夏の夢
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
君は自分の「ツボ」がどこにあるか、ちゃんと自覚して他人に説明できるだろうか?
たいていの人は好き嫌いと同じで、どうして自分にとってそれがツボなのか、きちんと説明できないんじゃなかろうかと思う。だからこそ、そのツボに入ったり押されたりした時、思いもかけない効果が出て、振り回されるんじゃないかな。
地雷になるかどうか知らないけど、常に僕たちは覚悟をしていなくちゃいけない。たった今、自分が立っている、見えているものが瞬時に様変わりする恐れがあることを。
昔にも、そんな不思議な「事故」に出会った話があったらしいんだけど、聞いてみないかい?
むかしむかし、小さい村に住んでいた青年がたきぎを取りに行こうと、山へ出かけた。その日はすでに木々の葉が落ちかけた、冬に差し掛かろうという時期。火の需要はますます増してくることが考えられた。自分で使うものはもちろん、生活費の足しにすることも考慮に入れている。
彼は山に入りかけたところで、手ごろな木を見つけて、斧をふりかぶったの。ところが、いつもは一打ちごとに、深く深くその身に刃を受け入れていくはずの幹が、今日は手ごたえがない。それどころか刃が跳ね返されて、わずかに傷をつけることさえ叶わぬ様子。
何度か打ち据えても状況は変わらず、やむなく他の木へ目標を移したのだが、どうしたことか。現状で目に入る木々、そのことごとくが同じ状況でどうにもならなかった。
ここで退く、という選択ができるほど、彼はまだ思慮深くない。成果を出さないうちには、絶対戻らないぞと意固地になり、切り倒すことのできる木を求めて、奥へ奥へと入り込んでいく。何十、あるいは百本以上かもしれない樹木に刃を当て続け、ようやく斧を受け入れてくれる木を発見する。
いつも切っているものより、ひとまわり太い幹を持つ木だった。進み具合はゆっくりだけど、確実に刃は刺さっていく。朝には家を出たはずなのに、今やすでに太陽は真南よりも少し西寄りになっている。
――こいつを切り倒してバラしたら、しまいにしよう。十分な量になるだろう。
そんなことを頭の隅でちらりと考えながらも、もくもくと斧を打ち込んでいく。だがしかし、その木もまた正常とは言い難かった。倒れるのがあまりにも早かったからだ。
立木を倒すのは危険が伴う行為。一方向から打ち込み続けるのではなく、倒れるおおよその方向から打ち込む「受け口」と、その反対方向から打ち込んで倒れる運動を援護する「追い口」。この二ヶ所を定めて切り込むのが定石だった。
それがこの木は、でかい図体を有していながら「受け口」作り。目分量だが、幹の四分の一ほど打ち込んだだけで、早くもその方向へ傾ぎ始めたんだ。
青年も予想外のこと。めきめきと音を立てて倒れこんでくる木から、必死に距離を取ろうとする。倒れる方向とは異なる方にある木の一本に背中を預けると、ほどなく地面が大きく揺れた。影からのぞいてみたところ、確かに木は、地面から数尺離れた部分で真っ二つに折れている。
ふう、と息を吐き出す彼。初めの斧を受け付けない木といい、このさほど粘りを見せる木といい、どうも今日は妙なことが続く。おまけに横たわる木の姿を見た時から、にわかに両足がだるくなり、疲労感を訴え始めてきていた。
ちょうど、倒木によってできたばかりの切り株が、目の前にある。少し休もうと、ゆっくりそこへ彼が腰を下ろした、その時だった。
目の前の景色が一変する。先ほどまでは葉の色は赤や黄色、木によっては早くも全滅しかけているものさえあった、冬近い山の中。
それが今この時は、いずれの木も青々とした葉を大量に茂らせている。落ちていた葉もほぼ消えており、直接当たっていた日差しもすっかりさえぎられてしまった。慌てて切り株から立ち上がった彼だけども、もう景色は元に戻らない。ただ、倒れた木だけは、先ほどと変わらない様子で、横になっている。
彼は慌てて現れた森の中を、自分が来たであろう方角向けて、駆け出した。不用心なほどに足音が立っているのに、それに反応する虫、鳥、獣たちの気配が感じられない。いや、それどころか、ぐんぐん景色が自らの背後へ飛んでいくほどの加速をしているのに、身体に当たる風を感じることができなかったんだ。
――狐にでも化かされているのか? このまま森を抜けられないとか、勘弁してくれよ!
