、果梨奈の成長につながらない。
「もうちょっと丁寧に作ろうか?」
「え。なに?」
「なんでもない」
ぼそぼそと話したせいか、聞こえなかったらしい。そんな自分の情けなさに苛立ちを覚える。
放課後になり、教室の生徒も散り散りになる。
俺は真っ直ぐに部活へ向かう。
文芸部に所属しており、小説を書いている。いつかは小説家になり、印税生活を送るのが夢だったりする。
本気なのか? と両親には止められているが、うちは大金持ちで金に困ることはないだろう。
荷物を部室に置くと、伸びをする。まだ部長は来ていないらしい。と、そこへ一人の少女が現れる。
「あのー。そのー」
小さな声で扉から顔を出したり引っ込めたりしている。
「どうした? 陽菜」
白桃陽菜。
ロングストレートの白い髪が特徴的な子だ。赤い目は見る者を怖がらせるが、彼女の小動物感に癒やされる者の方が多い。ちなみに同じ風紀委員会だ。
風紀、委員?
「ん。もしかして今日は風紀委員の仕事か?」
「ですです。今日はその日なのです」
「分かった。今行くから待っていろ」
そう言って鞄をとり、早歩きで陽菜と一緒に委員会に出席する。
風紀委員の仕事は学校の風紀を整えることだが、実際には清掃のようなことも行う。
注意事項を受けたあと、俺と陽菜はふたりで空き教室の清掃を始める。
「陽菜。そっちの汚れは落ちたか?」
「まだです。ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいよ。聞いただけだから」
「は、はい……」
内気な性格なのか、自分を責めがちな陽菜である。そこを理解して接しないと、潰れてしまう子なのだ。ちなみに同学年である。
なんでも受け入れる懐の深さには脱帽する。
「無理はしなくていいからね。疲れたら休んでね」
「は、はい」
嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる陽菜。
うん。どうやら落ち込まずにすんだようだ。
ふたりで掃除を終えると、陽菜はふふと上品に笑う。
「こうして綺麗になった教室を見ると安心しますね」
「そうだな。これも陽菜のお陰だ」
「はう。違いますよ、これも琉生くんのおかげです」
「俺は特別やっていないぞ。謙虚すぎるのも失礼にあたるって、覚えて。な?」
「は、はい。頑張ってみます」
「それと敬語はいらないぞ。同じ学年なんだから」
「はい。頑張ってみます……」
この子は二言目には「頑張る」しか言えないのだろうか。少し不安だ。
「よし。委員会の仕事は終わりだな。俺は部活に行くぞ」
「は、はい。お疲れ様でした」
「おう。お疲れ様」
ねぎらいの言葉をかけると、嬉しそうに去っていく陽菜。
なんであんなに嬉しそうなんだろうか。俺と会話できて? いやいや、そんなバカな話があるか。
俺は先ほど訪れた部室に向かう。
がら――
部室のドアを開けると、目の前で子鹿のごとくふるふると震えている女子がいた。
長い赤髪をポニーテールにしている。金の瞳が怪しく光る。172cmという身長でいわゆるモデル体型。
それが赤城伊知花という人間だ。若干、男というだけで決めつける節がある。
「これだから男の子は!」
バシッとエッチな本を地面に叩きつける伊知花。
俺の持ってきたお宝本だ。紙袋に入っていたのを、そのまま部室においてしまったのだ。
これはいかん。
「えーと。伊知花さん?」
「なぜ、男の子はこんな不潔なものを見るのさ?」
「ええと……?」
「もういい! 私、全部話してくる!」
「待て待て! 話すって誰に?」
「先生! クラスメイトがエッチな本を持ってきました、って」
「俺が退学になっちまう! やめてくれ!」
「退学……! それはマズいのさ」
「だろ? ここは俺の顔に免じて許してはくれないか?」
「そ、そう。そこまでいうならしかたないのさ。今回は許す! でも次はないからね」
ビシッと指先を立てる伊知花。
「分かった。次からは気をつける」
「ホント?」
「本当だって。あの本は煮るなり焼くなりしてくれ」
「言質とったからね?」
「お、おう! 男に二言はない」
「えへへへ。さすが私の見込んだ男なのさ。言うことが違う」
伊知花は何やら嬉しそうに呟き、エッチな本は彼女の鞄の中にしまわれることになった。
話を切り替えるためにも、俺は提案する。
「なあ、先週の続き書いてきたんだが読むか?」
「読む読む! 確かパティシエとメイドと委員長のラブコメよね?」
「そうだ。その続きだ。あとこれ」
「こ、これは……!」
「俺の書いた新作。面白くなかったら言ってくれ」
ぶんぶんと首を横にふる伊知花。
「そんなことない。琉生の書く物語は素晴らしい!」
ははは。
ネットではぼろくそに叩かれたけどな!
「ってこれってハーレムになってね!?」
「誰に言っているのさ?」