ほどなく、彼の願いは叶えられた。森は途切れ、眼下に広がるのは自分が住む家を含む、村の姿が見えたんだ。
でも安心はできない。相変わらず、走っているにも関わらず風を感じないし、それなりに下ったつもりでも、外を出歩く人の姿がひとりも見えないのだから。
我が家へと近づいていく彼。すでに駆け足はやめていたけれど、ここまで来たというのに村で飼っている牛や馬の鳴き声も、また聞こえてこなかったんだ。
彼は意識せずとも、斧を構えていた。この空気、何かが不意を打って飛び出してくるには絶好の環境だと感じていたんだ。下手に正面から玄関の戸を開けると、それが中から出てくる何かに襲われる、引き金になってしまう……そんな予感が。
彼は自分の家の中で唯一設けられている、明かり採り用の窓からそっと中をのぞいてみたんだ。
最初の数秒は、外の明かりに慣れた目が内部の認識を邪魔していた。しばらくその不便さに耐えてのぞき続けたところ、玄関近くのかまどの脇にある水瓶の前で、かがんでいる影が見えたんだ。
こちらに背中を向けているそれは、人の形をしている。頭があり四肢があり、服もちゃんと着込んでいた。更によく観察すると、右手に持ったひしゃくでしきりに瓶の中の水をくみ上げ、口に運んでいるようだった。
――あの野郎、人様の大事な水を……。
ぎゅっと斧を握り直したが、同時におかしいことにも気が付いている。あいつがいくら水を汲む動作をしても、水がこぼれる音やすする音が、一切聞こえてこない。ここまで来る時と同じだ。
それどころかつぶさに見つめていると、あの人影が身に着けている服の右肩口には、別の色の生地が継ぎ接ぎされているのが分かった。自分が今、まとっている服も同じ場所、同じ色合いで継がれている部分がある。それどころか、あの背格好はまるで……。
そこまえ考えて、彼は自分の背中をつんつんと二回、つつかれた。思わず声を出しかけ、どうにか口を抑えて耐えながら、振り返る。
前髪と耳の上にのみ毛を残す、「奴」の髪をした男の子が、木の枝を手に立っていた。この村にも何人か子供がいるが、そのうちのどの子でもない。戸惑う青年の前で、彼はその場の地面に、枝で字を書き始める。「文字は読めるか?」という旨の文章だった。
すでに亡くなった母親から、青年は手ほどきを受けたことがある。彼がうなずくと、子供は続けて枝を走らせ、文字を紡いでいく。それは青年にはにわかに信じがたいことだった。
今、この世は眠りに入ってしまったこと。ここに存在するものはすべて、世界が見ている夢の世であること。この空間には風が吹かず、住まっている者は音や声を出すこともできないこと。そして青年は、音を出せる存在でありながら、ここに入り込んでしまっていること。
『早く戻った方がいい。彼らに感づかれたら、何をされるかわからない』
彼の言葉に、青年もまた手近な石を拾い、「どうやって?」と地面に書く。
『この世を起こせばいい。ここに入り込む瞬間を、あなたは味わっているはず。あの時の行動はこの世界の『眠りのツボ』。それとは異なる『目覚めのツボ』を押せばいい』
彼は、自分が下りてきた山の方へ目を向ける。「心当たりがあるなら、急ぐべき」と、少年は彼を急かした。
子供と別れた彼は、再び山中へ足を踏み入れる。「眠りのツボ」にあたる切り株まで戻ってくると、斧を構えた。
自分が押したのが眠りのツボならば、目覚めのツボも同じような場所。すなわち切り倒した木の中にあるに違いない。彼はそう考えたんだ。
今度は倒した木と、ほぼ同じ太さのものに狙いを絞ったから、時間は短くて済んだ。アタリをつけた一本が、やはりさして斧を打ち込まないうちに倒れ始めたんだ。巻き込まれないようかわした後、彼は残った切り株へ、さっそく腰を下ろす。
すると、景色が再び変わる。いや、戻ってきたといってよかった。
赤に黄色に染まった葉、ところどころに混ざる、はげかけた木。冬を間近に迎える秋の山の中で、彼は腰を下ろしていたんだ。
すぐさま家にとって返したが、あの自分と同じ服を着た人影はなく、水瓶にも異常はなかったらしい。後になって彼は、あれは冬の辛さを憂えたこの世が、夏の風景を思って浮かべた、夏の夢だったのではと語ったとか。




